最近の読書

無料ブログはココログ

シェイクスピア

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための『天保十二年のシェイクスピア』予習講座 その4

 さてここまで大雑把なあらすじを書いてきたけど、これ以上細かく書くと観劇の楽しみが減るので、この辺にしておきます。
 予習しとくと、より楽しいポイントを、も一度まとめてみると、
 
1.「リア王」の設定(王様と娘が三人)と、最初の場面。
2.「ハムレット」の設定と、人物の関係図と、
   幾つかの有名場面(父親の幽霊と会うところ、
   オフィーリアに「尼寺へ行け」というところ、「生か死か」と悩むところ)

3.「ロミオとジュリエット」の設定と、バルコニーの場面。
4.「オセロー」がどんな風に、イヤーゴに陥れられたか、について。
5.「ジュリアス・シーザー」のアントニーの演説シーン。
6.「マクベス」の魔女の予言。マクベス夫人がマクベスをけしかける場面。
 
 こんな感じかなぁ。初日までまだ3週間くらいあるし、あせらず行きましょう。
 ま、予習しなくたって、芝居は楽しいと思うけど!
 
 
 
 最後に、浦井ファンの方に、マダムがいちばん楽しみにしているポイントをお話しして終わりにしよう。
 ハムレットのセリフで「生か死か、それが問題だ」という有名なセリフがあるけど、これは明治以来、たくさんの違う翻訳があるの。芝居の途中、王次がそれを全部(明治の坪内逍遥訳から、最近の松岡和子訳まで)紹介してくれるシーンがある。それが、メッチャ楽しみ。
 
 ではこれで、勝手な予習講座、終了。
 芝居を観たら、レビューを書くので、また読みに来てね。そして、ここで触れなかったパロディを発見したら、教えて下さい!

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための『天保十二年のシェイクスピア』予習講座 その3

 すごい反響なので、俄然書く気が湧いてきてる!
 
 続き。

 シェイクスピア好きなら知っているんだけど、シェイクスピアにはよく双子が出てくる。当時のシェイクスピアの劇団には、双子の役者もしくは凄くよく似た二人組がいたのかもしれない。だから、そっくりな兄弟が別れ別れになっていて、知らずに同じ町に滞在し、周りの人間が間違えて大混乱に陥る…という楽しい設定が、よく使われているの。
 なので、井上ひさしももちろん、この設定をそのまま取り入れている。

 物語の始まりで、父親に勘当された三女のお光
 お光は実は、拾われた子で、十兵衛の本当の子ではない。末っ子が継子(ままこ)で、一番気立てがいいというのは、シンデレラとかでも出てくる設定だけど、そこにさらに、お光には双子の姉妹がいた、という設定が加わるの。これを一人の役者(今回は唯月ふうか)がやるので、当然早替わりなんかがあって、楽しいのよ。
 勘当されたお光は遠い町に行っていたけど、父親が死んだと聞いて、姉たちに復讐しようと帰ってくる。姉の息子である王次は、お光にとっては仇の一員なんだけど、互いに一目惚れで、恋に落ちる。つまりここでは、王次とお光は、ロミジュリになる。お光は窓辺で「王次、どうしてあんたは王次なの?(ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?)」とつぶやく。それに対し王次がなんと答えるかは、劇場でのお楽しみ! みんな、その瞬間を待とう。
 
 三世次の悪巧みは、両家の抗争を激化させ、話が進めば進むほど、登場人物はどんどん死んでいくの。作家が決めたことなのでしょうがない。最後は三世次も、語り手の隊長も、み〜んな死んで、全員で楽しく歌う。その歌詞が絶品。「もしも、シェイクスピアがいなかったら」という歌。もしもシェイクスピアがいなかったら、劇場主も役者も英文学者も商売上がったりだよ〜っていう歌、めっちゃ楽しいよ!
 


 歌について話すのを忘れていた!
 出てくる歌出てくる歌、歌詞が韻を踏んでたり、キツいジョーク飛ばしてたり、ちょっと下品だったりするので、普段の自分の品の良さを忘れて楽しみましょう。
 もともとシェイクスピアは、韻を踏んでたり、同音異義語を使って冗談言ったり風刺を込めたり、隠語で下品な笑いがあったりするのね。でも、そういうところを翻訳するのはすごく難しいことなので、日本でシェイクスピアを上演すると、なんかお堅い高尚なものになりがち。
 井上ひさしはその辺りのことをよくわかってて、歌詞の中に言葉遊びをたっぷり入れてる。「賭場の場のボサノバ」とかね、上手すぎる。全部は聞き取れないので、見終わってから、興味のある方は、本を読んで更に笑うのがいいと思う。
 
 さて、その4でまとめ、します。

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための『天保十二年のシェイクスピア』予習講座 その2

 『天保十二年のシェイクスピア』には、芝居の案内人みたいな人がいて、隊長という役名がついている。今回この役をやるのが木場勝己なの。2005年の蜷川演出版でも、同じ役をやった大ベテラン。良い声で、セリフがまろやかでなめらか。とっても聴きやすい。この人が案内人なので、みんな、安心していいと思う。
 なので、予習しなくてもいいや、と思ったら、ここからは読まなくてもいいんだけど。
 


 ここから解説付きあらすじです(いちばん大事なところのネタバレは避けます)。
 
 清滝村、という田舎町を牛耳っているヤクザの親分、鰤(ぶり)の十兵衛には3人の娘がいる。十兵衛は、娘の誰かに跡目を譲って隠居したいと考えて、娘たちを集め、誰が一番親孝行をしてくれるか?と尋ねる。長女のお文も、次女のお里も、歯の浮くようなお世辞を言うんだけど、三女のお光はまっすぐな気性が邪魔をして、お世辞が言えず、父親の怒りを買って、追い出される。
 これは完全に「リア王」の出だし。全く同じと言っていいので、時間のある方は、「リア王」の最初の5分の1くらい、読んでみてね。時間のない方は、ざっとあらすじを知っておこう。
 そのあと、十兵衛は長女からも次女からも冷たくあしらわれ、町はお文の一家とお里の一家に支配され、二分され、対立抗争が始まる。
 
 抗争が始まった清滝村に、一人の流れ者がやってくる。佐渡の三世次。せむしで足を引きずって歩く醜い男だけど、出世欲が強くて、悪賢い。この設定は「リチャード三世」そのもの。この三世次、醜くて悪いやつなんだけど、口の上手さだけで人の心を操ってのし上がっていくのが、なんとも痛快で魅力的。悪の魅力。
 マダムはもちろん高橋一生、大好きなんですけど、彼が演じてきた中でも最大の面白い役。期待しちゃう。
 三世次は、対立するヤクザの家の両方にうまく取り入って、両方が互いを殺し合い、両方の力が弱まるように、立ち回る。そのあたり、シェイクスピアというよりも、黒澤明監督の「用心棒」みたい。
 だけど、そのうまく立ち回るノウハウが、いちいちシェイクスピアなのよ。
 
 
 たとえば①。三世次は、王次が「父親を殺したのは叔父だ」と気づくきっかけを仕込む。父親の幽霊を仕込むんだけど、それは言わずと知れた「ハムレット」のパロディ。
 
 たとえば②。三世次は、幕兵衛に「愛人が自分を裏切っている」と思い込ませるんだけど、そのやり方はイヤーゴがオセローを罠にかけたやり口(オセローが妻デズデモーナにプレゼントした特別なハンカチを盗んで、別の男の部屋にこっそり置いておく。それでデズデモーナが浮気したかのように見せかけ、オセローの嫉妬をあおる)。
 
 たとえば③。自分の兄貴分を追い落とすため、三世次は「ほめ殺し演説」をする。この演説が「ジュリアス・シーザー」の中のアントニーの演説そっくりなの。(ブルータスのことを褒めてるような口ぶりで、実際は反感をあおり、聴衆はみんなブルータスを信用しなくなる。とても有名な演説。)
 
 というように、三世次の一挙手一投足に、シェイクスピアが練り込まれてるの。マダムも到底全部は気づけないほど、たくさん練り込まれてて、ひとつひとつ発見していくのが楽しい。
 ただそればかりにとらわれると、頭が忙しくなっちゃって疲れることもあるので、ほどほどに。とりあえず上の三つくらいフォローしとけばいいと思うので、なんとなく頭に入れといてください。深掘りしたい方は各自で。
 

 それから占いの老婆が、三世次や幕兵衛にいろんな予言をする。
 浦井ファンの方は、メタマク見てるから、もう当然気づくでしょう。この占いの老婆は、マクベスの魔女です。相手の心の中の本音をくすぐって、泥沼に引き込む悪魔ね。
 悪の塊のような三世次でも、魔女の予言には逆らえない。
 
 あらすじは、その3で、まだまだ続きます。

速報 10月に『リチャード二世』上演

 予習講座中に、すごいニュースが飛び込んできた!
 10月に新国立劇場で鵜山演出『リチャード二世』を上演するって!
 
 2018年5月に、一連のヘンリーシリーズの最後とも言える『ヘンリー五世』上演があったときマダムは既に、同じ座組で『リチャード二世』を上演してくれ、と訴えていたの(レビューは、これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』 )。なんと、アンケートに書くように、みんなに呼びかけている…。
 みんなの協力が功を奏したのか、今回『リチャード二世』上演の運びとなったわ〜‼︎‼︎
 めでたい〜!

 出演は、岡本健一、浦井健治、中嶋朋子をはじめ、シェイクスピア歴史劇シリーズに出演してきたチーム、集合ね。文学座からも、文学座を代表する顔ぶれ(横田栄司、浅野雅博、石橋徹郎、亀田佳明など)が続々集合。
 配役は発表になってないけれど、岡本健一がリチャード二世、浦井健治がリチャードを倒すボーリンブルック(のちのヘンリー四世)を演じるのに間違いないでしょう。
 
 それと、今回の上演にあたって、過去の歴史劇シリーズの映像を公開する、とのこと。選りすぐりの、って話なので全部じゃないみたいだけど、ケチってないで全部公開しなさーい。国立劇場で製作したものは、みんなの財産なんだからねー。
 
 というわけで、夏にはまた当ブログで『リチャード二世』予習講座、開催決定!
 みんな、楽しみにしててね。
 さて、『天保』予習講座執筆に戻りまする。

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための『天保十二年のシェイクスピア』予習講座 その1

 2月に日生劇場で上演される『天保十二年のシェイクスピア』。
 浦井ファンの中には、ふだんのミュージカルのラインナップと違う雰囲気のチラシを見て、驚いてる方もいると思うので、その方たちのため、ごく簡単な予習講座します。
 井上ひさし作の舞台を多々ご覧になってる方は、あたりまえすぎて面白くないと思うので、読み飛ばしてね。
 
 『天保十二年のシェイクスピア』は、劇作家井上ひさしの傑作の1本で、初演が1974年。題名からも推察できる通り、シェイクスピアのパロディ作品。あらゆるシェイクスピア作品から、人物やら設定やら台詞やらを引っ張ってきて、日本の天保時代(江戸時代ね)の田舎町の抗争を描いてる。
 井上ひさしは、書き始める前にふたつのことを決めてたみたいなの。ひとつは、シェイクスピアの全37作品から、台詞を取り入れること。もうひとつは、シェイクスピア作品の悲劇を真似て、登場人物全員が死ぬこと。このふたつをお約束として、書いたわけ。だけど作品は全然、悲劇じゃない。悪いやつが悪いことをしてどんどん死んでいくので、全く悲しくない。むしろ痛快。
 
 このパロディ、井上ひさしの膨大な量の博識が詰め込まれた、楽しくも深い、深くも広い作品になっているので、ただ見るのも面白いんだけど、少しでも元になってるシェイクスピア作品の知識があれば、もっともっと楽しめるの。
 なので、まず登場人物が、シェイクスピア作品の中の誰をモデルにしてるのかを、ざっと挙げてみますね。たいてい、複数の人物をモデルにして、混ぜこぜにしてる。

 
佐渡の三世次(高橋一生)・・・・リチャード(「リチャード三世」)、
                
イヤーゴ(「オセロー」)、
                アントニー(「ジュリアス・シーザー」)など
きじるしの王次(浦井健治)・・・ハムレット、ロミオ
お光&おさち(唯月ふうか)・・・コーディリア(リア王の三女)、ジュリエット
                アンティフォラス双子兄弟(「間違いの喜劇」)
お冬(熊谷彩春)・・・・・・・・オフィーリア(「ハムレット」)

鰤の十兵衛(辻萬長)・・・・・・リア王
お文(樹里咲穂)・・・・・・・・ゴネリル(リア王の長女)、
                ガートルード(ハムレットの母)

蝮の九郎治(阿部裕)・・・・・・クローディアス(ハムレットの叔父)
お里(土井ケイト)・・・・・・・リーガン(リア王の次女)、マクベス夫人
尾瀬の幕兵衛(章平)・・・・・・マクベス、オセロー
清滝の老婆(梅沢昌代)・・・・・マクベスの魔女



 浦井ファンとしては、ハムレットもロミオもやってほしかった役なので、きじるしの王次は、なんと一粒で二度美味しい(みんな知ってるだろうか、この表現)役。この役を味わって見るためには、ハムレットのあらすじだけは是非とも頭に入れておきたい。(ロミジュリはみんな、知ってるでしょ?)
 王次は、やくざの親分の跡取り息子で、違う町に修行に行ってるんだけど、父親が死んだと知らされ、帰ってくる。すると、父親の弟(つまり叔父)が母親と再婚してて、親分に収まっている。王次はなんとなく、納得できなくてフラフラしてる。すると父親の幽霊が現れて「俺は殺された。仇をとってくれ」って言うの。
 ほら、完全にハムレットでしょう?
 でも、抗争相手の娘と恋に落ちるところは、ロミジュリ。そこは話がいろいろと組み合わさり、絡み合ってる。両方の話を知ってると、絡ませ方の妙が感じられて、そこもまた面白い。
 
 「ハムレット」の脚本を読むまではしなくてもいいので、あらすじと、登場人物の関係図くらいは、見ておこう!
 その2では、『天保十二年のシェイクスピア』の大雑把なあらすじをシェイクスピア作品と絡めて、説明します。

『シェイクスピアの言葉を泳ぐ』の中を泳ぐ

 初めての道は遠く感じるものだ。12月18日(水)マチネ、無名塾稽古場(仲代劇堂)。
 
『シェイクスピアの言葉を泳ぐ』〜無名塾とシェイクスピア〜
作/シェイクスピア 訳/小田島雄志 ピアノ演奏/鷹野喜充
構成・演出/山崎清介
出演 中山研 本郷弦 篠山美咲 井手麻渡 鷹野梨恵子
 
 仲代達矢主宰の無名塾、発足してたぶん40年くらい?35年くらい?
 俳優座をやめた仲代達矢が奥さんの隆巴と作った、俳優養成所ね。ここから輩出した役者といえば、隆大介(最近見かけない)とか若村麻由美とか益岡徹とか。最近では真木よう子とか。そして何と言っても役所広司。役所広司の芸名は、仲代達矢がつけたらしい。市役所をやめて養成所に来たから、役所って名前になったのは、有名な話。
 マダムは、ごく最初の頃の公演は観てるの。山本圭を主役に起用した『ハムレット』、仲代達矢の『マクベス』、そしてその二人が共演した『毒の華マンドラゴラ』。これが役所広司のデビュー作だった。身も心も軽々と飛び回ってて楽しそうだった。よく憶えてる。
 この初期のラインナップを見ても、仲代達矢のシェイクスピアに対する傾倒はわかるよね。
 その無名塾の塾生たちによる稽古場公演に行ってきた。
 構成・演出は「子供のためのシェイクスピア」の主宰だった山崎清介。「子供のためのシェイクスピア」はこの夏の公演が最後になってしまって、マダムはとても残念なの。山崎清介の演出でシェイクスピアを観たい。その気持ちで、行ってみた。
 
 稽古場には、テーブル5つと椅子が5脚。黒ずくめの衣装(というか普段着)の役者が5人。
 
 公演は、芝居というよりリーディングなのだけれど、あらゆるシェイクスピアを演出してきた山崎清介だけあって、一筋縄ではいかないものだった。ハムレットとロミジュリとマクベスとリチャード三世の4作品が細切れに現れて進んでいくの。なんの合図もなく別作品の別シーンにどんどん切り替わっていくので、この4作品を相当知っていないと、全然ついていけないと思う。
 一見、なんの脈絡もなくシーンが積み重なっていくんだけど、聞いていくうちに、螺旋のように4作品を巡っていき、その渦巻きが一つ所に集約していくのが感じられて、ドキドキした。
 つまり、それぞれ関係のない4作品なんだけど、シェイクスピアの芝居が共通して持っているリズムがあって、それがラストへ向かうとどんどん共鳴していくような感じ。
 子供のためのシェイクスピアのときに多用していた、一人のセリフを何人もで分けて言う技も使われていた。部分的にはみんなで一斉に唱和したり。これって、シェイクスピアの長い独白を観客に理解してもらうのに、すごく有効なんだよね。独白は時に状況を説明し、時に自分を責め、時に言い訳をし、時に自分をいたわり、励ます。それを何人もの役者で割ってしゃべられると、言葉の意味と心理とがパッとわかる。
 逆に言うと、これを一人でやれないとシェイクスピアの主役はできない、ということなのね。
 
 リーディングで、台本を手にしているとはいえ、5人の役者たちは椅子から立ち上がり、前方のスペースに出てきては、戦ったり倒れたり見つめあって恋を囁いたりする。部分的に演技あり、という感じ。皆、よく訓練した滑舌のよさが心地よかった。もっと、猛烈なスピードや超絶ゆっくりなところがあったら、よかったな。様々な役のセリフを読むんだけど、演技の色合いが単一になっていってしまいがち。一人で何役もやるって大変なことね。
 
 シェイクスピアを観たというより、山崎清介の頭の中を見た気がした。相当なシェイクスピアおたくだ(褒め言葉です)。

野田地図の『Q』

 厳重な身元チェックののち、劇場入り。11月13日(水)マチネ、東京芸術劇場プレイハウス。
 
NODA・MAP 第33回公演『Q   A Night At The Kabuki』
作・演出/野田秀樹 音楽/QUEEN
出演 松たか子 上川隆也 広瀬すず 志尊淳 橋本さとし
   小松和重 伊勢佳世 羽野晶紀 野田秀樹 竹中直人
   アンサンブル 河内大和 ほか18名
 
 あらすじなどは書かないつもりだけど、それでもネタバレ必至なので、これから観る人は要注意ね。

 
 マダムはかなり面白く観たのだけれど、がっかりしてる人もいて、賛否両論ある。
 お話は、源氏と平家という日本人にわかりやすい敵味方を設定し、その両家の若い息子と娘の恋愛を描いている。そこは完全にロミジュリで、源のじゅりえ(広瀬すず)と平のろうみお(志尊淳)の悲恋物語が芝居の前半。
 普通のロミジュリなら、若い二人が死んで終わりなんだけど、この芝居では二人とも死なず、それから30年生き延びる。後半はその30年を描いてて、歌舞伎の「俊寛」プラス胡桃沢耕史の「黒パン俘虜記」で出来ている。
 このくっつけ方が凄く野田秀樹らしくて、珍しく彼が言いたいこと(だろう、たぶん)がスッと入ってきたの。
 死を絶対に美化しない(死を見世物として消費しない)、愛の描き方を模索したのではない?
 
 だから、仲間を斬られてカッとなったろうみおが源義仲(橋本さとし)を殺してしまうシーン(ロミジュリのティボルト殺害シーン)がとても大事。ここで人を殺してしまったろうみおは、絶対に幸せになれないの。じゅりえと共に心中することも失敗し、美しい死に方はさせてもらえない。生き延びて、じゅりえと再会することだけを願いながら生きてるのに、戦争捕虜になって、島流しにあって(ここは俊寛)、流された場所はスベリアで、強制労働させられて、食事は硬くなった黒パンで(ここは黒パン俘虜記)、やがて恩赦の船がやってくるけど、ろうみおの名前がなくて乗せてもらえない(ここ、再び俊寛)。
 もとのロミジュリなら、観客はとうの昔に彼のティボルト殺しを忘れて、ロミジュリ二人の死を嘆くわけだけど、野田秀樹は観客が簡単に泣く事を許さない。ろうみおの義仲殺しを許さないし、だからじゅりえとの美しい死も認めないし、二度とじゅりえと会えないし、最後は強制労働の果てに倒れ、遺体は穴の中に積み重ねて捨てられる。
 ろうみおは平清盛の後継ぎでお坊っちゃまで、もてはやされていたのに、あっという間に「名も無きもの」に転落し、最後は誰に看取られることもなく野たれ死ぬ。
 野田秀樹、容赦ない。
 
 平家は名前を大事にする一族で、それに対し源氏は新興勢力だから「名前なんかいらない、捨てちまえ」と主張する。ジュリエットの「ロミオという名をお捨てになって。」というセリフからの発想だけど、野田秀樹の言葉遊びの面目躍如。「名を捨テロリスト」とか「名を拾イズム」とかが飛び交って、源平合戦が繰り広げられるの。名前にこだわってた平家の跡取り息子が、名も無きものに転落して、ただの囚人として死んでいく皮肉が、効いてる。
 
 若い時のロミジュリを志尊淳と広瀬すず、大人になってからを上川隆也と松たか子が演じる・・・というほど事は単純じゃなかった。未来のロミジュリを上川隆也と松たか子が演じていて、二人は自分たちの辛い運命を変えたいと願って、若い二人のところに舞い戻って、要所要所で二人に働きかける。絶対に義仲を殺しちゃいけない!とか、そこで毒を飲んじゃいけない!とか、運命の決まるポイントを狙って努力するんだけど、それはことごとく叶わない。結局、別れは訪れる。「手紙を書くよ」というろうみおの言葉を信じて30年、やっと松たか子じゅりえのところに手紙が届いた時、ろうみおは遠く離れた場所で死ぬ。ホントに救いがない。野田秀樹、容赦ない。
 どんな死であれ、死を美化しないと決めると、こういう風になるんだね。どれほどの名芝居が死を美化する事で成り立ってきたかを、逆に思い知らされる。
 
 物語がどんなに容赦なく残酷でも、野田演出の魔法のような美しさが散りばめられてて、それはそれは目に染みた。いつものようにアンサンブルの人たちの八面六臂の肉体労働によって、芝居が進んでいく(河内大和がアンサンブルの要となって、どんなシーンにもいた!)のも、ひとつひとつ楽しいし、じゅりえが長い(10メートルくらいはある真っ白な)ベールを引いて現れる結婚シーンの美しい事と言ったら!若い二人(広瀬すずと志尊淳)の美しさと儚さを十二分に引き出してた。その瞬間が美しければ美しいほど、後の長い人生の苦さが浮き彫りになる。
 ラストの、空想の中のロミジュリ抱擁シーンは、主役老若ふた組が入れ替わりつつ抱き合うのだけど、舞台だからあり得る最高に美しい演出。ため息が出た。
 
 
 読んできて、クイーンはどこにいった? と皆思うよね?
 マダムはそこのところは、はなから期待してなかったんだよね。今更、野田秀樹にクイーンは必要ないし、クイーンの方にも野田秀樹は必要ないでしょ。
 だから「舞台で曲を使わせてもらいますよ」程度のことだと思ってたの。使う以上は、相手はクイーン。ちゃんと掲げないといけないでしょ?
 なので、クイーンのアルバム「A Night At The Opera」からインスパイアされた物語だと期待して行くと、がっかりするかもしれない。曲を適宜使わせてもらいました、という感じの使い方だったから。
 でもね、どんなに短く刈り込んで「適宜」な感じで使っても、クイーンの曲の自己主張は消えないの。野田秀樹の世界に、容赦なく食い込んでくるのよ。それがすごいよ。
 演劇の世界に「異化効果」っていう言葉があって、マダムは一度もこの言葉が腑に落ちたことがなくてずっと、ちゃんと体験したいと思ってたんだけど、もしかして、この野田秀樹VSクイーンは、異化効果ってやつかもしれない。すごいの、互いに張り合ってて。
 しばらく考えてみよう、このことについては。
 異化効果についてはひとまず置いて。とにかく、志尊淳ろうみおが義仲を殺しちゃったシーンに、ボヘミアン・ラプソディが「Mama, just killed a man(ママ、俺、人を殺しちゃった)」「Mama, life had just begun, But now I've gone and thrown it all away(ママ、人生始まったばかりなのに、俺、ぶち捨てちゃったよ)」って流れると、マダムはもう心ん中、滂沱の涙。これほどの取り返しつかなさを、かつて突きつけられたことがあるだろうか・・・とさえ思って。
 
 野田秀樹は御大亡き後、演劇界のお山の大将俺一人、の人だと思う。なので、こうやってたまには、ねじ伏せられない巨大な相手と組む方が、絶対面白い。今後も異化効果(?)を期待します。

子供のためのシェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』を観る

 暑すぎて外出を控えてたので、ちょっと久しぶりの観劇。8月17日(土)マチネ、赤坂区民センター区民ホール。
 
子供のためのシェイクスピアカンパニー公演『じゃじゃ馬ならし』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
脚本・演出/山崎清介 
出演 鷹野梨恵子 若松力 山口雅義 戸谷昌弘 加藤記生 
   大井川皐月 川澄透子 山崎清介
 
 毎夏、楽しみにしているカンパニーの公演。演目が「じゃじゃ馬ならし」と聞いて、このどうにも不愉快な芝居を、いかに子供のためのシェイクスピア流にしてみせるのか、興味津々だった。

 子供のための、と言いつつ、大人の鑑賞に耐えるクオリティなのがいつも素晴らしい。衣装も毎回美しくて、惚れ惚れする。
 ただ、今回は全体的に、若干インパクト弱め。ペトルーチオがキャタリーナにする仕打ち(敢えて仕打ちと言う)が台本通りでは酷すぎるので、その表現をやわらげたためかな。不愉快度が大幅減なんだけど、インパクトも下がる。難しい芝居ね。
 
 飲んだくれのスライ(若松力)は、飲み屋から放り出されて地面で寝ている。それを見つけた領主が、いたずらを思いつく。スライを自宅に運び込み、目が覚めたら殿様扱いして遊ぼうというわけ。
 スライは目覚めて、領主の召使いたちにちやほやされ、スライだったことは夢で、殿様が現実と思い込む。殿様にみせるお芝居「じゃじゃ馬ならし」が始まる。そこまでは通常の「じゃじゃ馬ならし」なんだけど、今回の山崎演出のひねりは、スライ(殿様)が役者たちに誘われ、芝居の主人公ペトルーチオを演じることになるところ。スライとペトルーチオは同じ役者がやるのが常だけど、そこにちゃんと理由があるの。そしてこれが、最後に効いてくる。

 鷹野梨恵子のキャタリーナは、大柄で華やかで品があって、全然「じゃじゃ馬」ではなく、自分の意思を無視しないでくれと言っている、現代的価値観からすれば、至極まっとうな女性。妹を縛るところはとんでもないけど、それ以外では、当然の主張をしているの。でも、台本が書かれた当時の価値観では、娘が、意志を持って意見を言うなんて、あってはならないことだったのね。
 当時のむきだしの男尊女卑観がこの本の不愉快なところだし、今、上演するときに、観客を納得させられるかどうかが演出の鍵なの。
 
 昔、シェイクスピアシアターで観たときは、全部スライの都合のいい夢でした、というオチだったの。なるほど、と思った。
 蜷川演出では、猿之助(当時は亀治郎だったかな)のキャタリーナが、表向きは夫に従ってるけど「今に見てなさいよ、このままじゃ済まないわよ」という気をギラギラと出してて、二人の今後が楽しみ、と思えた。
 で、今回の山崎演出のラストはね、終わったとき、ん?今のは・・・?って、すぐには腑に落ちなくて、一緒に観た友達と色々擦り合わせて、納得したの。合意に達した解釈を説明すると。
 ラスト、ペトルーチオの「じゃじゃ馬ならし」が成功してキャタリーナが貞淑な妻になり、ペトルーチオの「キスしてくれ、ケイト」の言葉に、キャタリーナが顔を寄せる・・・のだけれど、キャタリーナは冷たい眼差しでペトルーチオを見る。キスはせずに二人は離れ、劇中劇が終わって、ペトルーチオ役のスライは、衣装を脱ぎ、スライに戻る。
 ひとりになったスライは、すっかり恋に落ちている。ペトルーチオを演じているうちに、キャタリーナ役の役者を好きになってしまったのね。スライはひとり、キャタリーナを口説く場面のセリフを、もう一度繰り返す。
 するとそこへ、キャタリーナ役の役者が現れる。彼女もまた、芝居をしているうちにスライを好きになったのだった。二人は、口説き口説かれるセリフをもう一度、繰り返す。さっき演じていたときとは全く違う、情熱的で、心のこもった愛のやりとり。二人はキスして・・・芝居は終わる。
 戯曲の二重構造を利用して、後味のいいラブコメディとして終わらせるの、うまいなぁ。
 この終わり方にするならば、ペトルーチオのキャタリーナへの仕打ちを、酷いまま描いても良かったのかもしれない。子供向けではなくなっちゃいそうだけど。

 最後のシーンの、本気のスライのセリフが凄くいい! 同じセリフなのに、恋しい気持ちがあるのとないのとで、こんなにも違う。スライを演じた若松力、いい役者なのは毎年確認してたけど、改めて、本当に素晴らしい。居酒屋の女将に張り倒されたり、キャタリーナに突き飛ばされたりすると、トンボを切って、くるくる回るのには驚いた。
 役者の顔ぶれは、キャタリーナの鷹野梨恵子とルーセンショーの川澄透子以外は、安定のいつものメンバー。高いクオリティ。だけど、マダムは客席に伊澤磨紀さんの姿を見つけてしまって、やっぱり彼女に帰ってきてほしいな、と思わずにはいられなかった。

岡田将生の、死にたい願望『ハムレット』

 信じられない暑さ。5月25日(土)ソワレ、シアターコクーン。
 
『ハムレット』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/河合祥一郎
演出/サイモン・ゴドウィン
出演 岡田将生 黒木華 青柳翔 村上虹郎 竪山隼太 冨岡弘 町田マリー
   秋本奈緒美 福井貴一 山崎一 松雪泰子 ほか
 
 かなり迷った挙句にチケットを買ったの。
 いくらシェイクスピアだからって、イギリス人の演出家を連れてきたらなんか上手くいくだろ、というプロデュース態度がいやなのよ。あんな失敗例、こんな失敗例、たくさんあるでしょ。そして数少ない成功例のひとつ、プルカレーテの『リチャード三世』のときには、日本人演出補として谷賢一が全公演にしっかり帯同していたじゃない? なぜ、ここから学ばない?
 役者たちの顔ぶれを見れば、出身がバラバラで、シェイクスピアの経験がない人も多いし、日本語のわからない人の演出では絶対に行き届かないところが出てしまうのは自明のこと。「通訳」ではなく、普通に演出力のある「演出補」が絶対に必要なのに。
 
 というような考え方のマダムなので、今回は、ただ岡田将生の美しさを眺めたかったのと、歌舞伎でいう「任(にん)」であるとしか言いようのない竪山隼太のホレイシオ見たさで、出かけたの。
 そしてその期待は満たされた! まあ、美しいわー、岡田将生。あの、へんてこりんな衣装の全てを着こなして、ちゃんと王子でいられるスタイルの良さと美貌、気品。惚れ惚れした。(途中、「笑う男」みたいに登場したのには吃驚&心の中で内輪ウケ。)
 それとね、のっけから両手首に包帯巻いてて(つまりリストカットの痕がある)、「To be,or not to be」のところは吊るしたベルトに首をかけながらだったりで、とにかく死にたい願望に支配されてるハムレット、っていう設定がおもしろい。ここまで生命力がないと、なかなか復讐できないヘタレなハムレットに凄く説得力が出るのね。河合祥一郎の翻訳も「生き死に」で翻訳しているので、ベルトに首をかけながら言うと、ぴったり。
 岡田将生の台詞は、普通に伝わるし、頑張っていたのだけれど、独白じゃない部分も独白みたいになっちゃってるところが多々あり、芝居が平板になりがち。例えば、ガートルード(松雪泰子)と口論するシーンで、ガートルードが「お前はこの胸を真っ二つに裂いてしまった」って言うと、ハムレットが「悪い方を捨てて、いい方だけで清らかな日々を過ごしなさい」と言い返すでしょ? ガートルードの、胸が二つに裂けたという言葉を聞いたから、じゃあ、かたっぽのいい方だけで生きて行けよ、という台詞が出るんだけど、岡田ハムレットは、ガートルードの台詞を聞く前からもう、自分の台詞が用意されちゃってるの。相手の台詞を受け取って、言葉を返す、っていうのができてないことがあって、芝居がしぼむ。
 これは岡田将生だけじゃなくて、役者たちの大方がそうなってしまっていて(これって芝居の基本だよね)、そこを直すのは、日本語がわかる演出家じゃないと無理なんじゃないのかしら。みんながみんな少しずつ足りてないのが、全体に及ぼす影響ときたら。
 マダムが日本人演出補にこだわるのは、こういうところなのよ。
 まあ、イギリス人演出家にしてみれば、シェイクスピアをやろうと集められた役者であれば、そんなことは普通にクリアしているのが当然なのかもしれない。そういうところから鍛えなければならないとは、思ってないのかもしれないけれど、ね。
 
 装置も衣装もポップで現代風なんだけど、役者の芝居も軽いので、全体になんだかフンワリして、印象が薄かった。亡霊の動きがキビキビしてて、マイクを通して響く亡霊の声もテキパキしてて、なんとも軽い。場面転換のとき流れる音楽も、妙に軽い。ローゼンクランツとギルデンスターンが男女になっていたけど、間違われやすい二人、という設定がなくなる以外の効果はなんなんだろう? 劇中劇も軽けりゃ、クローディアス(福井貴一)の懺悔も軽い。なんか、終わるとすぐ忘れるような印象の薄さ。
 衣装もイマイチだった。特にレアティーズ(青柳翔)、フォーティンブラス(村上虹郎)、ホレイシオ(竪山隼人)の衣装、地味すぎ。みんな日本人的な中肉中背なので、舞台映えしない。
 
 オフィーリア(黒木華)が狂ってみんなに花を配るところ、自分の髪をごっそり抜いて配るのがショッキングだったり、ホレイシオの竪山隼人が予想通りのニンで、限りなく優しいホレイシオだったり、文句は言ったものの岡田将生は美しくナイーブなハムレットを造形してたりして、観に行って良かったとは思うの。
 でも、いろいろ勿体なかったなって感じること、しきり。そして、チラシにはプロデューサーの名前がなくて、文句の持って行きどころがないのが、なんとも最近の日本、って感じ。責任者がいないのね・・・。隠れるなよ。

AUN Age 旗揚げ公演『オセロー』

 浅草の街は、三社祭で賑わってた。5月18日(土)マチネ、5月19日(日)マチネ、浅草九劇。

 
劇団AUN Age.1『オセロー』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
監修/吉田鋼太郎 演出/長谷川志
出演 沢海陽子 橋倉靖彦 松本こうせい 谷畑聡 杉本政志 齋藤慎平
   飛田修司 桐谷直希 
河村岳司 悠木つかさ 水口早香 近藤陽子
  
 星和利 砂原一輝 松尾竜兵 
 

 観終わって最初に頭に浮かんだのは、「日本シリーズを経験するとキャッチャーはこれまでにない成長を遂げる」(©野村ヤクルト元監督)という言葉だった。
 野球をご存じない方のために補足すると、つまり、短期間であっても大舞台を経験すると選手はグンと成長する、ってことで、これは芝居における役者も全く同じなんだなあ、と感じたの。
 劇団AUNは、主宰の吉田鋼太郎が忙しくなってしまいシェイクスピア公演を打てなくなってきていたけれど、若手の演出家、長谷川志が育ってきて、Ageというシリーズを始めることになった。大歓迎!常に面白いシェイクスピアを求めているマダムにとっては僥倖だー。
 でも、いきなり、オセローとは、勝負に出たね。
 しかも、これまでAUNの舞台で主役クラスを演じていない役者たちを真ん中に据えて。
 
 
 
 雨が降っている。
 暗い夜、雨がそぼ降り、傘をさした二人の男が、ボソボソと不平不満鬱憤をつぶやきあっている。「オセロー」ってこんな始まりだったっけ? 不穏な感じに、一気に引き込まれる。とてもいい滑り出し。
 舞台上にはセットらしいセットはなく、したがって場面転換も必要なく、台詞のやり取りだけでどんどん進んで行く。悪漢イアーゴーの怨念こもった台詞に乗せられる。齋藤慎平のイアーゴー、屈折感ハンパなく、これまでの陽性の演技の下に隠れていた鉱脈を発見した気がした。台詞が嫉妬、逆恨み、言いがかり、悪巧み付きで、ビシビシ届いてくる(千秋楽は声が枯れてて、残念。喋りまくりだもんね、イアーゴー)。
 一方の谷畑聡のオセローは、静けさで、背後にある巨大な熱情を押しとどめていて、軍服の似合う屈強な男だった。彼の演技にはさらに驚いたよ。やはり陽性のイメージがあったので、真面目一点張りの静かな口調に、違う人かな?って感じるほど。台詞の運びと、激情に駆られる演技がまた、吉田鋼太郎にそっくり(そっくりなのは悪くない。そっくりなところまでできる技術が、すごい。その上にオリジナリティが乗ったら、どれほどになるかしら)。
 
 オセローは難しい芝居ね。四大悲劇の中で、いちばん難しいのじゃない? 日本では上演機会が少ないと思うし、マダムはこれまで観た(中継映像も含め)なかで、腑に落ちたことがない。なぜかというと、物語の背後にずっと流れているだろうオセローに対する「差別意識」を、観客が受け取れないから。日本人の観客が受け取れる演出に今のところ出会えない。差別意識の存在を受け取れないと、オセローがただ「騙されるバカなやつ」に見えてしまって、大きな悲劇にならない。
 オセロー自身は差別されるはずがない、という態度だし、実は隠れ持っているコンプレックスも、見えづらい。そのコンプレックスを突かれたからこそ、突然罠に落ちるんだけれども、コンプレックスの表現が難しい。
 今回もそこのところの演出はうまくいってなくて(ていうか、うまくいってる演出を見た経験がないんだけど、ありうるのかしら?)、オセローを演じる役者の、感情の振り幅だけに頼っている気がした。ホントに大変な役だよ・・・。
 
 一方で女たちの描かれ方はとても良かった!
 無実の罪を着せられて不幸のどん底に嘆くデズデモーナ(悠木つかさ)には、普段は泣かないマダムの眼にも涙が浮かんだし、デズデモーナに寄り添うエミリア(水口早香)とは一緒になって憤ることができたの。特に、デズデモーナが殺された後のエミリアは圧巻。命をかけてオセローや夫イアーゴーを糾弾する台詞が、本当に素晴らしくて、ぐいぐい揺さぶられ、心鷲掴み。
 シェイクスピアの台詞って、役者の気持ちがちゃんとそこに乗って届けば、こちらを揺さぶるようにできているのね。
 
 あといくつか、気がついたこと。キプロスの勝利の夜、男たちが足を踏み鳴らして踊るシーンが印象深く、そうか、この芝居は荒っぽい軍人たちの物語なんだって思って! 重要なことだ。血気盛んで、殺気立ってる集団のなかで起こる事件なんだね。
 それと、オセローがデズデモーナを絞め殺すベッドだけはセットがあって、薄明かりのついた(わざと見せる)暗転でベッドが運び込まれ、シーツをセッティングするのがイアーゴーなの。皮肉が効いてる演出で、好きだな。
 
 シェイクスピアはどんなアレンジも受け入れる懐の深さがあるけれど、基本は「台詞をどんなつもりで言ってるか」と「それを周りはどう受け取ったか」が表現できるか、それだけだし、またそれができてなければ、どんなアレンジも無駄なんだよね。AUNはその基本ラインを絶対にはずさないので、すごく信頼してる。
 Ageシリーズが次々、上演されるのを待ってます。

より以前の記事一覧

2020年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

関係するCD・DVD