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芝居レビュー

歌舞伎の底力を見た 新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』

 今年の舞台、見納めにふさわしい演目だ。12月21日(土)昼夜通し、新橋演舞場。
 
新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』
原作/宮崎駿
脚本/丹羽圭子・戸部和久 協力/スタジオジブリ
演出/G2
出演
ナウシカ 尾上菊之助   クシャナ 中村七之助   ユパ   尾上松也
ミラルバ 坂東巳之助   アスベル 尾上右近    クロトワ 片岡亀蔵
チャルカ 中村錦之助   ケチャ  中村米吉    城ババ  市村萬次郎
ミト   市村橘太郎   セルム  中村歌昇    道化   中村種之助
ヴ王   中村歌六    第三皇子 中村吉之丞   マニ族僧正 中村又五郎
族長ジル 河原崎権十郎  ほか多数  子役たちなど 
 
昼の部(午前十一時開演)
序幕  青き衣の者、金色の野に立つ
二幕目 悪魔の法の復活
三幕目 白き魔女、地の道を征く

夜の部(午後四時三十分開演)
四幕目 大海嘯
五幕目 巨神兵の覚醒
六幕目 シュワの墓所の秘密
 
 
 『風の谷のナウシカ』といえば映画でしか知らなくて、原作漫画を読破した人からは、「アニメ映画では全く物語の深さを伝えられていない」と常々聞かされてた。
 今回、原作を読んではいかなかったんだけど、その言葉に頷くばかり。そしてこの物語を歌舞伎にしようと思い立った尾上菊之助の慧眼に感心するし、また、数々の申し出を却下してきたであろう宮崎駿が、歌舞伎化にだけOKを出したこともまた、慧眼だなあと思ったの。
 歌舞伎のことを偉そうに語れるほどの知識はないんだけど、敢えて言っちゃう。
 こりゃあ、歴史に残る新作歌舞伎の誕生だ。
 
 あらすじは説明しないね。無理だし。
 
 物語は広くて深い。登場人物は濃くて多彩。だけど、歌舞伎には、それを全て表現する才能と、長年培ってきた技術の厚みがあって、繰り出される技に、驚きっぱなしだったし、こんなに楽しい観劇は滅多にない。
 はっきり言って、ディズニーランドなんか比べ物にならないくらい、楽しかった。ワクワクとドキドキと、じーんとなるところと。
 
 ナウシカの着ていた服が青い衣に変化するところは、引き抜きによる早替わりの技。メーヴェに乗って飛ぶところは、宙乗り。王蟲が培養されている工場(生物兵器工場)を破壊する場面の殺陣は、本水(大量の水を使った大立ち回り)。名乗りや見栄が、いちいちぴったり決まる。大蛇みたいな長虫が飛び交う場面では、黒子さんたち大活躍。虫や獣と心が通うシーンでは、虫の精や精霊に子役を使い、で表現する。音楽は(久石譲作曲のテーマを含め)全て三味線や胡弓の生演奏で流れ、抽象的なシーンでは義太夫を使って、それがまたハマっている。ラストのシュワの墓所の戦いは、なんと連獅子の舞で表現されてて・・・見たこともない大人数の迫力の連獅子だったわ。
 かと思えば、しっかりプロジェクションマッピングも取り入れていて、古来の技術と溶け合ってて見事なの。物語の歴史や、土地の名前などは、幕に漢字(とフリガナ)を映し出してわかりやすかったし、舞台全体に降りそそぐ胞子や、戦いで炎に包まれるところは、プロジェクションマッピングと照明が、これまでの歌舞伎では見たことのない世界を作り出してた。

 
 役者も、あっけにとられるほど、ナウシカの世界にぴったりで、素敵だった。キツネリスのテトを肩に乗せた菊之助は、完璧なナウシカだったし、七之助のクシャナはあまりにも格好よくて惚れちまったし、ユパ様の松也もアスベルの右近も殺陣のキレ、ハンパなかった。なんていうか・・・ホントにみんな、なんて高い技術と身体能力なの。口をポカンと開けて、見入ってしまったわ。
 そして、見せ場の連続に夢中になっているうちに、物語の大きなテーマにちゃんと誘われる…それが「生きねば」ということ。どんなに人間が追い詰められ、厳しい条件下で生きることになっても、生きること、生き延びることだ、と。そのテーマが観客にしっかり手渡される。
 見事だったなあ。
 美しさ、楽しさ、わかりやすさ、かっこよさ、深さ。全部、あったのよ。
 
 開幕して間もなく、菊之助が怪我をして、夜の部が中止になったこともあり、演出はその前後で変わった部分があるらしい。たぶん、ナウシカの殺陣とかは減ったのかもしれない。でも何も気になるところはなく、堪能した。
 これが今年の舞台、見納め。満足だ〜。

楽しくてやがて悲しき『モジョ ミキボー』

 休日出勤の代休が取れ、行けることになって、飛んでった。12月20日(金)マチネ、シアタートラム。
 
『モジョ ミキボー』
脚本/オーウェン・マカファーティ 翻訳/平川大作
演出/鵜山仁
出演 浅野雅博 石橋徹郎

 初演はなんと9年前なのだそう。今回が再再演なんだけど、やっと観られた!よかったなあ。楽日の前日に滑り込み。
 
 1970年、北アイルランドはベルファスト。
 モジョ(浅野雅博)とミキボー(石橋徹郎)は、橋の向こうとこっちとに分かれて住む少年だが、ふとしたことから知り合って、仲良くなり、一緒に遊ぶようになる。映画館に潜り込み「明日に向かって撃て」を一緒に見て、二人はすっかりブッチとサンダンスにかぶれて、秘密基地を作って、心はもういっぱしのギャング。ミキボーにからんでくるチンピラ、ファックフェイスと決着をつける計画を立ててみたり、カッコつけてタバコを吸って咳き込んでみたり、ブッチとサンダンスみたいに川に飛び込んでみたり、オーストラリアへの逃亡を図って南町へのバスに乗ってみたり。
 でもある日、紛争が激化したベルファストの街で、テロによる爆発が起き、ミキボーの父親が巻き込まれて死ぬ。大人たちの諍いは子供にも波及して、ミキボーは、いつものように遊びに来たモジョを殴ってしまう。楽しかった日々は夢と消えて、二人は橋の向こうとこっちとに引き裂かれてしまうのだった。
 というお話。
 
 なんだけど。
 役者は二人だけ。なので、モジョ役の浅野雅博は、ナレーターやミキボーの母やミキボーの父やバスの運転手やせんずりベイビー(チンピラその2)などを兼ねる。ミキボー役の石橋徹郎は、モジョの母やモジョの父や街娼やファックフェイス(チンピラその1)などを兼ねる。つまり必要な役を二人で全部やる、という大変なめまぐるしさが、この芝居のメッチャ楽しいところなの。
 当然着替えてる暇などないので、たった今モジョだった浅野雅博がエプロンを巻けばミキボーの母になり、帽子をかぶればミキボーの父。たった今ミキボーだった石橋徹郎はジャケットを着ればモジョの父で、エプロンすればモジョの母。一瞬で役が切り替わり、子供の世界とは別の、殺伐とした大人のベルファストの様子をちゃんと描き出すの。貧しくてその日暮らしで、男たちは半ば人生を投げてて酒飲んでるか浮気してる。女たちは反発して家を出ようとしたり、現実を見ないようにして生活してる。あくまで子供の目から見える大人の世界なんだけど、完全にすさんでる。その様子が、二人の役者の早替わりの上手さに乗って、実に面白く描かれていく。手法が楽しいので、すさんだ場面も辛さを忘れて見ちゃうの。
 特に、モジョとミキボーがチンピラ二人と喧嘩するシーンは、抱腹絶倒。だって、二人しかいないのに、四人のガンつけ合いと殴り合い(というには幼い喧嘩だけど)を演じるんだよ? そのシーンに至るまでに、モジョとミキボーとファックフェイスとせんずりベイビーの特徴をよ〜く見せておいて、観客との信頼関係を築いておかないと、この喧嘩のシーンは絶対に伝わらない。二人しか役者がいなくても四人の喧嘩のシーンができちゃう演劇というものの面白さ。最高。

 途中、二人が映画館で「明日に向かって撃て」を観るシーンでは、スクリーンに映画を映すんだけど、もちろん本物が使えるわけもないので、「明日に向かって撃て」風の映像を作って映してる。それがまた、抱腹絶倒。ポール・ニューマンの代わりに石橋徹郎、ロバート・レッドフォードの代わりに浅野雅博出演で、まあ成りきってること! 「雨にぬれても」がちょっと流れ、女装した浅野雅博(キャサリン・ロスの代わり)を乗せて石橋徹郎が自転車を漕いで二人乗りする。キャサリン・ロスが着ていた白いワンピースの裾が風を受けて巻き上がってる様子まで、ちゃんと似せてて、笑いを通り越して、感心した。この映像には演出家も映ってる。遊んでるなあ鵜山仁。
 で、この映像が二人の役者で演じられてるのは、全然オッケーなのよ。だって、これはモジョとミキボーが夢中になって見てて、完全に一体化してる映像な訳だから。(もしかして台本で指定があるのかしら? だったら、台本 good job !)
 
 鵜山演出はやりたい放題に遊び心溢れてて、いちいち楽しい。セットは適宜置かれた壁とドアとパイプ椅子で、上手側がモジョの家で、下手側がミキボーの家という規則がある程度で、あとは二人が演技する場所がその場所。舞台奥や、舞台の隅にはミニチュアの家々が置かれてて、街の遠景とするお約束があり、二人はそこを駆け回る。モジョが父親に遊んでもらうシーンになると、天井からブランコが降りてきて、モジョの座ったブランコが客席の上まで振れてくる(迫力!)。ダンスホールのシーンではちゃんとミラーボールが回るし、かと思えばバスの運転手のハンドルは車のタイヤホイールカバーだったりする。そして時折当てられるオレンジと緑の照明。オレンジはプロテスタント、緑はカトリックを表す色なんだよね(そこは『ビッグ・フェラー』の時に学んだ知識)。
 
 浅野雅博と石橋徹郎は文学座の中堅の役者さんで、新国立の鵜山版ヘンリーシリーズに欠かせない人たちだったし、ほかにも数々の舞台で見ていて手練の役者であることは百も承知だったのだけれど、やはり役の大きさが引き出す彼らの魅力は、これまでにない輝きを放ってた。セリフのトーンと体の向きを変えるだけで、違う役になったことを瞬時に観客にわからせる力って、すごい。
 個人的には、二人がチンピラから必死に走って逃げるところで、モジョが何度も転んで置いてかれるシーンが好き。モジョのほうが、転んだ状態で後ろへどんどん下がっていくことで、置いてかれる状態を表現してるんだけど、浅野雅博、上手すぎる。あのシーンだけでももう一度見る価値があるよー。説明する言葉が及ばないのがもどかしい! 再々再演を希望します。
 
 開演前にもらった観劇の手引きに、アイルランドがなぜ南北に分かれ、プロテスタントとカトリックがいがみ合うようになったかが書かれていて、発端はヘンリー八世が、イギリス国教会を作ったと同時にアイルランドに侵攻したことだったと知る。唖然。紛争の歴史の深さに、ため息が出る。
 モジョはプロテスタントの居住区に住み、ミキボーはカトリックの居住区に住んでいる。二人は友達になり、一緒に「明日に向かって撃て」に夢中になり、ごっこ遊びに興じ、それぞれの家庭の事情をかいま見る。そして宗教の違いから来る大人たちの紛争が、二人の仲を裂き、大人になって街ですれ違っても、話しかけない仲になってしまうの。遊ぶ二人の様子が楽しければ楽しいほど、大人になった二人のすれ違いは苦くて苦くて、悲しい。なんて切ない後味だろう。
 楽しくてやがて悲しき・・・という芝居が、大好きだな。

『シェイクスピアの言葉を泳ぐ』の中を泳ぐ

 初めての道は遠く感じるものだ。12月18日(水)マチネ、無名塾稽古場(仲代劇堂)。
 
『シェイクスピアの言葉を泳ぐ』〜無名塾とシェイクスピア〜
作/シェイクスピア 訳/小田島雄志 ピアノ演奏/鷹野喜充
構成・演出/山崎清介
出演 中山研 本郷弦 篠山美咲 井手麻渡 鷹野梨恵子
 
 仲代達矢主宰の無名塾、発足してたぶん40年くらい?35年くらい?
 俳優座をやめた仲代達矢が奥さんの隆巴と作った、俳優養成所ね。ここから輩出した役者といえば、隆大介(最近見かけない)とか若村麻由美とか益岡徹とか。最近では真木よう子とか。そして何と言っても役所広司。役所広司の芸名は、仲代達矢がつけたらしい。市役所をやめて養成所に来たから、役所って名前になったのは、有名な話。
 マダムは、ごく最初の頃の公演は観てるの。山本圭を主役に起用した『ハムレット』、仲代達矢の『マクベス』、そしてその二人が共演した『毒の華マンドラゴラ』。これが役所広司のデビュー作だった。身も心も軽々と飛び回ってて楽しそうだった。よく憶えてる。
 この初期のラインナップを見ても、仲代達矢のシェイクスピアに対する傾倒はわかるよね。
 その無名塾の塾生たちによる稽古場公演に行ってきた。
 構成・演出は「子供のためのシェイクスピア」の主宰だった山崎清介。「子供のためのシェイクスピア」はこの夏の公演が最後になってしまって、マダムはとても残念なの。山崎清介の演出でシェイクスピアを観たい。その気持ちで、行ってみた。
 
 稽古場には、テーブル5つと椅子が5脚。黒ずくめの衣装(というか普段着)の役者が5人。
 
 公演は、芝居というよりリーディングなのだけれど、あらゆるシェイクスピアを演出してきた山崎清介だけあって、一筋縄ではいかないものだった。ハムレットとロミジュリとマクベスとリチャード三世の4作品が細切れに現れて進んでいくの。なんの合図もなく別作品の別シーンにどんどん切り替わっていくので、この4作品を相当知っていないと、全然ついていけないと思う。
 一見、なんの脈絡もなくシーンが積み重なっていくんだけど、聞いていくうちに、螺旋のように4作品を巡っていき、その渦巻きが一つ所に集約していくのが感じられて、ドキドキした。
 つまり、それぞれ関係のない4作品なんだけど、シェイクスピアの芝居が共通して持っているリズムがあって、それがラストへ向かうとどんどん共鳴していくような感じ。
 子供のためのシェイクスピアのときに多用していた、一人のセリフを何人もで分けて言う技も使われていた。部分的にはみんなで一斉に唱和したり。これって、シェイクスピアの長い独白を観客に理解してもらうのに、すごく有効なんだよね。独白は時に状況を説明し、時に自分を責め、時に言い訳をし、時に自分をいたわり、励ます。それを何人もの役者で割ってしゃべられると、言葉の意味と心理とがパッとわかる。
 逆に言うと、これを一人でやれないとシェイクスピアの主役はできない、ということなのね。
 
 リーディングで、台本を手にしているとはいえ、5人の役者たちは椅子から立ち上がり、前方のスペースに出てきては、戦ったり倒れたり見つめあって恋を囁いたりする。部分的に演技あり、という感じ。皆、よく訓練した滑舌のよさが心地よかった。もっと、猛烈なスピードや超絶ゆっくりなところがあったら、よかったな。様々な役のセリフを読むんだけど、演技の色合いが単一になっていってしまいがち。一人で何役もやるって大変なことね。
 
 シェイクスピアを観たというより、山崎清介の頭の中を見た気がした。相当なシェイクスピアおたくだ(褒め言葉です)。

東京グローブ座で『正しいオトナたち』を観ることの意味

 この劇場に行くのは、20年ぶりくらいかしら。12月14日(土)ソワレ、東京グローブ座。
 
『正しいオトナたち』
作/ヤスミナ・レザ 翻訳/岩切正一郎
演出/上村聡史
出演 真矢ミキ 岡本健一 中嶋朋子 近藤芳正
 
 「ローレンス・オリヴィエ賞、トニー賞など、世界的な演劇賞を総なめにしたヤスミナ・レザの最高傑作を装いも新たに上演致します」とチラシに謳われていて、まあ、チラシの宣伝文句など話半分にしか取り合わないのだけれど、それにしても、どうなのかな、と思ったのだった。
 退屈だった、と一言で済ませてしまうにはちょっと引っかかるのだけれど、まあ、正直退屈だった。手練のメンバーを揃えての会話劇なのに退屈というのでは、演出家の責任は大きいよ。この脚本のいったいどこが面白くて上演に至ったのか、どうも謎だ。
 「子供の喧嘩で、けがを負わせた方の親が、けがした方の家を訪ねる」設定から始まるんだけど、ことの大小はあれど親なら似たような経験がある設定。だけど、最初の態度からして、日本人のメンタリティとは全く違う。日本人ならまず最初に「このたびは息子がお宅のお子さんにけがをさせてしまい、本当に申し訳ありません」というところから始まるだろう。本音がいろいろあったとしても。その謝り方はなんだ、とか、なんだとはなんだ、とか。でもそこはフランス人、絶対に謝らない。謝るところから始まらない。
 そのメンタリティの違う話を、メンタリティの違う観客に見てもらうわけなので、ハードルが高い。これはフランス人の話なんですよ、ということをもっとあちこちにしっかりと散りばめて根を張らせておかないと、登場人物たちの個々の性格とか発言の面白さとかまで味わう領域に達しないの。いろいろと理解しないまま、腑に落ちないままで、話は進み、終わった・・・。

 ただ、岡本ファンのマダムにとっては、『終夜』に引き続き、こういう「身勝手に生きて疲れの見える中年男」役を引き受けていることが、感慨深かった。50代に突入して、年代にふさわしい役をやっていきますよ、との態度表明と受け止めた。模索していってください、ちゃんと観ていくからね。


 
 そして、劇場について、触れなければ。このせせこましい設定の会話劇を、東京グローブ座で上演したのが間違いだ、とも思ったの、マダムは。もっともっと閉じた空間にふさわしい芝居だよ。
 東京グローブ座は今から30年くらい前に作られた劇場で、そもそも「シェイクスピアを上演するため」だけを目的に作られた建物。グローブ座っていうのは、シェイクスピアが活躍していた劇場の名前で、東京グローブ座も、それに近い構造で作ってあるの。違うのは屋根のあるなしだけ。規模や、舞台を取り囲むような円形の構造はそっくりなの。(ただし、当時の1階は平土間スタンディング席だったので、その辺りはちょっと違うんだけど。)
 東京グローブ座ができて、マダムは何本かのシェイクスピアを観た。あらゆる劇団がここでシェイクスピアを上演していたのだけど、マダムが観たのはシェイクスピアシアターの上演で、吉田鋼太郎のハムレットとリア王を観たのだった。そのときのリア王は、今でも思い出すと心震える。
 そのときには気づかなかったのだけど、今回ヤスミナ・レザをこの劇場で観てみて、はっきりわかったの。東京グローブ座はシェイクスピアを上演するための劇場なんだ、と。
 規模は小さくても、舞台が客席に向かって大きく開かれている構造だからだ。役者が役者同士向き合って会話するのではなく、客席の方を向いて、恋や人生や運命について大声で語りかける、そういう芝居のための構造なの、この劇場は!
 だから、このあいだジャニーズ事務所がここで『ハムレット』を上演したのは、ものすごく正しい! ただ、そういうとき、ファンクラブ以外の純粋にシェイクスピア好きの人間にもチケットが入手できるようにしてくれたら、ありがたいのですが・・・。
 急に丁寧語になって、終わるのはなんだけど、そういうことです。

『タージマハルの衛兵』について考える

 少し久しぶりの観劇。12月11日(水)マチネ、新国立劇場小劇場。
 
『タージマハルの衛兵』
作/ラジヴ・ジョセフ 翻訳/小田島創志
演出/小川絵梨子
出演 成河 亀田佳明
 
 ネタバレします。そうしないと、ひと言も書けない。

 
 1648年、ムガル帝国。幼馴染のフマーユーン(成河)とバーブル(亀田佳明)が衛兵として立っているのは、完成間近のタージマハル(王宮)建設現場。
 皇帝の意に背いた者には恐ろしい刑罰が何種類も決まっている。衛兵は、この世で一番美しいタージマハルを振り返って見てはいけないし、口をきくことすら禁じられている。真面目で臆病なフマーユーンは、黙って衛兵としての仕事をまっとうしようとするけれど、根が自由で呑気なバーブルは、思いついたことを口にせずにはいられない。ハラハラしつつフマーユーンもおしゃべりの相手をしてしまうのだ。そして二人は、完成した、夜明けの光に燦然と輝くタージマハルを、結局振り返って見てしまう。二人はその美しさに茫然とする。
 まばゆい光が過ぎ去った後二人が残された場所は、地下室のような部屋。皇帝は美しいタージマハルを大変気に入り、同じように美しい物を二度と作れないよう、建築家をはじめ建設に参加した職人や人足たち二万人の両手を斬り落とせ、と命じた。なんとその役を仰せつかったのが、フマーユーンとバーブルだったのだ。
 悪夢のような時間が過ぎて気がついたとき、二人は、四万本の斬り落とされた手を積み上げた籠のそばに立っていて、あたりは血の海。斬り落とし続けたバーブルは、刀を握った手が開かなくなり、傷口を血止めのために焼き続けたフマーユーンは、煙が目に入りすぎて目が開かなくなっていた。前が見えないフマーユーンと、刀と一体化したバーブルは、それでも助け合って目を洗い、手を揉みほぐして、なんとか普通の状態に戻る。我に返って、あたりのひどい様子から、悪夢を思い出してしまう二人。バーブルは罪の意識にとらわれるけれど、フマーユーンは「何も考えるな。俺たちは仕事をしただけなんだ」と言って、必死に忘れようと努める。二人は血の海の床を掃除し、体を洗って服を着替え、再び衛兵として門の前に立つ。
 「大役を果たした」褒美として二人は、皇帝のハーレムの衛兵に任ぜられる。とんでもない出世だ。皇帝の近くで任務に就くことを真面目に想像するフマーユーンに対し、バーブルは、皇帝に近づけるならば、皇帝を殺して森へ逃げよう、と言うのだった。
 バーブルが本気かどうかを確かめもせず、怖くなったフマーユーンは、バーブルの発言を父親に白状してしまい、バーブルは捕まって監獄に入れられる。そしてフマーユーンは、とうとう、友人の手を斬り落とせ、と命じられ、刀を持って、バーブルのいる監獄に入っていく・・・。
 手を斬り落とされたバーブルは死ぬ。
 フマーユーンはひとりで今夜も衛兵として立つ。かつてバーブルが立っていた場所を見遣って、フマーユーンは幻を見る。それは子供の頃、ふたりで森に行き、木の上に秘密基地を作って遊んだときのこと。だが、バーブルの姿は幻に過ぎず、フマーユーンはひとりで夜に立ち尽くす。
 

 というような物語。
 同じ境遇を味わいながら、奴隷のような立場にがんじがらめで小賢しいフマーユーンと、ネアカで規範意識から自由だが頭は弱いバーブルの、対照的な態度。ふたりの違いが時間とともにどんどん転がるように引き裂かれていき、友情はとんでもない結末に至る。本がとても良くできているし、何より役者が本領発揮してたの。実力あるふたりだからこそ演れる、中身の濃い物語。衛兵の衣装が、派手ではないけど美しくて、役者を引き立てている。
 成河って、あまりにも上手くて頭のいい役者なので、演出が至らなかったり共演者が下手だったりすると、ひとりで芝居を成立させちゃうのね。それは彼が突出してるのでしょうがないのかもしれないけど、芝居を観に行ったはずが、彼を見に行ったようになってしまうことが時折起こるの。もちろん成河のせいじゃないんだよ。要は、彼の実力にふさわしい本と演出と共演者が必要だ、ってことだ。
 今回はすぐに彼が成河だってことを忘れて、不器用でチキンな衛兵としてずっと見られたの。それがとてもよかった。
 共演が亀田佳明だってことも幸いした。成河との相性バッチリ。バーブルの、頭は働かないけどネアカで温かくて純粋なところを、上手く表現できていて、役にぴったりだった。これまで見た彼の舞台で、マダムは一番好き。
 
 だけど、せっかく役者がいいのに、芝居全体としていま一歩、弾まない。それってさ・・・演出がジメッとしててユーモアが足りなくて、緩急がないからなんだよ。畳み掛ける、とかがないの。いつも同じテンポ。本当はもっともっと笑う芝居のはず。笑ってなきゃ、見てられない芝居のはず。
 それと空間(セット)の使い方が下手。はっきり言って。
 マダムはグロいのが苦手なので、床一面の血みどろが出てきた時には参ったなあと思ったけど、小川演出がリアリティを追求する気なら仕方ないし、我慢して見てたの。だけど、あの血みどろのせいで、客席の空気はすっかり冷え込み、笑うセリフも笑いが起こらなくなった。役者の動きも床のぬるぬるのせいで必要以上に緩慢になって、テンポが失われたし、掃除シーンでいつまでも拭かれない一画があるのが意味ありげで(実際は意味はなかった)気になったり、水で洗うと顔の血は落ちて真っ白になるのに、手の赤みが落ちないのが気になったりして、気が散ってしまった。二人の面白い会話、ずいぶん聞き逃したと思う。
 芝居の邪魔をするリアリティなんて、クソリアリズムだ。
 それにね、リアリティの追求に根性が足りないよ。だって、一番肝心の、友人の腕を斬り落とすところでは、血が一滴も出ないんだもん。これには逆に驚いた。そんなことってある?床の血みどろより、そっちの方が大事でしょ?そこはなんか、ひよったのかな。床の血みどろはこけおどしだったのか? その程度のこだわりなら、リアルなんてやめちゃえばよかったのに。演劇のリアリティは、いくらでも作り出せる。他に手があったはず。
 自分がグロいのが苦手だから、文句言ってるんじゃないの。グロくするだけで、何かを表現したつもりになってない? それは違うよね。その先の目的があるはずだよね。でもそれは全然理解できなかった。
 
 あと、いまどき、セットがゆるゆると動くのも、どうかと思う。ラストのフマーユーンが幻を見るところ、後ろから木の上の基地のセットがゆっくりゆっくりせり出してくるのを待ってる間に、立ちのぼってきそうだった詩が、立ち消えた。タイミングを逃しちゃダメなんだよ。
 演出っていうのは、戯曲から詩が立ちのぼってくる瞬間を、舞台上に表出させるためにあるものなので、なんか、凄く凄く残念だった。

劇団AUN公演『一尺四方の聖域』を観る

 初めての劇場に行った。11月16日(土)マチネ、CBGKシブゲキ‼︎
 
劇団AUN 第25回公演『一尺四方の聖域』
作・演出/市村直孝  音楽/村井邦彦
出演 吉田鋼太郎 溝端淳平 大塚明夫 黒沢ともよ 原慎一郎 橋本好弘
   北島善紀 星和利 坂田周子 千賀由紀子 悠木つかさ
   金子久美子 長尾歩 
松本こうせい 工藤晶子 沢海陽子 飛田修司
   谷畑聡 長谷川祐之 齋藤慎平 
伊藤大貴 佐々木絵里奈 
   山田隼平 松尾竜兵 橋倉靖彦 河村岳司 近藤陽子 
砂原一輝
   宮崎夢子 上田理咲子

 

 劇団初の音楽劇に挑戦するというので、もう、何が来ても付いていくよという気持ちで観に行ったの。
 そうしたら、本当に紛れもなく音楽劇だったので、やっぱり驚いた。いきなり登場人物ほぼ全員で「ふるさと」を大合唱するんだもん。
 この芝居は「ふるさと」で始まり「ふるさと」で終わるんだけれど、最後に聞いた「ふるさと」は、最初に聞いたものとは違って聞こえてくる。美しくて懐かしくて温かいのだけど、とても苦い。芝居を観た後では、ただ美しいとは思えなくなる。
 そういう芝居。

 
 舞台は、昭和33年。日本海に面する真泉港(舞鶴港のことと思われる)。シベリアに抑留され強制労働させられていた男達を載せた引揚げ船を、港の人々は「ふるさと」を歌って出迎える。けれど、その歌声を聴いてなぜか、帰国した白瀬二等兵(溝端淳平)は気を失う。
 戦後10年以上もの間シベリアで過酷な日々を暮らしてきた白瀬と野口(長谷川祐之)は、すぐに動ける体ではなくて、港にある引き揚げ援護局の病室に収容される。白瀬は耳鳴りや頭痛や幻聴に悩まされていて、完全なPTSD(今で言う)。
 援護局には、親切な岩本局長(吉田鋼太郎)や、大らかな春田医師(大塚明夫)、朗らかな看護婦のたみ(金子久美子)などがいて、二人の面倒をみてくれる。港町には帰らぬ夫や息子を今も待っている女たちと、それを温かく受け入れる人たちもいて、皆、引揚者に優しい。一方で、二人はソ連での生活が長かったため、共産主義に染まっているのではないかと、公安警察に見張られてもいた。特に、日本に生きている身寄りがない白瀬は、本当に白瀬悟なのか疑われ、幼馴染の美和(黒沢ともよ)が首実検に連れてこられる。
 美和は、彼が白瀬でないことにすぐ気がつくのだけれど、突然彼が「カチューシャの唄」を大声で歌い出したので思わず「間違いなくこの人は白瀬悟さんです」と証言してしまう。「カチューシャの唄」は美和と白瀬の思い出の唄だったのだ。
 
 そのあたりから、白瀬(本当は平井実)の回想が始まる。
 満州開拓団から徴兵され、終戦を迎えた平井(溝端淳平)は、仲間とともに、ソ連の進行から逃げて南下し、逃げ切ったかに思えたところで中国軍に囲まれる。そこで彼は、死を覚悟した本物の白瀬悟二等兵(原慎一郎)から、幼馴染からもらった手紙を預かる。戦闘に巻き込まれ、白瀬は死んでしまう。平井は、白瀬を含むたくさんの仲間を見捨てて、逃げおおせたのだけれど、結局ソ連軍に捕まって、シベリアへ連れて行かれ、収容所に入れられる。白瀬、と名乗ってしまったので、そのまま白瀬としてずっと生きることになった。
 収容所での飢えと寒さと虐待の記憶、それから仲間を見捨てた記憶とが、今も平井を苦しめる。
 
 それでも平井は、美和の温かさに触れて、本名を打ち明け、白瀬の最期について話して聞かせ、預かっていた手紙を美和に返す。自分を取りもどした平井に呼応するように、援護局の人々も封印していた辛い過去を打ち明けていく。春田医師は、かつて福岡の二日市保養所にいて、引揚者(強姦され妊娠した女たち)の堕胎に携わり、産まれたばかりの赤ん坊に手をかけたことを告白する。援護局の岩本局長は平井と同じ、シベリア抑留からの引揚者だった。いち早くソ連の支配者側に付いて、日本人を監督する側になって虐待していた張本人だったのだ。岩本局長はそのことが知れて、姿を消す。
 立ち直りつつある平井が、援護局を去る日、最後の引き揚げ船が入港する。出迎えの人々が港に集まり「ふるさと」を合唱する。
 という物語。
 
 
 「ふるさと」を始めとして、大正と昭和の唱歌がたくさん出てくる。「カチューシャの唄」「コロッケの唄」そして「月の砂漠」。
 特に、回想シーンの満州で、白瀬役の原慎一郎が歌う「月の砂漠」が圧巻。この歌の持っている幻想的なところと、広い広い場所に一人で立っている宇宙規模の孤独感が、押し寄せてきて、なぎ倒されるの。
 白瀬の歌声が忘れられず、PTSD気味の平井が「人はなぜ歌うんだろう?」とうわ言のように言うんだけれど、この「月の砂漠」の威力はトラウマになるのも納得させられる美しさと寂寥感があった。
 
 主演の溝端淳平がとてもよかった。死んで何かを守るほどの勇気はなく、逃げ回る以外の策を持たず、虐待にあっても恨むよりトラウマとして抱え込んでしまう、平凡な青年なんだけど、役に対してすごく誠実なのが伝わってきて、ひきこまれる。唯一、久しぶりに酒に酔って収容所の様子を笑いごととして喋る(虐待の様子をペラペラ喋って周りが凍りつく)ところに、イっちゃってる感が足りなかった。そこ、思いっきり突き抜けてほしいとこだよ。
 翻って吉田鋼太郎の岩本局長(=収容所監督)は凄かった。収容所のシーンは完全にイっちゃっていて、観客までトラウマになりそうだったし、最後にそれを告白するシーンでも、喋ってるだけなのに怖かった。人間の持ってる恐ろしいほどの幅(優しくもなれるし残虐にもなれる)を言葉の端々で感じさせるの。さすがだ。
 

 「一尺四方の聖域」とはどんな意味なのか。台詞の中に軽く「立って三尺、寝て六尺」と出てきたようだったけれど、さっと流れて行ってしまった。一尺は30センチあまり。人一人が立つには余りにも狭い。それしか聖域はないのかしら。作者がこの題名に込めた意味がもう少し、知りたかったな。
 市村作品はこれで5作目なんだけど、昨年の『あかつきの湧昇流』の時感じた「人情を描くのではなく人間を描くことにシフトした」部分は、少し立ち往生してるのかな、と思った。今回の題材が余りにも重くて、人情に頼り、唱歌の美しさを借りなければ、描くのが難しかったのかもしれない。
 自分のことになるけれど、唱歌は母がよく口ずさんでいたので、ほぼ全て知っていたし、歌えるものもあった。でも子どもの頃、母が歌う唱歌はなんだか綺麗ごとに聞こえ、あまり好きではなかった。
 母は『一尺四方の聖域』の主人公たちと同年代の人だった。歌だけでも美しく優しくなければ、とてもやってられない、ということだったのかもしれないと今更ながら気づいた。
 人はなぜ歌うんだろう、って、そういうことだ。

野田地図の『Q』

 厳重な身元チェックののち、劇場入り。11月13日(水)マチネ、東京芸術劇場プレイハウス。
 
NODA・MAP 第33回公演『Q   A Night At The Kabuki』
作・演出/野田秀樹 音楽/QUEEN
出演 松たか子 上川隆也 広瀬すず 志尊淳 橋本さとし
   小松和重 伊勢佳世 羽野晶紀 野田秀樹 竹中直人
   アンサンブル 河内大和 ほか18名
 
 あらすじなどは書かないつもりだけど、それでもネタバレ必至なので、これから観る人は要注意ね。

 
 マダムはかなり面白く観たのだけれど、がっかりしてる人もいて、賛否両論ある。
 お話は、源氏と平家という日本人にわかりやすい敵味方を設定し、その両家の若い息子と娘の恋愛を描いている。そこは完全にロミジュリで、源のじゅりえ(広瀬すず)と平のろうみお(志尊淳)の悲恋物語が芝居の前半。
 普通のロミジュリなら、若い二人が死んで終わりなんだけど、この芝居では二人とも死なず、それから30年生き延びる。後半はその30年を描いてて、歌舞伎の「俊寛」プラス胡桃沢耕史の「黒パン俘虜記」で出来ている。
 このくっつけ方が凄く野田秀樹らしくて、珍しく彼が言いたいこと(だろう、たぶん)がスッと入ってきたの。
 死を絶対に美化しない(死を見世物として消費しない)、愛の描き方を模索したのではない?
 
 だから、仲間を斬られてカッとなったろうみおが源義仲(橋本さとし)を殺してしまうシーン(ロミジュリのティボルト殺害シーン)がとても大事。ここで人を殺してしまったろうみおは、絶対に幸せになれないの。じゅりえと共に心中することも失敗し、美しい死に方はさせてもらえない。生き延びて、じゅりえと再会することだけを願いながら生きてるのに、戦争捕虜になって、島流しにあって(ここは俊寛)、流された場所はスベリアで、強制労働させられて、食事は硬くなった黒パンで(ここは黒パン俘虜記)、やがて恩赦の船がやってくるけど、ろうみおの名前がなくて乗せてもらえない(ここ、再び俊寛)。
 もとのロミジュリなら、観客はとうの昔に彼のティボルト殺しを忘れて、ロミジュリ二人の死を嘆くわけだけど、野田秀樹は観客が簡単に泣く事を許さない。ろうみおの義仲殺しを許さないし、だからじゅりえとの美しい死も認めないし、二度とじゅりえと会えないし、最後は強制労働の果てに倒れ、遺体は穴の中に積み重ねて捨てられる。
 ろうみおは平清盛の後継ぎでお坊っちゃまで、もてはやされていたのに、あっという間に「名も無きもの」に転落し、最後は誰に看取られることもなく野たれ死ぬ。
 野田秀樹、容赦ない。
 
 平家は名前を大事にする一族で、それに対し源氏は新興勢力だから「名前なんかいらない、捨てちまえ」と主張する。ジュリエットの「ロミオという名をお捨てになって。」というセリフからの発想だけど、野田秀樹の言葉遊びの面目躍如。「名を捨テロリスト」とか「名を拾イズム」とかが飛び交って、源平合戦が繰り広げられるの。名前にこだわってた平家の跡取り息子が、名も無きものに転落して、ただの囚人として死んでいく皮肉が、効いてる。
 
 若い時のロミジュリを志尊淳と広瀬すず、大人になってからを上川隆也と松たか子が演じる・・・というほど事は単純じゃなかった。未来のロミジュリを上川隆也と松たか子が演じていて、二人は自分たちの辛い運命を変えたいと願って、若い二人のところに舞い戻って、要所要所で二人に働きかける。絶対に義仲を殺しちゃいけない!とか、そこで毒を飲んじゃいけない!とか、運命の決まるポイントを狙って努力するんだけど、それはことごとく叶わない。結局、別れは訪れる。「手紙を書くよ」というろうみおの言葉を信じて30年、やっと松たか子じゅりえのところに手紙が届いた時、ろうみおは遠く離れた場所で死ぬ。ホントに救いがない。野田秀樹、容赦ない。
 どんな死であれ、死を美化しないと決めると、こういう風になるんだね。どれほどの名芝居が死を美化する事で成り立ってきたかを、逆に思い知らされる。
 
 物語がどんなに容赦なく残酷でも、野田演出の魔法のような美しさが散りばめられてて、それはそれは目に染みた。いつものようにアンサンブルの人たちの八面六臂の肉体労働によって、芝居が進んでいく(河内大和がアンサンブルの要となって、どんなシーンにもいた!)のも、ひとつひとつ楽しいし、じゅりえが長い(10メートルくらいはある真っ白な)ベールを引いて現れる結婚シーンの美しい事と言ったら!若い二人(広瀬すずと志尊淳)の美しさと儚さを十二分に引き出してた。その瞬間が美しければ美しいほど、後の長い人生の苦さが浮き彫りになる。
 ラストの、空想の中のロミジュリ抱擁シーンは、主役老若ふた組が入れ替わりつつ抱き合うのだけど、舞台だからあり得る最高に美しい演出。ため息が出た。
 
 
 読んできて、クイーンはどこにいった? と皆思うよね?
 マダムはそこのところは、はなから期待してなかったんだよね。今更、野田秀樹にクイーンは必要ないし、クイーンの方にも野田秀樹は必要ないでしょ。
 だから「舞台で曲を使わせてもらいますよ」程度のことだと思ってたの。使う以上は、相手はクイーン。ちゃんと掲げないといけないでしょ?
 なので、クイーンのアルバム「A Night At The Opera」からインスパイアされた物語だと期待して行くと、がっかりするかもしれない。曲を適宜使わせてもらいました、という感じの使い方だったから。
 でもね、どんなに短く刈り込んで「適宜」な感じで使っても、クイーンの曲の自己主張は消えないの。野田秀樹の世界に、容赦なく食い込んでくるのよ。それがすごいよ。
 演劇の世界に「異化効果」っていう言葉があって、マダムは一度もこの言葉が腑に落ちたことがなくてずっと、ちゃんと体験したいと思ってたんだけど、もしかして、この野田秀樹VSクイーンは、異化効果ってやつかもしれない。すごいの、互いに張り合ってて。
 しばらく考えてみよう、このことについては。
 異化効果についてはひとまず置いて。とにかく、志尊淳ろうみおが義仲を殺しちゃったシーンに、ボヘミアン・ラプソディが「Mama, just killed a man(ママ、俺、人を殺しちゃった)」「Mama, life had just begun, But now I've gone and thrown it all away(ママ、人生始まったばかりなのに、俺、ぶち捨てちゃったよ)」って流れると、マダムはもう心ん中、滂沱の涙。これほどの取り返しつかなさを、かつて突きつけられたことがあるだろうか・・・とさえ思って。
 
 野田秀樹は御大亡き後、演劇界のお山の大将俺一人、の人だと思う。なので、こうやってたまには、ねじ伏せられない巨大な相手と組む方が、絶対面白い。今後も異化効果(?)を期待します。

サイズダウンして深くなった『ビッグ・フィッシュ』

 再演と言っても、そのままじゃなかった。11月6日(水)マチネ、シアタークリエ。
 
ミュージカル『ビッグ・フィッシュ』
脚本/ジョン・オーガスト 曲・作詞/アンドリュー・リッパ
翻訳/目黒条 訳詞/高橋亜子
演出/白井晃
出演 川平慈英 浦井健治 霧谷大夢 夢咲ねね 藤井隆 JKim 深水元基
   佐藤誠悟 東山光明 小林由佳 鈴木蘭々 ROLLY
 
 初演を観たのが去年、のような気がしてたんだけど2017年なんだって。時の経つのはあまりに早い。
 お話に変化はないので、ストーリーは以前のレビュー( →ここ)を読んでいただくとして、大きく変わった演出について。
 芝居が、深くなった!
 
 出演者は初演時と変わってないので、これは演出の変化によるもの。ハコが日生劇場からクリエに変わるのに合わせて、たくさんいたアンサンブルを切って、全てをメインの役者だけで演じる。その他大勢の役も、メインの役者たちが代わる代わる衣装を変えて出る。大劇場に合っていた賑やかしの場面(浦井くんがカウボーイ姿してた)などは無くなり、そのかわり家族の曲がいくつか増えた。
 それは大ボラ吹きの父親エドワード(川平慈英)のホラ話を楽しく見せることよりも、家族の(夫婦と親子の)気持ちを表現する方へシフトしたということで、これが大成功。初演よりずっと沁みて、ラストには不覚にも涙が・・・。
 パンフを買ってないので、どの曲が減りどの曲が増えたか、正確にはわからないのだけど、少なくとも、最初の方で母サンドラ(霧谷大夢)とウィル(浦井健治)で歌う歌は、初演ではなかったはず。父親を理解できず苛立つウィルに、サンドラが「おとうさんは一生懸命に生きてきたのよ、わかってあげて」と息子を諭す歌。これが出色の出来。
 初演の時も、霧谷大夢の演技はとてもよかったんだけど、今回曲が増えたことで、彼女の老若の演じ分けの素晴らしさが倍増。相手の素晴らしさに呼応するタイプの浦井健治の歌も、心のこもりかたが倍増。二人で歌うこの曲だけじゃなく、ウィルひとりの「Stranger」が沁みることといったら! 「Stranger」はコンサートなどでよく歌う曲なので何度も聴いてるんだけど、芝居の流れの中で役になりきって歌った時が格別だわ。
 ラスト近く、死に瀕して怯えるエドワードを抱き寄せて励ますサンドラの歌が、また素晴らしくて。この曲は初演でもあったはずなのに、今回の芝居の構成で夫婦や親子の関係がくっきりしたおかげで、このシーンの刺さりかたが全然違ったの。泣くよね(鬼の目にも涙ってやつ)。
 エドワードがいなくなったベッドに腰掛けて涙するウィルの姿も、初演の時とは比べ物にならないくらい、じーんときてしまって参った。
 
 演出は別に泣かせにきたわけじゃないと思う。夫婦と親子の間の気持ちをちゃんと描くほうへ舵を切ったら、いろんなシーンが有機的に働くようになって、見ている私たちもグッと入り込んだ、ってことよね。いろんなシーンが有機的に働くようにする、っていうのが演出の腕なので、再演は白井演出の勝利。マダムの中で、前回(KAATの新作ミュージカル)の失敗を完全に挽回してくれた感じだわ。

『終わりのない』で宇宙酔い

 渋谷で乗り換えずに三軒茶屋に行くルートを模索中。渋谷駅、大変すぎる。11月1日(金)ソワレ、世田谷パブリックシアター。
 
『終わりのない』
脚本・演出/前川知大
出演 山田裕貴 安井順平 浜田信也 森隆二 森下創 大窪人衛
   奈緒 清水葉月 村岡希美 仲村トオル
 
 「前川知大は、手塚治虫の正当な跡取りである」という壮大な大風呂敷を広げるつもりだったんだけど、体調を崩してる間に、念が雲散霧消してしまった。
 最近、イキウメのレビュー、全然書けてないんだよね。マダムの表現力のはるか先に行ってしまってる。
 ということで、ごめんちゃい。 
 

serial number 03『コンドーム0.01』を観る

 またまた下北沢へ。10月25日(金)ソワレ、スズナリ。
 
serial number 03『コンドーム0.01』
作・演出/詩森ろば
出演 田島亮 森下亮 碓井将大 根津茂尚 杉木隆幸 酒巻誉洋
   岡野康弘 藤尾勘太郎 佐野功
 
 先日の『三億円事件』といい今回といい、男ばっかりの芝居が続く。
 二つとも、とある職場の話。一方は警察で、一方は化学メーカー。どちらも仕事の内容についての人生をかけた物語が展開するんだけど、あまりにも女の存在がなくて(登場人物も、話の中身への影響力も)、マダムはここのところ、唖然としてる。
 いや、どちらも取材をもとに書かれた芝居だし、現実を反映してるんだから、作家を責めるわけじゃなくて。
 ただ、世の中の動きを決める大事な瞬間に、いかに女は関わってない(関わらせてもらえない)かを思い知る。そして、絶対よくないことだ、と思うのよ。
 そしてそのことをよくわかって書いてるだろう作家が、二人とも女性なのは当然のことかもね。いろいろ複雑な気持ち。
 
 
 コンドームを作っている化学メーカー。社長命令で、長年の懸案だった薄さ0.01ミリのコンドームを開発することになる。開発部、企画部、営業部、広報部の面々が、0.01開発チームに集められるのだが、それぞれこの開発に対して思うところがある。しかも0.01ミリの壁は技術的に大きな壁で、乗り越えるのは難しいかに思われた・・・。
 というお話。途中、歌や踊りを混じえて楽しく進みつつ、それぞれがコンドームにまつわる(?)初体験話を披露していくと、これが深刻な悩みだったりする。そして、コンドームが男向けに作られているのはおかしい、女性のためにも作られなければいけないだろ、という話になっていく。そこが詩森ろばらしいところだし、評価したいな、と思うの。
 
 でも芝居としてはあまり、いい出来とは思わなかった。興味深かったけど、すごく面白くはなかったの。
 なぜなのか、考えてみたんだけど。
 マダムは、あの踊りと歌が、好きになれなかった。話を深刻にしないために、あれが必要だったのはわかる。けれど、なんだかお手軽な作りなんだもん。精魂込めて歌ってないし、踊ってない。自分たちは踊りも歌も専門ではありませんから、という言い訳の膜のようなもの(照れ、だろうか?)が1枚うっすらとかかっているの。そんなことはわかってるので、それをはねつけるくらいの真剣さがほしかった。
 それと、登場人物全員が、折に触れて、観客に向かって初体験話をするんだけど、ひとつひとつは大事なエピソードなのに、思い出話として語られるだけなので、深くなっていかない。それに話のどれもが予定調和気味なの。唯一、子供の時のDV体験のせいでED(勃起障害)になってしまってるコンドーム開発者(田島亮)のところは意外性があって、惹きつけられた。彼をもっと中心に据えた物語(たとえば彼が開発のチーフをやらなければならなくなるとか)のほうが、もっと面白かったのでは?
 
 
 だけど、さすがだ。どんな会社でも、組織でも、男だけで考えたり決めたりしていくのは限界がある。っていうことは、しみじみ、わかったよ。何かを決めるのには男と女(と、それ以外の人)の意見が必要なのよ。

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