最近の読書

芝居レビュー

期待通りの『子供の事情』

 三谷幸喜の芝居は久しぶりかも。7月16日(日)マチネ、新国立劇場中劇場。

シス・カンバニー公演『子供の事情』
作・演出/三谷幸喜
出演 天海祐希 大泉洋 吉田羊 小池栄子 林遣都 春海四方
   小手伸也 青木さやか 浅野和之 伊藤蘭

 最近、三谷幸喜離れしていたマダム。
 必ず一定水準の芝居を見せてくれて、それはすごいことなんだけど、マダムはびっくりしたり、塞がっていた脳の小窓が開いたり、胸の底を揺るがされたりしたいの。そういう深いことはやりたくない、心に残らない芝居が作りたい、っていうのが三谷幸喜がよく言ってることだから、向かう方向が違うんだなぁと思って、離れてた。
 でもさ、本当にひとっかけらも心に残らない芝居を作りたいと思ってるのかしら、三谷幸喜?
 そんなことないよね。だって、面白いものを作ろうとすると、人間を描いちゃうことになるし、テーマらしきものがまるっきり深刻じゃなくても、だからって、心に残らないわけじゃないもんね。
 
 それにしても今回、反射的にチケット買っちゃったのは、シス・カンバニーの罠にまんまとはまったの。だって、こんなメンバーを一つの芝居に投入してくるなんて、もう異常事態だもん。それぞれ主役が張れるような人ばかり。当日券に並ぶ徹夜組が出るなんて、なんかもう吃驚だわ。
 それでもって、半ズボンのお坊っちゃまスタイルの林遣都の第一声が「こんにちは。三谷幸喜です。」だったからさー、まったくもう。やりたい放題ね。
 
 小学四年生の放課後の日々を描くのに、このメンバーを集めた、その発想だけでもう勝ったも同然で、なんだかちょっと悔しい気もする(昔々、ギャングを描いた映画で、ギャングの親玉から情婦まで全員子供が演じるという、面白い映画があったんだけど(←「ダウンタウン物語」)、その逆の発想というか。三谷幸喜は同世代なので、案外そのあたりからの発想だったりして)。わざとらしい子供っぽい演技はなくて、それぞれいつもの役者さんの演技だったのがよかった。
 学校の教室を後ろから眺めるようなセットで、毎回毎回、放課後に残ってダラダラしている、同じ顔ぶれの子供たち。アニキというあだ名の女の子(天海祐希)を筆頭に、ゆるくもどこか緊張感のある人間関係が作られている。そこへ転校生ジョー(大泉洋)が現れて、人間関係は微妙に変化していく。アニキは、みんなのアニキだった地位を追われ、ソウリ(青木さやか)は学級委員から転落し、リピート(浅野和之)が学級委員となりジョーの傀儡政権となる。子役として芸能活動しているヒメ(伊藤蘭)、クラス一のワルのゴータマ(小池栄子)、ゴータマの番頭みたいなジゾウ(春海四方)、恐竜博士のドテ(小手伸也)のそれぞれに少しずつジョーの魔の手が伸び、みんなジョーの影響下に入るかというとき。
 クラスの中でも地味なホリさん(吉田羊)の番がやってくる。ホリさんは、家族の中で事件があった過去があって、クラスの仲間は、子供なりに彼女のことを気遣ってやってきてる。が、校門のところにマスコミがやってきて、ホリさんのことを捕まえようとして、ジョーはこの機をとらえていかにもホリさんの味方のように振る舞い、一気にクラスを掌握しようとするのだが・・・。
 他の話が他愛のない悪戯なのに比べ、ホリさんがマスコミにさらされそうになる件は、大人顔負けの悪魔的な仕業なの。だからそこにはちゃんとアニキの機転でストップがかかり、ジョーの化けの皮が剥がれ、クラスはまたもとの平和を取り戻す。
 そこは期待通り。「蠅の王」みたいな怖い話には絶対にならない。そこは三谷幸喜だから。
 途中、ミュージカルみたいな瞬間があって、みんな歌がうまいし、めちゃくちゃ楽しい。これだけのメンバーがほぼずっと舞台の上に出ずっぱりでいてくれるのも、眼福だったなあ。
 最後の畳み掛けるあたりで、なにもかもアニキ一人が謎を解明するムリヤリ感と、ジョーの暴かれた転校前の性格が不自然だったのが、気になったわ。なんか、いつも三谷幸喜、こういう匙を投げた感じがあるんだよね。彼ほどの人がこの不自然さを気づかぬはずはなく、わざとだと思うんだけど、どうなのかな。
 
 マダムは、大好きな浅野和之の軽快な動きが見られたので満足。これなら、ワンピースやっても、似合うでしょうね。11月、どうしようかなぁ。迷うところだわ。
 
 そうだ、とてもよかったラストのことを書こうと思ったんだけど、これは公演が終わってからにしようっと。

2時間でもちゃんと『リア王』 子供のためのシェイクスピア

 芝居に行くも帰るも汗びっしょりだわ。7月15日(土)マチネ、あうるすぽっと。

子供のためのシェイクスピアカンパニー『リア王』
作/シェイクスピア 訳/小田島雄志
脚本・演出/山崎清介
出演 福井貴一 戸谷昌弘 土屋良太 佐藤あかり
   若松力 加藤記生 チョウヨンホ 大井川皐月 山崎清介
 

 伊沢磨紀が出ないことに気づいたのはチケットを買って、だいぶ経った頃だったの。
 伊沢磨紀は日本のキャサリン・ハンターである、とマダムは思っているのだけれど、1年に1度、子供のためのシェイクスピアで伊沢磨紀に会う。それがあたりまえのことになっていたので、ショックは大きかったわ。チラシを見て「あ、リア王ね、伊沢さん、ゴネリルでもリーガンでもコーディリアでもいいけど、リア王もできるね」なんて考えていたんだもの。

 話は『リア王』なんだから、あらすじの説明はしなくていいよね?
 
 配役を書き出してみると。
 リア王は福井貴一。コーディリアと道化を大井川皐月。ゴネリルとコーンウォール公(リーガンの夫)を加藤記生。リーガンとオールバニ公(ゴネリルの夫)を佐藤あかり。グロスターを戸谷昌弘。その長男エドガーをチョウヨンホ。その次男の策士エドマンドを若松力。ゴネリルの執事オズワルドとフランス王を土屋良太。そして山崎清介はケント伯。人形はケント伯と行動を共にする・・・えーと名前失念(人形の声を山崎清介がやっているので、人形が山崎清介に似てるのは当然なんだけど、今年は山崎清介の方が人形に似てきた気がした。なんでかしらね?)。
 いつも感心するけれど、この少人数でシェイクスピアをやり遂げてしまうのよ。毎年だから、どんな風に乗り切るのか、その工夫を見ることが大きな楽しみ。今回も、ゴネリル夫妻とリーガン夫妻を加藤記生と佐藤あかりの二人でやるという離れ業が見ものだった!
 そして毎回2時間ちょっとにまとめてくるのも、すごいの。いろんな伏線とか、きっかけの台詞とか、知り尽くしたうえでの改編なので、そこもまたマダムは感心しきり。
 役者さんたちは少数精鋭。このカンパニーはみんな上手いの。マダムはエドマンド(若松力)の色悪ぶりに惚れ惚れしてたんだけど、そこはほら、どんな時にもイケメンを見逃さないってことだから。
 
 あとはね、いつも演技の話に終始してしまうので、その前にひとつ。
 このシェイクスピアシリーズの衣装(三大寺志保美)がすごおく素敵! 役に合った、選び抜かれた色合い、生地の美しい光沢に、毎回見惚れる。

 始まるまで配役は知らなかったので、福井貴一がリア王として登場した時、おおおー、と思った。彼の舞台は何度か見ているはずだけれど、その上手さに舌を巻いたのは2年前の加藤健一事務所制作の『ペリクリーズ』のとき(その時の記事は→これ )。台詞の心地よさったらなかった。
 今回も台詞回しの巧みさはいかんなく発揮されていたのだけれど、マダムが引きこまれたのは「老人としてのリア」像がブレなく存在していたからなの。
 リアは、「老いてわがままになり正常な判断ができなくなった迷惑な老人」のように描かれているところが多分にあって、海外では「認知症の老人」として演出されている舞台もあるそうな。でもね、マダムは福井貴一のリアを見たら、「認知症の老人」というような言葉では到底片付けられないリア像がある!と感じたの。
 リアは老いたからわがままになったのではなく、王だったから元からわがままなんだよね。そして王という身分とアイデンティティーが、ピッタリくっついてる人なの(さらに言えば、王って多分そういうものよね)。だから退位しても王として振舞っちゃうし、王として振舞うなと言われたら、どうすればいいかわからないのよ。まるで、定年退職したらそのあと、どう生きたらいいのかわかんない仕事人間みたい。
 そして色々と辛酸を舐めたあと、死の間際になってやっと、王ではなく一人の人間として、自分を一番愛してくれた娘は誰なのか、誰が本当の家臣だったのかを知るの。話の始めに「王を降りる!」と言ったけど、本当に退位して一人の人間になれたのは死ぬ時だった。憐れなリア。
 というようなことを、福井リアは見せてくれたのだった。演出によって、そして誰が演じてくれるかによって、戯曲が姿を見せる面が違う。あたりまえなのかもしれないけれど、このあたりまえの楽しみにちゃんと行き着くには手練の技が必要で、観客としてその技を持つ人たちを応援したいと、改めて思ったマダムだったわ。
 
 そんなわけで、来年も楽しみにしています。伊沢さんのことも、もちろん、待ってる。

『子午線の祀り』を観る

 さて、久々の劇場。そして観劇の夏、到来だー。7月8日(土)マチネ、世田谷パブリックシアター。

『子午線の祀り』
作/木下順二 音楽/武満徹
演出・主演/野村萬斎
出演 成河 河原崎國太郎 今井朋彦 村田雄浩 
   若村麻由美 星智也  ほか

 『子午線の祀り』はいろんな意味で特別な作品ね。
 初演(1979年)版は、テレビの中継で見たような・・・。記憶は曖昧。細部は憶えてないけれど、滝沢修とか山本安英とか若き(?)日の野村万作(萬斎のお父さん)が出演していたの。新劇界の重鎮と、伝統芸能の名門役者が一堂に会する公演。当時は、画期的な企画でね。本は木下順二だし、音楽は武満徹だし。
 本は「平家物語」の語りと役者の演技を融合するように書かれていて。さらに、人間の営みを子午線の彼方から眺めるような壮大な視点があって、その語り(ナレーション)が随所に挟み込まれて。色々と挑戦的な作品だったのよ。マダムはテレビで中継映像を見て、「テレビじゃスケールが全然伝わってこないなあ」と歯がゆかったことだけ、憶えている。
 野村萬斎にとって、これを演出し主演することは特別な意味があること。狂言師としての仕事の枠を広げた先駆者の、後継ぎなわけだから。
 でもその気負いが、彼を不自由にしたような気がする。

 いつもだと、妙にだだっ広く感じる世田パブだけど、今回ばかりはこの広さが役立っていた。豪華なセットと美しい照明。
 舞台の上にもう一段高い舞台を組み、それが前にせり出してきたり、引っ込んだりする。段の間の隙間を利用して、そこからたくさんのコロスが出ては消え、階段なとの大道具もそこから現れ、暗転がほとんどいらない。
 舞台の前方で演技していた人たちが、せり出してきた舞台の下に飲み込まれて消えていくのを、しばらく感心して眺めたりしたのよ。

 だけど、芝居自体はなんだか凡庸なのだった。
 平家と源氏が戦うのは一番最後だし、平知盛(萬斎)と義経(成河)が直接ぶつかることはないの。離れた場所にいる両陣営の、それぞれの葛藤が別々に描かれながら話が進んでいくのね。
 だから芝居の肝は、平氏陣営ならば四国へ落ち延びた知盛と、支える四国の豪族阿波民部(村田雄浩)との、味方でありつつも権謀術数が巡らされてる様子。そして源氏陣営ならば義経と、頼朝から目付として送られている梶原景時(今井朋彦)との腹の探り合い。双方盛り上がって壇ノ浦の戦いになだれ込んでほしかったんだけど。
 源氏側の、成河と今井朋彦の探り合う会話はなかなか面白かったの。義経の、頼朝の弟だというプライドと、なのに認めてもらえないコンプレックスが、会話から滲み出てるし、景時は景時で、頼朝を支える家臣として義経と対等だ、というプライドが前面に出るのね。
 だけど平家側がどうも面白くなかった。野村萬斎の詠うような台詞は、宙に漂うばかりで相手(特に阿波民部)にしっかり届かない。なので、芝居ががっぷり四つにならないの。民部の言葉は知盛にちゃんと向かっているんだけど。知盛の演技に深さがない。知盛の方は恋人(影身)を殺した民部に対する憎しみと、それでも手を組んでいかなければならない武将としての判断という、相反する気持ちを湛えていなければならないんだけど、詠うような台詞は上滑りして、伝わってこないの。
 
 初演の時は、野村万作や滝沢修御大の、異種格闘技戦っていうのがまず大きな売りだったじゃない? だから演出家野村萬斎は、自分が古典芸能側だってことを台詞の言い回しで表そうとしたのね。でも、それが少し空回り気味だったの。
 もはや異種格闘技戦は珍しくないし、それを売りにするなら、何か違うものを見つけなきゃいけなかったのかも。
 演出に専念すれば、そこをしっかり追求できたんじゃないかしら。全体のテンポももっと緩急がつけられたと思うし。それと、初演時よりはるかに技術は進歩しているわけなので、舞台効果ももっともっと、びっくりするような使い方ができたんじゃないかしらね。
 やっぱり演出か主演か、どっちかにすればよかったんじゃないか、とマダムはちょっと残念だった。

新鮮な刺激 新派公演『黒蜥蜴』

 この劇場は30年ぶりくらいかしら?(以前観たのは杉村春子主演の『金色夜叉』だった。)6月17日(土)午前の部、三越劇場。
 

六月花形新派公演『黒蜥蜴』
原作/江戸川乱歩 脚色・演出/齋藤雅文
出演 喜多村緑郎 河合雪之丞 秋山真太郎 春本由香
   伊藤みどり 田口守 永島敏行 ほか

 某俳優が来年明智小五郎をやるらしい。マダムはどうもしっくりこなくて、首を振っていたのだけれど、そんなある日、1枚のチラシに目を奪われたの。それがこの新派公演の『黒蜥蜴』だったんだけれども、とにかく、マダムの思うところの荒唐無稽でまがまがしい(そしてワクワクする)江戸川乱歩の世界を実にキッチリ表現している写真だったから。マダムはその場で「こっちの方が断然観たーい!」と叫び、30年ぶりの三越劇場来場の運びとなった。
 大学時代に日本の近現代演劇史をかじったので、新派がどんな風に生まれたのかはなんとなく知っていて、テレビの中継映像などでも水谷八重子や波乃久里子の舞台を眺めたことはある。だけど、ちゃんと生で観たのは初めてかもしれない。ただ、チラシが、どんな舞台なのかを余すところなく伝えてくれていたから、想定外とか期待外れとかは全然なくて。改めてチラシの大事さを思い知ったわ。どんな舞台なのか、わかんないの、最近多いもの。それに比べ、この新派のチラシは、世界観を明確に表していて、えらい!
 
 お話はみんなが知っている「黒蜥蜴」なので、説明はいらないよね?
 
 新派をこれまで観なかったのは、やはり戯曲が古そうで、耐える女がいっぱい出てきそうだったから。それを芸にまで高めているのは重々承知だけれども、耐える女が美化されているのをマダムはわざわざ観たくないの。
 そこいくと「黒蜥蜴」には耐える女は出てこないし、強くて美しくて悪い女が主役で、しかもそれを追うイケメン探偵は、女盗賊と恋に落ちてしまう・・・あー、なんていい話なんだ。そうこなくっちゃ。
 女盗賊黒蜥蜴を演じるのは河合雪之丞。先代猿之助一門の女形だった人で、最近新派に入団(?)したのだそう。とにかく歌舞伎の女形をやってきた人の着物姿の美しさといったら!着物着て立ってるだけなら、普通の女優さんだって綺麗だけど、これだけ動いて美しいのって、さすが女形。信じられないような派手な着物(だって、全部にスパンコール縫い付けてある着物なんて、新感線でもないかも)なのに、下品にならない。そして、色っぽい。
 かたや明智小五郎を演じるのは喜多村緑郎。彼もまた猿之助一門から出た人なのだそう。それで、面白いなあと思ったのはね、たくさん男の人は出てくるけど、白塗りしてるのは彼だけなんだよね。白塗りって言っても、歌舞伎ほどではないんだけど、でも一人だけ肌が白いの。それって、歌舞伎の伝統だよね、主役のイケメンは白塗りっていう。
 その彼がまた、かっこいいの。大時代がかってる、すれすれの演技なんだけれど、なんだろう、しっかりと型がありながら型に寄りかからない、ちゃんとその時を生きてる演技なの。すごく上手い人なんだと思う。そして、彼もまた色っぽーい!
 そんな型も、見せ方も、美しさも華もある二人の主役に、この荒唐無稽なお話はピッタリ。新派という特殊な劇団にもこの戯曲はピッタリだった。途中マダムは時々、いのうえ歌舞伎を思い出した。かなり相通ずるところがあると思うわ。荒唐無稽にサービス精神てんこ盛りで。いのうえ歌舞伎と違うところは、テンポがゆっくり目で、セリフが全部隅々まで聞き取れること。それと、サービスの上塗りをしないこと。
 ほかにも客演の永島敏行(「遠雷」からかくも遠くまで来た・・・)の銭形みたいな刑事とか、春本由香(尾上松也の妹!)のいいとこのわがままお嬢さんぶりとか、秋山真太郎(劇団EXILEってなに?)の演技はイマイチだけどシャープな殺陣とか、見所はたくさんあって、楽しかった。セットも、三越劇場の古めかしくも豪華な造りをうまく利用して豪華だったし、黒蜥蜴の衣装は眼福だったわ。

 なにより良かったのは、敵味方の明智と黒蜥蜴が、どんどん惹かれあって、駆け引きしまくって、互いの死に(黒蜥蜴は一度は明智を殺したつもりでいたから)本気で嘆いてて・・・荒唐無稽な作りにもかかわらず、そこだけは本気が伝わってきて、ジーンとなるの。死んだ黒蜥蜴を抱きしめる明智の、色っぽいことといったら!
 いつも言ってることだけど、演技の上手い人が本当のイケメンなのよ。だって、観客を酔わせてくれるんだもの。再確認したー。
 演目によっては、また新派を観てもいいな。耐える女が出てこないやつ。

『天の敵』追記 台本読んでみた

 今頃は大阪公演の千秋楽、上演中かしら?イキウメの『天の敵』。
 数日前に出たばかりの悲劇喜劇7月号に台本が掲載されていて、読んでみたの。
 難解なところはひとつもない。読んでいて、飛躍についていけないとか、意味不明なセリフとか、全くないの。メチャクチャ読みやすい!
 それでいて、もしも、芝居を観る前にこの台本を読んでいたとしても、イキウメのあの舞台を想像することは全くできない、と思われ。例えば限りなく新劇風に演出することも可能な本だし、映像にもなりそうな本なので、そういう想像はできるんだけれども、イキウメ独特のかっちり組み立てられた美しい演出は、やはり観なくてはわからない。イキウメの手法を知っていても、事前に到底想像はできない。
 台本を書く才と演出する才は、それぞれ別物なのね。それでいて、どちらもちょっと天才的である・・・おそるべし、前川知大。

 台本の掲載にあたって、作家の短いインタビューが載っていて、どんな作品から影響を受けているかという問いに、なんと
「書きながら手塚治虫の漫画みたいだと思ってました。」
という言葉があり!マダムはにっこりしてしまったわ。芝居を見ながら「火の鳥」のイメージが脳裏をよぎったのも、あながちマダムの独りよがりじゃなかったんだね。

生きることの愛おしさ イキウメ『天の敵』

 二日連続の芸劇通いだ〜。5月28日(日)マチネ、東京芸術劇場シアターイースト。

イキウメ2017年春公演『天の敵』
作・演出/前川知大
出演 浜田信也 安井順平 盛隆二 森下創 大窪人衛
   小野ゆり子 太田緑ロランス 松澤傑 有川マコト 村岡希美

 これはね、なんの予備知識もなく観たほうがいい。だから、このネタバレ三昧のブログはもちろんのこと、劇場でもらったチラシのあらすじすら読まないほうがいい。なので、観る予定がある人は、ここで引き返してね。観終わったら、また来て、一緒に盛り上がって。
 
 
 
 美しい芝居だった〜。
 
 後ろの壁一面に並べられたガラス瓶。薬膳用の食材が入っているのだけれど、そのひっそりと並んだ何百という瓶の前に、綺麗に磨かれたキッチンや大きな冷蔵庫やテーブル、ソファなどがある、少しばかり無機質感漂うキッチンアトリエ。
 イキウメのいつもの公演と同じように、休憩や暗転はなくて、唯一つのスタイリッシュなセットに、カーテンを引いたり、部分的に光を当てたりして、場面転換する。それが観る側の意識を一瞬も逸らさない、計算されたなめらかさなの。効果音の入り方、光の筋の表れ方、消え方。それと役者の演技とが、寸分の隙なく組み上がっていて・・・なんて美しい芝居なんだろう!
 
 これは122年生き続けてきた男の一代記。
 菜食の人気料理家、橋本和夫(浜田信也)は、その経歴に謎がある。ジャーナリストの寺泊(安井順平)は、彼が、戦前に食餌療法を提唱していた長谷川卯太郎という医者の孫なのでは?と当たりをつけて、取材に臨むの。
 ところが、橋本は「私は長谷川卯太郎の、孫ではありません」と否定。当てが外れた寺泊に、「私は長谷川卯太郎本人です」と断言するの。もちろん、寺泊は真に受けない。だって、本人だったら122歳ってことになるんだもの。
 信じない寺泊に、話が「長くなりますよ、いいですね?」と念を押して、橋本(というか長谷川卯太郎)の物語が始まる。
 話の運びは、イキウメにしてはやけにシンプルで、まっすぐ。橋本イコール卯太郎なのか、という謎は数分であっさり種明かしされ、時間の流れもほぼ一方向で進む。だけど、この「あるときから一切の食事をとることをやめ、人の血液を飲む(飲血)」ことで、不老不死の身体を得た、奇想天外な男の物語。奇想天外だけど、所謂吸血鬼のお話とは一線を画していて、あくまで彼は人間なのよね。ほんの少しだけ中心線がずれているけど、人間なの。
 血液の入手の仕方も、人間としての道理すれすれ。いちおう病院から手に入れている。もちろんそれは彼を研究材料としている医者たちのどこかヨコシマな欲望に支えられてはいるのだけど。
 話は、戦争中に対ロシア戦線で彷徨い、飢えに苦しんだ若いときに始まり、輸血用の血液を飲み始めて、どんどん健康になり若返ったせいで、年をとった妻も若返りたくなって飲血を始めてしまったり。でも、何も食べることができないことで妻は気が狂って死に至り。研究のため援助してくれていた先輩医師も年老いて死に。卯太郎自身は、若いままなので怪しまれるため、職を転々とし、ついには戸籍も身分も失って。そして放浪の間に、ヤクザの友達ができるけど、友達はすごく若いまま呆気なく命を落とす。
 100歳を過ぎて、卯太郎に転機が訪れる。菜食主義の人の血液を飲んだら、体質に変化が現れ、これまでダメだった太陽光の下も歩けるようになる。そして、菜食主義の若い伴侶、恵(小野ゆり子)を得て、やっと満ち足りた日々を過ごすことができたの。
 こうやって周りはどんどん年をとって死んでいくのに、自分だけは若い姿のまま生き延びて122年。彼はもういいや、って思うのね。もう、終わりにしよう。最後に美味しい鰻を食べて、それで終わりにしようって。
 語り終えた卯太郎はとても清々しいんだけれど、インタビューを終えた寺泊はソファに座り込んだまま、涙する。なぜかといえば、寺泊は不治の病いを得ていて、死と向き合っているから。卯太郎と同じ道に踏み入れれば、死なない選択がある。だけど、卯太郎の物語を聞いて、死があるからこそ、生きることが尊いと知ってしまったから・・・。
 
 役者は10人しか出てないけど、全員が素晴らしい演技だった。イキウメンの5人は勿論のこと、ゲスト出演の5人も、ぴったりとこの世界の住人になっていて、隅々まで行きわたる演出の凄さと、きっちり応える役者の凄さに、ひれ伏したくなっているマダムなの。
 常々「演技の上手い人こそイケメン」と言ってるんだけど、こうみんながみんな素晴らしいと、誰かの名を挙げるのも困っちゃう。と言いつつ、浜田信也の微妙に普通じゃない人感、森下創の完全にイっちゃってる人感、大窪人衛の脳を突き抜けてる声、に魅了されたと白状しておくわ。

 
 話の運びが、セットと同じように実にスタイリッシュで、聞くとおぞましい「飲血」をめぐる物語なのに、おどろおどろしい感じは全くなくて。本も演出も役者も、惚れ惚れするような上手さで、特別な世界にいとも簡単に巻き込まれてしまう。
 片時も物語から離れることなく観続けたマダムだけれど、途中、2回ほど別のイメージがフラッシュバックしたの。それはね。
 ひとつは。食べることを拒否して即身成仏と化した時枝(森下創。この人にしかできない!)の幻(なのか幽体離脱した心、なのか)と卯太郎が出会うところ。時枝はもう神様みたいだったんだけど。このシーンでマダムの脳裏に、むかーし読んだきりの手塚治虫の「火の鳥」のあるシーンが浮かんだ。火の鳥の生き血を飲んだために不死となった猿田彦が、何千年も生き、もはや身体は朽ちて「意識」だけになっても生きていて、生物(人間は死に絶えてる)に語りかけ、神の声だと思われてしまうシーン。
 ふたつめは。卯太郎が全てを語り終え、「もう終わりにしようと思います」と言ったとき。マダムの脳裏をよぎったのは、佐野洋子の「100万回生きたねこ」だった。自分のことしか愛していない猫が百万回も蘇って生き直してきたのに、自分以外の猫を愛する人生を得て、もう生まれ変わらなかった、というお話。
 
 マダム自身が何を連想したか、ということはさておき、『天の敵』には生きるということはどういうことか、という問いかけがたくさん詰まってる。そんな言葉は一度も出てこないけれど、そして大仰な場面転換も舞台効果もないけれど、イキウメの舞台は「悠久の時」を感じさせてくれる。生きることを愛おしいと感じさせてくれる。

 
 最後に余計なことかもしれないけれど。もう少しチケット代を上げてもいいよ。その代わりもう少し長く上演してください。再見したくても上演期間が短いので、なかなか行けないから。二度、三度と噛みしめたい芝居だからね。

『クヒオ大佐の妻』を観る

 今、芸劇はすごいラインナップなのよね。5月27日(土)マチネ、東京芸術劇場シアターウェスト。

『クヒオ大佐の妻』
作・演出/吉田大八
出演 宮沢りえ 岩井秀人 川面千晶 水澤紳吾

 
 やっぱりこれは映画を見て予習しておくべきだったのかしら?
 芝居を観ながら、そして観終わったあとにも、そんなことを少し思ったの。
 映画「クヒオ大佐」を作った映画監督が、舞台で続編(というのか、スピンオフものなのか)を作ったわけだから、そこは予習したほうがよかったのかも。
 でも、ただただ役者としての岩井秀人が宮沢りえと共演するという、その一点でチケットを買ってしまったマダム。予習など思いもよらなかったし、この後の感想は、予備知識なしで観た人間のものなので、そこんとこよろしく。(ネタバレは、します。)
 
 舞台は東京、阿佐ヶ谷あたりの築50年くらいかという、二間のアパート。今時、大学生の下宿でももう少しきれいだろうというような古くさいアパートで、ミシンで縫い物をしている女(宮沢りえ)。美しいが、つましい生活にやつれているように見える。そこへ宅配屋(岩井秀人)がやってくるのだが、彼は高校の時の同級生を名乗り、上がりこんでしまう。かつて同級生たちの憧れの優等生だった女が、時を経て「クヒオ大佐の妻」として安アパートで暮らしていることに、興味深々で、彼女に食い下がるの。一方的に押されるクヒオ大佐の妻。だけれど、押入れの中から縛られ猿ぐつわをされた若い女(川面千晶)が転がり出てきたところから、形勢逆転する。
 若い女は、「クヒオ大佐」の結婚詐欺に騙されて貢いだ金を取り返しに乗り込んできたのだけれど、睡眠薬入りのお茶を飲まされ、眠っている間に縛られて、押入れに押し込められていたのね。妻は、口では申し訳ないと言いながら、夫の居所を明かさない。明かさないのか、知らないのか、「夫の居場所はアメリカ軍の機密情報だから」言えないなどという。
 若い女は、最初は妻もぐるになって自分を騙し、ごまかそうとしていると思うのだけれど、話していくうちに、妻は妻で、いまだに夫がアメリカ軍のパイロットだと、信じきっていることがわかっていく。同情したり、別れるように諭したり、こちらも形勢逆転するんだけれど、女は一向に「クヒオ大佐の妻」であることをやめようとはしないの。
 ときおり、部屋の電話が鳴り(その音は、妻だけに聞こえる)、妻は遠いサウジアラビアの戦線の夫と話すのだけれど、それも、相手は電話線の向こうにいなくて、彼女の空想でしかない。
 そして、宅配屋の男に言い寄られて逆ギレした「クヒオ大佐の妻」の妄想が舞台の上に炸裂する・・・。
 
 というようなお話だったわ。他に、同じアパートに住む変な少年(年齢不詳)とその父(どちらも水澤紳吾)も登場するんだけど、そこはあまり意味はなさそう。客席の通路を使った追いかけっこも、通路を使ってみたかった、という以上の意味を感じなかったし。
 最後の方で、「主人公の妄想が炸裂する」と書いた(我ながら当たり障りのない表現だな、と苦笑しちゃう)けれど、そこが凄く唐突で、胸を打つというよりも、一気に冷めた気持ちになっちゃって。
 つまりね、クヒオ大佐がアメリカを象徴し、妻や騙されて貢ぎ続ける女たちが日本を象徴する・・・という作者のテーマが、まんまセリフとなって語られ、叫ばれるの。だから、そういうことが言いたかったんだってわかるわけだけれども、それ、セリフで説明しちゃうことで、そこまで積み上げたもの(というほど積み上がってないのかもしれないけど)の意味がなくなってしまったの。セリフも急に詠いあげる感じになるしね。
 いきなり迫り上がってきた機関砲(?)とか、客席を覆うアメリカ国旗とかも、どこかタイミングにずれがあって、気持ちの相乗効果を生まないの。暗転の長さやタイミングも、切れ味が悪い。
 全体的に、隔靴掻痒感がある舞台だったね。
 
 マダムの観たかった岩井秀人と宮沢りえのセリフの応酬は、さしたる火花も散らなかった。本がもっと、突き抜けていれば、そうなったかもしれないのに。
 
 ここまで書いてきて、今、ひらめいたんだけど!
 これはね、つかこうへいみたいな芝居にしたかったんじゃない?
 最後に、セリフ詠いあげて、効果音最大にして、巨大なアメリカ国旗も降りてきて、観客の興奮を最高潮にもっていく・・・つかこうへい的手法を、やりたかったんじゃないのかしら?そう考えると、妙に納得がいくよ。
 ただ、このテーマにその手法が合っていたのかは疑問だし、詠うためには、詠えるセリフじゃなきゃいけないし、そこまで積み上げておかなきゃいけないのが積み上がってないしね。
 あとは、始めに言ったことに戻るのだけれど。演出家にとっては、これは映画の続編だったのかもしれない。だけど、こちらは初めてなので。映画を見てた人には、もっと伝わるものがあったのか、そこを誰かに訊いてみたい気がする。

『グレート・ギャツビー』を観る

 初夏の陽気に、あぶなく脱水症状起こしそうだったわ。5月20日(土)マチネ、日生劇場。

ミュージカル『グレート・ギャツビー』
原作/F・スコット・フィッツジェラルド 音楽/リチャード・オベラッカー
脚本・演出/小池修一郎
出演 井上芳雄 夢咲ねね 広瀬友祐 畠中洋 蒼乃夕妃
   AKANE LIV 田代万里生 ほか

 全くの偶然なのだけれど、日生劇場の中二階(グラウンドサークル)の一列目が取れて、今回初めて座ってみたの。最高に観易く、居心地のいい席だった!日生劇場は古い劇場だけど、だからこそなのか、構造がイギリスの劇場にとても似ているね。客席と舞台の距離が近いの。二階や三階でも、かなり満足できる観易さだと思うわ。
 そんな席で観られたのだから、もっと感動的な芝居だったら、大満足だったろうと思うんだけど。結果は・・・。
 衣装も素敵だったし、セットも豪華で洒落ていて(美術はさすがの松井るみ)、そういう部分の眼福はあったわ。でも、芝居の中身で、マダムが心動かされるところは全然なかったの。

 これはさ、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の人物設定の骨組みだけ借りてきて、あとは好き勝手に作り上げたものなんだね。原作のギャツビーの魅力の要素が、何一つ投影されていないことに、マダムは愕然としたわ。
 もし微かにでも原作への愛があるのなら、ギャツビーとブキャナンがゴルフコンペでデイジーを取り合うなんていう下劣なシーンは作れないと思うの。
 マダムだって原作と芝居は別物、という考えはわかっているつもりだし、ミュージカルで例えばシャーロックホームズとかフランケンシュタインとか、骨組みを借りてきただけの佳作も観ているので、原作と違うからってそれだけでダメとか思ってるわけじゃないのよ。
 要は、それなりに筋を通して面白く変えられたのか、という点にあるのね。
 
 お話の運びは、すごく分かりやすさを旨としていて(それはいいんだけど)、とにかく説明が多い。ギャツビーがどんな人なのか、謎を謎のまま引っ張っていくことはせずに全部、原作に無いシーンを作って説明しちゃう。ギャツビーが何の仕事をして、とんでもない金持ちになったのか、その裏の仕事のシーンもあるし、オックスフォードで学んでたという噂も本人の口からすぐに説明があるし、デイジーとの出会いも、別れの理由(デイジーのお母さんに引き裂かれた)も次々シーンが現れて、メッチャわかりやすい。
 だけど、全部が説明のためのシーンになりがち。そこでギャツビーやデイジーの嬉しさや悲しさや愚かさが響いてくるかっていうと、響かないの。なぜかな。
 わかりやすいことが芝居の目的になっちゃってる感じなの。人間が描かれてない、と思う。だって、人の気持ちって、そんなにわかりやすくない。一筋縄でいかないところを描くのが物語であり、芝居であるわけで。
 ギャツビーは恋に殉じたお金持ち、デイジーは上流階級の慣わしに恋を潰されたかわいそうな女の子、ブキャナンは大金持ちで頭が空っぽのわがまま男、ブキャナンの愛人マートルはほぼ娼婦、マートルの旦那のウィルソンは生活に疲れて汚いなりをしたブルーカラー、そういう典型としてしか描かれてないの。これじゃ、心動かされないよー。
 
 だから結局は井上芳雄オンステージになってた。宝塚的に中央に置かれた階段を、登っていくギャツビーの背中にスポットライト、みたいな演出。随所に見られました(最後だけならともかく)。綺麗なだけで、だから何?とマダムは思ってしまった。もちろん、きらびやかなショーを楽しむ、という要素もミュージカルにはあると思うけれどね・・・。でも、それならそれで、各シーンのダンスなんかも、もっと目を奪うような迫力が欲しい。型を作ってそれで良しとしないでほしいよ。
 ギャツビーとデイジーのラブシーンもぜーんぜんドキドキ感がないの。はい、ここで抱きしめます、はい、ここでキスします、角度は客席に向かって45度で。それが綺麗です、みたいな。型に、はまっているんだよー、演技が。つまんないでしょう?
 ダンスだって、はい、ここでダンスします、じゃなくてね。長いこと行方知れずだった元恋人同士が、久しぶりにダンスする、っていったら、普通のダンスじゃないでしょう?特別な、心乱れるダンスのはず。そういうところが全く見られないの。ありえない!
 演出も演出だけど、役者もなんとかしてほしい。
 
 なんとか登場人物を体現してたなあと思うのは、ニック・キャラウェイの田代万里生とジョーダン・ベイカーのAKANE LIV。二人はストーリーを進めるための狂言回し的な存在だけれど、説明台詞であっても本人の性格(ニックの誠実さと、ジョーダンの醒めた割り切りの良さ)が滲んでいて、典型じゃなく、人として描かれていたの。この二人が救いだったわ。
 

 観劇の前に、某有料放送のバラエティ番組での井上芳雄の発言が漏れ伝わって来て、マダムはとても不愉快な気持ちにさせられた。彼を好きではなくなってしまった。いろいろな思いがあって、それでも平らな気持ちで芝居を観ようとしたし、そうできたと考えているわ。
 だから芝居の評価は、その発言とは関係がない。関係ないけど、今後彼の芝居を観たいと思うかどうか・・・当分、無い気がする。
  

新・新劇?劇団チョコレートケーキの『60’エレジー』

 雨の土曜日。5月13日(土)マチネ、サンモールスタジオ。

劇団チョコレートケーキ第28回公演『60'エレジー』
脚本/古川健 演出/日澤雄介
出演 西尾友樹 佐藤みゆき 岡本篤 林竜三 日比谷線 浅井伸治
   足立英 浦田大地 栗原孝順 高橋長英(声の出演)

 マダムの周りではとっくに注目されてた劇団チョコレートケーキ。やっと観に行く機会を得たの。期待した通りの手応えだったー。
 観る予定の方は、観てから読んでね。



 題名からわかるように、1960年代の東京のお話。はじめに現代のプロローグがあって、自殺したらしい人の遺書ノートを刑事が発見し、それを読むところから始まるのね。ノートを読む刑事の声が、だんだん主人公の声(高橋長英!)に変わっていく。だから観客は、語り部は既に死んでいることを、始めから知らされているわけ。

 出だしは「三丁目の夕日」を思い起こさせる。下町の町工場(蚊帳作りの家内制手工業)に、東北から、集団就職の「金の卵」として、中卒の15歳の修三(足立英)がやってくるの。訛りの強い話しぶりの中に、真面目さと芯の強さと頑なさが匂う。彼は福島の貧農の三男坊で、勉強したくても高校に進む余裕などなかった。でも、彼の気持ちを知った蚊帳工場の社長の清(西尾友樹)は、なんとかして夜間の高校に通わせてやろうと努力する。社長の妻悦子(佐藤みゆき)も同じ思いで、子供のない社長夫婦は、どこか自分の子供のように修三に肩入れしていくの。
 お話は修三が15歳で工場にやってきた時から、10年間を描いていく。1960年代は日本の激しい変化の10年間。蚊帳はみるみる需要が減っていき、清は何度も工場の縮小を余儀なくされる。まず弟の勉(岡本篤)を辞めさせ、その何年かのちには、先代から勤めるベテランの武さん(林竜三)を地方の蚊帳工場へ譲り渡す。そのつど、社長が選ぶのは、修三を守り、高校そして大学へ通い続けられるようにすることだったの。
 けれど、その気持ちに応えるどころか、修三はいつしか学生運動にのめり込んで行き、社長夫妻の庇護から外れていく・・・。
 なんて、渋い題材なのかしら?でも、ぐいぐい引き寄せられ、最後まで夢中になって観たの。
 
 作家も演出家もアラフォーの若さで、全く知らない60年代をこんなふうに直球ど真ん中な描き方で作ることの、不思議さ。知らないからこその、少し突き放した、容易には何にも肩入れしない語り口。そしてその60年代頃に全盛だった(かもしれない)新劇と見まごうばかりのリアリズムな演出。リアリズムなセット。戸をガラッと開けると外のざわめきが聞こえ、戸を閉めると収まる、愚直なほどのリアリズム。役者の真っ直ぐすぎるほどの台詞。その力強さ。若い役者なのに、なぜ、こんなに昭和が匂うのかしら?匂わせることができるのかしら?
 思えば、70年代には、新劇を否定した芝居が隆盛し、蜷川幸雄もつかこうへいもそこから生まれ育ち、遊眠社が現れ、瞬く間に新劇以外の芝居が主流となっていったのだけれど、実は新劇的なリアリズムの手法が古びたわけではなかったのね。もう一度その手法を、新しいものとして使う劇団が現れて、マダムは不思議な感慨に包まれてるー。

 だけど。
 蚊帳工場をたたんで、親類のいる宇都宮へいく社長夫妻と別れ、東京に残った修三は、二度と彼らと会うことはなく、70を過ぎて、ひとり死を選ぶ。物語の全てが遺書なの。その突き放した客観性が、苦い余韻となっていつまでも残る。ほかの生き方はなかったのかしら?って考え込んでしまうの。そこが凄いよ。
 また、面白い劇団に出会ってしまったわ。
 
 

『エレクトラ』を観る

 予習する暇はなかった。4月15日(土)ソワレ、世田谷パブリックシアター。

りゅーとぴあプロデュース『エレクトラ』
原作/アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス「ギリシア悲劇」より
上演台本/笹部博司 演出/鵜山仁
出演 高畑充希 村上虹郎 中嶋朋子 横田栄司
   仁村紗和 麿赤児 白石加代子

 マダムはギリシャ悲劇、あまり得意ではないのよ。神様がなんでも決めちゃうのが不服なの。
 だから、今回は、初見の高畑充希への関心と、横田栄司の良い声に聞き惚れに行ったの。
 最初に言っちゃうけど、アイギストス(横田栄司)の出演時間があまりに短く、1幕終わった時点で帰ろうかと思ったよ。聞き惚れる暇がないほど、短かった!
 なんてもったいないことをするの?ずいぶんじゃないの。
 でもそれは、芝居そのもののお話ではない。だからこれ以上は言わないことにする。

 ギリシャ悲劇には全く詳しくないので、何一つ偉そうなことは言えないけれど、なんだかはっきりしない舞台だったの。
 違和感があったのは、名のある達者な役者さんが揃っているのに、演技のメソッド(というか、発声法とかテンポとか色合いとか、リアリズムなのかとか演技の向かう方向)がバラバラな感じがしたこと。白石加代子は早稲田小劇場の白石加代子だし、麿赤児はアングラだし、横田栄司は文学座だし、中嶋朋子は鵜山組シェイクスピアの演技だし、高畑充希はテレビドラマに出ているときとあまり違わないし。なので、演技(の種類)がかみ合ってなくて、シーンを重ねても、こちらの気持ちが積み上がっていかないのね。
 鵜山演出は大抵、たとえば昨冬の『ヘンリー四世』のように、緻密に積み上がっていって、最後にはちゃんと受け取れるものがある。のだけれど、今回は、散漫で、なにがやりたかったのか、焦点をどこに持って行きたかったのか、わからなかったわ。
 台本にかんして素朴な疑問なんだけど、アイスキュロスとソフォクレスとエウリピデスはそれぞれ作風ってものはないの? それを無視して簡単に合体させられちゃうもんなんだろうか? やたらに軽くて、一本スジが通らない感じがするのは、やっぱりこの台本のせいじゃないのかしら?
 
 初見の高畑充希に関して言えば、なかなか面白い舞台女優になりそう。期待大〜。だけどまだ、相手と相乗効果を生む感じにはならないので、オレステスとエレクトラの二人だけの会話だと、聞いてるのが辛い。グダグダになっちゃうのね。
 でもそのオレステス(村上虹郎)、2幕になってイピゲネイアと二人のシーンは、なかなか面白かった。それはもう、中嶋朋子の力なの。もっと早く出てきてくれればよかったのに。
 
 芝居自体がどうも印象散漫なので、マダムは途中で他のことをいろいろ思い浮かべたのだけれど。一番思ったのは、同じ頃の同じ登場人物を描いていても、ギリシャ悲劇とシェイクスピアだと、こうも違うのかってこと。
 マダムにとってのアガメムノンといえば、同じ鵜山演出のシェイクスピア『トロイラスとクレシダ』の鍛冶直人アガメムノンなの。どんな場所にも自分のディレクターズチェアを運んでって座る指揮官アガメムノン。
 『トロイラスとクレシダ』のアガメムノンやギリシャの将軍たちは、みんな等身大の人間で、なにより合理的に描かれていたの。合理的で、ドライで、名より実を取る考え方が浸透している感じ。
 同じアガメムノンという名の人物でも、ギリシャ悲劇の中にいるのは、神と対峙し、実ではなく名を選び(だって生贄に自分の娘を差し出しちゃうんだもの)、そのせいで妻に殺されてしまうような男。ドライさは全然無い。
 比べると、シェイクスピアはすでに、今の私たちと同じような目線で人間を見ている。ギリシャ悲劇は、やっぱり私たちと同じ地平には無いものなのかもしれない。等身大の人間じゃないんだよね、描いているものは。
 とすれば、今回の舞台は、ギリシャ悲劇らしくなかった。イメージとして壮大さがなくて、隣のお姉さんがお母さんを嫌ってる話みたいになっちゃってたもの。それで、最後にお母さんを許して、自分もお母さんになろう!なんてさ。まるっきり隣のお姉ちゃんのお話でしょ?
 
 でもね、凄くつまんなかった訳でもないのが不思議なの。だって、観終わって1週間近く、あーでもないこーでもないって考えていたんだもの。こんなに反芻できるなんて、まるっきりつまらなかったら、ないもんね。

 
 さて、マダムはゴールデンウィークに引越しを予定しております。かなり忙しく、またインターネット環境が一瞬途切れることもありますし、次の更新までには間が空きますこと、お許しを。また、コメントをアップしたりお返事したりも、遅くなってしまうかもしれませんので、ご承知おきくださいね。


 
 

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