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堤真一

2回目の『アルカディア』または翻訳物を観ることの喜びと苦悩について その3

 1回目の時、主役はセプティマス(井上芳雄)だと感じたのだけれど、2回目はもう、そうは思わなかったの。もちろん、キーマンであることに変わりはないのだけれどね。
それはたぶん、井上芳雄だけは始めから演技が出来上がっていたからじゃないかしら。正確に言えば、19世紀組のほうは1回目と2回目とで、あまり変化がなく、現代組の方は、上演しながら変化していき、それで全体のバランスがよくなった結果、誰が主役とかは気にならなくなった、ということかな。

 そのセプティマスの井上芳雄、本当にいい役に巡り合ったね。彼ほどあの19世紀の美しい衣装が似合う人はいないし、女にモテるけど自分からは惚れてないツンデレ感がまたぴったり。欲を言えば、色気がもっとあればね。最後のワルツのシーンも、美しかったけど、足りないものがあったよ。なんていうか、恋には落ちないタイプの男が16歳の少女と踊るうちに恋に落ちた、変化が見たかった。見えた人もいたのかもしれないけど、マダムには見えなかったので。
 ハンナ役の寺島しのぶがすごく良かった。マダムは、彼女が湿った役をやるのが苦手だったので、今回はどうかなと思ったのだけれど、知的で、奥手な、大人の女性を演じて、これほどはまるとはね。とても自然に見えた。嬉しい発見。
 バーナード役の堤真一は、軽い男を楽しそうに演じていたけど、1回目の時はややはしゃぎ過ぎな感があり、2回目少し落ち着いたのがほどよかった。彼のようなベテランでも、「客席から笑いを取る」呪縛からは逃れられないのかしら。
 トマシナの趣里。13歳から16歳を演じて何の違和感もない26歳って、驚き。立ち姿も美しいし。ただ、彼女の台詞もコミカルな方へ引っ張られていたのが惜しかったわ。真面目に真剣に言う方が、もっと面白かったと思うのだけれど。
 伯爵夫人役の神野三鈴は、最近ほんとに凄い。言わずもがなね。
 そしてヴァレンタイン役の浦井健治は、その2でも言った通り、2週間の間に、いちばん変化が大きく、進化していったと思うけれど、始めからそのように演出されていれば、そう出来たはず。もっと細かく要求しても、十分応えたと思うの。頭から湯気が上がるくらい沢山要求するのが、浦井健治にはちょうどいいのよね、たぶん。
 マダムは浦井ファンだけれども、役の大きさは全然問題じゃないと思ってる。そして、彼だけ良くて作品はつまらないなんてことはあり得ないし、作品が素晴らしいのに、彼が良くないってこともないと思ってるの。
 てことは、作品の良さと彼の演技の良さが完全に連動している、ということかしら?そんなこと、言い切っちゃっていいのかしら?
 でも分析すると、そういうことになるよね。
 観終わった後、いっぱい考えさせられる芝居で。一粒で二、三度美味しい芝居でした。
 

2回目の『アルカディア』 または翻訳物を観ることの喜びと苦悩について その2

 そもそも同じ芝居を2度観るなんて、普段はしない。いろんな芝居が観たいからね。だから、今回は特例なのだけれど、それにしても、1回目と2回目の印象がこれほど違うというのは、珍しいことよ。
 席の良し悪しを割り引いても、全然違っていたの。
 違いを一言で言うなら、14日の舞台は、笑いを取ろうとしていた。29日の舞台では、もはやそのような邪念は捨て去られて、この芝居の本質に迫ろうとしていた、ということかしら。

 これは、マダムの席が変わったとか、予習をしていったからとか、そういうことじゃなく、明らかに演技が変わっていた。
 顕著だったのはヴァレンタイン(浦井健治)の演技で、14日のときはドタバタした男の子だったのが、29日では頭の中が数学で埋め尽くされている変人、になっていた。1ヶ月の公演の間に、進化して役を掴んだ、のかしら。それとも演出家のダメ出しがあったのかしら。
 ドタバタ感が減ったのは、ヴァレンタインだけではなく、19世紀側のチェイター(山中崇)や執事(春海四方)もそう感じられたし、バーナード(堤真一)のコミカルな演技もより落ちついたものに変化していた。
 上演していくうちに、正しい方向に芝居が変容していったのでは? とマダムは考えたの。だから、29日の方がずっと、面白く観られた気がする。
 
 
 現地でこの芝居が上演されるとき、観客はもう最初っからドカドカ笑っているらしい。なので、そのおかしさをどう翻訳するかということが演出の最大の問題になったのでしょう。
 しかし、これは、おおかた、翻訳できないものなのではないかしら?
 
 例えば、これが日本の芝居だったとするわね。200年前、つまり江戸時代末期、どっかの大名屋敷で、姫が家庭教師の教えを受けているとき突然、「熱烈なる肉欲、とは如何に?」と家庭教師に質問する。家庭教師はすごく真面目な顔で「肉とは、猪肉のことでござりましょう。あるいは、鹿肉でもよろしゅうございます」と答える。
 この可笑しさは、日本語表現を掘ってこそ笑えるのであって、ドタバタではないでしょう? ストッパードの本は、英語でこれをやってるんだと思うの。英語圏の(特にイギリス人の)知的な了解の上で成り立っている本であろうと思われるので、翻訳をそのままやっても、日本の観客が笑えるところまではいけないのね。日本の観客には、暗黙の了解がほとんどないわけだから。
 
 バーナードの名字が「ナイチンゲール」で、最初バーナードがその名を隠していて、「ピーコックさん」と呼ばれる設定なんかが、わかりやすい例で。
 日本の観客のどれくらいの人が、ナイチンゲールとは鳥の名前だと了解しているかしら。芝居の流れで鳥の名前なのだと知ったところで、どんな鳥なのかのイメージがあるかしら。繊細で美しい鳴き声の小鳥だとわかっていて初めて、ガサツなバーナードにこれほど似つかわしくない名前なのだと笑えるし、間違えてピーコック(孔雀)と呼ばれるのがまた、虚栄心たっぷりのバーナードにぴったりで笑えるわけなの。
 万事こんな感じで、たぶんマダムが全然読み取れないような高尚で知的な仕掛けが、この戯曲にはたくさんあるのよ、きっと。
 そういう意味で、これは最高に難解な戯曲なの。翻訳家泣かせ、演出家泣かせの。(観客泣かせ、とも言える。)
 
 だからこれは素人考えではあるけど、アカデミックな意味での翻訳本と、上演台本とは、違うものになった方がいいのではなかったかしら?
 イントンシャと耳で聞いて、隠遁者という漢字を思い浮かべ、それをイメージでき、貴族の庭に、わざわざそんな人がいる庵を作っちゃうバカバカしくも贅沢な遊びについて、思いを馳せるところまでいかないと、いけないのよ。そして遊びのつもりで作った「隠遁者の庵」に本当に隠遁者が住むことになった、悲しくも皮肉な結末を理解しなきゃいけないのよ。
 そりゃちょっと、観客を選びすぎじゃない?
 なぜ、「隠遁者」でなければいけないの? なぜ、「世捨て人」という解りやすい日本語があるのに、そちらを選んでくれないのかと、マダムは芝居を観ながら首をひねっていたの。言葉を変えたからといって100%伝わるわけではないけれど、アカデミックな方向に舵を切りすぎなんじゃない?
 
 翻訳するということは、まずは英語の意味を理解しなくちゃいけなくて、さらに日本人にそれを日本語で伝える、ということでしょ? 最近、本邦初の芝居を観ることが多く、楽しみにしているのだけれど、不親切じゃないか?と不満なことがこれまた多くなってきたの。観客は日本人、なんですよ。
 だからと言って、全部日本に置き換えろ、とか言ってるわけじゃないのよ。それなら翻訳物をやる意味ないもんね。
 いつまでも解決はしない、難しい問題だけど、バランスを保つのを忘れないでほしいってことよ。
 最低限の予備知識については、観客にプリントを配るとかして教えて欲しい。(『ビッグ・フェラー』のときIRAについての解説のプリントが配られたように。あれは親切だったわ。)パンフレットに載せました、っていうのはダメよ。11000円もするチケットの上に、パンフレットを買わないと理解できませんよ、っていう態度はもう、客を減らすことにしか繋がらない。

 『アルカディア』がつまらなかったと言ってるんじゃないのよ。それどころか、面白かったの。そして、英語で満喫できるくらいの力がマダムにあれば、ロンドンで観たいなあと思うけど、それは無理なので、日本語の上演がもっと面白くなるよう、お願いしてるの。

 
 役者については、その3で、ね。
 

2回目の『アルカディア』 または翻訳物を観ることの喜びと苦悩について その1

 2度目の観劇は、東京公演の前楽日だったわ。4月29日(金)マチネ、シアターコクーン。

『アルカディア』

作/トム・ストッパード 翻訳/小田島恒志
演出/栗山民也
出演 堤真一 寺島しのぶ 井上芳雄 浦井健治

   安西慎太郎 趣里 神野三鈴 ほか

 2回目の観劇だったわけだけど、1回目と状況はだいぶ違ったの。
 1回目の時、席が18列目で、だいぶ後ろだったので、ところどころオペラグラスで細部を見てたのね。そうすると他の部分を見落としてしまって。でも今回は6列目のほぼ真ん中という良席。オペラグラスは全く必要なく、全体も見え、役者の細かな表情や目線の変化などもわかり、芝居を堪能できたの。もう、見え方が全然違う!
 いつも言っていることだけれど、シアターコクーンのような縦長の劇場で、1階席のほぼ全てが同じ料金に設定されていることの矛盾を、またまた感じてしまったわ。
 14日の時はレビューが書けなかったので、今日はしっかり書きますね。なので勿論まんべんなくネタバレするわよ〜。
 
 舞台はイギリスの貴族のお屋敷シドリー・パーク。同じ屋敷で、19世紀初頭と、200年後の現在とが交互に展開するという筋立て。
 両方に、ペットとして亀が登場するので、マダムは最初、これって同じ亀かな〜?なんて考えた。亀は見ていた!200年の人々の移ろいを・・・なあんてね。だって、亀って長生きでしょ?でもさすがに200年同じ大きさで生きてるってことはないか・・・と思い直したけど。
 まずは19世紀初頭、13歳の令嬢トマシナ(趣里)が家庭教師セプティマス(井上芳雄)に教えを受けているところから始まる。トマシナは賢く、早熟な少女で、フェルマーの定理を解こうとする一方で、男女の色恋に興味津々なの。家庭教師のセプティマスは色男。詩人のチェイターの妻と抱き合っているところを見られ、チェイターから決闘状を渡される。けれど、チェイターの新しい詩集を絶賛する批評を書くとほのめかし、チェイターを丸め込む。
 屋敷には、様々な客が滞在している。庭園設計士のノークス(塚本幸男)は、庭園を作り直そうと測量したり、手入れ前と手入れ後を描き出した絵(設計図)を居間に置いたりする。あるじの伯爵夫人(神野三鈴)はノークスの案に否定的なのだが、流行に逆らいたくないのか、ダメとは言わない。あずま屋を壊して、隠遁者の廬(いおり)なるものを作ることも、着々と進んでいく。トマシナは「隠遁者がいない隠遁者のいおりなんて、ヘンでしょ」と言って、設計図に隠遁者を悪戯描きしちゃう。
 
 一方の現代では。貴族の末裔ヴァレンタイン(浦井健治)は大学で数理生物学を学ぶ研究者で、かなりの変人。頭の中は数理でいっぱいで、格好(服装)に構わず、亀を可愛がる。だが、屋敷に来ている客のハンナには優しい。ベストセラー作家のハンナ(寺島しのぶ)は、作品の次のテーマを「シドリー・パークの隠遁者」にしようと、屋敷にある資料を調べに来ているのだ。果たして隠遁者は存在したのか?それはだれだったのか? そこへ、彼女の作品をこきおろしたことのあるバイロン研究家バーナード(堤真一)が、調査にやってきて鉢合わせする。バーナードは、200年前この屋敷で、バイロンが決闘し、チェイターを殺したのではないかという仮説に取り憑かれ、その証拠を探り出そうと躍起になっている。
 
 二つの時代のシーンが交互に表れるにつれて、謎が少しずつ解けていく。
 現代でバーナードやハンナが資料を読み解き、推理するのだけど、その資料というのが、200年前に交わされた決闘を申し込む手紙だったり、絵に描き込まれた隠遁者の姿だったりするわけ。19世紀では、たわいのない悪戯や、ふとしたきっかけで手紙が本に挟まれたまま人手に渡ったにすぎないのに、現代から見ると、それがまるで決定的な証拠のようにも思えたり、角度を変えてみたら全然的外れだったり、悪戦苦闘することになるの。
 舞台には登場しない詩人のバイロンがキーマン。バーナードは終始、バイロンが屋敷に滞在したと主張し、ハンナはその証拠はない、と突っぱね続ける。確かに証拠はないし、観客もバイロンの姿を見ることは1度もないのだけれど、最後の最後、実はバイロンが屋敷に滞在中で、チェイターの妻に手を出していたことも伯爵夫人のセリフからわかるの。だから、途中までバーナードの推測は当ってた。でも、結論は全然違ってしまう。そもそもチェイターが決闘を申し込んだ相手はバイロンじゃなく、セプティマスだったわけだし、決闘もなかったわけだし。
 様々な謎が解けたり消えたりしたあと、ハンナが探していた資料がついに見つかり、「亀と一緒に暮らしていた隠遁者」が誰であったのかがわかる。そしてラストの美しいダンスシーンによって、私たちはセプティマスがなぜ隠遁者になったのかを悟るの。
 
 ストーリーは、とても細やかに編み込まれているの。19世紀と現代とが、始めはゆっくりと交互に描かれる。謎も関係性も、始めはぼんやりしている。やがて、シーンの入れ替えが激しくなっていって、観客の頭の中のパズルが完成に近づき、最後には二つの時代の登場人物が同時に舞台に現れ、同時進行する。例えばハンナとセプティマスの目線がぴったり合い、まるで見つめ合っているかのようで、それはハンナが「隠遁者」を探し求めて、セプティマスに辿り着いたことを暗示している。そういう、芝居の構造そのものが、繊細で美しいの。

 ストーリーを説明しただけで、こんなに長くなってしまった。しかも、もの凄く端折っているのに。
 役者についてや、翻訳物を観る喜びや苦悩については、その2以降でね。

『アルカディア』を観る 1回目

 7ヶ月の休養(?)を経て、浦井健治が戻ってきた。4月14日(木)マチネ、シアターコクーン。

 
『アルカディア』

作/トム・ストッパード  翻訳/小田島恒志
演出/栗山民也

出演  堤真一 寺島しのぶ 井上芳雄 浦井健治

            安西慎太郎 趣里 神野三鈴  ほか

 
 一人一人が舞台の申し子と言える役者がずらりと揃ってる、贅沢な舞台。珍しく平日のマチネに行ったら、なんだか客席も歌舞伎座みたいな客層で、さざめきがあるんだった。
 凄いメンバーだったけれど、誰が主役と言えるかというと、セプティマス(井上芳雄)だったね。19世紀の衣装の似合い方が、尋常ではないわ。さすがプリンス。(ブーツはルドルフのときのブーツらしいわ。長持ちしてるわね)
 実は、マダムは予習不足で、遠い席から見て、わからないことだらけ。これでは記事は書けないと思ったの。なので、もう一度観劇の予定があるので、そのあとにちゃんとしたレビューを書くわ。ほんと、申し訳ない。

愛する「海街」が映画になって

 吉田秋生の「海街diary」が映画となったので、観てきたわ。普段、映画のことは書かないけど、これだけは取り上げないとね。これから観る人は、観てから読んで。

『海街diary』
原作/吉田秋生
脚本・監督/是枝裕和
出演 綾瀬はるか 長澤まさみ 夏帆 広瀬すず
   加瀬亮 リリー・フランキー 大竹しのぶ 樹木希林
   風吹ジュン 堤真一 ほか

 えっとね。なかなか良かったです。1本の映画として。原作ファンとしてはいろいろ言いたくなっちゃうけど、それはあとで少しね。1本の映画として愛せる映画だったわ。
 なんていうか。マダムが思い出したのは、市川崑監督の『細雪』。あれは昔の船場の四姉妹のお話だったけど、映画「海街」は、現代の「鎌倉版細雪」として作られてると言える。美しい街の、四季折々のエピソード。桜や紅葉や緑や海の輝き。美しい四姉妹の、エピソードにふさわしい衣装(普段着、喪服、浴衣、職場や学校の制服)も見どころなの。まあ、少し美しすぎるかな、四姉妹。アレじゃ、鎌倉中で有名になっちゃうよ、美人姉妹ってことで。ホントはもう少し普通な人たちなんだけどな。
 舞台が鎌倉なので、小津映画と比べる向きもあるようだけど、マダムは全然小津を思い出さなかった。だって、小津は、風景に感情移入させるような手は使わないもん。だから、小津じゃなくて、『細雪』なのよ。
 もの凄く豪華で、手堅いキャスティングなので、下手な人などいない。そこはなるほど、と思ったけど、この映画の演技で圧巻なのは、すず役の広瀬すずと、大叔母役の樹木希林だった。もう、凄いのー、この二人。演技のベクトルが真逆なんだけど、到達点が同じくらい高い。
 広瀬すずは、自分と演技の境目が無くなる憑依型。狙ってなのか、監督は台本を彼女にだけ渡さず、その場その場で口立てで台詞を伝えて、撮影していったらしい。
 一方の樹木希林。出番は2、3シーンなんだけれど、大叔母さんそのものとして存在してた。彼女は憑依してるわけじゃなく、長年の経験があった上での冷静な計算があって演技してるわけなので、さすがとしか言いようがないわ。
 原作マンガをおのれの掌のようによく知っちゃってるマダムは、映画を見ながら、あ、ここはあの台詞、あ、ここは是枝監督のオリジナル、あ、ここはこう変えたんだー、などと気が散ること甚だしかった。でも、すずと大叔母さんの出てくるシーンは、そんなこと忘れて、見入ったの。
 そのほかの役者たちは、皆上手いし、手練の人たちばかり。でも、だからこそなのか、予定通りな演技なの。悪く言えば予定調和。それで原作との違いばかりが気になってしまうんだった。
 四姉妹のキャスティングだけで言えば、長澤まさみのよっちゃんは大健闘で、夏帆のちかちゃんもマンガとは別物だけどOKであったわ。ただ綾瀬はるかのシャチねえだけは、もう全然違う人になっちゃってた。キャスティングの時点での、監督の考えが、マダムとは180度違ったんだわ。
 
 原作はまだ連載中だし、2時間の映画にするとき取捨選択があるのが当然なので、別物として考えなきゃね、といつも自分に言い聞かせてる。でも別物でも、原作のどこをキャッチしたかは大事でしょ? 
 不在の親との関係が、この物語の鍵だと思うの。父親の不在については、ちゃんと語られているけれど、母親の不在については監督の意識が薄いような気がする。だから、母の演技は大竹しのぶにお任せしちゃったのかなあ。どうも腑に落ちなかったのよ。母と娘の関係は、シャチねえの性格の一部を作ってるのにね。
 吉田秋生の作品を愛する女性ファンと、映画を作る男性監督の間には、越えられない深い河が存在するね、きっと。
 四半世紀前の『桜の園』映画化の時から、河は変わらず深いままなのかも。

才を集めた『三人姉妹』

 怒濤の2月を締めくくるダブルヘッダー第2弾。2月28日(土)ソワレ、シアターコクーン。

シス・カンパニー公演『三人姉妹』
作/アントン・チェーホフ 上演台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 余貴美子 宮沢りえ 蒼井優 神野三鈴 山崎一 
   今井朋彦 近藤公園 段田安則 堤真一 ほか

 チラシを最初に見た時、どんだけ凄い役者集めたら気が済むのよ?と少しばかり鼻白んだ。主役が張れるような人ばかり。ちょっと欲張りじゃないのかと思ったの。それに、これだけの役者集めて演出する演出家の喜びと重圧をも、頭をよぎった。
 でも、実際に舞台を観たら、やっぱりいい役者が揃っているのって、眼の喜びだったわー。
 有名な戯曲だし、あらすじを書くような野暮なことはやめよう。いきなり本題よ。

 堤真一がとってもよかったの。
 ここ数年、堤真一の舞台はいまいち続きだった。あんまり続いたから、去年の芝居はパスしたのよね。パスしたことを後悔もしてない。
 だけど、今回のヴェルシーニン中佐ははまり役だったー。彼の舞台役者としての華とか存在感とかが最大限引き出されていたの。かっこいいけど俗物な感じや、たくましいけど内部にある鈍感さとか、温かみがありながら凄く醒めているとか・・・台詞からだけじゃなく、軍服着て立っている姿から感じられて。ヴェルシーニンが話してることって、核心とか本心とかからは程遠いんだけれど、喋れば喋るほど、彼の内部が透けて見えてくる。それこそチェーホフの面白さよね。そうだよ、そうだよ、上手いんだよ、堤真一は!って再確認。やっぱり、こういう役がいいわ。若気の至りの塊みたいな役はもう、やらなくていいよ。若くないんだから。
 まあ、人はそうそう核心とか本心とかを日常で喋ったりしないもので、チェーホフはそのことを面白がって描いたのよね。こういう芝居はやはり、奇をてらわない肌理細かい演出と、どんな瞬間も役を生きることが出来る役者が必要なのよー。
 
 三人の姉妹達は、期待通りで、ビックリするようなことはなかった。上手さも、美しさも。はかなさや哀しさは、イリーナ(蒼井優)がいちばんよかったかなあ。あと、ヴェルシーニンとマーシャ(宮沢りえ)の別れのシーンが、ただならぬ感じがあって、ドキドキした。もうこの二人は二度と逢えないのね、と思った。二度と逢えないからマーシャは心が張り裂けそうなのに、ヴェルシーニンの方は、全部織り込み済みなの。こういう残酷さにドキドキするのって、自分が年取ったってことかしら?と思ったりして、少しショック。
 一人一人あげていったら終わらないくらい皆、上手い人たちだから、あと一人だけ名を挙げると。なんといってもナターシャ(神野三鈴)!
 始めは名家におずおずと足を踏み入れるんだけど、まんまと家に入り込んじゃったら、テリトリー広げてく広げてく。もうね、舞台に向かって、ちょっとちょっと、ってイチャモンつけたくなるくらい憎たらしかった。素晴らしー、神野三鈴!
 他人の痛みを感じられる人と、感じない人とでは、往々にして感じない人が幅を利かせていくのが世の習いで、チェーホフもそれをよく知っていたのね。皮肉な真実。
 
 演出はオーソドックスで、観客に緊張を強いないのがとてもよかった。内容が深刻かどうかで観客の緊張度が決まるわけじゃないのね。そうじゃなくて、演技が良く練られているかどうかで決まるんだと思うの。すべての登場人物も典型ではなく、ちゃんと個人として描かれていて、どのシーンも興味深く見つめていられた。
 セットは、広間と、イリーナの寝室と、邸の玄関から庭を臨む辺りの3カ所で、どれも照明が当たるとどこかグレーがかって見え、寒々しい雰囲気を醸し出していた。照明がよかったー。さりげなく光が変わっただけで、時の流れがわかる。心の変化もわかる。
 
 ほんとに久しぶりのマチソワ観劇で、昼間はシェイクスピアで夜はチェーホフって、凄くない?
 かたや荒唐無稽でかたやじっくりリアリズムで、両極端だったけれども、双方とも手練れの役者の演技に身も心も預け、楽しい一日だったわ。満足だー。

思いつきなマクベス その2

 衣装がスーツだったりトレンチコートだったりするのだから、普通に剣をさしてると変なのは、わかるんだけど。だけどね、傘での殺陣は、子供のごっこ遊びのようで、全然迫力も、緊迫感もないんだった。見立てっていうことを、勘違いしてるみたい。
 いい芝居なら、主人公が死に瀕すればドキドキもするし、死んでいくあわれに涙することもあるの。そういう気持ちを味わいたくて劇場に足を運ぶのよ。それがわかっていて、こんな演出なの?
 堤マクベスと白井マクダフの殺陣は、予定調和的にマクベスが刺されて倒れる。緊張感もないし、驚きもない。驚いたのはその後よ。
 倒れたマクベスの首が、勝ち誇るマルカム一派の前に投げ出されたその時、客席の後方隅から突然巨大な物体が現れたの。しばらく見つめて、それが直径2mくらいの堤マクベスの首であるらしいことがわかり、絶句。顔は堤真一そのものでは気持ち悪いからという理由からなのか、少しマンガっぽくて、トイ・ストーリーのウッディに似てたわ。その首がね、ビニール製のボールみたいにはずむの。役者たちがその首ボールを観客の頭上に運び入れ、観客は頭上に手をかざさせられて玉転がしさせられたのだった。首ボールは緩慢な動きで劇場を一周したんだけど、幸いにもマダムの席には来なかった。よかったわ、来なくて。来てたら、マダムがどういう行動に出たか、想像がつかない。怒りに駆られて、とんでもない方向へ突き出してたかも。首ボールが一周する長い長いあいだ、死んだはずの堤マクベスはなぜか、舞台の真ん中に一人たたずんでいた。表情からはなにも読み取れず、なんのために立っているのか腑に落ちないように見えたの。あまりにも意味不明な時間で、マダムは「早く帰りたいな」って考えていたのよ・・・。
 
 いろんな思いつきが詰め込まれたマクベスだったわ。もしこれがどこかの大学生の劇団がテントでやった芝居だったら、「マクベスを使ってこんな風に遊ぶのも、まあいいかな」と思えたかも。だけど、長塚圭史は名の知れた中堅の演出家だし、思いつきの中から芝居に寄与するものを選択できなきゃいけないでしょ。チケット代は決して安くはないし、わが風間杜夫をはじめとして、堤真一、三田和代、横田栄司、白井晃、中嶋しゅう、とマダムの大好きな役者も苦手な役者も、そろって芸達者でエネルギッシュな凄いメンバーなわけよ。役者同士の火花散る瞬間を観られたかもしれないのに。あまりにももったいない3時間だった。
 気がついたら、常磐貴子のマクベス夫人については何にも語ってないね。でももう、いいや。これ以上は言わずもがなよね。
 

思いつきなマクベス その1

 久しぶりの劇場。やっぱり、いいな、劇場は。12月15日(日)マチネ、シアターコクーン。ドカーンとネタバレしてるので、要注意。

『マクベス』
シェイクスピア作 長塚圭史演出
出演 堤真一 常磐貴子 白井晃 横田栄司
   中嶋しゅう 三田和代 風間杜夫 ほか

 いつもなら舞台がある場所には客席が組まれてて、両側から舞台をはさみこむような感じ。以前やはりシアターコクーンで観た『人形の家』の時みたいに。でも、『人形の家』よりずっと手の込んだ作り。舞台はほぼ円に近い六角形で、高さがあり、床には時々穴が開いて、役者は穴の中の階段を使って出入りできる。床の下もぐるりと丸く通路になってて、役者が行き来するのが見える。さらに舞台の周り(客席との間)も1.5m幅くらいのスペースがあって、そこでも演技が出来るし、二重構造の高床式の円形劇場という感じ。凄くよく考えられてて、マダムは唸ったわ。いろんな使い方の出来そうな面白い空間。
 始めに黒子的な黒スーツの市川しんぺーと福田転球が、客席のあちこちに仕掛けられてる傘の使い方を説明し、客席の中に座っていた三人の魔女が言葉を掛け合って芝居が始まった。観客参加型の芝居にしたいのね、と理解したけど、早くも不安になるマダム。だって「マクベスで、客席で緑色の傘を広げる」と言ったら、最後のあのシーンしかないでしょ? そんなやり方でいいシーンになるのかしら?と不安を抱きつつも、いや、マダムの想像も凌駕するようなことが起こるかもしれない、と思い直して、芝居に見入った。
 のだけれど、なかなか芝居の世界に入り込むことが出来ないんだった。というのも、マクベスの気持ちが全然わかんないんだもの。ていうか、このマクベスはいったいどういう人なのか、さっぱりわかんない。いったい彼は幾つくらいで、結婚してどれくらい経ってて、どんな地位にある男なのか? 王や友人や妻をどう思ってるのか? もちろん、脚本を読み台詞を聞けば、ヒントはいろいろあるわけだけど、堤真一のマクベスからはさっぱり伝わってこないの。それはなぜか、っていうとね。
 まず、衣装が変なの。風間杜夫のバンクォーや小松和重のマルカムはスーツにネクタイしてて、その一方で白井晃のマクダフは渋谷を歩いてるおじさんな感じのラフな現代風スタイルで、横田栄司のロスは帽子かぶってストール巻いてて大柄なスナフキンみたいなのね。そのなかにあって、堤真一のマクベスはパーマのかかったようなぼさぼさした髪型で、ちょっと古典がかった衣装を着てる。これ、どう解釈したらいいの? 演技を観ているうちにわかってくるのかなあ・・・と思って付いていってみたけれど、それぞれの衣装がてんでんばらばらで、関係性が全く見えないままだったのよ。
 べつに現代風だって、スーツだって、ジーンズだって、もんぺだって、なんだっていいのよ。ただそれを選んだ意図ってものがあるはずでしょう? 衣装によって、身分とか性格とか立場とかがわかったりするはずなのに。
 キャスティングも首をかしげっぱなし。もちろん、若い役を若い人がやらなくちゃいけないってことはないし、子供を大人がやったっていいし、女が男をやってもいいし、大前提としてなんだって有りだとマダムは思っているのよ。だけど、マクベスとバンクォーは同格の同僚として登場してくれないと困る。だから堤真一と風間杜夫をキャスティングした以上は、年齢も容貌も違うふたりであっても同僚とわかる演出をしてほしかったのに、配慮らしいものがないの。マクダフの白井晃しかり。それからマクダフの妻をやった女優もマダムはよく知らないんだけど、生まれたばかりの赤ん坊を抱いてると、乳母にしか見えないのよ。赤ちゃん生んで間もないお母さんなわけでしょ、マクダフの妻は? 百歩譲って、マクダフはおじさんでもいいけど、マクダフの妻は絶対若妻なのよ(高齢出産とかいう可能性は考えたくない)。
 いちばん愕然としたのはマルカム王子が、よれよれのスーツとトレンチコートの小松和重だったことよ。いいのよ、それだって、ちゃんと納得させてくれりゃあね。だけど、話を知らない人が見たら、中嶋しゅうのダンカン王の息子だってことさえ、わからないよ。ラストは彼を立てて、皆がマクベスを倒すわけだから、どんなに見かけが情けなさそうでも、ラストぐらい、お、この人、実は芯の通った人なんだねと思いたいのに、情けないまま終わったからさ・・・。
 輪をかけて首をかしげたのは、二役のやりかた。
 シェイクスピアで、前半で死んじゃった役の役者が、後半別の役で出てくるのはよくあることだけれど、今回の二役は、定石から大きくはみ出ててね。風間杜夫がバンクォー→医者。中嶋しゅうがダンカン→シーワード。そして常磐貴子がマクベス夫人→使者。風間杜夫も中嶋しゅうも、さすがに衣装は変えてるけれど、メイクや髪型は全く変化がないので、さっきまでバンクォーだったりダンカンだったりしたことを観てる方は引きずってしまうの。違う役なのは知ってるんだけど、知ってるってことと、感じられるってことは別なのよ。
 ましていくら少年のような格好をしてたって、マクベス夫人をやってた常磐貴子が「バーナムの森が動き出しました」って報告に来たら、え?なんで?常磐貴子が?って思うじゃない? その台詞のもつ重大さ、マクベスにとって最も恐れていた知らせが来るシーンで、台詞よりも常磐貴子が出てきた方に意識が行っちゃって、大事なマクベスの反応を見落としたよ〜。これって、演出家が奥さんの出番を増やしたかったとしか思えない。そんな演出ってありなの?
 
 そんなこんなでついに、客席で傘を広げるシーンがやってきたの。そう、言わずと知れたバーナムの森。マダムも席の脇に用意されていた緑の傘を、役者のかけ声とともに開いたよ。素直だからさ、マダムは。劇場が緑の傘で覆われた・・・・のは確かだけど、それはバーナムの森なんてものじゃなかった。観客参加型? ただのビニール傘じゃん。緊張感のまったく無い、微妙な薄笑い(苦笑い?)の広がる客席。あー、やっぱり、マダムの不安は的中した・・・。(観客席で緑のビニール傘を広げる喜びを、マダム以上に知ってる観客はいないのよ。なぜならマダムはヤクルトファンだから。でも同じビニール傘でも、こんなに空しいさし方があるとはね。)
 
 これ以上の失敗はないと思えたバーナムの森シーンが終わったあと、実はもっと恐ろしいことが待っていた。それについては、その2で。
 

はじまりはいつもマクベス

 先日シアターコクーンで入手したチラシの中に、「長塚圭史、ついにシェイクスピアに挑む!」という速報があった。演目は『マクベス』。
 マクベスね・・・なるほど。
 『マクベス』はシェイクスピアの中で、たぶんマダムが一番数多くの演出家で観ている作品。やりやすいのよね、きっと。シェイクスピアの中で、最もムダ(という言い方には語弊があるけど)のないコンパクトな戯曲で、珍しいことに読んだだけでも理解できる。シェイクスピアがマクベスを書いた時、劇団は一時的に役者が少なかったのかしら? 枝葉の役をこしらえなくても全員に役が行き渡ったのかしら?なあんて、想像しちゃう。それほど、脇筋ってものがなくて、ストレートな話よね。
 なので、日本でも上演されることがとても多い。つい最近も野村萬斎がやったばかり。実はマダムは『マクベス』にちょっと飽きているのね。ムダの無い戯曲だからこそ、誰の演出でも「目から鱗」なことが少ないから。だから、野村萬斎のも観ようか迷っているうちに過ぎちゃった。
 そこへもってきての、このチラシ、なのよ。長塚圭史、初めてシェイクスピアを演出するにあたり、オーソドックスな選択をしたなーと思う。さて、どうしようかしら。初演出を見届けた方がいいかしら。でも、マクベスか・・・。

 そんなマダムの逡巡を吹き飛ばすような、役者の顔ぶれが発表になった。
 マクベスに堤真一!マクベス夫人に常磐貴子。そして共演が、我が風間杜夫に、横田栄司に、白井晃に、中嶋しゅうに、三田和代・・・超豪華かつ、予想不可能な組み合わせ、だわ。
 どうしよう?
 マダムの凄く好きな役者と、ちょっと苦手な役者が混在してるし、配役もマクベス夫妻以外、予測がつきにくい。バンクォーは誰かな?横田栄司かしら。いや横田栄司はマクダフかな? 我が風間杜夫は、もしかして暗殺される王・・・だとしたら、出番が少なーい!(もんく)
 しかしどうして世の演出家は、奥さんを主演にするのかしら。上手くいった例を知らないんだけど?
 とはいえ。予測不可能な舞台は、やっぱり観なくちゃいけないんでしょうね。堤真一、風間杜夫、横田栄司ときたら、マダムの出番でしょう!
 
 皆で観に行こうという呼びかけが、喉元まで出かかりながら、やっぱり逡巡しちゃっているんだった・・・。

解禁を祝う『今ひとたびの修羅』 その3

 『今ひとたびの修羅』のテーマってなんでしょう?
 ざっくりひと言で言うならば、美しい痩せ我慢、なの。
 
 飛車角(堤真一)の生き方が義理にがんじがらめの痩せ我慢そのもの。義理ばかりを立ててるうちに自分も女も不幸になっちゃう。でも敢えて、それを選ぶ。
 宮川(岡本健一)も自分が死ぬことで三角関係に終止符を打とうとする。これも究極の痩せ我慢。
 吉良常(風間杜夫)は病気で寝込んで畳の上で死ぬことを恥じて、ピストルで自殺する。これも痩せ我慢の美学。
 お袖(小池栄子)は瓢吉(小出恵介)の出世の妨げになることを恐れて、身を引いてしまう。これも痩せ我慢よね。
 出てくる人物のほとんどが辛いことをぐっと堪えて、我慢してるの。
 でも、おとよ(宮沢りえ)だけは、口に出して、我慢は嫌だ、って言う。
 だけど、おとよが惚れた男たちはみんな痩せ我慢を優先して、自分を捨てていっちゃうので、おとよの気持ちは行きどころがない。
 こんな我慢の圧力が増していくからこそ、最後に「辛抱ならない!」って宮川と飛車角たったふたりで敵地に乗り込んでいくヤケクソ的な行動が、なんだかカタルシスーってなる、はず。
 
 ところが演出家は、舞台いっぱいに暗い我慢の圧力が蔓延するのが耐えられないらしい。体質的に圧力を逃がそう、楽しくしようっていう方向に行っちゃってるの。テーマといのうえひでのりの方向が合ってない。あちこちのシーンでガス抜きしちゃう。
 その際たるものが、立ち回りのシーン。音がひどいよー。シャキーン!とかグサッ!とかドスッ!とか効果音が流れんの。せっかく溜めてきた圧力がどんどん抜けていって、殺陣の緊張感が台無しよ〜。新感線の公演では有効だったとしても、この台本には逆効果じゃない?
 効果音だけじゃなくて、殺陣そのものが凄くお約束で安直。堤真一や岡本健一がちゃんと役を生きて戦っているのに、相手役の人たちは皆、その他大勢のつもりが見え見えで、殺気が全く立ちのぼってこないから、嘘っぽい。
 全体的に、主役級の人たちと、周りを囲む役者さんたちとの演技の落差が激しすぎる。それは結局演出家が、隅々まで緊張感を保とうという気が無いってことなのよ。
 
 しかし1980年代にもなって、なぜこんな時代錯誤感のある戯曲を宮本研は書いたのかしら?
 さっきふと思いついたのは、蜷川演出の『近松心中物語』の成功があった影響かな。思いっきり推測です。

 
 それでもマダムは、堤真一、岡本健一、宮沢りえ、風間杜夫の演技を見ているのが楽しかったし、わくわくしたよ。全体の印象はともかくとして。
 それはマダムが彼らのファンだから、ではなくてね。
 彼らがどんな時も、役を生きることに誠実で、てきとうにこなすなんて絶対にしない役者だからなの。
 
 にしても、堤真一が気の毒になってきたわ。
 『寿歌』『TOPDOG UNDERDOG』そして本作と、主演作が三つも続けて失敗作だなんて・・・うーん、なんとかしてほしい。

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