最近の読書

ちょっぴり歌舞伎

野田作品、そのまま歌舞伎になる

 建て替えられた後、初めて行った! 8月12日(土)18:30〜、歌舞伎座。

八月納涼歌舞伎第三部『野田版 桜の森の満開の下』
坂口安吾作品集より
野田秀樹/作・演出
出演 中村勘九郎 市川染五郎 中村七之助 中村梅枝 中村巳之助
   片岡亀蔵 坂東彌十郎 中村扇雀 ほか

 古い歌舞伎座が取り壊される前になんとしても、と子供を連れて行ったのが、2009年の『野田版鼠小僧』だったの。
 そして、新装なった歌舞伎座にまだ行ったことがなかったマダムが、初めて行くことになったのが『桜の森の満開の下』。もう歌舞伎座に戻ることはないのかと思っていた野田秀樹が演出するというから、マダムも一緒に戻ってきたのよ。
 知り合いに「どんな席でも良いので」とチケットをお願いしておいたら、なあんと桟敷席が来てしまって!もう、こんなお大尽気分は最初で最後だろうと、ウキウキしながら出かけて行った。開場と同時に中に入り、お大尽な席を確認してから、三階まで上がって劇場全体を見渡したわ。以前ほど傾斜がきつくなくて、三階席は怖くなくなってた(前は、転がり落ちそうな気持ちがした)。しかし、良い劇場だ〜、歌舞伎座。芝居を観る喜びに溢れてる。
 三階ロビーに掲げられた、亡くなった歌舞伎役者たちの写真を眺め、その錚々たる顔ぶれの中に勘三郎の姿を見つけてちょっと悲しくなり、落ち込んだところに、甘〜いいい香りがしてきたの。吸い寄せられるように屋台でたい焼きを買って、お大尽席でお茶を飲みつつ、たい焼きを食べてたら開演時間になった。
 
 お話は(細かく説明するつもりはないけど)、浦島太郎的な、昔話というか寓話という感じ。耳男という男が一人、竜宮城ならぬ桜の森に迷い込み、妖しくも美しく残酷なお姫様に会い、魂を持って行かれてしまう、そういう物語。そこにオオアマという男の天下取りの副筋が絡む。
 幕が開いた途端、桜の森の湿った美しさに息を呑んだの。
 薄暗い、湿った妖気の漂う、怪しい桜の森。蠢く鬼(妖怪)たち。
 『桜の森の満開の下』は野田秀樹としては再再演くらいらしいけれど、マダムは今回が初めて。芝居が始まって吃驚。完全に遊眠社だーと思って。
 本は言葉を少し七五調にしたくらいで、殆ど変えていないらしい。でも、歌舞伎役者がやると、歌舞伎になるんだね、これが。野田秀樹が「歌舞伎って何?」と訊いたら勘三郎が「歌舞伎役者がやれば歌舞伎」と答えたそうな。ていうか、そこ以外に、遊眠社との違いが見つけられない。それくらい、野田戯曲が、まんま歌舞伎になってた。
 ただ、野田戯曲の特徴である、言葉遊びに関しては、歌舞伎役者たちにはちょっと(ノリが)難しかったのか、聞き取れなかった箇所が多かった。言葉遊びを効かせるための畳み掛けるスピードも、足りなかったし。一方で、動きに関してはNODA・MAP以上にNODA・MAP。桜の森に妖しく蠢く鬼(妖怪)の動きとか、鬼の遊園地のシーンで、人海戦術でジェットコースターやメリーゴーランドを描いて見せるところなんて、さすがの身体能力なのだった。
 
 とにかく夜長姫(七之助)の、ぞわ〜っと背筋が寒くなるような美しい冷酷さがたまらないの。もう化け物ですね、彼。化け物の役なんだけど。
 耳男(勘九郎)は「調子が良くて気が弱い」っていう、お父さんがやったら滅茶苦茶上手かっただろう役なので、少し損をしているかもしれない。でもこの役は彼にぴったりだった。
 それと、一人だけ人間だった(?)オオアマ(染五郎)の演技に迷いがなくて、感心した。オオアマは、鬼の世界の勢力争いをうまく利用し、夜長姫を娶り、天下を取るのだけど、イケメンの青年がどんどん策謀家の顔を見せていくところをうまく演じてる。
  
 
 観ていると、どこか上の方から「なぜ俺にやらせない?」って勘三郎が化けて出てきそうに思えて。
 『足跡姫』からスタートして『表に出ろぃ』まで、野田秀樹が1年かけて勘三郎を鎮魂する、クライマックス。セットも衣装も、さすがの歌舞伎座、豪華だったよ。
 ビリー・エリオットを観て、イギリスへの敗北感に打ちひしがれてたマダムだけど、たった一週間で、これが日本の芝居だよ〜って心の中でほくそ笑むことができて、すっかり気持ちは挽回したのだった。
 
 観終わった後に、『演劇界 9月号』の野田秀樹のインタビューを読んだの。この『桜の森の満開の下』も、勘三郎と一緒に、やりたいねって話していた作品なのだそう。とてもいいインタビューだったので、観劇に満足した方は、読んでみてね。

天才と名人

 久々に、本を読んで、話したいことが山ほど出てきたので、紹介するね。

 
『天才と名人  中村勘三郎と坂東三津五郎』
 長谷部浩 著  (文春新書 2016年2月刊)
 
 3年ほど前に中村勘三郎が57歳という若さで亡くなってしまった時の、あの途方に暮れた気持ち、今も胸に痛いほど、残ってる。振り返るのさえまだ、痛みを伴うわ。
 マダムはさほど歌舞伎を知ってるわけじゃないのに、この深い喪失感はどうしてかしら? 
  疑問は、この本を読み進むにつれ、ゆっくりと解けていったの。
 
 著者の長谷部浩は、あらゆるジャンルの芝居を観ている人で、マダムの拙い知識で言えば、蜷川幸雄や野田秀樹に長いインタビューを試み、本を書いている人。だから意外だったわ。こんなに以前から、しっかり歌舞伎を観てきて、二人の役者を公私ともに知っていたとは。
 勘三郎を天才、三津五郎を名人と呼び、二人の軌跡を、デビュー(ほんの子供だった頃)から、死に至るまで、時間とともに追っていく。歌舞伎についての豊富な知識と、それでも、歌舞伎にべったり肩入れしない、公平な目のようなものをもって、二人の有り様を解説してくれる。門外漢のマダムにも、伝統芸能がどういうものか、今更ながら、理解できたの。
 小さな頃から役者としての才能と「人たらし」な魅力を兼ね備えていた、天才、勘三郎。それに対し、若い頃はかなり日陰の存在で、一歩一歩地道に芸域を広げていった名人、三津五郎。同じ歌舞伎界にあっても、光の当たりようは大きく違っていた。だから、ライバルとしての人間模様をグリグリと追求する・・・というような書き方もあったと思うし、センセーショナルに書けば、もっと一般受けするような本にもなったと思うのに、著者はそうしなかった。愛はあるけど、少しだけ離れたところから俯瞰するような、深入りをしないスタンス。そうでなければ、演劇評論家でいられなかったのかもしれないわ。だって、あまりにも勘三郎は人として魅力的だし、深入りして惚れてしまえば、客観的な劇評などすっ飛んでしまうものね。著者は、そうならないように、踏みとどまってきたのかも。
 
 そして、幅広く演劇を観てきた人が書いた本だからこそ、読むにつれ、マダムの中に猛然と形になった思いがあって。なんの根拠もないのに、なんだか確信めいたものになりつつあるの。それをこのあと、書きます。
 
 勘三郎&三津五郎がこの20年くらい取り組んできた、コクーン歌舞伎や、野田秀樹をはじめとする作家に依頼して作り出した新作ものは、現代演劇ファンのマダムをも歌舞伎に連れ込む力があった。マダムは、必死に抵抗していた。だって、もし、歌舞伎に完全に連れ込まれたら、もう現代演劇ファンでいられなくなっちゃう。お金と時間には限りがあるから、歌舞伎に全部取られちゃうもん。
  一時期、現代演劇で観たいものが極端に減ったことがあって、その時は本当に危なかった。同じ頃、コクーン歌舞伎が凄く盛り上がっていたし、歌舞伎はやらないと言ってた野田秀樹すら、勘三郎に口説かれて、歌舞伎に引き込まれそうになっていた。一緒にマダムも、歌舞伎側に行ってしまいそうだった。
 実際、出来上がった「野田版鼠小僧」とか「野田版研辰の討たれ」とかは、野田節炸裂ながら、受け継がれてきた歌舞伎役者の動きを生かしきった、これぞ現代の新作歌舞伎と言えるようなものだったわ。勘三郎と三津五郎に当て書きしたと思える役柄もあって、野田秀樹も芸劇の新作以上に、熱が入ってる感があったの。歌舞伎役者たちの技術の高さに、惚れてしまったのかもしれない。歌舞伎はね、二人のような主役級の役者だけじゃなく、アンサンブルの役者が凄いハイレベルなの。だから、アンサンブル使いの野田秀樹にとっては、たまらなかったんじゃない?
 勘三郎が逝って、歌舞伎座での新作上演の流れは途絶えて行き、コクーン歌舞伎もひと頃の勢いを失った。野田秀樹ももう、歌舞伎のために新作は書かないでしょう。いえ、書けないでしょう。役者の魅力が書かせたものだったのだから。
 それとともに、マダムには、歌舞伎の呼び声が聞こえなくなった。もう、抵抗する必要もなくなったの。
 だから、だからね。勘三郎と三津五郎とが、70代まで生きていたら、現代演劇史というか、現代演劇地図は今とは違うものになっていったかもしれないと思うのよ。現代演劇の中心が、ぐっと、歌舞伎側に寄ったものになったのでは?
 二人が亡きあとは、歌舞伎はやっぱり古典芸能で、現代演劇との間に、もとどおりの深い川が流れている。二人がいた時、水かさは減り、素足で渡れそうな中州が出来かけていたのに。もう中州はすっかり見えなくなってしまった。マダムは今後、川を渡ろうとは思わないのではないかしら。それこそが、この深い喪失感の正体。
 芝居って、徹頭徹尾、役者の肉体に宿るものなのね。儚い。
 
 とても良い本。歌舞伎ファンでなくとも、読んでみてね。

嗚呼、勘三郎

 今日はこのブログを始めてちょうど、まる5年目の記念日。だから、全く違う内容の記事になるはずだったのに。
 中村勘三郎が亡くなった。

 朝のニュースで知った後、今日一日、心ここにない状態でいたわ。歌舞伎ファンとは言えないマダムでさえこれほどの衝撃なのだから、ファンはどれほどの辛さかしら。心がとても痛い。
 これは歌舞伎界のみならず、演劇界全体の大きな、大きな喪失よ。あの躯の動き、あのサービス精神、あの好奇心、あの明るさ、あの人脈、あのプロデュース能力、どれをとっても一流の、最高に魅力的な役者じゃなかった? あと20年は私たちを楽しませ、心を温めてくれるはずじゃなかったの?

 マダムは3年前のクリスマスイブを歌舞伎座で過ごした。子供を連れて『野田版鼠小僧』を観に行ったの(そのときのレビューは→ここ) 。本当に本当に楽しい、面白い舞台だった。幸せだった。あの時のことを思い出して、今日、ニュースを見ながら子供は涙ぐんでいたよ。勘三郎がもうこの世にいないことが信じられない、と言って。
 重篤であるという噂が流れても、きっと帰ってきてくれると思わせる人だったわ。だからマダムは、新歌舞伎座の完成に合わせて戻ってきてくれると、勝手に信じていたのよ。それなのに。
 天が決めたこととはいえ、天はあまりにも無情だ。 

イヴにふさわしい『野田版 鼠小僧』

 かねてより、一度子供に歌舞伎を見せてやりたいと思っていたの。それも、今の歌舞伎座の建物が無くなってしまう前に。
 子供にもわかるような演目を待っていたら、ちょうどクリスマス・イヴと重なった。

『野田版 鼠小僧』
 野田秀樹 作・演出
 出演 勘三郎 福助 橋之助 勘太郎
    七之助 扇雀 三津五郎 ほか

 平成15年に初めて上演されて大好評だったものの再演なのだそう。たしか、シネマ歌舞伎にもなってたわ。でも映像で見ちゃわないで、ナマで初めて観て、ホントによかったー。
 勘三郎演じる棺桶屋の三太が主人公。三太は誰かが死んでくれて自分が儲かることしか考えてないような男なの。兄弟が亡くなっても、遺産のことにしか興味がない。横取りされた遺産を取り返そうと盗みを始めるんだけど、千両箱を担いで屋根から屋根へと逃げる時つまづいて千両箱をとりおとし、小判を町にバラまいてしまったことから、鼠小僧と呼ばれるはめになる。
 ホントは欲張りを絵に描いたような男なのに、善い泥棒と勘違いされちゃったのが、運命の皮肉。三太は自分と同じさん太という名の孤児に、一度だけ、空から小判を降らせてやろうと思っちゃうのね。本来は欲張りなのに、鼠小僧の看板を背負っちゃったせいで、ちょっといいカッコしようとしちゃうの。
 でもその柄にも無いことをしようとしたせいで、本物の悪い奴らの罠にはまり、役人に斬りつけられて、雪の散らつく屋根の上で死んでいく。

 野田秀樹らしい、乾いたユーモアにくるまれてはいても苦い真実のお話。手法が見事に歌舞伎なので、歌舞伎座でやっても全然違和感がないの。でも、お話の本質は野田秀樹そのもの。古典歌舞伎にありがちな義理人情を描きはしないの。以前『研辰の討たれ』をシネマ歌舞伎で観たけれど(レビューは→ここ )、根底に流れる世界観は同じなのね。

 いつもNODA・MAPで美術を担当してる堀尾幸男の組んだセットが素晴らしいの。
 回り舞台を利用して、こっちがわは三太の住む長屋。くるりと回ると泥棒と役人が追いかけっこを繰り広げる江戸八百屋町の屋根瓦。それがまたセリになって て、高さが自在に変化するので、場面転換のなんとスムーズなことよ!歌舞伎でありながら野田演劇らしいスピード感ある芝居を可能にする、とても素敵なセッ ト。
 そのセットと完全に一体化して動き回る歌舞伎役者たちの身体能力の高さは、NODA・MAPの芝居に引けを取らない。っていうか、それ以上かもしれないと感服したわ。


 なにより感動したのはね、いつもの歌舞伎座なら絶対に起こらないカーテンコールがあったのよ!
 すぐに客電がつかなかったので、もしかしてと思って拍手を続けたら、幕が開いてね、勘三郎がニコニコしながら、挨拶したの。
「いつもなら、カーテンコールってのはしないんですけどね、今日は、クリスマスイヴなのに、わざわざ歌舞伎座にお越しいただいたんで、特別です」って。
「7年くらい前、野田秀樹と酒飲んでる時にね、人んちに忍び込んで贈り物をそっと置いていくのって、鼠小僧とサンタクロースって似てるね、って話になりまして。それで野田秀樹がこんな芝居、書いてくれました。今日はどうもありがとうございました」って・・・やったー!ドンピシャにイヴにふさわしい芝居だったんじゃん!
 もちろん、ここまで読んで勘のいい方は気がついたわよね。三太はサンタだもん。
 そのほかにも、音楽は三味線なのに「赤鼻のトナカイ」だったり、雪も普通の紙吹雪じゃなくてラメがはいってたりして、12月にぴったりなお芝居だったのよ。
 いやー、幸せなクリスマスイヴだったわ。

『野田版研辰の討たれ』にひれ伏す

 

 シネマ歌舞伎『野田版研辰の討たれ』を観に、東劇へ行ってきた。シネマ歌舞伎は『ふるあめりかに袖はぬらさじ』(レビューは→ここ )に続いて2度目。

 野田秀樹が『研辰』で歌舞伎を初演出したのは2001年8月の納涼歌舞伎。以来、『鼠小僧』『愛陀姫』の計3作品を演出し、歌舞伎座で野田演出が観られるのも恒例になったよね。
 のだけれど、マダムは今まで1本も観てなかったの。チャンスがなかったと言えばそうなんだけど、わざとチャンスを作らないようにする力が自分の中に働いていたような気がする。
 だってね、これは中村勘三郎の陰謀だって思うのよ。コクーン歌舞伎に続いて野田秀樹まで歌舞伎に引っぱり込んで、マダムを歌舞伎の世界に引き寄せようとしている!一度足を踏み入れたら、もう決して逃げられないに違いない、甘美な世界。時間もお金も捧げ尽くしてしまうに決まってる。罠だわ、これは・・・。
 マダムは他の芝居を観続けるために、これまでこの甘い罠を避けてきたの。でも、シネマ歌舞伎ならいいかな、って油断した。で、飛んで火に入る夏の虫よろしく、舞台の炎に身を焦がしてしまいました。
 この初演をナマで観た人は、野田ファンであれ、歌舞伎ファンであれ、立ってる地面に激震が走り地割れが起きて穴に落ちるような衝撃だったに違いない。羨ましー!!マダムも一緒に地割れの中に落ちたかった。こりゃ、『NINAGAWA十二夜』に匹敵する、素晴らしい舞台よ!

 お話はもともと歌舞伎の中にあったようで、まずは見つけてきたのが凄い。だって、普通の歌舞伎の中によくある義理や人情や忠義や、ドロドロの恋愛、ドロドロの恨み、どれもこれも野田秀樹にはふさわしくない。よくぞ、こんなユーモアと皮肉たっぷりの、お誂え向きの話があったよねえ。『討たれ』っていうのが、いいよね。仇討ち、っていうといつも討つ側のカッコいい話だけど、『討たれ』る側のカッコわるい話なのがツボにはまる。
 そして野田がいつもコンビを組んでいる美術(堀尾幸男)や衣装(ひびのこづえ)が、歌舞伎の世界に新風を吹き込みつつもちゃんと歌舞伎におさまっているのが見事で。野田チームも凄いし、なんていうか、歌舞伎のキャパの広さを改めて思い知ったわ。
 たとえば、坂道が上ったり下ったりしているだけの回り舞台があって、そこを仇を捜して旅する兄弟(市川染五郎と中村勘太郎)が、ひたすらぐるぐるぐるぐる歩くの。回り舞台もぐるぐる回るの。そして次から次へいろんな人がすれ違い、それで季節が巡り年月が経ちました、って示すのだけど、その演出がいかにも野田秀樹らしく、そしてまた歌舞伎らしくも感じるから不思議!野田秀樹の魔法と歌舞伎の魔法は、重なってるところが沢山あるのね。
 
そしてそして役者の動きがね。今までの歌舞伎にはあり得ない野田演出ならではの動きと、歌舞伎の伝統的な動きとが、がっぷり四つに組んで、隙のない、どんな一瞬も見惚れてしまうような芝居になってる。素晴らしいのは歌舞伎役者たちが、NODA・MAP以上に「野田役者」になりきっていること。マダムはね、いないことは知っているのに、画面の中に野田秀樹を探してしまったわ、無意識に。この中にもし役者野田秀樹がいたら・・・歌舞伎座ではあり得ないことだけどね。でもそんな想像をしてしまうくらい、野田演出らしい動きが満載だった。
 楽しくて、展開が速くて、笑って、息をのんで、喝采して、最後に少し苦いものが残る。芝居の王道のような舞台。再再演があるなら・・・マダムも白旗を揚げて観に行くでしょう。

 最後にひとつだけ。シネマ歌舞伎というジャンルについて。
 今回、画面の美しさは変わらなかったけれど、観た印象は「芝居の舞台中継」により近かった。『ふるあめりか』の時は、ナマの舞台でもなく、かといって舞台中継とも映画とも違う新しいジャンルだ!ってびっくりしたの。でもそれは『ふるあめりか』の、極力客席を映さない編集によるところが大きかったのね(玉三郎自身の編集による)。
 『研辰』は、花道だけじゃなく客席の通路を役者が走り回ったりするので、折々に劇場全体が映る。そのカットが「あ、これは中継映像なんだっけね」と現実に引き戻すのよ。『ふるあめりか』では、マダムは途中からナマの場にいるような錯覚が起きたのだけれど、『研辰』にはそういうことはなかった。あ、でもこれは文句ではないの。だってどんなに臨場感があったって、ライブで観た方がいいことは言うまでもないことだものね。

NINAGAWA『十二夜』in LONDON 記者会見!

 『人形の家』について連載中なんだけど、飛び入りでニュース!
 ロンドン公演が決まっていたNINAGAWA『十二夜』についての記者会見が遂に行われたのだそう。友達が、歌舞伎座のホームページに出てるよ、って教えてくれたので、さっそく行ってみた。(→ここ
 蜷川幸雄も尾上菊五郎も菊之助も、遂にここまで来たぞ、いよいよだ、という感じ。会見内容に目新しいことはないけれど、新しい挑戦をするんだ、という意気込みが感じられて、ワクワクするー!
 2009年3月24日から28日まで。バービカンシアター。嗚呼、その場にいられたらいいんだけど・・・・・・・・・・やっぱり、新橋演舞場かな・・・。

坂東玉三郎の凄み『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

 シネマ歌舞伎というものを初めて観た。玉三郎主演の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』。中身の素晴らしさに触れる前に、このシネマ歌舞伎という形式についてなんだけど。
 正直言って、観に行く前はマダムは懐疑的だったの。しょせんは舞台中継じゃないの、それを映画館でお金とって見せるなんて、ってね。NHKやWOWOWでやってる舞台中継を、大画面で見ることでなにか違いがあるのかしらって。もちろん、ライブを見逃した人(つまりマダム自身のこと)にとっては有り難いものではあるんだけど、でも・・・?と思いながら東劇に出かけていった。
 ところがところが!観終わって、うなってしまいました。これはただの舞台中継ではないのよ。かといって、映画とも違う。新しいジャンル、だと思った。
 まずね、圧倒的に画面がきれい。ハイビジョンなんだろうけれど、デジタルで撮影してフィルムに焼き付けてるのよね、きっと。そのやり方はもう映画だって取り入れてるだろうに、こんなきれいな画面の映画を見たことがない。もちろん舞台を写しているので、外光を読む難しさはないんだろうけれど、それにしてもこの画面の美しさだけでも語る価値がある。映画関係者は一度これを見て、自分たちの作った映画の画面と比べてみるべきじゃないかしら。
 次に、編集の素晴らしさ。
 最後のテロップで確認したら、編集には編集マンのほかに玉三郎自身の名前があり、それがこの、舞台の魅力を余すところなく伝える結果につながったんだなあと、つくづく感心。お話を味わうには、ある時には舞台全体が見えた方がいいし、ある時には人物の表情を捉えた方がいい。客席は写らないけど、ほどよくお客さんの反応も聞こえた方が臨場感がある。舞台にはそもそもカット割りがないのに、ここではしなきゃならなくて、それはほとんど映画監督並みの判断が必要なわけで。やってのける玉三郎という人の、役者を越えた才能の凄さに心底感服したの。
 これまでずっと自宅のテレビで舞台中継を観てきたけれど、「舞台中継」の概念を根本からひっくり返されちゃうくらいの、インパクトがあったわ・・・。舞台はライブで観るのに限ると断言してきたのに、それが揺らぎそうなくらい、完璧な舞台中継映像だった。

 ここからは芝居の中身について。
 これがまた良かったー。観てない人は是非観てから、読んでください。観る前に知っちゃうのは、もったいな過ぎる。観る気のない人は読んでみて。すぐ観たくなるから。(って、もう、なに言ってんだか)
 幕が開いて、舞台は暗くって、玉三郎演じるお園の声だけが聞こえる。「朝になったら窓くらい開けてくれたっていいのにねえ、近頃の若い人は気が利かないよねえ、全く」みたいな台詞が聞こえてきて、がたがたと音がして雨戸(花魁の亀遊が臥せっている部屋の)が開くと、日が差し込み、お園の姿がシルエットで浮かび上がり、微かに海鳴りと汽笛が聞こえる・・・ああ、一気に惹き込まれる、たまらない出だし。なんて上手いんだ。
 この最初のひと言を聞いただけで、お園がどういう人かを感じちゃう。あけっぴろげな性格の女だな、って。声や言い回しがお園そのものだから、最初からパッと、わかる。
 そこからはもうずっと玉三郎から眼が離せない。病気の亀遊を心配して世話する姐さんぶり。亀遊と藤吉の恋仲をからかいながらも見守るお茶目な様子。三味線を弾く時の決まってる芸者っぷり。亀遊が自害したあとの嘆きよう。藤吉に亀遊のことを忘れるな、と念を押しながら、自分は亀遊の自害に居合わせたことを売り物にして、芸者を続けていく、調子の良さ。したたかさ。愚かさ。弱さ。そして寂しさ。
 なにげない台詞のひと言も、ちょっとした手の動きも首の傾きも、着物の裾さばきも、腰を抜かして這い回りながら、酒をあおる仕草も、ぜーんぶがお園そのもので、人間臭くて、魅力的なのよ。片時も、見ていて飽きることのない演技。しかも、どれもこれも普通の歌舞伎(っていうか、つまり古典の時)では見たこともないような玉三郎だったの。素晴らし過ぎる。
 逆に言えば、役者の持っている演技の魅力を、最大限引き出すような役だ、ということよね。本を書いた有吉佐和子は天才だー。
 この芝居の肝は、なんといっても後半。亀遊の自害は、あらゆる不幸が重なったものだったのだけれど、それがいつの間にか攘夷の女郎だったと、もてはやされるようになる。商売に長けた女郎宿の主人(勘三郎がまた、ぴったりなのよね)は、それをネタにして客を呼び、お園は主人に押されるように、作り話の片棒を担ぐ。そのうちに、片棒どころか、中心人物になっちゃって、「攘夷女郎の最期」の語り部になって登場するともう、場内大爆笑。
 だけど大得意の語りの最後に嘘がバレて、攘夷武士に斬られそうになる。平謝りに謝ってなんとか逃れ、武士が去ったあと、お園は腰が抜けちゃって起き上がれない。ひとり、這い回って酒をあおり、気を取り直して負け惜しみの啖呵を切る。「ふるあめりかに袖はもう、びしょびしょでござんすよ!」
 生きるために情も悲しみもからめとられてる自分を、思いっきり皮肉って、芝居は終わる。面白くて夢中で観て、笑って、そして最後に少しだけ、でもしっかりと苦いものが残る。いい芝居の王道のような芝居だったー。
 もともとは杉村春子のために書かれたもので、当たり役と言われてる。残念だけどマダムは観てなくて、でも今回玉三郎の中に、杉村春子がいるような気がしてならなかったの。これは決して、玉三郎が真似してるとかいうことではなくて。役の魂を継いだ、と言えばいいかな。
 この魅力的な役は、実は諸刃の刃なのではないかしらん。場面ごとに泣かせたり笑わせたりして、飽きさせないようにできているので、ある程度の役者なら、メリハリを付けて面白くやれる役なの。でも、慣れたとたんあっという間に型にはまる気がする。型を見せるだけでも、面白くやれちゃう。でもそれだときっと、最後に残る苦いものは、薄味になってしまうでしょう。
 坂東玉三郎は、その諸刃の刃の上をぎりぎりで渡ってみせる希有な役者だということなのよ。

ロンドン、ロンドン、ロンドンで『十二夜』!

 たった今、ニュースを読んだんですけど(遅い!?)、あの菊之助主演の『NINAGAWA十二夜』が来年3月にロンドンのバービカンセンターで上演されることになったのね!
 
これを聞いて、もう、マダムの脳内、小人やらフォーンやらセントールやらが跳ね回っているような状態になっちゃった!(いや、つまり、使い物にならなくなったということよ)
 昨年、歌舞伎座で再演を観た時、「これこそロンドンにもっていくべきだわ」とマダムはひとり鼻息を荒くして考えていたのだった。シェイクスピアを輸出してくれたイギリスへの、本物の恩返しになるよ、と(恩返しっていうか、倍返しだわよーっ。はっきり言って、どうだーっっ!と既に勝ち誇ったような気持ち)。
 まあ、菊之助自身、インタビューで「これは僕の夢ですけど、ロンドンにもっていけたらなあと。夢ですよ、夢!」って言ってたのよね。でもそうやって言葉に出す以上、ただ夢でいいとは考えてないだろうと思ったんだけれど。やっぱり!水面下ではちゃんと計画が進んでいたわけね。
 こうなると、あの舞台がロンドンの人にどう受け止められるのかを、この眼で確かめたい衝動に駆られるよ。でもマダムはたぶん行けない(涙)。どこかのテレビ局で、密着取材を敢行してくれーっ。あと、行ける人はみんな行って、マダムにレポートを提出しなさーい。
 マダムは埼玉で『ムサシ』を観ながら、レポートを待つことにしましょう。ああ、ため息。

ミイラ盗りがミイラになる『夏祭浪花鑑』

 今年のコクーン歌舞伎は『夏祭浪花鑑』なのだそうね。
 マダムは行かないことに決めている。面白いだろうと思うけれど、自分の中での予算と時間の配分を考えて、決めたの。それで、このビデオを観ちゃえば、ある程度満足できると期待して、観ちゃったんだ。『平成中村座ニューヨークへ行く 夏祭浪花鑑』(2004)。
 これは芝居の中継録画というよりも、平成中村座をニューヨークでやっちゃうという一大イベントを、中村勘九郎(この時は勘三郎襲名はまだ)がニューヨークに到着するところから密着取材した、ドキュメンタリー。リンカーンセンターの広場に忽然と出現した、茶色の壁面の美しい芝居小屋。周りには出演者の名前を染め抜いた色とりどりののぼりが立てられて、もうその雰囲気だけで、ああ、芝居が始まる、ってワクワクする。
 そこに勘九郎が登場するのだけれど、アウェイで芝居を打つってことはこんなに大変なんだ、って思い知らされる展開になるの。クーラーの音が馬鹿うるさいわ、アメリカ側のスタッフに日本家屋の構造から説明しなきゃならないわ、スタッフの労働協定の制約で、稽古が途中で打ち切りになるわ、もう観てる方がぶち切れそうになるくらい。
 それでもあらゆる困難を乗り越え、初日の幕は開く。もちろん大方の客はニューヨークの人だけど、驚いたことにちゃんと「大向う」の人も日本から来ていて(いや、これは連れて行って、いるのよね、きっと)要所要所で「中村屋!」の掛け声がかかり、芝居小屋は歌舞伎座よりも歌舞伎らしい雰囲気に包まれてた。その中で圧倒的な迫力で押し進む勘九郎の団七。圧巻は、舅の義平次(笹野高史)殺しの場面。何本ものロウソクの灯りが照らし出す、むごたらしくも美しい、そして背筋も凍るような殺人シーン。
 芝居が終わると、もの凄いスタンディングオベーション。楽日にはカーテンコールがいつまでもいつまでも続いて、この日はアメリカ人スタッフも時間制限なしの、歌えや踊れのカーテンコールになった。
 シナリオ通りなんじゃないかという感動的展開に、マダムは不覚にも眼がうるんでしまい、心は完全に一座の一員になってしまったのよー。よかったーっ、成功してー。
 でもよくない。コクーン歌舞伎に行かないで済まそうとビデオを観たのに、こんなに肩入れすることになっちゃって。ミイラ盗りがミイラになるとはこのことだわ。(それにしてもミイラ盗りって変な言葉。ミイラを盗りにいったんじゃなくて宝を盗りにピラミッドに侵入したわけでしょ?ま、いいんだけどさ)

 これはドキュメンタリーであって中継録画ではないので、ニューヨークでの舞台のすべてを収録しているわけではない。それでこの芝居の見所については、大阪の凱旋公演を収録して、ビデオの終わりの方にくっつけてある。でも全部ではない。通して観たい人は劇場へおいで、ってことなのね。わかったよ。
 でもこのビデオを観て、凄ーくいろんなことが整理された気がする。疑問点もはっきりしたような。
 ひとつにはね、マダムが去年観た二本の歌舞伎は、どっちも演出家がいる作品だったってことで。『三人吉三』は串田和美演出、『十二夜』は蜷川幸雄演出。で、この『夏祭浪花鑑』も串田和美演出。やっぱり演出家がいるってことは、ひとつの物語をラストまで語るには大事なことなんじゃないかしらん。でも普通、歌舞伎座でやっている演目には演出家はいないでしょ?
 だいたい、歌舞伎座の演目はバラバラでしょう?いろんな狂言のいろんな場面の寄せ集めで出来ている。あたりまえのように思っているけど、ふと気がつくと実はすごく変。あんな形態で芝居を上演している劇場って、他の国にはあるのかな。オペラとかにはあるのだろうか。
 あれって、たとえば、昼の部で『ロミ・ジュリ』のバルコニーの場面と『ハムレット』のポローニアス殺害の場をやって、夜の部は『マクベス』通し狂言、マクベス夫人手洗いの場面から、バーナムの森が動くまでお見せします、みたいなことなわけよね。メチャクチャ不思議な上演形態だと思う。江戸時代からあんな風だったの?まさかね。じゃあ、いつから始まったんだろう、今のやり方は?
 学生時代のマダムにとって、この上演形態はけっこう有り難いものだった。一幕だけ、安いお金で、観たいところだけ観られたからね。だけど、完全なる歌舞伎ファンにならなかったのも、この形態に原因があったかもしれないね。だって、つまみ食いのようにいろんな場面を観てたって、いっこうに物語は見えてこないでしょう? 2時間なら2時間、ひとつの物語を見切ってカタルシスを得て満足する、それが観劇の醍醐味よ、と思ってるマダムは、結局歌舞伎ファンにはならなかった。
 勘九郎がいろんなところで言っているように「歌舞伎を21世紀の生きた演劇にする」には、あの上演形態が少しずつ変わっていかないといけないようにマダムは思うけどな。
 もちろん今の歌舞伎を愛してる人たちが沢山いるのもわかっちゃいるけど、それはそれ、でね。

 それともうひとつ発見したことがあって。あのね、歌舞伎って、マンガに似てる、って思ったのよ。
 だってね、役者が科白を言うでしょ「本当にすまねえ」。でもそれとは別に義太夫が役の気持ちとか状況とかを説明してくれるじゃない?「こらえきれずに」とかって。で、またそこにツケとか拍子木とかで効果音入れるじゃない?で、さらに見得きったり、スローモーションになったりもするでしょう?この多重構造が、マンガに似てるのよー。
 マンガも、人物の科白と、心境や状況を説明する地の文と、効果音と、そのほかハートマークとかハートが割れてるとかひょうたんつぎとか、多重構造じゃない?似てるよー、すごおく。
 うわあ、なんだか画期的な発見したような気になってきた。でもね、歌舞伎がマンガに似てるんじゃなくて、マンガが歌舞伎に似てるんだわね、順番から言って。

遥かなる歌舞伎の呼び声

 春休みで暇を持て余している子供を連れて、地元の図書館に行ったの。子供が本を選んでいる間に、マダムも演劇関係の棚のあたりをぶらぶらしたら、面白い本、見つけちゃった!
『橋本治歌舞伎画文集 かぶきのよう分からん』1992年 演劇出版社刊
 1992年(平成4年)発刊なので、かなり古い本だし、大きくて重くて、そのうえ高い(4500円)。図書館でしか探せないような本よね。皆さんご存知の稀代の才人、橋本治の描いた役者絵と、歌舞伎論とか役者論とかをまとめたもの。どこにも断り書きがないのだけれど、たぶんこれは、雑誌「演劇界」に連載してたものを集めたのじゃないかしらん。
 とにかく絵のうまさ、というか面白さに惚れ惚れする。かなりデフォルメされている絵なんだけれど、役者の顔の特徴も、役の所作の特徴も、着物の風合いも、何もかもを知り尽くしてて、やすやすと一本の線で、捉えちゃってる。味わい深い、いい絵なの、どのページも。
 マダムは歌舞伎には詳しくないので、もちろん知らない役者も沢山描かれているわけだけど、それなりに知っている人(たとえば玉三郎とか、片岡孝夫つまり今の仁佐衛門とか、尾上菊五郎とか、勘九郎つまり今の勘三郎とか)と、ちょっと知ってる人(たとえば中村歌右衛門とか、中村芝かん・・・ああ、漢字が出ないよ)だけでも、充分に楽しい。
 写真じゃなくて絵だ、というところに大きな意味がある。橋本治の眼と心を通ってるから、その役者のどこに惚れてるのか、絵が語る。愛があるの。歌舞伎への深くて、長い愛。
 文章がね、またいいんですよお。
 毎月雑誌に連載してたコラム形式だから、ひとつの文章が長からず短からずで、内容も難しくなくて、でも橋本治らしいモノの見方がてんこ盛り。書き出しをちょっと引用してみるとね。「歌舞伎ってどこが面白いんですか、と訊かれると、大体は、バカバカしいから、と答えることにしています」とかね、「ここだけの話ですけど、忠臣蔵って本当に面白いと思います? あんまし面白くないでしょ、辛気くさくて」とかね。そういうとこから始まって、歌舞伎の魅力にぐぐっと迫っちゃう。それに、「歌舞伎って危機だと思う。だってすたーがいないもの」とかって平気で言っちゃう。愛と知識と両方あるから、誰も文句がいえない。いずれにしても、お、それは興味深いゾ、って引き込まれそうなの。これがねー、困るのよねー。

 マダムの学生時代、ちょうど歌舞伎の世界では孝玉ブームだった。これは片岡孝夫(今の仁佐衛門)と坂東玉三郎のコンビが、圧倒的な美しさを誇っていた時代。マダムも一幕見席で、何度か観て、そのたび息を飲んでた。忘れられない。二人の美しくも血みどろの『女殺油地獄』。
 市川猿之助の宙乗りも観た。いつもの3階席が超満員でびっくりしてたら、そりゃ当然。宙乗りした猿之助の化け猫が、触れるほどそばを通ったの。宙乗りのある時は3階席は狙い目だったのよ。そんなことも知らなくて。

 時は流れて。昨年、マダムはそれ以来の歌舞伎、2本観ました。ひとつはコクーン歌舞伎で『三人吉三』。もうひとつは昨年ナンバーワンの芝居に輝いた『NINAGAWA十二夜』。
 どっちも素敵に魅惑的で、ああ、もう、歌舞伎がマダムを呼んでいる、って状態。でもね、そちらの世界に行ったら、もう下界には戻ってこられないような気がするんですう。(って、つまり他の芝居はもう見る暇もお金もなくなってしまうだろうってことよ)だから、今、マダムは必死に踏みとどまってる。だって、こっちの世界には野田秀樹もいるし蜷川幸雄もいるし、藤原竜也も小栗旬も堤真一も、それから風間杜夫だって、いるんだから。みんなを置いて、そっちには行かれないじゃないよー(涙)。頼むからもう呼ばないでー(って、そんなこと言うなら歌舞伎の本なんか読むな!ってね)。
 我が芝居の師(学生時代にシェイクスピアの面白さをマダムに叩き込んだ先生)が、あらゆる芝居を観ながらも決して歌舞伎は観に行かなかったことを、今、思い出すわ。
 究極の、二者択一なのね・・・。

より以前の記事一覧

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

関係するCD・DVD

無料ブログはココログ