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芝居レビュー

進化した『デス・ノート』

 今月の、好きな役者の芝居、最後を飾る。9月16日(土)マチネ、新国立中劇場。

『デス・ノート THE MUSICAL』
原作「DEATH NOTE」
音楽/フランク・ワイルドホーン 演出/栗山民也
歌詞/ジャック・マーフィー 脚本/アイヴァン・メンチェル
出演 浦井健治 小池徹平 唯月ふうか 髙橋果鈴 濱田めぐみ
   石井一孝 別所哲也 ほか

 
 初演から2年。
 もとのお話にそれほど深みはないわけなので、めっちゃ感動、とはならないのだけれど、それでも色々と進化して、洗練されていたので、感心したの。
 
 浦井健治の夜神月も、小池徹平のLも、すごく上手くなっていた。初演の時は、もっと一本調子だったのが、浦井ライトは、だんだん邪悪になっていく変化が表情や声に細かく現れていたし。小池Lは、以前は猫背のまま歌うのが苦しそうだったんだけど、いまやあの猫背があたりまえになったのかしら。歌の安定度、抜群。
 キャストも、死神リュークは吉田鋼太郎から石井一孝に、ライトの父が鹿賀丈史から別所哲也に代わって、全体のバランスが良くなったね。吉田リュークはどうしたって舞台全体をさらっていてしまう感があった。石井リュークも基本的に同じ演技だったんだけど、芝居全体の中に溶け込んでいた。演出が全体を修正できたのだと思う。
 更に、アンサンブルも上手くなって、歌に厚みが出ていた。マダムはプログラムを買わないので、細かい配役の変化はよくわからないけど、メンバーも変わり、人数も増えたのかしら。ライトの父を囲む刑事たちも、グレードアップしてたの。
 なので、このお話が持ちうる限りの厚みが加わって、なかなか良作に育ってた。惜しいのは、唯一つ、衣装ね。死神の衣装のデザインは素敵なのだけれど、夜神月を含む若者の服が、ダサいの。妹も相変わらず、変な組み合わせの衣装で、かわいそうだし。今時、その辺を歩いている若者の方がよっぽどおしゃれ。渋谷のスクランブル交差点でライトとミサミサが出会うところなんか、もっとスタイリッシュになってもいい場面なのに、若者たちが垢抜けないので、渋谷らしくない。それからミサミサのコンサートシーンだって、衣装次第でもっともっとカッコよくできて、見せ場の一つになるのに。
 衣装問題さえクリアできたら、このミュージカルは、傑作まではいかないまでも佳作として残っていくことができるよ!主役クラスの顔ぶれが変わったとしても。
 
 そう。マダムは今回2列目という良席だったので、かぶりつきで浦井ライトの演技を堪能した。どんどん変わっていく表情や、いい声や、歌の演技力をたっぷり味わって、すごく幸せだったの。そして「でも、もうこれが最後だな」と思ったのよ。高校生を演じるのは。
 童顔だし、声が若いし、演技力でやれてしまうんだけれども、もう少年の体型じゃないんだもん。
 これは文句ではなくてね、そろそろ高校生の役を卒業し、大人の男の役をやってもいいんじゃないか、と思ったわけなの。わかるでしょう?
 『デスノート』というミュージカルが、マダムの予想に反して佳作に育ってきているので、再再演とかがあるかもしれない、と感じたの。でもそれは、次の人に手渡して、もっと違う、大人の役に進んでいってほしい。どんな役だって、できるもの。
 
小柄な小池徹平のほうは、あと5年くらいLが出来そうな感じだったけどね。

『クライムズ オブ ザ ハート 心の罪』を考える

 好きな役者さんの舞台が次々。9月9日(土)マチネ、シアタートラム。

『クライムズ オブ ザ ハート 心の罪』
作/ベス・ヘンリー 翻訳/浦辺千鶴 
演出/小川絵梨子 
出演 安田成美 那須佐代子 伊勢佳世 渚あき
   斉藤直樹 岡本健一

 
 観に行って1週間以上経つけれど、レビューをなかなか書き出せなかった。
 というのも、興味深く観たんだけれど、腑に落ちない気持ちがマダムを覆っていたから。
 一方で、この顔ぶれでウェルメイドなのに、土曜のマチネでも空席が目立つ状態だったの。そこへもってきて、さらに内容に対して疑問を呈すれば、公演の邪魔をしてしまう気がして。もちろん、マダムの個人的な感想なんか、さしたる影響ないよ、と言われればその通りなんだけれど。
 
 アメリカ南部の田舎町の、三人姉妹のお話。
 女が、銃を構えて、誰かに発砲する。が、それが誰なのかは、少しの間伏せられて、舞台上の家のセットに、疲れ果てた顔の長女レニー(那須佐代子)がヨロヨロと帰ってくるところから本当のお話が始まる。レニーは、入院中の祖父の見舞いに行って、帰ってきたところで、更に三女ベイブ(伊勢佳世)が引き起こした事件を解決するため、家を離れている次女メグ(安田成美)の帰りを待っている。

 最初の方の会話の中ですぐに、ベイブが夫をピストルで撃ってしまったことがわかって、ああ、さっきの出だしのシーンはそういうことか、と思うんだけど、謎を引っ張ることなく解明しちゃったので、ちょっと肩透かしだったの。謎でもなんでもなかったんだな、って。
 出だしのシーンは、台本に最初からあるのかしら? あるよね。
 
 それから美しい次女が帰ってきて、更に保釈されたベイブも帰ってきて、三人姉妹が揃い、そこへ隣に住む従姉妹のチック(渚あき)やベイブの弁護士バーネット(岡本健一)やメグの元彼ドク(斉藤直樹)が次々やってくる。会話の中から、三人姉妹の境遇や、今抱えている問題がだんだん浮かび上がってくるの。
 父親は、姉妹が小さい頃に失踪し、母親は自殺。姉妹は祖父母の住む今の家に引き取られたこと。今は、年老いた祖父と長女のレニーだけがこの家に住み、レニーは恋人もなく、仕事と祖父の介護で疲れ果てていること。美人のメグは歌手をしているという話だったが、とっくにやめていて、事務員として働いていること。ベイブの夫は上院議員だけれど、DV男であること。が、ベイブが夫を撃ったのは、それ以外に重大な理由があること。
 
 彼女たちの抱える問題はそれぞれ深刻なんだけれど、行き交う会話の中では思わず笑ってしまうことも多くて、コメディタッチな芝居。レニーが誰にも祝ってもらえない誕生日を自分で祝おうとしたり、ベイブが自殺を図ろうとしても首を吊るための縄をかけた梁が折れたり、深刻と滑稽が同居している物語なの。丁寧に演出されている、とも感じたわ。
 そうなんだけど、いろいろよくわからないことがあって、わからないまま芝居が終わってしまったの。たとえば、家の(セットの)構造がどうしても理解できなかったのよ。玄関らしい場所があって、レニーが鍵を開けるシーンがあるにもかかわらず、全然違う場所から他人が出入りしたり、窓があるのかないのか、外を歩いてる人とアイコンタクトがあったりするの。その法則が最後まで腑に落ちず、気になるのが煩わしかった。
 いつの時代のお話なのかも、なかなかわからなくて。セットや衣装などからは判断できず、唯一のヒントはダイヤル式の電話。そこから、1970〜80年代かなあ、と推測した。それと、アメリカ南部の田舎町らしいことはセリフでわかるのだけれど、セリフでわかる以上の空気感、圧迫感、差別感などは流れてこない。ベイブが黒人の男の子とセックスしてしまったことが、致命的な醜聞になるんだろうとは思うんだけれども。思うけれども、それがどれくらいの重大さなのか、よくわからないんだよね。ベイブの感じている深刻さはともかく、写真を見せられた弁護士や、姉のメグの反応はなんだか鈍いし。
 もともとこっちには1980年頃のアメリカ南部について予備知識がなさすぎるから。
 日本の観客はみんなこんなもんだと思うけど。
 
 いちばんわからないのは、題名かも。全然違う邦題をつけられたら、よかったのに。

 わからなすぎたので、新聞の批評を読んでみたら、ベイブの相手の黒人の男の子の年齢設定、もとの本では15歳となっているところを20歳に変更したのはどうしてか、と書かれていて。それで、ますますわからないことが増えてしまったのだった。
 さらに、気になったのは、亡くなった中嶋しゅうが、メグの元彼の役をやるつもりだったのか?ということで、もはや芝居の出来とは何の関係もないよね。すみません。
 
 期待していた岡本健一の演技の稲妻は不発だった。本筋を背負う役ではなかったからね。でも彼は役の大きさに関係なく、なりきってしまう。今回の、切れ味の悪そうな人の良い新米弁護士も、上手いなあと思ったし。
 イキウメを退団して全力活躍中の伊勢佳世が、役の幅をどんどん広げていくのには感心しちゃった。それがいちばんの収穫だったわ。

風間杜夫の飽くなき挑戦『ピース』

 チェーホフの翌日はこれ!9月3日(日)マチネ、俳優座劇場。

風間杜夫ひとり芝居 『ピース』
作・演出/水谷龍二

 前回のひとり芝居の上演の時、さすがにもう、これで打ち止めかしら?と考えたマダムは、ファン歴35年以上とかのくせに、風間杜夫のことをちゃんとわかってなかった。きっとこの人は、足腰立たなくなるまでやるつもりなのだ。
 これまでのひとり芝居はずっと本多劇場だったのに、今回は俳優座劇場。久々に行ったら、ホントに古くなっててね・・・1階にバーがあるお洒落な劇場で、ロンドンの古式ゆかしい劇場にも似た作り。なのに、古くなると、味が出るというよりただ古びてしまうのは、どうしてなのかしら。ロンドンのようにはいかないの。
 でも、芝居が始まると、そんなことはすぐに忘れた。
 

 今度の主人公は、葬儀屋の男。その設定だけで、最初マダムはひとりでウケていたの。だって、マダムの住む辺りでは、風間杜夫はとある葬祭ホールのCMに出ていて、「顔」だから。
 だけどお話が進むにつれ、マダムは唸った。風間杜夫はCMに出ながら、その仕事を観察して「使える!」と思って設定に選んだに違いないわ。前回の風呂屋の番台にいるお爺さんの役よりも、何倍も、社会にコミットできる設定なの。
 だって、死っていうものは、その人の人生を浮き彫りにするものね。
 
 東京の下町で小さな葬儀社を営む男、武藤万作。後を継ぐ修行中の娘を連れて、葬儀を取りしきっている。今にもマイクを持って歌いだしかねない感じ(実際歌うシーンもある)で、笑わせてくれるけれど、既に「ひとりなのに共演者がいる」感が立ち込めてる。相談に来る客や、ハラハラしながら父の仕事を手伝っているらしい娘などが、同じ舞台上にいるような気がしてくる。ひとり芝居にコツ、のようなものがあるとすれば、もうすっかり掴んでいるの。役者も、そして観客の側も。
 場面転換の間に2年が過ぎ、妻と娘は事故で死んでいて、万作はすっかりやる気を失って、飲み屋に入り浸る。気遣うバイトの店員は、片言の日本語を話すシリア人の若者で、万作は少しずつ立ち直っていく。そして、その若者が死んで、身寄りのない彼の葬儀を引き受け、ラストには自分の生前葬をやるところまで、話は進んでいく。
 
 今の社会に対する疑問や意見などが、ストレートに盛り込まれていて、かなり未消化なところがあるものの、とにかく疑問を隠さずにまな板に上げようという態度なのね。そこは前回より、一歩踏み込んでる。いつものようにこれから2年くらいかけて、地方公演も打っていくのだろうし、その間にもっとこなれたものになっていきそう。
 なんかね、今をちゃんと捉えた本を、やりたいんだな、と思った。
 役者は役が来るのを待つ身な訳だけど、風間杜夫をもってしても、待ってるだけじゃ満足できないの。だから、ひとり芝居、やるんだね。
 先に足腰立たなくならないよう、マダムも精進する。

チェーホフの深さを知る 『ワーニャ伯父さん』

 忙しい9月の到来ね。9月2日(土)マチネ、新国立小劇場。

シス・カンパニー公演『ワーニャ伯父さん』
作/アントン・チェーホフ
上演台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 段田安則 宮沢りえ 黒木華 山崎一 横田栄司
   水野あや 遠山俊也 立石凉子 小野武彦 伏見蛍(ギター演奏)

 

 ご贔屓の横田栄司、初チェーホフだというので、すごく楽しみにしていたの。春頃、早々と戯曲も読んで、予習していたのよ。で、きっとこの役だろうと思ったアーストロフだったんで、狂喜乱舞。
 しかし、戯曲読んでもね、ピンとくるやらこないやら。これでも最後まで読めるようになったのは、芝居道を深めたからか、年の功なのか。
 ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出のチェーホフは、2年前の『三人姉妹』がとても面白かったから、今回もきっと大丈夫と思っていた。そして思った通り、わかりやすく、飽きないように演出されていたの。予習してなくても、みんな理解できたと思う。
 さて、今から、思いっきり本題に入るので、これから観るかたはここで引き返してください。ネタバレとはまた違うんだけど。

 
 
 

 マダムはチェーホフをずっと敬遠してきたので、『ワーニャ伯父さん』を観るのも今回が初めてなの。だから、すっごく的外れなことを言うかも知れないんだけど、とにかく感じたところを正直にいうとね。
 難解なところはなかったし、ところどころ笑いながら楽しく観た。エレーナ(宮沢りえ)が伸び伸びした演技。自身を切り売りするのではない、演技らしい演技をしていて役に入り込んでいて、「宮沢りえ」感がなくて、エレーナだった。
 そして、アーストロフの横田栄司も期待通りだった。殆ど主役と言ってもいいくらい、ずっと舞台にいてくれて、いい声でずっと穏やかに話してくれていたので、婆やになったつもりで聴き入ってた。ラストの方は、もっともっとフェロモン出しまくってもいいんじゃないの?と思ったけどね。後から芝居全体についてよーく考えてみたら、エレーナやソーニャが言ってる言葉通りの「ハンサム」になっちゃうのも違うのね。なかなか、さじ加減の難しい役。
 上手い役者さんばかりが揃っているので、ちゃんと、その役の、エゴイスティックさや、すぐ諦めちゃうところや情けなさが、ありありと描き出されて、さすがチェーホフ、めちゃくちゃイライラさせられるんだった(褒め言葉です)。

 全体としては面白く観たの。それでいいはずなのに、終わった後、釈然としない気持ちが残って。どうしてなのか、あれこれ考えたわ。
 ギターで、既成曲が流れるのが邪魔だったから? それは、ちょっとあったの。この曲、なんだっけ?と意識がそっちに行って、心が芝居から離れる。でも、それは決定的なことではない。
 いろいろ考えて、ワーニャ伯父さん(段田安則)とソーニャ(黒木華)の造形が違うのだ、とわかった。マダムが求めているものと違う、と言ってるのではないのよ。戯曲が指し示しているものと違うと思った。 
 この二人が違うので、他の人たちの演技としっかりとかみ合わない隙間ができてしまう。パズルがきちんとはまらない感じ。

 ワーニャ伯父さんは、田舎で農園を経営しながら、妹の夫セレブリャーコフ(山崎一)にずっと仕送りしてきた。都会で文学を研究している大学教授への強い憧れが、田舎の、退屈で貧しい暮らしを耐えるよすが、だったのね。
 だけど、妹はとうに死に、職を失ったセレブリャーコフが転がり込んでくると、こんな俗物の生活をずっと支えてやってたんだ、とわかっちゃう。自分は、47歳にもなるのに、自慢するような妻も子も仕事もなくて、これまでやってきたことはバカみたいだった・・・だから、愕然とし、憤りもしている。その一方で、セレブリャーコフが連れてきた後妻エレーナがとびきり美しいので、文句や愕然や憤りをちょっと脇において、ポワワーンとしている。
 ワーニャ伯父さん、というのは、そういう47歳の男なのよ?まだ取り返せるかも知れない、と思っちゃうギリギリの年齢ではある。
 これは見てるだけで、滑稽だし、可笑しいし、哀しい・・・はずなの。
 だけど、段田安則のワーニャは違ったの。演技がスクエアだし、なんていうか・・・年取りすぎている。ポワワーンに現役感がないよ。ワーニャ伯父さん、というより、ワーニャ爺さんぽい。ヴォイニーツカヤ夫人(立石凉子)を「おかあさん」と呼ぶのが最後までしっくりこなかった。
 ちょっと実年齢と離れ過ぎていたのかもしれないね。
 
 一方のソーニャは、セレブリャーコフと、死んだヴェーラ(ワーニャ伯父さんの妹)の間の娘なのね。ヴェーラの死後、実家に引き取られ、ワーニャ伯父さんや、祖母のヴォイニーツカヤ夫人と暮らしてきた。農園の経営を手伝い、忙しくて、若い娘らしい時間は全くないの。彼女のただ一つの楽しみは、時々屋敷にやってくる医者のアーストロフに会うこと。なぜ彼女がアーストロフに惹かれているかというと、彼女の生活圏に、他にまともな恋愛対象が皆無だからなの。アーストロフがめっちゃイケメンだから、ってわけでは全然ないのよ。半径5キロ圏内に、他にまともな男がいないんだもの(これは役者がイケメンかどうかには、全く関係がない。アーストロフという役はそういう役だってこと)。で、アーストロフの方は、気立てのいいソーニャに全く見向きもしない。なぜかというと、ソーニャが不器量だから。
 そう。ここが問題なの。だって、黒木華、美しいんだもん。全然、不器量じゃない。なので、アーストロフが見向きもしない理由が、わからなくなってしまう。
 ソーニャっていうのはさ、たぶん、例えば若い頃の杉村春子や、若い頃の吉田日出子や、若い頃の伊沢磨紀がやるような役なのね。彼女たちは不器量だけど、あまりに上手いので美しく見える、そういう大女優なんで。
 黒木華は、宮沢りえとはタイプが違うけれど、やっぱり美人なので、ラストの人生終わった感の漂うセリフが、身に沁みてはこない。まだまだこれからいいことあるでしょ、という気がしてしまうのよ。
 でもこれも役者を責めているのではないの。黒木華が美しいのは、始めからわかっていることだ。
       
        *        *        *
  
 イギリスで上演中の「ハムレット」で、ホレイショー以下、ハムレットを取り巻く友人たちが全員女に改変されていると聞き、マダムの心は踊った。シェイクスピアには、そういう改変の余地がある。成功するにせよ、失敗するにせよ、試みを受け入れる間口の広さが、シェイクスピアにはある。上演台本が残されているだけで、ト書きも年齢指定も何もないしね。
 でも、チェーホフは細かな条件をつけて、ピンポイントで書いている。すごく繊細なパズルのよう。一箇所ずらしただけで、全体が狂う。
 そういえば、2008年に藤原竜也主演の『かもめ』を観た後、しばらく『かもめ』のことばかり考えていて。あの時も、作家トリゴーリン(母の愛人)の年齢を変えたことで全体が違ってしまったなあと思ったのよ。
 
 芝居を観終わってこんな風にあれこれ考えるのは、とても楽しい。そして、これだけ考えることができたんだから、やっぱりケラ演出は侮れない。 

歌の楽しさ ミュージカル『ビューティフル』

 夏の舞台、目白押し。8月19日(土)マチネ、帝国劇場。

ミュージカル『ビューティフル』
脚本/ダグラス・マクグラス
音楽・詞/ジェリー・ゴフィン&キャロル・キング
     バリー・マン&シンシア・ワイル
演出/マーク・ブルーニ
訳詞/湯川れい子
出演 平原綾香 中川晃教 伊礼彼方 ソニン 
   武田真治 剣幸  ほか

 メチャクチャ楽しかったー。

 キャロル・キングのアルバム「Tapestry(つづれおり)」のレコードを擦り切れるほど聴いたのは、今からもう40年以上も前で、久しく聴いていなかった。で、このミュージカルを観ることになって、予習しとこうとCD(なぜかちゃんと持っている!)をかけると、メロディの全てを身体が憶えているのだった。若いときに沁み込んだものは忘れないのね。
 でも芝居が始まったら、マダムにとってのキャロル・キングはTapestryの歌声そのものであって、彼女の生涯については何も知らなかったんだ、ってわかったよ。
 
 この芝居が描くのは、16歳から28歳までのキャロル。ソングライターとしてデビューし、紆余曲折あって、28歳で「Tapestry」の大ヒットにより、世界で初めての女性シンガーソングライターとなるまで、の物語。
 キャロル(平原綾香)は、16歳にして作曲を志しているんだけど、母ジニー(剣幸)は、音楽の教師になって安定した暮らしをしてほしいと願っている。ジニーは離婚して一人でキャロルを育ててきた経験から、安定が一番、と思っているのね。そんな母を押し切って、キャロルは音楽プロデューサーのドニー(武田真治)に曲を売りこみ、作曲家としてデビューする。そして、同じカレッジのジェリー・ゴフィンと出会い、恋に落ちて、彼の詞に曲をつけるようになるの。キャロルは妊娠し、二人は結婚する。
 このあたりまでの話はあれよあれよと言う間に進むんだけれど、キャロルの何をも疑わない無防備さ、子供のままの天真爛漫さと、作曲の突出した才能のアンバランスさが際立つ。才能はすごいのに、色々と人生不器用な感じのところに、平原綾香のまだ器用ではないが誠実な演技がはまっていて、とても上手い滑り出し。
 そしてドニーの構える作曲スタジオにキャロルとジェリーは部屋をもらって、次々曲を作るんだけど、すぐ隣の部屋には作曲家のバリー(中川晃教)と作詞家のシンシア(ソニン。好演!)がいて、二組は競い合うように曲作りに励む。ここら辺から、一気に楽しさ全開になる。彼らの曲ができあがると、舞台にはその曲を歌った歌手たち、シュレルズとかドリフターズ(全員集合!の人たちではない)とかリトル・エヴァとかが現れて、ショーアップして歌う。そのシーンがまあ、楽しいこと!アンサンブルの人たち、凄いわ!(激しい特訓があったみたいね。ブロードウェイから歌と踊り、振り付けの鬼コーチが派遣されてたらしい。)
 そのショーアップされた楽しさの一方で、キャロルの実人生には辛いことや切ないことが起きていき、そこにも彼女の曲がうまく当てはめられて、使われるのだけど、そこは平原綾香の歌唱力が炸裂する。
 「Will You Love Me Tomorrow?」はシュレルズが歌うときは、歌詞は切なくてもポップスとして楽しげにアレンジされているので、軽いの。でも、ジェリーの心が離れていくのを感じているキャロルが歌うときは、「もう愛はないのね?」という悲痛な気持ちがこもっていて、胸にせまる。
 圧巻は、ジェリーと別れ、ひとり西海岸へいく決心をしたキャロルが、バリーやシンシア、ドニーに別れを告げ、「You've got a friend」を歌い上げるシーン。途中からバリーたちも加わって、別れを惜しむんだけど。
 もともといい曲で、マダムはTapestryの中で一番好きな曲だし、普通に聞いてもジーンときちゃうんだけれども、こんなシーンで歌われた日にゃあ、涙腺決壊ですよ〜。
 
 すごく楽しかった。それはこのミュージカルが歌の魅力に満ちていて、聞いているだけでも楽しい時間だったってこともあるし。いい曲の宝庫のような時代の物語だから。
 個人的には、キャロル・キングの曲をCDで聴くよりも、歌ってもらって聴く方が何倍も幸せで、いろんな人が歌うと曲の良さがさらに感じられたの。こんなにいい曲だったんだなぁ、ってしみじみ。
 客席は、これまで帝劇で見たことがないくらいの高い男性率だったし、リタイア世代の人たちでいっぱいだった。これだけの、普段劇場に来ない人たちが、キャロル・キングの人生を描いたミュージカルならば、と集まったのね。内容次第で、こういう層を劇場へ連れてこられるってことね。
 そして、これもブロードウェイのミュージカルを「まんま」やる、という手法だったわけだけど、『ビリー・エリオット』のときのような抵抗感はなくて。
 あちらはお国柄を色濃く反映したテーマだったけれど、『ビューティフル』に関して言えば、ひとりの女性の若いときの葛藤がテーマなので、手を加えなくてもすんなり伝わってきたの。
 作品ごとに、日本人が上演する難しさの、種類が違うということかな。
 

野田作品、そのまま歌舞伎になる

 建て替えられた後、初めて行った! 8月12日(土)18:30〜、歌舞伎座。

八月納涼歌舞伎第三部『野田版 桜の森の満開の下』
坂口安吾作品集より
野田秀樹/作・演出
出演 中村勘九郎 市川染五郎 中村七之助 中村梅枝 中村巳之助
   片岡亀蔵 坂東彌十郎 中村扇雀 ほか

 古い歌舞伎座が取り壊される前になんとしても、と子供を連れて行ったのが、2009年の『野田版鼠小僧』だったの。
 そして、新装なった歌舞伎座にまだ行ったことがなかったマダムが、初めて行くことになったのが『桜の森の満開の下』。もう歌舞伎座に戻ることはないのかと思っていた野田秀樹が演出するというから、マダムも一緒に戻ってきたのよ。
 知り合いに「どんな席でも良いので」とチケットをお願いしておいたら、なあんと桟敷席が来てしまって!もう、こんなお大尽気分は最初で最後だろうと、ウキウキしながら出かけて行った。開場と同時に中に入り、お大尽な席を確認してから、三階まで上がって劇場全体を見渡したわ。以前ほど傾斜がきつくなくて、三階席は怖くなくなってた(前は、転がり落ちそうな気持ちがした)。しかし、良い劇場だ〜、歌舞伎座。芝居を観る喜びに溢れてる。
 三階ロビーに掲げられた、亡くなった歌舞伎役者たちの写真を眺め、その錚々たる顔ぶれの中に勘三郎の姿を見つけてちょっと悲しくなり、落ち込んだところに、甘〜いいい香りがしてきたの。吸い寄せられるように屋台でたい焼きを買って、お大尽席でお茶を飲みつつ、たい焼きを食べてたら開演時間になった。
 
 お話は(細かく説明するつもりはないけど)、浦島太郎的な、昔話というか寓話という感じ。耳男という男が一人、竜宮城ならぬ桜の森に迷い込み、妖しくも美しく残酷なお姫様に会い、魂を持って行かれてしまう、そういう物語。そこにオオアマという男の天下取りの副筋が絡む。
 幕が開いた途端、桜の森の湿った美しさに息を呑んだの。
 薄暗い、湿った妖気の漂う、怪しい桜の森。蠢く鬼(妖怪)たち。
 『桜の森の満開の下』は野田秀樹としては再再演くらいらしいけれど、マダムは今回が初めて。芝居が始まって吃驚。完全に遊眠社だーと思って。
 本は言葉を少し七五調にしたくらいで、殆ど変えていないらしい。でも、歌舞伎役者がやると、歌舞伎になるんだね、これが。野田秀樹が「歌舞伎って何?」と訊いたら勘三郎が「歌舞伎役者がやれば歌舞伎」と答えたそうな。ていうか、そこ以外に、遊眠社との違いが見つけられない。それくらい、野田戯曲が、まんま歌舞伎になってた。
 ただ、野田戯曲の特徴である、言葉遊びに関しては、歌舞伎役者たちにはちょっと(ノリが)難しかったのか、聞き取れなかった箇所が多かった。言葉遊びを効かせるための畳み掛けるスピードも、足りなかったし。一方で、動きに関してはNODA・MAP以上にNODA・MAP。桜の森に妖しく蠢く鬼(妖怪)の動きとか、鬼の遊園地のシーンで、人海戦術でジェットコースターやメリーゴーランドを描いて見せるところなんて、さすがの身体能力なのだった。
 
 とにかく夜長姫(七之助)の、ぞわ〜っと背筋が寒くなるような美しい冷酷さがたまらないの。もう化け物ですね、彼。化け物の役なんだけど。
 耳男(勘九郎)は「調子が良くて気が弱い」っていう、お父さんがやったら滅茶苦茶上手かっただろう役なので、少し損をしているかもしれない。でもこの役は彼にぴったりだった。
 それと、一人だけ人間だった(?)オオアマ(染五郎)の演技に迷いがなくて、感心した。オオアマは、鬼の世界の勢力争いをうまく利用し、夜長姫を娶り、天下を取るのだけど、イケメンの青年がどんどん策謀家の顔を見せていくところをうまく演じてる。
  
 
 観ていると、どこか上の方から「なぜ俺にやらせない?」って勘三郎が化けて出てきそうに思えて。
 『足跡姫』からスタートして『表に出ろぃ』まで、野田秀樹が1年かけて勘三郎を鎮魂する、クライマックス。セットも衣装も、さすがの歌舞伎座、豪華だったよ。
 ビリー・エリオットを観て、イギリスへの敗北感に打ちひしがれてたマダムだけど、たった一週間で、これが日本の芝居だよ〜って心の中でほくそ笑むことができて、すっかり気持ちは挽回したのだった。
 
 観終わった後に、『演劇界 9月号』の野田秀樹のインタビューを読んだの。この『桜の森の満開の下』も、勘三郎と一緒に、やりたいねって話していた作品なのだそう。とてもいいインタビューだったので、観劇に満足した方は、読んでみてね。

面白く、やがて悲しき『ビリー・エリオット』

 赤坂ACTは構造上、できたら行きたくない劇場なんだけど。8月6日(日)ソワレ、赤坂ACTシアター。

ミュージカル『ビリー・エリオット 〜リトル・ダンサー〜』
音楽/エルトン・ジョン 脚本・歌詞/リー・ホール 
演出/スティーブン・ダルドリー
出演 ビリー       木村咲哉
   お父さん      吉田鋼太郎
   ウィルキンソン先生 柚希礼音
   おばあちゃん    根岸季衣
   トニー       藤岡正明
   オールダー・ビリー 栗山廉
   マイケル      山口れん    ほか

 『ビリー・エリオット』とはどんな舞台なのか、説明するまでもないくらい有名になっちゃったけど、まずはイギリスの舞台がどんなだったか、マダムのレポートを読んでください。長いけど。それは→マダム イン ロンドン  と→マダム イン ロンドン その2→マダム イン ロンドン その3

 読んでいただけばわかる通り、マダムは『ビリー・エリオット』を日本人がやることに懐疑的だったの。
 だから、観るかどうかずっと迷っていたのだけれど、結局行くことにしたのね。それは、いろんな意味で、いい判断だったと思ってる。
 というのはね、想像以上に面白かったの。そして、だからこそ、観たあとのイギリスへの敗北感といったらなかった・・・。

 日本版を制作するにあたり、日本人の演出家は付かず、演出補らしき人もいなくて、完全に、オリジナルを「まんま」上演するというやり方だったね。舞台装置から衣装から、役者の一挙手一投足まで、すべて英国版と同じ。ほんの少しカットされたシーンがあった他は。台詞が日本語である、という以外に、限りなく違いをゼロにしようという意図があったの。それは、『ビリー・エリオット』という名前の作品価値を傷つけまいとして、だと思うんだけど。
 
 マダムはそもそも「まんま」がやれるのだろうか、日本人キャストで?と懐疑的だったんだけど、そこはかなりクリアされてた。子役はもちろんのこと、心配されたアンサンブルも、よく踊りよく歌い、物語はちゃんと伝わってきて。言葉が違っても伝わる普遍的な部分、例えばビリーを残して亡くなった母親の思いや、ビリーの才能を見出し次のステップへ背中を押してやるバレエの先生の気持ちなどは、ひしひしと伝わり、子供達の踊るシーンはそれだけで楽しい。ビリーが、未来の自分と踊る「白鳥の湖」のシーンは、言葉がいらないシーンであるだけに、ロンドンで見たときと同じように白眉だったわ。
 子供達もアンサンブルも、激しい稽古をクリアして行けるところまで行ったのね。どれも少しずつ到達できていないところを残しつつ。練習してなんとかなる部分は、ほぼなんとかなった、の。そうしたら(子役の、そもそもの演技の発信力が拙くても)それなりに楽しめるものができた、ってこと。
 だけど結局それは、もとの本、もとの音楽、もとの作品の力が物凄い、ってことなのよ。イギリスって凄いな、と改めてマダムは感心した。芝居の力をこれほど信じて作られた作品はないよ。ひれ伏したの。そしたら敗北感が押し寄せてきたのよ。
 
 「まんま」やる方針に従って、炭鉱町の人々がサッチャーのマスクをかぶって歌いこき下ろすシーンも、全くそのままだった。このシーンを含め、作品のバックボーンをどう翻訳するか、日本側のプロデューサーは、何も考えなかったのかしら。イギリスの製作者の「まんま」の方針に唯々諾々と従うだけだったの?それとも、紆余曲折の果てに、このやり方が選ばれたの?
 このシーンに代表される、作品の根本にあるイギリス人の国民性や、当時の政治状況に対する怒りなどは、「まんま」やることによって、情報でしかなくなり、芝居の力としては全然伝わってこなかったんだよね。そこは「訓練」や「練習」だけではどうにもならないところだから。
 ことあるごとにマダムは思うんだけれど、日本人の役者も観客も、日本語で考え、日本語で体も動いている。だから台詞だけ日本語に移しても、芝居の力を翻訳したことにはならないの。
 日本版のための、日本人演出家が必要だったのではないかしら?

 例えば「Solidarity」の踊りと歌詞には、ストライキ中の炭鉱夫たちと、それを見張ってる警官たちの掛け合いがある。
 警官たちは「お前たちがストライキしてくれるおかげで残業代がたくさんもらえて、俺たちはお大尽だぜ」みたいなことを言い、対する炭鉱夫たちは「そしたらお前たちは家を長く留守するんだな。女房を寝取ってやるぜ」と歌う。ユーモアと皮肉たっぷりに、本気の反抗、本気の主張がこめられているんだけど。日本版ではそれが、ただステップが面白いダンスシーンになってしまっている!
 ステップは練習でなんとかなるけど、そこに込められた反骨精神はダンスの練習では生まれない。見事にどこかにいっちゃっていたのよ。
 
 「まんま」ミュージカルの専門劇団はもうあるんだし、これ以上そこに労力をかけなくていいと、マダムは思うよ。
 その先、を切り開いてほしい。

楽しさ全開 AUNの『間違いの喜劇』

 久しぶりすぎる高円寺。8月5日(土)マチネ、明石スタジオ。

劇団AUNワークショップ公演『間違いの喜劇』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
監修/吉田鋼太郎 演出/長谷川志
出演 木村龍 橋倉靖彦 河村岳志 松尾竜兵 齋藤慎平 山田隼平
   飛田修司 岩倉弘樹 前田恭明 伊藤大貴 千賀由紀子 水口早香
   悠木つかさ 森瀬惠未 佐々木絵里奈 桐谷直希 砂原一輝

 私事ながら、高円寺はシェイクスピアの聖地。
 昔、高円寺にはシェイクスピアシアターのアトリエがあり、そこで、マダムは生まれて初めてライブでシェイクスピアを観たの。以来、シェイクスピアの面白さの虜。 高円寺で降りたのは本当に久しぶりだったんだけど、明石スタジオの席に着いたら、小屋の大きさといい、限りなく無に近い装置、大道具の無さといい、シェイクスピアシアターのアトリエそっくりだったので、それだけで故郷に帰ったような気がしたの。
 で、始まった芝居は、ホントにマダムを原点に運んで行ってくれるような面白さだった。
 
 『間違いの喜劇』のあらすじ説明とかはしないよ。
 
 二人のドローミオが、最高。根っから喜劇体質のドローミオ兄(齋藤慎平)と、少しヤンキーが入ってるドローミオ弟(山田隼平)の動きが楽しくてしょうがなかったし、ハイテンションで叫んでいるようでも、ちゃんと台詞の全てが耳に届いて、それがメチャクチャ可笑しい。二人のノリの良さが役者たち全員に伝染して、芝居を引っ張っていってたわ。「間違いの喜劇」はドローミオ兄弟が主役だったのね。初めて知ったー。
 エドリエーナ&ルシアーナ姉妹も負けてなかった。エドリエーナ(水口早香)の大柄で押しまくって舞台を制圧する様子に笑ったし、対するルシアーナ(悠木つかさ)の小柄だけどのんびりゆったりのマイペースさが、あたりをじわじわと侵食していくのがまた可笑しいの。
 始まって30分くらいで可笑しさは雪だるま式に膨らんでいき、あとは、もう誰が何をやっても可笑しくて。アンティフォラス兄(河村岳志)の堅物さも、アンティフォラス弟(松尾竜兵)のキレやすい体質も。商人(伊藤大貴)はニコニコしてるだけで可笑しく、金細工師アンジェロ(岩倉弘樹)なんて、最後には何も言ってなくても可笑しい、という具合に、どこを切っても可笑しくて楽しいの。もう、凄くよく出来てる!
 そして笑ったあとの締めで、修道院主エミリア(千賀由紀子)がアンティフォラス兄弟の母だとわかるところは、ちゃんと、ジーンとする。出番は少ないけど、エミリアをベテランがやるってことには、凄く意味があるんだよね。

 シェイクスピアの喜劇の面白さは、台詞にかかっているの。この台詞をどんなつもりで誰に向かって言うのか。聞いた相手はどんな風に受け止めて、言い返すのか。周りはそれを聞いてどんな反応をするのか。もうそれだけ。それを板の上にいる役者が全員、わかっていて、やり遂げたら、メチャクチャ面白いものが出来上がる。
 劇団AUNはシェイクスピアの専門劇団ながら、ここ数年シェイクスピアから遠ざかっていた。でもさすがだわ。若手のワークショップ公演といえども、全員がどんな瞬間も今起きていることにヴィヴィッドに反応してた。やっぱりこうでなくちゃ。セットも小道具もなにもなくったって、面白いのよ、シェイクスピアは。
 
 それとね、今回マダムは発見したのよ(そんなことは、とっくに知ってると、みんなは言うかな?)。
 シェイクスピアではよく、双子とか、瓜二つの兄弟とかが出てきて、それを一人二役でやる上演もあるんだけど、マダムは初めてシェイクスピアを見たときから、全然似てない役者がそれぞれの役をやるのを自然に受け入れてきたし、今回も二人のアンティフォラス、二人のドローミオがとても良かった。
 いえ、むしろ、違う役者が双子をやる方が断然いい、と思ったのよ。
 だってさ、もしそっくりな双子を二組見つけてきて、アンティフォラスとドローミオをやらせたとしたら、よ。観客も、今出てきたのがアンティフォラス兄なのか、ドローミオ弟なのか、瞬時に見分けられなくなっちゃうじゃない? この「瞬時に」ってところが大事で、観客の方は瞬時に、ドローミオ兄!とかアンティフォラス弟!とかわかるから、登場人物たちが右往左往するのが可笑しいわけなのよ。迷ってから理解するんじゃダメなの。可笑しさの勢いがなくなっちゃうもの。
 
 というわけで、ホントにホントに楽しかった。またやってほしい。毎月やってほしいくらいだわ。

『ハイバイ、もよおす』を観る

 すごく久しぶりの横浜。7月29日(土)ソワレ、KAAT神奈川芸術劇場、大スタジオ。

『ハイバイ、もよおす』
作・構成・演出/岩井秀人
出演 岩井秀人 上田遥 川面千晶 永井若葉 平原テツ
   黒田大輔 田村健太郎 伊東沙保 岩瀬亮 後藤剛範 ほか

 いつものシリアス路線から少し外れて、「ハイバイが遊んでみた」番外編。3本のお話のオムニバスだった。
 1本目はロールプレイングゲームのパロディ(?)。ゆるーい感じのパロディだった。役者さんたちのメチャクチャ弾けてる様子が楽しかったんだけれど、マダムはゲームを殆どやらないので(テトリスみたいな単純なものしかやったことがなく)、ゲームをよく知ってるらしい観客が大ウケしているところに付いていけなくて、とても悔しかったの。
 2本目はニセモノ大衆演劇。銀色の長い髪のかつらに白塗りの平原テツが主役なの。それだけでかなり笑える。岩井秀人による前説があって、「大衆演劇は写真を撮ってオッケーの世界なのでそれにならって、この芝居に限り、どんどん携帯で撮っていいですし、芝居の後どんどんツイッターに挙げてください」とのことだった。マダムは撮らなかったんだけど、客席では携帯を掲げる人がたくさんいたし、殺陣とか、見栄を切る(?)場面では、撮影タイムともいうべき長〜い間が取られていた。ツイッター上に挙げられた写真を見て、「ハイバイに何が起こったんだ?!」と思った人もいるだろうけれど、これはこれでハイバイらしかったよ。大衆演劇にある「役者が自分の演技に酔ってる感」は全然なくて、すごく客観的だったの。
 3本目「ゴッチン娘」は、配られた解説によればハイバイのニセモノ。でも、マダムはこれが一番面白くて、ってことはシリアスな岩井秀人の語り口が好きだってことだな、と再確認したんだけど。
 主役のゴッチン(後藤剛範)は、筋骨たくましい小学生の女の子。「かわいいよ、似合うよ」と言ってくれる両親を気遣って、フリフリのワンピースを似合わないのに無理やり着ている。好きな男の子がいるけど、自分は「男の子を好きになるなんてふさわしくない容貌だ」と思っているから、我慢している。クラスメートや先生から気を使われていることに気づいていて激しく傷ついているのだけれど、周りを気遣い、それすら表に出さないようにしている。そういう女の子。あまりにも自分を抑え込みすぎて、遂に爆発し山へ逃げ込み野生化してしまうという、『おおかみ子供の雨と雪』も真っ青な激しい展開が、凄く可笑しくて、結構悲しいの。解説だと「ニセモノ」って言ってるけど、マダムはニセモノとは思えず「あー、これぞハイバイ」と感じて、満足したの。
 全体的にゆるーい感じだったけれど、ゆるくやってもハイバイはどこまでもハイバイらしくって、安心して帰ってきた。

『怒りをこめてふり返れ』追記

 勢いで書いてしまったら、大事なことを書き忘れてしまった。
 衣装やら小道具やらのことをたくさん書いたけれど、もっと根本的な演出上の問題があってね。マダムだけがわからなかったんだろうか?
 子供のこと、なんだけど。
 アリソンは子供ができたことを、ジミーに話せずにいて、クリフからも「話した方がいいよ」と言われている。だけど、いつもジミーは怒っているから、話せない。
 そこまではわかったんだけど。結局、子供のことをジミーに話せないまま実家に帰るじゃない?その辺から、アリソンの気持ちが全然わからなくなったの。あのときのアリソンは次のどれだったんだろう?
 ①とりあえず実家に帰って子供を産み、それからジミーとのことを考えよう。
 ②ジミーとは別れるけど、実家で子供を産んで育てよう。
 ③疲れ果てて、何も考えられない。
 ④正直、子供のことは考えたくない(子供なんてできなければよかったのに)。忘れたい。

 お父さんが迎えに来てて、トランクに荷物を詰めながらお父さんと話をするとき、このどれかのはずなんだけれど、どれにも見えなかったの。お腹の子供のことはシーンから忘れられている感じがした。
 だから、ラストで、流産したアリソンとジミーが対峙するとき、アリソンが子供のことをすごく嘆くのが、そのまま受け取れなかったの。ホントに悲しいのかなあ、と疑ってしまう気持ちがぬぐえなくてね。
 結局、アリソンの気持ちは全然理解できなかった、ということだわ。
 
 みんなはどうでしたか?

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