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横田栄司

無名の人々の御一新を描く AUNの『あかつきの湧昇流』

 スカイツリーを見上げながら、だいぶ歩いて劇場へ。9月16日(日)マチネ、すみだパークスタジオ倉。

劇団AUN第二十四回公演 『あかつきの湧昇流』
作・演出/市村直孝
出演 吉田鋼太郎 大塚明夫 黒沢ともよ 横田栄司 北島善紀 星和利
   長谷川志 岩倉弘樹 松本こうせい 飛田修司 谷畑聡 長谷川祐之
   齋藤慎平 杉本政志 伊藤大貴 坂田周子 悠木つかさ 金子久美子
   長尾歩 工藤晶子 沢海陽子 佐々木絵里奈 山田隼平 松尾竜兵
   橋倉靖彦 河村岳司 近藤陽子 砂原一輝 宮崎夢子

 
 AUNが2014年に初めて『有馬の家のじごろう』を上演して以来、市村作品4作目。マダムは今作がいちばん好きかもしれない。
 1作目の時は、シェイクスピア劇団の人達が日本人の役をやっていることが信じられず、観る側のマダムのほうがついていけてない部分があったのだけれど、もうそんなことが嘘のように市村作品に馴染んでしまった。
 役者さんたちも、始めは着慣れない着物姿だったのが、今ではすっかり似合うようになっていて、不思議なものね。

 あらすじを全部説明するのはあまりに困難なのでやめておくけれど、どんなお話だったか、一言で言えば「無名の人々にとって明治維新とはどんなことだったのか」を描いてる。それは「明治維新」という言葉で普段イメージされるものとはだいぶ違うの。
 私たちは歴史を教科書で勉強したり、大河ドラマなんかを見たり、司馬遼太郎なんかを読んだりして、当時のことを俯瞰してわかった気になってるけれど、その只中に生きた人たちのことを存外知らないものなのだ、としみじみ思った。
 
 武士の格好をして旅をしている弥之助(実は女、黒沢ともよ)と、そのお供をする家臣の伊三次(吉田鋼太郎)はいかにも仇討ちのために旅しているのだけれど、その詳細はなかなか明かされない。二人は道に迷い、山中の廃寺に行き着く。寺は、近くの銅山で働く鉱夫たちの宿に使われていて、訳ありな親子が寺に住み込みで働いている。
 所変わって、江戸の同心の善八(大塚明夫)は手下を使って薩摩方を探らせて、薩摩の精神的支柱である美樹十三郎(松本こうせい)の居所をつきとめ、捕らえて処刑する。薩摩藩士潮甚平(横田栄司)は、十三郎の仇を討つべく、善八の手下を一人一人手にかけていく。善八は死を覚悟し、幼い養女を手下の又吉(松尾竜兵)に託して逃がし、自分は薩摩藩邸に乗り込んでいく。
 というような全く違う場所、時間のふたつの物語が、並行して進んで、やがて弥之助と甚平と又吉の因縁が明らかになる…。
 
 芝居の作りはかなり複雑で、幕末のとある時期(安政の大獄の頃)と、明治五〜十年くらいの、割と近距離のふたつの時間が交錯するのね。さらに場所も、足尾銅山の町、江戸、薩摩や会津に次々と飛ぶ。そして時間と場所についての説明はわざわざしない。ヒントはごく普通の会話の中にこっそり練りこまれていて、こちらが感覚を研ぎ澄ましていないと、捕まえ損ねてしまうわけなの。
 でもこれは台本の失敗ではなくて、作家(そして演出家)の狙いがまさにそこにあるのね。色々な断片が少しずつ集まっていって、最後の大団円で一気にパズルが組み上がって目の前に全容が開ける…それが市村作品のカタルシス。
 なので、観終わった後の友人たちとのお喋り(反省会)でも、「登場人物表と関係図と歴史年表が欲しかった」という意見が出て、マダムも頷いたのだけれど、そこは紙一重で難しいよね。何も知らずまっさらな状態で芝居に導かれていくことも、極上の喜びだし、作家もそれを目指しているのだから。
 
でも、そうはいっても、マダムも脳の中で伏線を全部回収しきれなかった所があって、時間があればもう一度観たかった。再演、しないかな。
 
 役者さんの演技は皆、細かな演出が行き届いていて、とても良かった。武士は武士らしく、芸妓は芸妓らしく、女将は女将らしく、料理人は料理人らしく、番頭は番頭らしく、鉱夫は鉱夫らしく。殺陣、舞、立ち居振る舞い、汗の拭い方、汁物をよそる手元まで、身分と仕事を身体がちゃんと表していて、観ているのが楽しかった。翻訳物だと、なかなか得られない感覚かも。(個人的には横田栄司の着物姿にクラっときた〜。文学座関係者はちゃんと見てるだろうか?「華岡青洲の妻」がやれるよ!)

 
 市村4作品のなかでどうして『あかつきの湧昇流』がいちばん好きかというと、人情を描くのではなく人間を描くことにシフトチェンジしたから。それと、幕末から明治維新にかけての時代は、今の私たちの生き方に密接に関係があることだと最近強〜く思っているので、有名人たちの縄張り争いじゃなく、市井の人たちの人生の芝居であったことも、とてもよかった。
 坂本龍馬にも西郷隆盛にも、飽き飽きしたよ。もう有名人の手柄話はたくさん。

『レインマン』を観る

 チケット争奪戦に出遅れた結果、平日夜の観劇となった。ちょっとハードだ。7月24日(火)ソワレ、新国立劇場中劇場。

『レインマン』
脚本/ダン・ゴードン 上演台本・演出/松井周
出演 藤原竜也 椎名桔平 安蘭けい 横田栄司 吉本菜穂子 渡辺哲

 蜷川御大亡き後、藤原竜也の芝居に行かなくなっていたの。『アテネのタイモン』は観たけれど、あれは藤原竜也の芝居、ではなかったし。
 ではなぜ、今回行ったのかというと、彼の役が、王でも王子でもなく天才殺人鬼でも稀代のペテン師でもない、フツーのあんちゃんだってことと、演出が松井周だからってことなの。
 マダムは松井周の劇団サンプルの公演を観たことがないし、作品もよく知らない。ただ一度だけ松井周の演技を見たことがある。それはハイバイの『ヒッキー・ソトニデテミターノ』で、急病の古舘寛治の代役として出ていたときだった。台本を持ったまま、という大胆な代役だったのだけれど、その役がどんな人なのかを深く理解した佇まいで、マダムの代役史上最高の演技だった。こういう人の演出は信じられるぞ、と思ったわけなのよ。
 
 原作は有名な映画だし、ストーリーを説明しなくてもいいよね?
 
 マダムの予感は的中し、フツーのあんちゃんを演じる藤原竜也が、とても生き生きしていたの。彼のデビューが『身毒丸』や『バトルロワイヤル』だからといって、本人の中にいつも狂気が渦巻いているわけじゃなし、普通の青年の役をなんでやらないんだ、と思ってたのよ。チャーリーの、人生投げやりでやんちゃでいい加減で女好きで・・・っていう設定、(芝居に対する態度を別にしたら)本人に限りなく近そうな役だよ、これ。
 だから、ひとりで朗々と台詞を語るところなんかなくて、悪態ついたり言い訳したり、遺産欲しさに自閉症の兄を連れ出す無謀さとか、その兄がすぐ隣室にいるのに恋人とセックス始めちゃったりする自制心のないあんちゃんぶりとか、めちゃくちゃリアリティがある。彼の芝居でこんなにリアリティがあったの、『天保十二年のシェイクスピア』以来じゃなかろうか(そういえば、あの時の役も時代劇だったけどいい加減なあんちゃんだったわ・・・)。
 もちろん、本人に近いからという理由だけでいい演技ができるわけないので、そこは面白い本と、的確な演出と、手練の共演者と、本人の努力があるのだというのはよくわかっているのよ。
 そして、ラスト、いいように利用してきたかに見えた恋人をちゃんと抱きしめてキスするところなんか、いつどこで覚えたんだっていう美しい、女の抱き寄せ方を見せてくれて。ダメダメなあんちゃんが芝居の終わりに一瞬カッコよく見えるの。それはこの芝居のテーマそのものだし、成功してる。
 
 そして抜かりなく配置された共演者の上手さ。
 映画でダスティン・ホフマンがやったレイモンド、椎名桔平が素晴らしいの。ダスティン・ホフマンに負けないくらい上手くて、ダスティン・ホフマンよりあざとくない。最初から最後まで椎名桔平であることを忘れて、自閉症でサヴァン症候群のレイモンドとして見惚れてた。映画の印象ではダスティン・ホフマンが主役のような演技だったと記憶してるし、実際チャーリーよりも遥かに難しい役だと思う。チャーリーには次々とドラマがある(倒産に追い込まれる→父が亡くなる→遺産を期待する→兄がいることを初めて知る→遺産が全部兄に行くことがわかる→兄を連れ出す→兄と自分の秘密を知る→「レインマン」の謎が解ける、などなど)けど、レイモンドは閉じてる人だから、ドラマがほんの少ししかないのね。相手に反応するっていう演技を、かなり封印しなくちゃならない。かといって、全く反応しないわけでもないので、ひとりで作り込まなくちゃいけない大役なのよ。椎名桔平、映像ではいい役者だと知ってたけれど、舞台でこれだけの演技ができる人だったとは。
 チャーリーの恋人スーザンの安蘭けいも、安定の上手さ。しかし、もし実年齢に近い女優を連れてくるときっと、大人の女にならないんだろうなぁ。それはそれで問題だ。
 そして三役を演じ分ける横田栄司。彼のおかげで、舞台を安心して見ていられるのだけれど、なぜこの役目を彼がやらなきゃいけないのか、マダムはちょっと不満。これを書いているちょうど今日、読売演劇大賞の上半期の男優5人の中に選出されたニュースがあったばかり。高い技能を持った役者さんには、ふさわしい役をつけてほしいとマダムは思う(けど、案外ご本人は、時々は気楽にやりたいからいいんだよ、っていうかもしれないんだけど。でもさ)。
 
 さりげない照明が美しかったし、スタッフがホテルマンみたいな衣装で装置替えしてるのも楽しかった。いい舞台だったわ。

続 これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』

 『ヘンリー五世』もう一度観に行ってきた。5月29日(火)マチネ、新国立劇場中劇場。
 行ってよかった。

 浦井ヘンリーが相当良くなっていた!
 滑舌も良くなってたんだけど、それ以上に、王らしい威厳とやんちゃな部分との接合部が滑らかになって、一人の人間としての説得力が増してたの。
 『ヘンリー四世』のときから思ってたのは、ハルって孤独だなってことだったんだけど、王になったらもっともっと孤独になった。本心を語るのは独白の時だけなんだもの。戦いには勝っても、王冠も衣装も血塗られてしまって、清々しかったハルはもう何処にもいなくなってしまった。ヘンリーの孤独がひしひしと感じられて、ラストは胸が痛いくらい。
 
 1度目の時の席はかなり上手よりの端っこだったの。で、2度目はいちばん後ろだけど真ん中ブロック。
 そうしたら見え方が全然違ってて。ていうか、舞台の奥のほうで起きてることが見えてなかったのよ、1度目は。
 特に戦闘シーンは、舞台前方で起きていることと、後方に遠く見える様子が上手く相乗効果を作るようにできていて、イギリス軍の振る旗や上から降りてくる巨大な旗が空間を自在に分けて美しくて、ダイナミック。殺陣は多くない分、布の使い方で、見ごたえあるシーンになってたね。
 
 このシリーズがここまで続いてきて圧巻は、いちばん最後の「説明役」たちの挨拶の台詞だった。台本では説明役はひとりだけど、鵜山演出では数少ない女優(大勢の役者の中でたった3人!)たちに締めを任せた。「ヘンリー五世は・・・世界に冠たる支配権を彼の息子に残しました・・・だが彼を取り巻く多くのものが政権を争うことになり・・・イギリスにも血が流されました。そのいきさつはすでにこの舞台でごらんにいれております
 これはシェイクスピアが自分の一座で、本を書いた順番に上演して『ヘンリー五世』にたどり着いたことを示しているのだけれど、それをそのまま説明できる鵜山組は素晴らしいよ。同じように歩んできたのだもの。
 浦井健治、岡本健一、中嶋朋子をはじめとして、ひとつひとつ取り組んできて、一座になった。
 なので、マダムとしては、これで終わりとは思いたくない。

これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』その3

 全体的にフランスとの戦争の話だと思い込んでたマダムだったけど、鵜山版『ヘンリー五世』は、意外なほど笑いに満ちて楽しく、わかりやすく、戦闘シーンは短く、テンポよく作られていた。そして、隅々までよく練られて配された役者さんたちの、上手いこと!

 真っ先に名前を挙げなければいけないのは、なんと言っても、「ニラの騎士」フルーエリンの横田栄司。ウェールズ訛りのフルーエリンの台詞は、さしすせそが、しゃししゅしぇしょに翻訳されていて(小田島訳の真骨頂)、ただでさえ大変なシェイクスピアの台詞が早口言葉の練習のようになっていたの。読んでも何を言ってるのかわからないフルーエリンの台詞が、横田栄司の声で聞くとちゃんとわかって、めちゃくちゃ可笑しい。ピストル(岡本健一)との掛け合いは抱腹絶倒。「俺の名前は?」「ピシュトル」「ピ、ス、トル!」「ピシュトル!」「違う!ちゃんと言え!ピストル!」「ピ…。」って、もう可笑しすぎて、うちに帰って本でその箇所を探したけど見当たらない。アドリブだったのね。思い出して再度笑うマダム・・・。
 
 もう一人名を挙げなければいけない人は、フランス軍司令官の鍛治直人。台詞の声量となめらさかが申し分なく、聞いていて心地よいこと。そして空間の使い方が上手いの。おフランス漂う、覇気のないフランス側にあってただ一人、場を仕切って次のシーンへどんどん繋げていくのが、見事なのよ。
 このシリーズはヘンリー六世上演の時から、新劇の劇団出身の役者さんたちが沢山出演して、歴史劇の屋台骨を支えてきたんだけど、なかでもやっぱり文学座って凄いって思うよ。今回、これまでの常連だった今井朋彦が出てなくて、マダムはとても寂しかったんだけど、その分を横田栄司と鍛治直人でさらっていったから脱帽だー。
 
 長いシリーズ、ずっと出続けている役者さんたちに関しては、演技以外も毎回が楽しみ。勝部演之は何回めの司教かな?とか、立川三貴と木下浩之は『六世』の時から金髪でおフランスだったわとか、那須佐代子はまた岡本君とキスする役だねとか(『リチャ三』のときリチャードとエリザベスだったからさ)。
 そしてフランス側の衣装がブルーに金の縫い取りでおしゃれなのに、イギリス側はなんとなくくすんでてグレーっぽいの。それも『ヘンリー六世』に続いていくと考えたら、なるほどって思う。ヘンリー六世の衣装は、みんなグレーのマントだったのよ。
 
 芝居の終わり方が、『ヘンリー六世』に続く!っていう感じだったから、シリーズは一区切りなんだろうかとマダムは不安。もう劇団みたいなものでしょう?ここで解散はして欲しくないの。
 もう一度見に行くので、続編もまた書くね。まとまってないけど、とりあえず今日はここまで。
 
 
 
 

これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』その2

 前回の『ヘンリー四世』から1年半くらい経っているわけなんだけれど、そしてその間浦井健治はほとんど休むことなく舞台に立ち続けているわけだけれど、マダムはずっと「こんなもんじゃないだろ」と思っていたの。
 すっかりビッグネームになってしまった(そしてマダムも非力ながらその片棒を担いだ)彼だけど、彼の天賦の才は徹底的に演出された時にのみ発揮されるもので、とりあえず真ん中に据えておけばどんな役もできてしまうような俳優ではないのよ。
 そして技術はまだまだ発展途上よ。今回だって、声量も足りないし、長ゼリフを聴かせる技量もあと三歩だ(一歩ではない)。同じ舞台に立つベテランの役者さんと比べたら、わかるでしょう?(ハムレットを望む声があるし、マダムも期待はするけど、ハムレットやるならその前に長期休暇を取って文学座の研究所に入ってみるのはどうかな。あるいは新国立劇場の研究所とか。中堅の俳優も学び直しが必要な時があるでしょ?)
 辛口はさておき。

 技術的なことはいくらでも突っ込めるけど、それでも彼でなければならないヘンリー五世。純白の王の姿は本当に美しいし、凛々しい。どんどん汚れて血みどろになってもなお汚くない(きれいはきたない、きたないはきれいってこのことか!)。威厳を保とうとしても、時折ハルの顔がのぞくところがなんて魅力的。バードルフの処刑を言い渡す時の動揺や、フランス王たちとの交渉の席で王女の顔ばかり見てしまう子供じみた表情・・・。
 浦井ヘンリーが終始努力を強いられている一方で、今回の岡本健一はなんて自由なんだろう!シリーズでこれまでは、必ず敵対する貴族を演じてきたのに、ついに庶民オンリーに。アドリブも出て、めちゃくちゃ楽しそうなの。この自由度は、彼の幅をさらに広げるような気がする。(でも、リチャード二世をやらせて苦悩する顔が見たいと思ってしまうマダムはドSだろうか?)
 そして中嶋朋子。どうやっていたいけな十代のお姫様をやるんだ、と思ったけど。できちゃうんですね。本当の十代の女優ではできないだろう、自分を無理やり納得させていく王女の演技が、この人ならでは。化け物という褒め言葉がありますけど・・・素晴らしい。

 あー、時間が足りないわ。その3で、ほかの役者さんのことを書くわね。

これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』その1

 なんだかドキドキしながら劇場へ。5月19日(土)マチネ、新国立劇場中劇場。

『ヘンリー五世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 訳/小田島雄志
演出/鵜山仁
出演 浦井健治 岡本健一 中嶋朋子 立川三貴 木下博之 田代隆秀
   横田栄司 勝部演之 那須佐代子 鍛治直人 松角洋平 ほか
 

 2009年の『ヘンリー六世』三部作一挙上演から9年かけて、ここまで辿り着いた。一緒に歩んできた感いっぱいで、感無量なマダム。
 
 一方で、『ヘンリー五世』の予習は呼びかけるのがとても難しくて、ブログにはアップできなかったの。すまない・・・。
 だってね、こればっかりはマダムも舞台は観たことがなくて、本は読んでみたもののピンとこず、せいぜい『ヘンリー四世』の時の人間関係を思い出しておくくらいのことしか、自分自身もできなかったの。
 唯一、BBCのホロウクラウンシリーズで『ヘンリー五世』を観た記憶が頼り。だけど、あれはあれで主役のトム・ヒドルストンが素敵すぎてスター映画になっちゃってた感が否めない。結局、心構えなし、あたま空っぽの状態で、観劇の日を迎えたの。
 でも、ぜんぜん難しいことはなくて。面白かった〜。3時間があっという間。
 
 芝居って、演出家が本をどう解釈しイメージしたのかを、目の前で見せてくれるものだ。そう捉えた時、鵜山演出が『ヘンリー六世』以来ずっと見せてくれたものは、なんて豊かだったことか! 役者を育て、カンパニーの絆を確かなものにしてゆき、それぞれ1本の芝居として面白く作りながら、シリーズとして、大きな時代のうねりと権力争いの諸行無常を描き得た。新国立劇場のプロデューサー、鵜山さん、大勢のすべての座組の人たち。マダムをここまで連れてきてくれて、ホントにありがとう。
 
 『ヘンリー四世』で自由に遊びまわっていたハル王子は、王座につき、ヘンリー五世となった。覚悟して王となったヘンリーのその後は、苦い人生だ、というのが鵜山演出の解釈なのね。
 王座に就いた時の純白の衣装は、戦闘を繰り返すたび、返り血でどんどん汚れていく。軍の規律を守らせるために、かつての遊び仲間を処刑しなければならない苦痛。アジンコートの戦いの奇跡の勝利は、なぜだか喜びを呼び込まない。生き残ったピストルは、かつてのフォルスタッフのような庶民の本音を高らかに叫んではくれず、仲間は全員死んでひとりぼっちになっていく。ラストのヘンリーの深紅の衣装は、赤バラの赤なのだけれどマダムには、完全に血に染まって白いところがなくなったかのように見えたよ。
 鵜山演出の真骨頂は、ヘンリーが戦勝国の王としてフランス側にすべてを要求するところ。
 マダムはホロウクラウンシリーズ版と真逆な展開に驚き、そして納得したの。
 ホロウクラウンでは、フランス王たちが皆腰掛けていて、ヘンリーはずっと立ったままだ。フランス王たちが不遜で、ヘンリーはなんだか謙虚。でも鵜山版では、ヘンリーだけが腰掛けていて(しかも偉そうに・・・でも当然だよね、勝った側なんだから)、フランス王以下全員、おびえながら並んで立ってる。そして王女を残して全員が退出する時の、フランス王妃の怯えた辛そうな顔といったら!戦利品として娘が奪われていくのがわかっていても、もう止めることができないのよ。
 そのあとの、王女キャサリンを口説くシーン。ホロウクラウンでは、ヘンリーは優しくて紳士的で、礼儀正しくキャサリンの愛を求めていて、めっちゃトムヒが素敵なんだけど、鵜山版を見たら、ありゃ嘘だな、と思っちゃったマダム。だって、戦利品として王女との結婚はもう誰の目にも明らかで、別に腰を低くして相手を説得する必要なんかないんだもの(あくまで、当時の戦国の世の習いとして、ね)。
 だから口説く必要のない相手とわざわざ一対一になって、ほとんど襲いかかってる浦井健治、じゃなくってヘンリーってさ・・・キャサリンに一目惚れしたのかもしれないけど、勝てば官軍でやりたい放題に見えたし、それが鵜山演出だったのよ。(ただこのシーンが下品にならないのは、浦井ヘンリーだからなんだよね。)
 でもそこにマダムは納得したよ。当時の王や王族に、個人としての幸せなんてほぼ無いんだってこと。だからこそ婚礼を暗示して終わるラストが悲劇の始まりとして、『ヘンリー六世』につながっていくの。
 そして観終わった人はみな、次にまた『ヘンリー六世』を観たくなってしまうの。エンドレス。こりゃ、鵜山魔術だね・・・。
 
 そのほかのことについては、その2でまた書くね。とりあえずみんな、アンケートに『リチャード二世』を同じ座組で、と希望を書くこと!

『アテネのタイモン』二回目

 二回目の観劇。12月27日(水)マチネ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール。

 評判が良く、平日の昼間にもかかわらず満席で、当日券にもたくさんの人が並んでいたわ。
 芝居自体は初日の方が面白かったんだけど、それはやっぱり色々と初めて見る驚きとかドキドキ感が違うからね。二回目は逆にリラックスして観られたの。そうしたら、いくつか細かいことに気づいたりした。例えば、小さな役で台詞を言う人が違っていたり、踊り子たちがタイモンの周りに侍る形が変化してたり、火事の時赤い借用書の紙が舞い散るんだけど、途中から黒い紙に変わっていくのを確認できたり。火事の煙が今日は多いな、と思ったり。アペマンタスの纏う毛皮が熊っぽいのからキツネっぽいのに変わってたり。
 演技も日々、変化していくものなんだね。カッキーは通路での演技にすっかり慣れて、空いてる座席に座ってみたりしてた。マダムは通路脇の席だったので、彼がマントを翻しながら横を通るたび、いい香りがするなあ・・・なんて思ってた。

 プログラムは普通買わないことにしてるんだけど、今回は買ってよかった。凄く素敵な写真と、メインの四人のロングインタビューと、すべての役者さんの一言が載ってる。それと、吉田鋼太郎VS横田栄司、藤原竜也VS柿澤勇人の対談が載ってるんだけど!横田ファンはこの対談を見逃してはならないと思うわ。

 稽古場見学に始まって1ヶ月間マダムは、ほぼこの公演のために生きてきたので、いま、どっと疲れが押し寄せている。でも、心地よい疲れなので、このまま寝正月に突入するのもいいかしらね。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その2

 これほど1幕と2幕が、まるで別の芝居のようなテイストのシェイクスピア作品って、他にあったかしら?

 2幕は暗い森の中。セットが、ひんやりと湿気を帯びた深緑色で美しい。日本の森とは樹の姿が違うし、想像するアテネの森とも違い、一番近いのはイギリスの森、のような気がした。
 破産して、アテネの街を出て、タイモンは穴蔵暮らし。アペマンタスに似たボロをまとって、木の根を掘っては齧っている。アテネにいた頃の面影はない。そこへ次々と彼を知る人たちがやってきて、禅問答みたいな会話をする2幕が、圧倒的に1幕より面白いんだけど、それも1幕あってこそ。
 タイモンのところへは、アルシバイアディーズの一群が来て、アペマンタスが来て、強盗たちが来て、フレヴィアスが来て、画家と詩人が来て、元老院議員たちが来る。彼らとの長い不毛な対話。誰とも共感しない。台詞の連なりは、読んでも殆ど理解不能なのに、吉田鋼太郎の声で聞くと、タイモンの人間への絶望の深さ、人間的なものへの徹底した拒否がぐんぐん浮かび上がってくる。台詞がどんな感情から生まれているかを正確に読み取る優れた演出家と、それを正確に、しかもパワフルに演じることができる優れた役者。両方が彼の中に同居してる。ちょっと奇跡だ。だから、吉田鋼太郎演出の時、役者吉田鋼太郎も一番いい演技をするのね。
 
 藤原竜也や横田栄司とのがっぷり四つの会話を観たいというマダムの願いは、ついに叶えられたよ。藤原アペマンタスは1幕こそ苦戦していたけれど、タイモンとサシでの演技になった時、逃げることのできない対話の波に飲み込まれ、心を決めて身を任せたようだった。二人の会話は、人間を信じるなんてくだらないという一点で一致するんだけれど、タイモンは、だからこそもう生きないと決め、アペマンタスはそれでも生きると決め、互いを認め合って別れる(と受け取ったのだけれど、違うかしら)。ののしりあい殴り合って、最後に抱きあってしまった時、演技の高みに上り詰めたように見えて、マダムはちょっと、芝居の中身とは違う部分で感じるものがあったの。藤原竜也はこれでもう一度、舞台を面白いと思うようになれるだろうか。そうあってほしいのだけれど。
 横田フレヴィアスとタイモンのシーンは、他のどの対話とも違っていた。他の対話では常時主導権を握ってるタイモンが、ここでは受け身になるんだよね。気が触れたのか触れたふりしているのか、タイモンはフレヴィアスを知らないそぶりで逃げるけれど、横田フレヴィアスはタイモンを逃がさない。強靭な誠実さでタイモンの心をこじ開けるの。そしてタイモンの「正直な男がたった一人だけいる・・・その一人とは、執事だ・・・」という台詞で、こっちはフレヴィアスとともに、心の涙腺決壊だよ・・・。もう、このシーンは一切の雑音なく、芝居の中に入り込んで観た。なんかね、終わってほしくなかった、このシーンが(無理を言うな、無理を)。


 大劇場での演出は初めてだったけれど、よく知っているさい芸の空間をフル活用し、蜷川御大の遺産ともいうべきスタッフの力を借り、ベテランから若手まで共に歩んできた役者さんたちを集めて、隅々まで台詞術の行き届いた、美しくて面白い舞台が出来上がってた。凄く満足。
 最後に極々個人的なことをひとつ。30年来の友達が、初めてさい芸の大舞台を踏み、大事な役を演じるのを見届けたの。感慨ひとしお。長く生きてくると、こんな凄いこともあるのね。嬉しかった。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その1

 初日前夜から興奮状態。自分でもよくわからないテンションに。12月15日(金)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第33弾『アテネのタイモン』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出・主演/吉田鋼太郎
出演 藤原竜也 柿澤勇人 横田栄司 大石継太 間宮啓行 谷田歩
   河内大和 松田慎也 浅野望 松本こうせい 星和利 杉本政志
   坂田周子 千賀由紀子 林佳世子 ほか

 待ったわ。
 待ちくたびれた、と言っていいと思う。
 吉田鋼太郎演出のシェイクスピアは、なんと 劇団AUNの『十二夜』以来、ほぼ6年ぶりなのよ(『十二夜』の翌年の『冬物語』の時は、母が亡くなって、マダムは観に行けず)。ほんとにもう、待ちくたびれたわー。ブログ10年やってんのに、半分以上は待ってたんだからね。
 そのうえ、読んでもよくわからない『アテネのタイモン』だし、劇場もいきなり4倍位大きいし、どうなるんだろう、って期待と不安が渦巻いちゃってこの1ヶ月くらい、マダムの心はさい芸のまわりをグルグル回っていたのよ。
 でも、待った甲斐があったー。面白かったー。吉田演出の真骨頂!
 マダムはずっと言ってたのよ。今、日本語で上演するシェイクスピアで一番面白い演出をするのは、吉田鋼太郎だって。それが証明されたのよ!どうだどうだ〜。

 このあと観ることが決まってる人は、ここで引き返してね。予習はいらないから。

 

 芝居は1幕と2幕に分かれているんだけど、お話も真っ二つに分かれている。
 1幕目は、アテネの街で裕福に暮らすタイモン(吉田鋼太郎)が客に贅沢なふるまいをし過ぎて破産し、誰も助けてくれないことを知って怒りが爆発するまで。タイモンの屋敷を舞台に、華やかで賑やかなシーンが続く。
 2幕目はうって変わって暗くて静かな森の中。人間に恨み骨髄のタイモンが森の穴蔵で暮らし、訪ねてくる人間と議論の末、次々追い返し、死んでいく(?)までを描く。

 幕開きが素晴らしいの。開演10分前くらいから舞台に役者さんたちが現れ始めて声を出して歩き回る。蜷川御大の舞台でよくあった、見慣れた、懐かしい光景。それだけで観客は喜んじゃって、吉田鋼太郎が現れたらもう拍手が起きちゃうし、そこへまた「ただいま」だなんて言うもんだから、客席はすでに歓喜の悲鳴。まあ、なんて心憎い演出なの。
 そして彼の「さあ、始めようか」の一声で、役者たち全員が舞台の前面にぎっしりと並び、挨拶とともに音楽がなって、一斉にみんな踊り始める。緊張を一気に解かれて、芝居の世界にサッと引き込まれる瞬間。
 このオープニングのダンス、華やかで本当に楽しい!まずはダントツに、ミュージカル出身の柿澤勇人の素敵さにシビれる。そしてもう一人の注目の人は河内大和。彼の美しい立ち姿と鍛えたキレの良さがなんと、ダンスに生かされるとは。すばらしー。
 役者さんたちによる芝居の幕開けを告げるダンスが、やがてタイモンの屋敷で開かれている宴のダンスとなり、お話が始まるこの出だし、つかみはバッチリだ。
 1幕目はとにかく嘘と追従のオンパレード。金のなる木ならぬタイモンに、びっしりと群がる人々。見え見えのお世辞や追従に、大枚叩いて饗すタイモン。お世辞にも歯が浮くけど、もてなすタイモンの台詞もまた「本気なのか?」と疑うような美辞麗句が並んでて、すごく人間関係が上っ面なの。その中で、浮かれてない人間が3人いるのね。哲学者アペマンタス(藤原竜也)と軍人アルシバイアディーズ(柿澤勇人)と、タイモンの執事フレヴィアス(横田栄司)。
 藤原アペマンタスは1幕目はちょっと苦戦してた。華やかな人々の中たった一人ボロを着て歩き回り、皮肉な言葉を投げるんだけど、ほとんどが相手がいない状態で喋らなくちゃならない。すると、彼の台詞術のクセで詠ってしまうのね。でもアペマンタスは皮肉屋だから、詠うのはちょっと違うとマダムは感じたの。もっと、カラッとドライでいいのではないかしら。
 アペマンタスは哲学者ゆえにタイモンたちと逆の意味で浮世離れしてる。なので、ほんとに真っ当な感覚でいるのは執事フレヴィアスだけ。横田フレヴィアスの台詞は、1幕目のなかで際立つ、心に嘘がない台詞。似合いすぎ。優しい役柄を、演じる役者がさらに優しくする。
 アルシバイアディーズは軍人だから浮かれてない。カッキー、堂々のシェイクスピアデビュー。彼だけ別の展開があって、アテネの元老院と対立して追放を命じられ、怒りまくるシーンがあるんだけど、台詞が見事で、舌を巻いたよ。かっこいいし。ようこそ、シェイクスピア界へ。メッチャ、歓迎する〜!
 
 お世辞と追従の波のあと、破産寸前のタイモンに対して、手のひらを返したように冷たくなる人々。描写がくり返しになって、本だと退屈に思えるのだけれど、舞台は演出のアイデアがいっぱいで、飽きなくて、わかりやすくて、笑っちゃうところもたくさんあって。タイモンからの借金の申し入れを断る人々は、カウチに寝そべってワイン飲んでたり、風呂入ってたり、酒場でクダ巻いてたりする。演じる谷田歩、杉本政志、松田慎也も皆テンポが良くてノリが良くて、すごく楽しい。
 そして、誰からも援助が得られないとわかって、人々の裏切りにタイモンの怒りが爆発するのだけれど、この怒りのパワーが半端ではない。これはもう、吉田鋼太郎ならでは。そしてこれこそシェイクスピアならでは。日常生活では絶対感じられないような(もし感じたら凡人には到底耐えられないような)感情の振り幅なの。本当に久しぶりに、パワー全開の吉田鋼太郎を見た!
 この怒り爆発のシーンで、まさか屋敷を燃やしてしまうとは思わなかった。そういう台詞は確かにあるけど。燃える屋敷の前でタイモンが吼える。凄まじいシーンだけど、照明がにじむように美しくて。そして赤い借用書の紙切れが轟々と舞って、少しだけ蜷川演出のことを思い出したマダムだった。
 
 やっぱり長くなる。2幕目については、その2で。

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その3

 鋼太郎さんが遂に役者として稽古場に立たれたと聞き、再び見学に行ってきました!(ちなみに最初にその情報を得たのは、カッキーのツイートからでした。)
 時期が重なって、ブログ10周年記念企画のようになってますが、嬉しい偶然です。
 その1その2 を読んでから、どうぞ。
 

 12月6日(水)午後、再び大稽古場に伺いました。
 1度目に伺ったときには『NINAGAWAマクベス』のシンガポール公演のため留守だった役者さんたちが、皆もどってきていて、日本のシェイクスピア俳優集合度がさらに増していました。そして、やはりシンガポールから戻られたのでしょうか、故蜷川御大の写真が、真ん中の机の上に置かれています。

 「あとは俺だけなんだよな〜」と言いながら、タイモンの衣装をつけた鋼太郎さんが板の上に上がりました。
 演出家の椅子にいるときにはぴったり隣にいた記録係はもう、いませんでした。その代わり舞台に一番近いところにプロンプター(という呼び名でいいのでしょうか?)が二人ついて、鋼太郎さんの稽古をフォローします。びっしりメモが書かれた台本を手にしていますが、これ、殆ど台詞の流れを暗記していないと務まりません。演技に目を凝らし、台詞が止まって鋼太郎さんと目が合った瞬間に、次の台詞のきっかけを教えてあげなければならないのです。先日の記録係といい今回のプロンプターといい、最重要な、縁の下の力持ちですね。

 「あとは俺だけなんだ」と聞いて私が思い浮かべたのは、周りが完全に出来上がっているところへ鋼太郎さんがピタリと収まる、というような図だったのですが、それは完全に裏切られました。4幕3場はタイモンのところへさまざまな人が訪れては去っていきますが、新しい相手役が現れるたびに鋼太郎さんは稽古を止めて、新しいアイデアをどんどん試すのです。相手役の役者さんたちも、受けて立ちます。
 アルシバイアディーズの一行が通過する場面も、フレヴィアスとの別れも、画家と詩人が訪ねて来る場面も、どんどん変化していきます。鋼太郎さんはまるで、たった今思いついたかのように「こうしてみよう」「ああしてみよう」と言い、やってみると俄然芝居が活気づくので、ちょっと魔法にかかったようになってしまいます。見ているスタッフや役者さんたちも固唾を飲んだり、ドッと笑ったりして、思わず引き込まれていました。
 でも、あとから思い返すと、たった今思いついた訳がないのでした。このお芝居の影の主役は「カネ」なのですね。どの演出も、それぞれの人物の「カネ」に対する態度をくっきりさせることにベクトルが向かっています。そうやってテーマに沿った人物描写をすれば、おのずと面白くなるように本ができているのです。感心して見てるのは私だけじゃなかった。「おもしろいな〜」「よくこんな本、書いたよな〜、シェイクスピア」という声がスタッフの方から漏れたのを、私は聞き逃しませんでしたよ!
 
 長い4幕3場の稽古が終わり、次のシーンに移る時、藤原くんが鋼太郎さんに「大丈夫なの?ヘロヘロに(なってるんじゃない?)」と、わざと心配していない風なそっけない言い方で、実は気遣っていました。そう、ここはタイモンが出ずっぱりなだけでなく、ご自身の演出のせいで更に膨大なエネルギーが必要になっています。で、鋼太郎さんの藤原くんへの返答は「シェイクスピアハイだ(から大丈夫)」ですって。ランニングハイならぬシェイクスピアハイについては、鋼太郎さんのインタビュー記事で見たことがあった気がしますが、こういう時に使うのかと、聞いてにやにやしてしまいました。
 主演と演出を兼ねる時の方法を整理しますと。
① 信頼できる人を代役に立てて、まず他の役者さんたちとスタッフに全体の流れをわかってもらう。
② 頃合いを見計らって、自分も役者の方に加わる。
③ そうしながら細部の演技の演出をどんどん加えていく。全体のバランスを演出補に常にチェックしてもらいながら、進める。
④ プロンプターを立てて、同時に自分の台詞の曖昧さも修正していく。
 特別に効率の良いやり方があるわけではありませんでした。全て計算があって進めているのですが、それでも凄く凄く大変。そして最後の最後にシェイクスピアハイが助けてくれる、ということでしょうか。
 
 出番が終わって、タイモンの衣装をその場で脱いで着替え、鋼太郎さんは演出の椅子に戻ります。そこからはセットの移動があるシーンをチェックしていきます。そういう場面になると、どこか蜷川演出テイストが感じられるんですね。意識してそうしている部分もあると思いますが、これはさいたま芸術劇場で作っているから、というのが大きいのではないでしょうか。ゴールドシアターの『薄い桃色のかたまり』のときも同じように感じたのですが、長く蜷川演出を支えてきたスタッフの方達が、同じように真摯に岩松演出や吉田演出を支えようとすると、おのずと芝居の隅々からそのテイストが立ちのぼってくる、そんな気がしました。
 
 稽古場見学は十分すぎるほど刺激的でした。恋愛も権力闘争も嫉妬もなく、離れ離れの家族も間違われる双子も男装する女の子も出てこないんですが、これもまた紛れもないシェイクスピアだったんです。
 来週末にはいよいよ開幕です。ワクワクする気持ちをうんと貯めて、本番を待ちたい。
 皆さんも是非、ご一緒に。予習は特に要らないです(たぶん)!

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