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吉田鋼太郎

AUN公演『桜散ラズ・・・』を観る

 6月終わりから、怒涛の観劇スケジュールに突入だー。6月25日(土)マチネ、池袋シアターグリーン。


劇団AUN第23回公演 『桜散ラズ・・・』
作・演出/市村直孝
出演 吉田鋼太郎 大塚明夫 北島善紀 星和利 谷田歩
         松本こうせい 谷畑聡 坂田周子 千賀由紀子 林蘭 ほか

 シェイクスピア以外の本に挑んで3年目。市村直孝脚本も、3本目。
 シェイクスピアを演じている姿を見慣れてるので、最初は「わ、日本人やってる」と驚いたりしたのだけれど、もう驚かなくなった。なんでもできるのよね、この劇団は。

 『有馬の家のじごろう』以来続く、三代記もの。語り部のような人物、和田健一(松本こうせい)が、重度のアルコール中毒の様子で現れ、すべては彼の夢かうつつか、という感じで、物語が繰り広げられていく。
 話の中心になるのは、まだ高校生のケン坊から見た、ふたりのおじいちゃん。ひとりは一緒に暮らしている父方の祖父、町工場の親方和田鶴松(吉田鋼太郎)。もうひとりは母方の祖父、漁師の栗山安成(大塚明夫)。
 これには、あ、そういう見方があったんだ、と虚をつかれた感じ。つまりね、人間誰もが父と母が(遺伝的には)一人ずつ、いるでしょ?そのことは意識しなくてもわかっているんだけど、人間は誰でも祖父がふたりいる、って意識したことがなかったの。わかりきったことなのに。わかるかな、マダムの言ってること?

 祖父がふたりとも太平洋戦争に従軍し、ひとりは戦闘機のパイロットだったし、ひとりはその戦闘機の整備兵だった。ふたりは生き残り、日本に帰ってきて、それぞれの息子と娘を娶せる。そして自分(ケン坊)が生まれた・・・。その構図、というか家系図に、感慨を感じつつ、この人物設定を吉田鋼太郎と大塚明夫のために考え出した作家の上手さに唸ったの。
 だから今回は、ふたり主役みたいな物語だったわ。整備兵だった男は、東京の下町に町工場を開き、ネジを作る。ふたりの息子や、従業員や、幼馴染みに囲まれて、貧しくも楽しい暮らしが営まれる。男達がワイワイと仕事し、終わるとワイワイと飲む。その真ん中にいる鶴松は吉田鋼太郎にぴったり。(ただ、町工場の親方としては、やけに色っぽいんだよね。)町工場はやがて、時代の波にのまれて、なくなっていくの。
 一方のパイロットだった男は、妻や娘がいても、どこか孤独。漁師の仕事がない日でも、ひとり海辺で釣りなんかしているのだけれど、それをいつも見守っている若い男達の姿があって。彼らが何者なのかが、栗山の口から明かされるシーンは圧巻。大塚明夫の声(テレビでも聴き慣れている深い、いい声)が、同じ空間を伝わって、耳より先に胸を震わせる。
 
 鶴松(吉田鋼太郎)、鶴松の長男正治(北島善紀)、鶴松の幼馴染み亀吉(星和利)、そして栗山(大塚明夫)といった、ベテランの役者に比重を置いた本なのだ、と感じて、なんだか嬉しかった。ただ、登場する女性達が、みな温かく優しく懐が深く、同じように描かれていることが、少し気になったのだけれどね。

 現代に続く三代記なのは、前作や前々作と同じなのだけれど、三代目が直面する孤独は、今回がいちばんシビアで、切なかった。ラストに近づくにつれ、健一のあまりの孤独さに、マダムも涙がこみ上げたの(鬼の目にも涙、とか言う声がどこかから聞こえる)。
  それは、作家がこの何年かの間で、希望をたやすくは語れなくなっている、ということなのではないかしら。その切実さ、厳しさがちゃんと作品の後ろにあるの。
 
 マダムは滅多に涙がこみあげることなんか、無いのよー。だからちょっと、やられたな、と思う。

 

毎年恒例?最後の観劇はおじさんの芝居で

 おじさんの芝居で一年を締めくくる癖がついてるのかしら。12月26日(土)マチネ、パルコ劇場。

『ツインズ』
作・演出/長塚圭史
出演 古田新太 多部未華子 りょう 石橋けい
   葉山奨之 中山祐一朗 吉田鋼太郎

 マクベスの演出で唖然として以来、長塚演出を敬遠気味だったマダム。今回は書き下ろしだし、古田新太と吉田鋼太郎を迎えて、ちゃんと(って、どういうことかわからんけど)やるよね、きっと、と思って観に行ってみた。パルコでは『Sisters』っていう佳作も作っているし、題名からして同じ系統の作品かな、と思って。

 幕が開くと舞台の真ん中に、多部未華子が一人で立っていて、エアピアノを1曲分披露するのだけれど、それが素晴らしかったー。何かすごく面白いことが始まる予感に、ゾクゾクしたの。
 ネタバレありなので、注意してね。

 舞台は、日本のどこか海辺の屋敷。原発の事故のせいなのか、核戦争後なのか、天変地異なのか、よくわからないけれど、海が汚染され、日本から人々は逃げ出しつつあるらしい。ハルキ(古田新太)は、娘のイラ(多部未華子)をオーストラリアに逃がすための金を無心するため、ずっと近づかなかった実家にやってくる。野球のバットを携え、出される食べ物を拒否して、身を守りながら。
 でも、屋敷に住む人々は、環境汚染のことなど気に留めていないの。平気で海で泳ぎ、海で取れた魚介類を料理して食べる。
 ハルキが、死にかけている父親と話したいと言っても、兄のリュウゾウ(吉田鋼太郎)を始めとして屋敷の誰も、本気で取り合わないし、金の話にも耳を貸さない。なので、やがてハルキはブチ切れて、バットを振るい、リュウゾウから無理矢理に金を取り上げようとするの。でも、イラは父親に反抗し、包丁でハルキの指を切り落とす。それをきっかけに、形勢は逆転して、ハルキは出された食べ物を口にし、すっかり屋敷に馴染んでいってしまう。
 病気の父親が死に、双子の赤ん坊が行方不明になり、電気も消えて、いよいよ終わりが近づいているようなのに、屋敷の人々は陽気なままでいるのだが・・・。

 というようなお話。家族のいざこざと、環境問題の二つがからみあっていて、なんだか上手く説明できない話なの。役者が皆上手い人たちなので、最後まで付いて行ったけれど、曖昧にされていることが多すぎるような気がした。もちろん謎を残してくれてもいいのよ。だけどさ。環境汚染の設定は、最近なんだかほのめかす舞台が多くて食傷気味だから、はっきり決めてくれ、とつい思ってしまって。現実の方がよっぽど衝撃的だもん。
 細部も曖昧なことがいっぱい。曖昧を狙ったというより、決めきれなくて曖昧になってしまったのかな、と感じられて。ハルキがどんな気持ちで実家と断絶してたのか伝わってこないし、バットで兄を襲うほどの気持ちがありながら、呆気なく屋敷に馴染んでしまう変化に、どうも納得いかないし。イラの行動も、多部未華子が魅力的なので見つめちゃうんだけど、何を考えているのか(あるいは考えていないのか)がわからなくて。ハルキの指が切られて飛んでも、大して大ごとにならずに過ぎて行くのは、皆がおかしくなっちゃってるってことなの? 
 ハルキとリュウゾウもあまり兄弟らしくなかった。仲が悪いなら悪いなりに、兄弟らしさってあると思うのだけど、それは感じられなかった。
 ラストは、こうなる以外に生き物として生きて行く方法はありませんよ、という長塚流の皮肉なのかな、と感じたわ。作家の中でラストははっきりしてたんだと思う。
 
 出だしが素晴らしかったわりには、納得いかないまま終わってしまって。面白くなかったわけじゃないんだけど、脳細胞の位置が入れ替わってくれたりはしなかったわ。
 「面白かった!」って、きっぱり言えることがこう少ないと、なんだか自分が退化してしまったのかしらと思えてくるマダムである・・・。

みんなが似てるっていうけど

 わざわざ記事を書くようなことでもないんだけど、ここ2年くらいコメント欄でみんなが言うので、みんなにお返事するような気持ちで書くわね。
 横田栄司が、吉田鋼太郎に似てきた!って、みんな言ってるでしょ?
 でも、マダムはみんなが言うほど、そうは思えなくて。
 ただ、そうおっしゃるのは、マダムがその眼力を信頼している方々なので、きっとそうなんだろうとは思うの。
 でも、何度も言うけど、マダムはあんまりそう感じない。
 なぜかしら?
 ここのところ、ずっと、なぜなんだろうって考えてたら、ちょっと思いついたことがあって。
 よくあることだけど、身内が似てることって、身内だけが自覚がなかったりするでしょ? おとうさんにそっくりですね、とか言われてもどうもピンと来なかったりすることあるじゃない? 関係が近すぎて、客観的になれないんだわね。
 それと同じようなことかしらと思ったの。
 マダムはあまりにも昔から吉田鋼太郎を知ってるので、脳が身内化してるのかもしれない。だから、横田栄司の演技が似てきたとみんなが言っても、よくわかんないのよ。
 まあ今回のアキリーズは、酔っ払った豪快な役だし、吉田鋼太郎の演じたフォルスタッフとか「海をゆく者」とかを思い出すと確かに、似ていなくもない。

 世代の違う役者なので、一概に比べられないのだけれど、本質的に違うところがあるとマダムは感じているの。
 吉田鋼太郎は、どんな役をやっても、その役の人を強くする(強くなっちゃう、とも言える)。
 横田栄司は、どんな役をやっても、その役の人を優しくする(優しくなっちゃうとも言える)。
 いろいろな役をやって、すっかり手練の役者になっても、その人の芯にあるものは隠せない。というより、いい演技をすればするほど、出てくるものなのだと思うわ。
 そこが好きって言えたら、それがファンだってことよね。

『黒鉄さんの方位磁針』を見る

 深い地下1階へ降りる真っ直ぐな階段にドキドキした。まだ、普通に降りられる年齢だとは思うけど。6月28日(土)マチネ、DDD AOYAMA CROSS THEATER。

劇団AUN 第22回公演
『黒鉄さんの方位磁針(くろがねさんのコンパス)』
作・演出/市村直孝
出演 吉田鋼太郎 大塚明夫 北島善紀 星和利
   坂田周子 林蘭 長谷川志 齋藤慎平 ほか

 1年ぶりのAUN公演。今年もシェイクスピアではなく、去年に引き続き、市村直孝の作品で、しかも今年は書き下ろしなのだそう。
 芝居が始まってしばらくして、何人かの役者の不在に気づいたわ。あ、そうか。谷田歩もいないし、横田栄司もいないのね。谷田歩は「アドルフ」地方公演中だし、横田栄司は「トロイラス」の稽古中。ということは勿論把握してたわけだけれど、芝居が回り始めて改めて、一抹の寂しさをしみじみ感じたの。劇団のファンになるって、こういうことなのね(横田栄司は文学座の人でしょ?っていうツッコミは甘んじて受けます)。

 ストーリーは、夜、ひとりの老人が、古い転車台(機関車の向きを変えるための設備ね)に迷い込むところから始まる。戦前から蒸気機関士として働いてきた彼、鈴木昭一(吉田鋼太郎)にとっては、そこは長年の職場で、懐かしい場所なの。年を取ってボケ始めている昭一が、闇に包まれた転車台に立ち尽くすと、様々な幻がたち現われては消えていく。
 幻は、ボケた老人の記憶で出来ているので、順不同だったり、切れ切れだったりする。子供の頃の幻と一緒になって、現在の昭一も、走ろうとしたり、大声をだしたり、砂利の中に埋もれたりして、危ないこと甚だしい。でも、幻の中に入り込むと、心は子供になってしまうので、老いた身体を置いてきぼりにしちゃう。マダムはまだボケたことはないけれど、なんだか凄く、昭一の身に起きていることが理解できて、納得してしまったの。あー、こうやって、ボケた人はどんどん遠くまで行っちゃうんだ。走ろうとして転んだり、どっかから落ちたり、迷子になったりしちゃうんだ。だけどその人の中では、自然な行動なんだ。(もちろん、それを推奨してるわけじゃあないのよ。ただ、腑に落ちたの。)

 切れ切れの幻が、次々展開して、昭一の来し方が、だんだん形になっていく。1週間しかなかった昭和元年に生まれたから、昭一と名付けられたこと。父は、日露戦争で不具になって以来、飲んだくれていて、生活は苦しかったこと。知り合いに蒸気機関士がいて、憧れていたこと。東京から来たお金持ちの家の子とも友達になり、一緒に蒸気機関士になることを夢見たけれど、彼の父親は職業軍人で、彼もまた軍人となり、やがて戦死してしまったこと。憧れた蒸気機関士のお兄さんも、徴兵されて、戦地へ行くことになったこと。別れの日、昭一たち兄弟は、彼に方位磁針を渡し、生きて帰ってくれることを願う。「これがあれば、何処にいても、日本の方角が分かるから、帰ってこられるね」と言った彼は、しかし、遂に戻っては来なかったこと。その方位磁針を預かった人は帰還を果たし、昭一に返してくれた。だから、ボケ老人となった昭一のウェストバッグの中に、今も方位磁針が入っていること(でも、彼はそれがどんな大事なものだったかが、もう思い出せない・・・切ない!)。
 
 老人の見る幻を繋いで彼の生きた戦争の時代を描く、という狙いはなるほどと思ったし、ひとつひとつのエピソードは温かで、面白く観たわ。昨年よりテーマをストレートに打ち出してきたのは、やはり今だからこその作家の切実さの現れよね。ただ、数珠つなぎのような運びに、途中少し飽きてしまうところもあったのだけれど。
 感動は、ラストにやってきた。念願かなって蒸気機関士となった昭一は、戦争中も、ひたすら機関車を走らせてきた。そして8月15日、終戦を迎えたその夜も、同じように機関車を走らせる。すると、その眼前には、長いこと見ることのなかった光景が広がるの。それは、町の灯り。灯火管制が長かったので、暗闇を走ることに慣れていた彼は、こんなにも沢山の人たちが暮らしてたのか、と気づき、涙しながら運転するの。照明など使わなくてもよかったんじゃないかと思えるほど、役者の台詞だけで、光景が浮かんだのよ。ちょっと、鳥肌だったー。
 
 昨年の『有馬の家のじごろう』と比べてしまうと、少々不満は残る。いちばん違ったのは、人物が皆、いいひとに描かれちゃってること。客観的な、視野の広さが足りないように感じられたの。
 
 最後、記憶のほとんどを失い、「あなたは誰ですか・・・」と立ちすくむ吉田鋼太郎の姿を見たとき、瞬間的に「あ、リア王がいる」と感じたマダム。そう言えば、娘が3人いる設定だったね。
 なので、また吉田鋼太郎のリアが観たいです。マダムの希望を宣言しておくわ。
 

ミュージカル『デスノート』を観る

 どこまで続く浦井詣で。4月18日(土)マチネ、日生劇場。

 
『デスノート』THE MUSICAL
音楽/フランク・ワイルドホーン 演出/栗山民也
歌詞/ジャック・マーフィー 脚本/アイヴァン・メンチェル
翻訳/徐賀世子 訳詞/高橋亜子
出演 浦井健治 小池徹平 濱田めぐみ 鹿賀丈史
   吉田鋼太郎 ほか


 久々に、カッコイイ浦井健治に会え、いい声の歌が聴けて、幸せだったの。前回のミュージカルは余りにでたらめ過ぎて、いい声に聞き惚れることすら許されなかったからね。それに比べたら、随分ちゃんとしてた。ああ、ホントにいい声だわ。台詞から歌への変わり目に不自然さがないし。浦井ファンとしては、とりあえず満足したんだけど、これが呼び水となって中毒症状が再燃しちゃって。歌声が聴きたくて聴きたくて、久々にStarSのCDを大音量で、かけてしまうマダム。
 でも『デスノート』、1本の芝居としては、どうなのかしら・・・? もともとミュージカルにさしたる思い入れのないマダムとしては、ミュージカルの作り方ってものにも、ちょっと疑問がわいたりしてね。
 
 名前を書くと、名を書かれた人間が死ぬという死神のノートを拾った高校生の物語。
 ある日、夜神月(やがみらいと、と読む。浦井健治。かっこいい!)は、死神がふざけて落としたデスノートを拾う。ノートの効力に半信半疑の彼だったけれど、誘拐犯の名前を書いてみたら、事件が解決して、本物なんだと確信する。正義感あふれる彼は、凶悪事件の犯人の名前を次々に書き、勝手に処罰を加えていく。そしてだんだん、自分の全能感に酔いしれていくの。
 一方、想定外の犯罪に手を焼いた警察は、秘密の捜査官(インターポール?いまいちよくわかんないけど)L(える、小池徹平。好演!)に捜査を依頼する。果たしてLは、らいとと同じ年齢の、天才捜査官だった。Lは徐々に、らいとに迫ってきて、二人は互いを知るようになり、ライバル視して、対決していく・・・。
 と言うようなお話。なんだけど、こうやって書いてみると、やっぱり相当荒唐無稽なお話よね。こういう大嘘をつくためには、細部に嘘をつかず、なおかつ圧倒的な勢いってものが要る。
 それなのに、細部の詰めは甘い。

 藤原竜也主演の映画を見た時にも思ったのだけれど、警察幹部である父親が、脇が甘すぎるし。いや、彼だけじゃなくて、刑事、みんな頭悪過ぎ。
 らいとが凶悪犯の名前を調べるところまではまだしも、FBIの人物に遭っちゃえたり、その人物が思いきりマヌケだったりするし。
 Lが天才だっていうのも、イマイチ具体的にわからないし。
 いくらマンガ原作でも現代の設定で、あんなふざけた拷問シーンありなの?と思うし。
 ツッコミどころがいっぱい。
 いっそのこと、新感線みたいなノリで突破しちゃえばよかったのかもしれないよ? そうしたら細部の詰めなんかどうでもよくなるし。死神だってフライングでぶんぶん飛び回っててもよかったのかも。
 
 それにね、観終わって思ったのは、これは死神リュークが主役なの?ってこと。だって、物語全体が吉田鋼太郎に喰われちゃってるでしょ。
 リュークは狂言回し。「エリザベート」で言えばルキーニみたいな役なの。それなのに、観終わったとき、主役になっちゃってるのは、どうしてなんだ?
 もちろん、客の眼を惹き付けることにかけては一日の長があることは当然よ。だけど、これは吉田鋼太郎の演技が上手いからとかいう問題じゃなくてね。それからマダムが注目して見ていたから、ということでもなくてね。
 たぶん、本を書いた人と演出家の両方とも(無意識に、かな)この物語の中でいちばん肩入れしてるのが死神だからなのよ。
 ダメじゃん、それ。らいととLの二人の方の物語に肩入れしなきゃ。
 
 だけどだけど、マダムがいちばん文句言いたいのは、女優のキャスティングよ! なんでみんな、ああいう甘ったれた喋り方しかできないの? 出てくる若い女優、なんで揃いも揃ってべたべたしたガキみたいな女の子なの? 世間ではそんな女の子はごく一部。なのに、舞台の上は、そんな子ばかり。気持ち悪いったらない。それにね、らいとが浦井健治なら、ちゃんと浦井健治の妹に見える人をキャスティングしてちょうだい。映画なんかのキャスティングだったら、こんなこと基本でしょ? ミュージカルになると、基本は忘れられちゃうの? おかしいでしょ。責任者、出てきなさい。
 死神レム(濱田めぐみ)しか、まともな女性が出てこないのって、ふざけてる。
 
 書いてみたら、凄く不満だったことに気がついたマダム。
 でもこれは、ひとえに、浦井愛ゆえだわ。
 浦井健治の舞台への期待は、ものすごーく大きいの。彼の中には無尽蔵のエネルギーが埋蔵されてる。彼の中の扉を開いて、そのエネルギーをもっと放出させるような舞台を求めちゃう。だって、去年の彼のミュージカルは、『シャーロック・ホームズ』と『アルジャーノン』だもん。どっちも素晴らし過ぎて倒れたのよ。また、ああいうふうに倒れたいっ!
 今回は倒れることができなかったので、しょうがない。しばらくは、StarSのCDを大音量で聴くことにするわ。

今年最後の1本 『海をゆく者』

 おじさんばっかの芝居で今年を締めくくることになった。12月23日(火)マチネ、パルコ劇場。

『海をゆく者』
作/コナー・マクファーソン 訳/小田島恒志
演出/栗山民也
出演 小日向文世 吉田鋼太郎 浅野和之
   大谷亮介 平田満

 
 5年前の初演を見逃しているのだけれど、友人からお墨付きをもらっていたので、穏やかな期待を胸に、席に着いたの。
 そうしたら、客席全体も同じ空気に包まれていて。出演者の顔ぶれに合った、落ち着いた雰囲気の客層で、パルコ劇場全体がなごやかな空気だったの。(最近よく思うけれど、芝居って客が作る部分も大きいよね?) そんななか、さりげなく静かに幕が開いて、芝居が始まった。

 セットは、半地下の大きなリビングルーム。奥に玄関に通じる階段があって、踊り場には窓があり、差し込む光の弱さが、いかにもアイルランドの冬らしいの。リビングには大きなソファやテーブル、不揃いだけど椅子が幾つも置かれていて、黒光りする薪ストーブもあり、居心地良さそう。でも、汚い。散らかってる。この部屋の住人リチャード(吉田鋼太郎)は、眼が見えなくて、杖をついていて、しかも大酒飲み(はっきり言ってアル中)なので、部屋は酒まみれ、反吐まみれの汚れ放題なのよ。
 そんな実家になぜか帰ってきた弟のシャーキー(平田満)は、悪態をつく兄に悪態をつき返しながらも、部屋を片づけ、食事の用意をし、兄のコップに飲み物を注いでやるの。そして自分は決してアルコールを口にしない。
 リチャードの友人アイバン(浅野和之)も、眼の見えないリチャードに優しい。迷惑をかけられつつ、一緒にウィスキーを飲む。恐妻家で、いつもびくびくしているわりに、ウィスキーを一口飲むと解放されたような笑顔になる。彼もまた違うタイプのアルコール中毒なのよね。
 そしてクリスマス・イブの夜、シャーキーが嫌っているニッキー(大谷亮介)と、ニッキーが酒場で出逢った謎の紳士ロックハート(小日向文世)がやってきて、酔っぱらい達のポーカーが始まるの。飲み続け、煙草をふかし、くだを巻き、有り金を賭けてカードに興じるうちに、ロックハートが何者で、何を狙ってやってきたかが明かされていく。それとともに、登場人物の中で最もまともな男として描かれてきたシャーキーが、実はいちばん闇を抱え、ギリギリのところに立っていることが見えてくる・・・。
 
 芝居はとてもオーソドックスで、時間は一方向にしか流れないし、いまどき珍しい新劇的リアリズムな演出。しかも起伏が少ない物語。どちらかと言えば暗いお話かもね。けれど、これが実に心地良く沁みてくるのよ。作りこまれた渋いセット、気づくと夕闇が部屋の中へ入り込んでくるような照明、遠くで唸るような風の音が聞こえる音響効果、そしてなによりも5人のベテラン俳優達の、余計な力を排した(これ、重要)熱演が素晴らしいよ。吉田鋼太郎の甘えをたっぷり含んだくだの巻き方や、浅野和之のウィスキーをあおった時に眼の中に宿るハート形の光や、小日向文世の床を滑るような不思議な千鳥足が・・・楽しくて、観る側に、緊張を強いないの。本当のいい芝居は、客を疲れさせないのね。一見どうでもいいような言い合いやくだらない出来事のエピソードが、いちいち面白くて、眺めてるうちに、4人+ロックハートの人間関係が飲み込めてしまう。
 
 お話は、ギリギリのところに立っていたシャーキーが、救われるところで終わる。その救われ方は、ひょんな偶然のように描かれながら、実は必然なんじゃないのかしら?と観終わって思うのよ。この、どうにも淀んだような兄弟の関係や、生まれた町の人間関係が実は、シャーキーを救ったってことなんだとマダムは受け取ったの。
 そうしたら、なんだか幸せな気持ちになって、劇場をあとにできたんだった。
 おじさんばっかの芝居で今年を締めくくっちゃった。これもまた、マダムらしいわよね。

大人の男の格好良さ 『ジュリアス・シーザー』その2

 少し冷静になってきたような気がするので、芝居全体について考えてみるわ。
 ずいぶん昔に小田島訳を読んだけど詳細は忘れ、昨年こどものためのシェイクスピアで編集版を楽しく観た記憶が大きいせいか、今回、あれ?「ジュリアス・シーザー」ってこんな芝居だったの?って思うところがいくつかあって。
 
 まずは意外なほどシーザーがおびえているところ。権力者って、登り詰めたらいつ転落するかを考えるようになるのは世の常だけど、シーザーは王になる前に既におびえているんだよね。
 「3回王冠を捧げられたのに、3回とも払いのけた」って何度も出てくる逸話をマダムは最初、シーザー(とアントニー)の策略だと思っていたの。そうやって、自分は野心なんかないんだよーって皆を安心させとこう、っていうね。だけど、不吉な夢を見たり、占い師の予言に一瞬たじろいだりする横田シーザーを見てるうちに、あながち策略とも思えなくなってくるのね。
 ほとんど王に等しい権力を握ってても、ホントに王になることは、周りにとって脅威だし、本人にとっても、それを手にした時のおのれの変化が想像できずにたちすくんでる、という印象だったわ。最後の段を登ったら、もうそれ以上一段も上がることがない、そこでたじろぐ。シーザーは意外と繊細な人として描かれてるの。
 
 それから、あまりにも有名な演説のシーン。
 マダムは最前列だったから、ホントにローマ市民たちの中にすっぽり入ってしまって、間から顔を出してる野次馬のローマのおばさんみたいになってたの。臨場感は申し分なかったんだけど、阿部ブルータスと藤原アントニーの演説は、鮮やかに対照的、というわけではなかった。ふたりとも押し出しよくてかっこよかったんだけど、ほんのすこーしずつ足りないものがあるような気がしたわ。蜷川演出はビジュアルは申し分ないんだけど、台詞の言い回しは役者の力量にまかされてるところが大きいの。でもこの演説だけは、もっともっと細かくしつこく演出してほしかったな。どこがって言えないんだけど・・・強いて言えば、ブルータスも市民を前にしたらもっと必死さがあってもいいし、アントニーにはもっと情に訴える浪花節な感じがあってもよかったんじゃないかな。楽日へ向かっていくうちにそんな風になっていくかしら。
 結局、二人の演説競演の雌雄を決したのは、アントニーの能弁というより、シーザーの遺体だった。これ、効果抜群。アントニーが、シーザーの顔を覆っていた布を取り去るタイミングが、絶妙すぎる。あんなふうに血だらけのシーザーの顔を見たら、みんな「誰だ、こんな惨いことをしたのは!」ってなるよね〜。市民にシーザーの遺体を見せることを認めるなんて、ブルータスってどんだけお人好しなの?って思っちゃった。

 そして芝居の印象を決める後半、ブルータス陣営VSアントニー陣営の戦闘になっていくんだけど(そしてホンの一瞬しか見せてくれないんだけど、藤原竜也の殺陣のキレが際立っていた!)、またまた意外にも、物語の本筋はそこじゃなくて、ブルータスとキャシアスの男同士の関係をフォーカスしてるの。
 ブルータスとキャシアスは共通の敵シーザーを倒したあと、方針の違いがどんどん顕在化して、仲間割れ寸前の喧嘩になる。椅子だの机だのが宙を飛び交っているうちに吉田キャシアスまで宙を飛び、観ている方まで痛いくらいの大喧嘩のあと、二人は和解し、ともに戦うことを誓うのだけど、そこには既に死の影が忍び寄ってる。戦いの前に死を覚悟したキャシアスとブルータスは、別れの言葉を口にして、抱き合い、出陣していく。
 二人の男の、喧嘩と和解、友情、死出の道行きに引き込まれて見ていたマダムの脳裏によぎったのは、高倉健と池部良の姿。(ごめんなさい、読んでる方のほとんどがわからないようなたとえで。マダムもリアルタイムでは見ていない東映任侠映画。)なんていうか、痩せ我慢の美学。女は絶対入り込めない、男同士の熱い関係。
 でもシェイクスピアって醒めてる人だから、すべてを格好良くは終わらせないのよ。キャシアスは、負けてないのに負けたと思い込んで自害しちゃうの。最後の最後まで人間臭いキャシアスで、吉田鋼太郎の面目躍如。(だから、キャシアスはいい役だよ〜って言ったでしょう?)
 あー、面白かった。ワクワクドキドキ、興奮のるつぼの3時間だったわ。
 大人の男たちが格好良い舞台。ありそうで意外とないのよね、これが。

大人の男の格好良さ 『ジュリアス・シーザー』その1

 台風が遅れてくれてよかった。10月12日(日)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第29弾
『ジュリアス・シーザー』
作/シェイクスピア 訳/松岡和子
演出/蜷川幸雄 演出補/井上尊晶

 最近、楽しみ過ぎてテンションがおかしくなったまま観劇の日を迎えることが多くなってる。
 『ジュリアス・シーザー』もそう。衣装をつけた稽古場写真を雑誌で見ちゃったら、格好良過ぎて倒れそうになり、そのうえ本物からコメント来ちゃったりしたから、もうテンションうなぎ上りで。
 さらにチケットを改めて見たら、なんとB席。2列目だわ、すご〜い。って、劇場に行ってみたら、A列は存在してなくてB列が最前列であることを知ったの。絶句。
 階段状に組まれたセットは、マダムの足元まで切れ目なく伸びていた。なので、開演するなり林檎が転がり落ちてきてマダムのブーツに当たったのを皮切りに、1.5m先の吉田キャシアスと目が合いそうになったり、藤原アントニーの翻したマントが触れそうになったり、戦闘シーンで槍が頭上を通過したり、臨場感なんてもんじゃなく、臨場そのもの。特にシーザー暗殺の場面では、噴き出した血しぶきの宙を飛ぶ動線がありありと見え、キャーッと悲鳴をあげそうになってしまったくらい。
 なので、このレビューは、全然冷静じゃありません。そのつもりで、読んでね。

 とにかく、男たちがメッチャ格好良かったー。
 しょっぱなのシーザー、アントニー、ブルータス、キャシアスが揃ってるシーンは、もう眼福〜!! なんなの、あの格好良さは!純白の長いガウンのような美しい衣装。裾を翻して歩く大人の男の格好良さ。最近若いイケメンをそろえた芝居がいろいろあるけど、そんなの目じゃないわ。イケメンでも演技力の伴わない奴なんか、見なくて良いの。
 注目の横田シーザーは、貫禄充分。堂々のタイトルロール。凄く大きく見え、歩き方も重厚感みなぎってた。演技の大きさもそうなんだけど、実際かなり体重を増やして臨んだのではないかしら。もともと背の高い人だけど、横にも大きくなってて、どっしりした体躯とメイクがあいまって、これまで見たことのない横田栄司だった。タイトルロールだけど実は出番が多くはないので、現われただけで圧倒的な存在感を示さなきゃならない。精神的にも肉体的にも、何人もの男たちが寄ってたかってかからなければ倒すことのできない巨大な存在だってことを、体現してたわ。
 藤原アントニーは、ああ、やっぱりこの人は舞台の人、と思わせるオーラがあった。実はマダムは彼のシェイクスピアを見るのがほとんど初なの。ロミオもハムレットも映像でしか見てないし、ドーラン版ヴェニスはマダムの中ではカウント外なので。シェイクスピアの世界がとても似合う役者、と改めて思ったわ。それも、恋愛ものではなく権力闘争ものが実は向いてるのかも。金色の髪で白い衣装の裾をなびかせて歩く姿を、眼が勝手に追ってしまう。自分が舞台に出て行った時にはみんなが自分を見ていると、信じて疑ったことのない人のオーラなのよね。
 阿部ブルータスは、鍛えた身体が美しくて。台詞術はまだまだだけど、ブルータスの愚直さ、正しいことを求めてはいるけど人の心をわかってない武骨なところが、立ち姿に表れてて、ぴったりなの。
 そして吉田キャシアス。熱情あふれる男を演じると、この人は水を得た魚のよう。キャシアスが立っているだけで、不満が躯に充満しているのがわかるし、口を開けば、言葉の意味を何倍にもして手渡してくれる。キャシアスは物語を牽引していく役だけれど、役以上に、吉田鋼太郎がこの芝居をぐいぐい牽引していくのが、手に取るようにわかったの。
 
 芝居全体についてはその2で、ね。

劇団AUN公演『有馬の家のじごろう』を観る その2

 聞いたこともない作家市村直孝だったんだけれど、沢山の登場人物を描き分け、捌ききったホンと演出は見事だった。
 一番凄いのは、明治の始めから太平洋戦争の時代、そして観ている私たちの今が、ぜ〜んぶ、つながっているんだな〜と感じさせる、俯瞰したまなざしよ。素晴らしい!
 明治維新ものって盛んにドラマの題材にされてるけど、あれは遠い歴史ではなくて、現在の私たちの立ち位置に直接的な関係を持っている。その意味に気づき始めてる人はけっこういるんだと思うのよ。(長塚圭史の「あかいくらやみ」なんかはその辺りを描きたくて上手くいかなかった例だわね。)私たちが今ここにいて、楽しく芝居なんか観ているのは、ひいおじいさんとかひいおばあさんとか、おじいさんとかおばあさんとかが、生き延びたから、なんだよね。一瞬のひと旗あげることより、生き延びることこそが歴史を作ると知らなければ。
 というようなテーマを、理屈ではなくて、生活と人生を描く中で浮かび上がらせた『有馬の家のじごろう』を皆に観てもらいたかったけど、公演期間は短くて。終わってしまってる。宣伝できないのが残念。やっぱり初日に観て、翌日に劇評を読んでもらうくらいのことができなきゃね。猛烈に悔しいわ。
 
 マダムの涙腺は、少しばかりひねくれているらしくて、まわりのマダム年齢の人たちが、泣いてるところでは、泣かなかった。藤太が、三男の形見を持って帰還したところとか、新三郎がおじいさんに「生きて帰れ」って言われるところとか。もちろん、心揺さぶられているのよ。いるんだけど、涙はでないの。
 マダムがうるっときたのは、まだ芝居の半分くらいのところ。
 新五郎(吉田鋼太郎)の妻は、芝居の始めから寝たきりなの。舞台の下手は、別の部屋という設定になってて、ずっと病人が布団に横になってる。彼女は、寝たきりで動けなくて、言葉も発することが出来なくて、意思表示もほとんどない。そんな妻の世話を、息子たちには手伝わせず、新五郎が全部している、というような台詞があって。でもそこまでは、ただの台詞に過ぎないんだけど。
 芝居の中頃、新五郎が妻の病室に行って、「少し起き上がってみるかい」みたいなことを言いながら、妻の背を起こし、膝に抱くようにして、しばらく話をする場面。新五郎の手の動きがあまりにも優しくて、目が釘付けになった。なんていうか、生まれたばかりの赤ん坊を世話するような優しい、柔らかい、行き届いた手つきなの。その手を見ていたら、なんだか凄く泣けてきて、目の前がぼやけた。
 この芝居で、手を触れる、相手の躯にさわるってことは、深い意味があるなあ、と感じたわ。それはずっと、シェイクスピアをやってきた劇団だからなおさら、感じたのかもね。シェイクスピアは会話をぽんぽんやりとりして進む芝居だし、感情の動きが激しいし、なにより出てくるのは全員外国人だもんね。抱き合ったり、肩を組んだり、頬にキスしたり、スキンシップのオンパレードになる。
 そこへいくと、日本人の生活の中では、スキンシップは凄く抑制されている(日本の男たちは、肩を抱き合う代わりに、酒を注ぎあうのかしら?もしかして)。妻を介護するシーンも、新三郎が祖父から「生きて帰れ」と頭を撫でられるシーンも、手を触れることが、特別な愛を示すことなんだと感じられた。
 
 一昨年、劇団AUNの番外公演で別役実の『マッチ売りの少女』を観て以来、シェイクスピアじゃなくてもいい芝居を見せてくれることがわかっていたんだけれど、今回はそれを本公演で証明したのね。
 これからは何が選ばれても、躊躇せずに観に行くことにしようっと。

劇団AUN公演『有馬の家のじごろう』を観る その1

 夏バテしてたので、ぼーっとしちゃうかもしれないと恐れてたんだけど、杞憂だったわ。8月23日(土)マチネ、池袋シアターグリーンBIG TREE THEATER。

劇団AUN第21回公演『有馬の家のじごろう』
作・演出 市村直孝
出演 吉田鋼太郎 横田栄司 大塚明夫 北島善紀
   星和利 千賀由紀子 林蘭 谷田歩 ほか

 今年はシェイクスピア生誕450年に当たるので、色々な劇団が意欲的な企画を立ててる。AUNは何を持ってくるのかなと、マダムは夏の予定を空けて、待っていた。
 そしたら、聞いたこともない作家の、聞いたこともない作品をやるっていうじゃないの。だから、言ったことじゃないわ、某公共放送の朝ドラなんかに出たせいで、吉田鋼太郎は演出する時間が無くなっちゃったに違いない。役者としてだけじゃなくて演出家として、マダムは吉田鋼太郎に凄く期待してるのに。1年にたった1回しか演出しないので、首を長くして待ってる、っていうのに!
 とまあ、口の中でブツブツ言いながら、結局は劇場へ出かけていったマダム。
 入り口でもらったパンフレットの座長(吉田鋼太郎)挨拶を読んで、襟を正したの。

今回はShakespearをやりません。勿論、又Shakespearもやりますが、今回は、どうしてもこれをやりたい!Shakespearを押しのけてでもやりたい!と思ってしまったわけです・・・・・

なんだって。へええ、そうだったのね、そこまでの覚悟なら、こっちも気合い入れて観なくちゃ。と思っただけで夏バテはどこかにふっとんだ。ただの気分の問題だったのかも。
 

 最初に現在(と思われる)の有馬酒造の若社長、新三郎が出てきて、代々、鹿児島でイモ焼酎を作っているという自己紹介があって、明治時代に有馬酒造ができたいわれについては、自分が小さい頃、おじいさんがいろいろ語ってくれたっていうのね。そして舞台上には、明治の頃の有馬家が現れて、話が始まる。だけど、新三郎のおじいさんに当たる人が誰なのかは、はっきりしない。とにかく沢山の男たちがどんどん登場するので、わからないっていうのもあるけれど、最初にそれを明かさないところが、この芝居のミソ。
 仕出し屋をしている有馬家当主新五郎(吉田鋼太郎)には、4人の子供がいる。そのほかに隣家の、既に両親をなくしている藤太(横田栄司)を、我が子のように面倒をみている。藤太の祝言を、有馬家の座敷で開く場面から芝居が展開していく。
 明治の世になってまもない、鹿児島の片田舎。政府の方針からはずれた西郷隆盛が鹿児島に戻ってきている、という噂だけで、皆どこか浮き足立っているのね。有馬家の息子たちも、隣家の藤太も、世の中が動いている(らしい)のに自分だけ蚊帳の外のような気がしている。そこへまた、ときどき、旅人が現われて、やれ東京で蒸気機関車が走ったの、やれ国の新しい軍隊が出来るのと、さらに浮き足立つような情報を置いていくもんだから、若者たちは、時代が動くのに参加したいと、一人また一人と田舎を出て行ってしまうの。でも彼らが「一旗揚げる」ためにどこに行くかと言うと、軍隊しかない。
 

 とにかく、たっくさんの登場人物。新五郎がいて、寝たきりの妻がいて、口のきけない長女みつ(長尾歩)、長男信一郎(長谷川志)、二男伸次(谷田歩)、三男信吾(齋藤慎平)。藤太の妻やよい(千賀由紀子)、藤太の妹ちよ(佐々木絵里奈)もほとんど有馬家の一員みたい。周りを囲む人たちも次々登場する。説明台詞なし、説明字幕もなしで、一人一人の性格も思いもちゃんと描かれながら、話が進んでいく。ホンが上手い。
 
 若者が出て行って、新五郎のもとに残るのは、寝たきりの妻と、口がきけないので嫁にいけない長女のみつと、下戸で勇気のない二男の伸次なの。まわりじゅうがとんでもない酒飲みの中で、下戸ほど辛いものはない。酒を酌み交わして腹をわった(気がしてる)付き合いのなか、疎外感ハンパないんだから。焼酎が自分ちの売り物なのに、味わえないわけだし。かといって、外へ出ていって一旗揚げようとかいう上昇志向もないの。口癖は「俺はでく(のぼう)だ・・・」そして、ボケ始めた父親はときどき、伸次が誰なのかを忘れるようになる。だけど、それすら伸次は黙って耐えるだけなの。
 時が経ち、藤太は片腕を失って帰ってくる。でも、有馬家の長男は西南の役で反乱側で死に、三男は官軍側で死んでしまう。
 このあたりでやっと、物語の語り部新三郎の、おじいさんにあたるのは伸次なのだとわかってくる。新三郎は、夢のような明治の物語に足を踏み入れていく。そしてまだ若い姿の伸次に、孫として頭をなでられ、「生きて帰れ」と言われる。生きて帰れ?生きて帰れって、なんだろう・・・とマダムが思った次の瞬間あたりから、舞台は怒濤のように展開して、あれよあれよというまに、新三郎には赤紙(太平洋戦争のときの召集令状ね)が来て、赤紙を読む新三郎の後ろでは、生き残った伸次と藤太の妹ちよの祝言のため、また沢山の人たちが集まってくる。祝言に始まり、祝言に終わる物語は、これから戦争に行く新三郎の夢のようでもあり、幻のようでもあるファンタジーだったのよ・・・。
 ストーリーを語るだけでこんなに長くなってしまった。
 マダムがどこで泣いたかは、その2で。

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