最近の読書

シェイクスピア

死なないハムレット 加藤泰監督の『炎の城』

 先日BSで、ハムレットの翻案映画を見た。

『炎の城』
1960年公開作品(東映)
脚本/八住利雄 撮影/吉田貞次 音楽/伊福部昭
監督/加藤泰
出演
正人(ハムレット)=大川橋蔵  師景(クローディアス)=大河内傳次郎
時子(ガートルード)=高峰三枝子  ?(オフィーリア)=三田佳子  ほか

 シェイクスピアの翻案映画といえば黒澤明の『蜘蛛巣城』(マクベス)や『乱』(リア王)が有名で、マダムは加藤泰監督のファンであるにもかかわらず、ハムレットを翻案した『炎の城』について寡聞にして知らなかったの。

 加藤泰について、ご存じない方も多かろうと思うので、少し説明すると。
 主に1950年代から70年代前半くらいまで、東映を中心に映画を撮った名監督で、傑作をたくさん残してる。例えば、中村錦之助主演の『瞼の母』や『沓掛時次郎遊侠一匹』。藤純子主演の『緋牡丹博徒お竜参上』。鶴田浩二主演の『明治侠客伝三代目襲名』。ほかにも『骨までしゃぶる』や『男の顔は履歴書』などなど。作品の名前を口にするだけでため息が出そうなくらいの、傑作揃いよ。
 この傑作の数々、公開当時はマダムも子供だったので、もちろん知らなかった。マダムは80年代に映画祭や名画座で見たのだけれど、その時のラインナップの中に『炎の城』は見当たらなかった。ので、まさか加藤泰がハムレットの翻案映画を撮っていただなんて、思いもよらなかった。
 
 加藤泰は脚本も書く人であったので、すわ監督自身の翻案なのか?!と見ながら腰が浮きかけたけど、どうもそうではなかったようね。
 そして見てわかったけど、名画座でかかるような人気作ではなかっただろうし、映画祭でかかるような名作でもなかったのだった。傑作の数々に比べると、核心に向かって一気に収斂していく加藤泰らしさが全然ないんだもん。
 昨年、国立近代美術館フィルムセンターで行われた加藤泰生誕100年のサイトによれば、「八住脚本の結末に納得できないまま撮りあげた」作品であり、監督自身「失敗作」と言っていたのだそう。さもありなん。
 
 でもそこは、「ハムレット」だから、マダムは別の意味で面白く見た。「ハムレット」を戦国時代の日本にどう移し替え、大スター大川橋蔵主演の娯楽大作にどう作り替えるか、苦心惨憺(した挙句に失敗)のあとが見えて、面白い。
 そもそも、どうして東映が「ハムレット」を題材に映画を作ろうだなんて思ったのか。ここからはマダムの想像に過ぎないけれど、『炎の城』の製作年から容易に推測できるのは、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年東宝)の成功を見たプロデューサーが「そっちがマクベスなら、こっちはハムレットやったるでー」とかなんとか言って決まったんじゃないかしら(想像ですよ、想像)。黒澤御大がなぜ「ハムレット」を選ばなかったか、については考えてみなかったのでしょうね。
 
 『炎の城』では、クローディアスを徹底的に悪とすることで、勧善懲悪的な物語にしようとしている(それ自体、既に「ハムレット」じゃないのね)。先王が生きてる間にガートルードを無理やり手篭めにして言う通りにさせ、先王を殺して自分が王になると、隣国に侵略する資金を作るために、農民に重税を課す。農民の反発にあうと有無を言わせず弾圧。先王を殺した罪に悩んだり懺悔したりするシーンは無し。クローディアスの人間像はすごく一面的で、全然魅力がない。
 一面的、といえばガートルードもオフィーリアもそう。ガートルードはクローディアスの悪事を全て知っていて、運命に押し流されている女として描かれ、オフィーリアはハムレットを一途に慕って、想いが叶わないのを悟ると覚悟の入水自殺。狂って歌うシーンはなかった。
 そしてハムレットはいっこうに行動に出られず悩んだり嘆いたりしているわけ(ハムレットだから!)なんだけど、農民からは救世主として期待されているし、クローディアスは極悪人なわけだから、ハムレットがなんで行動しないのか、原作以上に理解できないし、イライラする。戦国時代なら、兄弟や親子でも殺してトップになることなんて、普通なわけで。寝ているクローディアスを目の前に刀を引っ込めるなんて、なんちゅう情けない若様であろうか・・・。
 そのうえ、『ゴジラ』の伊福部昭の音楽が仰々しいばかりで、浮いている。なぜか途中で『ゴジラ』のテーマ曲にそっくりのメロディが流れて、なんのつもりかと悩むマダム。
 極め付けはラスト。ハムレットが死なないの。
 レアティーズとの決闘で傷ついたハムレットだが、死に物狂いで塔の上にクローディアスを追い詰めてなんとか復讐を果たし、農民の一揆で火を放たれた城は燃え、ハムレットも死んでいく・・・のかと思いきや、助け出され、悪政を正していくだろう・・・という、無理やりな勧善懲悪のラストになっていた。こりゃあ、監督も撮りづらかったでしょう。加藤泰、超がつく真面目な人であったと思うから。
 
 「ハムレット」を換骨奪胎して娯楽大作にするか、芸術映画として加藤泰に好きなように作らせるか、どっちかを選べずに妥協を繰り返した結果、こういう映画になったんでしょうね。そのことがわかりやすく画面から伝わってきて、面白かったよー。

 私たちは『ハムレット』の何に惹かれているのかしら?
 結局そのことを考えずにはいられないのよね。

『アテネのタイモン』二回目

 二回目の観劇。12月27日(水)マチネ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール。

 評判が良く、平日の昼間にもかかわらず満席で、当日券にもたくさんの人が並んでいたわ。
 芝居自体は初日の方が面白かったんだけど、それはやっぱり色々と初めて見る驚きとかドキドキ感が違うからね。二回目は逆にリラックスして観られたの。そうしたら、いくつか細かいことに気づいたりした。例えば、小さな役で台詞を言う人が違っていたり、踊り子たちがタイモンの周りに侍る形が変化してたり、火事の時赤い借用書の紙が舞い散るんだけど、途中から黒い紙に変わっていくのを確認できたり。火事の煙が今日は多いな、と思ったり。アペマンタスの纏う毛皮が熊っぽいのからキツネっぽいのに変わってたり。
 演技も日々、変化していくものなんだね。カッキーは通路での演技にすっかり慣れて、空いてる座席に座ってみたりしてた。マダムは通路脇の席だったので、彼がマントを翻しながら横を通るたび、いい香りがするなあ・・・なんて思ってた。

 プログラムは普通買わないことにしてるんだけど、今回は買ってよかった。凄く素敵な写真と、メインの四人のロングインタビューと、すべての役者さんの一言が載ってる。それと、吉田鋼太郎VS横田栄司、藤原竜也VS柿澤勇人の対談が載ってるんだけど!横田ファンはこの対談を見逃してはならないと思うわ。

 稽古場見学に始まって1ヶ月間マダムは、ほぼこの公演のために生きてきたので、いま、どっと疲れが押し寄せている。でも、心地よい疲れなので、このまま寝正月に突入するのもいいかしらね。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その2

 これほど1幕と2幕が、まるで別の芝居のようなテイストのシェイクスピア作品って、他にあったかしら?

 2幕は暗い森の中。セットが、ひんやりと湿気を帯びた深緑色で美しい。日本の森とは樹の姿が違うし、想像するアテネの森とも違い、一番近いのはイギリスの森、のような気がした。
 破産して、アテネの街を出て、タイモンは穴蔵暮らし。アペマンタスに似たボロをまとって、木の根を掘っては齧っている。アテネにいた頃の面影はない。そこへ次々と彼を知る人たちがやってきて、禅問答みたいな会話をする2幕が、圧倒的に1幕より面白いんだけど、それも1幕あってこそ。
 タイモンのところへは、アルシバイアディーズの一群が来て、アペマンタスが来て、強盗たちが来て、フレヴィアスが来て、画家と詩人が来て、元老院議員たちが来る。彼らとの長い不毛な対話。誰とも共感しない。台詞の連なりは、読んでも殆ど理解不能なのに、吉田鋼太郎の声で聞くと、タイモンの人間への絶望の深さ、人間的なものへの徹底した拒否がぐんぐん浮かび上がってくる。台詞がどんな感情から生まれているかを正確に読み取る優れた演出家と、それを正確に、しかもパワフルに演じることができる優れた役者。両方が彼の中に同居してる。ちょっと奇跡だ。だから、吉田鋼太郎演出の時、役者吉田鋼太郎も一番いい演技をするのね。
 
 藤原竜也や横田栄司とのがっぷり四つの会話を観たいというマダムの願いは、ついに叶えられたよ。藤原アペマンタスは1幕こそ苦戦していたけれど、タイモンとサシでの演技になった時、逃げることのできない対話の波に飲み込まれ、心を決めて身を任せたようだった。二人の会話は、人間を信じるなんてくだらないという一点で一致するんだけれど、タイモンは、だからこそもう生きないと決め、アペマンタスはそれでも生きると決め、互いを認め合って別れる(と受け取ったのだけれど、違うかしら)。ののしりあい殴り合って、最後に抱きあってしまった時、演技の高みに上り詰めたように見えて、マダムはちょっと、芝居の中身とは違う部分で感じるものがあったの。藤原竜也はこれでもう一度、舞台を面白いと思うようになれるだろうか。そうあってほしいのだけれど。
 横田フレヴィアスとタイモンのシーンは、他のどの対話とも違っていた。他の対話では常時主導権を握ってるタイモンが、ここでは受け身になるんだよね。気が触れたのか触れたふりしているのか、タイモンはフレヴィアスを知らないそぶりで逃げるけれど、横田フレヴィアスはタイモンを逃がさない。強靭な誠実さでタイモンの心をこじ開けるの。そしてタイモンの「正直な男がたった一人だけいる・・・その一人とは、執事だ・・・」という台詞で、こっちはフレヴィアスとともに、心の涙腺決壊だよ・・・。もう、このシーンは一切の雑音なく、芝居の中に入り込んで観た。なんかね、終わってほしくなかった、このシーンが(無理を言うな、無理を)。


 大劇場での演出は初めてだったけれど、よく知っているさい芸の空間をフル活用し、蜷川御大の遺産ともいうべきスタッフの力を借り、ベテランから若手まで共に歩んできた役者さんたちを集めて、隅々まで台詞術の行き届いた、美しくて面白い舞台が出来上がってた。凄く満足。
 最後に極々個人的なことをひとつ。30年来の友達が、初めてさい芸の大舞台を踏み、大事な役を演じるのを見届けたの。感慨ひとしお。長く生きてくると、こんな凄いこともあるのね。嬉しかった。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その1

 初日前夜から興奮状態。自分でもよくわからないテンションに。12月15日(金)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第33弾『アテネのタイモン』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出・主演/吉田鋼太郎
出演 藤原竜也 柿澤勇人 横田栄司 大石継太 間宮啓行 谷田歩
   河内大和 松田慎也 浅野望 松本こうせい 星和利 杉本政志
   坂田周子 千賀由紀子 林佳世子 ほか

 待ったわ。
 待ちくたびれた、と言っていいと思う。
 吉田鋼太郎演出のシェイクスピアは、なんと 劇団AUNの『十二夜』以来、ほぼ6年ぶりなのよ(『十二夜』の翌年の『冬物語』の時は、母が亡くなって、マダムは観に行けず)。ほんとにもう、待ちくたびれたわー。ブログ10年やってんのに、半分以上は待ってたんだからね。
 そのうえ、読んでもよくわからない『アテネのタイモン』だし、劇場もいきなり4倍位大きいし、どうなるんだろう、って期待と不安が渦巻いちゃってこの1ヶ月くらい、マダムの心はさい芸のまわりをグルグル回っていたのよ。
 でも、待った甲斐があったー。面白かったー。吉田演出の真骨頂!
 マダムはずっと言ってたのよ。今、日本語で上演するシェイクスピアで一番面白い演出をするのは、吉田鋼太郎だって。それが証明されたのよ!どうだどうだ〜。

 このあと観ることが決まってる人は、ここで引き返してね。予習はいらないから。

 

 芝居は1幕と2幕に分かれているんだけど、お話も真っ二つに分かれている。
 1幕目は、アテネの街で裕福に暮らすタイモン(吉田鋼太郎)が客に贅沢なふるまいをし過ぎて破産し、誰も助けてくれないことを知って怒りが爆発するまで。タイモンの屋敷を舞台に、華やかで賑やかなシーンが続く。
 2幕目はうって変わって暗くて静かな森の中。人間に恨み骨髄のタイモンが森の穴蔵で暮らし、訪ねてくる人間と議論の末、次々追い返し、死んでいく(?)までを描く。

 幕開きが素晴らしいの。開演10分前くらいから舞台に役者さんたちが現れ始めて声を出して歩き回る。蜷川御大の舞台でよくあった、見慣れた、懐かしい光景。それだけで観客は喜んじゃって、吉田鋼太郎が現れたらもう拍手が起きちゃうし、そこへまた「ただいま」だなんて言うもんだから、客席はすでに歓喜の悲鳴。まあ、なんて心憎い演出なの。
 そして彼の「さあ、始めようか」の一声で、役者たち全員が舞台の前面にぎっしりと並び、挨拶とともに音楽がなって、一斉にみんな踊り始める。緊張を一気に解かれて、芝居の世界にサッと引き込まれる瞬間。
 このオープニングのダンス、華やかで本当に楽しい!まずはダントツに、ミュージカル出身の柿澤勇人の素敵さにシビれる。そしてもう一人の注目の人は河内大和。彼の美しい立ち姿と鍛えたキレの良さがなんと、ダンスに生かされるとは。すばらしー。
 役者さんたちによる芝居の幕開けを告げるダンスが、やがてタイモンの屋敷で開かれている宴のダンスとなり、お話が始まるこの出だし、つかみはバッチリだ。
 1幕目はとにかく嘘と追従のオンパレード。金のなる木ならぬタイモンに、びっしりと群がる人々。見え見えのお世辞や追従に、大枚叩いて饗すタイモン。お世辞にも歯が浮くけど、もてなすタイモンの台詞もまた「本気なのか?」と疑うような美辞麗句が並んでて、すごく人間関係が上っ面なの。その中で、浮かれてない人間が3人いるのね。哲学者アペマンタス(藤原竜也)と軍人アルシバイアディーズ(柿澤勇人)と、タイモンの執事フレヴィアス(横田栄司)。
 藤原アペマンタスは1幕目はちょっと苦戦してた。華やかな人々の中たった一人ボロを着て歩き回り、皮肉な言葉を投げるんだけど、ほとんどが相手がいない状態で喋らなくちゃならない。すると、彼の台詞術のクセで詠ってしまうのね。でもアペマンタスは皮肉屋だから、詠うのはちょっと違うとマダムは感じたの。もっと、カラッとドライでいいのではないかしら。
 アペマンタスは哲学者ゆえにタイモンたちと逆の意味で浮世離れしてる。なので、ほんとに真っ当な感覚でいるのは執事フレヴィアスだけ。横田フレヴィアスの台詞は、1幕目のなかで際立つ、心に嘘がない台詞。似合いすぎ。優しい役柄を、演じる役者がさらに優しくする。
 アルシバイアディーズは軍人だから浮かれてない。カッキー、堂々のシェイクスピアデビュー。彼だけ別の展開があって、アテネの元老院と対立して追放を命じられ、怒りまくるシーンがあるんだけど、台詞が見事で、舌を巻いたよ。かっこいいし。ようこそ、シェイクスピア界へ。メッチャ、歓迎する〜!
 
 お世辞と追従の波のあと、破産寸前のタイモンに対して、手のひらを返したように冷たくなる人々。描写がくり返しになって、本だと退屈に思えるのだけれど、舞台は演出のアイデアがいっぱいで、飽きなくて、わかりやすくて、笑っちゃうところもたくさんあって。タイモンからの借金の申し入れを断る人々は、カウチに寝そべってワイン飲んでたり、風呂入ってたり、酒場でクダ巻いてたりする。演じる谷田歩、杉本政志、松田慎也も皆テンポが良くてノリが良くて、すごく楽しい。
 そして、誰からも援助が得られないとわかって、人々の裏切りにタイモンの怒りが爆発するのだけれど、この怒りのパワーが半端ではない。これはもう、吉田鋼太郎ならでは。そしてこれこそシェイクスピアならでは。日常生活では絶対感じられないような(もし感じたら凡人には到底耐えられないような)感情の振り幅なの。本当に久しぶりに、パワー全開の吉田鋼太郎を見た!
 この怒り爆発のシーンで、まさか屋敷を燃やしてしまうとは思わなかった。そういう台詞は確かにあるけど。燃える屋敷の前でタイモンが吼える。凄まじいシーンだけど、照明がにじむように美しくて。そして赤い借用書の紙切れが轟々と舞って、少しだけ蜷川演出のことを思い出したマダムだった。
 
 やっぱり長くなる。2幕目については、その2で。

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その3

 鋼太郎さんが遂に役者として稽古場に立たれたと聞き、再び見学に行ってきました!(ちなみに最初にその情報を得たのは、カッキーのツイートからでした。)
 時期が重なって、ブログ10周年記念企画のようになってますが、嬉しい偶然です。
 その1その2 を読んでから、どうぞ。
 

 12月6日(水)午後、再び大稽古場に伺いました。
 1度目に伺ったときには『NINAGAWAマクベス』のシンガポール公演のため留守だった役者さんたちが、皆もどってきていて、日本のシェイクスピア俳優集合度がさらに増していました。そして、やはりシンガポールから戻られたのでしょうか、故蜷川御大の写真が、真ん中の机の上に置かれています。

 「あとは俺だけなんだよな〜」と言いながら、タイモンの衣装をつけた鋼太郎さんが板の上に上がりました。
 演出家の椅子にいるときにはぴったり隣にいた記録係はもう、いませんでした。その代わり舞台に一番近いところにプロンプター(という呼び名でいいのでしょうか?)が二人ついて、鋼太郎さんの稽古をフォローします。びっしりメモが書かれた台本を手にしていますが、これ、殆ど台詞の流れを暗記していないと務まりません。演技に目を凝らし、台詞が止まって鋼太郎さんと目が合った瞬間に、次の台詞のきっかけを教えてあげなければならないのです。先日の記録係といい今回のプロンプターといい、最重要な、縁の下の力持ちですね。

 「あとは俺だけなんだ」と聞いて私が思い浮かべたのは、周りが完全に出来上がっているところへ鋼太郎さんがピタリと収まる、というような図だったのですが、それは完全に裏切られました。4幕3場はタイモンのところへさまざまな人が訪れては去っていきますが、新しい相手役が現れるたびに鋼太郎さんは稽古を止めて、新しいアイデアをどんどん試すのです。相手役の役者さんたちも、受けて立ちます。
 アルシバイアディーズの一行が通過する場面も、フレヴィアスとの別れも、画家と詩人が訪ねて来る場面も、どんどん変化していきます。鋼太郎さんはまるで、たった今思いついたかのように「こうしてみよう」「ああしてみよう」と言い、やってみると俄然芝居が活気づくので、ちょっと魔法にかかったようになってしまいます。見ているスタッフや役者さんたちも固唾を飲んだり、ドッと笑ったりして、思わず引き込まれていました。
 でも、あとから思い返すと、たった今思いついた訳がないのでした。このお芝居の影の主役は「カネ」なのですね。どの演出も、それぞれの人物の「カネ」に対する態度をくっきりさせることにベクトルが向かっています。そうやってテーマに沿った人物描写をすれば、おのずと面白くなるように本ができているのです。感心して見てるのは私だけじゃなかった。「おもしろいな〜」「よくこんな本、書いたよな〜、シェイクスピア」という声がスタッフの方から漏れたのを、私は聞き逃しませんでしたよ!
 
 長い4幕3場の稽古が終わり、次のシーンに移る時、藤原くんが鋼太郎さんに「大丈夫なの?ヘロヘロに(なってるんじゃない?)」と、わざと心配していない風なそっけない言い方で、実は気遣っていました。そう、ここはタイモンが出ずっぱりなだけでなく、ご自身の演出のせいで更に膨大なエネルギーが必要になっています。で、鋼太郎さんの藤原くんへの返答は「シェイクスピアハイだ(から大丈夫)」ですって。ランニングハイならぬシェイクスピアハイについては、鋼太郎さんのインタビュー記事で見たことがあった気がしますが、こういう時に使うのかと、聞いてにやにやしてしまいました。
 主演と演出を兼ねる時の方法を整理しますと。
① 信頼できる人を代役に立てて、まず他の役者さんたちとスタッフに全体の流れをわかってもらう。
② 頃合いを見計らって、自分も役者の方に加わる。
③ そうしながら細部の演技の演出をどんどん加えていく。全体のバランスを演出補に常にチェックしてもらいながら、進める。
④ プロンプターを立てて、同時に自分の台詞の曖昧さも修正していく。
 特別に効率の良いやり方があるわけではありませんでした。全て計算があって進めているのですが、それでも凄く凄く大変。そして最後の最後にシェイクスピアハイが助けてくれる、ということでしょうか。
 
 出番が終わって、タイモンの衣装をその場で脱いで着替え、鋼太郎さんは演出の椅子に戻ります。そこからはセットの移動があるシーンをチェックしていきます。そういう場面になると、どこか蜷川演出テイストが感じられるんですね。意識してそうしている部分もあると思いますが、これはさいたま芸術劇場で作っているから、というのが大きいのではないでしょうか。ゴールドシアターの『薄い桃色のかたまり』のときも同じように感じたのですが、長く蜷川演出を支えてきたスタッフの方達が、同じように真摯に岩松演出や吉田演出を支えようとすると、おのずと芝居の隅々からそのテイストが立ちのぼってくる、そんな気がしました。
 
 稽古場見学は十分すぎるほど刺激的でした。恋愛も権力闘争も嫉妬もなく、離れ離れの家族も間違われる双子も男装する女の子も出てこないんですが、これもまた紛れもないシェイクスピアだったんです。
 来週末にはいよいよ開幕です。ワクワクする気持ちをうんと貯めて、本番を待ちたい。
 皆さんも是非、ご一緒に。予習は特に要らないです(たぶん)!

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その2

 その1をアップしたらすぐ、皆さんから反応をいただきまして、記録係が演出家の隣にいるスタイルは広く行われているみたいなのですね。四季の浅利慶太さんは、そのメモを記録係の女優さんに読み上げさせた、とか。

 
 40分を越えるシーンを終えて、「ではダメだしをしよう」と言って鋼太郎さんは初めて席を立ちました。周りにびっしりと役者さんが集まって、ダメだしを聞きます。私の場所からはところどころしか聞こえなかったのですが、それは「ダメ」を「出す」という否定的なものじゃなくて、演出家のイメージを説明し、そのイメージから外れる部分を修正する、という感じでしょうか。アペマンタス役の藤原くんとは特に時間をとって話されていました。
 
 休憩のあと、同じシーンを始めから繰り返します。
 今度は、途中芝居を止めて、台詞や立ち位置を直しながら進んでいきます。アルシバイアディーズが去って、哲学者アペマンタスが登場してきました。
 藤原くんがこれまでシェイクスピアでやってきた役は、直情型で朗々と喋る役が殆どでしたが、今回の捻くれた哲学者はちょっと勝手が違います。一回目の通しの時は、まだ手探りな感じでした。でも二回目は、ときどき芝居を止めて、鋼太郎さんが自分の代役の長谷川さんの台詞まわしを直します(鋼太郎さんがタイモンの台詞を言うと、やはり全然違って、圧倒的です)。そうすると藤原くんもそれにパッと反応して口調が変わります。会話が立体的になり始める瞬間が見えて、ドキドキしました。
 だいたいこのシーンは、タイモンの長い長い台詞があって、アペマンタスがそれに茶々を入れるみたいな会話なので、はじめにタイモンありきなところがあるんですね。鋼太郎さんが長〜い台詞の、ここはこういう気持ち、これをきっかけにその気持ちが冷め、次のこの辺りから狂った状態に戻る、みたいな、タイモンの揺れ動きを一気に説明されたときには、私はもう唖然。へええええー、そうなのかー、と。小田島訳と松岡訳の両方を読んでいったのに、そんなこと何一つ読み取れない自分の凡人感にハンパなく満たされた瞬間でした。
 
 そしてシーン最後に登場するのが執事フレヴィアスです。横田さんが現れた瞬間、場の空気がガラリと変わり、もうフレヴィアスそのものでした。台詞を言い始めたら、言わずもがなです。上手いわ〜って心の中で感嘆しました(すみません。このような上から目線の言い方で。でも、本当にそう思った。うそはつけません)。そしてこのシーン、鋼太郎さんと二人でやるんだーと思ったら、ちょっともう、たまりません。稽古なのに、すでに感無量な私。
 鋼太郎さんと横田さん、そして藤原くんがシェイクスピアでがっぷり四つに組む瞬間を、私はずっと待っていましたので。共演はされていても、役によっては一緒のシーンがないことも多いし、火花散る会話のやり取りはずっと見られずにきましたが、とうとうその日が来るんです!
 
 すっかり興奮してしまいました。主演俳優が演出を兼ねる時、どんなやり方をするのか、についてちゃんと分析したかったのですが。途中から完全に観客になってしまって、冷静さは吹き飛んでしまったのでした。
 この日の稽古は、2時ごろから始まって、4時間あまり。まばたきも忘れるほど集中して見学しました。役者さんたちも、自分の出番がない時は、長机の側に座って、食い入るように稽古を見ていました。静かだけど熱と活気、そして朗らかさ溢れる稽古場でした。
 さて、鋼太郎さんはいつから役者の側に立たれるのでしょうか?「あと少し経ったらね」とおっしゃってましたが、そこをまた、見たいものです。再度、見学がかないましたら、また皆さんにご報告したいと思います。

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その1

 さいたま芸術劇場で12月に上演される『アテネのタイモン』。稽古場見学に行ってきました!
 日本のシェイクスピア俳優の80%(マダムヴァイオラ社比)が集合している稽古場を見学できるなんて・・・興奮と緊張のあまり、朝から肩凝りしてしまう私。
 見学日記を書くにあたりいつもの「敬称略」ではとても書けないので、役者さんのことは、私がふだん心の中で呼んでいる呼び方を使わせていただきますね。失礼があったらご容赦を。

 

 11月25日(土)午後、さいたま芸術劇場の大稽古場に、伺いました。
 大稽古場は、前の廊下を歩く時チラッと中が見えたことはありますが、入るのはもちろん初めてです。
 足を踏み入れると、聞きしに勝る広さです。大劇場の舞台プラス袖くらいの面積と、高い高い天井。片側の壁はいちめんの鏡張りになっています。床にはラインが引かれていて、緞帳が下りてくる位置や、センターの位置、上手と下手の切れる位置などが全部わかるようになっています。劇場と全く同じ立ち位置で稽古が出来る、故蜷川御大自慢の稽古場です。
 片側にずらりと長机が並んでいて、スタッフの方達が腰かけていました。真ん中に一つだけ木製の机があって、いかにも演出家の席、という感じでしたが、鋼太郎さんはそこには座らず、一つ奥に座ります。あとで伺ったら、この木製の机は故蜷川御大の席なのだそうです。今も、御大の魂は稽古場にあるよ、ということなのでしょう。
 
 今回見学するにあたり、私がいちばん知りたかったのは、主演俳優が演出を兼ねる場合、いったいどんなやり方で稽古するのだろうということでした。
 私は以前にも一度、鋼太郎さんの稽古場を見学したことがあります。劇団AUNの『十二夜』の稽古場でしたが(レポートは→ここ )、そのときの鋼太郎さんの役はマルヴォーリオで、重要な役ではあるけれど、主役ではない。今回のタイモンに比べたら、台詞の量も出演時間も、ずっと少なかったわけです。タイモンはほぼ出ずっぱりだし、いったいどうするんだろう、と興味津々だったのです。

 4幕3場をやります、というアナウンスがあって、役者さんたちが衣装をつけて舞台に集まり始めました。AUNの長谷川志さんがタイモンの代役で、衣装をつけ、現れたので、なるほど、と思いました。彼はAUNの若手公演の演出を手がけたこともある人で、『十二夜』のときも鋼太郎さんの代役をされてましたから。
 一回通してみよう、と鋼太郎さんが声をかけ、稽古が始まりました。
 始まって、いきなりびっくりです。長谷川さんがタイモンの台詞を全部憶えていたのにも驚きましたが、その台詞まわしが鋼太郎さんにそっくりだったので。シェイクスピアの台詞を客に伝わるように喋るにはこうする、という吉田鋼太郎イズムみたいなものが浸透しているのに感心してしまいました。海外の舞台でいうところのアンダースタディというのは、こういう存在なのでしょうか。
 4幕3場は、無一文になったタイモンが森の洞窟で隠遁しているところへ、以前の知り合いが次々やってくるシーンです。最初に武将アルシバイアディーズが現れます。カッキーはスレンダーな青年なので、武将ってどうなのかしら?と思っていましたが、軍服姿がメチャ格好いい! 怜悧な武将という感じ。そして後ろに屈強な兵士たちが控えているんですが、谷田さんや河内さんが甲冑を着けて睨んでいると迫力十分です。むき出しの腕の筋肉に、つい目がいってしまいますね。贅沢な配役です。
 アルシバイアディーズが去った後、哲学者アペマンタスが現れ、そのあと執事フレヴィアスが現れて、タイモンと物別れになるこのシーン、続けると40分以上になります。まず通してみると言った通り、鋼太郎さんは一度も芝居を止めず、片時も目を離しません。そして気がついたことがあると、目は離さないまま、次々口に出します。「今のところもっと早く出て」とか「今の台詞、縮める」とかそういったことを鋼太郎さんが小声で言うと、それを隣にぴったり張り付いている記録係の人(いちばん若い女優さんでしょうか?)が台本に付箋をつけてどんどんメモしていきます。鋼太郎さんは自分でメモしたり台本に目を落としたりはせず、稽古する役者さんたちから目をそらさないのです。はー、なるほどー、と私は心の中で何度も言ってました。(これが当たり前のやり方なのかどうか、私にはわかりません。鋼太郎さんの稽古しか見たことがありませんから。)

 通しが終わると、役者さんたちを集めて、さっきメモしてもらったことを含め、長いダメだしがありました。それを受けて「もう一度やってみよう」といって始まった次の稽古が、ちょっと凄かったんですが、長くなりましたので、その2で書くことにします。

『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』を観た

 三軒茶屋通いが続く。11月18日(土)ソワレ、世田谷パブリックシアター。

シス・カンパニー公演『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』
作/トム・ストッパード
翻訳・演出/小川絵梨子
出演 生田斗真 菅田将暉 林遣都 半海一晃 安西慎太郎
   松澤一之 立石凉子 小野武彦  ほか

 トム・ストッパードを脚本家たらしめた有名な戯曲なのだけれど、日本で上演されることは滅多にない。評判の高かった鵜山演出の古田新太VS生瀬勝久版は、残念ながら見逃してる。
 マダムが観た(はずな)のは、1985年の出口典雄演出。矢崎滋VS角野卓造という組み合わせだったのだけれど、記録が手元になく、ほとんど憶えていないという体たらくなの。マダムの記憶のどこを掘り返しても、この二人以外の登場人物はなかった気がするし、それがほんとなら、随分とホンをカットしていたことになる(そんなわけないよね〜。憶えてる方いますか?)。残っている印象は、角野卓造の演技が固かったことくらい。
 まあ、この芝居を楽しむための素地が、当時のマダムにはまだなかったということなのでしょう。
 
 これ、ストーリーを説明しようとすると、『ハムレット』から説明しないといけないので、やめます。知りたい人はどこかで調べてね。ごめーん。

 

 『ハムレット』のスピンオフだと考えていたら、ちょっと違ってたの。
 スピンオフっていうと、外伝のイメージ。元のお話とは違うところが思い切り膨らむんだと思っていたのよ。
 ところが『ロズギル』は膨らまない。『ハムレット』の枠から外へは一歩も踏み出さない。そしてそれこそが、この戯曲の醍醐味で、すごいところ。
 だから『ハムレット』を別の切り口で観る、というのに近かった。マダムのいる客席と、舞台を挟んで反対側(ホリゾントのある方)に実はもう一つ客席があって、そっちでは『ハムレット』が上演されている最中なんだと考えると、腑に落ちる。
 『ハムレット』の舞台は向こう側でもう、始まっているのだろうけれど、ローゼンクランツ(生田斗真)とギルデンスターン(菅田将暉)は、とにかく暇を持て余している。『ハムレット』の中では出番がメッチャ少ないし、待ち時間ばっかりなの。そもそも何を待っているのかも定かでない。出自や性格や背景などの人物設定がほとんど与えられていない二人なので、過ぎていく時間の中身も薄い。自分たちが何のために呼び出されたのかいまひとつわかっていないし、あとどれくらい待てばいいのかも、この先どうすればいいのかも、さっぱりわからない。でも勝手に離脱する自由は彼らにはないの。『ハムレット』には彼らの運命が全部書かれているので、そこからはみ出ることは許されない。それでひたすら暇つぶしで、コインを投げては裏表を当てるゲームをしているんだけど、ロズはずっと表に賭け、ギルは裏に賭けて、ギルは負け続けている。ただただ、不条理。
 その「薄い」中身しかないロズとギルの暇つぶしの会話がとてもおかしくてたくさん笑った。真面目に思い悩むタイプのギルと、なんでもホンワカと受け止めて流されがちのロズ。特にロズ役の生田斗真、マダムは初めて見たんだけど、正統派のイケメンぶりを捨て去って、垂れ目でニコニコしながら流されていく優しくも情けないロズを演じきってて、感心した。一方のギル役の菅田将暉は、今いちばん人気のある役者らしくオーラがハンパなかったのだけれど、全体を通して一本調子になりがち。セリフは早口だけど全て聞き取れて凄いなと感心はしたものの、ギルの気持ちの変化は受け取れなくて、このホンを演るのはまだ難しかったかな、という印象。
 そう。笑って楽しく観たものの、これは難しい芝居だと、後で考えれば考えるほど、思うわ。ストッパードといえば何年か前の『アルカディア』も難物だったんだけど、同じように噛みごたえがある。
 
 たぶん、二人の会話を面白がって見ているうちに、ドラマチックな『ハムレット』の主役たちと比べ、ロズギルが陥っている状態は主体性を奪われた、なんて非ドラマチックな人生なのかってことが、浮かび上がってくるのね。死ぬ時だってハムレットの方はかっこよく「あとは沈黙」なんて言っちゃうし、その死はホレイショーのセリフによって語り継がれていく。でもロズギルは、聞き伝えで「死んだそうです」の一言で片付けられちゃう。どんな死に方だったのか、最後に意味のある言葉を残したのかも書かれてないから、ただ彼らに当たってる照明がフッと消えて終わりなの。
 その非ドラマチックなロズギルが、まさしく客席にいる我々そのものだってことに苦々しく気づく・・・ところまで行ったら素晴らしいんだけど、今回の舞台はそこまでは至らなかった。
 垣間見える『ハムレット』側の登場人物(クローディアスやガートルードやオフィーリアやポローニアス)がロズギル側に近い緩〜い描かれ方だったのが、ちょっと疑問。あっち側がパロディっぽくなく真剣そのもので時を生きてこそ、ロズギル側の時間の意味のなさがくっきりするのではないのかな?
 でも、ハムレット(林遣都)はとてもよかった。生き生きしていて。ロズギルに対するハムレットの容赦なさにもスポットが当たって、なるほどと思った。出番は少なめだけど、いちばん目立って美味しい役だわ。
 それと旅の一座の座長(半海一晃)が、上手い〜。座長は『ハムレット』側でもあるし『ロズギル』側でもあって、その外側から全てを客観的に見ているような不思議でちょっと怖い存在。キラキラ光る眼がなにもかもを見通すようで、引き込まれた。
 
 『ロズギル』はホントに、凄く凄く面白いホンだよ〜。これを機に、もっと上演されるといいな。
 今回はマダム史上稀にみるチケ難に襲われ、一度は観劇を完全に諦めたの。あれほど高額でチケットが売買されているのに怒り心頭でもあったし。正規の値段以上びた一文払うもんかと思っていたので、見られないことはほぼ確定だったわ。でも、諦めた、諦めたって何度も騒いでたら、周りがとても気にかけてくれて、最後の最後に友人の友人からチケットが回ってきたの。お礼を申します。ありがとうございました〜。
 今後も、どれほど観たい舞台であっても、高額チケット売買に加担することだけはしない。そこんとこ、強調しておきますわ。製作会社も何か対策を考えてよね。
 

終わり良ければすべて良し? イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『オセロー』

 来日公演って短い。当然ブログは間に合わない。11月3日(金)ソワレ、東京芸術劇場プレイハウス。

トネールグループ・アムステルダム『オセロー』
作/ウィリアム・シェイクスピア
演出/イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演 オセロー=ハンス・ケスティング  デズデモーナ=ヘレーヌ・デヴォス
   イヤーゴー=ルーラント・フェルン・ハウツ  エミリア=ハリナ・ライン
   キャシオー=ロベルト・デ・ホーフ
   ロダリーゴー=ハルム・デュコ・スヒュッツ ほか

 
 オランダ語の上演だったので、勿論、字幕付きだったのだけれど、これがあんまりうまくいってなかったの。あきらかにズレズレなところが沢山あったし、字幕に出しきれなくて省略してるんだけど、しすぎてわけわからなくなってたし。
 話は「オセロー」なんだから、みんなわかるでしょ、ってことかもしれないが、本を切ってあるし、やっぱり「このセリフでこの表情!」みたいな瞬間、わかりたい。英語なら少しはわかるかもしれないところ、オランダ語では手も足も出ないのだった。悔し〜。
 一方でオランダ語の、独特の四角張った硬い響き(ドイツ語に近い)でシェイクスピア、というのがとても新鮮だったわ。
 
 
 幕が開くと、舞台は青いカーテンで三方を覆われた広い空間で、オセローとイヤーゴーが半裸で、ソファに身を投げている。ジムの中のサウナ、みたいな感じ。空間は広いのに、空気が重く圧迫感がある。戦いが終わった開放感や、デズデモーナという若くて美しい伴侶を得た喜びとかが、感じられない出だし。もちろん、自分が愛を勝ち得たのだ、みたいなセリフはあるんだけど、一方でデズデモーナのことを「戦利品」と言い、それが例えじゃなくて当然のようににそのつもりなのが、態度のあちこちに見えるの。
 不気味な効果音のような音楽(いや、音楽のような効果音?)がずっと流れていて、その使い方が舞台というより映画の劇盤みたいだった。
 出てくる男たちは全員軍人で、現代に置き換えられているので、きっちりネクタイを締めた軍服を着ている。そうじゃない時は裸。両極端。仕事かセックスしかない。生活ってものが全く無い。舞台が殺伐としてた。
 本を大胆にカットしてあって、話がどんどん進むので、いつも以上にオセローの只ならぬ愚かさが露呈して、いつも以上に呆れるマダム。
 オセローを白人俳優が演じ、他の男たちと違いがわからなくて戸惑った。セリフでは「ムーア人」とか「アラブの出」だとか出てくるけど、オセローとイヤーゴーの人種の違いとか、底にながれる差別感情とかは、正直、感じることができなかった。パンフレットによれば「アラブ系にルーツがあるオセローは外国人なので、周りで起きていることを全ては理解できず、疑念がイヤーゴーによって膨らんでいく」とのことだったんだけど。マダムはからきし受け取れなかった。その微妙さを受け取るには、オランダ語を理解できなければならなかったのかしら?
 
 新しいと感じたのは、デズデモーナの造形。
 小さくて華奢でショートカットのデズデモーナ。妖精みたいに身軽で、無邪気にオセローの周りを跳ね回ってる。オセローとの体格差がすごくて、巨人と小人のよう。片手で持ち上げられ、ひょいと投げられる。オセローの愛を無邪気に信じすぎ、口を出しすぎてしまう。

 イヤーゴーも、日本で上演される時の「色悪」のイメージは皆無。悪の魅力とかは全然無く、ただの悪い中年男。そして、自分を差し置いて出世していくキャシオーに対して、嫉妬しているようには見えない。何もかも気に入らなくて、ただ滅茶苦茶にしたいだけの人、に見えた(いるよね、そういう奴)。
 
 途中の場面転換で、巨大な青いカーテンが一斉に外れ、それが風にあおられて舞台上を舞う中、後ろから大きなガラスの箱(オセローの寝室)がゆっくり現れた。日本の舞台では見たことのない種類のセンスで、度肝を抜かれたわ。
 でもそれ以外は、前半ずっと同じトーンだし、字幕がズレズレだし、いまひとつ 乗れず。このまま行ったら、寝るな、と思ったの。初日なので、関係者っぽいおじさんが多数客席にいたけど、前半終わったところでゾロゾロ帰って行った。でもね、マダムは前半が面白くなかったからって、帰ったりはしないよ。後半何が起こるかわからないじゃない?
 事実、衝撃のラストに向けて、盛り上がった。
 
 全ての条件が出揃って、あとはオセローがデズデモーナに手をかけるだけとなったところで、不気味な音楽が鳴り響く中、やや後方に位置していたガラス張りの寝室がどどーっと前に進んできたの。寝室内の大きなベッドには、半裸のデズデモーナがすでに眠っていることを、観客は知っている。さあさあ、おたちあい!という演出家の声が聞こえるよう。寝室に入ったオセローは軍服を脱ぎ、パンツ一丁でベッドの脇に立ち、眠っているデズデモーナを冷たく見下ろす。獲物を見つめるハンターのよう。妻を殺さなければならない苦しみが、感じられない。
 その状態フィックスのまま、なんと寝室の方の照明が消え、舞台後方に光が当たると、そこでは台詞なしの寸劇のように、ロダリーゴーがキャシオーを殺そうとして失敗したり、キャシオーの情婦が殺されたりする。パントマイムによる舞台説明みたいに、その辺りの顛末が済んでしまい、あっけにとられた。前方ではデズデモーナを見下ろしたオセローの姿がシルエットで立ち尽くしている。
 そして寝室上の照明が再びつくと、フィックスが解けてデズデモーナ殺しの場面になるのだけれどこれはもう、舞台上の型とかお約束とかは一切なしの、まごうかたなき殺人そのものだった。逃げ惑うデズデモーナを捕まえて、枕を押し付けて窒息死させるの。
 そのあと駆けつけたエミリアの叫びと、追いかけてきたイヤーゴー(何故か半裸。寝室から来たから?)によるエミリア殺害まで、徹底して女を見下した扱いだった。
 女たちは殺されて半裸で転がっているのに、オセローは自害するため、ゆっくりと軍服を着るのだ。そしてナイフを首に当てるとき、傍では軍服姿の部下が敬礼している・・・。
 
 緑色の目をした嫉妬という生き物がオセローを狂わせ苦しめる、そういう物語だと思ってきたのだけれど、このホーヴェ演出では色々と切り口が違っていた。
 人種差別的な切り口については、最初に言ったようにマダムは感じられなかったけれど、それよりも圧倒的な、女への差別が描かれていたのよ。
 オセローのデズデモーナ殺しは、嫉妬というより、自分を裏切った女への粛清だったし、イヤーゴーのエミリア殺しも、お喋りの口を塞ぐためではなく、自分に刃向かったからのように見えた。
 オセローのデズデモーナへの愛し方は、ペットへのそれであって、同じ人間の愛ではないの。
 そしてイヤーゴーの悪事のモチベーションは、自分よりキャシオーを重く用いたことへの仕返しではなく、オセローの愛をデズデモーナに奪われたことへの復讐にしかみえなかった。
 緑色の目をした嫉妬という生き物にいちばん取り憑かれていたのは、イヤーゴーだったということかしらね?
 
 
 『オセロー』って、四大悲劇の中でも一番にがてだ。オセロー、バカすぎる。
 男はなぜ、自分がこうと決めたものしか見ないのか?それほど馬鹿なのか。何百年も前からずっとそうなの?どうして客観視できないのよ?・・・そう感じて、ため息をつき首を振る。
 でもすごいのは、そんな男のひとりでありながら、シェイクスピアは冷徹なまでに客観的だってこと。
 プルカレーテの『リチャード三世』に引き続き、刺激を受けた舞台だったわ。
 世界は動いてる。

古強者向け プルカレーテの『リチャード三世』

 ネット上で見た舞台写真の魑魅魍魎感に、ワクワクしながら出かけて行ったわ。10月21日(土)マチネ、東京芸術劇場プレイハウス。

『リチャード三世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/木下順二
演出・上演台本/シルヴィヴ・プルカレーテ 演出補/谷賢一
出演 佐々木蔵之介 手塚とおる 今井朋彦 植本純米 山中崇
   山口馬木也 河内大和 有薗芳記 壤晴彦 渡辺美佐子 ほか

 

 なかなか楽しく観た!
 一方で、稲妻は降りて来なくって、薙ぎ倒されることもなくて。でも満足、という感じかしら?
 どう書いてもネタバレは免れないので、よろしくね。
 
 
 たまたま客席の中に友人がいて、終わった後、話したんだけれど、二人とも開口一番「これ、話を知らない人にはさっぱりわかんないよね〜?」と言い合ったの。
 演出はルーマニアの凄腕演出家、プルカレーテ。欧米の人にとってシェイクスピアは勝手知ったる庭なのね。普通に散歩したんじゃ面白くもなんともないんだ、きっと。
 だからいろんな変化球がてんこ盛りだし、「こいつはこっち側の人間、そいつは敵対する人間、あいつは敵に夫を殺された妻・・・」といった登場人物の立ち位置(わかりきったこと)を示すために知恵をしぼるようなことはしない。したがって、シェイクスピアに詳しくない人、あるいは芝居を見慣れてない人にとっては、話は追えなかったでしょう。事実、マダムのすぐ近くにいた、紳士にエスコートされてきた本物のマダムな方は「参ったわ〜。疲れた〜。どういう話なの?」と紳士を責めていた。紳士が気の毒。
 マダムはさすがにリチャード三世に関しては古強者の方に入るだろうと思うので、お話が理解できないなんてことはなかったんだけど、こういうのって、やっぱり影響がある。客席全体が固唾を飲んで見つめている時は、すごいエネルギーが生まれるし、それを受け止めた演者側が更なるエネルギーを放出して、いい循環が生まれる。でも、客席の4分の1か5分の1かが、ついていけずに戸惑ってたり寝てたり飽きてたりすると、不思議と、理解して見ている客のテンションもじわじわ下がってきてしまうのよ。
 
 だから一番良かったのは、幕開き。出だしが素晴らしいの!
 開演前にちゃんと幕が降りてる舞台って最近、珍しい気がした。ぴったりと降りた幕がスルスルと上がっていくと舞台は、城壁模様の高い高い垂れ幕に三方囲まれ、一面に緑がかった人工的な照明が当たり、ホーンセクションの生音に合わせて、大勢の男たちが体を揺らしている。みんな白いシャツに細身の黒いパンツ姿で、役を表すような衣装はなく、手にはシャンパングラス。くねくねと踊る姿が、カッコよくもありそうとう気色悪くもあって、マダムは「なにこれ〜?‼︎」と目を見張ったの。つかみはバッチリ。
 するとその中から「今や我らが不満の冬は去り・・・」というリチャードのセリフが聞こえてきて、ゆっくり現れたグロスター伯リチャード(佐々木蔵之介)は、せむしでもなく、足も曲がってなくて、すらっとしたいつもの佐々木蔵之介のまんまなのだった。そして饗宴のさなか、いつの間にか、踊っていた中の一人が手錠をかけられて連行されていく。二番目の兄クラレンス公ジョージだ。
 こんな風に、シーンとシーンは合体し、あるいは飲み込まれ、省略され、混じり合ってる。衣装も人を食った仕掛けになっていて、リチャードの足は、出てくるたびにいろんな曲がり方で、それに合わせていろんな杖をついているし、背中のみならずお腹までこぶができているときもあれば、本当のプライベートのときはまっすぐな体だったりする。これってつまり、リチャードが公的には不具を装っている、ってことだよね?
 女役の役者たちは皆、一応ドレスなど着ているので女とわかるんだけど、かつらはなくて、アン(手塚とおる)もマーガレット(今井朋彦)もエリザベス・グレイ(植本純米)もヨーク公夫人(壤晴彦)も、いつもの素顔。それなのに、なぜか皆、究極の色気のようなものを纏っているの。アンなんて、本当にいつもの手塚とおるなのに、なぜ女の色気が匂うのかしら。今井朋彦もなんだか美人だし。おかしいでしょ。どういう仕掛けなの。
 こんなに凄い女役メンバーなので、女たちだけで散々嘆き合うシーンがあっさりカットされてたのはちょっと残念だったんだけど、それにはワケがある。
 思うに、女たちのシーンに代表されるような、嘆きとか、情の入り込む余地のある箇所は、容赦なく切られていて、ただただ冷酷でスプラッターで乾ききった世界を作り出そうとしている演出なのよ。
 そして殺し方が怖い。バスタブに水を貯めるのに始まり、てらてらと光るビニール袋やチェーンソーが、めちゃくちゃ怖い。殺しは見えないようになってるんだけど、そのせいで何倍にも想像が刺激されて、見えないのに顔を背けるくらい。で、そのあとを無表情でモップかけてる掃除係の姿も恐ろしいし。
 従来の演出なら、最後の方に活躍する印象のケイツビー(河内大和)とラトクリフ(浜田学)が、最初からずっと舞台のどこかにいて、能面のような無表情でリチャードに付き従っているんだけど、怖いこと怖いこと。特に河内大和の存在感には圧倒されたの。体型が、腕や背中の筋肉が、そのままで演技になってる。彼の凄さは知っているけど、その彼をケイツビー役で使う贅沢さ。役にあまりにもぴったりなので・・・河内大和の代表作に数えられるかもしれないわ。
 
 後半、あの手この手に少し飽きが来て、さすがのマダムもちょっとダレかけたその時!とんでもないシーンが現れた。
 追い詰められたリチャードが戦場で夢を見るシーンがあるでしょう?自分が殺した人たちの亡霊が次々現れるところ。
 その前から、もう舞台には佐々木蔵之介しかいなくて、全然、進軍でも戦闘でもなくて、ひとりでぶつぶつ言ってるだけなのね。普通のリチャード三世の運びではないの。広い舞台の前の方でひとり寝そべってるリチャード・・・そこへ周りの城壁模様の垂れ幕がぞわぞわぞわ〜と動き出すんだよー。背筋がゾッとする瞬間。
 垂れ幕がぞわぞわと2メートルくらいずり上がるとそこに扉がたくさん現れ、一斉に扉が開くと、そこにはずらりと並ぶ幽霊たち。いつのまにかホーンセクションも現れて、幽霊たちは一人一人マイクを持って歌いながら進み出て、リチャードに呪いの唄を浴びせるのよ〜。この唄がいいの。すこーんと明るく突き抜けた、開き直ったサラリーマンの宴会後のカラオケみたい。それで歌詞は「この世に思いを絶って死ね!」なんだもんね。もう爆笑。
 でも気がつくと、笑ってるのはマダムの周りでは、マダムだけだったの。
 
 この芝居はね、ものすごい積み重ねの果てに作られたアンチテーゼ、みたいな演出。それは違う、あれも却下、そこは逆転して・・・っていうふうに作った。
 で、却下された方をどれだけ知っているかが、楽しめる鍵なの。
 もちろん最初から、話じゃなくて佐々木蔵之介のいろんな姿が見たかった人も、それなのに楽しかったんじゃないかなぁ。
 渡辺美佐子演じる代書屋の存在は、演出家の言い訳のような気がして、マダムには邪魔だったな。

より以前の記事一覧

2018年2月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28      

関係するCD・DVD

無料ブログはココログ