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パラドックス定数

パラドックス定数『Das Orchester』を観る

 桜が咲いたというのに、凍える寒さ。3月28日(木)ソワレ、シアター風姿花伝。
 
パラドックス定数第45項『Das Orchester』
作・演出/野木萌葱
出演 西原誠吾 松本寛子 小野ゆたか 皆上匠 生津徹 朝倉洋介
   植村宏司 井内勇希
 
 1月に『トロンプ・ルイユ』を観ただけで、この劇団の虜になったマダム。さっそく劇団のツイッターをフォローしたのだけれど、稽古中の役者に対する演出家のつぶやきが最高だったの。曰く「逃げるな。芝居に逃げ場があると思うなよ」。
 ひゃ〜。ドSよ、ドS。優れた演出家が皆持ってる大切な要素、ドS。
 今回もまたドSで緻密な演出が、美しく展開されていて、ホント素晴らしかったよ〜。

 
 時や場所は特に謳われていないけれど、題名からドイツだな、と受け取れる。そして軍服の将校(井内勇希)の腕章に鉤十字のマークがあることから、第二次大戦前夜の話であることも了解できるの。固有名詞は出てこない。
 風姿花伝の小さな舞台の上には椅子が二脚、置いてあるだけ。後方が数段高くなっていて、前方後方にそれぞれ左右に出入り口があるだけの、ごくシンプルなセット。
 
 物語はある日のコンサートが終わるところから始まる。コンサートが終わり、指揮者(西原誠吾)が舞台袖に戻ってくると、いつものように秘書官(松本寛子)が待ち構えている。指揮者は「今日の演奏はどうだった?」と訊き、秘書官は「明日の新聞の批評で叩かれるでしょう」と答えるのだけれど、気難しげな指揮者は意外にも怒らず「そうだろうな」と頷き、それから秘書官に矢継ぎ早に指示を出す。
 この短いやり取りの中に、びっしりと芝居上の情報が詰め込まれているのに舌をまくわ。指揮者の音楽への信念の強さや、秘書官が有能で、かつ指揮者に対する絶対的な尊敬を持っていること。秘書官は演奏中はいつも舞台袖で微動だにせず演奏を聴いているということ。指揮者も秘書官の耳を信頼していて、二人の間にお世辞や追従が入り込む隙間などないこと。そして、いつもと違うのはただ一つ、同じ舞台袖に、軍服の将校が立っていること、なの。
 演奏の失敗の原因が自分にあると思ったソリストのヴァイオリン奏者(皆上匠)は、ギャラを貰わずに立ち去ろうとするけれど、指揮者はそれを引き止め、彼をオーケストラの一員に加える。が、オーケストラの事務局長(小野ゆたか)は心配する。ヴァイオリン奏者をドイツに留めることが、果たして彼のためになるのか…?彼はすぐ「自分は劣等民族ですから」と卑下してしまうような弱気な若者なのだ。だが、指揮者は優秀なヴァイオリン奏者がオーケストラには必要だ、と言ってきかない。
 良い演奏を追求することだけに専念したい指揮者の気持ちとは裏腹に、事はどんどん進行していく。事務局長のところには宣伝相(植村宏司)と将校が頻繁に訪れ、コンサート会場に鉤十字の旗を掲げろとか、首相が演奏を聴きに来るので指揮者は首相と握手しろとか、楽団員の三分の一にあたる「劣等民族」を解雇しろとか、要求するの。
 外堀を埋められるようにじわじわと、オーケストラは政府の思惑に従わざるを得なくなっていき表向きは従いつつも、事務局長は、身の危険のある楽団員たちの移籍先をこっそり探す。指揮者もまた、黙って宣伝相の言いなりにはならず、次のコンサートの曲目を密かにベートーヴェンの第九に変え、抵抗を示そうとする。
 そのコンサートの日、秘書官は演奏を聞かずに旅立つ。事務局長の「アメリカにお逃げなさい。そして全てが終わったら、また帰ってきてください、マエストロのもとに」という言葉に秘書官は「終わる時が来るでしょうか…?」と尋ねる。事務局長は答えられないまま、彼女を見送るの。
 
 
 こんなふうに話のあらすじを書いてしまえば、聞いた事があるようなナチスの弾圧の話なの。けれどもこの作品は、あの時代を描いたどんな作品とも一線を画す。
 芝居の中には、ナチスという言葉は一度も出てこない。ユダヤ人という言葉も、出てこない。モデルであろうフルトヴェングラーの名前はもちろん、ゲッベルスの名も、出てこない。ヒットラーの名前も出てこない。ベートーヴェンの第九も、殆ど流れはしない。
 あくまで史実をモデルにしていながら、観客が知っている(だろう)事実や観客が持っている(だろう)イメージに一切頼る事なく、独立した芝居を作り上げている。それが、凄い!
 つまり、マダムはここでナチスとかフルトヴェングラーとか言っちゃってるけど、そのような予備知識は全く必要ないし(あっても邪魔にはならないが)、眼の前で展開される芝居は、遠い外国のものではなく、今まさに自分たちのことと感じられるの。
 指揮者はひとりの芸術家として、宣伝相はひとりの差別主義者として、事務局長はひとりの悩める中間管理職として、将校はひとりの秘密を抱えた軍人として、秘書官はひとりの弾圧され追われる者として、描かれている。描かれ切ってる。登場人物の誰も、典型になってない。
 
 マダムは今しみじみと、芝居の面白さについて思う。よく、いい台詞が心に残ったとか、音楽が沁みたとか、衣装が美しかったとか、装置がスペクタクルだったとか、芝居を褒める。だけど、結局、芝居の面白さは、役者の演技がもたらす、登場人物についての情報量なのではないかしら?その情報量がもたらす「作家の人間観」に打たれるのではないかしら。
 野木脚本と野木演出の特徴は、一瞬一瞬に込められた圧倒的な情報量だ。将校はその立ち姿だけで、隙がなく怖くて威圧的だし、さほど多くない台詞はシンプルな要求を伝えるだけなのに、何かが隠されている。秘書官の台詞もまた、彼女自身を語るような中身は殆どないにもかかわらず、マエストロの芸術に対する愛と使命に満ちていて、彼女がどういう人であるかを如実に語る。
 そして作品の奥底に、作家のメッセージが流れている。それは例えば台詞の中に安直に登場したりはしない。あくまでも奥底に秘められている。
 演劇の真髄に触れる喜び。それが3500円であることの驚きと戸惑い。
 
 役者の上手さにも脱帽する。ていうか、才能ある演出家の演出通りに演技するため、どれほどの努力があったかを思い、ただもう拍手するだけね。将校はこのあいだはドンガバーチョ(馬)だったし、宣伝相もアイゼンレイゲン(馬)だった。立ってるだけで馬にも将校にも見える役者って、マダムの長い観劇人生の中でも、なかなか逢ったことがないよ。
 

小劇場の醍醐味 パラドックス定数『トロンプ・ルイユ』

 自分が観る芝居の題名さえも知らないまま、連れて行かれた。1月11日(金)ソワレ、シアター風姿花伝。

 

パラドックス定数 第44項『トロンプ・ルイユ』
作・演出/野木萌葱
出演 山田宏平 加藤敦 井内勇希 植村宏司 諌山幸治 小野ゆたか

 

 
 地方競馬のお話だった。
 
 馬と人間の話といえば、マダムはすぐロンドンで観た『戦火の馬』を思い出してしまう。あの時、馬は三人の人形遣いに操られるパペットで登場し、その動きの素晴らしさでマダムをなぎ倒したのだった。あれ以上の馬を、舞台で見ることはないだろうと思っていたのだけれど…。
 矢は、小劇場の、まったく予想外の方角から放たれてきたの。
 人の、擬馬化である。

 

 初め、六人の、難の変哲もない男たちが舞台に現れて、早足でぐるぐる回る。なんだろなあと見ているうちに、そのうちの三人がポケットからフックのついた紐のようなものを取り出し、残りの三人の胸元についた小さな輪っかにそのフックを引っ掛ける。紐を引きながらぐるぐる歩く・・・するともう、そこは地方競馬のパドックと化した。その鮮やかさ。
 胸元に紐をつけられて引っ張られるだけで、人は馬にもなれるのだ。長い観劇生活でも、思ってもみなかったことが目の前で展開され、マダムは息を飲んだの。
 役者は全員、馬と人間との二役をこなす。二役の切り替えがみんな恐ろしく上手い。衣装替えもないし、四つん這いで歩くわけでもなく、必ずしもいつも紐に引かれているわけでもないのだが、馬の時と人間の時は立ち居振る舞いが違う。その違いはこれといって指摘できない程の違いなのだけれど、でも客にはちゃんと伝わるの。
 まだ開いたことのない脳の窓が、パタンパタンと開かれていく快感〜。

 場所は地方競馬場。ある日、牧場をたたむことにした男(植村宏司)が15歳を過ぎた馬ミヤコヤエザクラを連れて、厩舎にやってくる。馬を頼むだけでなく、自分も厩務員として雇ってもらおうとして。調教師(加藤敦)は北海道の厩舎から後継に、と望まれているのを断って、一癖二癖ある馬たちを、それぞれの勝負に送り出そうと奮闘する。
 先行逃げ切りのロンミアダイムや、あとから刺していくのを得意とするウェンザーレディ。そして中央競馬から流れてきたサラブレッドのドンガバーチョは、故障上がりで神経質。プライドだけは高い。ドンガバーチョを再び中央競馬で走らせることを夢見て、調教師たちは準備を整えるのだけれど、ドンガバーチョは前哨レースで足を複雑骨折し、安楽死の処置が取られる。
 代わりに出走するロンミアダイムは、ドンガバーチョの気持ちをも載せて走ろうとするが、果たして結果は・・・。
 というようなお話。

 ストーリーを説明すると、なんだか、普通の話になっちゃう。取り立てて新しい見方や切り口があるわけではない。
 新しさは、その演劇の手法にある。馬と人間の二役を行き来するうち、馬の性格と人間の性格のすり合わせが出来てくるのね。ミヤコヤエザクラと馬主(どちらも山田宏平)が同じように、見かけはパッとしないが泰然自若とした性格として見えてくるし、カミカゼバンチョーと調教師(どちらも加藤敦)は「ノーガッツ、ノーグローリー」のキャッチフレーズがどっちのだったかわからなくなるくらいだし、ウェンザーレディと予想屋(どちらも諌山幸治)なんて、レディとか言っておじさんなんだけど、両者とも少し斜に構えた立ち方で、覚めたような、ひねくれたような性格を表している。
 組み合わせがあるおかげで、登場人物(馬も)がすんなり理解されるの。
 そしてお話が進んで、登場人物(馬も)たちが熱を帯び始めると、それぞれの役者の中に、人馬一体となった感情が生まれるの。もちろん演技はちゃんと二役で分けているのよ。でも二つやることで、足し算じゃない、掛け算の、渾然一体のエネルギーが生まれてる。
 2時間の芝居を観終わるともう、役者たちが馬にしか見えないのよ(←褒め言葉)。人の擬馬化の完成だ。
 
 そこを狙って作家は、馬と人間の組み合わせを初めから、役者に当て書きしているよね。もう、つかこうへいじゃないかって思うくらい、役者の持ってるものをひきだしてた。それでいて勢いではない、すごく緻密な組み立てがあって。

 

 

 例えば、馬は馬同士で会話するけれど、馬と人は会話できない。人が話しかけても、馬は表情で答えない。そこは不文律がある。そういうルールを細かく決めて、演技上、そのルールをきっちり守りながら進めていく。それは演出の力。そして、細かいルール通りにやれる技量がすべての役者にあるところが凄いよ〜。
 パラドックス定数は、お話の傾向っていうのはなくて、いろんな題材にチャレンジして、一つ一つ全然違う、と聞いている。でもきっと、この緻密さが劇団の特徴なのね。
 
 トロンプ・ルイユ(騙し絵)っていう題名の意味はわかんなかったけど。

 

 思えば、マダムが芝居を好きになった頃見ていたのは、つかこうへい劇団や、ジャンジャン時代の東京乾電池や、アトリエ公演のシェイクスピアシアターだった。どの舞台もほとんど装置などなく、役者の技量だけで違う世界へ連れて行ってくれた。
 今回初めてパラドックス定数の公演を観て、その原点に連れ帰ってもらったよう。
 次の公演ももちろん、行こうと思う。拉致して連れてってくれた友人に感謝しなきゃ。

 

 

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