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吉田鋼太郎

2019年9月 8日 (日)

『アジアの女』は何を目指すか

 いつまでも工事中の街、渋谷。ちょっとうんざりする。9月7日(土)ソワレ、シアターコクーン。
 
『アジアの女』
作/長塚圭史 
演出/吉田鋼太郎
出演 石原さとみ 山内圭哉 矢本悠馬 水口早香 吉田鋼太郎
 
 始まったばかりなので、これから観る人が殆どだよね?
 観てから読むことをお勧めします。
 
 


 シアターコクーンの長塚作品とマダムとは相性が悪い。それはもう、重々承知なので、今回も迷ったけれど、なんといっても吉田鋼太郎演出と聞いて、行くことにしたの。
 吉田鋼太郎がシェイクスピア以外を演出するなんて・・・と意外に思う人もいるだろうけれど、マダムはかつて吉田演出の別役実作品を観たことがある。それは実験的に、小さな小屋で上演されたのだけれど、抜群に面白かった。何が言いたいのか掴みにくい別役の戯曲なのに、瞬間瞬間が面白くて、目が離せなかった。
 なので演出力については信頼してて、今回も出かけて行った。マダムの長塚作品に対する苦手意識を、少し変えてくれたりするかも、と期待して。
 それで、結果はというと・・・予想を遥かに超えて、退屈だった。がっかりした。
 これ、やっぱり、本が、ダメなんじゃん?
 ホントにマダムと相性が悪いだけなん?
 
 地震と原発事故後の被災地、らしい。(でも、設定は東京・・・? 近未来の設定かな)
 家の後ろ(舞台奥)には巨大なフレコンパック(放射能汚染土を詰めたやつ)がうず高く積み上げられてて、空が見えない。絶対避難しなきゃいけない地域なのに、崩れかけた家に、住み続けてる兄妹のお話。
 麻希子(石原さとみ)は、無垢な、少女のような女で、精神を病んでいる。いつまでも芽の出ない花壇に水をやり、床下に「お父さんがいるから」と言って、ロープで食べ物を降ろす。花壇になんの種を蒔いたのか、そもそも本当に種を蒔いたのか、誰も知らないし、床下に降ろした食べ物はネズミの餌になっているらしいのだけれど、誰も指摘したりはしない。
 麻希子の兄晃郎(山内圭哉)は、働かず、崩れた家の中で酒ばかり飲んで過ごしてるんだけど、妹のことだけは大切にしているらしい
 食べ物は、配給制で、チケットがないともらえないし、水も出ない。麻希子にベタ惚れの警官(矢本悠馬)が、毎日、水のタンクを運んできてくれて、なんとか暮らしている。
 そこへ晃郎が編集者時代に担当していた、才能のない作家一ノ瀬(吉田鋼太郎)が押しかけてきて、居座ってしまう。一ノ瀬は、晃郎をけしかけて、何か自分に書かせろと迫る。
 ある日、麻希子は、兄の心配をよそに出かけて行って、鳥居(水口早香)という女と出会う。鳥居は被災地の人々を癒すためのボランティア活動を進めていて、麻希子を誘う。しかしボランティア活動とは名ばかりで、実態は売春らしい。しかも鳥居は、麻希子から売り上げのかなりの金額を巻き上げていく。
 鳥居や、一ノ瀬や、警官の話から、被災地には派閥ができ、小競り合いがあったり、中国人など外国人の集まりは差別されて、食べ物が行き渡らなかったりするらしいことがわかる。そして、そういった危険な地域に、麻希子は自分から出向いて行ってしまい、トラブルに巻き込まれ、殺されてしまう。
 ラストは、麻希子が水をやっていた花壇から、毒々しいほどの赤い花が開き、神々しい光に包まれて、赤いドレスの麻希子が舞台奥に去っていく。
 
 
 ごめん、ストーリー説明がうまくできない。話が有機的につながってなくて、登場人物の行動も動機がさっぱり見えなくて、何を考えたり感じたりしてるのか、マダムには理解不能だったの。読んでもらえばわかる通り「らしい」という言葉ばかり出てくるでしょう? 伝聞ばっかりで、観客の目の前では何も起こらないだもん。
 そもそも麻希子が見てるもの(花壇とか床下のお父さんとか)は、麻希子の狂気が生んでいる妄想なのか、この芝居の中ではそれが現実なのかがわからない。妄想だとして、兄は、それに話を合わせてあげてるのか、一緒に妄想の世界にいるのか、そこがわからない。麻希子が売春させられていることを、この状況で察知できない兄って、理解不能だし、なんで急に中国人の話になるのか、わからないし。麻希子が殺されるような危ない世界だったなんて、芝居からは全然伝わってこなかったから、めちゃ唐突。緊迫感、なかったもん。
 でも、これで麻希子が死なないと、話が終われないよね。
 で、一番がっくりきたのは、そのラストなのね。ダメな世界の救いを、無垢で美しい女に求める、最も安直な結末だと思う。しかも、目指す世界は、唐十郎みたいなものかと思うんだけど、比べたらイメージが貧困すぎるし、台詞にも「詩」がないし。ヒロインも、そのイメージを背負う力量が全くないし。石原さとみは、緑魔子でも李麗仙でもないしね。
 
 これ、チラシに初演は2006年、とある。ということは、3・11の前に書かれてるわけで、地震はともかく、放射能汚染については、今回加筆したのかな。演出で、設定を変えたのだろうか。
 フレコンパックのセットが生々しいわりに、話には殆ど関わってこなくて、原発事故をほのめかす必要があるのか、疑問だった。
 
 やっぱりシアターコクーンの長塚作品は、鬼門だったわ〜。劇場から逃げ帰ったマダムでした。 

2019年5月22日 (水)

AUN Age 旗揚げ公演『オセロー』

 浅草の街は、三社祭で賑わってた。5月18日(土)マチネ、5月19日(日)マチネ、浅草九劇。

 
劇団AUN Age.1『オセロー』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
監修/吉田鋼太郎 演出/長谷川志
出演 沢海陽子 橋倉靖彦 松本こうせい 谷畑聡 杉本政志 齋藤慎平
   飛田修司 桐谷直希 
河村岳司 悠木つかさ 水口早香 近藤陽子
  
 星和利 砂原一輝 松尾竜兵 
 

 観終わって最初に頭に浮かんだのは、「日本シリーズを経験するとキャッチャーはこれまでにない成長を遂げる」(©野村ヤクルト元監督)という言葉だった。
 野球をご存じない方のために補足すると、つまり、短期間であっても大舞台を経験すると選手はグンと成長する、ってことで、これは芝居における役者も全く同じなんだなあ、と感じたの。
 劇団AUNは、主宰の吉田鋼太郎が忙しくなってしまいシェイクスピア公演を打てなくなってきていたけれど、若手の演出家、長谷川志が育ってきて、Ageというシリーズを始めることになった。大歓迎!常に面白いシェイクスピアを求めているマダムにとっては僥倖だー。
 でも、いきなり、オセローとは、勝負に出たね。
 しかも、これまでAUNの舞台で主役クラスを演じていない役者たちを真ん中に据えて。
 
 
 
 雨が降っている。
 暗い夜、雨がそぼ降り、傘をさした二人の男が、ボソボソと不平不満鬱憤をつぶやきあっている。「オセロー」ってこんな始まりだったっけ? 不穏な感じに、一気に引き込まれる。とてもいい滑り出し。
 舞台上にはセットらしいセットはなく、したがって場面転換も必要なく、台詞のやり取りだけでどんどん進んで行く。悪漢イアーゴーの怨念こもった台詞に乗せられる。齋藤慎平のイアーゴー、屈折感ハンパなく、これまでの陽性の演技の下に隠れていた鉱脈を発見した気がした。台詞が嫉妬、逆恨み、言いがかり、悪巧み付きで、ビシビシ届いてくる(千秋楽は声が枯れてて、残念。喋りまくりだもんね、イアーゴー)。
 一方の谷畑聡のオセローは、静けさで、背後にある巨大な熱情を押しとどめていて、軍服の似合う屈強な男だった。彼の演技にはさらに驚いたよ。やはり陽性のイメージがあったので、真面目一点張りの静かな口調に、違う人かな?って感じるほど。台詞の運びと、激情に駆られる演技がまた、吉田鋼太郎にそっくり(そっくりなのは悪くない。そっくりなところまでできる技術が、すごい。その上にオリジナリティが乗ったら、どれほどになるかしら)。
 
 オセローは難しい芝居ね。四大悲劇の中で、いちばん難しいのじゃない? 日本では上演機会が少ないと思うし、マダムはこれまで観た(中継映像も含め)なかで、腑に落ちたことがない。なぜかというと、物語の背後にずっと流れているだろうオセローに対する「差別意識」を、観客が受け取れないから。日本人の観客が受け取れる演出に今のところ出会えない。差別意識の存在を受け取れないと、オセローがただ「騙されるバカなやつ」に見えてしまって、大きな悲劇にならない。
 オセロー自身は差別されるはずがない、という態度だし、実は隠れ持っているコンプレックスも、見えづらい。そのコンプレックスを突かれたからこそ、突然罠に落ちるんだけれども、コンプレックスの表現が難しい。
 今回もそこのところの演出はうまくいってなくて(ていうか、うまくいってる演出を見た経験がないんだけど、ありうるのかしら?)、オセローを演じる役者の、感情の振り幅だけに頼っている気がした。ホントに大変な役だよ・・・。
 
 一方で女たちの描かれ方はとても良かった!
 無実の罪を着せられて不幸のどん底に嘆くデズデモーナ(悠木つかさ)には、普段は泣かないマダムの眼にも涙が浮かんだし、デズデモーナに寄り添うエミリア(水口早香)とは一緒になって憤ることができたの。特に、デズデモーナが殺された後のエミリアは圧巻。命をかけてオセローや夫イアーゴーを糾弾する台詞が、本当に素晴らしくて、ぐいぐい揺さぶられ、心鷲掴み。
 シェイクスピアの台詞って、役者の気持ちがちゃんとそこに乗って届けば、こちらを揺さぶるようにできているのね。
 
 あといくつか、気がついたこと。キプロスの勝利の夜、男たちが足を踏み鳴らして踊るシーンが印象深く、そうか、この芝居は荒っぽい軍人たちの物語なんだって思って! 重要なことだ。血気盛んで、殺気立ってる集団のなかで起こる事件なんだね。
 それと、オセローがデズデモーナを絞め殺すベッドだけはセットがあって、薄明かりのついた(わざと見せる)暗転でベッドが運び込まれ、シーツをセッティングするのがイアーゴーなの。皮肉が効いてる演出で、好きだな。
 
 シェイクスピアはどんなアレンジも受け入れる懐の深さがあるけれど、基本は「台詞をどんなつもりで言ってるか」と「それを周りはどう受け取ったか」が表現できるか、それだけだし、またそれができてなければ、どんなアレンジも無駄なんだよね。AUNはその基本ラインを絶対にはずさないので、すごく信頼してる。
 Ageシリーズが次々、上演されるのを待ってます。

2019年2月24日 (日)

『ヘンリー五世』を巡るあれこれ 台本を切るということ

 今日、さいたま芸術劇場の吉田鋼太郎演出『ヘンリー五世』は無事、埼玉千秋楽を迎えた。まだ地方公演はあるけれど、一つの区切りと思い、この公演の周りで起きた論争について、マダムの私見を書いておきます。

 いろんな意見がSNSなどで飛び交っていたようなのだけれど、どうも、問題点が整理されずにごちゃごちゃのままだ。そんな中では意見が言いにくい。だからSNSではなくて、自分のブログで整理したい。
 問題は3つに分かれている。

 ①そもそもシェイクスピアの台詞を切っていいのか

 ②脚本を切るとき、誰が切るのか

 ③脚本を切るとき、どこを切るのか

 3つの問題はそれぞれ、全く別の問題なので、ひとつひとつ切り離して考えなければならない。

 ①について。
 これはもう言うまでもない。日本でシェイクスピアの公演をするどんな団体も劇団も、脚本を部分的にカットして上演してきた。新国立の『ヘンリー五世』鵜山演出版も勿論だ。俳優の実力の問題もあるし、予算もあるだろうし、目標とする上演時間というものがあるから。もしカットせずにやるとなったら、上演時間が4時間とか、5時間とか、6時間とかになって、観客が埼京線の最終に乗れない事態になったりする。そんなことが許されるのは蜷川御大だけだ。現存する演出家でそんな治外法権が認められてる人なんて、いない。
 だからどんな場合にも、脚本のカットはせざるを得ない。

 次に②について。
 これは最終的には演出家の専権事項である。どんな作品にしたいのか、その方向性に従って、脚本のカットを決めるわけだから。方向性が頭の中にあるのは演出家だから。ある台詞をカットしたとしても大丈夫だ、と判断できるのは、どういう演出でカバーできるかを知っている人だけだから。
 途中、周りの人の意見を聞いたとしても、決めることができるのは演出家だ。他にはいない。

 ①も②にも、議論の余地はない。なので、論争になるべきは③だけである。

 ③について。
 これはまず芝居を観てみなければ、その是非について話すことはできない。今回だって、出来上がったものを見て、マダムは演説がないことを寂しいと思ったり、一方で無くても成立していることに驚いたりした。台本がカットされている事実だけでは、なにも議論できない。なんのために、どこをカットし、その結果、芝居がどうなったのか、を考え、その上で、芝居を評価する。ある人は良い芝居だといい、ある人はダメな芝居だと言うだろう。そこで初めて議論ができるのだ。
 そしてダメな芝居だと言うなら、具体的に演出について考え、指摘しなければならない。演出家には演出家の考えがあって台本を変えたわけだから、そこをリスペクトしてものを言わなければ、ただの悪口だ。個人攻撃なんぞ議論の足しにはならない。ただの悪口なら聞かないでいい、議論しなくていいや、となるだけである。
 
 吉田鋼太郎という人は、もう40年もほぼシェイクスピア一筋でやってきた役者である。蜷川作品で多くの人に知られるより前に、シャイロック役で紀伊國屋演劇賞個人賞も取っている名優であり、自分の劇団で20年近くシェイクスピアの演出を続けてきた演出家でもある。
 そういう人が、なんの考えもなく思いつきで、台詞を切ったり貼ったりするわけないではないか。まずはその考えがなんなのか、探ってみようとするのが批評の第一歩なのではないのか。
 なぜこんなあたりまえのことを、市井でちまちまとブログを書いてるだけのマダムが言わなければならないのだ。
 
 そして言いたいのは、観客一人一人がそれぞれ芝居から受け取ったものについて、誰も他人が否定することなんかできない、ってこと。
 みんな、自分が感じ取ったことを大切にして。批評するにせよなんにせよ、それがスタートだよ。

2019年2月20日 (水)

『ヘンリー五世』二回目観劇の驚き

 初日から1週間が経った。2月16日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。
 

彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾『ヘンリー五世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/吉田鋼太郎
出演 松坂桃李 吉田鋼太郎 溝端淳平 横田栄司 中河内雅貴 河内大和
   間宮啓行 廣田高志 原慎一郎 坪内守 松本こうせい 長谷川志
   鈴木彰紀 竪山隼太 堀源起 續木淳平 髙橋英希 橋本好弘 
   大河原啓介 西村聡 岩倉弘樹 谷畑聡 斎藤慎平 杉本政志 山田隼平
   松尾竜兵 橋倉靖彦 河村岳司 沢海陽子 悠木つかさ 宮崎夢子
 

 
そろそろネタバレを警告するのも疲れてきたので、皆さんそれぞれの意思に任せます。読みたい人は読んじゃってください。
 開幕から1週間経って、ほぼ中日の土曜日マチネ。初日より更に面白くなっていてね。
 観終わって、びっくりした。演説がなくても何の違和感もなく1本の芝居として、ちゃんと成立しちゃってたの。
 いったい何が起こったんだろう。
 
 初日に比べると、あちこちに細かい修正が加わっていたことはわかった。それによってか、でこぼこや、滞留が解消され、シーンとシーンの繋ぎ目がなだらかになり、桃李ヘンリーをはじめ登場人物に3時間、一人の人間としての一貫性が流れるようになった。そうしたら芝居全体が一個の生命体みたいに動き出した感じ。そのグルーブ感に酔ったわ。
 初日には少し謳いがちで上ずったところがあった桃李ヘンリーのセリフも、既に完璧。スピードが上がっても滑舌は見事だったし、溜めるところ、悩むところ、怒るところ、感情が爆発するところ、とても表現が豊かだった。・・・ヘンリーがどんな人かってことが余すところなく伝わってきて。
 そう。演説がなくても満足するほど、ヘンリー像を受け取れたの。ていうか、演説のことを忘れた・・・。
 初めの頃に観て、演説がなくて寂しいと思った方は、もう一度観るといいと思う、先入観を捨て、平らな気持ちで。なくても大丈夫なことがわかって、ビックリするから。
 とはいっても、観たくてももうチケットを入手するのが困難かな。
 
 だからマダムが不満なのは、求婚シーンだけ。やっぱり観ていて、照れ臭くてムズムズする。
 ラブシーンのとき、役者が完全に役に入り込んでいれば、観る方は全然恥ずかしくないんだけど、ほんのちょっとでも(たとえ1ミリでも)役になりきれていない部分があると、凄くムズムズする。今回の演出では、このムズムズが解消されなかったね。
 ここだけヘンリーに一貫性がないし、フランス王女も二つしかない出番のシーンに一貫性がないな、と思った。これは役者のせいじゃなく、演出のせいだと思う。ハッピーエンド風にしすぎじゃない?
 こういうところ、マダムは簡単に騙されないよ、百戦錬磨だもん。

 
 だけど、充分、満足。
 松坂桃李、凄い役者になったね。演技の上手い人こそ、本当のイケメン。最高の賛辞を贈る!
 
 マダムは、もう日本での『ヘンリー五世』上演を観ることは二度とないでしょう。
 だって、35年もシェイクスピア好きなのに、ずっと観たことなかったんだもの。上演がなかったから。
 なのにこの1年で、ふたつの上演に出会えて、そのどちらもが忘れがたい印象を残してくれて、幸せ。
 確信を持って我が道を行く浦井ヘンリーと、迷い悩みながら決断していく桃李ヘンリー。どちらも、素晴らしい。
 
 さてこの後、少しお時間をいただいてから、追記の記事を書く予定。
 頑張る。

2019年2月19日 (火)

松坂桃李の『ヘンリー五世』 その2

 遅くなってごめん。その2も当然、ネタバレ三昧なので、これから観る方は、観てから読みに来てね。
 

   ******************************
 
 桃李ヘンリー以外の役者さんたちについて。

 吉田演出の特徴として、その場で起こっていることに、登場人物たち全てが全霊をかけて反応する、というのがある。
 もちろん誰の演出であっても、脇の人が反応するのはあたりまえなんだけど、吉田演出では「全霊をかけて」反応するの。役者さんたちの「気」の動線がわーっと集まるから、観客は自然と「今起きていること」に視線を向けるし、その意味もよくわかる。わかりやすく出来てるの。
 吉田鋼太郎率いるAUNの役者たちを始め、ずっと一緒に芝居を作ってきた役者たちはその演出を体得しているので、あらゆるところで「気」の動線が飛びまくっていた。英仏双方の使者がやってきて火花散るシーンはもちろんのこと、フォールスタッフが死にそうだという知らせが来るシーンも、謀反の三人を断罪するシーンも、ヘンリーがフルエリンからネギを捧げられ囓る決心を迫られる数秒(ここの桃李ヘンリーの演技が素晴らしー)も、そのあと全員でネギを奪い合うように頬張るところも、ヘンリーと王女がキスしてるのを発見して全員、顎が外れそうになってるシーンも、皆そうなの。
 なので、台詞が少なくても「気」を飛ばしまくって素晴らしかった二人の王子(鈴木彰紀と竪山隼太)をまず褒めたいわ。どんなシーンも(ネギ頬張ってても)品の良さが損なわれず、ちゃんと王子の佇まいだった。いつも、兄王を慕っている強い気が出ていた。桃李ヘンリーと並ぶと、なにこのやたら美しい三兄弟は!ってため息。眼福だ〜。

 
 今回、衣装が美しい。

 特にフランス側の衣装は、青と金を基調にして、優雅なの。
 フランス王の横田栄司。髪も金色で、美しくて上品でゆったりと威厳があって、見惚れた。なんだか久々に美しい姿を見て、嬉しかったし、耳に心地よい声なの。出番は少ないのだけれど、だからこそ彼くらいの存在感がないと、フランス側を印象付けられないよね。

 フランス皇太子の溝端淳平。黒い衣装の桃李ヘンリーに対し、彼は金髪と明るい青の衣装。大活躍ね。初めから殺陣に加わり、最後はヘンリーと一騎打ち。彼の性格づけは、『ヘンリー四世』のホットスパーみたいだなあと思った。ハルのライバルはいつも、血気盛んで短気な自信家だ。でもホットスパーと違って強くない。素敵に作っていたけど、それでもおバカテイストが匂う。
 でも一番インパクトがあるのは包帯ぐるぐる巻きで車椅子に座ってる姿だった。テニスボールを握ってるのは、リハビリのためかな・・・。
 
 フルエリンは、横田栄司ではなく、河内大和。フルエリンの言動は笑いを誘うんだけれど、でも決して「笑われて」はいけない役だ。真面目で誇り高く、強い軍人なのよね。そのあたりのさじ加減が見事で、すごい役者だなあって改めて感心。この人をフルエリンに抜擢した演出家も偉い。河内大和は大きな舞台でシェイクスピアを演る人だとマダムは思ってる。

 蜷川組やAUN、ネクストシアター、カクシンハンの、手練の役者が居並ぶ中へ、ミュージカル界から一人で飛び込んできてくれたピストルの中河内雅貴。新鮮だった。中河内雅貴といえば、マダムは去年『ジャージー・ボーイズ』で2列目ど真ん中から彼を見つめていたのよ。2メートルの至近距離。きらびやかな衣装と、気取ってる台詞のトミー。その彼が今は髭を生やし、薄汚れた衣装で、機関銃のように台詞を喋っている。めっちゃ楽しそうに。なんだか全然違う扉を開けちゃったんじゃない?マダムはすごく嬉しくなっちゃったんだよ。ようこそ、シェイクスピアの世界へ。また出てほしい。
 
 それと、どうしても触れるべきはエクセター公爵の廣田高志。彼は、ずっと蜷川組を支え続けてきた役者で、顔も佇まいもよく知っているんだけれども、どの役をやってたかと言われるとマダムは思い出せないんだった。それは決して彼のせいではなくて、役者の中でも黒子に徹することを、知らず知らず要求されてきた、のかもしれない。今回の演出でマダムはこれから、エクセター公爵といえば廣田高志を必ず思い浮かべると思うの。ヘンリーがフランス王女を娶ることに決まった時、エクセター公爵が泣き出したのにはびっくりした。蜷川演出では見たことのない姿だったんで。
 『ヘンリー五世』は彼にとっての代表作になった。
 
 全員を挙げていきたいところだけど、長くなったので、あと一人だけ。
 小姓とアリス(侍女)の二役をやった悠木つかさの、八面六臂の活躍に舌を巻いたね。さすがAUN仕込み。「気」を飛ばす量が桁違い。殺陣もフランス語もすごいけど、一番は、求婚シーンで一人「気」を飛ばし続けるところ。ムンクの叫びみたいな顔になってる。もうちょっと前に出てきてやってほしい。
 
 
 というわけで、その2終わり。先日2回目の観劇をしてきて、大いに発見があったんで、なるべく早く次の記事を書くわね。待ってて。

2019年2月12日 (火)

松坂桃李の『ヘンリー五世』 その1

 初日のレビューを書き始めるわね。2月9日(金)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾『ヘンリー五世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/吉田鋼太郎
出演 松坂桃李 吉田鋼太郎 溝端淳平 横田栄司 中河内雅貴 河内大和

   間宮啓行 廣田高志 松本こうせい 長谷川志 鈴木彰紀 竪山隼太

   斎藤慎平 沢海陽子 悠木つかさ ほか

 

 さて、これから書くことは一言一句、ネタバレになるの。
 なので、これから観る予定の方、仕事中の役者の方は、読まないで、ここで引き返してね。観る方は観終わってから、役者の方は全公演、演じ終わってから、お読みくださいね。お願いよ。
 
 
 いい? 帰るひとは帰った?
 
  
   *****************************
 

 放蕩息子だったハルが、亡き父のあとを継いで王ヘンリーとなって帰って来た。
 しかも凄く、男っぽく、格好よくなって。

 まあ、松坂桃李の素敵なことといったらない。黒い衣装が凛々しくて、台詞の口跡も爽やかで(初日は少し謳いがちだったけど)、肉弾戦の殺陣も真っ向勝負。
 そしてこの『ヘンリー五世』という本は、ヘンリーに語らせること語らせること。ずうっと松坂桃李の声に耳傾けていた気がする。するとね、この若い王様が、いかに瑞々しい心を持っていたか、けれどいかに苦い決断を何度もしなければならなかったか、ということがわかっていくの。
 始め、ヘンリーはフランスとの戦争になかなか踏み切れない。周りの重鎮たちは、いろいろな思惑があって王を戦争に駆り立てようとするけれど、桃李ヘンリーはすごく慎重だ。フランス皇太子からのテニスボールにかっとなって戦争になったわけじゃなく、話し合いの中で悩んだ末に決意する様子が描かれている。
 フランス行きの船に乗る前、サウサンプトンで裏切り者3人を切り捨てるところもそうだ。桃李ヘンリーは、慈悲をかける可能性をギリギリまで秘めた表情をしていて、スクループ卿の「罪人に慈悲をかけるな」という言葉を聞いて初めて彼らを断罪する心が決まる。そのときの絶望を振り切ろうとする表情と激しい言葉が、こちらの心を揺さぶるの。
 桃李ヘンリーは、ギリギリまで迷う王なのね。それがいいの。迷いを見せてはならない立場なので、見せないように振る舞うけれど、観客にはちゃんと見せてくれる。
 そのあとも次々、そういうシーンが現れる。
 野営地の夜、部下のマントに身を包んで、王じゃないふりをして兵士と会話するシーン。「兵士一人一人の死に責任なんか持てない!いくら王だって」と語る長い独白がとても聴かせる。このとき桃李ヘンリーはまだ、ハルの時の心をちゃんと持ち続けている。大人になったハルがいるな、と思える。
 殺陣がすごい。推しポイントで言ったけれど、これは派手だとか、長いとか、階段落ちがあるとか、そういう意味で言ったのではなく(いや、階段落ちはすごいんですけれども)。肉弾戦で血みどろで、人間が人間じゃなくなっていく様子をしっかり描いてる。戦いの中で、桃李ヘンリーは昔の遊び仲間のバードルフの処刑を命じる。命じざるを得ない。ここの演出が容赦ない。王の目の前でバードルフは首を絞められる。ヘンリーは目をそらさず、それを見続け(今にも倒れそうなのだけれど)、見届ける。
 そして、昔の友を葬ったときから、桃李ヘンリーから徐々に迷いがなくなる。それは彼の中からハルが消えていくってこと。猛烈な戦闘に自ら飛び込んでいく。
 戦いが終わる頃には、疲れ果てて、皆ヨレヨレで、それでもヘンリーは言葉激しく、部下を叱咤激励しつつ、なんと自ら捕虜の首を掻き切ったの…(「のどかき切ってやる!」という台詞はあるのよ、あるんだけど、王がホントにやっちゃうなんてさ)。
 毒を喰らわば皿まで、とはこのことだ。
 自分の中のハルを殺し、自分の心も殺しちゃったみたい。
 
 『ヘンリー五世』はやっぱり戦争の芝居なのだ。たった一つの戦争を王として駆け抜けて、勝ったのに、あっさり死んじゃった王様の物語。短い間に、人の人生の何倍も喜怒哀楽があり、一気に大人になり、血みどろにもなった。これだけのことをマダムに感じさせてくれた桃李ヘンリー、素晴らしい。
 
 だからこそ、二つの点で、マダムは首をかしげる。
 ひとつは、どうしてアジンコートの演説がないのか、ってこと。
 バードルフを処刑して、下級兵士たちの本音も聴いちゃって、戦いも負けそうで、心ズタズタのヘンリーが、どうやって、どんな言葉で、圧倒的不利な兵士たちを奮い立たすことができるのか? 自分の中はもう空っぽなのに、みんなに最後のエネルギーを与えなくちゃならないの。ものすごい見せ場なのよ。無くて、メッチャ悲しかった。桃李ヘンリーに、もっと無理難題を押し付けてほしかった。だって、できるじゃん、彼。
 もうひとつは、もっと愕然としたのだけど。あの求婚シーン。
 そりゃあ、素敵だったし、ファンはメロメロかもしれないけど。でもあのシーンだけヘンリーじゃなくなってる。ただの松坂桃李になってる。役が抜け落ちてる。
 戦勝国の若き王が、戦敗国の王女に求婚する。ただのラブシーンじゃないわけで。なのに、二人とも、コスプレしたその辺の若者になってしまってる。
 ここまで凄くいいヘンリー像を描いてきたのに、がっくりきたマダムなのだった。
 
 なのだけど、そのすぐあとにやってくるラストシーンが、美しいんだよね。
 ちょっと泣きそうになるくらい。
 
 その2で、他の役者さんたちのことなど、書くね。

2019年2月 9日 (土)

速報『ヘンリー五世』初日

 かなり待ちくたびれた。2月8日(金)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾『ヘンリー五世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/吉田鋼太郎
出演 松坂桃李 吉田鋼太郎 溝端淳平 横田栄司 中河内雅貴 河内大和

   間宮啓行 廣田高志 松本こうせい 長谷川志 鈴木彰紀 竪山隼太

   沢海陽子 悠木つかさ ほか

 
 初日に行ってきた!
 それでもう、あんなことやこんなことを山ほど書きたいんだけれど、どれもこれもネタバレ過ぎる。
 なので、もう一度観に行く予定もあることだし、レビューは少ししてからたっぷり書くので、待ってて。
 今日は、ゲキ推しポイントを挙げておくので、これから観る方、お楽しみに!

ゲキ推しポイント
 ① とにかくヘンリー(松坂桃李)が素敵。大人の男になった。
   かっこよすぎるだろ。
 ② 殺陣が凄すぎる。こんな殺陣はマダムの観劇史上、初めてかも。壮絶。
   観るほうも、体力勝負。へとへとになる。
 ③ ネギが乱れ飛ぶ。抱腹絶倒。
   少し匂うので、前方席の人はマスク着用するのも良いかも。
 ④ 吉田鋼太郎のファンの方、安心して。出番がたくさんある。
 ⑤ ラストの演出が素晴らしい。四世から観てる人は泣く。
 
 以上、簡単だけど、初日の報告よ!
 みんな、楽しんできてね。

2018年9月17日 (月)

無名の人々の御一新を描く AUNの『あかつきの湧昇流』

 スカイツリーを見上げながら、だいぶ歩いて劇場へ。9月16日(日)マチネ、すみだパークスタジオ倉。

劇団AUN第二十四回公演 『あかつきの湧昇流』
作・演出/市村直孝
出演 吉田鋼太郎 大塚明夫 黒沢ともよ 横田栄司 北島善紀 星和利
   長谷川志 岩倉弘樹 松本こうせい 飛田修司 谷畑聡 長谷川祐之
   齋藤慎平 杉本政志 伊藤大貴 坂田周子 悠木つかさ 金子久美子
   長尾歩 工藤晶子 沢海陽子 佐々木絵里奈 山田隼平 松尾竜兵
   橋倉靖彦 河村岳司 近藤陽子 砂原一輝 宮崎夢子

 
 AUNが2014年に初めて『有馬の家のじごろう』を上演して以来、市村作品4作目。マダムは今作がいちばん好きかもしれない。
 1作目の時は、シェイクスピア劇団の人達が日本人の役をやっていることが信じられず、観る側のマダムのほうがついていけてない部分があったのだけれど、もうそんなことが嘘のように市村作品に馴染んでしまった。
 役者さんたちも、始めは着慣れない着物姿だったのが、今ではすっかり似合うようになっていて、不思議なものね。

 あらすじを全部説明するのはあまりに困難なのでやめておくけれど、どんなお話だったか、一言で言えば「無名の人々にとって明治維新とはどんなことだったのか」を描いてる。それは「明治維新」という言葉で普段イメージされるものとはだいぶ違うの。
 私たちは歴史を教科書で勉強したり、大河ドラマなんかを見たり、司馬遼太郎なんかを読んだりして、当時のことを俯瞰してわかった気になってるけれど、その只中に生きた人たちのことを存外知らないものなのだ、としみじみ思った。
 
 武士の格好をして旅をしている弥之助(実は女、黒沢ともよ)と、そのお供をする家臣の伊三次(吉田鋼太郎)はいかにも仇討ちのために旅しているのだけれど、その詳細はなかなか明かされない。二人は道に迷い、山中の廃寺に行き着く。寺は、近くの銅山で働く鉱夫たちの宿に使われていて、訳ありな親子が寺に住み込みで働いている。
 所変わって、江戸の同心の善八(大塚明夫)は手下を使って薩摩方を探らせて、薩摩の精神的支柱である美樹十三郎(松本こうせい)の居所をつきとめ、捕らえて処刑する。薩摩藩士潮甚平(横田栄司)は、十三郎の仇を討つべく、善八の手下を一人一人手にかけていく。善八は死を覚悟し、幼い養女を手下の又吉(松尾竜兵)に託して逃がし、自分は薩摩藩邸に乗り込んでいく。
 というような全く違う場所、時間のふたつの物語が、並行して進んで、やがて弥之助と甚平と又吉の因縁が明らかになる…。
 
 芝居の作りはかなり複雑で、幕末のとある時期(安政の大獄の頃)と、明治五〜十年くらいの、割と近距離のふたつの時間が交錯するのね。さらに場所も、足尾銅山の町、江戸、薩摩や会津に次々と飛ぶ。そして時間と場所についての説明はわざわざしない。ヒントはごく普通の会話の中にこっそり練りこまれていて、こちらが感覚を研ぎ澄ましていないと、捕まえ損ねてしまうわけなの。
 でもこれは台本の失敗ではなくて、作家(そして演出家)の狙いがまさにそこにあるのね。色々な断片が少しずつ集まっていって、最後の大団円で一気にパズルが組み上がって目の前に全容が開ける…それが市村作品のカタルシス。
 なので、観終わった後の友人たちとのお喋り(反省会)でも、「登場人物表と関係図と歴史年表が欲しかった」という意見が出て、マダムも頷いたのだけれど、そこは紙一重で難しいよね。何も知らずまっさらな状態で芝居に導かれていくことも、極上の喜びだし、作家もそれを目指しているのだから。
 
でも、そうはいっても、マダムも脳の中で伏線を全部回収しきれなかった所があって、時間があればもう一度観たかった。再演、しないかな。
 
 役者さんの演技は皆、細かな演出が行き届いていて、とても良かった。武士は武士らしく、芸妓は芸妓らしく、女将は女将らしく、料理人は料理人らしく、番頭は番頭らしく、鉱夫は鉱夫らしく。殺陣、舞、立ち居振る舞い、汗の拭い方、汁物をよそる手元まで、身分と仕事を身体がちゃんと表していて、観ているのが楽しかった。翻訳物だと、なかなか得られない感覚かも。(個人的には横田栄司の着物姿にクラっときた〜。文学座関係者はちゃんと見てるだろうか?「華岡青洲の妻」がやれるよ!)

 
 市村4作品のなかでどうして『あかつきの湧昇流』がいちばん好きかというと、人情を描くのではなく人間を描くことにシフトチェンジしたから。それと、幕末から明治維新にかけての時代は、今の私たちの生き方に密接に関係があることだと最近強〜く思っているので、有名人たちの縄張り争いじゃなく、市井の人たちの人生の芝居であったことも、とてもよかった。
 坂本龍馬にも西郷隆盛にも、飽き飽きしたよ。もう有名人の手柄話はたくさん。

2018年6月 4日 (月)

本番こそいちばんのワークショップ 劇団AUN『から騒ぎ』

 チケットを買った時にはこんなハードスケジュールになるとは思っていなかったのだけれど。6月2日(土)マチネ、現代座会館現代座ホール。

劇団AUNワークショップ公演『から騒ぎ』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志 監修/吉田鋼太郎
演出/長谷川志
出演(B組) 杉本政志 岩倉弘樹 松尾竜兵 山田隼平 橋倉靖彦 星和利
   河村岳司 砂原一樹 松本こうせい 飛田修司 池谷駿 桐谷直希
   齋藤慎平 悠木つかさ 水口早香 近藤陽子 宮崎夢子

 昨年から始まったAUNのワークショップ公演。
 昨年夏の『間違いの喜劇』の時は、ほぼほぼ若手のみの公演だったのだけれど、今年の『から騒ぎ』はベテランもかなり参加していて、本格度が増していたの。舞台は幾つかの植え込みが置かれているだけのシンプルな装置。植え込みは、壁にも柱にもなり、もちろん植え込みとしても活躍するんだけど。
 『から騒ぎ』のストーリー説明は今更しないでいいよね。
 
 賑やかなダンスのシーンから始まって、男勝りなベアトリスと自称女嫌いのベネディックの言葉の応酬へ一気に畳み掛けるので、昨年の『間違いの喜劇』と同じように、ずっと笑って2時間を過ごすのかと思ったの。でも、そうじゃなかった。
 『から騒ぎ』ってのは、ほんとに喜劇なのかしら?
 と、考えちゃうくらい、シリアスなシーンは凄くシリアスだった。
 まあ、そう言いながらもマダムは3分の2くらいは笑ってたんだけど。でも残りの3分の1は、胸詰まる思いで見つめてしまったし、最後ちょっと泣けてきそうだった。その重みはかなりのもので、今回、長谷川演出はこの3分の1の側を重点的に仕掛けていたと思われるの。
 例えば照明の当て方が顕著だった。普通のシーンでは全体に明るく照明が当たってるんだけど、悪役ドン・ジョンが出てくると分かり易い程暗くなって、悪巧みのシーンを演出する。最後の方のヒーローの葬儀(ホントは死んでないんだけど)のシーンでも照明を全て消して、参列者の持つろうそくの灯りだけで演技し、鎮魂歌が歌われる中、墓の前に佇むクローディオだけにゆっくりとスポットが当たっていくのも、台本に書かれてるシリアスな部分はちゃんとシリアスに、という演出方針だったのかも。
 だから、笑って始まり、最後は笑って終わる…んだけれども、一言で喜劇といってしまうのは躊躇する、沢山の感情が押し寄せてくる舞台になっていたの。
 
 主役の四人の若者達の描き方が、とても丁寧で良かった。ベアトリス(水口早香)はまるで『じゃじゃ馬馴らし』のキャタリーナのように始まるのだけれど、従姉妹のヒーローが陥れられた時には、ヒーローのために自分の身を捨てても徹底的に献身する。その両面がちゃんと一人の人物の中に矛盾なくあるのが感じられたの。
 ベネディック(山田隼平)は、さらに多面的で。女嫌いの状態から始まり、ドン・ペドロたちの策略に引っかかってあっさり恋に落ちるハイテンション、おバカな状態を経て、ベアトリスのヒーローへの思いに打たれてクローディオに決闘を申し込む凛々しさまで、あらゆる顔を見せてくれた。地はイケメン枠ではないと思うけど、決闘を申し込むところはちゃんとイケメンに見えるからね。役をとことん演じきると役者はみんなイケメンになる。
 一方、クローディオ(松尾竜兵)は地のイケメンを大いに生かして、一本気な青年を演じてた。愛したヒーローを嘘を信じたせいで拒絶し、憎み、死なせ、嘘だったとわかると、死ぬほど後悔して嘆く。松尾クローディオを見ていたら、マダムは突然『冬物語』のリオンティーズだ!と思ったの。リオンティーズが20年くらいかけて到達する憎しみと許しと喜びを、クローディオはほんの数日で駆け抜けるんだね。若いから身体がもつんだよ、と妙に所帯染みたことを思ってしまうマダム。
 そしてヒーロー(悠木つかさ)。彼女は可愛らしい容姿なのでつい若手のように思ってしまうけれど、AUNの中ではベテラン女優で、ホントに上手い人。疑うことを知らない少女がどん底に陥れられ、そこから立ち直ってクローディオを許して受け入れる大人の女になるまで、やはり数日で駆け抜けるんだけれど、彼女が演じると余計な力が入っていなくて、見ているこちらは凄く楽に物語に付いていけるの。最後、ベールで顔を隠してクローディオと相対する場面も、彼女の沈黙だとマダムも余計な力を入れずに待っていられるんだよね。
 
 昨年の『間違いの喜劇』のときも思ったけれど、シェイクスピアの上演の基本は、役者が台詞を言うときは誰に向けてどんな気持ちで言うのか、はっきりわかるように言ってくれること。そして台詞を言っていない役者は全力で、しゃべっている役者に対して反応すること。この、たった二つ。この二つがあれば、面白いシェイクスピアが出来るの。四人の若者たちが恋に落ちたり、苦しんだりするとき、周りにはぎっしり登場人物たちが集まって顔を寄せ合って、一緒に笑ったり憤ったりするから、台詞の意味が何倍にも膨らんで伝わってくる。長谷川演出はちゃんとツボを心得てる。
 
 若い人たちの台詞も全部しっかり聞き取れた。ところどころ力が入りすぎてる箇所もあったけれど。そこは硬軟自在なベテラン勢にまだかなわない。
 
 沢山笑って、楽しかった一方で、『から騒ぎ』の多面的なところも味わえて、とても満足。吉田鋼太郎イズムをしっかり受け継ぎながら、長谷川演出はこれからもっと、長谷川イズムも出していけるのじゃないかしら。ワークショップシリーズ、どんどんやってほしい。

2017年12月28日 (木)

『アテネのタイモン』二回目

 二回目の観劇。12月27日(水)マチネ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール。

 評判が良く、平日の昼間にもかかわらず満席で、当日券にもたくさんの人が並んでいたわ。
 芝居自体は初日の方が面白かったんだけど、それはやっぱり色々と初めて見る驚きとかドキドキ感が違うからね。二回目は逆にリラックスして観られたの。そうしたら、いくつか細かいことに気づいたりした。例えば、小さな役で台詞を言う人が違っていたり、踊り子たちがタイモンの周りに侍る形が変化してたり、火事の時赤い借用書の紙が舞い散るんだけど、途中から黒い紙に変わっていくのを確認できたり。火事の煙が今日は多いな、と思ったり。アペマンタスの纏う毛皮が熊っぽいのからキツネっぽいのに変わってたり。
 演技も日々、変化していくものなんだね。カッキーは通路での演技にすっかり慣れて、空いてる座席に座ってみたりしてた。マダムは通路脇の席だったので、彼がマントを翻しながら横を通るたび、いい香りがするなあ・・・なんて思ってた。

 プログラムは普通買わないことにしてるんだけど、今回は買ってよかった。凄く素敵な写真と、メインの四人のロングインタビューと、すべての役者さんの一言が載ってる。それと、吉田鋼太郎VS横田栄司、藤原竜也VS柿澤勇人の対談が載ってるんだけど!横田ファンはこの対談を見逃してはならないと思うわ。

 稽古場見学に始まって1ヶ月間マダムは、ほぼこの公演のために生きてきたので、いま、どっと疲れが押し寄せている。でも、心地よい疲れなので、このまま寝正月に突入するのもいいかしらね。

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