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シェイクスピア

終わり良ければすべて良し? イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『オセロー』

 来日公演って短い。当然ブログは間に合わない。11月3日(金)ソワレ、東京芸術劇場プレイハウス。

トネールグループ・アムステルダム『オセロー』
作/ウィリアム・シェイクスピア
演出/イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演 オセロー=ハンス・ケスティング  デズデモーナ=ヘレーヌ・デヴォス
   イヤーゴー=ルーラント・フェルン・ハウツ  エミリア=ハリナ・ライン
   キャシオー=ロベルト・デ・ホーフ
   ロダリーゴー=ハルム・デュコ・スヒュッツ ほか

 
 オランダ語の上演だったので、勿論、字幕付きだったのだけれど、これがあんまりうまくいってなかったの。あきらかにズレズレなところが沢山あったし、字幕に出しきれなくて省略してるんだけど、しすぎてわけわからなくなってたし。
 話は「オセロー」なんだから、みんなわかるでしょ、ってことかもしれないが、本を切ってあるし、やっぱり「このセリフでこの表情!」みたいな瞬間、わかりたい。英語なら少しはわかるかもしれないところ、オランダ語では手も足も出ないのだった。悔し〜。
 一方でオランダ語の、独特の四角張った硬い響き(ドイツ語に近い)でシェイクスピア、というのがとても新鮮だったわ。
 
 
 幕が開くと、舞台は青いカーテンで三方を覆われた広い空間で、オセローとイヤーゴーが半裸で、ソファに身を投げている。ジムの中のサウナ、みたいな感じ。空間は広いのに、空気が重く圧迫感がある。戦いが終わった開放感や、デズデモーナという若くて美しい伴侶を得た喜びとかが、感じられない出だし。もちろん、自分が愛を勝ち得たのだ、みたいなセリフはあるんだけど、一方でデズデモーナのことを「戦利品」と言い、それが例えじゃなくて当然のようににそのつもりなのが、態度のあちこちに見えるの。
 不気味な効果音のような音楽(いや、音楽のような効果音?)がずっと流れていて、その使い方が舞台というより映画の劇盤みたいだった。
 出てくる男たちは全員軍人で、現代に置き換えられているので、きっちりネクタイを締めた軍服を着ている。そうじゃない時は裸。両極端。仕事かセックスしかない。生活ってものが全く無い。舞台が殺伐としてた。
 本を大胆にカットしてあって、話がどんどん進むので、いつも以上にオセローの只ならぬ愚かさが露呈して、いつも以上に呆れるマダム。
 オセローを白人俳優が演じ、他の男たちと違いがわからなくて戸惑った。セリフでは「ムーア人」とか「アラブの出」だとか出てくるけど、オセローとイヤーゴーの人種の違いとか、底にながれる差別感情とかは、正直、感じることができなかった。パンフレットによれば「アラブ系にルーツがあるオセローは外国人なので、周りで起きていることを全ては理解できず、疑念がイヤーゴーによって膨らんでいく」とのことだったんだけど。マダムはからきし受け取れなかった。その微妙さを受け取るには、オランダ語を理解できなければならなかったのかしら?
 
 新しいと感じたのは、デズデモーナの造形。
 小さくて華奢でショートカットのデズデモーナ。妖精みたいに身軽で、無邪気にオセローの周りを跳ね回ってる。オセローとの体格差がすごくて、巨人と小人のよう。片手で持ち上げられ、ひょいと投げられる。オセローの愛を無邪気に信じすぎ、口を出しすぎてしまう。

 イヤーゴーも、日本で上演される時の「色悪」のイメージは皆無。悪の魅力とかは全然無く、ただの悪い中年男。そして、自分を差し置いて出世していくキャシオーに対して、嫉妬しているようには見えない。何もかも気に入らなくて、ただ滅茶苦茶にしたいだけの人、に見えた(いるよね、そういう奴)。
 
 途中の場面転換で、巨大な青いカーテンが一斉に外れ、それが風にあおられて舞台上を舞う中、後ろから大きなガラスの箱(オセローの寝室)がゆっくり現れた。日本の舞台では見たことのない種類のセンスで、度肝を抜かれたわ。
 でもそれ以外は、前半ずっと同じトーンだし、字幕がズレズレだし、いまひとつ 乗れず。このまま行ったら、寝るな、と思ったの。初日なので、関係者っぽいおじさんが多数客席にいたけど、前半終わったところでゾロゾロ帰って行った。でもね、マダムは前半が面白くなかったからって、帰ったりはしないよ。後半何が起こるかわからないじゃない?
 事実、衝撃のラストに向けて、盛り上がった。
 
 全ての条件が出揃って、あとはオセローがデズデモーナに手をかけるだけとなったところで、不気味な音楽が鳴り響く中、やや後方に位置していたガラス張りの寝室がどどーっと前に進んできたの。寝室内の大きなベッドには、半裸のデズデモーナがすでに眠っていることを、観客は知っている。さあさあ、おたちあい!という演出家の声が聞こえるよう。寝室に入ったオセローは軍服を脱ぎ、パンツ一丁でベッドの脇に立ち、眠っているデズデモーナを冷たく見下ろす。獲物を見つめるハンターのよう。妻を殺さなければならない苦しみが、感じられない。
 その状態フィックスのまま、なんと寝室の方の照明が消え、舞台後方に光が当たると、そこでは台詞なしの寸劇のように、ロダリーゴーがキャシオーを殺そうとして失敗したり、キャシオーの情婦が殺されたりする。パントマイムによる舞台説明みたいに、その辺りの顛末が済んでしまい、あっけにとられた。前方ではデズデモーナを見下ろしたオセローの姿がシルエットで立ち尽くしている。
 そして寝室上の照明が再びつくと、フィックスが解けてデズデモーナ殺しの場面になるのだけれどこれはもう、舞台上の型とかお約束とかは一切なしの、まごうかたなき殺人そのものだった。逃げ惑うデズデモーナを捕まえて、枕を押し付けて窒息死させるの。
 そのあと駆けつけたエミリアの叫びと、追いかけてきたイヤーゴー(何故か半裸。寝室から来たから?)によるエミリア殺害まで、徹底して女を見下した扱いだった。
 女たちは殺されて半裸で転がっているのに、オセローは自害するため、ゆっくりと軍服を着るのだ。そしてナイフを首に当てるとき、傍では軍服姿の部下が敬礼している・・・。
 
 緑色の目をした嫉妬という生き物がオセローを狂わせ苦しめる、そういう物語だと思ってきたのだけれど、このホーヴェ演出では色々と切り口が違っていた。
 人種差別的な切り口については、最初に言ったようにマダムは感じられなかったけれど、それよりも圧倒的な、女への差別が描かれていたのよ。
 オセローのデズデモーナ殺しは、嫉妬というより、自分を裏切った女への粛清だったし、イヤーゴーのエミリア殺しも、お喋りの口を塞ぐためではなく、自分に刃向かったからのように見えた。
 オセローのデズデモーナへの愛し方は、ペットへのそれであって、同じ人間の愛ではないの。
 そしてイヤーゴーの悪事のモチベーションは、自分よりキャシオーを重く用いたことへの仕返しではなく、オセローの愛をデズデモーナに奪われたことへの復讐にしかみえなかった。
 緑色の目をした嫉妬という生き物にいちばん取り憑かれていたのは、イヤーゴーだったということかしらね?
 
 
 『オセロー』って、四大悲劇の中でも一番にがてだ。オセロー、バカすぎる。
 男はなぜ、自分がこうと決めたものしか見ないのか?それほど馬鹿なのか。何百年も前からずっとそうなの?どうして客観視できないのよ?・・・そう感じて、ため息をつき首を振る。
 でもすごいのは、そんな男のひとりでありながら、シェイクスピアは冷徹なまでに客観的だってこと。
 プルカレーテの『リチャード三世』に引き続き、刺激を受けた舞台だったわ。
 世界は動いてる。

古強者向け プルカレーテの『リチャード三世』

 ネット上で見た舞台写真の魑魅魍魎感に、ワクワクしながら出かけて行ったわ。10月21日(土)マチネ、東京芸術劇場プレイハウス。

『リチャード三世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/木下順二
演出・上演台本/シルヴィヴ・プルカレーテ 演出補/谷賢一
出演 佐々木蔵之介 手塚とおる 今井朋彦 植本純米 山中崇
   山口馬木也 河内大和 有薗芳記 壤晴彦 渡辺美佐子 ほか

 

 なかなか楽しく観た!
 一方で、稲妻は降りて来なくって、薙ぎ倒されることもなくて。でも満足、という感じかしら?
 どう書いてもネタバレは免れないので、よろしくね。
 
 
 たまたま客席の中に友人がいて、終わった後、話したんだけれど、二人とも開口一番「これ、話を知らない人にはさっぱりわかんないよね〜?」と言い合ったの。
 演出はルーマニアの凄腕演出家、プルカレーテ。欧米の人にとってシェイクスピアは勝手知ったる庭なのね。普通に散歩したんじゃ面白くもなんともないんだ、きっと。
 だからいろんな変化球がてんこ盛りだし、「こいつはこっち側の人間、そいつは敵対する人間、あいつは敵に夫を殺された妻・・・」といった登場人物の立ち位置(わかりきったこと)を示すために知恵をしぼるようなことはしない。したがって、シェイクスピアに詳しくない人、あるいは芝居を見慣れてない人にとっては、話は追えなかったでしょう。事実、マダムのすぐ近くにいた、紳士にエスコートされてきた本物のマダムな方は「参ったわ〜。疲れた〜。どういう話なの?」と紳士を責めていた。紳士が気の毒。
 マダムはさすがにリチャード三世に関しては古強者の方に入るだろうと思うので、お話が理解できないなんてことはなかったんだけど、こういうのって、やっぱり影響がある。客席全体が固唾を飲んで見つめている時は、すごいエネルギーが生まれるし、それを受け止めた演者側が更なるエネルギーを放出して、いい循環が生まれる。でも、客席の4分の1か5分の1かが、ついていけずに戸惑ってたり寝てたり飽きてたりすると、不思議と、理解して見ている客のテンションもじわじわ下がってきてしまうのよ。
 
 だから一番良かったのは、幕開き。出だしが素晴らしいの!
 開演前にちゃんと幕が降りてる舞台って最近、珍しい気がした。ぴったりと降りた幕がスルスルと上がっていくと舞台は、城壁模様の高い高い垂れ幕に三方囲まれ、一面に緑がかった人工的な照明が当たり、ホーンセクションの生音に合わせて、大勢の男たちが体を揺らしている。みんな白いシャツに細身の黒いパンツ姿で、役を表すような衣装はなく、手にはシャンパングラス。くねくねと踊る姿が、カッコよくもありそうとう気色悪くもあって、マダムは「なにこれ〜?‼︎」と目を見張ったの。つかみはバッチリ。
 するとその中から「今や我らが不満の冬は去り・・・」というリチャードのセリフが聞こえてきて、ゆっくり現れたグロスター伯リチャード(佐々木蔵之介)は、せむしでもなく、足も曲がってなくて、すらっとしたいつもの佐々木蔵之介のまんまなのだった。そして饗宴のさなか、いつの間にか、踊っていた中の一人が手錠をかけられて連行されていく。二番目の兄クラレンス公ジョージだ。
 こんな風に、シーンとシーンは合体し、あるいは飲み込まれ、省略され、混じり合ってる。衣装も人を食った仕掛けになっていて、リチャードの足は、出てくるたびにいろんな曲がり方で、それに合わせていろんな杖をついているし、背中のみならずお腹までこぶができているときもあれば、本当のプライベートのときはまっすぐな体だったりする。これってつまり、リチャードが公的には不具を装っている、ってことだよね?
 女役の役者たちは皆、一応ドレスなど着ているので女とわかるんだけど、かつらはなくて、アン(手塚とおる)もマーガレット(今井朋彦)もエリザベス・グレイ(植本純米)もヨーク公夫人(壤晴彦)も、いつもの素顔。それなのに、なぜか皆、究極の色気のようなものを纏っているの。アンなんて、本当にいつもの手塚とおるなのに、なぜ女の色気が匂うのかしら。今井朋彦もなんだか美人だし。おかしいでしょ。どういう仕掛けなの。
 こんなに凄い女役メンバーなので、女たちだけで散々嘆き合うシーンがあっさりカットされてたのはちょっと残念だったんだけど、それにはワケがある。
 思うに、女たちのシーンに代表されるような、嘆きとか、情の入り込む余地のある箇所は、容赦なく切られていて、ただただ冷酷でスプラッターで乾ききった世界を作り出そうとしている演出なのよ。
 そして殺し方が怖い。バスタブに水を貯めるのに始まり、てらてらと光るビニール袋やチェーンソーが、めちゃくちゃ怖い。殺しは見えないようになってるんだけど、そのせいで何倍にも想像が刺激されて、見えないのに顔を背けるくらい。で、そのあとを無表情でモップかけてる掃除係の姿も恐ろしいし。
 従来の演出なら、最後の方に活躍する印象のケイツビー(河内大和)とラトクリフ(浜田学)が、最初からずっと舞台のどこかにいて、能面のような無表情でリチャードに付き従っているんだけど、怖いこと怖いこと。特に河内大和の存在感には圧倒されたの。体型が、腕や背中の筋肉が、そのままで演技になってる。彼の凄さは知っているけど、その彼をケイツビー役で使う贅沢さ。役にあまりにもぴったりなので・・・河内大和の代表作に数えられるかもしれないわ。
 
 後半、あの手この手に少し飽きが来て、さすがのマダムもちょっとダレかけたその時!とんでもないシーンが現れた。
 追い詰められたリチャードが戦場で夢を見るシーンがあるでしょう?自分が殺した人たちの亡霊が次々現れるところ。
 その前から、もう舞台には佐々木蔵之介しかいなくて、全然、進軍でも戦闘でもなくて、ひとりでぶつぶつ言ってるだけなのね。普通のリチャード三世の運びではないの。広い舞台の前の方でひとり寝そべってるリチャード・・・そこへ周りの城壁模様の垂れ幕がぞわぞわぞわ〜と動き出すんだよー。背筋がゾッとする瞬間。
 垂れ幕がぞわぞわと2メートルくらいずり上がるとそこに扉がたくさん現れ、一斉に扉が開くと、そこにはずらりと並ぶ幽霊たち。いつのまにかホーンセクションも現れて、幽霊たちは一人一人マイクを持って歌いながら進み出て、リチャードに呪いの唄を浴びせるのよ〜。この唄がいいの。すこーんと明るく突き抜けた、開き直ったサラリーマンの宴会後のカラオケみたい。それで歌詞は「この世に思いを絶って死ね!」なんだもんね。もう爆笑。
 でも気がつくと、笑ってるのはマダムの周りでは、マダムだけだったの。
 
 この芝居はね、ものすごい積み重ねの果てに作られたアンチテーゼ、みたいな演出。それは違う、あれも却下、そこは逆転して・・・っていうふうに作った。
 で、却下された方をどれだけ知っているかが、楽しめる鍵なの。
 もちろん最初から、話じゃなくて佐々木蔵之介のいろんな姿が見たかった人も、それなのに楽しかったんじゃないかなぁ。
 渡辺美佐子演じる代書屋の存在は、演出家の言い訳のような気がして、マダムには邪魔だったな。

楽しさ全開 AUNの『間違いの喜劇』

 久しぶりすぎる高円寺。8月5日(土)マチネ、明石スタジオ。

劇団AUNワークショップ公演『間違いの喜劇』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
監修/吉田鋼太郎 演出/長谷川志
出演 木村龍 橋倉靖彦 河村岳志 松尾竜兵 齋藤慎平 山田隼平
   飛田修司 岩倉弘樹 前田恭明 伊藤大貴 千賀由紀子 水口早香
   悠木つかさ 森瀬惠未 佐々木絵里奈 桐谷直希 砂原一輝

 私事ながら、高円寺はシェイクスピアの聖地。
 昔、高円寺にはシェイクスピアシアターのアトリエがあり、そこで、マダムは生まれて初めてライブでシェイクスピアを観たの。以来、シェイクスピアの面白さの虜。 高円寺で降りたのは本当に久しぶりだったんだけど、明石スタジオの席に着いたら、小屋の大きさといい、限りなく無に近い装置、大道具の無さといい、シェイクスピアシアターのアトリエそっくりだったので、それだけで故郷に帰ったような気がしたの。
 で、始まった芝居は、ホントにマダムを原点に運んで行ってくれるような面白さだった。
 
 『間違いの喜劇』のあらすじ説明とかはしないよ。
 
 二人のドローミオが、最高。根っから喜劇体質のドローミオ兄(齋藤慎平)と、少しヤンキーが入ってるドローミオ弟(山田隼平)の動きが楽しくてしょうがなかったし、ハイテンションで叫んでいるようでも、ちゃんと台詞の全てが耳に届いて、それがメチャクチャ可笑しい。二人のノリの良さが役者たち全員に伝染して、芝居を引っ張っていってたわ。「間違いの喜劇」はドローミオ兄弟が主役だったのね。初めて知ったー。
 エドリエーナ&ルシアーナ姉妹も負けてなかった。エドリエーナ(水口早香)の大柄で押しまくって舞台を制圧する様子に笑ったし、対するルシアーナ(悠木つかさ)の小柄だけどのんびりゆったりのマイペースさが、あたりをじわじわと侵食していくのがまた可笑しいの。
 始まって30分くらいで可笑しさは雪だるま式に膨らんでいき、あとは、もう誰が何をやっても可笑しくて。アンティフォラス兄(河村岳志)の堅物さも、アンティフォラス弟(松尾竜兵)のキレやすい体質も。商人(伊藤大貴)はニコニコしてるだけで可笑しく、金細工師アンジェロ(岩倉弘樹)なんて、最後には何も言ってなくても可笑しい、という具合に、どこを切っても可笑しくて楽しいの。もう、凄くよく出来てる!
 そして笑ったあとの締めで、修道院主エミリア(千賀由紀子)がアンティフォラス兄弟の母だとわかるところは、ちゃんと、ジーンとする。出番は少ないけど、エミリアをベテランがやるってことには、凄く意味があるんだよね。

 シェイクスピアの喜劇の面白さは、台詞にかかっているの。この台詞をどんなつもりで誰に向かって言うのか。聞いた相手はどんな風に受け止めて、言い返すのか。周りはそれを聞いてどんな反応をするのか。もうそれだけ。それを板の上にいる役者が全員、わかっていて、やり遂げたら、メチャクチャ面白いものが出来上がる。
 劇団AUNはシェイクスピアの専門劇団ながら、ここ数年シェイクスピアから遠ざかっていた。でもさすがだわ。若手のワークショップ公演といえども、全員がどんな瞬間も今起きていることにヴィヴィッドに反応してた。やっぱりこうでなくちゃ。セットも小道具もなにもなくったって、面白いのよ、シェイクスピアは。
 
 それとね、今回マダムは発見したのよ(そんなことは、とっくに知ってると、みんなは言うかな?)。
 シェイクスピアではよく、双子とか、瓜二つの兄弟とかが出てきて、それを一人二役でやる上演もあるんだけど、マダムは初めてシェイクスピアを見たときから、全然似てない役者がそれぞれの役をやるのを自然に受け入れてきたし、今回も二人のアンティフォラス、二人のドローミオがとても良かった。
 いえ、むしろ、違う役者が双子をやる方が断然いい、と思ったのよ。
 だってさ、もしそっくりな双子を二組見つけてきて、アンティフォラスとドローミオをやらせたとしたら、よ。観客も、今出てきたのがアンティフォラス兄なのか、ドローミオ弟なのか、瞬時に見分けられなくなっちゃうじゃない? この「瞬時に」ってところが大事で、観客の方は瞬時に、ドローミオ兄!とかアンティフォラス弟!とかわかるから、登場人物たちが右往左往するのが可笑しいわけなのよ。迷ってから理解するんじゃダメなの。可笑しさの勢いがなくなっちゃうもの。
 
 というわけで、ホントにホントに楽しかった。またやってほしい。毎月やってほしいくらいだわ。

嘆きの王冠ラスト 『リチャード三世』

 頑張りました。ホロウクラウンのラスト1本『リチャード三世』、見てきたよ。7月15日(土)夜、ヒューマントラストシネマ渋谷。

 見終わったら10時半くらいで、帰りのエレベーターは女性ばかり4人。誰ともなしに「いや〜よく完走しましたよね〜。大変だった〜。もうちょっとタイムテーブルを考えて欲しかったよね〜」というようなことを言い合い、そして「カンバーバッチの顔、たっぷり見たわ〜。暫く見なくていいわ〜」と思わず本音が(と言いつつ、シャーロックを見てしまうのだろうけれど)。
 そう。『ヘンリー六世』の作り方を見ても、これはもうカンバーバッチのための『リチャード三世』なのが明らかだったの。独白が全てカメラ目線のアップで、ちょっとしつこかった。映像の色々な手法をもっと使ってもよかったのに。カンバーバッチは上手いんだけど、アップばかりだと飽きちゃうんだよね。
 最後の戦闘シーンも、実際はああだったのかもしれないけど、不具な体で戦いながら「馬をくれ!代わりに王国をくれてやる」っていう切実さ(というか憐れさ)があまりなくて・・・演出家の見たいものとマダムの見たいものにズレがあるんだった。好みの問題かしら?

 シリーズを全部見終わって、とにかく『リチャード二世』の出来が素晴らしかったことと、『ヘンリー五世』のトムヒがかっこよかったことが後に残ってる。
 ヘンリー四世やヘンリー六世は、長い長い本をたくさん切って映像にしたので、わかりやすくなったとも言えるけれど、なにかが繋がらなくなった気がする。それに比べ『リチャード二世』『ヘンリー五世』は殆どシェイクスピアが書いたままだから、テーマを削らずにすんで、面白くなったのでは?
 シェイクスピアは、どうしてだかわからないけど切っちゃうとダメなシーンばかりなのよね。そこんとこ、わかりたいなあって思ってる。
 あー、でもなんだかんだ言って、7本も見に行っちゃったんだから、面白かったってことだね〜。
 来年の新国立の『ヘンリー五世』が楽しみだなぁ。

2時間でもちゃんと『リア王』 子供のためのシェイクスピア

 芝居に行くも帰るも汗びっしょりだわ。7月15日(土)マチネ、あうるすぽっと。

子供のためのシェイクスピアカンパニー『リア王』
作/シェイクスピア 訳/小田島雄志
脚本・演出/山崎清介
出演 福井貴一 戸谷昌弘 土屋良太 佐藤あかり
   若松力 加藤記生 チョウヨンホ 大井川皐月 山崎清介
 

 伊沢磨紀が出ないことに気づいたのはチケットを買って、だいぶ経った頃だったの。
 伊沢磨紀は日本のキャサリン・ハンターである、とマダムは思っているのだけれど、1年に1度、子供のためのシェイクスピアで伊沢磨紀に会う。それがあたりまえのことになっていたので、ショックは大きかったわ。チラシを見て「あ、リア王ね、伊沢さん、ゴネリルでもリーガンでもコーディリアでもいいけど、リア王もできるね」なんて考えていたんだもの。

 話は『リア王』なんだから、あらすじの説明はしなくていいよね?
 
 配役を書き出してみると。
 リア王は福井貴一。コーディリアと道化を大井川皐月。ゴネリルとコーンウォール公(リーガンの夫)を加藤記生。リーガンとオールバニ公(ゴネリルの夫)を佐藤あかり。グロスターを戸谷昌弘。その長男エドガーをチョウヨンホ。その次男の策士エドマンドを若松力。ゴネリルの執事オズワルドとフランス王を土屋良太。そして山崎清介はケント伯。人形はケント伯と行動を共にする・・・えーと名前失念(人形の声を山崎清介がやっているので、人形が山崎清介に似てるのは当然なんだけど、今年は山崎清介の方が人形に似てきた気がした。なんでかしらね?)。
 いつも感心するけれど、この少人数でシェイクスピアをやり遂げてしまうのよ。毎年だから、どんな風に乗り切るのか、その工夫を見ることが大きな楽しみ。今回も、ゴネリル夫妻とリーガン夫妻を加藤記生と佐藤あかりの二人でやるという離れ業が見ものだった!
 そして毎回2時間ちょっとにまとめてくるのも、すごいの。いろんな伏線とか、きっかけの台詞とか、知り尽くしたうえでの改編なので、そこもまたマダムは感心しきり。
 役者さんたちは少数精鋭。このカンパニーはみんな上手いの。マダムはエドマンド(若松力)の色悪ぶりに惚れ惚れしてたんだけど、そこはほら、どんな時にもイケメンを見逃さないってことだから。
 
 あとはね、いつも演技の話に終始してしまうので、その前にひとつ。
 このシェイクスピアシリーズの衣装(三大寺志保美)がすごおく素敵! 役に合った、選び抜かれた色合い、生地の美しい光沢に、毎回見惚れる。

 始まるまで配役は知らなかったので、福井貴一がリア王として登場した時、おおおー、と思った。彼の舞台は何度か見ているはずだけれど、その上手さに舌を巻いたのは2年前の加藤健一事務所制作の『ペリクリーズ』のとき(その時の記事は→これ )。台詞の心地よさったらなかった。
 今回も台詞回しの巧みさはいかんなく発揮されていたのだけれど、マダムが引きこまれたのは「老人としてのリア」像がブレなく存在していたからなの。
 リアは、「老いてわがままになり正常な判断ができなくなった迷惑な老人」のように描かれているところが多分にあって、海外では「認知症の老人」として演出されている舞台もあるそうな。でもね、マダムは福井貴一のリアを見たら、「認知症の老人」というような言葉では到底片付けられないリア像がある!と感じたの。
 リアは老いたからわがままになったのではなく、王だったから元からわがままなんだよね。そして王という身分とアイデンティティーが、ピッタリくっついてる人なの(さらに言えば、王って多分そういうものよね)。だから退位しても王として振舞っちゃうし、王として振舞うなと言われたら、どうすればいいかわからないのよ。まるで、定年退職したらそのあと、どう生きたらいいのかわかんない仕事人間みたい。
 そして色々と辛酸を舐めたあと、死の間際になってやっと、王ではなく一人の人間として、自分を一番愛してくれた娘は誰なのか、誰が本当の家臣だったのかを知るの。話の始めに「王を降りる!」と言ったけど、本当に退位して一人の人間になれたのは死ぬ時だった。憐れなリア。
 というようなことを、福井リアは見せてくれたのだった。演出によって、そして誰が演じてくれるかによって、戯曲が姿を見せる面が違う。あたりまえなのかもしれないけれど、このあたりまえの楽しみにちゃんと行き着くには手練の技が必要で、観客としてその技を持つ人たちを応援したいと、改めて思ったマダムだったわ。
 
 そんなわけで、来年も楽しみにしています。伊沢さんのことも、もちろん、待ってる。

嘆きの王冠 『ヘンリー六世』第一部&第二部

 ホロウクラウンシリーズも計画通り進んで、きっちり折り返し。『ヘンリー六世』第一部と第二部を一気に観てきた。7月2日(日)、ヒューマントラストシネマ渋谷。
 面白く見たし、退屈なところはなくて(というのも半分の尺に納めようとしてるから大事なシーンが数珠つなぎ)、お腹いっぱーい。
 でも、いろいろ言いたいことがでてきちゃった。

 『ヘンリー六世』って原作は三部作で、全部上演すると9時間くらいかかっちゃうのね。
 だから映像にする時、いちばん本作りが難しかった作品だろうと思う。ものすごくたくさんの人が出てくるし、それでも誰も「典型的」な描かれ方してない。シェイクスピアは、ワンシーンしか出てない人物にもちゃんとその人ならではのセリフを与えてるの。処女作がこれって、ホントにさすがなのよ。
 でも、だからこそ、本をカットするのが難しいし、改変はなおのこと。

 BBC版『ヘンリー六世』のいちばん大きな改変は、王妃マーガレットの浮気相手をサフォークではなく、サマセット公にしたこと。映画が始まってしばらく、マダムは凄く混乱してしまって、飲み込むのに時間がかかってしまったの。
 原作を知らなければ全然、戸惑ったりはしないでしょうし、ストーリー上おかしくなったりはしていないの。でも、マッチョで軍人そのもののサマセットが愛人だと、シェイクスピアが書いたものとは大きくかけ離れてしまう。
 原作のサフォークってさ、舌先三寸の寝技師でしょう? 剣では戦わなくて、口が上手くて、ベッドが戦場、みたいな男。気が強くて自ら戦場に出て行くマーガレットのような女が、口が上手いだけの男にメロメロっていうところが面白いのに。そして、サフォークは死ぬときも、軍人じゃないから、そういう正々堂々戦った死に方はできないわけよ。なんていうか、因果応報がピリリと効いてるのよ。シェイクスピア、ちゃんと描ききってるのよー、だからサフォークの設定を変えないでほしかったなあ。

 それとね、次の『リチャード三世』に繋げる意識がちょっと強すぎる感があるのね。なんといってもリチャード三世は大スターのカンバーバッチだから、第二部になるとリチャードが主役みたいになってくるんだけど。
 でもさ、そんな手心を加えなくたって、ヒタヒタと、リチャードはやってくるのよ。そんなに早くからスポットライトを当てなくても、大丈夫なのに。
 だって、あくまでこのお話は「ヘンリー六世」のお話なんだもの。そして気がついたらいつの間にか、日陰者のリチャードが真ん中に来ている・・・というね。
 
 いろいろ言ったけど、胸に刺さった演出も沢山あったの。いちばん刺さったのは、ヘンリーがほぼ全裸で羊の群れの周りを彷徨ってるところ。
 なんかね・・・リアじゃん。と思っちゃったら、わー、もうこの時にリアのもとがあったんだ、処女作には作家の全てが揃っているっていうけど、ほんとなんだわ、とかちょっと興奮気味のマダムであった(まあ、これは演出のおかげなんだけど)。
 そしてロンドン塔に幽閉されて、汚れた王冠が戻ってきて、初めてほんとに王らしくなるヘンリー。閉じ込められて、もう王でなくなって、初めて王らしくなるなんてさ・・・王様って哀しい。
 
 あとはね、戦争って、ほんとに血みどろだな、ってこと。人間はいくらでも残酷になれるんだな、ってこと。グロいのは苦手だけれど、こうやって血みどろを見ると、そのことを痛感する。グロい描写も必要なのかもしれないね。(でも、何度も顔をそむけました。)
 
 やっぱり『ヘンリー六世』の舞台が観たくなってしまって。新国立劇場の一挙上演から、もう8年とか経ってる。こんなに経っても、また観たいなんてね。
 
 さあ、ホロウクラウンも残すところ『リチャード三世』1本となったわ。
 ただね、スケジュールが・・・いつ行けるかなぁ?

嘆きの王冠 『ヘンリー五世』

 引き続き、嘆きの王冠ホロウクラウンシリーズ。第四弾は『ヘンリー五世』。7月1日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷。

 

 一連のシリーズでマダムが唯一、舞台で未見なのが『ヘンリー五世』なの。だから、台本を読んだことはあるにしても、映画でなーるほど!って思うことしきりだったわ。
 一番感じたのは、ヘンリー五世って特別に愛されてる王様だなあってこと。どんだけ褒めたたえてるんだ、シェイクスピアは。アジンコート(だっけ?)の戦いなんて、神風吹いてるし。フランス王女を口説くところも、なんかもう少女マンガの理想の王子みたいだし。そして、歴史に「たられば」は無いけれど、もしこの王が長生きしていれば薔薇戦争は起きなかったかもしれない、とみんな思ってるふしがあるのね。でも、歴史は冷酷。立派な人ほど夭折しちゃうのよ。
 トム・ヒドルストンは、やはりヘンリー五世を演るために配役されたのね。ハル王子のときも大人っぽかったけど、王になってからの格好良さが半端ない。
 『ヘンリー四世』の時とは監督が替わったせいもあって、映像だからこその表現が駆使されているのが楽しかった(思えば『ヘンリー四世』は舞台っぽかったのだ)。例えば、しょっぱなのトムヒが馬で駆けてくる疾走感や、風をはらむイングランドの旗。緑の丘陵に並ぶ軍の隊列。弓弦の空気を震わす音。野営地の焚き火の、温かなオレンジ色の輝き。
 やっぱり映像にするからには、舞台では見られないものを見せて欲しいし、『ヘンリー五世』の監督はよくわかってるなあ。
 一方で、舞台の台本では、かつての遊び仲間のバードルフが隊の規律を乱したと報告されると、確かに王は「処罰せよ」って命じてるけど・・・映像じゃ、既に木に吊るされてるんだもの。なんかショックだった。(こういう処刑のシーンとか、露骨っていうか、隠さないのね。こうだったものは、こうだったんだ、って。マダムはグロいの苦手なんだってば。)
 
 舞台はまた全然趣が違うと思うので、来年の新国立バージョンと、いつかやるはずのさい芸バージョンが、さらに楽しみになった!浦井ヘンリーと桃李ヘンリー(と決めてしまってるマダム)が、楽しみ楽しみ。(浦井くんとトムヒ、同い年なんだってよ〜!)
 
 

嘆きの王冠 『ヘンリー四世第一部・第二部』

 嘆きの王冠シリーズ、第二、第三弾の『ヘンリー四世』一部、二部、一気に見てきた。6月24日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷。
 
 大好きなシリーズ物なので、楽しんで観たものの、『リチャード二世』の出色の出来映えに比べると、少しトーンダウンするのだった。演出家が違うこともあって、画面の色(空気の色)が違う。全体にモノトーンがかっていて、印象がぼんやりするの。戦闘シーンなんて全部灰色で、何が何だかよくわからない(ただこれが、死にたくなくて唯うろうろしてるだけのフォルスタッフの目線だ、と思うと納得する)。

 リチャード二世でボーリンブルック(のちのヘンリー四世)を演じたロリー・キニアが王様をやらず、ジェレミー・アイアンズが演じていて。やっぱりハル王子のトム・ヒドルトンとの年齢的釣り合いを考えてのことかしら、と少し残念に思ったの。でも始まったら、ジェレミー・アイアンズの王様は、イメージぴったりだと感じた。なんのことはない、昨年末の記憶も新しい中嶋しゅうの王様と、そっくりなんだもん。プログラムの登場人物表の写真を入れ替えても、違和感ないと思う。神経質そうで憂鬱そうで、長いこと呪いを背中に背負いこんできたせいで、身体つきも既に枯れかけている。ぴったり〜。(ロリー・キニアだと枯れてないもんね。)

 このBBC版『ヘンリー四世』の主役は、マダムが舞台で観てきた『ヘンリー四世』とは違っていた。舞台ではタイトルロールのヘンリー四世は主役ではなく、主役はあくまでハル王子だったから。ハル王子の成長物語であったから。でも、BBC版は、呪われた王冠が主役で、その王冠の重みに耐えきれずに枯れていく王様と、その王冠を引き受ける決意をした王子のお話。切り口が違う、と感じたの。
 トム・ヒドルストン(通称トムヒ)は、上手くて素敵な役者だけれど、やんちゃ時代のハル王子をやるには、大人すぎていて、最初から成長しちゃっていたの。それともマダムの中に、松坂桃李と浦井健治のハル王子が刷り込まれちゃってて、さすがのトムヒでもそこに割り込むことができなかったということなのかしら?それとも、イギリスではハル王子っていうのは、あのくらい大人っぽいものとして定着しているのかしら?(でもあっちで見たハル王子の銅像は、ほとんど少年だったよ。)
 
 長いシェイクスピアの台本を映像にするとき大幅にカットされることは、当然よ。より良い効果が得られると思えば、改変もありうる。例えば『リチャード二世』では最後にロンドン塔でリチャードにトドメを刺す暗殺者を、本通りではなく、オーマール公に設定していた。マダムはなるほどね、それもありだね、って思ったんだけど。
 今回の『ヘンリー四世』では、何か大事なシーンがそっくり無くなってる気がして、気になって帰宅してから本をめくってみたのね。それでわかったのは、シュールズベリーの戦いの場で、王がダグラスに殺されそうになったとき、ハル王子が身を呈して王を守り、二人の間のわだかまりが溶けていく、そのシーンがなかったの!(それともマダムは寝ていた?)
 ここを切っても大丈夫、と演出家は考えたんだよね?
 どうしてかしら?・・・・演出家に訊いてみたくなった。

嘆きの王冠 第一弾『リチャード二世』

 BBCが製作した嘆きの王冠シリーズ全7作。映画館で是非、全部観るべく、スケジュールを調整しているの。ちゃんと時代順に観たいので、結構大変。
 舞台の中継ではないし、ブログ記事は自分用のメモ程度にしておくので、ストーリーとか詳細知りたい方は、次の参考文献をお読みください。シェイクスピア作「リチャード二世」「ヘンリー四世第一部・第二部」「ヘンリー五世」「ヘンリー六世第一部・第二部・第三部」「リチャード三世」。

 第一弾『リチャード二世』。6月18日(日)、ヒューマントラストシネマ渋谷にて。
 見終わって、まず頭に浮かんだ言葉は、「ベン・ウィショー、ぴったりだったー。そしてネクストの内田健司もやっぱりぴったりだったんだ!」。シェイクスピアのリチャード二世から読み取れることはだいたい、蜷川演出のネクストシアター『リチャード二世』から受け取れちゃっていたんだ、ってこと。王様に向いてない性格の王様だ、ってこととか、ちょっとホモっぽいところとか、最初っからいちいち重要ポイントの判断が間違ってることとか、どんなに苦境に立ってもその状況を詩のような言葉で分析する癖があるところとか・・・うんうん、こういう人だよね、と納得。
 ネクストの舞台より今回はっきりわかったことは、リチャード二世が自分を廃嫡した人々に強力な呪いをかけたところ。この呪いあればこそ、ボーリンブルックがヘンリー四世になってもなお、王座に自信が持てずに死んでいくのがわかるし、この呪いが薔薇戦争の本当の始まりなんだなあ(「ヘンリー六世」のウォリック伯の宣言で始まるんじゃなくて)、と強く感じられた。そこはベン・ウィショーのリチャードにしてやられた感じ。翻訳じゃない、書かれた言葉そのものだからだろうか?

 あとは、やっぱり映画だから、イギリスの風土がふんだんに感じられるのが楽しかった。険しい山はなくて、丘陵地帯にしっとりとした緑が続く道を、追放されたボーリンブルックが戻ってくるところとか、遠浅の美しい海岸で、誰も迎えに来ないのを嘆くリチャードとか・・・シェイクスピアの言葉はイギリスの風土から生まれてきたことが腑に落ちるのよね、映像だとなおのこと。
 あとは恐ろしい処刑のシーンとか、鎧をつけた人間を乗せてさらに自らも鎧をつけられた馬が、重みでまっすぐ走れない様子とか、リチャードが「下へ下へ」と言いながら狭い塔の中を降りていくところとか、色々とリアルだったな。
 
 海辺からアイルランド討伐に出発する時、林立した三角の旗が海風になびく美しさ。その絵柄を見た瞬間、マダムは、子どもの頃熟読したナルニア国物語の挿絵を思い出さずにいられなかったの。そして、マダムがシェイクスピア好きになるのはもう、ナルニアを読んだ時から運命付けられていたのだとさえ、思った。
 
 さてこれから『リチャード三世』まで、先は長いわ。

マクダフの生まれ方〜翻訳と上演台本の間

 今日は、かなりマニアックなお話。興味のある方だけ、どうぞ。
 
 
 『ナルニア国物語 ライオンと魔女』の中に、魔法のかかったプリンが出てくるのを、憶えている方はいるかしら?

 ナルニアシリーズはマダムの幼い時からの愛読書なのだけれど、大人になってから知り合った同胞たちはみな、原書では、このお菓子がプリンではないことを知っていたの(翻訳者の注があったからね。愛読者は皆、注まで読み尽くすものだから)。Turkish Delight(トルコの悦び?凄いネーミング)という名のそのお菓子を、皆一度は食べてみたいと願い、イギリスに行った誰かがお土産に買ってきて試食会が開かれる、というようなことも彼方此方で、あったらしい。かく言うマダムもその一人で、ひとかけら食べただけで頭痛が起きるかと思うような甘さだったのを、忘れはしまい。魔法がかかっていなくても充分、気分が悪くなるような甘さだったわ。もちろん、これはこれで好きな人もたくさんおられるのでしょうけど。
 ナルニアシリーズは岩波の翻訳権が切れて、新しい翻訳が出たそうで、新訳ではプリンではなくターキッシュディライトとしているのだそう。だけど、マダムはこのお菓子を、悩んだ末に「プリン」と意訳した瀬田貞二訳を支持するわ。今でも。なぜなら、この翻訳は、日本の子供が読むためのものだったから。そのとき瀬田貞二は自分の立ち位置を、少しだけ、小さな読者たちの方へ寄せたのだ、と思うから。

 前置きが長くなった。でもこれは重要な前置き。

 1月にカクシンハンの『マクベス』を観て以来、気になっていたことがあった。カクシンハンの演出とかとは関係がない。翻訳のことなんだけど。
 マクダフの生まれ方について。

 マクダフは、最後にマクベスにとどめを刺す貴族。妻子をマクベスに殺され、恨み骨髄でマクベスに向かうんだけれど、マクベスの方は
「女から生まれた者は誰一人、マクベスを倒せはしない」
松岡和子訳
という予言を魔女からもらっていて、誰のことも全然怖くないの。ところがマクダフに
「月足らずのまま、母の腹を破って出てきた」
んだ、って言われて、マクベスは予言の隙を突かれたことにショックを受ける。
 ここの台詞(翻訳)が、どうしても腑に落ちない。
 だってさ、どこから出てこようが(帝王切開だろうが)、女から生まれたことに変わりはないでしょう?予言の裏をかいた感じが、わからないの、この台詞では。

 1月のカクシンハン公演の時、マダムの脳内では「あれ?マクダフって女の股からは生まれてないぞ、って話じゃなかったっけ?」という声がした。そして、「女の股」と翻訳した人は誰だったのか、気になったら、いてもたってもいられなくなり、当たれるだけの翻訳に当たってみたの。でも、見つからなくてね。

 松岡訳(承前)のほか、小田島雄志訳では魔女が
女が生んだものなどにマクベスを倒す力はない」
と予言し、マクダフが
「女から生まれる前に、月足らずのまま母の腹を裂いて出てきた」
と看破する。河合祥一郎訳では魔女は
「女から生まれた者にマクベスは倒せぬ」
と予言し、マクダフは
「母の腹から月足らずで引きずり出された」
と言い返す。
 予備知識なく芝居だけを見て、マクベスが魔女に騙されたショックを観客が受け取れるのは、小田島訳なのかな、とは思う。「女から生まれる前に、・・・出てきた」と言ってるから。それでも、「女の股」の納得感には負ける。

 友人たちと話してみて、「女の股」は『メタルマクベス』の上演台本を書いた宮藤官九郎の作ではないか?と行き当たったの。このあいだ録った録画を消してしまっていて確認するすべが今ないんだけれど。
 確か、魔女の「女の股から生まれた者にはマクベスは負けない」という予言があり(歌になってたかも?)、対するマクダフの「俺は女の股から生まれてない。俺は月足らずの帝王切開だから」みたいな分かり易いセリフになっていたような。『メタルマクベス』の録画を持っている方、ちょっと確かめてみてください。

 『メタルマクベス』(劇団新感線)は、シェイクスピア翻案物に厳しいマダムをも唸らせる面白さだったのだけれど、なにより上演台本が凄くよく出来ていた! シェイクスピアがどんな人物設定をし、どんなつもりでセリフを書いたかを、よ〜く理解した上で、初めて見る観客にもわかるような意訳でセリフを作り直し、さらにもっと面白くなるように話を盛っているの。土台の、「よ〜く理解」のところが、ホントによ〜く理解なので、どんなに意訳してあっても、どんなに盛ってあっても、ちゃんとマクベスらしいマクベスになっていた。
 
 翻訳本はシェイクスピアの書いたセリフから大きく離れることはできないから、「女の股」とはできないよね。そこが読み物としての翻訳本と上演台本の違いなのかな。
 でもせめて、「女に産んでもらった奴にはマクベスは倒せない」くらいには意訳してもいいのではないかな。そうしたら「自分で母の腹を破って出てきた」とマクダフが言い返した時、「俺は女に産んでもらってないからな!」っていう感じがちゃんと出るし、マクベスのショックがわかるじゃない?
 日本語の「生まれる」には、そもそも母によって生み出される感がない。もっと自然現象な感じ。だから生んで「もらった」とわざわざ言わないと、魔女の予言とマクダフの看破の、違いが出ないじゃない?
 ここで前置きで言ったことに戻る。最後の最後には、立ち位置を、日本の観客の方へ、少しだけ寄ってほしいの。
 それがいち観客としてのマダムの希望。
 メッチャ、細かいことにこだわってるんだけど。
 マクベスって何度も何度も見たから、いろんなこと考えちゃうのね。

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