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吉田鋼太郎

『アテネのタイモン』二回目

 二回目の観劇。12月27日(水)マチネ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール。

 評判が良く、平日の昼間にもかかわらず満席で、当日券にもたくさんの人が並んでいたわ。
 芝居自体は初日の方が面白かったんだけど、それはやっぱり色々と初めて見る驚きとかドキドキ感が違うからね。二回目は逆にリラックスして観られたの。そうしたら、いくつか細かいことに気づいたりした。例えば、小さな役で台詞を言う人が違っていたり、踊り子たちがタイモンの周りに侍る形が変化してたり、火事の時赤い借用書の紙が舞い散るんだけど、途中から黒い紙に変わっていくのを確認できたり。火事の煙が今日は多いな、と思ったり。アペマンタスの纏う毛皮が熊っぽいのからキツネっぽいのに変わってたり。
 演技も日々、変化していくものなんだね。カッキーは通路での演技にすっかり慣れて、空いてる座席に座ってみたりしてた。マダムは通路脇の席だったので、彼がマントを翻しながら横を通るたび、いい香りがするなあ・・・なんて思ってた。

 プログラムは普通買わないことにしてるんだけど、今回は買ってよかった。凄く素敵な写真と、メインの四人のロングインタビューと、すべての役者さんの一言が載ってる。それと、吉田鋼太郎VS横田栄司、藤原竜也VS柿澤勇人の対談が載ってるんだけど!横田ファンはこの対談を見逃してはならないと思うわ。

 稽古場見学に始まって1ヶ月間マダムは、ほぼこの公演のために生きてきたので、いま、どっと疲れが押し寄せている。でも、心地よい疲れなので、このまま寝正月に突入するのもいいかしらね。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その2

 これほど1幕と2幕が、まるで別の芝居のようなテイストのシェイクスピア作品って、他にあったかしら?

 2幕は暗い森の中。セットが、ひんやりと湿気を帯びた深緑色で美しい。日本の森とは樹の姿が違うし、想像するアテネの森とも違い、一番近いのはイギリスの森、のような気がした。
 破産して、アテネの街を出て、タイモンは穴蔵暮らし。アペマンタスに似たボロをまとって、木の根を掘っては齧っている。アテネにいた頃の面影はない。そこへ次々と彼を知る人たちがやってきて、禅問答みたいな会話をする2幕が、圧倒的に1幕より面白いんだけど、それも1幕あってこそ。
 タイモンのところへは、アルシバイアディーズの一群が来て、アペマンタスが来て、強盗たちが来て、フレヴィアスが来て、画家と詩人が来て、元老院議員たちが来る。彼らとの長い不毛な対話。誰とも共感しない。台詞の連なりは、読んでも殆ど理解不能なのに、吉田鋼太郎の声で聞くと、タイモンの人間への絶望の深さ、人間的なものへの徹底した拒否がぐんぐん浮かび上がってくる。台詞がどんな感情から生まれているかを正確に読み取る優れた演出家と、それを正確に、しかもパワフルに演じることができる優れた役者。両方が彼の中に同居してる。ちょっと奇跡だ。だから、吉田鋼太郎演出の時、役者吉田鋼太郎も一番いい演技をするのね。
 
 藤原竜也や横田栄司とのがっぷり四つの会話を観たいというマダムの願いは、ついに叶えられたよ。藤原アペマンタスは1幕こそ苦戦していたけれど、タイモンとサシでの演技になった時、逃げることのできない対話の波に飲み込まれ、心を決めて身を任せたようだった。二人の会話は、人間を信じるなんてくだらないという一点で一致するんだけれど、タイモンは、だからこそもう生きないと決め、アペマンタスはそれでも生きると決め、互いを認め合って別れる(と受け取ったのだけれど、違うかしら)。ののしりあい殴り合って、最後に抱きあってしまった時、演技の高みに上り詰めたように見えて、マダムはちょっと、芝居の中身とは違う部分で感じるものがあったの。藤原竜也はこれでもう一度、舞台を面白いと思うようになれるだろうか。そうあってほしいのだけれど。
 横田フレヴィアスとタイモンのシーンは、他のどの対話とも違っていた。他の対話では常時主導権を握ってるタイモンが、ここでは受け身になるんだよね。気が触れたのか触れたふりしているのか、タイモンはフレヴィアスを知らないそぶりで逃げるけれど、横田フレヴィアスはタイモンを逃がさない。強靭な誠実さでタイモンの心をこじ開けるの。そしてタイモンの「正直な男がたった一人だけいる・・・その一人とは、執事だ・・・」という台詞で、こっちはフレヴィアスとともに、心の涙腺決壊だよ・・・。もう、このシーンは一切の雑音なく、芝居の中に入り込んで観た。なんかね、終わってほしくなかった、このシーンが(無理を言うな、無理を)。


 大劇場での演出は初めてだったけれど、よく知っているさい芸の空間をフル活用し、蜷川御大の遺産ともいうべきスタッフの力を借り、ベテランから若手まで共に歩んできた役者さんたちを集めて、隅々まで台詞術の行き届いた、美しくて面白い舞台が出来上がってた。凄く満足。
 最後に極々個人的なことをひとつ。30年来の友達が、初めてさい芸の大舞台を踏み、大事な役を演じるのを見届けたの。感慨ひとしお。長く生きてくると、こんな凄いこともあるのね。嬉しかった。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その1

 初日前夜から興奮状態。自分でもよくわからないテンションに。12月15日(金)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第33弾『アテネのタイモン』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出・主演/吉田鋼太郎
出演 藤原竜也 柿澤勇人 横田栄司 大石継太 間宮啓行 谷田歩
   河内大和 松田慎也 浅野望 松本こうせい 星和利 杉本政志
   坂田周子 千賀由紀子 林佳世子 ほか

 待ったわ。
 待ちくたびれた、と言っていいと思う。
 吉田鋼太郎演出のシェイクスピアは、なんと 劇団AUNの『十二夜』以来、ほぼ6年ぶりなのよ(『十二夜』の翌年の『冬物語』の時は、母が亡くなって、マダムは観に行けず)。ほんとにもう、待ちくたびれたわー。ブログ10年やってんのに、半分以上は待ってたんだからね。
 そのうえ、読んでもよくわからない『アテネのタイモン』だし、劇場もいきなり4倍位大きいし、どうなるんだろう、って期待と不安が渦巻いちゃってこの1ヶ月くらい、マダムの心はさい芸のまわりをグルグル回っていたのよ。
 でも、待った甲斐があったー。面白かったー。吉田演出の真骨頂!
 マダムはずっと言ってたのよ。今、日本語で上演するシェイクスピアで一番面白い演出をするのは、吉田鋼太郎だって。それが証明されたのよ!どうだどうだ〜。

 このあと観ることが決まってる人は、ここで引き返してね。予習はいらないから。

 

 芝居は1幕と2幕に分かれているんだけど、お話も真っ二つに分かれている。
 1幕目は、アテネの街で裕福に暮らすタイモン(吉田鋼太郎)が客に贅沢なふるまいをし過ぎて破産し、誰も助けてくれないことを知って怒りが爆発するまで。タイモンの屋敷を舞台に、華やかで賑やかなシーンが続く。
 2幕目はうって変わって暗くて静かな森の中。人間に恨み骨髄のタイモンが森の穴蔵で暮らし、訪ねてくる人間と議論の末、次々追い返し、死んでいく(?)までを描く。

 幕開きが素晴らしいの。開演10分前くらいから舞台に役者さんたちが現れ始めて声を出して歩き回る。蜷川御大の舞台でよくあった、見慣れた、懐かしい光景。それだけで観客は喜んじゃって、吉田鋼太郎が現れたらもう拍手が起きちゃうし、そこへまた「ただいま」だなんて言うもんだから、客席はすでに歓喜の悲鳴。まあ、なんて心憎い演出なの。
 そして彼の「さあ、始めようか」の一声で、役者たち全員が舞台の前面にぎっしりと並び、挨拶とともに音楽がなって、一斉にみんな踊り始める。緊張を一気に解かれて、芝居の世界にサッと引き込まれる瞬間。
 このオープニングのダンス、華やかで本当に楽しい!まずはダントツに、ミュージカル出身の柿澤勇人の素敵さにシビれる。そしてもう一人の注目の人は河内大和。彼の美しい立ち姿と鍛えたキレの良さがなんと、ダンスに生かされるとは。すばらしー。
 役者さんたちによる芝居の幕開けを告げるダンスが、やがてタイモンの屋敷で開かれている宴のダンスとなり、お話が始まるこの出だし、つかみはバッチリだ。
 1幕目はとにかく嘘と追従のオンパレード。金のなる木ならぬタイモンに、びっしりと群がる人々。見え見えのお世辞や追従に、大枚叩いて饗すタイモン。お世辞にも歯が浮くけど、もてなすタイモンの台詞もまた「本気なのか?」と疑うような美辞麗句が並んでて、すごく人間関係が上っ面なの。その中で、浮かれてない人間が3人いるのね。哲学者アペマンタス(藤原竜也)と軍人アルシバイアディーズ(柿澤勇人)と、タイモンの執事フレヴィアス(横田栄司)。
 藤原アペマンタスは1幕目はちょっと苦戦してた。華やかな人々の中たった一人ボロを着て歩き回り、皮肉な言葉を投げるんだけど、ほとんどが相手がいない状態で喋らなくちゃならない。すると、彼の台詞術のクセで詠ってしまうのね。でもアペマンタスは皮肉屋だから、詠うのはちょっと違うとマダムは感じたの。もっと、カラッとドライでいいのではないかしら。
 アペマンタスは哲学者ゆえにタイモンたちと逆の意味で浮世離れしてる。なので、ほんとに真っ当な感覚でいるのは執事フレヴィアスだけ。横田フレヴィアスの台詞は、1幕目のなかで際立つ、心に嘘がない台詞。似合いすぎ。優しい役柄を、演じる役者がさらに優しくする。
 アルシバイアディーズは軍人だから浮かれてない。カッキー、堂々のシェイクスピアデビュー。彼だけ別の展開があって、アテネの元老院と対立して追放を命じられ、怒りまくるシーンがあるんだけど、台詞が見事で、舌を巻いたよ。かっこいいし。ようこそ、シェイクスピア界へ。メッチャ、歓迎する〜!
 
 お世辞と追従の波のあと、破産寸前のタイモンに対して、手のひらを返したように冷たくなる人々。描写がくり返しになって、本だと退屈に思えるのだけれど、舞台は演出のアイデアがいっぱいで、飽きなくて、わかりやすくて、笑っちゃうところもたくさんあって。タイモンからの借金の申し入れを断る人々は、カウチに寝そべってワイン飲んでたり、風呂入ってたり、酒場でクダ巻いてたりする。演じる谷田歩、杉本政志、松田慎也も皆テンポが良くてノリが良くて、すごく楽しい。
 そして、誰からも援助が得られないとわかって、人々の裏切りにタイモンの怒りが爆発するのだけれど、この怒りのパワーが半端ではない。これはもう、吉田鋼太郎ならでは。そしてこれこそシェイクスピアならでは。日常生活では絶対感じられないような(もし感じたら凡人には到底耐えられないような)感情の振り幅なの。本当に久しぶりに、パワー全開の吉田鋼太郎を見た!
 この怒り爆発のシーンで、まさか屋敷を燃やしてしまうとは思わなかった。そういう台詞は確かにあるけど。燃える屋敷の前でタイモンが吼える。凄まじいシーンだけど、照明がにじむように美しくて。そして赤い借用書の紙切れが轟々と舞って、少しだけ蜷川演出のことを思い出したマダムだった。
 
 やっぱり長くなる。2幕目については、その2で。

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その3

 鋼太郎さんが遂に役者として稽古場に立たれたと聞き、再び見学に行ってきました!(ちなみに最初にその情報を得たのは、カッキーのツイートからでした。)
 時期が重なって、ブログ10周年記念企画のようになってますが、嬉しい偶然です。
 その1その2 を読んでから、どうぞ。
 

 12月6日(水)午後、再び大稽古場に伺いました。
 1度目に伺ったときには『NINAGAWAマクベス』のシンガポール公演のため留守だった役者さんたちが、皆もどってきていて、日本のシェイクスピア俳優集合度がさらに増していました。そして、やはりシンガポールから戻られたのでしょうか、故蜷川御大の写真が、真ん中の机の上に置かれています。

 「あとは俺だけなんだよな〜」と言いながら、タイモンの衣装をつけた鋼太郎さんが板の上に上がりました。
 演出家の椅子にいるときにはぴったり隣にいた記録係はもう、いませんでした。その代わり舞台に一番近いところにプロンプター(という呼び名でいいのでしょうか?)が二人ついて、鋼太郎さんの稽古をフォローします。びっしりメモが書かれた台本を手にしていますが、これ、殆ど台詞の流れを暗記していないと務まりません。演技に目を凝らし、台詞が止まって鋼太郎さんと目が合った瞬間に、次の台詞のきっかけを教えてあげなければならないのです。先日の記録係といい今回のプロンプターといい、最重要な、縁の下の力持ちですね。

 「あとは俺だけなんだ」と聞いて私が思い浮かべたのは、周りが完全に出来上がっているところへ鋼太郎さんがピタリと収まる、というような図だったのですが、それは完全に裏切られました。4幕3場はタイモンのところへさまざまな人が訪れては去っていきますが、新しい相手役が現れるたびに鋼太郎さんは稽古を止めて、新しいアイデアをどんどん試すのです。相手役の役者さんたちも、受けて立ちます。
 アルシバイアディーズの一行が通過する場面も、フレヴィアスとの別れも、画家と詩人が訪ねて来る場面も、どんどん変化していきます。鋼太郎さんはまるで、たった今思いついたかのように「こうしてみよう」「ああしてみよう」と言い、やってみると俄然芝居が活気づくので、ちょっと魔法にかかったようになってしまいます。見ているスタッフや役者さんたちも固唾を飲んだり、ドッと笑ったりして、思わず引き込まれていました。
 でも、あとから思い返すと、たった今思いついた訳がないのでした。このお芝居の影の主役は「カネ」なのですね。どの演出も、それぞれの人物の「カネ」に対する態度をくっきりさせることにベクトルが向かっています。そうやってテーマに沿った人物描写をすれば、おのずと面白くなるように本ができているのです。感心して見てるのは私だけじゃなかった。「おもしろいな〜」「よくこんな本、書いたよな〜、シェイクスピア」という声がスタッフの方から漏れたのを、私は聞き逃しませんでしたよ!
 
 長い4幕3場の稽古が終わり、次のシーンに移る時、藤原くんが鋼太郎さんに「大丈夫なの?ヘロヘロに(なってるんじゃない?)」と、わざと心配していない風なそっけない言い方で、実は気遣っていました。そう、ここはタイモンが出ずっぱりなだけでなく、ご自身の演出のせいで更に膨大なエネルギーが必要になっています。で、鋼太郎さんの藤原くんへの返答は「シェイクスピアハイだ(から大丈夫)」ですって。ランニングハイならぬシェイクスピアハイについては、鋼太郎さんのインタビュー記事で見たことがあった気がしますが、こういう時に使うのかと、聞いてにやにやしてしまいました。
 主演と演出を兼ねる時の方法を整理しますと。
① 信頼できる人を代役に立てて、まず他の役者さんたちとスタッフに全体の流れをわかってもらう。
② 頃合いを見計らって、自分も役者の方に加わる。
③ そうしながら細部の演技の演出をどんどん加えていく。全体のバランスを演出補に常にチェックしてもらいながら、進める。
④ プロンプターを立てて、同時に自分の台詞の曖昧さも修正していく。
 特別に効率の良いやり方があるわけではありませんでした。全て計算があって進めているのですが、それでも凄く凄く大変。そして最後の最後にシェイクスピアハイが助けてくれる、ということでしょうか。
 
 出番が終わって、タイモンの衣装をその場で脱いで着替え、鋼太郎さんは演出の椅子に戻ります。そこからはセットの移動があるシーンをチェックしていきます。そういう場面になると、どこか蜷川演出テイストが感じられるんですね。意識してそうしている部分もあると思いますが、これはさいたま芸術劇場で作っているから、というのが大きいのではないでしょうか。ゴールドシアターの『薄い桃色のかたまり』のときも同じように感じたのですが、長く蜷川演出を支えてきたスタッフの方達が、同じように真摯に岩松演出や吉田演出を支えようとすると、おのずと芝居の隅々からそのテイストが立ちのぼってくる、そんな気がしました。
 
 稽古場見学は十分すぎるほど刺激的でした。恋愛も権力闘争も嫉妬もなく、離れ離れの家族も間違われる双子も男装する女の子も出てこないんですが、これもまた紛れもないシェイクスピアだったんです。
 来週末にはいよいよ開幕です。ワクワクする気持ちをうんと貯めて、本番を待ちたい。
 皆さんも是非、ご一緒に。予習は特に要らないです(たぶん)!

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その2

 その1をアップしたらすぐ、皆さんから反応をいただきまして、記録係が演出家の隣にいるスタイルは広く行われているみたいなのですね。四季の浅利慶太さんは、そのメモを記録係の女優さんに読み上げさせた、とか。

 
 40分を越えるシーンを終えて、「ではダメだしをしよう」と言って鋼太郎さんは初めて席を立ちました。周りにびっしりと役者さんが集まって、ダメだしを聞きます。私の場所からはところどころしか聞こえなかったのですが、それは「ダメ」を「出す」という否定的なものじゃなくて、演出家のイメージを説明し、そのイメージから外れる部分を修正する、という感じでしょうか。アペマンタス役の藤原くんとは特に時間をとって話されていました。
 
 休憩のあと、同じシーンを始めから繰り返します。
 今度は、途中芝居を止めて、台詞や立ち位置を直しながら進んでいきます。アルシバイアディーズが去って、哲学者アペマンタスが登場してきました。
 藤原くんがこれまでシェイクスピアでやってきた役は、直情型で朗々と喋る役が殆どでしたが、今回の捻くれた哲学者はちょっと勝手が違います。一回目の通しの時は、まだ手探りな感じでした。でも二回目は、ときどき芝居を止めて、鋼太郎さんが自分の代役の長谷川さんの台詞まわしを直します(鋼太郎さんがタイモンの台詞を言うと、やはり全然違って、圧倒的です)。そうすると藤原くんもそれにパッと反応して口調が変わります。会話が立体的になり始める瞬間が見えて、ドキドキしました。
 だいたいこのシーンは、タイモンの長い長い台詞があって、アペマンタスがそれに茶々を入れるみたいな会話なので、はじめにタイモンありきなところがあるんですね。鋼太郎さんが長〜い台詞の、ここはこういう気持ち、これをきっかけにその気持ちが冷め、次のこの辺りから狂った状態に戻る、みたいな、タイモンの揺れ動きを一気に説明されたときには、私はもう唖然。へええええー、そうなのかー、と。小田島訳と松岡訳の両方を読んでいったのに、そんなこと何一つ読み取れない自分の凡人感にハンパなく満たされた瞬間でした。
 
 そしてシーン最後に登場するのが執事フレヴィアスです。横田さんが現れた瞬間、場の空気がガラリと変わり、もうフレヴィアスそのものでした。台詞を言い始めたら、言わずもがなです。上手いわ〜って心の中で感嘆しました(すみません。このような上から目線の言い方で。でも、本当にそう思った。うそはつけません)。そしてこのシーン、鋼太郎さんと二人でやるんだーと思ったら、ちょっともう、たまりません。稽古なのに、すでに感無量な私。
 鋼太郎さんと横田さん、そして藤原くんがシェイクスピアでがっぷり四つに組む瞬間を、私はずっと待っていましたので。共演はされていても、役によっては一緒のシーンがないことも多いし、火花散る会話のやり取りはずっと見られずにきましたが、とうとうその日が来るんです!
 
 すっかり興奮してしまいました。主演俳優が演出を兼ねる時、どんなやり方をするのか、についてちゃんと分析したかったのですが。途中から完全に観客になってしまって、冷静さは吹き飛んでしまったのでした。
 この日の稽古は、2時ごろから始まって、4時間あまり。まばたきも忘れるほど集中して見学しました。役者さんたちも、自分の出番がない時は、長机の側に座って、食い入るように稽古を見ていました。静かだけど熱と活気、そして朗らかさ溢れる稽古場でした。
 さて、鋼太郎さんはいつから役者の側に立たれるのでしょうか?「あと少し経ったらね」とおっしゃってましたが、そこをまた、見たいものです。再度、見学がかないましたら、また皆さんにご報告したいと思います。

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その1

 さいたま芸術劇場で12月に上演される『アテネのタイモン』。稽古場見学に行ってきました!
 日本のシェイクスピア俳優の80%(マダムヴァイオラ社比)が集合している稽古場を見学できるなんて・・・興奮と緊張のあまり、朝から肩凝りしてしまう私。
 見学日記を書くにあたりいつもの「敬称略」ではとても書けないので、役者さんのことは、私がふだん心の中で呼んでいる呼び方を使わせていただきますね。失礼があったらご容赦を。

 

 11月25日(土)午後、さいたま芸術劇場の大稽古場に、伺いました。
 大稽古場は、前の廊下を歩く時チラッと中が見えたことはありますが、入るのはもちろん初めてです。
 足を踏み入れると、聞きしに勝る広さです。大劇場の舞台プラス袖くらいの面積と、高い高い天井。片側の壁はいちめんの鏡張りになっています。床にはラインが引かれていて、緞帳が下りてくる位置や、センターの位置、上手と下手の切れる位置などが全部わかるようになっています。劇場と全く同じ立ち位置で稽古が出来る、故蜷川御大自慢の稽古場です。
 片側にずらりと長机が並んでいて、スタッフの方達が腰かけていました。真ん中に一つだけ木製の机があって、いかにも演出家の席、という感じでしたが、鋼太郎さんはそこには座らず、一つ奥に座ります。あとで伺ったら、この木製の机は故蜷川御大の席なのだそうです。今も、御大の魂は稽古場にあるよ、ということなのでしょう。
 
 今回見学するにあたり、私がいちばん知りたかったのは、主演俳優が演出を兼ねる場合、いったいどんなやり方で稽古するのだろうということでした。
 私は以前にも一度、鋼太郎さんの稽古場を見学したことがあります。劇団AUNの『十二夜』の稽古場でしたが(レポートは→ここ )、そのときの鋼太郎さんの役はマルヴォーリオで、重要な役ではあるけれど、主役ではない。今回のタイモンに比べたら、台詞の量も出演時間も、ずっと少なかったわけです。タイモンはほぼ出ずっぱりだし、いったいどうするんだろう、と興味津々だったのです。

 4幕3場をやります、というアナウンスがあって、役者さんたちが衣装をつけて舞台に集まり始めました。AUNの長谷川志さんがタイモンの代役で、衣装をつけ、現れたので、なるほど、と思いました。彼はAUNの若手公演の演出を手がけたこともある人で、『十二夜』のときも鋼太郎さんの代役をされてましたから。
 一回通してみよう、と鋼太郎さんが声をかけ、稽古が始まりました。
 始まって、いきなりびっくりです。長谷川さんがタイモンの台詞を全部憶えていたのにも驚きましたが、その台詞まわしが鋼太郎さんにそっくりだったので。シェイクスピアの台詞を客に伝わるように喋るにはこうする、という吉田鋼太郎イズムみたいなものが浸透しているのに感心してしまいました。海外の舞台でいうところのアンダースタディというのは、こういう存在なのでしょうか。
 4幕3場は、無一文になったタイモンが森の洞窟で隠遁しているところへ、以前の知り合いが次々やってくるシーンです。最初に武将アルシバイアディーズが現れます。カッキーはスレンダーな青年なので、武将ってどうなのかしら?と思っていましたが、軍服姿がメチャ格好いい! 怜悧な武将という感じ。そして後ろに屈強な兵士たちが控えているんですが、谷田さんや河内さんが甲冑を着けて睨んでいると迫力十分です。むき出しの腕の筋肉に、つい目がいってしまいますね。贅沢な配役です。
 アルシバイアディーズが去った後、哲学者アペマンタスが現れ、そのあと執事フレヴィアスが現れて、タイモンと物別れになるこのシーン、続けると40分以上になります。まず通してみると言った通り、鋼太郎さんは一度も芝居を止めず、片時も目を離しません。そして気がついたことがあると、目は離さないまま、次々口に出します。「今のところもっと早く出て」とか「今の台詞、縮める」とかそういったことを鋼太郎さんが小声で言うと、それを隣にぴったり張り付いている記録係の人(いちばん若い女優さんでしょうか?)が台本に付箋をつけてどんどんメモしていきます。鋼太郎さんは自分でメモしたり台本に目を落としたりはせず、稽古する役者さんたちから目をそらさないのです。はー、なるほどー、と私は心の中で何度も言ってました。(これが当たり前のやり方なのかどうか、私にはわかりません。鋼太郎さんの稽古しか見たことがありませんから。)

 通しが終わると、役者さんたちを集めて、さっきメモしてもらったことを含め、長いダメだしがありました。それを受けて「もう一度やってみよう」といって始まった次の稽古が、ちょっと凄かったんですが、長くなりましたので、その2で書くことにします。

面白く、やがて悲しき『ビリー・エリオット』

 赤坂ACTは構造上、できたら行きたくない劇場なんだけど。8月6日(日)ソワレ、赤坂ACTシアター。

ミュージカル『ビリー・エリオット 〜リトル・ダンサー〜』
音楽/エルトン・ジョン 脚本・歌詞/リー・ホール 
演出/スティーブン・ダルドリー
出演 ビリー       木村咲哉
   お父さん      吉田鋼太郎
   ウィルキンソン先生 柚希礼音
   おばあちゃん    根岸季衣
   トニー       藤岡正明
   オールダー・ビリー 栗山廉
   マイケル      山口れん    ほか

 『ビリー・エリオット』とはどんな舞台なのか、説明するまでもないくらい有名になっちゃったけど、まずはイギリスの舞台がどんなだったか、マダムのレポートを読んでください。長いけど。それは→マダム イン ロンドン  と→マダム イン ロンドン その2→マダム イン ロンドン その3

 読んでいただけばわかる通り、マダムは『ビリー・エリオット』を日本人がやることに懐疑的だったの。
 だから、観るかどうかずっと迷っていたのだけれど、結局行くことにしたのね。それは、いろんな意味で、いい判断だったと思ってる。
 というのはね、想像以上に面白かったの。そして、だからこそ、観たあとのイギリスへの敗北感といったらなかった・・・。

 日本版を制作するにあたり、日本人の演出家は付かず、演出補らしき人もいなくて、完全に、オリジナルを「まんま」上演するというやり方だったね。舞台装置から衣装から、役者の一挙手一投足まで、すべて英国版と同じ。ほんの少しカットされたシーンがあった他は。台詞が日本語である、という以外に、限りなく違いをゼロにしようという意図があったの。それは、『ビリー・エリオット』という名前の作品価値を傷つけまいとして、だと思うんだけど。
 
 マダムはそもそも「まんま」がやれるのだろうか、日本人キャストで?と懐疑的だったんだけど、そこはかなりクリアされてた。子役はもちろんのこと、心配されたアンサンブルも、よく踊りよく歌い、物語はちゃんと伝わってきて。言葉が違っても伝わる普遍的な部分、例えばビリーを残して亡くなった母親の思いや、ビリーの才能を見出し次のステップへ背中を押してやるバレエの先生の気持ちなどは、ひしひしと伝わり、子供達の踊るシーンはそれだけで楽しい。ビリーが、未来の自分と踊る「白鳥の湖」のシーンは、言葉がいらないシーンであるだけに、ロンドンで見たときと同じように白眉だったわ。
 子供達もアンサンブルも、激しい稽古をクリアして行けるところまで行ったのね。どれも少しずつ到達できていないところを残しつつ。練習してなんとかなる部分は、ほぼなんとかなった、の。そうしたら(子役の、そもそもの演技の発信力が拙くても)それなりに楽しめるものができた、ってこと。
 だけど結局それは、もとの本、もとの音楽、もとの作品の力が物凄い、ってことなのよ。イギリスって凄いな、と改めてマダムは感心した。芝居の力をこれほど信じて作られた作品はないよ。ひれ伏したの。そしたら敗北感が押し寄せてきたのよ。
 
 「まんま」やる方針に従って、炭鉱町の人々がサッチャーのマスクをかぶって歌いこき下ろすシーンも、全くそのままだった。このシーンを含め、作品のバックボーンをどう翻訳するか、日本側のプロデューサーは、何も考えなかったのかしら。イギリスの製作者の「まんま」の方針に唯々諾々と従うだけだったの?それとも、紆余曲折の果てに、このやり方が選ばれたの?
 このシーンに代表される、作品の根本にあるイギリス人の国民性や、当時の政治状況に対する怒りなどは、「まんま」やることによって、情報でしかなくなり、芝居の力としては全然伝わってこなかったんだよね。そこは「訓練」や「練習」だけではどうにもならないところだから。
 ことあるごとにマダムは思うんだけれど、日本人の役者も観客も、日本語で考え、日本語で体も動いている。だから台詞だけ日本語に移しても、芝居の力を翻訳したことにはならないの。
 日本版のための、日本人演出家が必要だったのではないかしら?

 例えば「Solidarity」の踊りと歌詞には、ストライキ中の炭鉱夫たちと、それを見張ってる警官たちの掛け合いがある。
 警官たちは「お前たちがストライキしてくれるおかげで残業代がたくさんもらえて、俺たちはお大尽だぜ」みたいなことを言い、対する炭鉱夫たちは「そしたらお前たちは家を長く留守するんだな。女房を寝取ってやるぜ」と歌う。ユーモアと皮肉たっぷりに、本気の反抗、本気の主張がこめられているんだけど。日本版ではそれが、ただステップが面白いダンスシーンになってしまっている!
 ステップは練習でなんとかなるけど、そこに込められた反骨精神はダンスの練習では生まれない。見事にどこかにいっちゃっていたのよ。
 
 「まんま」ミュージカルの専門劇団はもうあるんだし、これ以上そこに労力をかけなくていいと、マダムは思うよ。
 その先、を切り開いてほしい。

楽しさ全開 AUNの『間違いの喜劇』

 久しぶりすぎる高円寺。8月5日(土)マチネ、明石スタジオ。

劇団AUNワークショップ公演『間違いの喜劇』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
監修/吉田鋼太郎 演出/長谷川志
出演 木村龍 橋倉靖彦 河村岳志 松尾竜兵 齋藤慎平 山田隼平
   飛田修司 岩倉弘樹 前田恭明 伊藤大貴 千賀由紀子 水口早香
   悠木つかさ 森瀬惠未 佐々木絵里奈 桐谷直希 砂原一輝

 私事ながら、高円寺はシェイクスピアの聖地。
 昔、高円寺にはシェイクスピアシアターのアトリエがあり、そこで、マダムは生まれて初めてライブでシェイクスピアを観たの。以来、シェイクスピアの面白さの虜。 高円寺で降りたのは本当に久しぶりだったんだけど、明石スタジオの席に着いたら、小屋の大きさといい、限りなく無に近い装置、大道具の無さといい、シェイクスピアシアターのアトリエそっくりだったので、それだけで故郷に帰ったような気がしたの。
 で、始まった芝居は、ホントにマダムを原点に運んで行ってくれるような面白さだった。
 
 『間違いの喜劇』のあらすじ説明とかはしないよ。
 
 二人のドローミオが、最高。根っから喜劇体質のドローミオ兄(齋藤慎平)と、少しヤンキーが入ってるドローミオ弟(山田隼平)の動きが楽しくてしょうがなかったし、ハイテンションで叫んでいるようでも、ちゃんと台詞の全てが耳に届いて、それがメチャクチャ可笑しい。二人のノリの良さが役者たち全員に伝染して、芝居を引っ張っていってたわ。「間違いの喜劇」はドローミオ兄弟が主役だったのね。初めて知ったー。
 エドリエーナ&ルシアーナ姉妹も負けてなかった。エドリエーナ(水口早香)の大柄で押しまくって舞台を制圧する様子に笑ったし、対するルシアーナ(悠木つかさ)の小柄だけどのんびりゆったりのマイペースさが、あたりをじわじわと侵食していくのがまた可笑しいの。
 始まって30分くらいで可笑しさは雪だるま式に膨らんでいき、あとは、もう誰が何をやっても可笑しくて。アンティフォラス兄(河村岳志)の堅物さも、アンティフォラス弟(松尾竜兵)のキレやすい体質も。商人(伊藤大貴)はニコニコしてるだけで可笑しく、金細工師アンジェロ(岩倉弘樹)なんて、最後には何も言ってなくても可笑しい、という具合に、どこを切っても可笑しくて楽しいの。もう、凄くよく出来てる!
 そして笑ったあとの締めで、修道院主エミリア(千賀由紀子)がアンティフォラス兄弟の母だとわかるところは、ちゃんと、ジーンとする。出番は少ないけど、エミリアをベテランがやるってことには、凄く意味があるんだよね。

 シェイクスピアの喜劇の面白さは、台詞にかかっているの。この台詞をどんなつもりで誰に向かって言うのか。聞いた相手はどんな風に受け止めて、言い返すのか。周りはそれを聞いてどんな反応をするのか。もうそれだけ。それを板の上にいる役者が全員、わかっていて、やり遂げたら、メチャクチャ面白いものが出来上がる。
 劇団AUNはシェイクスピアの専門劇団ながら、ここ数年シェイクスピアから遠ざかっていた。でもさすがだわ。若手のワークショップ公演といえども、全員がどんな瞬間も今起きていることにヴィヴィッドに反応してた。やっぱりこうでなくちゃ。セットも小道具もなにもなくったって、面白いのよ、シェイクスピアは。
 
 それとね、今回マダムは発見したのよ(そんなことは、とっくに知ってると、みんなは言うかな?)。
 シェイクスピアではよく、双子とか、瓜二つの兄弟とかが出てきて、それを一人二役でやる上演もあるんだけど、マダムは初めてシェイクスピアを見たときから、全然似てない役者がそれぞれの役をやるのを自然に受け入れてきたし、今回も二人のアンティフォラス、二人のドローミオがとても良かった。
 いえ、むしろ、違う役者が双子をやる方が断然いい、と思ったのよ。
 だってさ、もしそっくりな双子を二組見つけてきて、アンティフォラスとドローミオをやらせたとしたら、よ。観客も、今出てきたのがアンティフォラス兄なのか、ドローミオ弟なのか、瞬時に見分けられなくなっちゃうじゃない? この「瞬時に」ってところが大事で、観客の方は瞬時に、ドローミオ兄!とかアンティフォラス弟!とかわかるから、登場人物たちが右往左往するのが可笑しいわけなのよ。迷ってから理解するんじゃダメなの。可笑しさの勢いがなくなっちゃうもの。
 
 というわけで、ホントにホントに楽しかった。またやってほしい。毎月やってほしいくらいだわ。

AUN公演『桜散ラズ・・・』を観る

 6月終わりから、怒涛の観劇スケジュールに突入だー。6月25日(土)マチネ、池袋シアターグリーン。


劇団AUN第23回公演 『桜散ラズ・・・』
作・演出/市村直孝
出演 吉田鋼太郎 大塚明夫 北島善紀 星和利 谷田歩
         松本こうせい 谷畑聡 坂田周子 千賀由紀子 林蘭 ほか

 シェイクスピア以外の本に挑んで3年目。市村直孝脚本も、3本目。
 シェイクスピアを演じている姿を見慣れてるので、最初は「わ、日本人やってる」と驚いたりしたのだけれど、もう驚かなくなった。なんでもできるのよね、この劇団は。

 『有馬の家のじごろう』以来続く、三代記もの。語り部のような人物、和田健一(松本こうせい)が、重度のアルコール中毒の様子で現れ、すべては彼の夢かうつつか、という感じで、物語が繰り広げられていく。
 話の中心になるのは、まだ高校生のケン坊から見た、ふたりのおじいちゃん。ひとりは一緒に暮らしている父方の祖父、町工場の親方和田鶴松(吉田鋼太郎)。もうひとりは母方の祖父、漁師の栗山安成(大塚明夫)。
 これには、あ、そういう見方があったんだ、と虚をつかれた感じ。つまりね、人間誰もが父と母が(遺伝的には)一人ずつ、いるでしょ?そのことは意識しなくてもわかっているんだけど、人間は誰でも祖父がふたりいる、って意識したことがなかったの。わかりきったことなのに。わかるかな、マダムの言ってること?

 祖父がふたりとも太平洋戦争に従軍し、ひとりは戦闘機のパイロットだったし、ひとりはその戦闘機の整備兵だった。ふたりは生き残り、日本に帰ってきて、それぞれの息子と娘を娶せる。そして自分(ケン坊)が生まれた・・・。その構図、というか家系図に、感慨を感じつつ、この人物設定を吉田鋼太郎と大塚明夫のために考え出した作家の上手さに唸ったの。
 だから今回は、ふたり主役みたいな物語だったわ。整備兵だった男は、東京の下町に町工場を開き、ネジを作る。ふたりの息子や、従業員や、幼馴染みに囲まれて、貧しくも楽しい暮らしが営まれる。男達がワイワイと仕事し、終わるとワイワイと飲む。その真ん中にいる鶴松は吉田鋼太郎にぴったり。(ただ、町工場の親方としては、やけに色っぽいんだよね。)町工場はやがて、時代の波にのまれて、なくなっていくの。
 一方のパイロットだった男は、妻や娘がいても、どこか孤独。漁師の仕事がない日でも、ひとり海辺で釣りなんかしているのだけれど、それをいつも見守っている若い男達の姿があって。彼らが何者なのかが、栗山の口から明かされるシーンは圧巻。大塚明夫の声(テレビでも聴き慣れている深い、いい声)が、同じ空間を伝わって、耳より先に胸を震わせる。
 
 鶴松(吉田鋼太郎)、鶴松の長男正治(北島善紀)、鶴松の幼馴染み亀吉(星和利)、そして栗山(大塚明夫)といった、ベテランの役者に比重を置いた本なのだ、と感じて、なんだか嬉しかった。ただ、登場する女性達が、みな温かく優しく懐が深く、同じように描かれていることが、少し気になったのだけれどね。

 現代に続く三代記なのは、前作や前々作と同じなのだけれど、三代目が直面する孤独は、今回がいちばんシビアで、切なかった。ラストに近づくにつれ、健一のあまりの孤独さに、マダムも涙がこみ上げたの(鬼の目にも涙、とか言う声がどこかから聞こえる)。
  それは、作家がこの何年かの間で、希望をたやすくは語れなくなっている、ということなのではないかしら。その切実さ、厳しさがちゃんと作品の後ろにあるの。
 
 マダムは滅多に涙がこみあげることなんか、無いのよー。だからちょっと、やられたな、と思う。

 

毎年恒例?最後の観劇はおじさんの芝居で

 おじさんの芝居で一年を締めくくる癖がついてるのかしら。12月26日(土)マチネ、パルコ劇場。

『ツインズ』
作・演出/長塚圭史
出演 古田新太 多部未華子 りょう 石橋けい
   葉山奨之 中山祐一朗 吉田鋼太郎

 マクベスの演出で唖然として以来、長塚演出を敬遠気味だったマダム。今回は書き下ろしだし、古田新太と吉田鋼太郎を迎えて、ちゃんと(って、どういうことかわからんけど)やるよね、きっと、と思って観に行ってみた。パルコでは『Sisters』っていう佳作も作っているし、題名からして同じ系統の作品かな、と思って。

 幕が開くと舞台の真ん中に、多部未華子が一人で立っていて、エアピアノを1曲分披露するのだけれど、それが素晴らしかったー。何かすごく面白いことが始まる予感に、ゾクゾクしたの。
 ネタバレありなので、注意してね。

 舞台は、日本のどこか海辺の屋敷。原発の事故のせいなのか、核戦争後なのか、天変地異なのか、よくわからないけれど、海が汚染され、日本から人々は逃げ出しつつあるらしい。ハルキ(古田新太)は、娘のイラ(多部未華子)をオーストラリアに逃がすための金を無心するため、ずっと近づかなかった実家にやってくる。野球のバットを携え、出される食べ物を拒否して、身を守りながら。
 でも、屋敷に住む人々は、環境汚染のことなど気に留めていないの。平気で海で泳ぎ、海で取れた魚介類を料理して食べる。
 ハルキが、死にかけている父親と話したいと言っても、兄のリュウゾウ(吉田鋼太郎)を始めとして屋敷の誰も、本気で取り合わないし、金の話にも耳を貸さない。なので、やがてハルキはブチ切れて、バットを振るい、リュウゾウから無理矢理に金を取り上げようとするの。でも、イラは父親に反抗し、包丁でハルキの指を切り落とす。それをきっかけに、形勢は逆転して、ハルキは出された食べ物を口にし、すっかり屋敷に馴染んでいってしまう。
 病気の父親が死に、双子の赤ん坊が行方不明になり、電気も消えて、いよいよ終わりが近づいているようなのに、屋敷の人々は陽気なままでいるのだが・・・。

 というようなお話。家族のいざこざと、環境問題の二つがからみあっていて、なんだか上手く説明できない話なの。役者が皆上手い人たちなので、最後まで付いて行ったけれど、曖昧にされていることが多すぎるような気がした。もちろん謎を残してくれてもいいのよ。だけどさ。環境汚染の設定は、最近なんだかほのめかす舞台が多くて食傷気味だから、はっきり決めてくれ、とつい思ってしまって。現実の方がよっぽど衝撃的だもん。
 細部も曖昧なことがいっぱい。曖昧を狙ったというより、決めきれなくて曖昧になってしまったのかな、と感じられて。ハルキがどんな気持ちで実家と断絶してたのか伝わってこないし、バットで兄を襲うほどの気持ちがありながら、呆気なく屋敷に馴染んでしまう変化に、どうも納得いかないし。イラの行動も、多部未華子が魅力的なので見つめちゃうんだけど、何を考えているのか(あるいは考えていないのか)がわからなくて。ハルキの指が切られて飛んでも、大して大ごとにならずに過ぎて行くのは、皆がおかしくなっちゃってるってことなの? 
 ハルキとリュウゾウもあまり兄弟らしくなかった。仲が悪いなら悪いなりに、兄弟らしさってあると思うのだけど、それは感じられなかった。
 ラストは、こうなる以外に生き物として生きて行く方法はありませんよ、という長塚流の皮肉なのかな、と感じたわ。作家の中でラストははっきりしてたんだと思う。
 
 出だしが素晴らしかったわりには、納得いかないまま終わってしまって。面白くなかったわけじゃないんだけど、脳細胞の位置が入れ替わってくれたりはしなかったわ。
 「面白かった!」って、きっぱり言えることがこう少ないと、なんだか自分が退化してしまったのかしらと思えてくるマダムである・・・。

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