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芝居レビュー

『散歩する侵略者』を観る

 早く観たくてソワソワしていた。11月11日(土)マチネ、シアタートラム。

イキウメ『散歩する侵略者』
作・演出/前川知大
出演 浜田信也 安井順平 盛隆二 大窪人衛 森下創
   内田慈 松岡依都美 板垣雄亮 天野はな 栃原楽人

 傑作だ〜。
 観終わって、身も心も作品世界と一体化してしまい、幸せで・・・全然ブログが書けずにいたの。脳の客観性が、とろけてしまったらしくて。
 つまりマダムの客観性をもとろかすような、舞台だったのよ。
 
 これから観る人は、絶対読んじゃだめよ。
 


 イキウメファン歴は自慢できるほど長くはないんだけど、マダムの知る限り、イキウメの芝居はどれも、人間と異人種がせめぎ合う。
 今回は、「宇宙人」が侵略してくる話。地球を侵略する前にまず、地球人について情報収集するため、スパイを送ってくるの。
 だけど、宇宙人には形がなくて、こっそり生き物の身体を乗っ取って活動する。はじめ金魚の体を乗っ取った宇宙人は、すぐ間違いに気づき、金魚を掬った人間の身体へ移動する。脳も乗っ取っているから、乗っ取られた人間の記憶もそのまま。言葉も使える。だけど、言葉が意味する「概念」については未知。そこで宇宙人は地球人から「概念」を学び取る。概念を吸い取られた人間は、その概念を失ってしまう。「家族」の概念を取られたら「家族」がなんだったかわからなくなるし、「禁止」の概念を取られたら「禁止」することができなくなるし。取られた概念によっては、社会生活が続かなくなるの。
 出てくる宇宙人は三人。真治(浜田信也)と天野(大窪人衛)とあきら(天野はな)は、それぞれ別の場所で身体を乗っ取り、街をうろつきながら出会う人間から概念を収集したり、人間の体を探求しようとして包丁を刺してみたり、人間をガイドにして手っ取り早く仕事を片付けようとする。
 なかでも真治は、何も知らずに「病気の」彼の面倒を見てしまう妻の鳴海(内田慈)と共に、この物語の主人公だ。
 いつの間にかイキウメの主演俳優へと成長した浜田信也の、人外感がすごくて。人の形をした謎の生き物そのもので、妻にとっては中身が完全に他人なのに結婚した記憶はちゃんとあるという、なんとも気持ち悪い相手。その気持ち悪さを過不足なく演じてて、ほんとに浜田信也に惚れ惚れする。
 最初は全く話の通じない真治が、散歩から帰ってくるたびに少しずつ話が通じるようになって、鳴海はだんだん彼に対する愛情を取り戻すようになってくる。この、概念をちょっとずつ奪ううちにだんだん人間らしくなっていくプロセスの、芸の細かいことといったら!役者の演技にも、それを引き出す演出にも、身もだえするほかはないわ。
 
 もちろん浜田信也のみならず、10人の役者がすべて素晴らしくて褒めていると終わらないので、あと一人だけマダムが絶賛するとしたら、大窪人衛ね。彼は、最初から最後まで変わらない宇宙人らしさで、すごく怖いの。得体の知れなさが体から顔から声から、わらわらと染み出してる。もう、大好きだ。
 
 話は宇宙人たちが三者三様に情報収集を行い、やがてお互いを探し出して集合、というところへ進んでいく。その間に、概念を奪われた側のことも描かれるの。鳴海の姉は「血縁」の概念を取られて鳴海との関係がわからなくなってしまうし、医師は「禁止」の概念を取られて面会「禁止」を解いてしまうし、「所有」の概念を奪われた男は徹底した平和主義者になって、反戦運動を開始する。そのあたりはシリアスでもあるけど、笑っちゃうところもたくさんあって、テーマが壮大であるにもかかわらず、フランクに楽しんで観ていられるの。
 
 そして、どんどん洗練されていく舞台美術、舞台効果。舞台の真ん中に小さな坂があって、その上と下と、坂の下に亀裂が入っていて、亀裂の中と外、というふうにさりげなく空間を分け、照明の当て方一つで場面転換し、同時進行もできる。ホリゾントには美しい海や地球や月が現れ、一瞬の時間も途切れることなく、密に芝居が進行する。空間の使い方が見事で、うっとりしてしまう。
 
 圧巻はラストだ。
 あらゆる概念を学び取ってほぼほぼ人間らしくなった真治が、鳴海と別れて宇宙へ帰ることを告げ、鳴海は絶望する。真治と別れたくなくて。一方の真治は、その鳴海の気持ちが理解できない。というのも、彼にはまだ収集できなかった概念が残っていたから。それを、鳴海は自分が真治に「あげるよ」と言う。真治がいなくなるのなら、もういらないから、と。迷いながら、真治は、それを奪う。
 「愛」の概念を奪われた時、鳴海は静かに笑っているだけだ。
 が、奪った真治は、受け取ったものの巨大さに泣き叫ぶ。崩れ落ち、泣き叫び、鳴海を抱きしめる。そこにはもう、「宇宙人」の姿はない。人間になった真治が崩れ落ちている。
 人間を人間たらしめている最後の概念は、愛だった、という結末に、マダムは泣いた。
 

 役者は年々演技に磨きがかかり、ホンも演出ももはや向かうところ敵無し、圧倒的な完成度の劇団ね。このままずうっと行ってほしい。

 

終わり良ければすべて良し? イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『オセロー』

 来日公演って短い。当然ブログは間に合わない。11月3日(金)ソワレ、東京芸術劇場プレイハウス。

トネールグループ・アムステルダム『オセロー』
作/ウィリアム・シェイクスピア
演出/イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演 オセロー=ハンス・ケスティング  デズデモーナ=ヘレーヌ・デヴォス
   イヤーゴー=ルーラント・フェルン・ハウツ  エミリア=ハリナ・ライン
   キャシオー=ロベルト・デ・ホーフ
   ロダリーゴー=ハルム・デュコ・スヒュッツ ほか

 
 オランダ語の上演だったので、勿論、字幕付きだったのだけれど、これがあんまりうまくいってなかったの。あきらかにズレズレなところが沢山あったし、字幕に出しきれなくて省略してるんだけど、しすぎてわけわからなくなってたし。
 話は「オセロー」なんだから、みんなわかるでしょ、ってことかもしれないが、本を切ってあるし、やっぱり「このセリフでこの表情!」みたいな瞬間、わかりたい。英語なら少しはわかるかもしれないところ、オランダ語では手も足も出ないのだった。悔し〜。
 一方でオランダ語の、独特の四角張った硬い響き(ドイツ語に近い)でシェイクスピア、というのがとても新鮮だったわ。
 
 
 幕が開くと、舞台は青いカーテンで三方を覆われた広い空間で、オセローとイヤーゴーが半裸で、ソファに身を投げている。ジムの中のサウナ、みたいな感じ。空間は広いのに、空気が重く圧迫感がある。戦いが終わった開放感や、デズデモーナという若くて美しい伴侶を得た喜びとかが、感じられない出だし。もちろん、自分が愛を勝ち得たのだ、みたいなセリフはあるんだけど、一方でデズデモーナのことを「戦利品」と言い、それが例えじゃなくて当然のようににそのつもりなのが、態度のあちこちに見えるの。
 不気味な効果音のような音楽(いや、音楽のような効果音?)がずっと流れていて、その使い方が舞台というより映画の劇盤みたいだった。
 出てくる男たちは全員軍人で、現代に置き換えられているので、きっちりネクタイを締めた軍服を着ている。そうじゃない時は裸。両極端。仕事かセックスしかない。生活ってものが全く無い。舞台が殺伐としてた。
 本を大胆にカットしてあって、話がどんどん進むので、いつも以上にオセローの只ならぬ愚かさが露呈して、いつも以上に呆れるマダム。
 オセローを白人俳優が演じ、他の男たちと違いがわからなくて戸惑った。セリフでは「ムーア人」とか「アラブの出」だとか出てくるけど、オセローとイヤーゴーの人種の違いとか、底にながれる差別感情とかは、正直、感じることができなかった。パンフレットによれば「アラブ系にルーツがあるオセローは外国人なので、周りで起きていることを全ては理解できず、疑念がイヤーゴーによって膨らんでいく」とのことだったんだけど。マダムはからきし受け取れなかった。その微妙さを受け取るには、オランダ語を理解できなければならなかったのかしら?
 
 新しいと感じたのは、デズデモーナの造形。
 小さくて華奢でショートカットのデズデモーナ。妖精みたいに身軽で、無邪気にオセローの周りを跳ね回ってる。オセローとの体格差がすごくて、巨人と小人のよう。片手で持ち上げられ、ひょいと投げられる。オセローの愛を無邪気に信じすぎ、口を出しすぎてしまう。

 イヤーゴーも、日本で上演される時の「色悪」のイメージは皆無。悪の魅力とかは全然無く、ただの悪い中年男。そして、自分を差し置いて出世していくキャシオーに対して、嫉妬しているようには見えない。何もかも気に入らなくて、ただ滅茶苦茶にしたいだけの人、に見えた(いるよね、そういう奴)。
 
 途中の場面転換で、巨大な青いカーテンが一斉に外れ、それが風にあおられて舞台上を舞う中、後ろから大きなガラスの箱(オセローの寝室)がゆっくり現れた。日本の舞台では見たことのない種類のセンスで、度肝を抜かれたわ。
 でもそれ以外は、前半ずっと同じトーンだし、字幕がズレズレだし、いまひとつ 乗れず。このまま行ったら、寝るな、と思ったの。初日なので、関係者っぽいおじさんが多数客席にいたけど、前半終わったところでゾロゾロ帰って行った。でもね、マダムは前半が面白くなかったからって、帰ったりはしないよ。後半何が起こるかわからないじゃない?
 事実、衝撃のラストに向けて、盛り上がった。
 
 全ての条件が出揃って、あとはオセローがデズデモーナに手をかけるだけとなったところで、不気味な音楽が鳴り響く中、やや後方に位置していたガラス張りの寝室がどどーっと前に進んできたの。寝室内の大きなベッドには、半裸のデズデモーナがすでに眠っていることを、観客は知っている。さあさあ、おたちあい!という演出家の声が聞こえるよう。寝室に入ったオセローは軍服を脱ぎ、パンツ一丁でベッドの脇に立ち、眠っているデズデモーナを冷たく見下ろす。獲物を見つめるハンターのよう。妻を殺さなければならない苦しみが、感じられない。
 その状態フィックスのまま、なんと寝室の方の照明が消え、舞台後方に光が当たると、そこでは台詞なしの寸劇のように、ロダリーゴーがキャシオーを殺そうとして失敗したり、キャシオーの情婦が殺されたりする。パントマイムによる舞台説明みたいに、その辺りの顛末が済んでしまい、あっけにとられた。前方ではデズデモーナを見下ろしたオセローの姿がシルエットで立ち尽くしている。
 そして寝室上の照明が再びつくと、フィックスが解けてデズデモーナ殺しの場面になるのだけれどこれはもう、舞台上の型とかお約束とかは一切なしの、まごうかたなき殺人そのものだった。逃げ惑うデズデモーナを捕まえて、枕を押し付けて窒息死させるの。
 そのあと駆けつけたエミリアの叫びと、追いかけてきたイヤーゴー(何故か半裸。寝室から来たから?)によるエミリア殺害まで、徹底して女を見下した扱いだった。
 女たちは殺されて半裸で転がっているのに、オセローは自害するため、ゆっくりと軍服を着るのだ。そしてナイフを首に当てるとき、傍では軍服姿の部下が敬礼している・・・。
 
 緑色の目をした嫉妬という生き物がオセローを狂わせ苦しめる、そういう物語だと思ってきたのだけれど、このホーヴェ演出では色々と切り口が違っていた。
 人種差別的な切り口については、最初に言ったようにマダムは感じられなかったけれど、それよりも圧倒的な、女への差別が描かれていたのよ。
 オセローのデズデモーナ殺しは、嫉妬というより、自分を裏切った女への粛清だったし、イヤーゴーのエミリア殺しも、お喋りの口を塞ぐためではなく、自分に刃向かったからのように見えた。
 オセローのデズデモーナへの愛し方は、ペットへのそれであって、同じ人間の愛ではないの。
 そしてイヤーゴーの悪事のモチベーションは、自分よりキャシオーを重く用いたことへの仕返しではなく、オセローの愛をデズデモーナに奪われたことへの復讐にしかみえなかった。
 緑色の目をした嫉妬という生き物にいちばん取り憑かれていたのは、イヤーゴーだったということかしらね?
 
 
 『オセロー』って、四大悲劇の中でも一番にがてだ。オセロー、バカすぎる。
 男はなぜ、自分がこうと決めたものしか見ないのか?それほど馬鹿なのか。何百年も前からずっとそうなの?どうして客観視できないのよ?・・・そう感じて、ため息をつき首を振る。
 でもすごいのは、そんな男のひとりでありながら、シェイクスピアは冷徹なまでに客観的だってこと。
 プルカレーテの『リチャード三世』に引き続き、刺激を受けた舞台だったわ。
 世界は動いてる。

古強者向け プルカレーテの『リチャード三世』

 ネット上で見た舞台写真の魑魅魍魎感に、ワクワクしながら出かけて行ったわ。10月21日(土)マチネ、東京芸術劇場プレイハウス。

『リチャード三世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/木下順二
演出・上演台本/シルヴィヴ・プルカレーテ 演出補/谷賢一
出演 佐々木蔵之介 手塚とおる 今井朋彦 植本純米 山中崇
   山口馬木也 河内大和 有薗芳記 壤晴彦 渡辺美佐子 ほか

 

 なかなか楽しく観た!
 一方で、稲妻は降りて来なくって、薙ぎ倒されることもなくて。でも満足、という感じかしら?
 どう書いてもネタバレは免れないので、よろしくね。
 
 
 たまたま客席の中に友人がいて、終わった後、話したんだけれど、二人とも開口一番「これ、話を知らない人にはさっぱりわかんないよね〜?」と言い合ったの。
 演出はルーマニアの凄腕演出家、プルカレーテ。欧米の人にとってシェイクスピアは勝手知ったる庭なのね。普通に散歩したんじゃ面白くもなんともないんだ、きっと。
 だからいろんな変化球がてんこ盛りだし、「こいつはこっち側の人間、そいつは敵対する人間、あいつは敵に夫を殺された妻・・・」といった登場人物の立ち位置(わかりきったこと)を示すために知恵をしぼるようなことはしない。したがって、シェイクスピアに詳しくない人、あるいは芝居を見慣れてない人にとっては、話は追えなかったでしょう。事実、マダムのすぐ近くにいた、紳士にエスコートされてきた本物のマダムな方は「参ったわ〜。疲れた〜。どういう話なの?」と紳士を責めていた。紳士が気の毒。
 マダムはさすがにリチャード三世に関しては古強者の方に入るだろうと思うので、お話が理解できないなんてことはなかったんだけど、こういうのって、やっぱり影響がある。客席全体が固唾を飲んで見つめている時は、すごいエネルギーが生まれるし、それを受け止めた演者側が更なるエネルギーを放出して、いい循環が生まれる。でも、客席の4分の1か5分の1かが、ついていけずに戸惑ってたり寝てたり飽きてたりすると、不思議と、理解して見ている客のテンションもじわじわ下がってきてしまうのよ。
 
 だから一番良かったのは、幕開き。出だしが素晴らしいの!
 開演前にちゃんと幕が降りてる舞台って最近、珍しい気がした。ぴったりと降りた幕がスルスルと上がっていくと舞台は、城壁模様の高い高い垂れ幕に三方囲まれ、一面に緑がかった人工的な照明が当たり、ホーンセクションの生音に合わせて、大勢の男たちが体を揺らしている。みんな白いシャツに細身の黒いパンツ姿で、役を表すような衣装はなく、手にはシャンパングラス。くねくねと踊る姿が、カッコよくもありそうとう気色悪くもあって、マダムは「なにこれ〜?‼︎」と目を見張ったの。つかみはバッチリ。
 するとその中から「今や我らが不満の冬は去り・・・」というリチャードのセリフが聞こえてきて、ゆっくり現れたグロスター伯リチャード(佐々木蔵之介)は、せむしでもなく、足も曲がってなくて、すらっとしたいつもの佐々木蔵之介のまんまなのだった。そして饗宴のさなか、いつの間にか、踊っていた中の一人が手錠をかけられて連行されていく。二番目の兄クラレンス公ジョージだ。
 こんな風に、シーンとシーンは合体し、あるいは飲み込まれ、省略され、混じり合ってる。衣装も人を食った仕掛けになっていて、リチャードの足は、出てくるたびにいろんな曲がり方で、それに合わせていろんな杖をついているし、背中のみならずお腹までこぶができているときもあれば、本当のプライベートのときはまっすぐな体だったりする。これってつまり、リチャードが公的には不具を装っている、ってことだよね?
 女役の役者たちは皆、一応ドレスなど着ているので女とわかるんだけど、かつらはなくて、アン(手塚とおる)もマーガレット(今井朋彦)もエリザベス・グレイ(植本純米)もヨーク公夫人(壤晴彦)も、いつもの素顔。それなのに、なぜか皆、究極の色気のようなものを纏っているの。アンなんて、本当にいつもの手塚とおるなのに、なぜ女の色気が匂うのかしら。今井朋彦もなんだか美人だし。おかしいでしょ。どういう仕掛けなの。
 こんなに凄い女役メンバーなので、女たちだけで散々嘆き合うシーンがあっさりカットされてたのはちょっと残念だったんだけど、それにはワケがある。
 思うに、女たちのシーンに代表されるような、嘆きとか、情の入り込む余地のある箇所は、容赦なく切られていて、ただただ冷酷でスプラッターで乾ききった世界を作り出そうとしている演出なのよ。
 そして殺し方が怖い。バスタブに水を貯めるのに始まり、てらてらと光るビニール袋やチェーンソーが、めちゃくちゃ怖い。殺しは見えないようになってるんだけど、そのせいで何倍にも想像が刺激されて、見えないのに顔を背けるくらい。で、そのあとを無表情でモップかけてる掃除係の姿も恐ろしいし。
 従来の演出なら、最後の方に活躍する印象のケイツビー(河内大和)とラトクリフ(浜田学)が、最初からずっと舞台のどこかにいて、能面のような無表情でリチャードに付き従っているんだけど、怖いこと怖いこと。特に河内大和の存在感には圧倒されたの。体型が、腕や背中の筋肉が、そのままで演技になってる。彼の凄さは知っているけど、その彼をケイツビー役で使う贅沢さ。役にあまりにもぴったりなので・・・河内大和の代表作に数えられるかもしれないわ。
 
 後半、あの手この手に少し飽きが来て、さすがのマダムもちょっとダレかけたその時!とんでもないシーンが現れた。
 追い詰められたリチャードが戦場で夢を見るシーンがあるでしょう?自分が殺した人たちの亡霊が次々現れるところ。
 その前から、もう舞台には佐々木蔵之介しかいなくて、全然、進軍でも戦闘でもなくて、ひとりでぶつぶつ言ってるだけなのね。普通のリチャード三世の運びではないの。広い舞台の前の方でひとり寝そべってるリチャード・・・そこへ周りの城壁模様の垂れ幕がぞわぞわぞわ〜と動き出すんだよー。背筋がゾッとする瞬間。
 垂れ幕がぞわぞわと2メートルくらいずり上がるとそこに扉がたくさん現れ、一斉に扉が開くと、そこにはずらりと並ぶ幽霊たち。いつのまにかホーンセクションも現れて、幽霊たちは一人一人マイクを持って歌いながら進み出て、リチャードに呪いの唄を浴びせるのよ〜。この唄がいいの。すこーんと明るく突き抜けた、開き直ったサラリーマンの宴会後のカラオケみたい。それで歌詞は「この世に思いを絶って死ね!」なんだもんね。もう爆笑。
 でも気がつくと、笑ってるのはマダムの周りでは、マダムだけだったの。
 
 この芝居はね、ものすごい積み重ねの果てに作られたアンチテーゼ、みたいな演出。それは違う、あれも却下、そこは逆転して・・・っていうふうに作った。
 で、却下された方をどれだけ知っているかが、楽しめる鍵なの。
 もちろん最初から、話じゃなくて佐々木蔵之介のいろんな姿が見たかった人も、それなのに楽しかったんじゃないかなぁ。
 渡辺美佐子演じる代書屋の存在は、演出家の言い訳のような気がして、マダムには邪魔だったな。

本物の迫力『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』スペシャルショー

 来日公演というものには、あまり行かないんだけれど、今回ばかりは駆けつけた。10月14日(土)マチネ、東急シアターオーブ。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』スペシャルショー
脚本/ション・キャメロン・ミッチェル 音楽・歌詞/スティーブン・トラスク
演出/ヨリコ ジュン 音楽監督/岩崎太整
出演 ジョン・キャメロン・ミッチェル 中村中

 そもそも「ヘドウィグ」なる芝居について、漏れ聞いたことはあったものの、最近まであまり知らなかったマダム。日本で上演されたもの(山本耕史とか森山未來とか三上博史とか)も未見。StarSや単独コンサートなどで浦井健治がほぼ持ち歌のように歌っている「ミッドナイト・レディオ」がとても良くて、それを、本家本元が歌ってくれるなら、聴いてみたい。ただそれだけの気持ちで、行ってみることにしたの。
 だから今回の公演について予備知識がほとんどなかったんだけど、「スペシャルショー」と銘打っているように、これはオリジナルの芝居をだいぶ端折って、さわりを説明するような構成。ただし歌の殆どは、本家本元のジョン・キャメロン・ミッチェルが歌う。だから勿論「ミッドナイト・レディオ」も歌ってくれて、そこはちょっと言葉にならないくらい、薙ぎ倒されたマダム。それだけで、来た甲斐があったというもの。

 もともとの芝居も、ヘドウィグが、ショーの合間合間に自分のことを物語る、という構成らしい。今回は、だいぶ端折っているものの、そこは基本同じ。違うのは、セリフを日本人の中村中に任せて、歌のところだけジョン・キャメロン・ミッチェル登場、としていること。
 でもそれは良いアイデアだったね。だって字幕を読みながらでは、到底ヘドウィグの複雑な人生を理解することはできそうもなかったし、歌の日本語訳の字幕は出ていたものの、プロジェクションマッピングと一緒くたになってて、よく見えなかったから。

 芝居を観たというより、芝居を紹介するショーを観た、という感じだったので、内容に感動したというよりも、『ヘドウィグ』という芝居を最初から作り上げたジョン・キャメロン・ミッチェルの本物感に、ただただ圧倒された2時間だった。
 わかったのは、このロック・ミュージカルの凄さは、なによりもヘドウィグという人物設定の重さ、というか深さなんだなぁ、ってこと。
 だって、ヘドウィグの生まれは、東ベルリン。大戦終了後の駐留米兵を父とし、東ドイツ人の母から生まれてる。若い時に、ゲイとして自分もやっぱり米兵と恋に落ちアメリカに渡るの。その時受けた性転換手術が失敗したから、「アングリーインチ」なんだよね。物語の中には、戦中のユダヤ人迫害の始まりの話も出てくるし、ヘドウィグの現在の恋人イツアークもザグレブの出身だったり・・・戦後の矛盾がギュッと押し寄せている人物(矛盾を体現しているゲイ)なのよ、ヘドウィグという存在は。
 
 マダムと同じ回を、浦井健治も観劇していたらしい。この役をやりたいと、考えているのかな?相当な覚悟がいるよね〜?
 本物を観たら、気楽に「やってー」とは言えなくなってしまったわ。
 ただ、いつかどこかで、今回みたいな短縮版ではなく、完全版『ヘドウィグ』の舞台を観たい。それは、本当に。

 

『オーランドー』を観る

 横浜まで行くなら、友人と一緒に限る。10月7日(土)マチネ、KAAT神奈川芸術劇場大ホール。

『オーランドー』
原作/ヴァージニア・ウルフ 翻案・脚本/サラ・ルール
翻訳/小田島恒志・小田島則子
演出/白井晃
出演 多部未華子 小芝風花 戸次重幸 池田鉄洋
   野間口徹 小日向文世

 書き始めるまでに1週間もかかってしまったのは、面白くなかったからじゃないの。
 実は・・・最後の一番大事なところで、ちょっと意識が飛んでしまって・・・なので、正直、困っててね。
 すごく適当なので、読み流してください。

 ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」を白井晃が芝居にすると聞いて、誰が出るとかはいいから、観ようと決めていたの。原作はちょっと難しい(意識の流れ、とかいう文体で書かれているのだよ)ので読んでないんだけど、1993年の映画『オルランド』(サリー・ポッター監督)の大ファンなので。その時の主役はティルダ・スウィントンで、中性的な魅力がたまらなかったのよ。
 白井晃が映画を知らないわけはなく、映画のイメージをきっぱり断つようなポップな衣装のポスターが、「とりあえず映画を忘れて見てくれ」と言っているようで。わかった、と心の中で頷いて、KAATに向かったの。
 でも、わざと映画のイメージから離れるようなポップな雰囲気は、はじめ強かったけれど、芝居が進んでいくと、それは落ち着いて行った。

 お話は、イギリス、エリザベス一世の時代に始まる。女王(小日向文世)に仕える小姓のオーランドー(多部未華子)は美しい少年で、女王は特にその脚の美しさを愛で、お屋敷や位を与えて、保護する。美しいから、当然モテモテだ。オーランドーは女王の寵愛を受けていることを百も承知で、若い女の子(ロシアから来ている踊り子)とも仲良くする、したたかで積極的な若者なの。
 踊り子とのデートが、凍ったテムズ川をスケートで下ってロンドンまで行くことなんだけれど、移動する桟橋みたいなセットの上で、二人が並んで脚を滑らせるだけなのに、疾走感があって、見惚れた。こんなふうに、シンプルなセットで、ちょっとした工夫と役者の動きで見せていく演出は、随所に見られて、興味深かった。
 踊り子に振られて失意のオーランドーは、王の(いつのまにか女王の御代ではなくなっている)命を受けて、海外赴任に赴く。そこで何日もこんこんと眠り続けたオーランドーは、目覚めて、自分が女になっていることに気づく。
 このシーンの多部未華子の裸の背中が美しかった。そこに長い髪が揺れていると、あー、女になったんだね、と観客も実感する、説得力ある背中。
 イギリスへ帰国する船の上で、美しいドレスに身を包んだオーランドーは、女になってもやはりモテモテなんだけれど、女になってみて初めて気づく。男であった時はなんと自由だったことだろうか、と。帰国し、様々な男に言い寄られ、恋に落ち、かわしながら、男であっても女であっても、自分の感じ方(心)は変わりないことが語られていく。歩んでいくオーランドーの後ろで、時間の方がどんどん先に過ぎていき、お話は遂に現代に至る・・・。
 
 映画ではたしか、エリザベス女王の「美しいお前は、そのまま歳をとらずに生きなければならない。死んではならぬ」という不老不死命令(?)があって、かしこまりました、って答えたからオーランドーは不老不死になった、というファンタジーのお約束があったの。でも芝居にはそういうお約束はなかった。原作にはないのかな? マダムとしては、そういうお約束があった方が、芝居の世界に入って行きやすいと思ったのだけど。
 オーランドー以外は時代とともにどんどん移り変わっていく人物ばかりなので、多部未華子以外はみんな、次々役を替え、コロスのような役割も担っていた。多部未華子以外って5人しかいないので、八面六臂の大活躍ぶり。特に小日向文世はエリザベス女王から、女に変わったオーランドーの夫となる色男まで、変化すること!芸域の広さと演技のしなやかさに感嘆したわ。
 大ホールの広い舞台の上に、板付の舞台装置は何もなく、大きなホリゾントに絶えず雲が流れていく映像が映っているのが、時をどんどん越えていく感をよく表していて、それはとても心地よかったね。
 
 いろいろ感じることはあったんだけれど、現代のところ(それはつまり原作にはない部分。なぜかといえばヴァージニア・ウルフがこれを書いたのは1928年だから)は動きがピタリと止まり言葉だけになって、そこがこちらに届きにくくなった。(寝た言い訳だろと言われればその通りだ・・・)結果として、薙ぎ倒されるような感動みたいなものはなかったのだった。
 見に行ってよかったと思うのは、いよいよ原作を読むべきだと確信したことかな。原作は世に知られている以上に大傑作なのではないだろうか? 時を超えるお話はいろいろあれど、男であることと女であることの本質的な違いがあるのか、をここまで追求した小説は、ないのではないだろうか? しかも1928年に書いているのだから。
 「意識の流れ」に立ち向かわなければならないわ。
 

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その3

 マダムが岩松了を初めて見たのは、かれこれ35年くらい前になる。

 その頃、アクロバティックな演技とアナーキーな笑いに満ちた新興劇団だった東京乾電池。その新人俳優として、岩松了は渋谷のジャンジャンに現れた。弾けている柄本明や高田純次に押されながらも、新人らしからぬふてぶてしさがあって、マダムはちゃんと憶えているの。役者としても、魅力的な人よね。
 それから何年か経って、東京乾電池は突然、役者だった岩松了に台本を書かせ、公演を打つ。これまでの笑いに次ぐ笑いの舞台とは180度方向の違う、微妙な台詞のやりとりが延々と続く芝居。客席は静まり返ってた。それまで付いていた大量のファンが離れても、柄本明は「岩松了は天才ですよ」と断言して憚らず、岩松作品の上演をやめなかった。東京乾電池は、ファンを選び直したのよ。
 以来、基本的に岩松了の書くものの核心は変わらない。「黒澤明より小津安二郎。シェイクスピアよりチェーホフ」と何かのインタビューで語ったのが、彼の目指すものを示しているね。岩松節は初めから確立していた。そしてその核を、頑固に追求していく。
 だけど、彼の芝居についていくのは骨が折れた。特に大きめの劇場で、席が後方だともう、苦しい。彼の求める細かくて複雑で割り切れない人間の演技を、遠い距離で受け止めるのは至難の技で。起承転結なんかハナから無いし。睡魔に負けることもしばしばだったの。はっきり言って、彼は客に意地悪してるのよ。試されてる、と何度感じたことか。
 彼の演出した映像作品を何本か見たけれど、クローズアップができる映像の方が、向いているんじゃないのか?と思ったこともあるのよ。
 だからマダムは、彼の良きファンではない。ただマダムの好きな風間杜夫や小泉今日子などが岩松作品の常連となったので、要所要所でチェックしてきたかな、という程度。
 なので、こんな日が来るとは思わなかった。
 岩松了が、社会的な問題と向き合ったり。丘の上で叙情的なモノローグを叙情的に言わせたり。客に対して意地悪をやめたり。
 そんなことしたら、岩松了でなくなってしまう・・・と思っていた、のだけれど。
 
 インサイドシアターの公演でいつももらえるパンフレット。岩松了の挨拶が載っていて、その中の言葉にマダムは打たれた。
 

・・・私が毛細血管一本一本にまで血が通うようにとこだわってきた芝居をあっさり壊しかねない存在(つまりゴールドシアターのこと。マダム注)との出会い。しかしながら今回の私は、築いてきた演劇の枠組みを広げて自分がまだ出会っていない演劇に到達したいという思いで日々の稽古に臨んでいます。

 ゴールドシアターと芝居を作るには、自分の方が枠を広げていかなくちゃ、と思ったのね。岩松了にそこまでさせたゴールドシアターの存在って・・・。客に意地悪する暇もなかったのよ、きっと。そして本当に「まだ出会っていない演劇に到達した」んだ。
 『薄い桃色のかたまり』はマダムにとって、35年の岩松史上、最高の傑作。
 すごいな。演劇ってすごいし、人生ってすごいや。まいったなぁ。

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その2

 言うのをすっかり忘れてたけど、ネタバレしてます。ってもう遅いか。


 いつもの岩松作品が用意周到であるのとは別の意味で、『薄い桃色のかたまり』はとても用意周到に作られていた。
 例えば、ゲスト出演の岡田正。全く中心的な役ではなくて、老人たちがワイワイガヤガヤしている中にいつもいて、相槌など打っているんだけど、彼はゴールドシアターの芝居が大崩れしないための命綱。実際、ゴールドの一人がセリフにつまづいたら、彼が後を引き取って、次の人のセリフにサッと橋渡ししていたの。ゴールドの男優たちの、たった一人の重要な命綱よ。
 ゴールドの女優たちの中には、ネクストの大柄の男の子が紛れ込んでいた。おばさんの格好をして、十分おばさんになりきってた。彼もまた、命綱役だったんだと思う。
 そして、言い直しのきかない、リズムの大事なモノローグは、ほとんどネクストの役者に任されていた。二人一役の竪山隼汰と内田健司は、『リチャード二世』のときのボーリンブルックとリチャードで、マダムは特に思い入れのある役者だけれど、この二人が堂々と、作品を引っ張っていくのが気持ちよかったし、ワクワクしたの。この二人で、二人一役だなんて、なんて「粋な計らい」なんだろう。
 そして、ダンス。ゴールドの、セリフより物を言うダンス。別に上手くはない。揃ってもいない。でも、かっこいいの。白髪頭の、エプロンした普段着の老人たちが一斉に踊るシーンは、日本版ビリー・エリオットの「Solidarity」よりも、訴えかけてくるものがあったよ。心根の在り処が見えるダンスなの。接ぎ木された人工的なダンスじゃないのよ。
 
 そして、この作品の素晴らしさを生んだ最大の力は、岩松了(と、演出の予定だった蜷川御大)が選んだ、震災後の福島という場所だわ。
 岩松了らしく、決して声高に悲しみを叫んだりはしないし、理屈を説明したりはしない。ただ、ずっと暮らしていた土地をもう一度住める街にしたい、という老人たちの願いと、それを阻む現実と、溶けていく希望と、色が失われて灰色になっていく視界と、突き抜けた辛さの向こうからやってくる絶望的に美しい夢を、淡々と描いていくの。その根本に、老人たちの生活(人生)を破壊したのが、天災ではなく人災である原発事故だってことがある。
 社会的背景のない人間なんていない。そのことを忘れては、ドラマは生み出せない。やり方は様々あって、岩松了は、他にないようなやり方で、ドラマを作り出してみせたの。
 せっかくだから、もう少し岩松了について、その3で。

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その1

 突然思い立って、当日券の列に並んだ。9月23日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール、インサイドシアター。
 

さいたまゴールド・シアター第7回公演『薄い桃色のかたまり』
作・演出/岩松了
出演 宇畑稔 上村正子 田内一子 葛西弘 重本惠津子 寺村耀子 岡田正
   竪山隼汰 佐藤蛍 内田健司 白川大 鈴木真之介 ほか


 
 観終わった時、自分がグラグラ揺れたの。
 雷に打たれたみたいになって、劇場の外へ出たら、外の景色がこれまでとは違って見えた。芝居のせいで、脳細胞が位置どりを変えてしまったらしいの。
 一人では抱えきれないと思い、誰かと話したくて、すぐにツイッターもしたし、しばらく外のベンチにへたり込んで出てくる観客を眺めてたんだけど、知っている誰にも会えなくて(あとで知ったけど友人が二人も、同じ回を観ていたんだって。会えてたら、それからどれくらい長時間話したことだろう!)。とぼとぼと一人帰ったの。
 これは、只事ではない。マダムにとっての岩松史上、最高傑作かもしれない。


 さい芸のインサイドシアターには魔法がかかっているよう。狭くて長いくねくねした通路を歩いて劇場内の階段席にたどりつくと、それだけで否応なく、結界の中に引き込まれてしまう。そしてこんな結界こそが、岩松了の最も必要としていた場なのではないか、と今になって思う。
 
 三方向を階段型の座席に囲まれた舞台。ファーストシーンは、大きな民家の広い座敷で、古そうなコタツやソファや椅子がそこかしこにあり、逆さにしたビールケースの上に座布団などが載せてあったりし、大勢の人が集まれるようになっている。が、奥の障子は破れ放題で、その向こうには暗闇が広がっているの。
 家のあるじ添田(宇畑稔)が、帰ろうとするハタヤマ(竪山隼汰)を必死に引き止めている。どうやら添田の息子学(白川大)がイノシシに襲われたところをハタヤマが助けたので、添田はお礼のため妻真佐子(上村正子)の手料理(パエリア)をご馳走したい。でも、料理はなかなかできず、ハタヤマはその場が居心地悪そうで、結局帰ってしまう。添田は妻に対して怒りを露わにして殴りかかり、その場にいるみんなに止められる。
 ベクトルがあちこちに向かう、それぞれの勝手な思惑が匂う会話は、いかにも岩松節なんだけれども、ゴールドシアターの人たちは、「微妙」な演技ができないので、ストレートにセリフを相手にぶつけるの。そして演技なのかナマの自分なのか境界線のわからない強烈な存在感があって。これが意外にも岩松節をくっきりとわかりやすくし、普段の岩松演劇ならこっそり練りこまれているだろう情報が、どんどん浮かび上がってくる。ここは福島の原発事故による避難区域だった場所で、避難指示が解除され、村の再建のため、人々が帰ってきている。でも、家は荒れ果て、イノシシが徘徊し、線路は寸断されたまま。戻ってきている人々はほとんどが老人で、子供の姿はない。励ましあったり、喧嘩したりしながら、獣を追い払い、線路を修復して鉄道を再建したいと思っていて、自ら道具を手に、毎日線路を直しているの。そしてハタヤマだけが、立場の違う人間で、東電の社員。福島の復興本社に、東京から派遣されている若者なの。
 こんなふうに設定がすぐ腑に落ちる岩松戯曲が、これまであったかしら? 今回だって決して親切な台本ではないと思うのに、見えてくるのよ。ゴールドシアターの役者の演技のおかげで。

 それからは次々に一見繋がらないシーンがどんどん繰り出されていく。でも一つ一つが吸引力に富んでいて、繋がらなくてものめりこんでしまう。丘の上(階段の上)の樹のところに突然現れる若い男(内田健司)は、恋人が電車に乗ってやってくるのを待って、丘の上から線路を見張っている。線路は寸断されて電車が走ることはないのに。そして久しぶりに聴いた内田健司の叙情的なセリフに、酔ったことといったら!あの名作『リチャード二世』のリチャードのときより更にパワーアップして、マダムをなぎ倒したよ。素晴らしい!
 女たちが東京へ陳情に行った帰りの電車内のシーンの会話の可笑しさ。東京からやってきた、恋人を探す若い女ミドリ(佐藤蛍)の謎。線路工事に出かける男たちの前に立ちはだかる巨大なイノシシ(名演!)。最初に現れたきり、自殺したらしい添田の妻真佐子とハタヤマは、恋に落ちていたのだろうか? やがてハタヤマも失踪し、復興を前進させたい人たちの気持ちを受け止めるものは誰もいなくなってしまう。それでも日々、線路を直すことを続けながら悩む老人たち。一方で現実を夢が覆い始め、若い男はハタヤマのもう一つの姿(幻?)だったことがわかり、二人は入れ替わりながら、ミドリと真佐子の間を行き交う。
 ラストシーンの線路を挟んで咲く桜並木と、そこに集うにこやかな人たちの群れ。美しくて、この世のものとは思えない。
 多分、この世のものじゃないのよ。
  
 正直な話、全てをクリアに理解したかといえば、全然そうじゃない。スジとか辻褄みたいなものは途中から理解の外になったけれど、それよりも心の底に確かに降りてくる、生きていくことの切なさや哀しさや愛おしさや力強さの方に、身を任せた。理解の糸より、長い糸があって、マダムの心の深いところまで降りてきたの。泣きそうだった。
 真実に触れると、泣きたくなる。
 
 ああ、全然説明できてないね。スミマセン。
 あのインサイドシアターの結界の内側には、蜷川御大が育んだ演劇への愛が充満してたわ。
 次々と繰り出される場面の舞台美術が素晴らしく、一瞬たりとてタイミングを外さない照明が美しく、観客の気持ちを絶対に切らさない密やかで素早い転換が見事で。その舞台の運びのありようも、それから勿論ゴールドシアターとネクストシアターのメンバーもみんな、蜷川御大が育んだもので、それがあったから、岩松了はこれまで行けなかったところまで、辿り着いたのね。
 
 今日はここまで。その2で、岩松作品について、もう少し考えなきゃ。

進化した『デス・ノート』

 今月の、好きな役者の芝居、最後を飾る。9月16日(土)マチネ、新国立中劇場。

『デス・ノート THE MUSICAL』
原作「DEATH NOTE」
音楽/フランク・ワイルドホーン 演出/栗山民也
歌詞/ジャック・マーフィー 脚本/アイヴァン・メンチェル
出演 浦井健治 小池徹平 唯月ふうか 髙橋果鈴 濱田めぐみ
   石井一孝 別所哲也 ほか

 
 初演から2年。
 もとのお話にそれほど深みはないわけなので、めっちゃ感動、とはならないのだけれど、それでも色々と進化して、洗練されていたので、感心したの。
 
 浦井健治の夜神月も、小池徹平のLも、すごく上手くなっていた。初演の時は、もっと一本調子だったのが、浦井ライトは、だんだん邪悪になっていく変化が表情や声に細かく現れていたし。小池Lは、以前は猫背のまま歌うのが苦しそうだったんだけど、いまやあの猫背があたりまえになったのかしら。歌の安定度、抜群。
 キャストも、死神リュークは吉田鋼太郎から石井一孝に、ライトの父が鹿賀丈史から別所哲也に代わって、全体のバランスが良くなったね。吉田リュークはどうしたって舞台全体をさらっていてしまう感があった。石井リュークも基本的に同じ演技だったんだけど、芝居全体の中に溶け込んでいた。演出が全体を修正できたのだと思う。
 更に、アンサンブルも上手くなって、歌に厚みが出ていた。マダムはプログラムを買わないので、細かい配役の変化はよくわからないけど、メンバーも変わり、人数も増えたのかしら。ライトの父を囲む刑事たちも、グレードアップしてたの。
 なので、このお話が持ちうる限りの厚みが加わって、なかなか良作に育ってた。惜しいのは、唯一つ、衣装ね。死神の衣装のデザインは素敵なのだけれど、夜神月を含む若者の服が、ダサいの。妹も相変わらず、変な組み合わせの衣装で、かわいそうだし。今時、その辺を歩いている若者の方がよっぽどおしゃれ。渋谷のスクランブル交差点でライトとミサミサが出会うところなんか、もっとスタイリッシュになってもいい場面なのに、若者たちが垢抜けないので、渋谷らしくない。それからミサミサのコンサートシーンだって、衣装次第でもっともっとカッコよくできて、見せ場の一つになるのに。
 衣装問題さえクリアできたら、このミュージカルは、傑作まではいかないまでも佳作として残っていくことができるよ!主役クラスの顔ぶれが変わったとしても。
 
 そう。マダムは今回2列目という良席だったので、かぶりつきで浦井ライトの演技を堪能した。どんどん変わっていく表情や、いい声や、歌の演技力をたっぷり味わって、すごく幸せだったの。そして「でも、もうこれが最後だな」と思ったのよ。高校生を演じるのは。
 童顔だし、声が若いし、演技力でやれてしまうんだけれども、もう少年の体型じゃないんだもん。
 これは文句ではなくてね、そろそろ高校生の役を卒業し、大人の男の役をやってもいいんじゃないか、と思ったわけなの。わかるでしょう?
 『デスノート』というミュージカルが、マダムの予想に反して佳作に育ってきているので、再再演とかがあるかもしれない、と感じたの。でもそれは、次の人に手渡して、もっと違う、大人の役に進んでいってほしい。どんな役だって、できるもの。
 
小柄な小池徹平のほうは、あと5年くらいLが出来そうな感じだったけどね。

『クライムズ オブ ザ ハート 心の罪』を考える

 好きな役者さんの舞台が次々。9月9日(土)マチネ、シアタートラム。

『クライムズ オブ ザ ハート 心の罪』
作/ベス・ヘンリー 翻訳/浦辺千鶴 
演出/小川絵梨子 
出演 安田成美 那須佐代子 伊勢佳世 渚あき
   斉藤直樹 岡本健一

 
 観に行って1週間以上経つけれど、レビューをなかなか書き出せなかった。
 というのも、興味深く観たんだけれど、腑に落ちない気持ちがマダムを覆っていたから。
 一方で、この顔ぶれでウェルメイドなのに、土曜のマチネでも空席が目立つ状態だったの。そこへもってきて、さらに内容に対して疑問を呈すれば、公演の邪魔をしてしまう気がして。もちろん、マダムの個人的な感想なんか、さしたる影響ないよ、と言われればその通りなんだけれど。
 
 アメリカ南部の田舎町の、三人姉妹のお話。
 女が、銃を構えて、誰かに発砲する。が、それが誰なのかは、少しの間伏せられて、舞台上の家のセットに、疲れ果てた顔の長女レニー(那須佐代子)がヨロヨロと帰ってくるところから本当のお話が始まる。レニーは、入院中の祖父の見舞いに行って、帰ってきたところで、更に三女ベイブ(伊勢佳世)が引き起こした事件を解決するため、家を離れている次女メグ(安田成美)の帰りを待っている。

 最初の方の会話の中ですぐに、ベイブが夫をピストルで撃ってしまったことがわかって、ああ、さっきの出だしのシーンはそういうことか、と思うんだけど、謎を引っ張ることなく解明しちゃったので、ちょっと肩透かしだったの。謎でもなんでもなかったんだな、って。
 出だしのシーンは、台本に最初からあるのかしら? あるよね。
 
 それから美しい次女が帰ってきて、更に保釈されたベイブも帰ってきて、三人姉妹が揃い、そこへ隣に住む従姉妹のチック(渚あき)やベイブの弁護士バーネット(岡本健一)やメグの元彼ドク(斉藤直樹)が次々やってくる。会話の中から、三人姉妹の境遇や、今抱えている問題がだんだん浮かび上がってくるの。
 父親は、姉妹が小さい頃に失踪し、母親は自殺。姉妹は祖父母の住む今の家に引き取られたこと。今は、年老いた祖父と長女のレニーだけがこの家に住み、レニーは恋人もなく、仕事と祖父の介護で疲れ果てていること。美人のメグは歌手をしているという話だったが、とっくにやめていて、事務員として働いていること。ベイブの夫は上院議員だけれど、DV男であること。が、ベイブが夫を撃ったのは、それ以外に重大な理由があること。
 
 彼女たちの抱える問題はそれぞれ深刻なんだけれど、行き交う会話の中では思わず笑ってしまうことも多くて、コメディタッチな芝居。レニーが誰にも祝ってもらえない誕生日を自分で祝おうとしたり、ベイブが自殺を図ろうとしても首を吊るための縄をかけた梁が折れたり、深刻と滑稽が同居している物語なの。丁寧に演出されている、とも感じたわ。
 そうなんだけど、いろいろよくわからないことがあって、わからないまま芝居が終わってしまったの。たとえば、家の(セットの)構造がどうしても理解できなかったのよ。玄関らしい場所があって、レニーが鍵を開けるシーンがあるにもかかわらず、全然違う場所から他人が出入りしたり、窓があるのかないのか、外を歩いてる人とアイコンタクトがあったりするの。その法則が最後まで腑に落ちず、気になるのが煩わしかった。
 いつの時代のお話なのかも、なかなかわからなくて。セットや衣装などからは判断できず、唯一のヒントはダイヤル式の電話。そこから、1970〜80年代かなあ、と推測した。それと、アメリカ南部の田舎町らしいことはセリフでわかるのだけれど、セリフでわかる以上の空気感、圧迫感、差別感などは流れてこない。ベイブが黒人の男の子とセックスしてしまったことが、致命的な醜聞になるんだろうとは思うんだけれども。思うけれども、それがどれくらいの重大さなのか、よくわからないんだよね。ベイブの感じている深刻さはともかく、写真を見せられた弁護士や、姉のメグの反応はなんだか鈍いし。
 もともとこっちには1980年頃のアメリカ南部について予備知識がなさすぎるから。
 日本の観客はみんなこんなもんだと思うけど。
 
 いちばんわからないのは、題名かも。全然違う邦題をつけられたら、よかったのに。

 わからなすぎたので、新聞の批評を読んでみたら、ベイブの相手の黒人の男の子の年齢設定、もとの本では15歳となっているところを20歳に変更したのはどうしてか、と書かれていて。それで、ますますわからないことが増えてしまったのだった。
 さらに、気になったのは、亡くなった中嶋しゅうが、メグの元彼の役をやるつもりだったのか?ということで、もはや芝居の出来とは何の関係もないよね。すみません。
 
 期待していた岡本健一の演技の稲妻は不発だった。本筋を背負う役ではなかったからね。でも彼は役の大きさに関係なく、なりきってしまう。今回の、切れ味の悪そうな人の良い新米弁護士も、上手いなあと思ったし。
 イキウメを退団して全力活躍中の伊勢佳世が、役の幅をどんどん広げていくのには感心しちゃった。それがいちばんの収穫だったわ。

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