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浦井健治

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための『天保十二年のシェイクスピア』予習講座 その4

 さてここまで大雑把なあらすじを書いてきたけど、これ以上細かく書くと観劇の楽しみが減るので、この辺にしておきます。
 予習しとくと、より楽しいポイントを、も一度まとめてみると、
 
1.「リア王」の設定(王様と娘が三人)と、最初の場面。
2.「ハムレット」の設定と、人物の関係図と、
   幾つかの有名場面(父親の幽霊と会うところ、
   オフィーリアに「尼寺へ行け」というところ、「生か死か」と悩むところ)

3.「ロミオとジュリエット」の設定と、バルコニーの場面。
4.「オセロー」がどんな風に、イヤーゴに陥れられたか、について。
5.「ジュリアス・シーザー」のアントニーの演説シーン。
6.「マクベス」の魔女の予言。マクベス夫人がマクベスをけしかける場面。
 
 こんな感じかなぁ。初日までまだ3週間くらいあるし、あせらず行きましょう。
 ま、予習しなくたって、芝居は楽しいと思うけど!
 
 
 
 最後に、浦井ファンの方に、マダムがいちばん楽しみにしているポイントをお話しして終わりにしよう。
 ハムレットのセリフで「生か死か、それが問題だ」という有名なセリフがあるけど、これは明治以来、たくさんの違う翻訳があるの。芝居の途中、王次がそれを全部(明治の坪内逍遥訳から、最近の松岡和子訳まで)紹介してくれるシーンがある。それが、メッチャ楽しみ。
 
 ではこれで、勝手な予習講座、終了。
 芝居を観たら、レビューを書くので、また読みに来てね。そして、ここで触れなかったパロディを発見したら、教えて下さい!

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための『天保十二年のシェイクスピア』予習講座 その3

 すごい反響なので、俄然書く気が湧いてきてる!
 
 続き。

 シェイクスピア好きなら知っているんだけど、シェイクスピアにはよく双子が出てくる。当時のシェイクスピアの劇団には、双子の役者もしくは凄くよく似た二人組がいたのかもしれない。だから、そっくりな兄弟が別れ別れになっていて、知らずに同じ町に滞在し、周りの人間が間違えて大混乱に陥る…という楽しい設定が、よく使われているの。
 なので、井上ひさしももちろん、この設定をそのまま取り入れている。

 物語の始まりで、父親に勘当された三女のお光
 お光は実は、拾われた子で、十兵衛の本当の子ではない。末っ子が継子(ままこ)で、一番気立てがいいというのは、シンデレラとかでも出てくる設定だけど、そこにさらに、お光には双子の姉妹がいた、という設定が加わるの。これを一人の役者(今回は唯月ふうか)がやるので、当然早替わりなんかがあって、楽しいのよ。
 勘当されたお光は遠い町に行っていたけど、父親が死んだと聞いて、姉たちに復讐しようと帰ってくる。姉の息子である王次は、お光にとっては仇の一員なんだけど、互いに一目惚れで、恋に落ちる。つまりここでは、王次とお光は、ロミジュリになる。お光は窓辺で「王次、どうしてあんたは王次なの?(ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?)」とつぶやく。それに対し王次がなんと答えるかは、劇場でのお楽しみ! みんな、その瞬間を待とう。
 
 三世次の悪巧みは、両家の抗争を激化させ、話が進めば進むほど、登場人物はどんどん死んでいくの。作家が決めたことなのでしょうがない。最後は三世次も、語り手の隊長も、み〜んな死んで、全員で楽しく歌う。その歌詞が絶品。「もしも、シェイクスピアがいなかったら」という歌。もしもシェイクスピアがいなかったら、劇場主も役者も英文学者も商売上がったりだよ〜っていう歌、めっちゃ楽しいよ!
 


 歌について話すのを忘れていた!
 出てくる歌出てくる歌、歌詞が韻を踏んでたり、キツいジョーク飛ばしてたり、ちょっと下品だったりするので、普段の自分の品の良さを忘れて楽しみましょう。
 もともとシェイクスピアは、韻を踏んでたり、同音異義語を使って冗談言ったり風刺を込めたり、隠語で下品な笑いがあったりするのね。でも、そういうところを翻訳するのはすごく難しいことなので、日本でシェイクスピアを上演すると、なんかお堅い高尚なものになりがち。
 井上ひさしはその辺りのことをよくわかってて、歌詞の中に言葉遊びをたっぷり入れてる。「賭場の場のボサノバ」とかね、上手すぎる。全部は聞き取れないので、見終わってから、興味のある方は、本を読んで更に笑うのがいいと思う。
 
 さて、その4でまとめ、します。

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための『天保十二年のシェイクスピア』予習講座 その2

 『天保十二年のシェイクスピア』には、芝居の案内人みたいな人がいて、隊長という役名がついている。今回この役をやるのが木場勝己なの。2005年の蜷川演出版でも、同じ役をやった大ベテラン。良い声で、セリフがまろやかでなめらか。とっても聴きやすい。この人が案内人なので、みんな、安心していいと思う。
 なので、予習しなくてもいいや、と思ったら、ここからは読まなくてもいいんだけど。
 


 ここから解説付きあらすじです(いちばん大事なところのネタバレは避けます)。
 
 清滝村、という田舎町を牛耳っているヤクザの親分、鰤(ぶり)の十兵衛には3人の娘がいる。十兵衛は、娘の誰かに跡目を譲って隠居したいと考えて、娘たちを集め、誰が一番親孝行をしてくれるか?と尋ねる。長女のお文も、次女のお里も、歯の浮くようなお世辞を言うんだけど、三女のお光はまっすぐな気性が邪魔をして、お世辞が言えず、父親の怒りを買って、追い出される。
 これは完全に「リア王」の出だし。全く同じと言っていいので、時間のある方は、「リア王」の最初の5分の1くらい、読んでみてね。時間のない方は、ざっとあらすじを知っておこう。
 そのあと、十兵衛は長女からも次女からも冷たくあしらわれ、町はお文の一家とお里の一家に支配され、二分され、対立抗争が始まる。
 
 抗争が始まった清滝村に、一人の流れ者がやってくる。佐渡の三世次。せむしで足を引きずって歩く醜い男だけど、出世欲が強くて、悪賢い。この設定は「リチャード三世」そのもの。この三世次、醜くて悪いやつなんだけど、口の上手さだけで人の心を操ってのし上がっていくのが、なんとも痛快で魅力的。悪の魅力。
 マダムはもちろん高橋一生、大好きなんですけど、彼が演じてきた中でも最大の面白い役。期待しちゃう。
 三世次は、対立するヤクザの家の両方にうまく取り入って、両方が互いを殺し合い、両方の力が弱まるように、立ち回る。そのあたり、シェイクスピアというよりも、黒澤明監督の「用心棒」みたい。
 だけど、そのうまく立ち回るノウハウが、いちいちシェイクスピアなのよ。
 
 
 たとえば①。三世次は、王次が「父親を殺したのは叔父だ」と気づくきっかけを仕込む。父親の幽霊を仕込むんだけど、それは言わずと知れた「ハムレット」のパロディ。
 
 たとえば②。三世次は、幕兵衛に「愛人が自分を裏切っている」と思い込ませるんだけど、そのやり方はイヤーゴがオセローを罠にかけたやり口(オセローが妻デズデモーナにプレゼントした特別なハンカチを盗んで、別の男の部屋にこっそり置いておく。それでデズデモーナが浮気したかのように見せかけ、オセローの嫉妬をあおる)。
 
 たとえば③。自分の兄貴分を追い落とすため、三世次は「ほめ殺し演説」をする。この演説が「ジュリアス・シーザー」の中のアントニーの演説そっくりなの。(ブルータスのことを褒めてるような口ぶりで、実際は反感をあおり、聴衆はみんなブルータスを信用しなくなる。とても有名な演説。)
 
 というように、三世次の一挙手一投足に、シェイクスピアが練り込まれてるの。マダムも到底全部は気づけないほど、たくさん練り込まれてて、ひとつひとつ発見していくのが楽しい。
 ただそればかりにとらわれると、頭が忙しくなっちゃって疲れることもあるので、ほどほどに。とりあえず上の三つくらいフォローしとけばいいと思うので、なんとなく頭に入れといてください。深掘りしたい方は各自で。
 

 それから占いの老婆が、三世次や幕兵衛にいろんな予言をする。
 浦井ファンの方は、メタマク見てるから、もう当然気づくでしょう。この占いの老婆は、マクベスの魔女です。相手の心の中の本音をくすぐって、泥沼に引き込む悪魔ね。
 悪の塊のような三世次でも、魔女の予言には逆らえない。
 
 あらすじは、その3で、まだまだ続きます。

速報 10月に『リチャード二世』上演

 予習講座中に、すごいニュースが飛び込んできた!
 10月に新国立劇場で鵜山演出『リチャード二世』を上演するって!
 
 2018年5月に、一連のヘンリーシリーズの最後とも言える『ヘンリー五世』上演があったときマダムは既に、同じ座組で『リチャード二世』を上演してくれ、と訴えていたの(レビューは、これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』 )。なんと、アンケートに書くように、みんなに呼びかけている…。
 みんなの協力が功を奏したのか、今回『リチャード二世』上演の運びとなったわ〜‼︎‼︎
 めでたい〜!

 出演は、岡本健一、浦井健治、中嶋朋子をはじめ、シェイクスピア歴史劇シリーズに出演してきたチーム、集合ね。文学座からも、文学座を代表する顔ぶれ(横田栄司、浅野雅博、石橋徹郎、亀田佳明など)が続々集合。
 配役は発表になってないけれど、岡本健一がリチャード二世、浦井健治がリチャードを倒すボーリンブルック(のちのヘンリー四世)を演じるのに間違いないでしょう。
 
 それと、今回の上演にあたって、過去の歴史劇シリーズの映像を公開する、とのこと。選りすぐりの、って話なので全部じゃないみたいだけど、ケチってないで全部公開しなさーい。国立劇場で製作したものは、みんなの財産なんだからねー。
 
 というわけで、夏にはまた当ブログで『リチャード二世』予習講座、開催決定!
 みんな、楽しみにしててね。
 さて、『天保』予習講座執筆に戻りまする。

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための『天保十二年のシェイクスピア』予習講座 その1

 2月に日生劇場で上演される『天保十二年のシェイクスピア』。
 浦井ファンの中には、ふだんのミュージカルのラインナップと違う雰囲気のチラシを見て、驚いてる方もいると思うので、その方たちのため、ごく簡単な予習講座します。
 井上ひさし作の舞台を多々ご覧になってる方は、あたりまえすぎて面白くないと思うので、読み飛ばしてね。
 
 『天保十二年のシェイクスピア』は、劇作家井上ひさしの傑作の1本で、初演が1974年。題名からも推察できる通り、シェイクスピアのパロディ作品。あらゆるシェイクスピア作品から、人物やら設定やら台詞やらを引っ張ってきて、日本の天保時代(江戸時代ね)の田舎町の抗争を描いてる。
 井上ひさしは、書き始める前にふたつのことを決めてたみたいなの。ひとつは、シェイクスピアの全37作品から、台詞を取り入れること。もうひとつは、シェイクスピア作品の悲劇を真似て、登場人物全員が死ぬこと。このふたつをお約束として、書いたわけ。だけど作品は全然、悲劇じゃない。悪いやつが悪いことをしてどんどん死んでいくので、全く悲しくない。むしろ痛快。
 
 このパロディ、井上ひさしの膨大な量の博識が詰め込まれた、楽しくも深い、深くも広い作品になっているので、ただ見るのも面白いんだけど、少しでも元になってるシェイクスピア作品の知識があれば、もっともっと楽しめるの。
 なので、まず登場人物が、シェイクスピア作品の中の誰をモデルにしてるのかを、ざっと挙げてみますね。たいてい、複数の人物をモデルにして、混ぜこぜにしてる。

 
佐渡の三世次(高橋一生)・・・・リチャード(「リチャード三世」)、
                
イヤーゴ(「オセロー」)、
                アントニー(「ジュリアス・シーザー」)など
きじるしの王次(浦井健治)・・・ハムレット、ロミオ
お光&おさち(唯月ふうか)・・・コーディリア(リア王の三女)、ジュリエット
                アンティフォラス双子兄弟(「間違いの喜劇」)
お冬(熊谷彩春)・・・・・・・・オフィーリア(「ハムレット」)

鰤の十兵衛(辻萬長)・・・・・・リア王
お文(樹里咲穂)・・・・・・・・ゴネリル(リア王の長女)、
                ガートルード(ハムレットの母)

蝮の九郎治(阿部裕)・・・・・・クローディアス(ハムレットの叔父)
お里(土井ケイト)・・・・・・・リーガン(リア王の次女)、マクベス夫人
尾瀬の幕兵衛(章平)・・・・・・マクベス、オセロー
清滝の老婆(梅沢昌代)・・・・・マクベスの魔女



 浦井ファンとしては、ハムレットもロミオもやってほしかった役なので、きじるしの王次は、なんと一粒で二度美味しい(みんな知ってるだろうか、この表現)役。この役を味わって見るためには、ハムレットのあらすじだけは是非とも頭に入れておきたい。(ロミジュリはみんな、知ってるでしょ?)
 王次は、やくざの親分の跡取り息子で、違う町に修行に行ってるんだけど、父親が死んだと知らされ、帰ってくる。すると、父親の弟(つまり叔父)が母親と再婚してて、親分に収まっている。王次はなんとなく、納得できなくてフラフラしてる。すると父親の幽霊が現れて「俺は殺された。仇をとってくれ」って言うの。
 ほら、完全にハムレットでしょう?
 でも、抗争相手の娘と恋に落ちるところは、ロミジュリ。そこは話がいろいろと組み合わさり、絡み合ってる。両方の話を知ってると、絡ませ方の妙が感じられて、そこもまた面白い。
 
 「ハムレット」の脚本を読むまではしなくてもいいので、あらすじと、登場人物の関係図くらいは、見ておこう!
 その2では、『天保十二年のシェイクスピア』の大雑把なあらすじをシェイクスピア作品と絡めて、説明します。

サイズダウンして深くなった『ビッグ・フィッシュ』

 再演と言っても、そのままじゃなかった。11月6日(水)マチネ、シアタークリエ。
 
ミュージカル『ビッグ・フィッシュ』
脚本/ジョン・オーガスト 曲・作詞/アンドリュー・リッパ
翻訳/目黒条 訳詞/高橋亜子
演出/白井晃
出演 川平慈英 浦井健治 霧谷大夢 夢咲ねね 藤井隆 JKim 深水元基
   佐藤誠悟 東山光明 小林由佳 鈴木蘭々 ROLLY
 
 初演を観たのが去年、のような気がしてたんだけど2017年なんだって。時の経つのはあまりに早い。
 お話に変化はないので、ストーリーは以前のレビュー( →ここ)を読んでいただくとして、大きく変わった演出について。
 芝居が、深くなった!
 
 出演者は初演時と変わってないので、これは演出の変化によるもの。ハコが日生劇場からクリエに変わるのに合わせて、たくさんいたアンサンブルを切って、全てをメインの役者だけで演じる。その他大勢の役も、メインの役者たちが代わる代わる衣装を変えて出る。大劇場に合っていた賑やかしの場面(浦井くんがカウボーイ姿してた)などは無くなり、そのかわり家族の曲がいくつか増えた。
 それは大ボラ吹きの父親エドワード(川平慈英)のホラ話を楽しく見せることよりも、家族の(夫婦と親子の)気持ちを表現する方へシフトしたということで、これが大成功。初演よりずっと沁みて、ラストには不覚にも涙が・・・。
 パンフを買ってないので、どの曲が減りどの曲が増えたか、正確にはわからないのだけど、少なくとも、最初の方で母サンドラ(霧谷大夢)とウィル(浦井健治)で歌う歌は、初演ではなかったはず。父親を理解できず苛立つウィルに、サンドラが「おとうさんは一生懸命に生きてきたのよ、わかってあげて」と息子を諭す歌。これが出色の出来。
 初演の時も、霧谷大夢の演技はとてもよかったんだけど、今回曲が増えたことで、彼女の老若の演じ分けの素晴らしさが倍増。相手の素晴らしさに呼応するタイプの浦井健治の歌も、心のこもりかたが倍増。二人で歌うこの曲だけじゃなく、ウィルひとりの「Stranger」が沁みることといったら! 「Stranger」はコンサートなどでよく歌う曲なので何度も聴いてるんだけど、芝居の流れの中で役になりきって歌った時が格別だわ。
 ラスト近く、死に瀕して怯えるエドワードを抱き寄せて励ますサンドラの歌が、また素晴らしくて。この曲は初演でもあったはずなのに、今回の芝居の構成で夫婦や親子の関係がくっきりしたおかげで、このシーンの刺さりかたが全然違ったの。泣くよね(鬼の目にも涙ってやつ)。
 エドワードがいなくなったベッドに腰掛けて涙するウィルの姿も、初演の時とは比べ物にならないくらい、じーんときてしまって参った。
 
 演出は別に泣かせにきたわけじゃないと思う。夫婦と親子の間の気持ちをちゃんと描くほうへ舵を切ったら、いろんなシーンが有機的に働くようになって、見ている私たちもグッと入り込んだ、ってことよね。いろんなシーンが有機的に働くようにする、っていうのが演出の腕なので、再演は白井演出の勝利。マダムの中で、前回(KAATの新作ミュージカル)の失敗を完全に挽回してくれた感じだわ。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を味わう その2

 結局、千秋楽まで、4回も観てしまった。ちょっと、予定外。9月4日(水)ソワレ、六本木EXシアター。9月28日(土)マチネ、Zepp Tokyo。9月29日(日)マチネ千秋楽、Zepp Tokyo。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』
作/ション・キャメロン・ミッチェル  作詞・作曲/スティーヴン・トラスク 
翻訳・演出/福山桜子  歌詞/及川眠子  音楽監督/大塚茜
バンド/DURAN  YUTARO  楠瀬タクヤ 大橋英之 大塚茜
出演 浦井健治 アヴちゃん(女王蜂)


 マダムが最初に観に行ったのは9月1日。初日の翌日だった。全体的に芝居がソワソワしてて、あまりよくなかった。それは、その1に書いた通り。このままでは、ヘドウィグのコスプレをした浦井健治で終わってしまうぞ、という危機感があったの。
 でも、4日に観に行ったら、すごく修正されてた。浮ついたところがなくなって、MCのあいだも浦井健治本人が顔を出すようなことはなくなり、ちゃんと最初から最後まで役を演じられるようになっていた。それから、尻上がりに良くなっていって、千秋楽は貫禄すら感じられるようになってた。
 だから、これまでに見たことのない浦井健治を見せてくれたし、今まで到達したことのない場所に行ったな、と思うし、役者として新しいステージに入った、と感じるの。
 もう、少年(が入ってる役)は出来ないし、しなくてよいし、王子ではなく、王をやるべきだし、大人の男のほうへ、踏み出したね。
 そういう意味で、このタイミングでヘドウィグをやってよかったのよ。
 これは、浦井ファンとしての素直な気持ち。
 
 ただ作品の出来という点から見たら、いろいろ残念だ。もっと凄いものにもなったと思うと、惜しい。そして、役者浦井健治の出来は、作品の出来と完全にシンクロするから、ターニングポイントにはなっても、代表作にはならなかった。
 彼の舞台は、たいてい尻上がりに良くなっていく。ファンはみんな進化と呼んで、楽しんでいるし、マダムもそういう部分がないわけじゃない。だけど、今回は余りにも出だしが悪すぎたので、そのわけを考えていたの。そして、千秋楽まで観て、思い至ったのは、演出家はこれを芝居だと思って稽古してなかったのではないかということ。
 その1でも書いたけれど、キャメロン・ミッチェルがやるとき、彼は殆どヘドウィグそのものだから、芝居じゃない部分があるのかもしれない。だけど、浦井健治にはヘドウィグの要素は何もないので、隅々まで演出されていなければいけないのよ。MC部分は客の反応を見ながら、と考えていたとすれば、甘いよ。
 幕が開いて、バンドの煽りに客が乗せられているとき、浦井ヘドウィグは、舞台の上に役者が自分しかいないことに愕然としたのではないかしら。(それでも一人でなんとか芝居の領域に引き戻したのはえらかったけれど。)イツァーク(アヴちゃん)は元々ロック歌手だし、バンドのメンバーはバンドそのものだし、どんなに稽古をしてても、ノリノリの客の前では芝居を忘れがちだ。アヴちゃんは必死に、役から逸脱しないように自分を律していて立派だったけど、バンドの人たちは要らないアドリブが多かった。楽日近くなると、途中でナイフや銃を出してヘドウィグに怒られるアドリブもあって、シリアスなシーンを台無しにしそうになった。これは芝居であって、バンドも「アングリーインチ」というバックバンドであって、その役から逸脱してはいけないのよ。それを徹底できなかったのは演出の責任だよ。
 お客さんと作っていく・・・とかって言葉は、逃げだ。芝居はノリじゃない。
 キャメロン・ミッチェルだって、そこは物凄く計算して、作っているはずだ。ライブのふりをした、演劇なんだから。
 
 ベルリンの壁の東側で、貧しく、見捨てられたゲイの少年が、壁を越えるためにどんな犠牲を払ったのか。なのに、越えた後、あっさり壁が崩れたことを知って、どれほどの絶望があったのか。イツァークとザグレブで出会って連れ出すとき、同じように犠牲を求めるヘドウィグの中に、どんな揺れ動きがあるのか。嫉妬や老いと、どう向き合って生きていくのか・・・ヘドウィグの壮絶な人生をどうすれば、隅々まで描き出せるか、演出はもっともっともっと戦ってほしかった。どこまでも戦い甲斐のある作品じゃないの?
 
 それでも、名作は名作である理由があって、ヘドウィグの怒りや悲しみを表現してる曲の数々が、マダムの心を揺さぶってやまなかった。役として歌う浦井健治の歌の説得力! コンサートやCDで何度も聴いている「Midnight Radio」がヘドウィグの声で歌われると、全然別の哀しみと力強さを運んでくる(ただ、訳詞は、三上博史のものの方が耳に届くのだけど)。ヘドウィグが歌い、最後にトミーが返歌として再度歌う「Wicked Little Town」が刺さることといったら!
 これは芝居の流れの中で聴くから、良いのよ。歌だけど、セリフなの。あまりにも心に沁みて、涙流れる。
 
 
 9月はヘドウィグの月だった。秋の訪れとともに祭りは終わった。
 マダムも平常心に戻ります。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を味わう その1

 怒涛の9月の始まり、始まり。9月1日(日)ソワレ、六本木EXシアター。
 
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』
作/ション・キャメロン・ミッチェル  作詞・作曲/スティーヴン・トラスク 
翻訳・演出/福山桜子  歌詞/及川眠子  音楽監督/大塚茜
バンド/DURAN  YUTARO  楠瀬タクヤ 大橋英之 大塚茜
出演 浦井健治 アヴちゃん(女王蜂)
 
 なんか、巨大な期待と不安とで、マダムは押しつぶされそうだったの。自分が出演するわけでもないのにね。おかしいよ。
 
 これまでの日本での舞台、全然観てないし、キャメロン・ミッチェルが来日した一昨年(だっけ?)の簡易舞台と、映画を観たことがあるだけなので、別に何も、詳しいわけじゃないんだけど。
 難しい芝居だね、これ。
 ヘドウィグは、すごく屈折してる人。東ベルリン生まれで、父親はアメリカ兵で、一度も会ったことがなく、母親からも愛されない子供時代を過ごし。大人になって、自らもアメリカ兵と恋に落ちて、性転換手術を受けて(でも失敗して1インチ残っちゃう)、アメリカ兵と一緒にアメリカに渡り、すぐに捨てられて。今は、ドラアグクイーンの格好でロックミュージシャンとしてステージに立ち、自分を裏切った若いミュージシャンへの恨みつらみを語る・・・。
 で、これの作、演出、主演をしてたのがキャメロン・ミッチェルなんだけど、彼は殆どヘドウィグそのものなのよね。自分とヘドウィグの境界線が曖昧なの。だって、自分の内面を芝居にしたんだもんね。
 でも、浦井健治が演じる時には、すみずみまで演じなければならない。彼自身の中にはヘドウィグのような屈折はないから、全部、きっちり、演じなければいけないし、演出が行き届かなくてはいけない。
 そこがまだ、うまくいってない部分がある。特に客いじりするシーンで。ちゃんと演出がされてなくて、浦井健治本人が顔を出しちゃう。かわいくなっちゃうんだよ。すれっからし感がなくて。何回か続くと、ヘドウィグじゃなくなってしまいそう。最初から堂々とヘドウィグでいてくれなくちゃ。
 アヴちゃんはいいのよ、彼は境界線が曖昧な人だから(ドレス姿、かっこ良かった!)。でも浦井健治は生粋の役者なので、地を出す必要はないし、意味もないの。
 一見ライブのようで、ライブじゃなく、これは芝居なんだから。

 なので前半は、どうも乗れなかった。
 だけど、話が進むにつれ、浦井健治が消えていって、歌が、ヘドウィグその人の歌う歌となっていって・・・最後の「ミッドナイトレディオ」がとても、とても良かった。カツラもドレスもメークも全部剥ぎ取ってしまって、裸で歌う「ミッドナイトレディオ」が、切なくて哀しくて無様で、でも誇りに満ちていて、素敵だった。今までに見たことのない浦井健治を見た、と思った。
 前半をもうちょっと手直しして、全編通じてヘドウィグであり続けて欲しい。そうしたら、最後はもっと高みに登りつめることができるよ。
 
 あとは、歌詞が聞こえてこないのは、なんでかなぁ。訳詞のせい?音響のせい?
 歌詞だけど、ミュージカルだから、セリフでもあるので、聞き取りたいんだよねー。
 
 まあ、何度か行くし、千秋楽までしっかり見守るつもり。また報告するね。

深さの足りない『笑う男』

 暖かくて穏やかな観劇日和。4月20日(土)マチネ、日生劇場。

『笑う男 ー永遠の愛ー』
原作/ヴィクトル・ユゴー
脚本/ロバート・ヨハンソン 音楽/フランク・ワイルドホーン
歌詞/ジャック・マーフィー 演出/上田一豪
出演 浦井健治 夢咲ねね 朝夏まなと 宮原浩暢 石川禅 山口祐一郎 ほか
 
 本邦初公開のミュージカル。
 あらすじは、ホームページなどにあるので、書かないね。
 衣装が凝っていて、すごく素敵。装置も工夫があって楽しい。音楽も美しい旋律。役者は、芸達者が揃ってる。なので、これから文句言う箇所のうちせめて2つくらいちゃんとしてたら、普通に見応えある芝居になったのに。終わった瞬間、マダムは心の中で「え゛〜っ⁉︎⁉︎⁉︎」と叫んだの。残念度が高い。
 
 
 観た友人たちが口々に言ってるように、とにかくお話に深みがない。どれくらい浅いかというと、潮干狩りが出来るくらい。深いところがないの。
 17世紀のロンドン。赤ん坊のときにさらわれて、口の両端を裂かれて、見世物小屋に出されて、人さらいからも捨てられ、拾ったもらった興行師のところで、やっと居場所を得て生きてきた青年グウィンプレン(浦井健治)が、主役。今、さらっと言ったけど、この、世にも過酷な運命を背負ってるはずのグウィンプレンの造形が、まるっきり明るくて元気で愛されてて、出てきた瞬間から幸せそうなので、ずっこけた。異形の人なのに、内面に抱えているものが全くないの。これでいいと本当に思ってるのか、演出家。
 盲目の妹(として育った)デアと二人、繰り広げるショーも、グロさがなく、怖いもの見たさのゾクゾク感が皆無。口を裂かれた男が「笑う男」として自分を売り物にしている場末の見世物小屋。題名にもなっている「笑う男」のお披露目なのだから、もっと強烈なインパクトがないと。
 デアの造形も、ワンパターン。脚本にも書き込まれてないんだろうけど、儚げで無垢、なのはわかるけど、それだけでヒロインとして魅力的とは思えない。妹として接してきたグウィンプレンの気持ちが、恋に変わる瞬間がちゃんと描かれていない。いつから恋になったの?
 デアにとっての恋敵、ジョシアナ公爵(朝夏まなと、好演!)は面白い存在なんだけど、これもパターンっぽい造形なのよ。出てくる女が、峰不二子みたいな肉感的ファムファタルか、宮崎アニメのヒロインみたいな小ちゃくて可憐な純真無垢、の両極端な二種類しかないの。底が浅い浅い。
 
 マダムがビックリしたのは、グウィンプレンが実は、貴族の息子だったということで、貴族の館に連れて行かれ、ボロの服から純白の凛々しい衣装に着替えさせられるところの演出。衝立が外されたら、なんとそこに現れたのは・・・国王ヘンリーだった!と言いたいくらいの、キングオーラが出てたの。いやあ、素敵なのよ、浦井健治。
 でもね、ここでキングオーラ出てるの、完全な間違いだとマダムは思うのよ。だって、グウィンプレンがいくら貴族の血筋だったにせよ、ずっと最底辺の暮らししてた人なのに、美しい衣装着せられた途端、キングオーラが出ちゃまずいでしょう?
 浦井健治はヘンリー王やって、マクベスもやってるから、ああいう凛々しい衣装を着せると、自動的にキングオーラが出ちゃうの。でも、演出家が「そこでキングオーラ出さないで」と指示すれば、出さないこともちゃんとできるんだよ。だから演出家が出さない指示するどころか、喜んで出させてたとしか思えない。ファンサービスのつもりだとしたら、ファンをバカにしてるよ。コスプレを見たいわけじゃないのよ。
 本人の素敵さを切り売りするのではなく、役を演じきった時に出るオーラを見せてほしいの。そのためにお金を払ってるの。わかってる?
 
 でもいちばんビックリしたのは、ラストよ。
 ヴィクトル・ユゴーが書いたのは、確かに、デアの死を悲しむあまり後を追うグウィンプレン、っていうラストだったのかもしれないけど、この芝居の流れで、グウィンプレンが死ぬのは唐突すぎて、全然受け入れられない。死ぬには生命力ありすぎるグウィンプレンの姿だし。死の影、全くなし。
 そもそも、デアのこと、いつから妹としてじゃなく、恋人として愛してたのか、どうしてそうなったのか、描かれてないからね。死ぬほど好きだったの?聞いてないけど?とマダムは思った。
 デアが死んで悲しい、っていうところで芝居を終わらせるべきだったんじゃないの? あるいは、グウィンプレンが死ぬほどデアを愛してたことを、ちゃんとそれまでに描いてくれてればいいけどさ。
 原作は古い時代に書かれたものだし、今やるには今やるなりの意味をちゃんと考えて、芝居を作ってほしいんだよ。原作にそう書いてあるのでそうしました、じゃダメなの。
 
 育ての親役の山口祐一郎や、影の悪役の石川禅が、すごく楽しそうに自分なりの小芝居を混ぜて演じてて、そこは結構楽しく見たけど、それだって、演出家の意図をもっと浸透させなくちゃいけないでしょ。上手い人たちの演技がバラバラで、一つの芝居としてのうねりになってこない。
 演出っていうのは、立ち位置決めたり、出入りをさばいたりすることじゃないんだよ!(怒)
 
 
 これでも、役者の人気でチケット完売だとしたら、再演とかになってしまいそう。だから、演出については皆であちこちで文句を言おう。万が一再演になっても、いろいろ手直ししなくちゃいけないってことを、東宝には肝に銘じてもらいたいから。衣装もセットもそのままでいいけど、演出は大いに反省してもらいたいよ。
 マダムとしては、浦井健治には残された30代の数年を無駄に過ごしてほしくないから、こんなの再演なんかじゃなくて、いい演出家と組んで早く「ハムレット」やったほうがいいと思った。強く、そう思った。
 

新年のご挨拶と、炎の報告

 あけましておめでとうございます。
 今年も、マダム ヴァイオラと、このブログをよろしくお願いいたします。
 
 さて、大晦日にメタマク3の大千秋楽に行ってきたので、ちょっとここで炎の報告を。
 最初にせりが上がってきてランディ浦井の姿が現れると、劇場中から「キャーーーーーーッ‼︎◯#△♡‼️」という黄色い声が飛び、完全にメタルのコンサート会場と化した。それがメタマクっていう芝居にぴったり。このままハイテンションで、芝居じゃなくなっちゃうかも?って思ったけど、キャストの人たち、すごーい。あの雰囲気でも、普通に着実に芝居を進めていって、いつしか観てる方も楽日だってことを忘れるくらい、芝居に没頭したの。まあ、本当にランディ浦井の演技の素晴らしかったこと。歌のキレ、殺陣のキレ、最高潮だった。浦井健治という人は、役が自分の中に完全に入った時、いちばん自由になる人。
 長澤夫人も3回観た中で最高の演技。
歌もしっかりものにして、ドスの効いた声も自由自在。ランディ夫妻の悲劇が、マダムの心を掴んで離さない。終わらないでくれ、と思いながら観てたの。
 カーテンコールは30分の特別バージョンで、本番にはない「リンスはお湯に溶かして使え!」とか「ダイエースプレー、買ってこいや」とかも歌って、大盛り上がり。最後は、キャスト全員で客席に向かって餅を撒いて、締めた。
 心から満足した年の暮れでした。
 
 新しい年が始まったけど、マダムはまだランディロスかも。

 でも、次の観劇の予定が迫ってきてる。
 またいい出会いが色々あるよ、きっと。
 皆様、今年もよろしく。芝居を心から楽しむためにも、世の中がまともに戻るようみんなで踏みとどまろうね。

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