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横田栄司

『エレクトラ』を観る

 予習する暇はなかった。4月15日(土)ソワレ、世田谷パブリックシアター。

りゅーとぴあプロデュース『エレクトラ』
原作/アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス「ギリシア悲劇」より
上演台本/笹部博司 演出/鵜山仁
出演 高畑充希 村上虹郎 中嶋朋子 横田栄司
   仁村紗和 麿赤児 白石加代子

 マダムはギリシャ悲劇、あまり得意ではないのよ。神様がなんでも決めちゃうのが不服なの。
 だから、今回は、初見の高畑充希への関心と、横田栄司の良い声に聞き惚れに行ったの。
 最初に言っちゃうけど、アイギストス(横田栄司)の出演時間があまりに短く、1幕終わった時点で帰ろうかと思ったよ。聞き惚れる暇がないほど、短かった!
 なんてもったいないことをするの?ずいぶんじゃないの。
 でもそれは、芝居そのもののお話ではない。だからこれ以上は言わないことにする。

 ギリシャ悲劇には全く詳しくないので、何一つ偉そうなことは言えないけれど、なんだかはっきりしない舞台だったの。
 違和感があったのは、名のある達者な役者さんが揃っているのに、演技のメソッド(というか、発声法とかテンポとか色合いとか、リアリズムなのかとか演技の向かう方向)がバラバラな感じがしたこと。白石加代子は早稲田小劇場の白石加代子だし、麿赤児はアングラだし、横田栄司は文学座だし、中嶋朋子は鵜山組シェイクスピアの演技だし、高畑充希はテレビドラマに出ているときとあまり違わないし。なので、演技(の種類)がかみ合ってなくて、シーンを重ねても、こちらの気持ちが積み上がっていかないのね。
 鵜山演出は大抵、たとえば昨冬の『ヘンリー四世』のように、緻密に積み上がっていって、最後にはちゃんと受け取れるものがある。のだけれど、今回は、散漫で、なにがやりたかったのか、焦点をどこに持って行きたかったのか、わからなかったわ。
 台本にかんして素朴な疑問なんだけど、アイスキュロスとソフォクレスとエウリピデスはそれぞれ作風ってものはないの? それを無視して簡単に合体させられちゃうもんなんだろうか? やたらに軽くて、一本スジが通らない感じがするのは、やっぱりこの台本のせいじゃないのかしら?
 
 初見の高畑充希に関して言えば、なかなか面白い舞台女優になりそう。期待大〜。だけどまだ、相手と相乗効果を生む感じにはならないので、オレステスとエレクトラの二人だけの会話だと、聞いてるのが辛い。グダグダになっちゃうのね。
 でもそのオレステス(村上虹郎)、2幕になってイピゲネイアと二人のシーンは、なかなか面白かった。それはもう、中嶋朋子の力なの。もっと早く出てきてくれればよかったのに。
 
 芝居自体がどうも印象散漫なので、マダムは途中で他のことをいろいろ思い浮かべたのだけれど。一番思ったのは、同じ頃の同じ登場人物を描いていても、ギリシャ悲劇とシェイクスピアだと、こうも違うのかってこと。
 マダムにとってのアガメムノンといえば、同じ鵜山演出のシェイクスピア『トロイラスとクレシダ』の鍛冶直人アガメムノンなの。どんな場所にも自分のディレクターズチェアを運んでって座る指揮官アガメムノン。
 『トロイラスとクレシダ』のアガメムノンやギリシャの将軍たちは、みんな等身大の人間で、なにより合理的に描かれていたの。合理的で、ドライで、名より実を取る考え方が浸透している感じ。
 同じアガメムノンという名の人物でも、ギリシャ悲劇の中にいるのは、神と対峙し、実ではなく名を選び(だって生贄に自分の娘を差し出しちゃうんだもの)、そのせいで妻に殺されてしまうような男。ドライさは全然無い。
 比べると、シェイクスピアはすでに、今の私たちと同じような目線で人間を見ている。ギリシャ悲劇は、やっぱり私たちと同じ地平には無いものなのかもしれない。等身大の人間じゃないんだよね、描いているものは。
 とすれば、今回の舞台は、ギリシャ悲劇らしくなかった。イメージとして壮大さがなくて、隣のお姉さんがお母さんを嫌ってる話みたいになっちゃってたもの。それで、最後にお母さんを許して、自分もお母さんになろう!なんてさ。まるっきり隣のお姉ちゃんのお話でしょ?
 
 でもね、凄くつまんなかった訳でもないのが不思議なの。だって、観終わって1週間近く、あーでもないこーでもないって考えていたんだもの。こんなに反芻できるなんて、まるっきりつまらなかったら、ないもんね。

 
 さて、マダムはゴールデンウィークに引越しを予定しております。かなり忙しく、またインターネット環境が一瞬途切れることもありますし、次の更新までには間が空きますこと、お許しを。また、コメントをアップしたりお返事したりも、遅くなってしまうかもしれませんので、ご承知おきくださいね。


 
 

横田栄司 in チェーホフ!

 私生活的に忙しくて、しばらく劇場に行けないマダム。
 家のPCには、楽しみな芝居の予告が色々届くんだけど、やれ、来年2月だの、来年5月だの、来年9月だの!いくら面白そうでも、来年の話なんか、生きる糧にならなーい。
 そこへ、飛び込んできた、このニュースに、マダムは踊った〜!
 今年9月、ケラ演出のチェーホフ『ワーニャ伯父さん』に横田栄司出演〜。やったー、超楽しみ! ケラ演出のに出る、ってところが肝心でね。だって、一昨年のケラ演出『三人姉妹』がマダムが初めて面白いなあって感じたチェーホフだったから。それまでチェーホフはピンと来たことがなかったの。ケラリーノ・サンドロヴィッチ自身で上演台本を作ってる、ってところがミソなのではないかしらと、マダムは思っているのだけれど。
 はやる気持ち抑えきれず、『ワーニャ伯父さん』を読んでみた。
 実はうんと若い時、上演を観てるはず・・・なんだけれど、全然憶えてなくてね。確か俳優座の舞台だったということ以外、なあんにも憶えてない。ダメな舞台だったかどうかもわからないの。だって、マダムは寝てたのかもしれないしね。本も読んだと思うのに、何一つ覚えてないの。
 でも今回、読みながら、あーこの役は宮沢りえだよねー、あーこっちが黒木華だねきっと、あー、それでこれ、じゃなくてこっちが横田栄司!だって、あっちが段田安則だから・・・とか色々、色々思い浮かべたら、なんだか凄く面白く読めたの。役者を嵌め込んで読むと、会話が立体的になって、何も起こらなくても、面白いの。まあ、マダムの年の功もあるかもしれないけど。
 あ〜、早く彼がどの役をやるのか、知りたいなあ。あのいい声のセリフに、耳傾けたい。
 今年の横田栄司のラインナップは凄いのよ。だって、4月に鵜山演出のギリシャ悲劇でしょう? 9月がケラ演出のチェーホフでしょう? そしてたぶん(これは勝手にマダムが決めてるの。だって吉田鋼太郎芸術監督第1作に彼がいないなんて、ありえないからっ。)12月に吉田鋼太郎演出のシェイクスピアだよ?!
 マダムが好きな役者さんの中でも、こんな凄いラインナップの人はほかにいない。ちょっと、来てるぞ〜って思う。
 ほんとによかった。マダムも今年はこれで生きていける。だって、やっぱり一番好きなのはストプレなんだもん。ミュージカルも悪くはないけどさ・・・。でも。
 ぎっちり中身の詰まったストレートプレイに浸りたい。

 
 
 
 

『お気に召すまま』追記

 シアタークリエの『お気に召すまま』について、記事内容に言葉が足りてないところがあるようなので、補足するね。

 マダムは演出が気に入らなかったんだけど、「設定を1960年代のアメリカにもっていった」ことそのものが気に入らなかったんじゃないのよ。さらに言えば、その演出が失敗してるから批判してるわけでもないの。そもそも失敗なのか成功なのか判断材料がなさすぎだし。
 それが日本人の観客にどんな効果をもたらすか、演出家がよく考えてないのがありありとわかるので、嫌だったの。

 面白いと思ったから演出家は、その設定を選んだわけでしょう? ならば、日本人の観客に面白さをわかってもらおうと努力をしてほしいのよ。そのためには、自国で演出するのとは違う努力が必要となる。それが他国で演出する、ということなのではないかしら?
 努力したけど失敗してしまってる、というのとは、今回の舞台は違うと感じたわ。
 あのままでアメリカ人は面白さをわかるんだよ、っていうんなら、向こうで上演してるものをそのまま来日させればいいわけなのでね。マダムだって、もしブロードウェイでこういう演出を見たら、別の見方、別の反応ができると思う。

 もしこれがシェイクスピアじゃなくて、三島由紀夫の戯曲だったら、演出家はもっと身構えるでしょう?
 シェイクスピアは自分たちのところが本場だから身構えがいらない、と思っていないかしら? それが嫌なの。そして、依頼する側も、そちらが本場なのでおまかせしますっていう態度があるでしょ?(ミュージカルの時の作曲の依頼とかも、同じ精神構造が感じられるよ。)どっち向いて芝居作ってんの?と思うの。お金払って観てるのは、私たちです。
 
 ちなみに、これは役者さんたちを批判してるんじゃないんです。役者さんたちには全く関係がないこと(というか、どうしようもないこと)だから。
 むしろ、役者さんたちだけは私たち観客の方を向いてくれている、と思う(あたりまえのことといえば、そうなんだけど)。

 あー、またホントのこと、書いちゃったな〜。
 エネルギーがいるんで、大変なのよ、ホントのことを言うのって、ね。

2017年はシェイクスピアで幕開け『お気に召すまま』

 あけましておめでとうございます。
 今年も拙ブログを、どうぞよろしく。
 4月頃までは、私生活上の理由により、観劇数も減る予定で、記事も短めになるかもしれないけど、ご理解下さいね。

 今年の観劇はじめは、やはりシェイクスピアで。1月7日(土)マチネ、シアタークリエ。

『お気に召すまま』
作/ウィリアム・シェイクスピア  翻訳/小田島雄志
演出/マイケル・メイヤー  音楽/トム・キット
出演 柚希礼音 ジュリアン 橋本さとし 横田栄司
   伊礼彼方 芋洗坂係長 マイコ 小野武彦 ほか

 宮廷社会からそれぞれ追放された男女、ロザリンドとオーランドーが、辿り着いたアーデンの森で日々を過ごしながら、互いの気持ちを確かめ合って、ラストに結婚に至ってめでたし、な物語(なんていい加減なまとめでしょう)。
 もちろん、その間には、シェイクスピアの喜劇には付きもののエピソードが満載。女の子が男装して男になりすましたり、そのなりすましに恋人さえも気づかなかったり、女同士の熱い友情があったり、堅物の人が信念が崩れ去って豹変したり、道化が人生を達観してたり。ご都合主義的な大団円がやってきたり。
 でも、今回の演出は、マダムが知ってるシェイクスピアとは、ずいぶん違うものだったの。

 芝居の時代設定をアメリカの1960年代に置き換え、宮廷は当時の政界に、アーデンの森はヒッピーの聖地ヘイトアシュベリー(どこ?)に設定してる。なので最初は、オーランドー(ジュリアン)もその兄オリヴァー(横田栄司)も現代風のスーツ姿だし、ロザリンド(柚希礼音)も従姉妹のシーリア(マイコ)もミニのワンピースに白いストッキングだったりする。そして場面がアーデンの森ならぬヘイトアシュベリーに移動すると、そこに住む住人たちはもちろん、移動してきたロザリンドたちもみんなヒッピー風の衣装になる。セットの色合いもそれに合わせて無機質からカラフルに変わる。
 のだけれど。それで?と、マダムは思ったのだった。こちらは1960年代のアメリカについてあまり意識したことないし。さっきも言ったけれど、ヘイトアシュベリーって台詞で言われたって、「それ、なに?どこ?」っていう感じだし。置き換えたことで起きる化学変化は?ないの?
 芝居が始まってまもなく、マダムの中に「やらかしちゃった」感が生まれたのね。日本(語)を解しない外国人演出家の「?」な演出。あったよねえ、これまでも。シェイクスピアだから、向こうでやってるアイデアのまんまでいいと思ってるでしょう?言葉を翻訳すれば済む話じゃないのよ。言葉の壁は脳の壁。日本の役者は、言葉のみならず、身体も日本語で動いてるのよー。歴史的あるいは政治的常識も全然違うの、考慮してない。トニー賞受賞の演出家だとしても、認めませーん。

 で、ヒッピー風の衣装が最も似合いそうな橋本さとし(ジェークイズなんだけど、せっかくのキーマンが、意味ありげなだけになってた)とか横田栄司が、そっち側じゃないしね。また日本人には着こなしが難しい服なので、舞台上がカッコよくない。みんな着慣れてないし。着せられてます感が漂ってて。(長い髪で、擦り切れたベルボトムのジーンズが似合う日本人、思い当たった。Char!めちゃくちゃカッコイイっす。そこまで到達しろとは言わないけれど。嗚呼。)

 だけどただ一人、どの衣装も着こなし、かっこいい人がいた。柚希礼音、その人。
 マダムは途中から、シェイクスピアであることは忘れることにし、柚希礼音のロザリンド押しで観ることに方針転換した。そうしたらかなり、楽しかったのよ。
 宝塚の男役出身の人が退団後最初にシェイクスピアに出演するのは、よくあることよね?古くは大地真央のヴァイオラとか、最近も音月桂のヴァイオラとか。柚希礼音も同じように、男装してからが面目躍如。(ミニのワンピースの時は、本人のドキドキが伝わってくる気がした。)カッコよくて、生き生きしてて、いろんな反応がヴィヴィッドで、目がキラキラしてて、つい目で追ってしまう魅力的なロザリンドだったわ。(シェイクスピア作品として本来のロザリンド像にかなうものなのかは、よくわからないんだけど。)そしてずうっとベルボトムジーンズ姿の男装だったのが、最後に真っ白なウェディングドレスになって出てくると、客席から一斉にため息が漏れたの。素敵だった〜。
 だからね。ヒロインがなかなか魅力的で、まわりに橋本さとしや横田栄司や小野武彦など百戦錬磨の役者を配しているわけだから、これでオーランドーさえよかったら、トンチンカンな時代設定でも役者の力でもっと面白くできるんじゃないかしら?まだ公演は始まったばかり。オーランドーの奮起を期待するわ。ロザリンドに本気で惚れてくれい。
 
 記事が短めになるかも、って言ったそばから、こんなに長く書いてしまったわ。
 やっぱり書きたいんだわね、本当は。

 
 

横田ホレイシオ再び

 シェイクスピアの講座に行ってきたわ。10月22日(土)1:30〜、清泉女子大学。

 
清泉女子大学ラファエラ・アカデミア一日講座
シェイクスピア没後400年記念特別企画
『ハムレット』から見える世界 トークと朗読ワークショップ

 講師 横田栄司
    米谷郁子(司会) 清泉女子大学英語英文学科准教授

 
 役者さんが講師になるシェイクスピアの講座は、これまでも色々あったのだけれど、平日のことが多くて、なかなか行けなかった。今回は土曜日だったので、これ幸いと行ってきたの。
 配られた資料には、ハムレットについてのアカデミックな説明が色々あり、マダムが日頃気にしていた「ハムレットって、一体いくつの設定なんだろ?」というような疑問にも、答え(あくまでも研究上の)が載っていて、なるほどなるほど、と思ったの。
 でも、始まったら、とにかく「今日はもう、横田さんの話を聞こう」という流れになり、受講者全員が、待ってました!な感じで、前半は横田栄司のほぼ独演会だったわ。

 彼はこれまで、「ハムレット」に様々な役で出演している。蜷川演出に初めて出たのが、真田広之主演の「ハムレット」で、このとき彼はレアティーズ。その後、野村萬斎主演の「ハムレット」でホレイシオ。そして皆知ってる藤原竜也主演の「ハムレット」でホレイシオ。
 会場では萬斎ハムレットのときのDVDから、幕開きのシーン(夜中の城壁で、ホレイシオが亡霊に会うシーン)が流れた。10年以上前の作品なのに、横田ホレイシオは今と変わらぬ落ち着きが備わっていて、マダムはおおっ!と思ったわ。
 ホレイシオは好きですか?と問われ、それについては好きとも嫌いとも言ってなかったけれど、ホレイシオは俯瞰する人物だ、と分析していて。そして知性の人である、とも。だから幽霊なんか信じていない。その彼が王の亡霊を見たから、信憑性があるのだ、という言葉に、納得。
 話の中心は、二度のホレイシオ体験について。同じ役とはいえ、相手役によって変化があって、萬斎ハムレットとは学友な感じだけど、藤原ハムレットとは悪友な感じだった、と。そしてそこから、昨年の「ハムレット」のときの蜷川演出が、いかに苛烈なものだったかの話になった。
 当時すでに闘病中だった蜷川御大は、車椅子で酸素チューブ付き。病院から稽古場に通っていた。病院のベッド上、御大の頭の中では稽古がどんどん進んでいて、でも現実の稽古場に来てみると、出来てたはずのことが出来ていない。なので、御大はいまだかつてなかったほど激しく怒っていて、とても大変であった・・・そうなの。
 「竜也にもっと優しくしろ!」と怒鳴られ、「・・・あの、それは、舞台上でしょうか?それとも、普段の竜也に、ですか?」と問い返し、「馬鹿野郎!舞台上に決まってんだろ!飲み屋で優しくしてどうすんだ」とまた怒鳴られた横田栄司。「それなら竜也に、じゃなくて、ハムレットに優しく、と言ってくれないと・・・」って。みんな大爆笑だったわ。
 この話を聞いていて、マダムはちょっとリア王を思い浮かべたの。御大、ちょっとリア王入ってるよ。
 
 質問していいと言われたので、早速手を上げて質問してみたマダム。
「本来なら今頃、小栗旬くんのハムレットが上演されていたと思いますが、横田さんはどの役をやるはずだったのですか?」
 我ながら、めちゃくちゃいい質問だわ。答えは、
「出演の予定はあったんですが、役はまだ言われてませんでした。」
とのこと。でも、ホレイシオはもうなかっただろう、と。ホレイシオは、二人のハムレットには相まみえない、のだそうだ。だから、他の役、いくつかを挙げていたんだけど、「なにがやりたいですか?」と訊いたら、素晴らしい答えが返ってきた!
「河内大和とのコンビで、ローゼンクランツとギルデンスターンがやりたいです」
だって! うおー、なんて贅沢。それ見たい、是非、それ採用してほしい。そして「ハムレット」公演後、今度はその二人で引き続き「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を演ってほしい!!!
 さい芸シェイクスピアシリーズ番外編で、是非!
 
 休憩を挟んで後半は、朗読ワークショップ。受講者の中で希望した人が前へ出て、ハムレットとホレイシオとオズリックのセリフを読み合ってみる。
 何組かやってみたんだけど、毎回、横田アドバイスによって、どんどん変化して、芝居が立体的になっていくのがわかるの。面白い!マダムは、出来上がった芝居も好きだけど、作っていく過程も好き。見ると、ワクワクする。
 最後に、受講者の中にいたAUNの齋藤慎平と、清泉の学生さん(たぶん)、そして横田栄司で、読み合ってくれた。もちろん横田ホレイシオで。
 横田ホレイシオの「負けるんじゃないですか、この試合」というセリフがまた聞けて、幸せだった。
 
 あっという間に2時間が過ぎ、聴き足りない気もしたけれど、とにかく楽しかった。芝居を観るだけじゃなく、こうやってあれこれ考えたり、勉強したりするのがよっぽど好きなんだね、マダムは。老後もたぶん、飽きないわ。
 
 探求する次の課題も見つかった。
 司会の米谷先生が少し言いかけて、あまり掘り下げずに終わってしまったのだけれど、ホレイシオが死んだハムレットに言う「Goodnight,sweet prince」というセリフの「sweet」。これが問題なの。
 これをどう翻訳するか。2003年に河合祥一郎訳で、初めて翻訳された(と、マダムは聞いてます。ホントかな?)ときは「やさしい王子さま」。
 でも米谷先生的には「やさしい」よりも「いとしい」である、と。そうなると、少しホモセクシャルな感じになってくる。
 じゃあ、小田島訳、どうなってたんだっけ?と思って、見てみたら、「おやすみなさい」だけになってて、王子様すら訳されてなかった!
 このあたりについては、個人的に、探求してみたいな、って思ってる。
 

『あわれ彼女は娼婦』2回目は千秋楽

 千秋楽というものに行くのは、ほぼ初めて。6月26日(日)マチネ、新国立劇場中劇場。

『あわれ彼女は娼婦』

作/ジョン・フォード 翻訳/小田島雄志
演出/栗山民也

出演 浦井健治 蒼井優 伊礼彼方 大鷹明良 浅野雅博

   横田栄司 宮菜穂子 石田圭祐 デシルバ安奈 中嶋しゅう  ほか


 座席の位置が違うだけで、こんなにも印象は変わるのか、と思ったの。
 もちろん、演出が変わるわけでなし、最初の時に書いた記事で撤回することは何も無い。
 2回とも、そうとう後ろの席だったのだけれど、1回目は上手(舞台に向かって右側)、2回目はかなり下手だったのよ。で、下手はね、大きな十字架状になってる舞台がまっすぐこちらを向いているわけよ。それで、役者達がマダムの方を向いてることが凄く多いの。声も上手よりもずっとよく聞こえるし、表情もわかるし。ただし、照明が作り出す、ジョバンニとアナベラの大きな影は、下手にいると全く見えない。同じ後ろの席でもこんなに違うのか、と。(楽日とあって、演出家が客席にいたわ。マダムのすぐ、斜め後ろの席。やっぱり下手のほうが見えやすい席だったのよ。)
 浦井ジョバンニのセリフが、1回目の時、どうも聞こえにくく、ストレスだったのだけれど、今回はほぼちゃんと聞こえた。でもそれが、①浦井くんが頑張って修正した。 ②マダムの席が下手だったから。 ③評判の悪いマイクを調整し直した。 ④マリンバの音が台詞にかぶらないよう、抑えめにした。 以上4つのどれなのか、判断がつかないわ。たぶん、少しずつ全部、なのかな。台詞が全部聞こえても、気持ちが付いていきにくい役なのは同じだけど、やっぱりちゃんと聞こえるってのはいいわ。ストレスが断然、減ったの。
 
 千秋楽だからって、ノリノリになるような内容ではないので、大きな変化はないものの、役者全員の空気がちょっとずつボリュームアップしている感があって、それはよかった。
 でもやはり横田ヴァスケスの一人勝ちなのは、否めない。役得であることを差し引いても、大きな空間の支配の仕方がダントツに優れていたのよ。他の役者さんは、もちろん下手じゃないんだけど、支配区域が小劇場並みの人が多かった。そういう人が多かったので、あの半端に広い中劇場に、芝居の世界に組み入れられない空間がたくさんできちゃった気がする。
 あの十字架のセットや、それをわざわざ斜めにしたことも、すべての観客を巻き込めなかった原因なのかも。
 
 今後も、様々な注目の舞台を栗山民也が演出していくでしょう。マダムとしてはその度に、行くかどうか逡巡することになる。これまでも少しそうだったんだけど、今回でかなり決定的になってしまった。
 好きな役者は増えていくけれど、好きな演出家はなかなか増えない。これは大問題。

 千秋楽だからって、大感激したわけでもない舞台にスタンディングオベーションできないなーと思って、座ったままでいたら、最後には誰も見えなくなった。それでちょっと中腰になって、拍手を送ってきました。頑固だわ、マダムも。

『あわれ彼女は娼婦』を観る その2

 昨年冬、この演目が発表になって、浦井健治、蒼井優、横田栄司ときたら、観るよね、もちろん!と思ったわけだけど、その時いちばん気がかりだったのは、演出家だった。
 
 栗山民也は、大ベテランの演出家で、蜷川御大亡き後、劇作家でない演出家としては第一人者と言っていい人。マダムも、彼の演出作品を沢山観てきてるわ。つい最近も『アルカディア』が記憶に新しいし、昨年は『デスノート』、その前年は『海をゆくもの』、それからこまつ座の演出もずっと手がけているから、要所要所でチェックし続けているわけだ。で、彼の演出の特徴を一言で言えば、手堅い。大失敗はないのだけれど、マダムをびっくり仰天させてくれたこともない。(いや、しかし、今回のマリンバのBGMはかなりの失敗だと思うけど。)たぶん、賭けに出るようなことはしない人なのね。
 だから、安心して彼の演出を観る、という人もいるでしょう。でもマダムは、芝居に安心を求めていません! 「この作品がこ、こ、こんな風になってしまうの?!」とか「想像だにしない展開に、脳細胞の位置が変わってしまった!」とかって言いたいのよ、観終わった後に。だから、栗山演出作品で深く満足したのは『海をゆくもの』だけなの。それだって大方は、ずらっと揃った芸達者な役者のおかげだもん。
 今回の『あわれ彼女は娼婦』で、彼が一番やりたかったことはなんだろうか。このシーンだけはどうしても、観客に見せたかったんだ!という思い入れのあるシーンはあるだろうか?
 なにか挑戦することなしに、今、この作品を上演する意味があるのかしらん。

 

 
 作品の最後のほうが、マダムの苦手なスプラッタ調になることについて(こればっかりは、席が近くなかったことを幸運と思う)。
 この間読んだ河合祥一郎の『シェイクスピアの正体』という本の受け売りなんだけれど、エリザベス朝の頃のイギリスって、かなり血なまぐさいのよ、現実が。弾圧されたカトリック教徒は、ここでは言いたくないような恐ろしいやり方で処刑されていて、庶民はみんな、公開処刑場に、それを見に行ってた。人間って、恐ろしい生き物よね。もちろん他人事みたいに言ってはいられない。同じ頃の日本には信長とか秀吉とかがいて、似たような恐ろしい処刑もしてたし、だいたいが切腹ってなによ?滅茶苦茶スプラッタじゃないの。
 えっと、話が脱線してるから、元に戻すと、つまり、芝居の終わりにスプラッタ調になって、沢山人が死ぬのが、この頃の流行りだったんじゃないかしら。
 歌舞伎だって、四谷怪談にしろ女殺油地獄にしろ夏祭浪花鑑にしろ、残酷な人殺しのシーンを固唾を飲んで見守っちゃうわけだし、それを楽しんじゃうための様式美なんじゃないかな。
 えっと、つまりなにが言いたいかというと、観客が楽しめるスプラッタにするのが正解なのじゃないか、ということ。そう考えたとき、栗山演出は、なにが狙いなのか、マダムにはよくわからないわ。リアルにやりたいなら、最初から何もかもリアルを追求していけばいいと思うし。心臓だけリアルってさ・・・。
 
 
 エリザベス朝の頃芝居を書いてた、ごまんといる作家たちの中で、なぜシェイクスピアだけが世界的な作家として今も残っているのか。そして、ジョン・フォードもまたいろんな作品を書いただろうに、なぜシェイクスピアのようには残らず、でもなぜか『あわれ彼女は娼婦』だけは現代日本でも、忘れられずに上演がある。その疑問。
 観終わって思いつくままを言うとね。
 芝居の構造とか、ストーリーの展開の仕方とか、人物造形とか、シェイクスピアにとてもよく似てる。こういうのが当時、流行ったのだろうな、と思う。でも、『あわれ彼女は娼婦』には、シェイクスピアが書くような、普遍的な腑に落ちるセリフがないの。そこが決定的な違いなのね。資質の違い。才能の違い。
 この作品が日本で上演され続けるのは、邦題があまりにもキャッチーだから、というのは思いつきにすぎるかしら? あわれ彼女は娼婦、って凄く後を引く語感。素晴らしい邦題よ。小田島御大がつけたものなのかしら。舌を巻くほかない。
 で、やっぱり「あわれ彼女」であるアナベラが主役の物語であって、蒼井優がよかったのだから、まあそれでよし、ということになる・・・のかなぁ。

『あわれ彼女は娼婦』を観る その1

 夏になると観劇の荷物が増えて、大変。水のペットボトルに日傘、エアコンの冷風よけのストール・・・。大汗かきながら辿り着いたわ。6月18日(土)マチネ、新国立劇場中劇場。

 
『あわれ彼女は娼婦』

作/ジョン・フォード 翻訳/小田島雄志
演出/栗山民也
出演 浦井健治 蒼井優 伊礼彼方 大鷹明良 浅野雅博

   横田栄司 宮菜穂子 石田圭祐 デシルバ安奈 中嶋しゅう  ほか

 
 シェイクスピアのほんのちょっと後に現れた劇作家ジョン・フォードの、1620年頃の作品なのだそう。
 シェイクスピアを見慣れている身にとっては、いろいろと似ている筋書きが出てくるので、当時こういうのが流行っていたのだろうな、と思いながら舞台を眺めていたの。
 有名な戯曲なのだけれど、マダムは初見。どんな話かは承知してたけど、ディテールは知らなくて。
 でね、最後まで興味深く観たけど、感動するところまではいかなかったかな。
 
 芝居が始まって驚いたのは、ジョバンニ(浦井健治)が登場した時にはすでに妹アナベラ(蒼井優)のことを思い定めていて、逡巡も葛藤もないことだった。兄と妹の道ならぬ恋に、観客も一緒に連れ込むためには、もう少し葛藤してから禁忌に手を触れて欲しいところよね。ところがジョバンニは、神父の前での懺悔でも、全然迷いがなく、不遜といってもいい態度なの。
 で、この態度はジョバンニが死ぬまで変わらない。途中、彼に表れる葛藤は、愛した妹が別の男と結婚しちゃった時くらい。自分の子供をアナベラが身籠ったことについても、それを愛おしく思う様子もあまりないし、彼女を何とかして庇おうとしているのかどうかも、よくわからない。
 これではジョバンニに感情移入はできないわよね。もとより感情移入など求めていない台本なのかも。
 だいたいが、ジョバンニは登場する時、穴の底から階段を上って舞台上に現れるのだけれど、いつも観客に背を向けているのよ。セリフを言いながら、出てくるんだけど、どんな表情をしているのか見えないし、セリフもくぐもって聞こえにくいし。なんと不親切な演出でしょう。
  それと、ジョバンニだけが、妙に現代的な衣装なの。周りと釣り合ってなくて、どうも納得がいかないマダムだった。
 浦井健治の演技で惹きつけられたのは、なんといっても最後の狂乱(?)して死に至るシーンで、そこは素晴らしかった。さすがね。
 
 台本上で葛藤が描かれているのはアナベラの方で、蒼井優の演技は、刻一刻と変化していく女心を生き生きと見せてくれたの。そして、アナベラは夫や他の人々に辱められるよりも、愛する兄の手にかかって死ぬことを受け入れるんだけど、これって、ちょっと近松の心中物を連想させられた。ただ、なんでそこまでいっちゃうのか、観客の方はついていくのが大変。
 近松の場合、禁忌を犯した男女を心中に追い詰めるのは、徳川幕府の締め付けを後ろ盾にした、世間という名の厳しい縛りなのね。では、『あわれ彼女は娼婦』の場合は何なのか?
 それはやはり宗教と、階級よね、きっと。日本人にとって近親相姦は、まず心理的に禁忌で、あとは遺伝的に良くない、というようなものだけれど、『あわれ』の中では、なによりも「神にそむく」ことなのよね。だからこそ、何度も神父が登場し、神父すら恐れをなして逃げていくんだけど。(疑問なのは、神父が「ファーザー」と呼ばれていること。この訳語は、訳者が最初に訳した時からこうなのだろうか? 日本語で「神父様」ではなぜいけないのかしら。不可解。)
 この舞台には、宗教が時代の隅々を支配している圧迫感が、足りないのだと思う。
 そこは日本で上演する時に、演出によって徹底強化されないと理解されない部分なのじゃないかしら。
 舞台の床を、大きな十字架の形にしてあるのは、それを象徴的に表しているのでしょうけれど、マダムは、そんなんじゃ全然足りないと思うの。もっともっと踏み込んで描かないと、受け取れないんだよね。
 それから、枢機卿(宗教の支配者)と、ゾランゾのような貴族と、グリマルディのようなローマ市民と、ジョバンニやアナベラのようなパルマ市民と、ヴァスケスのようなスペインから無理やり誘拐されてきた召使・・・というヒエラルキーが、この演出では、よく理解できないの。もっと、くっきりと衣装の色で分けるとか、工夫が必要よ〜観客は私たち、日本人なんだもん。
 
 こんな内容の本なので、全体に沈みがちな舞台。だけど要所要所で弾みをつけてくれたのは、半ばで死んじゃったバーゲット(野坂弘)と、影の主役みたいな役どころのヴァスケス(横田栄司)。
 バーゲットは、作家が描いた時には、ただの愚かな狂言回しだったのかもしれない。シェイクスピアの『十二夜』のサー・アンドルーの系譜。暗いお話に花を添え、観客の気持ちを和らげる。ジョン・フォードはバーゲットにそれ以上の意味があると思っていなかったのではないかしら。
 でも、現代の私たちがこの芝居を観る時、作家が思ってもいなかっただろう意味が、この役にはある。それは、登場人物の中で彼だけが、財産だの身分だのではなく、相手そのものを愛し求めることのできる唯一の男である、ということよ。(当時、そんな男はアホとしか思われてなかったのね。)アナベラをめぐる男たちが、一人は近親相姦の兄であり、一人は散々女を弄んできた貴族であるということを考えると、バーゲットに純粋に愛されたフィロティスはすごく幸せだと言えるの。現代から見たら。
 ただ残念なことに演出家にはこういう視点はなかったんだと思う。そういう切り口を感じさせる演出は全くなかった。
 一方のヴァスケスだけど、これはもう横田栄司の面目躍如で。凄く自由で、色っぽかった。お話の全体を縦横無尽に駆け抜けるおいしい悪役なのだけれど、余計な力の抜けた自在さに目を見張ってしまったの。最後にあのメチャクチャいい声で「スペイン人の勝ちだ」と言って、国外追放されていくのを見送った時、マダムは、この芝居ではヴァスケスの一人勝ちだー、と思っちゃったのよね。
 
 その2で、ミニミニ作品論、ミニミニ演出家論を展開します。待ってね。
 

さい芸で『ヴェローナの二紳士』を観る

 月に1本シェイクスピアを観るシリーズの10月はこれ。10月24日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

『ヴェローナの二紳士』
作・シェイクスピア  翻訳・松岡和子
演出・蜷川幸雄  演出補・井上尊晶
出演 溝端淳平 三浦涼介 高橋光臣 月川悠貴
   大石継太 正名僕蔵 岡田正 河内大和 横田栄司 ほか

 ここのところ、マダムの心はロンドンと神宮に行ってしまっていて、日本の劇場の呼び声が耳に聞こえなかった。だけど、チケット買ってあったし、出かけてみたの。そうしたら、前から3列目の通路ぎわという絶好のいじられポジションだったので、俄然やる気になって待ち構えてたんだけど・・・役者の誰も、いじりには来てくれなかった。残念だわ。マダムの心を呼び戻したくないのかしら。
 それはともかく、通路を使う演出のおかげで、マダムのすぐ隣でみんな演技するのよ。というわけで、主役4人の美しい青年たち、一人一人を50センチの距離でガン見させていただきました。三浦涼介のなんという美しさ!特にあの、細く伸びた、節さえ細い手があまりに綺麗なので、吸い込まれるように見てたの。眼福だわ〜。

 『ヴェローナの二紳士』は初見。本は30年以上前に読んだはずなのだけど、もちろん忘れていて。でも観て、お話はよくわかった! こりゃ滅茶苦茶な本だとわかったの。
 話のあちこちで、あ、これは「十二夜」だ、とか、あ、この指輪のところは「ヴェニスの商人」っぽいかな、とか色々思うのね。つまりいろんな要素てんこ盛りなんだけど、思いつきばっかりで、凄くこ都合主義でまとめられてて。シェイクスピアの初期の作品らしいけど、処女作と言われてる「ヘンリー六世」を書いた後に、こんなダメダメなの書いちゃってたのか・・・初日が迫ってて3日で書いたのかしら?とか思っちゃった。
 なので、それでもまあまあ楽しく見たんだから、及第点をあげたら?という心の声がか細く聞こえる・・・けれどね!

 まあまあ楽しく見られたのは、主役4人の働きではなく、周りを固めている横田栄司、大石継太、岡田正、河内大和たちの八面六臂の活躍によるもの。ここまで力技でねじ伏せないと、作品を成立させられないんだ・・・と、ちょっと苦笑。上手い役者さんたちの力量を、なんだか無駄遣いしてはいない?頼りすぎでしょ。 
 道化役の正名僕蔵が、本物の犬を連れて出て来るところも、ハラハラしちゃって、マダムはあまり楽しめなかった。

 あんまりな本ではあるけど、それでもドラマがあるのは主役4人のところなので、この4人のシーンがもっと面白くならないかなぁと思った。少し具体的に説明すると。
 ヴァレンタイン役の高橋光臣は、初日にやらかしちゃったことが有名になっちゃってるけど、役柄には合ってる人よね。ヴァレンタインは一本気で、融通の利かないタイプで、まっすぐ過ぎるところが傍目に可笑しい。そこはピッタリじゃない?
 その親友プローティアス役の三浦涼介も、演技はちゃんとしてて、4人の中では一番上手い。美しいしね。
 でもこの二人がしょっぱなに別れを言い合うところから、もう、何かが足りないのよ(舞台上で他の役者たちが小道具を運んだりしていて、客の気が散るのも良くないの)。多分、このシーンで、恋愛とは全く無縁の堅物ヴァレンタインと、女を追っかけることにしか興味のないチャラ男のプローティアスが、鮮やかに対照的でないとダメなのよ。それが伝わってれば、次のシーンでなぜか恋に落ちてるヴァレンタインの可笑しさがいっそう、笑えるし。で、一方のプローティアスは、チャラ男はチャラ男だから、目の前の女を好きなのは本気なんだけど、目の前からいなくなるとすぐ忘れちゃって、違う目の前の女に夢中になる。それも意外じゃなくなる。対照的な二人だってことが、ちゃんと台詞に書かれているんだから、言うだけじゃなく、体で(演技で)、全体的に、客に伝えてくれないと!
 で、そういう全然違うタイプの男ふたりが、親友なわけでしょう?違いを互いに認めて、好ましく思ってる。その親友らしさもまた、最初のシーンで伝わらなくちゃいけないんだよね。だけど、高橋光臣と三浦涼介は、全然親友らしくなかった。だからそのあとの展開が、親友なのに裏切った感がないの。言葉では「親友」って盛んに言ってるんだけど。
 プローティアスは、恋を誓ったジュリアのことをすっかり忘れちゃって シルヴィアに言い寄り、親友を陥れるわ、ジュリアからもらった指輪をシルヴィアにあげようとするわ、最後には力ずくでシルヴィアをものにしようとするわ、とーんでもない男なので、見てると、どんどん深刻になるの。深刻すぎて、色々バレたあとにヴァレンタインがすぐ許すのが、客は受け入れられない。ジュリアとくっついてメデタシとなることも、やっぱり受け入れられない。あっけにとられたまま、笑っていいのか、よくわからないで終わるの。
 三浦涼介のプローティアスの作りが繊細すぎるのね。もっともっと、豪快にチャラ男でいいんじゃない? 男の本能で脳みその95%できてるような。だからジュリアが目の前にいないときは、忘れてるんだけど、小姓の帽子を脱いで女の子のジュリアが現れたら、その場でまた恋に落ちればいいんじゃないのかな。いるじゃない?そんな、ある意味わかりやすい男。そういう風に造作されていたら、客も「うん、そういう肉欲だけのチャラ男って、いるよね。顔がいいからって騙されちゃダメだよ、ジュリア」と思えて、なんとなく笑えたんじゃないかしら。
 
 そして女役の二人。こんなダメダメな本の中にも、ちゃんと良いシーンが用意されているので、そこがもっと心に響くように演出されていたら、マダムはそれだけでこの芝居を観てよかったと感じたでしょう。残念だー。
 それは、お小姓のふりをしてるジュリアが、ジュリアの悲しさをシルヴィアに話し、シルヴィアもそこにいない(ホントはいるけど)ジュリアに想いを馳せて共感する、というシーン。「十二夜」のヴァイオラが公爵に「私の父に娘がありまして、ある人を愛しました・・・」と自分のことを回りくどく語る名シーンがあるんだけど、少し似てる。
 ジュリアの溝端淳平は、可愛い女の子を作り出すことで精一杯。このシーンも頑張ってはいたけど、台詞が次々続くと、何言ってるのかわからなくなってくるのね。そしてシルヴィアの月川悠貴は、台詞を淡々と言うだけで、ジュリアの台詞への反応の演技がない。反応してあげないから、溝端ジュリアが何言ってるかわからなくなるとも言える。
 月川悠貴はもうベテランと言ってもいいでしょ。もう少し上手くなってもいいのに。美しさは確かにピカイチ。マダムの女友達全員を思い出しても、彼みたいに綺麗だった人探せない。女も負ける美しさ。だけど、台詞に感情がこもらないし、相手に反応を返すこともできない。
 マダムは確かにイケメン大好きだけど、芝居心がないイケメンに興味はないの。そういう人は、雑誌のグラビアの中にいればいいのよ。
 
 役者さんにフォーカスしてしまったけど、演出の問題だと思う。ネクストシアターの『リチャード二世』があんなに斬新で踏み込んでいたのに、本公演がこれではね。 マダムは、ネクストシアターのシェイクスピアだけ見ればいいということなのかしら。
 あー、結構笑って楽しく観たのに、書いたら凄く辛口になっちゃった・・・。 

みんなが似てるっていうけど

 わざわざ記事を書くようなことでもないんだけど、ここ2年くらいコメント欄でみんなが言うので、みんなにお返事するような気持ちで書くわね。
 横田栄司が、吉田鋼太郎に似てきた!って、みんな言ってるでしょ?
 でも、マダムはみんなが言うほど、そうは思えなくて。
 ただ、そうおっしゃるのは、マダムがその眼力を信頼している方々なので、きっとそうなんだろうとは思うの。
 でも、何度も言うけど、マダムはあんまりそう感じない。
 なぜかしら?
 ここのところ、ずっと、なぜなんだろうって考えてたら、ちょっと思いついたことがあって。
 よくあることだけど、身内が似てることって、身内だけが自覚がなかったりするでしょ? おとうさんにそっくりですね、とか言われてもどうもピンと来なかったりすることあるじゃない? 関係が近すぎて、客観的になれないんだわね。
 それと同じようなことかしらと思ったの。
 マダムはあまりにも昔から吉田鋼太郎を知ってるので、脳が身内化してるのかもしれない。だから、横田栄司の演技が似てきたとみんなが言っても、よくわかんないのよ。
 まあ今回のアキリーズは、酔っ払った豪快な役だし、吉田鋼太郎の演じたフォルスタッフとか「海をゆく者」とかを思い出すと確かに、似ていなくもない。

 世代の違う役者なので、一概に比べられないのだけれど、本質的に違うところがあるとマダムは感じているの。
 吉田鋼太郎は、どんな役をやっても、その役の人を強くする(強くなっちゃう、とも言える)。
 横田栄司は、どんな役をやっても、その役の人を優しくする(優しくなっちゃうとも言える)。
 いろいろな役をやって、すっかり手練の役者になっても、その人の芯にあるものは隠せない。というより、いい演技をすればするほど、出てくるものなのだと思うわ。
 そこが好きって言えたら、それがファンだってことよね。

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