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横田栄司

2019年9月25日 (水)

一歩踏み込む三谷幸喜 『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』

 よくぞチケットが取れたものだ。9月21日(土)ソワレ、世田谷パブリックシアター。
 
『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』
作・演出/三谷幸喜  音楽・演奏/荻野清子
出演 柿澤勇人 佐藤二朗 広瀬アリス 八木亜希子
   横田栄司 
はいだしょうこ 迫田孝也
 
 三谷幸喜の最近の作品は、有名な役者ばかり揃うので、チケットを取るのが大変。それでマダムは長いこと敬遠していたの。
 ところが今回は、満を持して我が横田栄司が三谷作品に出演するというのだ。これを見逃してなんとする。
 チケット争奪戦に参加した甲斐があった。期待に違わぬ楽しさ。
 
 マダムは子供の頃から大好きでシャーロック・ホームズのシリーズを読んでた。ルパン(三世じゃないよ)好きの従姉妹と軽く論争になり、そのとき彼女が言った言葉が忘れられない。「ルパンは女好きでしょ?そこがいいのよ〜。シャーロック・ホームズって女っ気なくてつまんない
 マダムはびっくりしてしまって、年上の従姉妹をまじまじ見た。うまく言い返せなかったことを憶えている。
 今、思い返しても、従姉妹の発言は的を得ていたし、そんなつもりはなかっただろうけど、こちらの好みを言い当てていた。マダムは小さい頃から一貫して、女とチャラチャラしているキャラではなく、女が苦手(?)そうなキャラが好みだったのだ。だから、ルパン三世(これは三世)よりも五右衛門のファンだし、マカロニ刑事より山さんの方が好きだったのよ。
 なんの話かといえば、シャーロック・ホームズだった。三谷幸喜はホームズが大好きで、隅々までオマージュが感じられる。なによりもまず、シャーロック(柿澤勇人)がちゃんと、女が苦手な青年として描かれていたし。かといって、最近のホームズものにあるような、ホームズとワトソンの関係にホモセクシャルを匂わせるようなことはしない。
 お話には2本の軸がある。ひとつはシャーロックと兄マイクロフト(横田栄司)との関係。もうひとつがシャーロックとワトソン(佐藤二朗)との友情。
 
 これから観る方は、先に読んじゃダメよ。

 
 まだ探偵デビューする前の若きシャーロック。かなり年上のワトソンとなぜか同居を始め、事件の方が向こうから飛び込んでくる。シャーロックは嫌々ながらあっという間に謎を解き、華々しくデビューする・・・のかと思いきや、この事件はすべて、兄マイクロフトのお膳立てによるお芝居でした!という最初のどんでん返しまで、開演後3〜40分だったかしら?
 そこまでに、登場人物全員のキャラクターはすっかり浸透し、緩やかに楽しくお話に巻き込まれたところへ、思わぬ場所からマイクロフトが登場して、空気が一変する・・・そこが上手い! 横田栄司の面目躍如だし、そこで一斉に本性を現すヴァイオレット(広瀬アリス)もワトソンもいいし、演出も行き届いてる。
 シャーロックも騙されたままではなくて、担がれたことを見破って、兄と対決することになる。あくまで弟を支配下に置きたいマイクロフトと、その干渉から逃れて独り立ちを目指すシャーロックの葛藤。それが本筋になって、最後までお話を引っ張る。シャーロックの独立を賭けて、兄弟がトランプで対決し、シャーロックが勝つ。支配することをやめて、兄が去っていくところで話は一度、クライマックスを迎える。
 最近の三谷作品は、このあたりで終わることが多かった(と感じ、それが不満だったマダム)んだけど、今回はもうひとつどんでん返しがあって、マダムは凄く満足した。
 一連のマイクロフトが仕掛けたお芝居の中に、ワトソンがこっそり潜ませたもうひとつのお芝居。若い医者と浮気して自分を裏切っているミセス・ワトソン(八木亜希子)に対し、ワトソンは復讐を計画していた。自分が毒を飲んで死ぬことで、毒を盛った罪を妻に着せようと企んだのだけれど、シャーロックは全て見破り、阻止してみせる。「死なせるわけにはいかないんだよ、大事な友達だから」というシャーロックのセリフで、物語は本当のクライマックスを迎える。
 クライマックスの二段構え。これによって、若きシャーロックは、みんなの知ってるシャーロック・ホームズとなる。そして、ワトソンとも、みんなの知ってる信頼関係が結ばれる。
 本当によく練られた本で、計算された演出で、役者全員が行き届いた演技で・・・楽しかった!
 
 実はマダムが観た回は、ハプニングがあった。
 小道具のトランプに間違いがあって、途中からやり直したの。でも、内心は知らないけど、役者たちはほぼ全員がベテランで海千山千(褒めてるのよ)だから、全く慌てるところなく、ミセスワトソンとヴァイオレットがレストレード警部(迫田孝也)をイジって時間を稼ぎ、ハドソン夫人(はいだしょうこ)が小道具を取ってきて、何気なく再スタートした。お話の流れに決定的な溝を作ることなく、楽しげに(?)過ぎていって、マダムは逆に得した気分だった。お詫びしに、カーテンコールで三谷幸喜が出てきてくれたしね。
 
 今作は、ここ何年かの三谷作品の中でもピカイチの出来ではないかしら? カッキーが、繊細でちょっと神経質でコンプレックスを抱えてて、でもプライドも高いというややこしいシャーロックをよく表現していたし、佐藤二朗のワトソンも温かくて味わい深くて、とても良かったの。テレビで佐藤二朗が自分自身を売り物にさせられているのを見てきたから、このワトソンにホッとした。彼に、アドリブじゃなく、ちゃんと演技をさせた三谷幸喜、えらい。
 これは再演があるといいな。なかなか再演させない三谷幸喜ではあるけれど。

2019年6月13日 (木)

ギリシャ悲劇って何なん?『オレスティア』

 梅雨って、劇場の空調が効きすぎてることが多くて、嫌。6月8日(土)マチネ、新国立劇場中劇場。
 
『オレスティア』
原作/アイスキュロス 作/ロバート・アイク 翻訳/平川大作
演出/上村聡史
出演 生田斗真 音月桂 趣里 横田栄司 チョウヨンホ 倉野章子 神野三鈴 ほか
 
 皆ご存知とは思うのだけれど、マダムの記事は基本、すべてネタバレします。
 そうでないと、思ったことを全部書けないもんね。
 なので、『オレスティア』に関しては特に、観てから読むことをお勧めします。


 
 
 マダムはギリシャ悲劇が苦手。あんまり面白いと思ったことがない。一番面白いと感じたのは、増上寺で上演した『王女メディア』なのだけれど、あれは場所が場所だったから。晴れた夜空、見上げると漆黒で、空気が凛と張っていてね。寺の大きな階段を降りてくるメディア(平幹二朗)の黄金色の衣装が、青みを帯びて冷たく光っていた。
 ギリシャ悲劇にはそういう「場」が、実は大事なのかもしれない。
 だから、空調の効いた劇場でやるなら、今までとは違うギリシャ悲劇じゃなくちゃ、と作家は考えたのかしら。『オレスティア』は、すっかり現代風にアレンジされていた。
 ギリシャ悲劇につきもののコロスはいなくて、そういう客観的語りは、オレステスを尋問する取調官と、インタビューを撮影するメディア関係者や、回想するオレステス自身が請負う構造になっていて。
 衣装も皆、現代風。アガメムノンはネクタイを締めた軍服だし、女性たちも現代風のドレス。
 
 オレステス(生田斗真)は、殺人の疑いで取調べを受けている。取調官の「いったい何があったのですか?」という問いかけに、彼は順を追って、ことの次第を思い起こす。1幕と2幕は、彼の回想として描かれていて、回想の中の出来事が再現される周りを、オレステスはぐるぐる歩き、記憶を絞り出そうとする。
 オレステスの父アガメムノン(横田栄司)は、職業軍人のトップであり、戦いに勝つことを使命としている。神のお告げにより、勝つためには、娘イピゲネイア(趣里)を生贄に捧げなければならないことを知って、アガメムノンは苦しみ、また妻クリュタイメストラ(神野美鈴)とも激しい口論となるのだけれど、結局はお告げに従う。
 イピゲネイア殺害は、メディアの撮影のもと行われる。アガメムノンがイピゲネイアを膝に乗せ、毒を混ぜた何種類かの飲み物を飲ませて死に至らしめるところは、舞台奥で演じられる。けれど、撮影された映像がリアルタイムでスクリーンに映し出されるので、疑いを知らないイピゲネイアの幼い笑顔と、娘を愛していながら殺害するアガメムノンの苦悶の表情が、オペラグラスなしに見ることができて、わかりやすい。
 一家の食卓は、子供が3人いる家なのに、席は4つしか用意されていなくて、必ずエレクトラ(音月桂)は遅れてやってくる。オレステスの記憶の中で、エレクトラの存在は曖昧だ。
 1幕から2幕へ、ストーリーは、マダムの知ってるオレステスの物語どおり、戦争の勝利→アガメムノンの凱旋帰国→クリュタイメストラによるアガメムノン殺害→オレステスとエレクトラによる謀議→オレステスによる母殺害、と進む。誰かが殺害されると、スクリーンに「◯時◯分 誰々、死亡」と表示が出て、これもわかりやすい。
 オレステスの回想でありながら、オレステスの台詞は少ないし、行動も少ない。肝心の母殺害のシーンもカーテンの奥に隠れていて、見えないし。一方でアガメムノンとクリュタイメストラの台詞量は膨大で、横田栄司と神野美鈴の面目躍如。芝居は二人の台詞術に支えられているといってもいいよね。(2年前の「エレクトラ」の時、同じくアガメムノンだった横田栄司の出番は7分間しかなく、マダムは泣かされたので、今回はすごく満足。)
 
 3幕は、脚本のロバート・アイクの創作だ。これまでの回想で、事実関係がはっきりしたので、オレステスに判決が下されるのが3幕。
 ここで明らかになるのが、エレクトラがオレステスの妄想の産物で(というか、二重人格みたいなもの?)実在しない、ということ。あー、だから食卓の席は4つしかなかったのね。
 父を殺した母に対して、復讐したことが認められて、オレステスは無罪になる。
 ここまで芝居は4時間20分。
 
 まず思うことは、ただ長いのじゃなく、冗長だってこと。そして、映像を利用して、凄くわかりやすく作られていたのにどうしても、「それで何が言いたいの?」と思っちゃう。
 ギリシャ悲劇を現代に置き換えるって、そもそも可能なのかな?なんか意味があることなの?そこがよくわからなかったの。
 だってね、例えば、現代的な常識では、神のお告げで人を生贄にしないでしょ。
 もちろん現代でも、親が自分の都合で、子供の命を差し出すことはある(子供の虐待死はよくあるし、戦争に喜んで送り出す親っているよね)ので、「神のお告げ」をそのまま使ってるところに激しく疑問符がついたの。
 ギリシャ悲劇の中で「神のお告げ」がどれほど大事なのかは知ってるけど、そこに手を触れずに現代に置き換えるなんていう都合のいいことが可能なのかしら。
 マダムはそこでもう、躓いてしまった。
 ギリシャ悲劇の、子殺しや親殺し、親子や姉弟の不義っていうのは、そのものだけじゃなく、何かもっと大きな事柄を象徴しているのではないの?
 普通に現代に置き換えたら、オレステスが無罪って、ありえなくない?
 
 もう、全然わからなくなってしまったよ。
 ストーリー展開はわかりやすく作られていたのに、意味はわからなくなってしまった。
 やっぱりマダムはギリシャ悲劇、苦手だわ。 
 
 

2019年2月24日 (日)

『ヘンリー五世』を巡るあれこれ 台本を切るということ

 今日、さいたま芸術劇場の吉田鋼太郎演出『ヘンリー五世』は無事、埼玉千秋楽を迎えた。まだ地方公演はあるけれど、一つの区切りと思い、この公演の周りで起きた論争について、マダムの私見を書いておきます。

 いろんな意見がSNSなどで飛び交っていたようなのだけれど、どうも、問題点が整理されずにごちゃごちゃのままだ。そんな中では意見が言いにくい。だからSNSではなくて、自分のブログで整理したい。
 問題は3つに分かれている。

 ①そもそもシェイクスピアの台詞を切っていいのか

 ②脚本を切るとき、誰が切るのか

 ③脚本を切るとき、どこを切るのか

 3つの問題はそれぞれ、全く別の問題なので、ひとつひとつ切り離して考えなければならない。

 ①について。
 これはもう言うまでもない。日本でシェイクスピアの公演をするどんな団体も劇団も、脚本を部分的にカットして上演してきた。新国立の『ヘンリー五世』鵜山演出版も勿論だ。俳優の実力の問題もあるし、予算もあるだろうし、目標とする上演時間というものがあるから。もしカットせずにやるとなったら、上演時間が4時間とか、5時間とか、6時間とかになって、観客が埼京線の最終に乗れない事態になったりする。そんなことが許されるのは蜷川御大だけだ。現存する演出家でそんな治外法権が認められてる人なんて、いない。
 だからどんな場合にも、脚本のカットはせざるを得ない。

 次に②について。
 これは最終的には演出家の専権事項である。どんな作品にしたいのか、その方向性に従って、脚本のカットを決めるわけだから。方向性が頭の中にあるのは演出家だから。ある台詞をカットしたとしても大丈夫だ、と判断できるのは、どういう演出でカバーできるかを知っている人だけだから。
 途中、周りの人の意見を聞いたとしても、決めることができるのは演出家だ。他にはいない。

 ①も②にも、議論の余地はない。なので、論争になるべきは③だけである。

 ③について。
 これはまず芝居を観てみなければ、その是非について話すことはできない。今回だって、出来上がったものを見て、マダムは演説がないことを寂しいと思ったり、一方で無くても成立していることに驚いたりした。台本がカットされている事実だけでは、なにも議論できない。なんのために、どこをカットし、その結果、芝居がどうなったのか、を考え、その上で、芝居を評価する。ある人は良い芝居だといい、ある人はダメな芝居だと言うだろう。そこで初めて議論ができるのだ。
 そしてダメな芝居だと言うなら、具体的に演出について考え、指摘しなければならない。演出家には演出家の考えがあって台本を変えたわけだから、そこをリスペクトしてものを言わなければ、ただの悪口だ。個人攻撃なんぞ議論の足しにはならない。ただの悪口なら聞かないでいい、議論しなくていいや、となるだけである。
 
 吉田鋼太郎という人は、もう40年もほぼシェイクスピア一筋でやってきた役者である。蜷川作品で多くの人に知られるより前に、シャイロック役で紀伊國屋演劇賞個人賞も取っている名優であり、自分の劇団で20年近くシェイクスピアの演出を続けてきた演出家でもある。
 そういう人が、なんの考えもなく思いつきで、台詞を切ったり貼ったりするわけないではないか。まずはその考えがなんなのか、探ってみようとするのが批評の第一歩なのではないのか。
 なぜこんなあたりまえのことを、市井でちまちまとブログを書いてるだけのマダムが言わなければならないのだ。
 
 そして言いたいのは、観客一人一人がそれぞれ芝居から受け取ったものについて、誰も他人が否定することなんかできない、ってこと。
 みんな、自分が感じ取ったことを大切にして。批評するにせよなんにせよ、それがスタートだよ。

2019年2月20日 (水)

『ヘンリー五世』二回目観劇の驚き

 初日から1週間が経った。2月16日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。
 

彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾『ヘンリー五世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/吉田鋼太郎
出演 松坂桃李 吉田鋼太郎 溝端淳平 横田栄司 中河内雅貴 河内大和
   間宮啓行 廣田高志 原慎一郎 坪内守 松本こうせい 長谷川志
   鈴木彰紀 竪山隼太 堀源起 續木淳平 髙橋英希 橋本好弘 
   大河原啓介 西村聡 岩倉弘樹 谷畑聡 斎藤慎平 杉本政志 山田隼平
   松尾竜兵 橋倉靖彦 河村岳司 沢海陽子 悠木つかさ 宮崎夢子
 

 
そろそろネタバレを警告するのも疲れてきたので、皆さんそれぞれの意思に任せます。読みたい人は読んじゃってください。
 開幕から1週間経って、ほぼ中日の土曜日マチネ。初日より更に面白くなっていてね。
 観終わって、びっくりした。演説がなくても何の違和感もなく1本の芝居として、ちゃんと成立しちゃってたの。
 いったい何が起こったんだろう。
 
 初日に比べると、あちこちに細かい修正が加わっていたことはわかった。それによってか、でこぼこや、滞留が解消され、シーンとシーンの繋ぎ目がなだらかになり、桃李ヘンリーをはじめ登場人物に3時間、一人の人間としての一貫性が流れるようになった。そうしたら芝居全体が一個の生命体みたいに動き出した感じ。そのグルーブ感に酔ったわ。
 初日には少し謳いがちで上ずったところがあった桃李ヘンリーのセリフも、既に完璧。スピードが上がっても滑舌は見事だったし、溜めるところ、悩むところ、怒るところ、感情が爆発するところ、とても表現が豊かだった。・・・ヘンリーがどんな人かってことが余すところなく伝わってきて。
 そう。演説がなくても満足するほど、ヘンリー像を受け取れたの。ていうか、演説のことを忘れた・・・。
 初めの頃に観て、演説がなくて寂しいと思った方は、もう一度観るといいと思う、先入観を捨て、平らな気持ちで。なくても大丈夫なことがわかって、ビックリするから。
 とはいっても、観たくてももうチケットを入手するのが困難かな。
 
 だからマダムが不満なのは、求婚シーンだけ。やっぱり観ていて、照れ臭くてムズムズする。
 ラブシーンのとき、役者が完全に役に入り込んでいれば、観る方は全然恥ずかしくないんだけど、ほんのちょっとでも(たとえ1ミリでも)役になりきれていない部分があると、凄くムズムズする。今回の演出では、このムズムズが解消されなかったね。
 ここだけヘンリーに一貫性がないし、フランス王女も二つしかない出番のシーンに一貫性がないな、と思った。これは役者のせいじゃなく、演出のせいだと思う。ハッピーエンド風にしすぎじゃない?
 こういうところ、マダムは簡単に騙されないよ、百戦錬磨だもん。

 
 だけど、充分、満足。
 松坂桃李、凄い役者になったね。演技の上手い人こそ、本当のイケメン。最高の賛辞を贈る!
 
 マダムは、もう日本での『ヘンリー五世』上演を観ることは二度とないでしょう。
 だって、35年もシェイクスピア好きなのに、ずっと観たことなかったんだもの。上演がなかったから。
 なのにこの1年で、ふたつの上演に出会えて、そのどちらもが忘れがたい印象を残してくれて、幸せ。
 確信を持って我が道を行く浦井ヘンリーと、迷い悩みながら決断していく桃李ヘンリー。どちらも、素晴らしい。
 
 さてこの後、少しお時間をいただいてから、追記の記事を書く予定。
 頑張る。

2019年2月19日 (火)

松坂桃李の『ヘンリー五世』 その2

 遅くなってごめん。その2も当然、ネタバレ三昧なので、これから観る方は、観てから読みに来てね。
 

   ******************************
 
 桃李ヘンリー以外の役者さんたちについて。

 吉田演出の特徴として、その場で起こっていることに、登場人物たち全てが全霊をかけて反応する、というのがある。
 もちろん誰の演出であっても、脇の人が反応するのはあたりまえなんだけど、吉田演出では「全霊をかけて」反応するの。役者さんたちの「気」の動線がわーっと集まるから、観客は自然と「今起きていること」に視線を向けるし、その意味もよくわかる。わかりやすく出来てるの。
 吉田鋼太郎率いるAUNの役者たちを始め、ずっと一緒に芝居を作ってきた役者たちはその演出を体得しているので、あらゆるところで「気」の動線が飛びまくっていた。英仏双方の使者がやってきて火花散るシーンはもちろんのこと、フォールスタッフが死にそうだという知らせが来るシーンも、謀反の三人を断罪するシーンも、ヘンリーがフルエリンからネギを捧げられ囓る決心を迫られる数秒(ここの桃李ヘンリーの演技が素晴らしー)も、そのあと全員でネギを奪い合うように頬張るところも、ヘンリーと王女がキスしてるのを発見して全員、顎が外れそうになってるシーンも、皆そうなの。
 なので、台詞が少なくても「気」を飛ばしまくって素晴らしかった二人の王子(鈴木彰紀と竪山隼太)をまず褒めたいわ。どんなシーンも(ネギ頬張ってても)品の良さが損なわれず、ちゃんと王子の佇まいだった。いつも、兄王を慕っている強い気が出ていた。桃李ヘンリーと並ぶと、なにこのやたら美しい三兄弟は!ってため息。眼福だ〜。

 
 今回、衣装が美しい。

 特にフランス側の衣装は、青と金を基調にして、優雅なの。
 フランス王の横田栄司。髪も金色で、美しくて上品でゆったりと威厳があって、見惚れた。なんだか久々に美しい姿を見て、嬉しかったし、耳に心地よい声なの。出番は少ないのだけれど、だからこそ彼くらいの存在感がないと、フランス側を印象付けられないよね。

 フランス皇太子の溝端淳平。黒い衣装の桃李ヘンリーに対し、彼は金髪と明るい青の衣装。大活躍ね。初めから殺陣に加わり、最後はヘンリーと一騎打ち。彼の性格づけは、『ヘンリー四世』のホットスパーみたいだなあと思った。ハルのライバルはいつも、血気盛んで短気な自信家だ。でもホットスパーと違って強くない。素敵に作っていたけど、それでもおバカテイストが匂う。
 でも一番インパクトがあるのは包帯ぐるぐる巻きで車椅子に座ってる姿だった。テニスボールを握ってるのは、リハビリのためかな・・・。
 
 フルエリンは、横田栄司ではなく、河内大和。フルエリンの言動は笑いを誘うんだけれど、でも決して「笑われて」はいけない役だ。真面目で誇り高く、強い軍人なのよね。そのあたりのさじ加減が見事で、すごい役者だなあって改めて感心。この人をフルエリンに抜擢した演出家も偉い。河内大和は大きな舞台でシェイクスピアを演る人だとマダムは思ってる。

 蜷川組やAUN、ネクストシアター、カクシンハンの、手練の役者が居並ぶ中へ、ミュージカル界から一人で飛び込んできてくれたピストルの中河内雅貴。新鮮だった。中河内雅貴といえば、マダムは去年『ジャージー・ボーイズ』で2列目ど真ん中から彼を見つめていたのよ。2メートルの至近距離。きらびやかな衣装と、気取ってる台詞のトミー。その彼が今は髭を生やし、薄汚れた衣装で、機関銃のように台詞を喋っている。めっちゃ楽しそうに。なんだか全然違う扉を開けちゃったんじゃない?マダムはすごく嬉しくなっちゃったんだよ。ようこそ、シェイクスピアの世界へ。また出てほしい。
 
 それと、どうしても触れるべきはエクセター公爵の廣田高志。彼は、ずっと蜷川組を支え続けてきた役者で、顔も佇まいもよく知っているんだけれども、どの役をやってたかと言われるとマダムは思い出せないんだった。それは決して彼のせいではなくて、役者の中でも黒子に徹することを、知らず知らず要求されてきた、のかもしれない。今回の演出でマダムはこれから、エクセター公爵といえば廣田高志を必ず思い浮かべると思うの。ヘンリーがフランス王女を娶ることに決まった時、エクセター公爵が泣き出したのにはびっくりした。蜷川演出では見たことのない姿だったんで。
 『ヘンリー五世』は彼にとっての代表作になった。
 
 全員を挙げていきたいところだけど、長くなったので、あと一人だけ。
 小姓とアリス(侍女)の二役をやった悠木つかさの、八面六臂の活躍に舌を巻いたね。さすがAUN仕込み。「気」を飛ばす量が桁違い。殺陣もフランス語もすごいけど、一番は、求婚シーンで一人「気」を飛ばし続けるところ。ムンクの叫びみたいな顔になってる。もうちょっと前に出てきてやってほしい。
 
 
 というわけで、その2終わり。先日2回目の観劇をしてきて、大いに発見があったんで、なるべく早く次の記事を書くわね。待ってて。

2019年2月12日 (火)

松坂桃李の『ヘンリー五世』 その1

 初日のレビューを書き始めるわね。2月9日(金)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾『ヘンリー五世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/吉田鋼太郎
出演 松坂桃李 吉田鋼太郎 溝端淳平 横田栄司 中河内雅貴 河内大和

   間宮啓行 廣田高志 松本こうせい 長谷川志 鈴木彰紀 竪山隼太

   斎藤慎平 沢海陽子 悠木つかさ ほか

 

 さて、これから書くことは一言一句、ネタバレになるの。
 なので、これから観る予定の方、仕事中の役者の方は、読まないで、ここで引き返してね。観る方は観終わってから、役者の方は全公演、演じ終わってから、お読みくださいね。お願いよ。
 
 
 いい? 帰るひとは帰った?
 
  
   *****************************
 

 放蕩息子だったハルが、亡き父のあとを継いで王ヘンリーとなって帰って来た。
 しかも凄く、男っぽく、格好よくなって。

 まあ、松坂桃李の素敵なことといったらない。黒い衣装が凛々しくて、台詞の口跡も爽やかで(初日は少し謳いがちだったけど)、肉弾戦の殺陣も真っ向勝負。
 そしてこの『ヘンリー五世』という本は、ヘンリーに語らせること語らせること。ずうっと松坂桃李の声に耳傾けていた気がする。するとね、この若い王様が、いかに瑞々しい心を持っていたか、けれどいかに苦い決断を何度もしなければならなかったか、ということがわかっていくの。
 始め、ヘンリーはフランスとの戦争になかなか踏み切れない。周りの重鎮たちは、いろいろな思惑があって王を戦争に駆り立てようとするけれど、桃李ヘンリーはすごく慎重だ。フランス皇太子からのテニスボールにかっとなって戦争になったわけじゃなく、話し合いの中で悩んだ末に決意する様子が描かれている。
 フランス行きの船に乗る前、サウサンプトンで裏切り者3人を切り捨てるところもそうだ。桃李ヘンリーは、慈悲をかける可能性をギリギリまで秘めた表情をしていて、スクループ卿の「罪人に慈悲をかけるな」という言葉を聞いて初めて彼らを断罪する心が決まる。そのときの絶望を振り切ろうとする表情と激しい言葉が、こちらの心を揺さぶるの。
 桃李ヘンリーは、ギリギリまで迷う王なのね。それがいいの。迷いを見せてはならない立場なので、見せないように振る舞うけれど、観客にはちゃんと見せてくれる。
 そのあとも次々、そういうシーンが現れる。
 野営地の夜、部下のマントに身を包んで、王じゃないふりをして兵士と会話するシーン。「兵士一人一人の死に責任なんか持てない!いくら王だって」と語る長い独白がとても聴かせる。このとき桃李ヘンリーはまだ、ハルの時の心をちゃんと持ち続けている。大人になったハルがいるな、と思える。
 殺陣がすごい。推しポイントで言ったけれど、これは派手だとか、長いとか、階段落ちがあるとか、そういう意味で言ったのではなく(いや、階段落ちはすごいんですけれども)。肉弾戦で血みどろで、人間が人間じゃなくなっていく様子をしっかり描いてる。戦いの中で、桃李ヘンリーは昔の遊び仲間のバードルフの処刑を命じる。命じざるを得ない。ここの演出が容赦ない。王の目の前でバードルフは首を絞められる。ヘンリーは目をそらさず、それを見続け(今にも倒れそうなのだけれど)、見届ける。
 そして、昔の友を葬ったときから、桃李ヘンリーから徐々に迷いがなくなる。それは彼の中からハルが消えていくってこと。猛烈な戦闘に自ら飛び込んでいく。
 戦いが終わる頃には、疲れ果てて、皆ヨレヨレで、それでもヘンリーは言葉激しく、部下を叱咤激励しつつ、なんと自ら捕虜の首を掻き切ったの…(「のどかき切ってやる!」という台詞はあるのよ、あるんだけど、王がホントにやっちゃうなんてさ)。
 毒を喰らわば皿まで、とはこのことだ。
 自分の中のハルを殺し、自分の心も殺しちゃったみたい。
 
 『ヘンリー五世』はやっぱり戦争の芝居なのだ。たった一つの戦争を王として駆け抜けて、勝ったのに、あっさり死んじゃった王様の物語。短い間に、人の人生の何倍も喜怒哀楽があり、一気に大人になり、血みどろにもなった。これだけのことをマダムに感じさせてくれた桃李ヘンリー、素晴らしい。
 
 だからこそ、二つの点で、マダムは首をかしげる。
 ひとつは、どうしてアジンコートの演説がないのか、ってこと。
 バードルフを処刑して、下級兵士たちの本音も聴いちゃって、戦いも負けそうで、心ズタズタのヘンリーが、どうやって、どんな言葉で、圧倒的不利な兵士たちを奮い立たすことができるのか? 自分の中はもう空っぽなのに、みんなに最後のエネルギーを与えなくちゃならないの。ものすごい見せ場なのよ。無くて、メッチャ悲しかった。桃李ヘンリーに、もっと無理難題を押し付けてほしかった。だって、できるじゃん、彼。
 もうひとつは、もっと愕然としたのだけど。あの求婚シーン。
 そりゃあ、素敵だったし、ファンはメロメロかもしれないけど。でもあのシーンだけヘンリーじゃなくなってる。ただの松坂桃李になってる。役が抜け落ちてる。
 戦勝国の若き王が、戦敗国の王女に求婚する。ただのラブシーンじゃないわけで。なのに、二人とも、コスプレしたその辺の若者になってしまってる。
 ここまで凄くいいヘンリー像を描いてきたのに、がっくりきたマダムなのだった。
 
 なのだけど、そのすぐあとにやってくるラストシーンが、美しいんだよね。
 ちょっと泣きそうになるくらい。
 
 その2で、他の役者さんたちのことなど、書くね。

2019年2月 9日 (土)

速報『ヘンリー五世』初日

 かなり待ちくたびれた。2月8日(金)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾『ヘンリー五世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/吉田鋼太郎
出演 松坂桃李 吉田鋼太郎 溝端淳平 横田栄司 中河内雅貴 河内大和

   間宮啓行 廣田高志 松本こうせい 長谷川志 鈴木彰紀 竪山隼太

   沢海陽子 悠木つかさ ほか

 
 初日に行ってきた!
 それでもう、あんなことやこんなことを山ほど書きたいんだけれど、どれもこれもネタバレ過ぎる。
 なので、もう一度観に行く予定もあることだし、レビューは少ししてからたっぷり書くので、待ってて。
 今日は、ゲキ推しポイントを挙げておくので、これから観る方、お楽しみに!

ゲキ推しポイント
 ① とにかくヘンリー(松坂桃李)が素敵。大人の男になった。
   かっこよすぎるだろ。
 ② 殺陣が凄すぎる。こんな殺陣はマダムの観劇史上、初めてかも。壮絶。
   観るほうも、体力勝負。へとへとになる。
 ③ ネギが乱れ飛ぶ。抱腹絶倒。
   少し匂うので、前方席の人はマスク着用するのも良いかも。
 ④ 吉田鋼太郎のファンの方、安心して。出番がたくさんある。
 ⑤ ラストの演出が素晴らしい。四世から観てる人は泣く。
 
 以上、簡単だけど、初日の報告よ!
 みんな、楽しんできてね。

2018年11月25日 (日)

『The Silver Tassie 銀杯』の豊かさと足りなさについて

 世田パブ、ちょっと久しぶり。11月17日(土)マチネ、世田谷パブリックシアター。
 
『The Silver Tassie 銀杯』
作/ショーン・オケイシー 翻訳・訳詞/フジノサツコ
演出 森新太郎
出演 中山優馬 矢田悠祐 横田栄司 山本亨 青山勝 浦浜アリサ
   安田聖愛 長野里美 土屋佑壱 三田和代 ほか

 
 森新太郎演出といえば、何と言っても『ビッグ・フェラー』である。あの時の衝撃は忘れられないし、その後見た、とある舞台のがっかり度も『ビッグ・フェラー』並の衝撃を期待しちゃったから、というのがあるのね。
 『銀杯』はなかなか刺激的だった。『ビッグ・フェラー』程ではなかったけど。演出家はいろんなことを試したくて、沢山チャレンジしてる。ワクワクさせてくれるところもあれば、あんまり上手くいってないな、と首をかしげるところもあるんだけど、それでも、面白かった。なにより予定調和は嫌だし、人と同じ手法じゃつまらないし、チャレンジを歓迎するわ、マダムは。
 
 お話の舞台は、アイルランド。第一次大戦にイギリスの一部として参戦した若者をめぐる物語。ハリー(中山優馬)は美しく精悍な若者で、フットボール選手として地元の人気者だ。優勝カップ(銀杯)を掲げて、みんなに祝福され、美しい恋人もいて、前途洋々。そしてその気分のまま、戦地に出陣していく。
 が、苛烈を極めた戦闘で、ハリーは脊髄を損傷し、一生車椅子で生活しなければならなくなる。はじめは同情していた人々もやがて彼への関心は薄れ、ハリーの恋人だったジェシーも、親友バーニーに取られてしまう。盛り上がるダンスパーティの夜、絶望するハリーの車椅子を、同じく戦闘で負傷し盲目となったテディが押しながら(と同時に、ハリーの車椅子が盲目のテディの杖代わりとなって)、退場していく・・・という物語。
 なんだか不思議な芝居で、いろいろな魅力があるんだけど、以下、まとまらない感想を書き留めると。
 
 正直、出だしは退屈だった。
 幕が開くと、舞台は四角い箱のような部屋なんだけれど、床が思い切り斜めなの。なかなかインパクトあるけれど、このインパクトは最初だけで、傾斜についてはだんだん忘れる(観てる方は忘れるけど、役者はずっと大変よね)ので、あまり効果的とは思えなかった。
 ゴドーを待ってるとしか思えない二人組のおじさんシルベスター(山本亨)とサイモン(青山勝)がどうでもいいことを喋ってる出だし。おじさんたちをキツイ言葉であしらう若い娘スージー(浦浜アリサ)との掛け合いが、面白くなりそうで面白くならず、退屈なの。でも、退屈な日常を描くのが目的なのかもしれない。だから退屈でいいのかもしれない。マダムは眠気に襲われた。
 そのため、大切な台詞を聞き逃したのかもしれないのだけれど、マダムは芝居の後でパンフレットを読むまで、このおじさんの片一方が主人公ハリーの父親であることに全く気付かなかった(恥)。聞き逃したかもしれないセリフのことはともかくとして、もう少し、父親らしい振る舞いとか、妻に対する夫らしい仕草とか、家族のいるのを匂わせる態度とか、なかったもんだろうか。最初にちょっとだけ寝ちゃったマダムがすべて悪いのだろうか。それとも、シルベスターはハリーの父親らしいことは何一つしない人、として描かれているのだろうか。
 実際この二人組のおじさんの描かれ方は、実在の人物なのかも怪しむほど。まるで「不思議の国のアリス」の中のトウィドルダムとトウィドルディーみたい。服装も、行動からも、生活が全く浮かび上がって来ない。最後までよくわからない人たちのままなのが、すごく疑問なのだけれど、それが妙に面白く後を引く。一筋縄ではいかないのね。
 
 マダムの眠気が覚めたのは、DV気味のテディ(横田栄司)が舞台に登場してから。逃げる妻を追って、他人の家まで侵入し、妻の大切にしている陶器を粉々にし、怒鳴り散らす。登場が派手だから、目が覚めたというのもあるけれど、それだけじゃない理由がある。それなりに大きな世田パブという劇場で後ろの方の客(マダムは2階にいた)にまで芝居を伝えるには、空間を大きく捉えた演技が必要で、それができる人が、主要な役をやっている中に横田栄司しかいなかったのではないかしら。繰り返すけれど、大きい声が出るとか出ないとかの問題ではないのよ。
 ハリーを演じた中山優馬も、恋人を奪うバーニー役の矢田悠祐も、与えられた役をちゃんと演じてる。演じてるんだけど、遠くの観客をも巻き込むような広がりというか強さというか念というか、が足りないの。場をさらっていくような決定的な台詞の時に、さらいそこねてるのが残念よね。
 
 2幕の戦場のシーンの面白さは抜群で、唸った。このシーンを人形でやるのは、作家指定なんだよね? 人形のデザインが素晴らしい。弱って立つことさえできない兵士は、ほとんど骸骨として描かれてるし、他の兵士たちの顔は汚れて青黒くグロテスク。俳優が普通に演じたらただただ悲惨でしかないシーンを、面白く見せて更に愚かさと哀しみが増しているの(『戦火の馬』を思い出した)。負傷者を担架で運びながら歌う歌も凄く沁みて、このシーンを見られただけでも芝居を見た甲斐があった。
 人形のせいで役者の顔が見えなかった・・・という不満をネットで見かけた(主として横田ファン)のだけれど。マダムは声を聞いてすぐ一番右の人形が横田栄司だとわかったし、2階の席からは時折後ろで人形を操る姿も見えたの。そして面白いなあと思ったのは、人形の演技が操る人の演技と重なること。テディ人形が、仲間から煙草を1本もらって、かぶってるヘルメットにトントンと軽く叩きつけて落ち着かせてから火をもらう。そういう細部がいかにも横田栄司らしくって、本人の本人らしさを人形が更に抽出することもあるんだーって、感心したの。
 このシーンでただ一人、人形ではなく役者が出ていたのが、バーニーだったんだけど、存在感が人形に負けていた。上官の彼女に手を出して縛られてるっていう設定なのに、そういう浮気野郎な感じも、悲惨な感じも、全然足りなかった。一人だけ役者のままで出るってことは、ものすごく意味のあることなのにね。
 
 2幕の圧倒的な面白さに比べて、後半はちょっと凡庸だったのが残念。それは後半の主役はなんといっても車椅子のハリーだったので、ハリーの演技がもっと強かったら、と思ってしまったの。ハリーは1幕でもそれほど長く出ていないし、その短い出番で健康で精悍な青年の魅力を見せておかないと、後半の絶望とのコントラストが出ないんだよね。実は凄く難しい役なのよ。だからこそ、いい役。
 輝かしい銀杯が、潰れ、ひしゃげて打ち捨てられる。それはハリーそのものなわけよ。
 こんなに考えなくても、芝居を見終わった瞬間に、それを感じられたら、もっとよかった。ただ、こんなに考えちゃうってことは、それだけ芝居の世界が豊かだったから。一筋縄ではいかないね、ほんとに。

2018年9月17日 (月)

無名の人々の御一新を描く AUNの『あかつきの湧昇流』

 スカイツリーを見上げながら、だいぶ歩いて劇場へ。9月16日(日)マチネ、すみだパークスタジオ倉。

劇団AUN第二十四回公演 『あかつきの湧昇流』
作・演出/市村直孝
出演 吉田鋼太郎 大塚明夫 黒沢ともよ 横田栄司 北島善紀 星和利
   長谷川志 岩倉弘樹 松本こうせい 飛田修司 谷畑聡 長谷川祐之
   齋藤慎平 杉本政志 伊藤大貴 坂田周子 悠木つかさ 金子久美子
   長尾歩 工藤晶子 沢海陽子 佐々木絵里奈 山田隼平 松尾竜兵
   橋倉靖彦 河村岳司 近藤陽子 砂原一輝 宮崎夢子

 
 AUNが2014年に初めて『有馬の家のじごろう』を上演して以来、市村作品4作目。マダムは今作がいちばん好きかもしれない。
 1作目の時は、シェイクスピア劇団の人達が日本人の役をやっていることが信じられず、観る側のマダムのほうがついていけてない部分があったのだけれど、もうそんなことが嘘のように市村作品に馴染んでしまった。
 役者さんたちも、始めは着慣れない着物姿だったのが、今ではすっかり似合うようになっていて、不思議なものね。

 あらすじを全部説明するのはあまりに困難なのでやめておくけれど、どんなお話だったか、一言で言えば「無名の人々にとって明治維新とはどんなことだったのか」を描いてる。それは「明治維新」という言葉で普段イメージされるものとはだいぶ違うの。
 私たちは歴史を教科書で勉強したり、大河ドラマなんかを見たり、司馬遼太郎なんかを読んだりして、当時のことを俯瞰してわかった気になってるけれど、その只中に生きた人たちのことを存外知らないものなのだ、としみじみ思った。
 
 武士の格好をして旅をしている弥之助(実は女、黒沢ともよ)と、そのお供をする家臣の伊三次(吉田鋼太郎)はいかにも仇討ちのために旅しているのだけれど、その詳細はなかなか明かされない。二人は道に迷い、山中の廃寺に行き着く。寺は、近くの銅山で働く鉱夫たちの宿に使われていて、訳ありな親子が寺に住み込みで働いている。
 所変わって、江戸の同心の善八(大塚明夫)は手下を使って薩摩方を探らせて、薩摩の精神的支柱である美樹十三郎(松本こうせい)の居所をつきとめ、捕らえて処刑する。薩摩藩士潮甚平(横田栄司)は、十三郎の仇を討つべく、善八の手下を一人一人手にかけていく。善八は死を覚悟し、幼い養女を手下の又吉(松尾竜兵)に託して逃がし、自分は薩摩藩邸に乗り込んでいく。
 というような全く違う場所、時間のふたつの物語が、並行して進んで、やがて弥之助と甚平と又吉の因縁が明らかになる…。
 
 芝居の作りはかなり複雑で、幕末のとある時期(安政の大獄の頃)と、明治五〜十年くらいの、割と近距離のふたつの時間が交錯するのね。さらに場所も、足尾銅山の町、江戸、薩摩や会津に次々と飛ぶ。そして時間と場所についての説明はわざわざしない。ヒントはごく普通の会話の中にこっそり練りこまれていて、こちらが感覚を研ぎ澄ましていないと、捕まえ損ねてしまうわけなの。
 でもこれは台本の失敗ではなくて、作家(そして演出家)の狙いがまさにそこにあるのね。色々な断片が少しずつ集まっていって、最後の大団円で一気にパズルが組み上がって目の前に全容が開ける…それが市村作品のカタルシス。
 なので、観終わった後の友人たちとのお喋り(反省会)でも、「登場人物表と関係図と歴史年表が欲しかった」という意見が出て、マダムも頷いたのだけれど、そこは紙一重で難しいよね。何も知らずまっさらな状態で芝居に導かれていくことも、極上の喜びだし、作家もそれを目指しているのだから。
 
でも、そうはいっても、マダムも脳の中で伏線を全部回収しきれなかった所があって、時間があればもう一度観たかった。再演、しないかな。
 
 役者さんの演技は皆、細かな演出が行き届いていて、とても良かった。武士は武士らしく、芸妓は芸妓らしく、女将は女将らしく、料理人は料理人らしく、番頭は番頭らしく、鉱夫は鉱夫らしく。殺陣、舞、立ち居振る舞い、汗の拭い方、汁物をよそる手元まで、身分と仕事を身体がちゃんと表していて、観ているのが楽しかった。翻訳物だと、なかなか得られない感覚かも。(個人的には横田栄司の着物姿にクラっときた〜。文学座関係者はちゃんと見てるだろうか?「華岡青洲の妻」がやれるよ!)

 
 市村4作品のなかでどうして『あかつきの湧昇流』がいちばん好きかというと、人情を描くのではなく人間を描くことにシフトチェンジしたから。それと、幕末から明治維新にかけての時代は、今の私たちの生き方に密接に関係があることだと最近強〜く思っているので、有名人たちの縄張り争いじゃなく、市井の人たちの人生の芝居であったことも、とてもよかった。
 坂本龍馬にも西郷隆盛にも、飽き飽きしたよ。もう有名人の手柄話はたくさん。

2018年7月30日 (月)

『レインマン』を観る

 チケット争奪戦に出遅れた結果、平日夜の観劇となった。ちょっとハードだ。7月24日(火)ソワレ、新国立劇場中劇場。

『レインマン』
脚本/ダン・ゴードン 上演台本・演出/松井周
出演 藤原竜也 椎名桔平 安蘭けい 横田栄司 吉本菜穂子 渡辺哲

 蜷川御大亡き後、藤原竜也の芝居に行かなくなっていたの。『アテネのタイモン』は観たけれど、あれは藤原竜也の芝居、ではなかったし。
 ではなぜ、今回行ったのかというと、彼の役が、王でも王子でもなく天才殺人鬼でも稀代のペテン師でもない、フツーのあんちゃんだってことと、演出が松井周だからってことなの。
 マダムは松井周の劇団サンプルの公演を観たことがないし、作品もよく知らない。ただ一度だけ松井周の演技を見たことがある。それはハイバイの『ヒッキー・ソトニデテミターノ』で、急病の古舘寛治の代役として出ていたときだった。台本を持ったまま、という大胆な代役だったのだけれど、その役がどんな人なのかを深く理解した佇まいで、マダムの代役史上最高の演技だった。こういう人の演出は信じられるぞ、と思ったわけなのよ。
 
 原作は有名な映画だし、ストーリーを説明しなくてもいいよね?
 
 マダムの予感は的中し、フツーのあんちゃんを演じる藤原竜也が、とても生き生きしていたの。彼のデビューが『身毒丸』や『バトルロワイヤル』だからといって、本人の中にいつも狂気が渦巻いているわけじゃなし、普通の青年の役をなんでやらないんだ、と思ってたのよ。チャーリーの、人生投げやりでやんちゃでいい加減で女好きで・・・っていう設定、(芝居に対する態度を別にしたら)本人に限りなく近そうな役だよ、これ。
 だから、ひとりで朗々と台詞を語るところなんかなくて、悪態ついたり言い訳したり、遺産欲しさに自閉症の兄を連れ出す無謀さとか、その兄がすぐ隣室にいるのに恋人とセックス始めちゃったりする自制心のないあんちゃんぶりとか、めちゃくちゃリアリティがある。彼の芝居でこんなにリアリティがあったの、『天保十二年のシェイクスピア』以来じゃなかろうか(そういえば、あの時の役も時代劇だったけどいい加減なあんちゃんだったわ・・・)。
 もちろん、本人に近いからという理由だけでいい演技ができるわけないので、そこは面白い本と、的確な演出と、手練の共演者と、本人の努力があるのだというのはよくわかっているのよ。
 そして、ラスト、いいように利用してきたかに見えた恋人をちゃんと抱きしめてキスするところなんか、いつどこで覚えたんだっていう美しい、女の抱き寄せ方を見せてくれて。ダメダメなあんちゃんが芝居の終わりに一瞬カッコよく見えるの。それはこの芝居のテーマそのものだし、成功してる。
 
 そして抜かりなく配置された共演者の上手さ。
 映画でダスティン・ホフマンがやったレイモンド、椎名桔平が素晴らしいの。ダスティン・ホフマンに負けないくらい上手くて、ダスティン・ホフマンよりあざとくない。最初から最後まで椎名桔平であることを忘れて、自閉症でサヴァン症候群のレイモンドとして見惚れてた。映画の印象ではダスティン・ホフマンが主役のような演技だったと記憶してるし、実際チャーリーよりも遥かに難しい役だと思う。チャーリーには次々とドラマがある(倒産に追い込まれる→父が亡くなる→遺産を期待する→兄がいることを初めて知る→遺産が全部兄に行くことがわかる→兄を連れ出す→兄と自分の秘密を知る→「レインマン」の謎が解ける、などなど)けど、レイモンドは閉じてる人だから、ドラマがほんの少ししかないのね。相手に反応するっていう演技を、かなり封印しなくちゃならない。かといって、全く反応しないわけでもないので、ひとりで作り込まなくちゃいけない大役なのよ。椎名桔平、映像ではいい役者だと知ってたけれど、舞台でこれだけの演技ができる人だったとは。
 チャーリーの恋人スーザンの安蘭けいも、安定の上手さ。しかし、もし実年齢に近い女優を連れてくるときっと、大人の女にならないんだろうなぁ。それはそれで問題だ。
 そして三役を演じ分ける横田栄司。彼のおかげで、舞台を安心して見ていられるのだけれど、なぜこの役目を彼がやらなきゃいけないのか、マダムはちょっと不満。これを書いているちょうど今日、読売演劇大賞の上半期の男優5人の中に選出されたニュースがあったばかり。高い技能を持った役者さんには、ふさわしい役をつけてほしいとマダムは思う(けど、案外ご本人は、時々は気楽にやりたいからいいんだよ、っていうかもしれないんだけど。でもさ)。
 
 さりげない照明が美しかったし、スタッフがホテルマンみたいな衣装で装置替えしてるのも楽しかった。いい舞台だったわ。

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