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井上芳雄

『グレート・ギャツビー』を観る

 初夏の陽気に、あぶなく脱水症状起こしそうだったわ。5月20日(土)マチネ、日生劇場。

ミュージカル『グレート・ギャツビー』
原作/F・スコット・フィッツジェラルド 音楽/リチャード・オベラッカー
脚本・演出/小池修一郎
出演 井上芳雄 夢咲ねね 広瀬友祐 畠中洋 蒼乃夕妃
   AKANE LIV 田代万里生 ほか

 全くの偶然なのだけれど、日生劇場の中二階(グラウンドサークル)の一列目が取れて、今回初めて座ってみたの。最高に観易く、居心地のいい席だった!日生劇場は古い劇場だけど、だからこそなのか、構造がイギリスの劇場にとても似ているね。客席と舞台の距離が近いの。二階や三階でも、かなり満足できる観易さだと思うわ。
 そんな席で観られたのだから、もっと感動的な芝居だったら、大満足だったろうと思うんだけど。結果は・・・。
 衣装も素敵だったし、セットも豪華で洒落ていて(美術はさすがの松井るみ)、そういう部分の眼福はあったわ。でも、芝居の中身で、マダムが心動かされるところは全然なかったの。

 これはさ、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の人物設定の骨組みだけ借りてきて、あとは好き勝手に作り上げたものなんだね。原作のギャツビーの魅力の要素が、何一つ投影されていないことに、マダムは愕然としたわ。
 もし微かにでも原作への愛があるのなら、ギャツビーとブキャナンがゴルフコンペでデイジーを取り合うなんていう下劣なシーンは作れないと思うの。
 マダムだって原作と芝居は別物、という考えはわかっているつもりだし、ミュージカルで例えばシャーロックホームズとかフランケンシュタインとか、骨組みを借りてきただけの佳作も観ているので、原作と違うからってそれだけでダメとか思ってるわけじゃないのよ。
 要は、それなりに筋を通して面白く変えられたのか、という点にあるのね。
 
 お話の運びは、すごく分かりやすさを旨としていて(それはいいんだけど)、とにかく説明が多い。ギャツビーがどんな人なのか、謎を謎のまま引っ張っていくことはせずに全部、原作に無いシーンを作って説明しちゃう。ギャツビーが何の仕事をして、とんでもない金持ちになったのか、その裏の仕事のシーンもあるし、オックスフォードで学んでたという噂も本人の口からすぐに説明があるし、デイジーとの出会いも、別れの理由(デイジーのお母さんに引き裂かれた)も次々シーンが現れて、メッチャわかりやすい。
 だけど、全部が説明のためのシーンになりがち。そこでギャツビーやデイジーの嬉しさや悲しさや愚かさが響いてくるかっていうと、響かないの。なぜかな。
 わかりやすいことが芝居の目的になっちゃってる感じなの。人間が描かれてない、と思う。だって、人の気持ちって、そんなにわかりやすくない。一筋縄でいかないところを描くのが物語であり、芝居であるわけで。
 ギャツビーは恋に殉じたお金持ち、デイジーは上流階級の慣わしに恋を潰されたかわいそうな女の子、ブキャナンは大金持ちで頭が空っぽのわがまま男、ブキャナンの愛人マートルはほぼ娼婦、マートルの旦那のウィルソンは生活に疲れて汚いなりをしたブルーカラー、そういう典型としてしか描かれてないの。これじゃ、心動かされないよー。
 
 だから結局は井上芳雄オンステージになってた。宝塚的に中央に置かれた階段を、登っていくギャツビーの背中にスポットライト、みたいな演出。随所に見られました(最後だけならともかく)。綺麗なだけで、だから何?とマダムは思ってしまった。もちろん、きらびやかなショーを楽しむ、という要素もミュージカルにはあると思うけれどね・・・。でも、それならそれで、各シーンのダンスなんかも、もっと目を奪うような迫力が欲しい。型を作ってそれで良しとしないでほしいよ。
 ギャツビーとデイジーのラブシーンもぜーんぜんドキドキ感がないの。はい、ここで抱きしめます、はい、ここでキスします、角度は客席に向かって45度で。それが綺麗です、みたいな。型に、はまっているんだよー、演技が。つまんないでしょう?
 ダンスだって、はい、ここでダンスします、じゃなくてね。長いこと行方知れずだった元恋人同士が、久しぶりにダンスする、っていったら、普通のダンスじゃないでしょう?特別な、心乱れるダンスのはず。そういうところが全く見られないの。ありえない!
 演出も演出だけど、役者もなんとかしてほしい。
 
 なんとか登場人物を体現してたなあと思うのは、ニック・キャラウェイの田代万里生とジョーダン・ベイカーのAKANE LIV。二人はストーリーを進めるための狂言回し的な存在だけれど、説明台詞であっても本人の性格(ニックの誠実さと、ジョーダンの醒めた割り切りの良さ)が滲んでいて、典型じゃなく、人として描かれていたの。この二人が救いだったわ。
 

 観劇の前に、某有料放送のバラエティ番組での井上芳雄の発言が漏れ伝わって来て、マダムはとても不愉快な気持ちにさせられた。彼を好きではなくなってしまった。いろいろな思いがあって、それでも平らな気持ちで芝居を観ようとしたし、そうできたと考えているわ。
 だから芝居の評価は、その発言とは関係がない。関係ないけど、今後彼の芝居を観たいと思うかどうか・・・当分、無い気がする。
  

王道をゆこうよ

 愛よね。愛がなくちゃね。かみしめながら、書き始めるわ。

 かつて、ミュージカルは苦手と公言してたマダム。最近はなんだかんだで、帝劇やら日生劇場やらに行ってしまうようになった。全ては、Starsのリーダー井上芳雄のせいよ。彼らの活動に熱狂しているうちに、ミュージカルにすっかり散財してしまってる。策士だよねー、井上芳雄。
 Starsの武道館コンサートで、キンキラキンの衣装で「最後のダンス」を歌われた日にゃあ、もう降参。思わずマダムは「トート、やってえーっ!」と叫んでしまい、そのあとホントにトートをやることになったんだから、凄いというか偉いというか。マダムのみならず、マダムの周りの友人たちも大挙して帝劇に押し寄せることになったの。
 でも、トートに辿り着いたあと、彼は少し立ちすくんでいるように思える。

 彼が『黒蜥蜴』に出演するという記事を読んで、マダムは唸ったわ。いったいどこへ行こうとしているんだ、貴方は。そのあとも次々、ストレートプレイのラインナップが聞こえてくるけれど、マダムはどうも気が進まない。それはマダムのみならず、まわりにいる、マダムより昔から彼をずっと観てきたファンも同じ様子で。
 はっきり言うけれど、これは彼が結婚したからでは断じてない。もしファンの気持ちが揺れているのを、結婚したからだと考えているなら、その考えこそが、ファンが離れるいちばんの理由なの。ファンはね、結婚しようが離婚しようが、また結婚しようが、実はそんなことはどうでもいい。舞台で輝きを放ってくれればそれでいいの。その輝きに翳りが見えるから、みんな付いていくことに躊躇しているのよ。そこを理解しないなら、それを結婚のせいにしてるなら、今の壁を乗り越えることはできないよ。みんな、彼が壁に直面してるのを感じてる。バカじゃないのよ、ファンは。

 模索しているんだってことは、よくわかるの。でも、やっぱりマダムは彼に歌ってほしい。彼の魅力の80パーセントが歌なの。そこを極めてほしい! もうストレートプレイで修練しなくていい。いまさら修練なんか見たくない。ミュージカルを極めようよ。修練ならミュージカルでしようよ。逃げないで。だって・・・数多いるミュージカル界の王子たち(浦井健治や山崎育三郎、中川晃教や城田優、田代万里生etc、etc)のなかで、井上芳雄こそが皇太子だと思うから。王になることを嘱望されているの。そういう道を歩んできたでしょう?それを王道と言わずしていったい何が王道でしょう?
 だから。
 井上芳雄は・・・・ジャン・バルジャンをやるべきだ、とマダムは思うの。
 言っとくけど、ジャベールじゃダメなの。ジャベールは彼に向いてる役。すぐ出来ちゃうから。それじゃダメなの。自分の殻を破り、壁を乗り越えて、ジャン・バルジャンをやれるミュージカル俳優になってほしい!
 そうしたらまた、マダムたちは大挙して、帝劇に押し寄せるよ。ちょっと悔しいけど。マダムはまだ、日本のミュージカル、認めてないからさ。でも、マダムをミュージカルの世界に誘ったのだから、責任があるのよ、貴方には。
 だから。ジャン・バルジャンを目指せ!
 狭き門より入れ。王道を行こうよ。Climb Every Mountain!
 
 マダムの声が彼に届くかは甚だ疑問だけど、そして何様のつもりだって言われちゃう恐れを乗り越えて尚、マダムは言いたかったの。何も言わずに去るには、愛がありすぎる。

 

2回目の『アルカディア』または翻訳物を観ることの喜びと苦悩について その3

 1回目の時、主役はセプティマス(井上芳雄)だと感じたのだけれど、2回目はもう、そうは思わなかったの。もちろん、キーマンであることに変わりはないのだけれどね。
それはたぶん、井上芳雄だけは始めから演技が出来上がっていたからじゃないかしら。正確に言えば、19世紀組のほうは1回目と2回目とで、あまり変化がなく、現代組の方は、上演しながら変化していき、それで全体のバランスがよくなった結果、誰が主役とかは気にならなくなった、ということかな。

 そのセプティマスの井上芳雄、本当にいい役に巡り合ったね。彼ほどあの19世紀の美しい衣装が似合う人はいないし、女にモテるけど自分からは惚れてないツンデレ感がまたぴったり。欲を言えば、色気がもっとあればね。最後のワルツのシーンも、美しかったけど、足りないものがあったよ。なんていうか、恋には落ちないタイプの男が16歳の少女と踊るうちに恋に落ちた、変化が見たかった。見えた人もいたのかもしれないけど、マダムには見えなかったので。
 ハンナ役の寺島しのぶがすごく良かった。マダムは、彼女が湿った役をやるのが苦手だったので、今回はどうかなと思ったのだけれど、知的で、奥手な、大人の女性を演じて、これほどはまるとはね。とても自然に見えた。嬉しい発見。
 バーナード役の堤真一は、軽い男を楽しそうに演じていたけど、1回目の時はややはしゃぎ過ぎな感があり、2回目少し落ち着いたのがほどよかった。彼のようなベテランでも、「客席から笑いを取る」呪縛からは逃れられないのかしら。
 トマシナの趣里。13歳から16歳を演じて何の違和感もない26歳って、驚き。立ち姿も美しいし。ただ、彼女の台詞もコミカルな方へ引っ張られていたのが惜しかったわ。真面目に真剣に言う方が、もっと面白かったと思うのだけれど。
 伯爵夫人役の神野三鈴は、最近ほんとに凄い。言わずもがなね。
 そしてヴァレンタイン役の浦井健治は、その2でも言った通り、2週間の間に、いちばん変化が大きく、進化していったと思うけれど、始めからそのように演出されていれば、そう出来たはず。もっと細かく要求しても、十分応えたと思うの。頭から湯気が上がるくらい沢山要求するのが、浦井健治にはちょうどいいのよね、たぶん。
 マダムは浦井ファンだけれども、役の大きさは全然問題じゃないと思ってる。そして、彼だけ良くて作品はつまらないなんてことはあり得ないし、作品が素晴らしいのに、彼が良くないってこともないと思ってるの。
 てことは、作品の良さと彼の演技の良さが完全に連動している、ということかしら?そんなこと、言い切っちゃっていいのかしら?
 でも分析すると、そういうことになるよね。
 観終わった後、いっぱい考えさせられる芝居で。一粒で二、三度美味しい芝居でした。
 

2回目の『アルカディア』 または翻訳物を観ることの喜びと苦悩について その2

 そもそも同じ芝居を2度観るなんて、普段はしない。いろんな芝居が観たいからね。だから、今回は特例なのだけれど、それにしても、1回目と2回目の印象がこれほど違うというのは、珍しいことよ。
 席の良し悪しを割り引いても、全然違っていたの。
 違いを一言で言うなら、14日の舞台は、笑いを取ろうとしていた。29日の舞台では、もはやそのような邪念は捨て去られて、この芝居の本質に迫ろうとしていた、ということかしら。

 これは、マダムの席が変わったとか、予習をしていったからとか、そういうことじゃなく、明らかに演技が変わっていた。
 顕著だったのはヴァレンタイン(浦井健治)の演技で、14日のときはドタバタした男の子だったのが、29日では頭の中が数学で埋め尽くされている変人、になっていた。1ヶ月の公演の間に、進化して役を掴んだ、のかしら。それとも演出家のダメ出しがあったのかしら。
 ドタバタ感が減ったのは、ヴァレンタインだけではなく、19世紀側のチェイター(山中崇)や執事(春海四方)もそう感じられたし、バーナード(堤真一)のコミカルな演技もより落ちついたものに変化していた。
 上演していくうちに、正しい方向に芝居が変容していったのでは? とマダムは考えたの。だから、29日の方がずっと、面白く観られた気がする。
 
 
 現地でこの芝居が上演されるとき、観客はもう最初っからドカドカ笑っているらしい。なので、そのおかしさをどう翻訳するかということが演出の最大の問題になったのでしょう。
 しかし、これは、おおかた、翻訳できないものなのではないかしら?
 
 例えば、これが日本の芝居だったとするわね。200年前、つまり江戸時代末期、どっかの大名屋敷で、姫が家庭教師の教えを受けているとき突然、「熱烈なる肉欲、とは如何に?」と家庭教師に質問する。家庭教師はすごく真面目な顔で「肉とは、猪肉のことでござりましょう。あるいは、鹿肉でもよろしゅうございます」と答える。
 この可笑しさは、日本語表現を掘ってこそ笑えるのであって、ドタバタではないでしょう? ストッパードの本は、英語でこれをやってるんだと思うの。英語圏の(特にイギリス人の)知的な了解の上で成り立っている本であろうと思われるので、翻訳をそのままやっても、日本の観客が笑えるところまではいけないのね。日本の観客には、暗黙の了解がほとんどないわけだから。
 
 バーナードの名字が「ナイチンゲール」で、最初バーナードがその名を隠していて、「ピーコックさん」と呼ばれる設定なんかが、わかりやすい例で。
 日本の観客のどれくらいの人が、ナイチンゲールとは鳥の名前だと了解しているかしら。芝居の流れで鳥の名前なのだと知ったところで、どんな鳥なのかのイメージがあるかしら。繊細で美しい鳴き声の小鳥だとわかっていて初めて、ガサツなバーナードにこれほど似つかわしくない名前なのだと笑えるし、間違えてピーコック(孔雀)と呼ばれるのがまた、虚栄心たっぷりのバーナードにぴったりで笑えるわけなの。
 万事こんな感じで、たぶんマダムが全然読み取れないような高尚で知的な仕掛けが、この戯曲にはたくさんあるのよ、きっと。
 そういう意味で、これは最高に難解な戯曲なの。翻訳家泣かせ、演出家泣かせの。(観客泣かせ、とも言える。)
 
 だからこれは素人考えではあるけど、アカデミックな意味での翻訳本と、上演台本とは、違うものになった方がいいのではなかったかしら?
 イントンシャと耳で聞いて、隠遁者という漢字を思い浮かべ、それをイメージでき、貴族の庭に、わざわざそんな人がいる庵を作っちゃうバカバカしくも贅沢な遊びについて、思いを馳せるところまでいかないと、いけないのよ。そして遊びのつもりで作った「隠遁者の庵」に本当に隠遁者が住むことになった、悲しくも皮肉な結末を理解しなきゃいけないのよ。
 そりゃちょっと、観客を選びすぎじゃない?
 なぜ、「隠遁者」でなければいけないの? なぜ、「世捨て人」という解りやすい日本語があるのに、そちらを選んでくれないのかと、マダムは芝居を観ながら首をひねっていたの。言葉を変えたからといって100%伝わるわけではないけれど、アカデミックな方向に舵を切りすぎなんじゃない?
 
 翻訳するということは、まずは英語の意味を理解しなくちゃいけなくて、さらに日本人にそれを日本語で伝える、ということでしょ? 最近、本邦初の芝居を観ることが多く、楽しみにしているのだけれど、不親切じゃないか?と不満なことがこれまた多くなってきたの。観客は日本人、なんですよ。
 だからと言って、全部日本に置き換えろ、とか言ってるわけじゃないのよ。それなら翻訳物をやる意味ないもんね。
 いつまでも解決はしない、難しい問題だけど、バランスを保つのを忘れないでほしいってことよ。
 最低限の予備知識については、観客にプリントを配るとかして教えて欲しい。(『ビッグ・フェラー』のときIRAについての解説のプリントが配られたように。あれは親切だったわ。)パンフレットに載せました、っていうのはダメよ。11000円もするチケットの上に、パンフレットを買わないと理解できませんよ、っていう態度はもう、客を減らすことにしか繋がらない。

 『アルカディア』がつまらなかったと言ってるんじゃないのよ。それどころか、面白かったの。そして、英語で満喫できるくらいの力がマダムにあれば、ロンドンで観たいなあと思うけど、それは無理なので、日本語の上演がもっと面白くなるよう、お願いしてるの。

 
 役者については、その3で、ね。
 

2回目の『アルカディア』 または翻訳物を観ることの喜びと苦悩について その1

 2度目の観劇は、東京公演の前楽日だったわ。4月29日(金)マチネ、シアターコクーン。

『アルカディア』

作/トム・ストッパード 翻訳/小田島恒志
演出/栗山民也
出演 堤真一 寺島しのぶ 井上芳雄 浦井健治

   安西慎太郎 趣里 神野三鈴 ほか

 2回目の観劇だったわけだけど、1回目と状況はだいぶ違ったの。
 1回目の時、席が18列目で、だいぶ後ろだったので、ところどころオペラグラスで細部を見てたのね。そうすると他の部分を見落としてしまって。でも今回は6列目のほぼ真ん中という良席。オペラグラスは全く必要なく、全体も見え、役者の細かな表情や目線の変化などもわかり、芝居を堪能できたの。もう、見え方が全然違う!
 いつも言っていることだけれど、シアターコクーンのような縦長の劇場で、1階席のほぼ全てが同じ料金に設定されていることの矛盾を、またまた感じてしまったわ。
 14日の時はレビューが書けなかったので、今日はしっかり書きますね。なので勿論まんべんなくネタバレするわよ〜。
 
 舞台はイギリスの貴族のお屋敷シドリー・パーク。同じ屋敷で、19世紀初頭と、200年後の現在とが交互に展開するという筋立て。
 両方に、ペットとして亀が登場するので、マダムは最初、これって同じ亀かな〜?なんて考えた。亀は見ていた!200年の人々の移ろいを・・・なあんてね。だって、亀って長生きでしょ?でもさすがに200年同じ大きさで生きてるってことはないか・・・と思い直したけど。
 まずは19世紀初頭、13歳の令嬢トマシナ(趣里)が家庭教師セプティマス(井上芳雄)に教えを受けているところから始まる。トマシナは賢く、早熟な少女で、フェルマーの定理を解こうとする一方で、男女の色恋に興味津々なの。家庭教師のセプティマスは色男。詩人のチェイターの妻と抱き合っているところを見られ、チェイターから決闘状を渡される。けれど、チェイターの新しい詩集を絶賛する批評を書くとほのめかし、チェイターを丸め込む。
 屋敷には、様々な客が滞在している。庭園設計士のノークス(塚本幸男)は、庭園を作り直そうと測量したり、手入れ前と手入れ後を描き出した絵(設計図)を居間に置いたりする。あるじの伯爵夫人(神野三鈴)はノークスの案に否定的なのだが、流行に逆らいたくないのか、ダメとは言わない。あずま屋を壊して、隠遁者の廬(いおり)なるものを作ることも、着々と進んでいく。トマシナは「隠遁者がいない隠遁者のいおりなんて、ヘンでしょ」と言って、設計図に隠遁者を悪戯描きしちゃう。
 
 一方の現代では。貴族の末裔ヴァレンタイン(浦井健治)は大学で数理生物学を学ぶ研究者で、かなりの変人。頭の中は数理でいっぱいで、格好(服装)に構わず、亀を可愛がる。だが、屋敷に来ている客のハンナには優しい。ベストセラー作家のハンナ(寺島しのぶ)は、作品の次のテーマを「シドリー・パークの隠遁者」にしようと、屋敷にある資料を調べに来ているのだ。果たして隠遁者は存在したのか?それはだれだったのか? そこへ、彼女の作品をこきおろしたことのあるバイロン研究家バーナード(堤真一)が、調査にやってきて鉢合わせする。バーナードは、200年前この屋敷で、バイロンが決闘し、チェイターを殺したのではないかという仮説に取り憑かれ、その証拠を探り出そうと躍起になっている。
 
 二つの時代のシーンが交互に表れるにつれて、謎が少しずつ解けていく。
 現代でバーナードやハンナが資料を読み解き、推理するのだけど、その資料というのが、200年前に交わされた決闘を申し込む手紙だったり、絵に描き込まれた隠遁者の姿だったりするわけ。19世紀では、たわいのない悪戯や、ふとしたきっかけで手紙が本に挟まれたまま人手に渡ったにすぎないのに、現代から見ると、それがまるで決定的な証拠のようにも思えたり、角度を変えてみたら全然的外れだったり、悪戦苦闘することになるの。
 舞台には登場しない詩人のバイロンがキーマン。バーナードは終始、バイロンが屋敷に滞在したと主張し、ハンナはその証拠はない、と突っぱね続ける。確かに証拠はないし、観客もバイロンの姿を見ることは1度もないのだけれど、最後の最後、実はバイロンが屋敷に滞在中で、チェイターの妻に手を出していたことも伯爵夫人のセリフからわかるの。だから、途中までバーナードの推測は当ってた。でも、結論は全然違ってしまう。そもそもチェイターが決闘を申し込んだ相手はバイロンじゃなく、セプティマスだったわけだし、決闘もなかったわけだし。
 様々な謎が解けたり消えたりしたあと、ハンナが探していた資料がついに見つかり、「亀と一緒に暮らしていた隠遁者」が誰であったのかがわかる。そしてラストの美しいダンスシーンによって、私たちはセプティマスがなぜ隠遁者になったのかを悟るの。
 
 ストーリーは、とても細やかに編み込まれているの。19世紀と現代とが、始めはゆっくりと交互に描かれる。謎も関係性も、始めはぼんやりしている。やがて、シーンの入れ替えが激しくなっていって、観客の頭の中のパズルが完成に近づき、最後には二つの時代の登場人物が同時に舞台に現れ、同時進行する。例えばハンナとセプティマスの目線がぴったり合い、まるで見つめ合っているかのようで、それはハンナが「隠遁者」を探し求めて、セプティマスに辿り着いたことを暗示している。そういう、芝居の構造そのものが、繊細で美しいの。

 ストーリーを説明しただけで、こんなに長くなってしまった。しかも、もの凄く端折っているのに。
 役者についてや、翻訳物を観る喜びや苦悩については、その2以降でね。

『アルカディア』を観る 1回目

 7ヶ月の休養(?)を経て、浦井健治が戻ってきた。4月14日(木)マチネ、シアターコクーン。

 
『アルカディア』

作/トム・ストッパード  翻訳/小田島恒志
演出/栗山民也

出演  堤真一 寺島しのぶ 井上芳雄 浦井健治

            安西慎太郎 趣里 神野三鈴  ほか

 
 一人一人が舞台の申し子と言える役者がずらりと揃ってる、贅沢な舞台。珍しく平日のマチネに行ったら、なんだか客席も歌舞伎座みたいな客層で、さざめきがあるんだった。
 凄いメンバーだったけれど、誰が主役と言えるかというと、セプティマス(井上芳雄)だったね。19世紀の衣装の似合い方が、尋常ではないわ。さすがプリンス。(ブーツはルドルフのときのブーツらしいわ。長持ちしてるわね)
 実は、マダムは予習不足で、遠い席から見て、わからないことだらけ。これでは記事は書けないと思ったの。なので、もう一度観劇の予定があるので、そのあとにちゃんとしたレビューを書くわ。ほんと、申し訳ない。

マダム怒りのデス・ロード『漂流劇ひょっこりひょうたん島』

 12月のシアターコクーンは鬼門であった。12月23日(水)マチネ、シアターコクーン。

『漂流劇 ひょっこりひょうたん島』
脚本/宮沢章夫・山本健介 音楽/宇野誠一郎・宮川彬
演出・美術/串田和美
出演 井上芳雄 安蘭けい 山下リオ 小松政夫 白石加代子 ほか

 本来なら、さきにレビューを書かねばならない作品があるのだけれど、これについて書いてしまわないと他のことが何も考えられないので、さきに書いて早く忘れようと思うわ。タイトルを見てもわかるように、マダムは怒り心頭。1本の芝居に対してこれほど呆れ、怒り、金と時間を返せと思ったことは未だかつてない。通路際の席であったなら、間違いなく途中で席を立ったことでしょう。席がど真ん中だったので、周りの観客のことを考え、じっと耐えたの。見ている時間も無駄なので、寝られるものなら寝てしまおうとも思ったけど、そうしようと思うと案外寝られないものね。もちろん、拍手は一度もしなかった。出ている役者さんには気の毒だけれど、拍手どころの話ではない。スタンディングオベーションしてる人はさすがにいなかったけれど、もし立ち上がる人がいたら、ブーイングして止めたかも。

 もちろん、ダメな予感はあった。マダムはブログを始めてから串田和美の芝居、これが3本目だけど(コクーン歌舞伎を除く)、前の2本も散々な出来だった。その経験からもう彼の芝居は観ないことに決め、その姿勢は貫いてきたのよ。
 でも、「ひょっこりひょうたん島」を出されちゃ、迷うでしょう? 井上芳雄や白石加代子も出るって言われたら、見たほうがいいかなって、思うでしょう?
 
 およそストーリーと呼べるような展開は全くなかった。だからあらすじを説明することはできない。「ひょうたん島」を知らない人はもちろん、よく憶えている人すら、どの役者がどの役で、どんな性格で、なんでそこにいるのか、理解できなかった。チラシに、ダンディが井上芳雄、ガバチョが白石加代子、って書いてあるからわかるだけで、ちゃんと彼らのことがわかるような展開はいつまでたっても見えずじまい。衣装も役柄を示しているとはいえなかったし。
 ストーリーがわからなくても、なにか目を引くシーンがあればいいけれど、何一つないの。芝居とはおよそ言えない、ど素人が書いたのかと思うような、台詞のやりとりがぼんやりと続き、そこからはドラマなどは何も生まれず。ただただ退屈で、無駄な時間が流れていくの。
 なにか終末感を漂わせたいらしい、ということだけはわかった。だから全体の印象は、とんでもなく手を抜いて作った「寿歌(ほぎうた)」みたいな感じ。(言っときますが、「寿歌」は名作ですからね。)
 役者は皆出てきては、なんの意味もないくせにちょっと意味ありげに、緊張感なく台詞をつぶやいて、意味のない行動をしたり、意味のない歌をちょっと歌ったりするんだけど、くだらないだけ。こんなもの金を払って観るようなものではない。
 唯一マダムの目を引いたのは、ホリゾントに時折湧き上がる、まるで火砕流のような雲。それだけだったの。それだけを見るためにマダムは11000円払ったのかと思ったら、悔しいやら情けないやら、感動しても滅多に泣かないマダムの目から、怒りの涙がこぼれたよ。

 マダムが一番腹が立った理由は、失敗作だからじゃない。こんなもの、失敗作ですらない。だって、何かやりたいことを必死に伝えようと考えた形跡が全くないもの。演出家の自己満足のために「ひょうたん島」をネタに使い、井上芳雄や白石加代子や安蘭けいを人寄せパンダに使ったことが無茶苦茶許せない。おかげでチケットは完売。どんな酷いものを作っても、興行的には成功したことになるのでしょ? 草葉の陰で井上ひさしがどれほど憤懣やるかたない気持ちでいることか。

パッション不足な『パッション』

 カンバーバッチ報告の前に、もう1本。10月31日(土)マチネ、新国立中劇場。

ミュージカル『パッション』
作詞・作曲/スティーブン・ソンドハイム 台本/ジェームス・ラパイン
翻訳/浦辺千鶴 訳詞/竜真知子 演出/宮田慶子
出演 井上芳雄 和音美桜 シルビア・グラブ 福井貴一 ほか

 いつものことだけど、ネタバレなしには書きようがないので、これから見る人は、要注意ね。
 

 とにかく、疲れたの。ここまで、発散しどころのないミュージカルって、逆に凄いとも言える、かも。
 お話が、暗くで、じっとりしてて、こわくて、後半あっけにとられて、ついていけなくなって、終わったあと、嘘だろ〜!と心の中で叫びつつ、劇場をあとにしたの。

 19世紀のイタリア。騎兵隊の兵士ジョルジオ(井上芳雄)は、人妻クララ(和音美桜)と恋愛の真っ最中に、田舎に転勤を命じられる。毎日、クララのことを思い出しつつ、退屈をやり過ごしているジョルジオに、上官リッチ大佐(福井貴一)が、従妹フォスカ(シルビア・グラブ)を紹介したことから、ジョルジオの大変な日々が始まる。フォスカは病弱で、神経過敏で、しかも気の毒な容貌で、結婚詐欺にあって実家の金を巻き上げられたこともあるという、実に同情すべき女性なんだけれど、ジョルジオの同情につけこんで、ジョルジオにつきまとう。完全なストーカーで、これがまあ、怖いこと、怖いこと。そしてまた、ちゃんと逃げられないジョルジオの、優柔不断なこと。
 主要メンバーはみんな歌が上手くて、ソンドハイムの難曲をちゃんとこなしていたけれど、もともとミュージカルが苦手なマダムとしては、そもそも、どうしてこの話をミュージカルにしなくちゃなんないのか、理解に苦しんだわ。歌のうまさというより、演技的にはシルビア・グラブが圧巻。ていうか、ストーカー受ける方より、やる方が、芝居やりやすいし、やりがいもあるよね。
 後半、フォスカのストーカーの魔力に引き込まれるように、ジョルジオは人妻クララと別れ、なんとフォスカに真実の愛を見出し(!)てしまい、そのせいでリッチ大佐から決闘を申し込まれて受けてたつ。決闘して、リッチ大佐に重傷を負わせ、自らも負傷してしまう。(決闘のシーンに、部下の兵士がぞろぞろ立ってんのおかしくない?同じ軍隊の中で、公然と決闘が認められてるの、変じゃないのかな。)
 もうね、この後半のあれよあれよの展開に、マダムは全く付いていけなかったわ。んなバカなことあるわけないでしょ!と、何度も思ってしまって。ストーカーの方が、人妻より、真実の愛なの? 五十歩百歩じゃん!本気で歌い上げないでよ。
 これさ、ヒッチコックの映画みたいに理不尽に怖く、作るべきだったんじゃないのだろうか。凄まじいストーカーに引き込まれ、からめとられ、アタマおかしくなって、いつのまにか術中にはまったジョルジオの末路・・・っていう風になるべきだったんじゃないの?
 演出は妙に固く、お行儀良くて、つまらない。(つまり、井上芳雄の演技も、ね。もっと訳わかんなくならないと。)アンサンブルも型通りで、定規で線を引いたような演技。もっと混乱してて、もっとエネルギーがあって、パッションが黒々と渦巻いていたら、理不尽な話だって、面白く観れちゃうのに。
 辻褄があってるかどうかなんて、パッションにあふれている時には、気づかないものなのにね。
 あー、肩凝ったよー。

あー、いのうえ君と、うらい君がーっ!

 みんなっ!凄いニュースよ!
 井上芳雄と浦井健治が共演するよ!しかも、ストプレで!公演情報はここ

 6月まで浦井健治の舞台が観られないのか・・・って肩を落としてたところへ、2ヶ月早まった喜びもあるけど、それよりなにより、この二人がストプレで共演するとは! しかも共演者には堤真一の名前もっ!こんなてんこ盛りな企画するなんて、もしや・・・と思った人、当たりです。シスカンパニーの企画だよ〜。負けました・・・この企てに。
 チケ難必至だけど、そっちには、マダムは負けない、負けない、負けない。(おまじない。)

『エリザベート』その3 マダムの好きなミュージカル

 もともとミュージカルが苦手なマダムだったのに、StarSの戦略にまんまとハマり、毎年、何本かのミュージカルを観るようになった。それでも、日本のミュージカルを好きになったとは言えないの。どうしても大劇場でチケット代は高額になるし、1000円あたりの満足度(マダム自身調査)だと、ポイントが低くなりがち。
 だけど、そのなかで『エリザベート』はマダムが特別に好きになったミュージカル。
 今回の素晴らしさは格別だったけれど、かつての一度目も二度目も、それなりに満足して観たのね。それって、やはり、もとの台本と曲が凄く良いものだからってことだと再認識した。
 きらびやかな衣装に身を包んだ登場人物の、宮廷生活の物語。恰好のミュージカルの題材だけれど、芝居として1本芯を貫くテーマは、人生の苦い真実を描いて、1歩も引かない。エリザベートの人生の負の要素(娼婦に手を出した夫から性病をうつされたり。自分のことで精一杯になって息子を見捨てて、息子の自殺を止められなかったり。夫フランツと遂に和解することが出来なかったり。)も、真実を描くためには、はずさない。これ、大事なことね。都合良くオブラートにくるんだり、紗をかけたりしちゃあダメなのよ。
 エリザベートの心を投影した人物として、トートを造形したことがまた、凄い。『モーツァルト!』のアマデの存在がドラマのポイントであったように、トートの存在がドラマの骨格を支えているの。
 曲も皆、良いのよ。耳にちゃんと残っていくメロディ。また1曲1曲に籠められた意味の中身が濃いの。感情がいっぱい詰まっているの。だから、飽きちゃうシーンが無いのよね。
 実に良く出来ているミュージカルだわ。
 
 主演の二人が素晴らしかったので、珠玉の出来映えだったんだけれど、他の役者さんたちも皆、ちゃんと役を生きていたわ。今回、あらゆる役がダブルキャストなので、あの人だったらとかこの人だったらとか、言い出したらきりがない。マダムは尾上松也ルキーニも良かったと思うし、古川雄大ルドルフも剣ゾフィーも過不足無かったと思うし、満足しているの。そして佐藤フランツに至っては、ちょっと感心した。だって、エリザベートを見初めた青年皇帝の頃から、二人で別れの「夜のボート」を歌う晩年まで、違和感が無かったんだもん。エリザベートと一緒に年を取っていったの。これ、なかなか出来ることじゃないよ〜。
 それとさすが東宝、アンサンブルの層が厚くて、小さな役でも上手い人たちが支えているので、安心して観られた。
 3ヶ月をロングランと言っていいのかわからないけれど、この間、マダムが『エリザベート』を観るのは、1度きり。凄く満足したから、この気持ちを胸にしっかり抱いて、しばらく反芻するつもり。
 すっかり若返ったキャスティングだから、順当に行けば何年か後にまた、再演があることでしょう。その時には、また観たいわ。だけど、果たして、順当に何年かが過ぎるかしら?本当に?マダムは恐れているの。私たちは本当に再演を観ることが出来る?
 だから、みんなで今の日本の平和な状況を死守したいの。『エリザベート』の再演を楽しい気持ちで迎えるためには譲れないところよ。そのことだけは、みんなに伝えたい。

2017年9月
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