最近の読書

ロンドン観劇日記

マダム イン ロンドン その13 総括 「ミュージカルとシェイクスピア編」

 11月くらいまでで書き終えるはずだったロンドン観劇日記、年を越してしまいました。ごめんなさい。この総まとめの話で、終わりにしようかと思います。もう一度おさらいしてみますと。 ミュージカルが『ビリー・エリオット』と『オペラ座の怪人』。ストレートプレイが『戦火の馬』と『ハムレット』でした。
 たかが1週間滞在して4本観たくらいでは本来、偉そうなことは言えないわけですが・・・でも、感じたこと、考えたことをここは素直に言わせてください。

  まずはミュージカルについて。
 ミュージカルが素晴らしく楽しかったー。そして、ロンドンのレベルの高さに気が遠くなりました。根底に流れるテーマと、表現とが、分かち難く結びついていることが、たった2本で、よーくわかったんです。残念ながら日本はまだまだ、です。役者の技術ひとつとっても、追いつくのは至難の技です。そして仮に、技術が追いつくことがあったとしても、さらに越えられない壁があるのだと思いました。

 日本のミュージカルは、基本、あちらのストーリーを、あちらの曲で、演出も踏襲して上演することが多かったわけです。言わば、借り物。もともとあちらで成功しているものを持ってくるので、作品の出来は保証されているけれど、どんなに頑張っても、もとを凌駕することが難しい。練習して、歌や踊りの技術は向上するでしょう。だけど、テーマはあちらの伝統や民族性から湧き出たものなので、日本人の奥底からは同じものはそうそう湧き出ないんですよね、どんなに練習しても。

 ロンドンで観ちゃうと、もうあちらの焼き直しをやってる日本のミュージカルに期待しにくくなります。

 だから日本のミュージカル界は輸入を減らして、もっとオリジナルの道を模索してほしいです。

 私が観たもので言えば、たとえば『アルジャーノンに花束を』のような。『アルジャーノン』は再演を繰り返していってほしいミュージカルの一番手です。原作は外国のものですが、本も音楽も美術も全て日本人がやって、日本オリジナルミュージカルのお手本です。主演俳優あってこその演目ではありますけど、同じレベルの演技のできる若手を発掘して、つないでいってほしい。いいものは何度見ても、いいんです。私は何度も見たい。ロンドンでは、いいものはロングランして企画に投入した投資を回収するわけですから、日本だって、いいものはもっと再演したらいいと思うんです。次々新しいものを作ればいいってものじゃないですよね。

 次にシェイクスピアについて。
 カンバーバッチのハムレットをロンドンで観たわけですけど、ミュージカルと違って、日本と比較してどうこう言うという気持ちが、全く湧いてきませんでした。それはそれ、これはこれ、という感じで。無理矢理比べてみたとして、日本のシェイクスピアの上演は面白いものが多くて、全然負けてないと思いましたし。
 どうしてかと考えてみると、翻訳した時点で、あちらの役者の身体性にフィットしている部分はかなり抜け落ちていることが大きそうです。翻訳というフィルターを通して、シェイクスピアの古典としての物語の大枠(テーマ)が台本に残る。それをどう演じるかは、明治時代から日本の演劇界が真剣に取り組んできたので、シェイクスピアの日本流の演出術が確立してる、ということなのではないでしょうか。
 なので、私はこれからも日本人の演じるシェイクスピアを観続けるし、ロンドンに行ったら行ったで、あちらのものも観ると思います。また行けるかどうかは、現時点ではわかりませんが。


 ロンドンで感じたのは、なによりも、演劇が街と人々にすっかり馴染んでいるってことでした。劇場の構造、チケット制度、それぞれの客席の客層など、どれをとっても、そう感じられて、とても羨ましかったです。
 ロンドンに生まれたかったとか、ロンドンで暮らしたいとか、帰ってきたばかりの頃は思ってました。でも、帰国して1本目にイキウメの芝居を観たら、私には日本語以上に心の奥底に届く台詞はないんだわ、とも再認識しました。特に笑い(ユーモアから苦笑いまで含めて)に関しては、日本語でなくては心から笑えない。笑いは言語的にとても高度な技なんです。私にとって一番大事なものは日本語だ、とも思ったんです。
 なので、これからも日本の芝居を観ながら、ブログを続けていきます。時折、高すぎるチケットや、ひどすぎるチケットの売り方にケチをつけながら、ボチボチやっていきたいと思います。

マダム イン ロンドン その12 総括「チケット問題編」

 

いよいよロンドン観劇旅行の総括です。第1回目はチケット問題編。
 
 4本の芝居、それぞれ違う劇場で観たわけですが、どの劇場も、見やすさによってチケットの値段は細かく分かれていました。
 私たちは日本で、「舞台との距離が全く違う席が、同じ値段に設定されていること」に疑問を感じてきました。それで、本場はどうなんだろうと思っていましたが、やっぱり、1階の1列目から2階の後ろの席まで全部まとめてS席になってる劇場なんか、ロンドンにはありません。役者の声すらまともに聞こえてこない2階の後ろの席を、万単位の値段で売るようなことは、ないんです。
 まして、チケットを買うとき、自分の買う席がどこだかわからないままで買うなんで、ありえません。
 遠い日本からネットで予約しておいたチケットを受け取るときも、ロンドンでは何の手数料も発券料も、取られはしませんでした。
 日本の観客は(つまり私たちは)、バカにされています。
 
 上演間近で売れ残っている席は、通常の値段から割り引いて売る、ということも、ロンドンでは当たり前でした。「戦火の馬」のとき、 私は30%引きで、良い席を買えました。日本ではそんな話、聞きませんよね。日本でよくあるのは、急にアフタートークが設定されたり、お土産付きとか食事券付きとかで売れ残りを捌くやりかたです。協賛企業に穴埋めしてもらっているわけです。でも、もともと高く設定されている値段ですから、普段見慣れている観客以外は、なかなかチケットを買うには至らない。
 売れ残りを割り引いてでも売ることは、空席を減らして芝居を盛り上げようという考えもありますが、普段見ない人に見てもらうチャンスを作るためなんです。そうやって、演劇ファンの裾野を広げていこうと、劇場側が努力してるってことなのです。
 日本でも、高校生割引とか、各劇団や劇場で努力されてることは知ってます。でも、演劇界全体としては、先を見据えた方針があるようには思えません。
 
 割引に関しては、百歩譲って、製作側の勝手だとしましょう。でも、今、この理不尽なチケット料金体系を支えているのは、平均年齢の高い、可処分所得をつぎ込んでいる女性たち(つまり私みたいなおばさん)であって、ある瞬間から、一斉に足腰立たなくなって劇場に行かなくなります。お金の少ない若いファンを今から取り込んでおかなければ演劇界(特に大劇場)には未来がないのですよ。
 こんなことは私が言わなくても、プロデューサーの方々は皆ご存知のはずなので、企画だけではなくて料金体系について、善処を求めます。
 
 そして。理不尽に高い悪い席を買わされている皆様。その度ごとに、抗議のアンケートを書きましょう。私たちはボラれています。「こんな席、S席の値段で売るな」と言いましょう。
 
 以上が、ロンドン観劇日記総括「チケット問題編」でした。
 あー、怒りがふつふつと湧いてきて、胃の中が真っ赤だわ。

マダム イン ロンドン その11 続続カンバーバッチの『ハムレット』

 演出は、これまで私が『ハムレット』を観ては疑問に思っていたことに、いくつか答えてくれていました。
 たとえば、ホレイシオの造形です。
 今回のホレイシオは、今まで日本で見たホレイシオと比べると、実に冴えない青年に見えます。現代風なので、チェックのシャツにズボン、メガネをかけ、ニット帽を被り、カーキ色のリュックをいつも背負っています。その格好で宮廷に出入りするの?と疑問に思うような。
 でも私は、この造形もすごく納得が行ったんです。現代で言えば、ホレイシオは、大学院の博士課程にいるような人です。家柄は良く、食べていくには困らないので、研究に没頭しているのですが、イギリスの(設定はデンマークですけど、ま、それはおいていて)こういう人たちって、おしゃれに関心がなくて、ずっと同じ服着ていたりします。破れかけるくらいまで使い込んだリュックを、まだ大事に使ってたりします。金持ちだけど、金持ちに見えず、そもそもどう見えるかに関心を払わない。(あ、でもこれって、あくまで私のイメージです。)
 そしてハムレットは、最初のシーンで示された通り、ひとり静かに音楽をかけながら本を読んだりする青年ですから、こういう飾らないホレイシオを一番の友としているわけです。ハムレットは王子なので文武両道を求められていますが、ホレイシオは完全に「文」の人で、ハムレットはそういう彼を信頼しているのです。
 納得の造形です。


 それから少々些末的なことになりますが、後半、王妃ガートルードに、狂ったオフィーリアと会ってやったほうがいい、とホレイシオが助言する場面があります。「私が会ったからって、どうにもならないでしょ?」と言いつつガートルードは会うことにし、オフィーリアの変貌ぶりに打ちのめされる、というシーンです。今回の演出では、そこはホレイシオではなく、重臣がガートルードに訴える設定に変更されていました。私はまたまた、心の中ではったと膝を打ちました。
 いつも『ハムレット』を見ていて、どうしてここで突然、ホレイシオがオフィーリアのことに介入してくるのか、不思議に思っていたのです。どうも辻褄が合わない感じがある。シェイクスピアったら、ホレイシオの役者の出番が少ないことを気にして、ちょっと無理したんだわ、と私は思っていたんですが、同じように、不自然だからやめよう、と思う演出家がいたことに大いに頷いたのです。
 もちろん、シェイクスピアに対して何を不遜な、という意見があるだろうことも承知していますが。

 
 なるほどと思ったことは、まだまだあります。
 王の亡霊。
 日本で定番のクローディアスの役者の二役ではなく、それどころか似ても似つかない、痩せて頼りなげな亡霊でした。王だった頃の飾りのついた軍服を着てはいますが、青白い埃にまみれ、はだけた胸に傷跡が見え、目の周りは隈で真っ黒で、ゾンビという言葉がぴったり。こんな威厳のない亡霊は初めてです。でも、よく考えてみれば、クローディアスと二役やるのが当たり前と誰が決めたのか。台本に指定があるわけじゃないのです。先王とクローディアスが兄弟だからといって、似てなくちゃいけない訳でもないですよね。
 一方、クローディアスは、恰幅が良くて威厳がありました。これなら、王の死後、ガートルードがクローディアスと結婚したのも、結構頷けます。中身はともかく、みかけは先王よりずっとカッコイイですもの。頼れそう、とガートルードが勘違いしても、無理もない。亡霊とクローディアスを全くタイプの違う役者にやらせることによって、ガートルードの心変わりを、自然なものにした演出と言えます。
 だから、ハムレットも、はじめのうちは、呆れて悲しがり、納得できずにはいるものの、別に激しい怒りを持っているわけではないのです。ハムレットが怒りを感じ始めるのは、亡霊に会い、「お前の父を殺したヤツは、今、王冠を頭に乗せている」と言われてからです。そのあたりの演出も、実に明確で、なんだか頷いてばかりの私です。

 
 さらに納得の演出なのは、王妃ガートルード。
 ガートルードの造形で、一番印象的なのは、寝室の場面以降の変化でした。
 これまでの私が見た演出では、このシーンでハムレットに激しくなじられ、ショックを受けている割には、ガートルードはその後すぐ、クローディアスの隣に戻ってしまうのです。「女は感情の生き物で、頭はからっぽ」みたいな演出です。が、今回のガートルードは違いました。もう、クローディアスと手を取り合ったり、肩を寄せたりはしない。一緒にいるときも、単独で立つようにしている。オフィーリアの死も一人で受け止めている場面がちゃんと作られていました。その演出はラストの、みんな死んでしまうシーンまで一貫して続いたように思います。
 男だから女だから、と決めつけたくはありませんけれど、ガートルードの造形の細やかさについては女流演出家であることと無関係ではなさそうです。


 
 こうやって挙げていくと凄くいい演出だったみたいなんですけど・・・肝心のハムレットとオフィーリアについて、どうも決め手を欠いていたのでした。前にも言った通り、カンバーバッチ・ハムレットは理知的で理性的で、どうしてオフィーリアに(演技とはいえ)冷たくしなくちゃならないのか、よくわからない。オフィーリアの「写真を撮るのが趣味の女の子」という設定は、いつまでもしっくり来ませんでした。
 ハムレットがポローニアスを殺し、イギリスへ島流しされることになったあたりから、宮廷は爆音とともにがれきが雪崩れ込みます。あんなに美しかった舞台の上は、廃坑の中みたいになり、役者たちは石炭の中を這いずり回るような状態で演技することを余儀なくされます。俳優に負荷をかけるのは、日本でも好んでなさる演出家がいますが、今回の石ころだらけの舞台っていうのは、褒められたものではありません。もちろん、負荷をかけるためにやったんではなく、演出だったわけですけど、そのせいで芝居のスピードはすっかり落ちてしまいました。後半ずっと暗くて汚い舞台を見てなきゃいけないのも気が滅入りましたが、それ以上に、役者が思うように動けなくてズルズルとテンポが落ちていき、それとともに観客の側の集中力も落ちていった気がします。


 いろんなことを考え、感じさせてくれる舞台ではありましたが、感動の渦に巻き込まれるってことはありませんでした。私にもっと英語を聞き取る力があったら、少しは違うのかもしれませんが、なんとなく、そういう問題じゃない気がしています。
 次の記事で、4本の芝居を観たロンドン観劇日記の総括をしますね。

マダム イン ロンドン その10 続カンバーバッチの『ハムレット』

Img_0494

 

こちらは、パンフレット。宣伝用の写真は全て、この子供を使ったもの。カンバーバッチの写真はありません。でもまあ、この表紙、私は好きですけどね。中には舞台写真も載っています。よかった。パンフにはやっぱり舞台写真が載ってないとね。


 現代に舞台を移してシェイクスピアを上演するのは、よくあることですが、今回、徹底していました。
 
 日本での上演は、いろんな意味で自由気ままで、衣装は現代風でも甲冑だけ昔風だったり、ジーンズ着てても武器は古式ゆかしい剣だけだったり、ま、いい加減ですよね。観る方もそんなこと気にしない。
 でも、本場はやはりそこを厳密に考えるのですね。時代は、多分、第二次大戦の前あたりに設定したのではないかと思えました。兵士たちは剣よりも銃を携帯していましたし、ハムレットは蓄音機でレコード聴いてましたし、オフィーリアはカメラ(デジカメではなく、フィルムの)をいつも持っていて、写真を撮るのが趣味のようでしたし。

 そして、舞台を現代にするなら、台詞回しも現代風に、と演出は考えたようなのです。台詞は抑揚を抑え、限りなく自然の会話に近かった。だから、私が聞きたかった iambic pentameter は、残念ながら殆ど聞こえてこなかった。「To be, or not to be」すら、あっさりと自然に過ぎてゆきました。
 確かにカンバーバッチには、朗々と語るのなんか、似合わなかったかもしれません。でも、やっぱり少し残念な気持ち。(いや、これが最近じゃ普通なのよ、と言う方もいるのかもしれませんが、私はとにかく生で観るのは初めてなんですから。)
 ハムレットは元々お話の流れがどうもうまくいってないホンなんだけど、台詞のリズムで、その滞りを補ってなお余る何かがあるんじゃないでしょうか。
  つまり、こんな例えでいいのかわかりませんが。義太夫がいくらわかりにくいからといって、曽根崎心中から義太夫を取っちゃって、平坦でわかりやすい台詞に変えちゃったら、それは単に節回しの問題ではなくなります。理屈じゃない部分を、あの義太夫が担っているわけだから。観客の心を運んでいく音楽のようなものです。
 ハムレットの台詞にも、そういう魔術みたいなものが仕込まれている。翻訳するとほとんど失われるけど、それでも翻訳者はどうにかしてそのリズムを日本語で表現しようと四苦八苦しているわけです。なのに、元の英語版の方が、せっかくの魔術を使わないのって、ずいぶんじゃありませんか。

 芝居が中盤に差し掛かる頃には、つくづく思ったのです。
 芝居は、演出を観るものなのだ、ということを。少なくとも、ロンドンでは。役者はといえば、とにかく全員が上手いので、役者の出来次第ってことはない。ほとんど演出の出来次第なんです。カンバーバッチですら、演出家のコマの一人でしかありません。
 
 それでもカンバーバッチは素敵でした。オーラがあるとはああいうことを言うんですね。ただ・・・なんだろう、忠実に現代に移した演出の中で、ハムレットの苦悩は薄くなってしまったような。カンバーバッチ・ハムレットは知的で、どんな行動にもちゃんと理由がある、理性的な男に見えました。狂ったふりしてる時なんて、おもちゃのお城にこもって兵隊さんごっこするんですよ!分かり易すぎる狂ったふりじゃありませんか?面白かったけど、さすがにあれじゃ誰も騙せないんじゃないか、と思えました。

 もともと、ハムレットはウジウジ考えて時を無駄にしてる奴なんです。かなりダメな奴です。途中、ホントにこいつ、おかしくなっちゃったんじゃないの?と思うくらい。幽霊の言うことに惑わされておかしくなっていくのなんて、魔女に騙されるマクベスと同じように愚かなんです。だけど、不思議なことに、シェイクスピアが書いた通りに話を紡いでいくと、最後にハムレットが死んだ時、すごく悲しくなる。あー、死んじゃったー、って思って、ホレイシオと一緒に泣いちゃうの。
 でも今回は、あまり悲しくなかった。いろんな解釈が目立ちすぎて、ハムレットの物語というよりも、演出の、解釈の物語になっちゃっていたんです。それが、賛否両論あった(みたいですよね?)原因でしょう。

 一方で(だからこそ、というべきか)、なるほどと思わせる演出は随所にありました。沢山あって、感心したんです。前記事で書いた他にもザクザクあるんです。次の記事で、思いつく限り書きます。

マダム イン ロンドン その9 カンバーバッチの『ハムレット』

 ロンドン観劇日記最後の1本は、ベネディクト・カンバーバッチ主演の『ハムレット』です。
 公演前から話題沸騰で、完売と聞いていましたので、当日券の列に並ぶことを覚悟していたのですが、同行の友人が事前にチケットを入手してくれて、観られることになったのです。感謝ですー。
 劇場はBarbican Theatre。Barbican Center という複合施設の中の大きな劇場です。開演ギリギリに着いたので、写真が撮れなかったのですが、まあ、外側から建物を見ても、劇場らしい感じはありません。
 それよりも、客席の構造が、画期的です。すごいアイデアです。でもそれについて説明していると、いつまでも芝居の話にならないので、劇場構造については別途、記事を書くことにして、今日はすぐに本題に入りたいと思います。
 
 カンバーバッチの『ハムレット』は、近々中継映像の上映があります。観る予定の方は、観てから読むことをお勧めします。これはもう、絶対!ここで、一旦、引き返してくださいね。



 2015年9月23日(水)ソワレ、Barbican Theatre。 

『HAMLET』
By William Shakespeare    Directed by Lyndsey Turner
CAST     HAMLET        Benedict Cumberbatch
             OPHELIA        Sian Brooke
             CLAUDIUS      Ciaran Hinds
             GERTRUDE     Anastasia Hille
             LAERTES        Kobna Holdbrook-Smith
             POLONIUS      Jim Norton
             HORATIO        Leo Bill 


 『ハムレット』は日本では何度も見ていて、よく知っている芝居ですが、英語での上演を生で見るのは初めてです。私は、期待していました。翻訳すると失われてしまう、シェイクスピアの「詩」の文体(iambic pentameter と呼ばれているものです)を、カンバーバッチの声で聞くこと。私にとって母国語ではない英語で、どの程度味わうことができるんだろう、私は。何も理解できなくても、そのリズムに身をまかせてみよう、と。
 ワクワクして、待っていました。
 結論から言っちゃうと、大きくはぐらかされることになったんですけど。


 客席のドアが全て閉まると完璧な暗闇がやってきて、そしてゆっくりと、舞台の一部分が明るくなります。舞台は幕がおりていて、幕の前のスペースに、現代風のラフな格好のハムレット(カンバーバッチ)が床に、くつろいで座っていました。傍に蓄音器があってレコードがかかっていて、彼は本を読んでいます。
 その時点で既に私は、軽く混乱していました。これは、どのシーンなのか? どのシーンからこの芝居を始めようと言うのでしょう?
 しばらくして、幕の真ん中のドアが開き、チェックのシャツにリュックを背負った、冴えない感じの青年が入ってきて、挨拶をし、沈黙が破れます。ここで、ハムレットは嬉しそうに飛び上がって「ホレイシオではないか!」と言うのです。おー、そのシーンから始めるんだ、なるほど!と思いました。はったと膝を打つ感じです。打たないけど。

 だって、現代風に「ハムレット」をやろうとするなら、最初の、兵士たちが幽霊を目撃するところは、まどろっこしいし、主役はハムレットなんだから、ハムレットから始めようよ、ということですよ。
 ホレイシオが「ゆうべ、王にお目にかかったと思うんですが」と、王の亡霊が出た話をする、このシーンから始めるのは、なんだか凄く理にかなってます。サスペンスの出足は好調です。そして、カンバーバッチ・ハムレットは、「葬式用のパイが冷えたんで、結婚式に出したのさ」と、父王が死んですぐの母の再婚を自嘲気味に話しますが、静かに落ち込んでいるだけで、イライラしたり悩んでいたりはしません。そして、ホレイシオとの話が終わると、後ろの幕がガーッと(上下に)開くのですが、ハムレットはその幕が開ききらないうちに、中へ飛び込んでいきます。プロローグは終わった、さあ本番の始まりです。

 
 幕が開いたそこは、宮殿の広間で、長い大きなテーブルに午餐の用意がされていて、王族たちが美しい礼服(現代風の)を着て、集まってくるのですが・・・そのセット、その衣装、そこに当たる青みがかった照明のなんという美しさでしょうか。光と影と空気が、まるでルーベンスの絵のようなんです。空気の粒まで見えそうな立体的な美しさは、日本で観るどんな舞台の美しさとも違う。西洋の絵の中に入り込んだようです。
 テーブルの用意が出来ていく間に、ハムレットもいつのまにか白い綺麗な礼服を着込んで、席に着く前に、オフィーリアを見つけて駆け寄ります。そして、オフィーリアにキスします。挨拶のキスじゃなくて、恋人らしいキス。普通このシーンにはオフィーリアは出てこないのですが、敢えてオフィーリアを出し、且つ、ハムレットにキスまでさせている! ハムレットは始め、ちゃんとオフィーリアを愛してたんですよ、と演出が言ってるわけなんです。また、なるほどね、って思いました。
 午餐のテーブルに皆が座り、話が進むと、登場人物のほとんどを把握できます。ほぼ全員、ここに揃っていますから。シェイクスピアは上手いな、って思います。レアティーズをやっているのは黒人の役者で、オフィーリアやポローニアスは白人の役者でしたので、肌の色には何の意味もない、ということなんだな、なるほど、ってまた思いました。

 
 あー、こうやってずうっとラストまで、なるほどって言いながら説明するんでしょうか? しろと言われれば出来ますけど、いいことなのかどうか・・・。でも、もう少しかいつまんで、特になるほどと思ったところを続編で語っていきます。 

マダム イン ロンドン その8 続『戦火の馬』

 2015年9月21日(火)19:00開演。New London Theatre。

『War Horse 戦火の馬』
based on the novel by Michael Morpurgo/adapted by Nick Stafford
in association with Handspring Puppet Company
Diredtors                                MAROANNE ELLIOTT and TOM MORRIS
Puppet Design & Fabrication   BASIL JONES and ADRIAN KOHLER

 役者の名前をプログラムから書き写そうとして、諦めました。主役の馬ジョーイの頭、中心部、後部の3人がそれぞれトリプルキャストで(つまり9人)、ジョーイの仲間の馬トップソーンも同じく9人。私が観た日、どの人がやったのか、残念ながらわからない。劇場のどこかに、今日のキャストが掲げてあったのだろうと思うのですが、気づかずに帰ってきてしまいました。あー。

 舞台装置と呼べるものは何もなく、裸の舞台で、背景に左右に流れる川のような白い帯状の装飾がありました。無機質にも思えるシンプルさですが、この帯は実は、プロジェクションマッピングを写すスクリーンだったのです。背景の一部分だけがスクリーンになっていることで、美しくて、有効かつ出しゃばらない舞台効果になっていました。後半、ここに平原を行進していく兵士の列や、不気味に連なって進んでくる戦車の影などが投影されるのが、効果的でした。
 演劇界にとってのプロジェクションマッピングはかつての、映画におけるCGみたいなものですよね。新しい技術として脚光を浴びた時には、使うだけで観客の目を引き、それなりに満足させることができた。費用が安くなってくれば、本物のセット(映画の場合は実写)より安上がりなので、どんどん使って経費削減。でも作品の質は下がってしまい、客にも飽きられる。そのあたりからやっと、他の技術と同じ一つの道具として有効に使う方法を、みんなが考えるようになり、プロジェクションマッピングは、今、そういう過渡期にありますよね。

 『War Horse』は、役者の演技、パペットの美しさと動きの素晴らしさ、よく練られた舞台効果(プロジェクションマッピングを含む)、のバランスが絶妙です。この絶妙さが、すごく先鋭的だし挑戦的だと感じました。

 ジョーイは最初、仔馬で登場します。村の市場で競りにかけられているところを、アルバート少年の父親が、酔った勢いで競り落とし、アルバートが仔馬の面倒をみることになります。

 誰にもなつかない仔馬が、徐々に慣れて、アルバートにだけ心を開いていく様子が、丁寧に描かれていきます。餌を入れたバケツさえ警戒して近寄らない仔馬に、アルバートは根気よく接していきます。ジョーイと名付けたのも、アルバートです。ジョーイとアルバートの通い合いは、本当の馬と人間の交流そのまま。それ以上の擬人化は一切ない。でも、馬の脚の動きの美しさや繊細さ、首を振ったりそらしたりする素振り、鼻を鳴らしたり嘶いたり、本当に馬そのものの表情は実に豊か。そこが原作の意図に沿っていて、好ましいのです。 
 やがて、仔馬は成長して、赤毛の立派なサラブレッドになるのですが、子役から切り替わる瞬間が、人間の役者並みに素敵なシーンです。仔馬がホリゾントの方に吸い込まれるように消えた瞬間に、同じ場所に大人の馬が躍り出てくるのです。
 第一次世界大戦が始まると、村にも軍隊がやってきます。馬が高く売れると聞いて、アルバートの父は目が眩み、アルバートに内緒でジョーイを売ってしまいます。そこからジョーイの苦難の人生(馬だけど)が始まります。

 そう、馬だけど。そこから苦難の人生が始まった、と言うのがピッタリです。擬人化されていない馬に、こんな風に感情移入するものなんだ・・・と感心するくらい、感情移入してしまいましたね。ジョーイは軍隊で初めて、自分以外の馬に遇います。トップソーンという名の黒馬のカッコイイこと!まず、そのことにドキドキ。軍隊で、馬に親切な軍人と、馬に横暴な軍人がいるので、どっちの馬になるかでまた、ドキドキ。戦闘シーンで、ジョーイに乗っていた軍人が撃たれて転がり落ちると、息をのみ。なんというか・・・様々な映画やドラマなどで、騎馬軍の戦いを見せられてきましたが、乗り手の生き死にが描かれるばかりでした。今回は、初めて、乗り手を失った馬の気持ちになった、と言えばわかってもらえるでしょうか。ものすごくショックで不安なのです。
 戦いの場所はフランスで、負傷した馬たちは、フランスの民家に預けられます。ここでジョーイが出会う少女はフランス語で話します。ドイツ軍がやってきて、馬を愛するドイツ将校が登場しますが、彼のセリフは当然ながらドイツ語。なので、もう、細かい意味はわからなくなりますが(じゃあ、それまでの英語は全部わかってんのかと言われたら、なんにも言い返せませんが)、不思議なほどお話は理解できるんですね。セリフのない馬が主役だからなのか、馬を含めて役者の演技が言葉を超えて伝わるからなのか・・・両方なのかもしれません。
 何年かのち、苦難を乗り越えて、ジョーイとアルバートは再会します。その頃には、観客の目にはパペットもパペットを操る人も見えなくなります。観客には、ただジョーイという赤毛の馬が見えているだけです。

 
 『War Horse』は、ナショナルシアターライブで、今後上映があるかもしれません。ロンドンには行けないよ、という方も、是非、見てみてください。演劇の幅広さを感じることができます。
 知人が教えてくれたのですが、犬が主役のオペラがあるそうで、だいぶ前からパペットが使われていたそうです。そういう過程があって、『War Horse』の馬のパペットに実を結んだのですね。
 あー、しかし、人形浄瑠璃の国の者としては、なんだか悔しいです。伝統があるのに、生かすことは先を越されたようで。


 ロンドン観劇日記、最後の1本は、カンバーバッチの『ハムレット』です。
 その前に、日本のシェイクスピア観劇レビューが入る予定です。 

マダム イン ロンドン その7 『戦火の馬』

 ロンドン観劇3本目は、『War Horse 戦火の馬』です。

 

Img_0313

 

 こちらが今、公演中の劇場、New London Theatre 。地下鉄コベントガーデン駅から5分くらい歩いたところにあり、劇場街の一番はずれにある、新しめの劇場です。
 そもそも『War Horse』はNational Theatre 製作作品ですが、ロングランすることになって、こちらの劇場に移ってきたということなのでしょう。新しいアイデアで果敢に攻めている作品は、やっぱり現代的な劇場がよく似合います。
 今回ロンドンで観た4本の芝居のうち、チケットを現地調達したのはこれだけです。あとの3本は全部インターネットで予約してありました。20数年前、東京の英国政府観光局で調べて行って、ロンドンに着いた初日にチケットを買いに走ったのとは、隔世の感があります。でも、現地調達は現地調達でメリットがあったのです。
 ボックスオフィスがすいていたせいもあってか、係りの人は誠に親切でした。私が場所と値段の兼ね合いで悩んでいる間も、悩ませておいてくれましたし、結果的に「公演が近くなって30%オフになっている」大変良い席を勧めてくれて、そこを買ったのです。

 公演が近くなったら、売れ残っている席は少し安くして売る。これは当然のことではないでしょうか? 用のないお食事券が付いてきたり、急ごしらえのアフタートークが付いたりすることより、少し安くして売るべきです。(チケット問題については別途記事を書く予定ですので、この辺にしておきます。)
 
 劇場は、古い劇場とシステムは同じ。まずロビーで飲み物など飲んで開場を待ち、座席によって案内される扉が違い、その扉ごとにもぎりをします。でも場内は、私たちがよく知っている感じの作りでした。少し弧を描くような舞台で、それを囲むような擂り鉢状の観客席。通路も普通にあります。新国立劇場の中劇場(座席数900強)に少し似ていると思いました。座席数が1000くらいですから、割と近いかもしれません。ただ舞台の幅が新国立より広くて、実に観やすい。座席も座り心地の良い普通の椅子で、少しホッとしました。
 
 さて、芝居の中身に具体的に触れる前に、少しだけ原作について解説します。この芝居は、マイケル・モーパーゴの小説(児童文学です)をもとに作られていますが、原作はなんと、馬の一人称で書かれています。それも「動物を擬人化」したという感じがないのです。大人の普通の一人称風なのです。淡々としたナレーションのような。

 それがこの作品の優れたところ。サラブレッドの気品ある姿を、甘い可愛い擬人化で描いたら台無しですし、かといって、馬を飼っていた少年のほうを主役にしたら、少年と別れたあとのことが描けません。これは馬が第一次世界大戦に巻き込まれ、育ててくれた少年と引き離され、戦争に参加させられ、同じ戦馬の仲間が次々死んでいくのを目の当たりにし、それでも、他国でも馬を愛して親切にしてくれる人との出会いがあり、長い年月を経て少年の元へ帰る、そういうお話です。馬の一人称なので、少年との別れや、仲間の死についても、激しい嘆きとか感情の動きを吐露することがなく、淡々と状況を描写していくのです。そこが良い。抑えているからこそ、深く伝わるのです。
 しかし、この小説を舞台にしようと最初に考えたプロデューサーは、馬をどう描くのか勝算があったのでしょうか? 小説の良さをそのままに舞台にするには、馬をどうするかが鍵であり、それが全てと言っても過言ではない。

Img_0269_2

 そして考え付いたのが、馬のパペットです。三人がかりで動かすこの素晴らしいパペットを生み出した美術が、芝居を成立させたのです。

 写真を見てください(ヴィクトリア&アルバート博物館の舞台美術のコーナーに展示されていたのです。ちょっと暗いですが)。馬らしい体のカーブを作り出している骨組みは、籐でできています。軽くて、しなりが良くて、サラブレッドの美しさを過不足なく表現しています。胴の部分には薄い網のような生地が張られていて、光の当たり具合によって、中に入った人の動きも見えます。前足に一人、後ろ足に一人が入って、足の動きを操ります。特筆すべきは、頭の動き。外側に立った黒子が頭の動きを制御し、いななきなどはこの人が声で表現します。
 このパペットの仕組みを見て、思い出すのはもちろん、日本の人形浄瑠璃です。世界にはいろんな人形芝居があって、日本のものだけが参考にされたとは思いませんが、間違いなく人形浄瑠璃の仕組みも研究されたに違いありません。舞台の先人に対する研究とリスペクトの上に、この馬の美しさが成立している!そう感じて、芝居が始まったと同時にじーんとなってしまいました。
 さて、続編で、中身のお話に入っていきます。

マダム イン ロンドン その6 続続『オペラ座の怪人』

 役者はみんな、あたりまえのように上手いです。『ビリー・エリオット』と違うのは、登場人物のほとんどがオペラ座の歌手という設定ですから、求められる歌い方や立ち居振る舞いが全く別物だということで、全然違う雰囲気の人たちがまたまた、ずらりと揃っています。いかにも古いタイプのすごく太ったプリマドンナとか、背筋に棒が入ってそうなくらい真っ直ぐな姿勢のバレエの先生とか。
 クリスティーヌ役も、美人で可愛くて、歌も上手いし、素敵です。でもやっぱり、このミュージカルの主役はファントムです。JOJが登場すると、舞台の緊張感も華やかさも謎めいた空気感も、段違い。それはもちろん、JOJ の存在感が凄いから、なんですけれど、そもそもこの芝居では、ドラマがあるのはほとんどファントムだけなんですよね。
 ファントムは、圧倒的な音楽の才能がありながら、異形の顔のせいで人間扱いされず、やがてオペラ座の奥深くに住み着きました。クリスティーヌと出会って、自分の考えるオペラを体現してくれる女性に、恋をしてしまう。彼女の前に姿をあらわす時、ファントムはいつも正装して顔には仮面をつけています。素顔を見せないように注意している。それなのに、クリスティーヌは悪戯心で仮面を剥ぎ取り、ファントムは愛する人に素顔を見られてしまいます。その時ファントムは断末魔のような叫びをあげます。見せたくなかったのです、この顔だけは。
 そしてクリスティーヌが青年公爵と恋に落ちると、ファントムは嫉妬に狂って、公爵を殺そうとさえします。その時も、ファントムは自分が選ばれないのは異形の顔のせいだと思っています。 それほどまでにトラウマは深い。確かに、仮面を外した時のファントムの顔は、ハッとして眼をそらしてしまうほどの傷があります。
 でもクリスティーヌは、自分が愛しているのは公爵だと言い続けます。彼女は最初から、公爵だけを愛し、心変わりしたわけではないのです。ファントムのことは師として尊敬し、師として愛していただけなのです。それをファントムに伝えるため、彼女はファントムを抱きしめ、唇にキスします。ファントムは驚き、キスに応えることができません。彼女のキスが、師へのキスだとわかったから。そして、彼女が決して自分の顔を嫌っているのではないことも、わかったから。つまり、自分が選ばれないのには理由はなく、ただ公爵への愛に負けたのだ、と悟るのです。
 恋に破れることには理由はない。それを受け入れたファントムは、そっと消えていきます。人々が隠れ家に踏み込んだ時には、ファントムの姿は既になく、愛用の椅子の上に仮面が残されていただけでした。
 

Img_0480 ファントムの喜びも悲しみも愛も、普通の人間には抱えきれない深さがあります。それを表現するには、歌もダンスも全部含めての巨大な演技力が必要ですが、JOJはパワー十分でした。私は、心からのスタンディングオベーションを彼に送りました。嘘のない、本当の本当のスタンディングオベーションです。

 写真、ちょっと暗いですが、右からプログラムその1、プログラムその2、宣伝用の三つ折りのミニパンフレットです。プログラムその2は、お土産用と書かれていて、大判の写真集といった感じです。その1の方はB5版の大きさで、今公演のキャストや詳しい解説など内容が盛りだくさんです。客のお好みでプログラムを選べるわけですが、私は迷わず両方買ってしまいました。
 
 次回、ロンドン観劇日記3本目は、斬新なアイデアに感嘆するしかないストレートプレイです。

マダム イン ロンドン その5 続『オペラ座の怪人』

 2015年9月19日(土)19:30開演。Her Majesty's Theatre.

『The PHANTOM of the OPERA』
Music/ANDREW LLOYD WEBBER  Lyrics/CHARLES HART
Director/HAROLD PRINCE
Cast     THE PHANTOM        John Owen-Jones
            CHRISTINE DAAE     Celinde Schoenmaker
            RAOUL                    Nadam Naaman
            MADAME GIRY         Jacinta Mulcahy

Img_0477

   これが本日のファントム役のジョン・オーウェン・ジョーンズです。ファンの間ではJOJと呼ばれているらしい。JOJの人気もあって、土曜日のソワレは大入り満員。でも、私はまるっきり初めてなので、彼がどういう人なのか全然知りません。それにこれはプログラムの写真なのですが、舞台にいたファントムとは似ても似つかないです。ファントムはいつも仮面をつけていますし、クリスティーヌに仮面をはぎ取られた時は、異形のメイクをしていますから、結局素顔はわからないんです。私が見たファントムは本当にこの人だったんでしょうか?
 でも、彼の素顔がどうでも、眼の前で見た『オペラ座の怪人』は素晴らしかったです。『ビリー・エリオット』がザ・イギリスだとすれば、『オペラ座の怪人』はザ・ミュージカルなのですね。世界中のどんな人でも楽しめそうなお伽話、ファンタジーです。ゴシックロマンスと言えばいいのでしょうか。


 パリのオペラ座が舞台。その奥に人知れず住みついた謎の怪人。異形の顔と、音楽の才能とを持つ彼が、アンサンブルの一人でしかないクリスティーヌの美しさと才能に惚れ込み、そっと彼女の楽屋の鏡の中に現れて、教え導きます。クリスティーヌの才能は開花し、オペラ座のプリマドンナの地位を得ます。
 主役を射止めたクリスティーヌを見初めた人がいます。クリスティーヌの幼なじみで公爵のラウル。若く、ハンサムで、金も地位もあるラウルの登場で、それまでオペラの神様と愛弟子のようだったファントムとクリスティーヌの関係は、一気に崩れ、恋の三角関係になります。
 ファントムのほうは、オペラについてのすべてを与えて導き、彼女のほうも無我夢中に付いていってプリマドンナになった。ファントムは、彼女は自分のもの、自分だけを見ている、と思うわけですが、クリスティーヌ側から見ればファントムは音楽の師であり、ヴァイオリン奏者だった亡き父の代わりでもあるわけです。もちろんクリスティーヌも師に対して恋にも似た感情を抱くのですが、ラウルが現れて恋に落ちると、ファントムへの気持ちが恋ではなかったことに気づくのです。

 これはかなり普遍的な(というか、よくある)話なのですね。「マイ・フェア・レディ」の元の話『ピグマリオン』もそうでしょう? それに『オペラ座の怪人』の作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバーは、初代クリスティーヌ役に抜擢したサラ・ブライトマンと結婚したけど、サラに若い恋人ができて破局したというではありませんか。なにもそこまで『オペラ座の怪人』を地でいかなくても、というような話です。
 そしてまた、異形の者と美女の組み合わせもまた、よくある設定です。美女と野獣というのもありますし、エリザベートとトートも実はこれのバリエーションかもしれません。

 
 『オペラ座の怪人』の素晴らしさは、普遍的(よくある、ともいう)な話を、オペラ座伝説に乗っけて、豪華でロマンチックで叙情的な恋物語に仕上げたことです。
 「オペラ座」が舞台なので、当然オペラのシーンがたくさんあります。それが皆、本物のオペラのように派手な装置と衣装で、客を楽しませます。多少デフォルメされていますが、歌とダンスも全員がうまくて迫力があり、本物です。「マスカレード」を歌い上げるシーンは、楽しさの極致です。それがベースにあって、怪人の住むオペラ座の奥の隠れ家がまた、謎めいて美しい意匠なのです。
 およそこんなに華麗で美しくてゴージャスで、また、サーカスにも似た見世物としての楽しさを持った舞台はないです。舞台美術を眺めてるだけでもドキドキします。ファントムがクリスティーヌをさらってゴンドラに乗せ水の上を渡っていくシーンの、眼に滲みる美しさといったら! 床からガス灯が次々生えてきたと思ったら、床は水面に変わり、舞台の奥からゴンドラが現れます。舞台上の大転回に合わせて、オーケストラはテーマ曲をダイナミックに奏でます。目と耳と心が、釘付けです。
 そのほかにも、ファントムの怒りでシャンデリアが落ちてくるシーンでは、ほんとに客席の上を通過して落下してきますし、ファントムが舞台の縁にある天使のレリーフに乗って降りてくるシーンも、客席の真上に降りてきます。2階や3階の前列の客はさぞ、楽しいでしょう。猿之助の宙乗りを待つ、歌舞伎座の3階席のようです。
 こんな舞台が作れるのなら、昨今のプロジェクションマッピングの手法など、いらないです。全部本物を見せてくれるのですから。

 
 私は気がついてしまいました。私が今夏観た、日本版「エリザベート」、すごく良かったのですが、ロンドンではあれがやっとスタンダードの水準なのです。「エリザベート」すら、ぎりぎり水準に乗れるかどうかぐらいなんです。素晴らしさは、その上に更にどれくらい積み上げができるかにかかっているのです。参りました。
 
 続続編で、まとめに入りたいと思います。

マダム イン ロンドン その4 『オペラ座の怪人』

 さてロンドン観劇日記の2本目は、ミュージカル『オペラ座の怪人』です。
 ミュージカルは苦手なんじゃなかったの?という声が聞こえてきそうですが、私が苦手なのは「日本の」ミュージカルです。とはいえ、これまでは、海外のミュージカルも映画でしか見たことはありませんでした。来日公演はあまりに値段が高いし、本場のものはやはり現地で、現地の観客に混じって見てみたかったのです。それに、観劇にとって言葉の壁はあまりにも高い。ストレートプレイを見るには入念な予習が必要です。ミュージカルは歌とダンスで、少しだけ言葉の壁を低くしてくれます。

 

Img_0353

 

これが今『オペラ座の怪人』上演中の Her Majesty's Theatre。ピカデリーサーカスからトラファルガー広場へ向かっていく通りにあります。劇場が沢山ある一角にある、歴史ある劇場です(漱石もこの劇場で芝居を見たらしいです。ほんとに?ほんとなら、すごく嬉しいです。先祖が開拓した地に降り立った気持ちですね)。
 入り口は狭く、さりげなく舞台写真のポスターが飾られています。この写真の前で、みんな記念写真など、撮ります。
 ロビーも広くなくて、プログラムを買ったらすぐ、客席へ。ここでも、各階ごとにもぎりはきっちり分かれています。赤い絨毯の敷かれた狭い階段を少し降りたら、そこが一階席です。
 伝統ある中規模の劇場。いろんな意味で、古いです。作りの基本はVictoria Palace Theatreと同じで、どんな客席も舞台から遠くありません。席と席の間は狭く、また前後を分ける通路もなくて、観客席の奥行きは狭いのです。そしてその代わり、天井は高い。二階席、三階席は舞台に近くそそり立ち、まるで舞台を真下に見下ろすようです。絨毯は赤く、舞台を縁取るレリーフは金色に塗られ、空気が琥珀色をしています。
 二つの古い劇場に行ってわかったことは、劇場の基本は、はるか昔のグローブ座の頃の作りにあるのでは?ということです。限りなく円形に近く、舞台を囲むように客席があり、どの席からも役者の生の声が聞こえ、顔が見えるように、工夫されているのです。
 しかし、古いことは良いことばかりではありません。座席は跳ね上げるバネが強くて、身体が折りたたまれるような気がします。日本人の中でも身体の小さい方の私は、折りたたまれて、足裏が床につきません。爪先立ちしてるみたいになってしまいます。この格好で3時間は、なかなか辛いものがありました。
 それに一階席には、変なところに柱があって、その陰にも座席があります。私の席のすぐ近くに柱があったので、その陰になる席はさすがに売らないだろうと思っていました。ところがそこにも客が座ったのです。普通にしていたら、その人は柱しか見えません。彼女は芝居の間ずっと、柱に抱きついて、横から顔を出して見ていました。その席は相当安いとは思いますが、すごく大変そうでした。
 それでもこの『オペラ座の怪人』だけは、古色蒼然とした劇場がふさわしいのです。芝居が始まったら、劇場がオペラ座そのものと化すことが必要なのですから。
 客席は、三分の一、いえ、もしかしたら半分近く、観光客だったかもしれません。土曜日のソワレで、満員でしたが、ガイドに連れられた日本人のグループを見かけましたし、韓国人のグループもいました。スカーフで頭をくるんだ女性もいましたし、ヨーロッパ各地からの客がいて、客席はいろんな言葉が飛び交い、賑やかでした。普段芝居を見ないような人でも、ロンドンに来たら一度はミュージカルを観よう、そう思った時、一番に選ばれる最も有名な演目なのです。
 続編で、芝居の中身について書いていきます。

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

関係するCD・DVD

無料ブログはココログ