最近の読書

シェイクスピア

『アイヌ オセロ』を観る

 ここのところ中央線利用率が高くなってる。6月9日(土)ソワレ、国際基督教大学ディッフェンドルファー記念館、東棟オーディトリアム。

シェイクスピア・カンパニー『アイヌ オセロ』
作/ウィリアム・シェイクスピア 脚本/下館和巳、渡邉欣嗣
共同演出/秋辺デボ、下館和巳
出演 犾守勇 石田愛 香田志麻 加藤㮈紀 中野莉嘉 ササキけんじ
   水戸貴文 及川寛江 藤井優 増田寛子 千葉絵里奈
 

 シェイクスピア・カンパニーという劇団については以前から、なんとなく聞いてはいたのね。シェイクスピア作品を東北に置き換え、台詞も東北弁で演じる劇団だということで、活動の本拠地は仙台らしい、と。
 ひょんなことから仙台在住の役者さんと知り合いになって、今回の東京公演に行ってみることにしたの。
 東北弁、わかるかなぁと少し不安だったんだけど、それは全く問題なかった。むしろ、東北弁が生き生きと伝わってきて、楽しかった。
 
 『オセロー』の舞台を幕末の仙台藩に移し替え。蝦夷地(北海道)をロシアの侵略から守るために仙台藩は、アイヌの男を将軍としてとりたてている。それがオセロ(オセロー)で、妻デズマ(デズデモーナ)は仙台藩の武士の娘。ヴェニスにとってのムーア人を、仙台藩にとってのアイヌ民族に置き換えていて、その辺なかなか上手いよね。
 オセロははっきりそれとわかるアイヌの民族衣装を着ていて、デズマも最初のシーンでアイヌの衣装を着せられ、マタンプシというアイヌの刺繍入りの鉢巻を額に巻かれてオセロの妻となる。そのマタンプシが例の誤解の刺繍入りハンカチの代わりとなる。道具立てはバッチリ。
 
 役者さんたちは女性が多いので、仙台藩の武士は殆ど女性が男役をしていて。台詞は声量も滑舌も良くて、こちらにちゃんと届くのだけれど、やっぱり女性が男役をやるにあたっては何か演出上の工夫が必要なのではないかしらね。男っぽく演じることで手一杯になってしまう。そのせいもあって、仙台藩側のリアリティが相対的に下がってしまってる。役の立場は説明できているのだけれど(たとえばデズデモーナの父親だな、ってことはわかる)、その人らしさまで演技で出せてはいない(娘を愛しているのか、所有物として、取られたから怒ってるのか、取った男がアイヌだから怒っているのか、どう気持ちを収めたのか、がわからない)。
 演出にアイヌの秋辺デボを迎えているので、アイヌ側の描写は凄くしっかりしている。アイヌの踊りや衣装は見応えがあるのだけれど、そのアイヌを差別しながらうまく利用している仙台藩側の描写が薄い。具体的な描写が足りないの。アイヌに対する差別感情の描写もね。それがとても残念。だって、設定の置き換えがこんなにうまくいっているのだから、もっと驚くような面白いものができたと思うし、差別というものの正体にも迫れたと思う。
 たとえば。デズデモーナが仙台藩士の娘ならば、最初の姿はいかにもな日本髪や着物姿がよかったんじゃないかな。それを脱いで、アイヌの衣装に着替えれば、デズデモーナの並々ならぬ決意がそれだけでわかるでしょう? エミリアの衣装もよくわからなかった。彼女はどっち側の人なんだろう?
 イヤーゴーが内地人とアイヌの混血、という設定は台詞に出てきて、面白い発想だとは思ったのだけれど、それは、仙台藩側の差別感情を描き切れてこそ生きる設定なので、不発だった。
 
 役者さんたちはみな、台詞については凄く訓練していて、東北弁の台詞もよくわかったの。一方で、他の人の台詞に対する反応が弱い。自分の台詞がない時もその役で居られるかどうかがとても大切なことで、芝居を面白くするのはそこだから。
 オセローは威厳があって、強いが不器用な武人らしかった。自信がある時と、嫉妬で狂っている弱さとの、落差がもっとほしかったな。
  イヤーゴーはなかなか面白かった。東北弁で不満やら妬みやら悪口やらをタラタラと聞かされると、ホント可笑しくて。イヤーゴーって魅力的な役だって再認識した。

本番こそいちばんのワークショップ 劇団AUN『から騒ぎ』

 チケットを買った時にはこんなハードスケジュールになるとは思っていなかったのだけれど。6月2日(土)マチネ、現代座会館現代座ホール。

劇団AUNワークショップ公演『から騒ぎ』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志 監修/吉田鋼太郎
演出/長谷川志
出演(B組) 杉本政志 岩倉弘樹 松尾竜兵 山田隼平 橋倉靖彦 星和利
   河村岳司 砂原一樹 松本こうせい 飛田修司 池谷駿 桐谷直希
   齋藤慎平 悠木つかさ 水口早香 近藤陽子 宮崎夢子

 昨年から始まったAUNのワークショップ公演。
 昨年夏の『間違いの喜劇』の時は、ほぼほぼ若手のみの公演だったのだけれど、今年の『から騒ぎ』はベテランもかなり参加していて、本格度が増していたの。舞台は幾つかの植え込みが置かれているだけのシンプルな装置。植え込みは、壁にも柱にもなり、もちろん植え込みとしても活躍するんだけど。
 『から騒ぎ』のストーリー説明は今更しないでいいよね。
 
 賑やかなダンスのシーンから始まって、男勝りなベアトリスと自称女嫌いのベネディックの言葉の応酬へ一気に畳み掛けるので、昨年の『間違いの喜劇』と同じように、ずっと笑って2時間を過ごすのかと思ったの。でも、そうじゃなかった。
 『から騒ぎ』ってのは、ほんとに喜劇なのかしら?
 と、考えちゃうくらい、シリアスなシーンは凄くシリアスだった。
 まあ、そう言いながらもマダムは3分の2くらいは笑ってたんだけど。でも残りの3分の1は、胸詰まる思いで見つめてしまったし、最後ちょっと泣けてきそうだった。その重みはかなりのもので、今回、長谷川演出はこの3分の1の側を重点的に仕掛けていたと思われるの。
 例えば照明の当て方が顕著だった。普通のシーンでは全体に明るく照明が当たってるんだけど、悪役ドン・ジョンが出てくると分かり易い程暗くなって、悪巧みのシーンを演出する。最後の方のヒーローの葬儀(ホントは死んでないんだけど)のシーンでも照明を全て消して、参列者の持つろうそくの灯りだけで演技し、鎮魂歌が歌われる中、墓の前に佇むクローディオだけにゆっくりとスポットが当たっていくのも、台本に書かれてるシリアスな部分はちゃんとシリアスに、という演出方針だったのかも。
 だから、笑って始まり、最後は笑って終わる…んだけれども、一言で喜劇といってしまうのは躊躇する、沢山の感情が押し寄せてくる舞台になっていたの。
 
 主役の四人の若者達の描き方が、とても丁寧で良かった。ベアトリス(水口早香)はまるで『じゃじゃ馬馴らし』のキャタリーナのように始まるのだけれど、従姉妹のヒーローが陥れられた時には、ヒーローのために自分の身を捨てても徹底的に献身する。その両面がちゃんと一人の人物の中に矛盾なくあるのが感じられたの。
 ベネディック(山田隼平)は、さらに多面的で。女嫌いの状態から始まり、ドン・ペドロたちの策略に引っかかってあっさり恋に落ちるハイテンション、おバカな状態を経て、ベアトリスのヒーローへの思いに打たれてクローディオに決闘を申し込む凛々しさまで、あらゆる顔を見せてくれた。地はイケメン枠ではないと思うけど、決闘を申し込むところはちゃんとイケメンに見えるからね。役をとことん演じきると役者はみんなイケメンになる。
 一方、クローディオ(松尾竜兵)は地のイケメンを大いに生かして、一本気な青年を演じてた。愛したヒーローを嘘を信じたせいで拒絶し、憎み、死なせ、嘘だったとわかると、死ぬほど後悔して嘆く。松尾クローディオを見ていたら、マダムは突然『冬物語』のリオンティーズだ!と思ったの。リオンティーズが20年くらいかけて到達する憎しみと許しと喜びを、クローディオはほんの数日で駆け抜けるんだね。若いから身体がもつんだよ、と妙に所帯染みたことを思ってしまうマダム。
 そしてヒーロー(悠木つかさ)。彼女は可愛らしい容姿なのでつい若手のように思ってしまうけれど、AUNの中ではベテラン女優で、ホントに上手い人。疑うことを知らない少女がどん底に陥れられ、そこから立ち直ってクローディオを許して受け入れる大人の女になるまで、やはり数日で駆け抜けるんだけれど、彼女が演じると余計な力が入っていなくて、見ているこちらは凄く楽に物語に付いていけるの。最後、ベールで顔を隠してクローディオと相対する場面も、彼女の沈黙だとマダムも余計な力を入れずに待っていられるんだよね。
 
 昨年の『間違いの喜劇』のときも思ったけれど、シェイクスピアの上演の基本は、役者が台詞を言うときは誰に向けてどんな気持ちで言うのか、はっきりわかるように言ってくれること。そして台詞を言っていない役者は全力で、しゃべっている役者に対して反応すること。この、たった二つ。この二つがあれば、面白いシェイクスピアが出来るの。四人の若者たちが恋に落ちたり、苦しんだりするとき、周りにはぎっしり登場人物たちが集まって顔を寄せ合って、一緒に笑ったり憤ったりするから、台詞の意味が何倍にも膨らんで伝わってくる。長谷川演出はちゃんとツボを心得てる。
 
 若い人たちの台詞も全部しっかり聞き取れた。ところどころ力が入りすぎてる箇所もあったけれど。そこは硬軟自在なベテラン勢にまだかなわない。
 
 沢山笑って、楽しかった一方で、『から騒ぎ』の多面的なところも味わえて、とても満足。吉田鋼太郎イズムをしっかり受け継ぎながら、長谷川演出はこれからもっと、長谷川イズムも出していけるのじゃないかしら。ワークショップシリーズ、どんどんやってほしい。

続 これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』

 『ヘンリー五世』もう一度観に行ってきた。5月29日(火)マチネ、新国立劇場中劇場。
 行ってよかった。

 浦井ヘンリーが相当良くなっていた!
 滑舌も良くなってたんだけど、それ以上に、王らしい威厳とやんちゃな部分との接合部が滑らかになって、一人の人間としての説得力が増してたの。
 『ヘンリー四世』のときから思ってたのは、ハルって孤独だなってことだったんだけど、王になったらもっともっと孤独になった。本心を語るのは独白の時だけなんだもの。戦いには勝っても、王冠も衣装も血塗られてしまって、清々しかったハルはもう何処にもいなくなってしまった。ヘンリーの孤独がひしひしと感じられて、ラストは胸が痛いくらい。
 
 1度目の時の席はかなり上手よりの端っこだったの。で、2度目はいちばん後ろだけど真ん中ブロック。
 そうしたら見え方が全然違ってて。ていうか、舞台の奥のほうで起きてることが見えてなかったのよ、1度目は。
 特に戦闘シーンは、舞台前方で起きていることと、後方に遠く見える様子が上手く相乗効果を作るようにできていて、イギリス軍の振る旗や上から降りてくる巨大な旗が空間を自在に分けて美しくて、ダイナミック。殺陣は多くない分、布の使い方で、見ごたえあるシーンになってたね。
 
 このシリーズがここまで続いてきて圧巻は、いちばん最後の「説明役」たちの挨拶の台詞だった。台本では説明役はひとりだけど、鵜山演出では数少ない女優(大勢の役者の中でたった3人!)たちに締めを任せた。「ヘンリー五世は・・・世界に冠たる支配権を彼の息子に残しました・・・だが彼を取り巻く多くのものが政権を争うことになり・・・イギリスにも血が流されました。そのいきさつはすでにこの舞台でごらんにいれております
 これはシェイクスピアが自分の一座で、本を書いた順番に上演して『ヘンリー五世』にたどり着いたことを示しているのだけれど、それをそのまま説明できる鵜山組は素晴らしいよ。同じように歩んできたのだもの。
 浦井健治、岡本健一、中嶋朋子をはじめとして、ひとつひとつ取り組んできて、一座になった。
 なので、マダムとしては、これで終わりとは思いたくない。

これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』その3

 全体的にフランスとの戦争の話だと思い込んでたマダムだったけど、鵜山版『ヘンリー五世』は、意外なほど笑いに満ちて楽しく、わかりやすく、戦闘シーンは短く、テンポよく作られていた。そして、隅々までよく練られて配された役者さんたちの、上手いこと!

 真っ先に名前を挙げなければいけないのは、なんと言っても、「ニラの騎士」フルーエリンの横田栄司。ウェールズ訛りのフルーエリンの台詞は、さしすせそが、しゃししゅしぇしょに翻訳されていて(小田島訳の真骨頂)、ただでさえ大変なシェイクスピアの台詞が早口言葉の練習のようになっていたの。読んでも何を言ってるのかわからないフルーエリンの台詞が、横田栄司の声で聞くとちゃんとわかって、めちゃくちゃ可笑しい。ピストル(岡本健一)との掛け合いは抱腹絶倒。「俺の名前は?」「ピシュトル」「ピ、ス、トル!」「ピシュトル!」「違う!ちゃんと言え!ピストル!」「ピ…。」って、もう可笑しすぎて、うちに帰って本でその箇所を探したけど見当たらない。アドリブだったのね。思い出して再度笑うマダム・・・。
 
 もう一人名を挙げなければいけない人は、フランス軍司令官の鍛治直人。台詞の声量となめらさかが申し分なく、聞いていて心地よいこと。そして空間の使い方が上手いの。おフランス漂う、覇気のないフランス側にあってただ一人、場を仕切って次のシーンへどんどん繋げていくのが、見事なのよ。
 このシリーズはヘンリー六世上演の時から、新劇の劇団出身の役者さんたちが沢山出演して、歴史劇の屋台骨を支えてきたんだけど、なかでもやっぱり文学座って凄いって思うよ。今回、これまでの常連だった今井朋彦が出てなくて、マダムはとても寂しかったんだけど、その分を横田栄司と鍛治直人でさらっていったから脱帽だー。
 
 長いシリーズ、ずっと出続けている役者さんたちに関しては、演技以外も毎回が楽しみ。勝部演之は何回めの司教かな?とか、立川三貴と木下浩之は『六世』の時から金髪でおフランスだったわとか、那須佐代子はまた岡本君とキスする役だねとか(『リチャ三』のときリチャードとエリザベスだったからさ)。
 そしてフランス側の衣装がブルーに金の縫い取りでおしゃれなのに、イギリス側はなんとなくくすんでてグレーっぽいの。それも『ヘンリー六世』に続いていくと考えたら、なるほどって思う。ヘンリー六世の衣装は、みんなグレーのマントだったのよ。
 
 芝居の終わり方が、『ヘンリー六世』に続く!っていう感じだったから、シリーズは一区切りなんだろうかとマダムは不安。もう劇団みたいなものでしょう?ここで解散はして欲しくないの。
 もう一度見に行くので、続編もまた書くね。まとまってないけど、とりあえず今日はここまで。
 
 
 
 

これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』その2

 前回の『ヘンリー四世』から1年半くらい経っているわけなんだけれど、そしてその間浦井健治はほとんど休むことなく舞台に立ち続けているわけだけれど、マダムはずっと「こんなもんじゃないだろ」と思っていたの。
 すっかりビッグネームになってしまった(そしてマダムも非力ながらその片棒を担いだ)彼だけど、彼の天賦の才は徹底的に演出された時にのみ発揮されるもので、とりあえず真ん中に据えておけばどんな役もできてしまうような俳優ではないのよ。
 そして技術はまだまだ発展途上よ。今回だって、声量も足りないし、長ゼリフを聴かせる技量もあと三歩だ(一歩ではない)。同じ舞台に立つベテランの役者さんと比べたら、わかるでしょう?(ハムレットを望む声があるし、マダムも期待はするけど、ハムレットやるならその前に長期休暇を取って文学座の研究所に入ってみるのはどうかな。あるいは新国立劇場の研究所とか。中堅の俳優も学び直しが必要な時があるでしょ?)
 辛口はさておき。

 技術的なことはいくらでも突っ込めるけど、それでも彼でなければならないヘンリー五世。純白の王の姿は本当に美しいし、凛々しい。どんどん汚れて血みどろになってもなお汚くない(きれいはきたない、きたないはきれいってこのことか!)。威厳を保とうとしても、時折ハルの顔がのぞくところがなんて魅力的。バードルフの処刑を言い渡す時の動揺や、フランス王たちとの交渉の席で王女の顔ばかり見てしまう子供じみた表情・・・。
 浦井ヘンリーが終始努力を強いられている一方で、今回の岡本健一はなんて自由なんだろう!シリーズでこれまでは、必ず敵対する貴族を演じてきたのに、ついに庶民オンリーに。アドリブも出て、めちゃくちゃ楽しそうなの。この自由度は、彼の幅をさらに広げるような気がする。(でも、リチャード二世をやらせて苦悩する顔が見たいと思ってしまうマダムはドSだろうか?)
 そして中嶋朋子。どうやっていたいけな十代のお姫様をやるんだ、と思ったけど。できちゃうんですね。本当の十代の女優ではできないだろう、自分を無理やり納得させていく王女の演技が、この人ならでは。化け物という褒め言葉がありますけど・・・素晴らしい。

 あー、時間が足りないわ。その3で、ほかの役者さんのことを書くわね。

これで終わりとは思いたくない 鵜山演出『ヘンリー五世』その1

 なんだかドキドキしながら劇場へ。5月19日(土)マチネ、新国立劇場中劇場。

『ヘンリー五世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 訳/小田島雄志
演出/鵜山仁
出演 浦井健治 岡本健一 中嶋朋子 立川三貴 木下博之 田代隆秀
   横田栄司 勝部演之 那須佐代子 鍛治直人 松角洋平 ほか
 

 2009年の『ヘンリー六世』三部作一挙上演から9年かけて、ここまで辿り着いた。一緒に歩んできた感いっぱいで、感無量なマダム。
 
 一方で、『ヘンリー五世』の予習は呼びかけるのがとても難しくて、ブログにはアップできなかったの。すまない・・・。
 だってね、こればっかりはマダムも舞台は観たことがなくて、本は読んでみたもののピンとこず、せいぜい『ヘンリー四世』の時の人間関係を思い出しておくくらいのことしか、自分自身もできなかったの。
 唯一、BBCのホロウクラウンシリーズで『ヘンリー五世』を観た記憶が頼り。だけど、あれはあれで主役のトム・ヒドルストンが素敵すぎてスター映画になっちゃってた感が否めない。結局、心構えなし、あたま空っぽの状態で、観劇の日を迎えたの。
 でも、ぜんぜん難しいことはなくて。面白かった〜。3時間があっという間。
 
 芝居って、演出家が本をどう解釈しイメージしたのかを、目の前で見せてくれるものだ。そう捉えた時、鵜山演出が『ヘンリー六世』以来ずっと見せてくれたものは、なんて豊かだったことか! 役者を育て、カンパニーの絆を確かなものにしてゆき、それぞれ1本の芝居として面白く作りながら、シリーズとして、大きな時代のうねりと権力争いの諸行無常を描き得た。新国立劇場のプロデューサー、鵜山さん、大勢のすべての座組の人たち。マダムをここまで連れてきてくれて、ホントにありがとう。
 
 『ヘンリー四世』で自由に遊びまわっていたハル王子は、王座につき、ヘンリー五世となった。覚悟して王となったヘンリーのその後は、苦い人生だ、というのが鵜山演出の解釈なのね。
 王座に就いた時の純白の衣装は、戦闘を繰り返すたび、返り血でどんどん汚れていく。軍の規律を守らせるために、かつての遊び仲間を処刑しなければならない苦痛。アジンコートの戦いの奇跡の勝利は、なぜだか喜びを呼び込まない。生き残ったピストルは、かつてのフォルスタッフのような庶民の本音を高らかに叫んではくれず、仲間は全員死んでひとりぼっちになっていく。ラストのヘンリーの深紅の衣装は、赤バラの赤なのだけれどマダムには、完全に血に染まって白いところがなくなったかのように見えたよ。
 鵜山演出の真骨頂は、ヘンリーが戦勝国の王としてフランス側にすべてを要求するところ。
 マダムはホロウクラウンシリーズ版と真逆な展開に驚き、そして納得したの。
 ホロウクラウンでは、フランス王たちが皆腰掛けていて、ヘンリーはずっと立ったままだ。フランス王たちが不遜で、ヘンリーはなんだか謙虚。でも鵜山版では、ヘンリーだけが腰掛けていて(しかも偉そうに・・・でも当然だよね、勝った側なんだから)、フランス王以下全員、おびえながら並んで立ってる。そして王女を残して全員が退出する時の、フランス王妃の怯えた辛そうな顔といったら!戦利品として娘が奪われていくのがわかっていても、もう止めることができないのよ。
 そのあとの、王女キャサリンを口説くシーン。ホロウクラウンでは、ヘンリーは優しくて紳士的で、礼儀正しくキャサリンの愛を求めていて、めっちゃトムヒが素敵なんだけど、鵜山版を見たら、ありゃ嘘だな、と思っちゃったマダム。だって、戦利品として王女との結婚はもう誰の目にも明らかで、別に腰を低くして相手を説得する必要なんかないんだもの(あくまで、当時の戦国の世の習いとして、ね)。
 だから口説く必要のない相手とわざわざ一対一になって、ほとんど襲いかかってる浦井健治、じゃなくってヘンリーってさ・・・キャサリンに一目惚れしたのかもしれないけど、勝てば官軍でやりたい放題に見えたし、それが鵜山演出だったのよ。(ただこのシーンが下品にならないのは、浦井ヘンリーだからなんだよね。)
 でもそこにマダムは納得したよ。当時の王や王族に、個人としての幸せなんてほぼ無いんだってこと。だからこそ婚礼を暗示して終わるラストが悲劇の始まりとして、『ヘンリー六世』につながっていくの。
 そして観終わった人はみな、次にまた『ヘンリー六世』を観たくなってしまうの。エンドレス。こりゃ、鵜山魔術だね・・・。
 
 そのほかのことについては、その2でまた書くね。とりあえずみんな、アンケートに『リチャード二世』を同じ座組で、と希望を書くこと!

言葉がなくてもシェイクスピア ロイヤルバレエ『冬物語』

 週末に何を観るか迷ったすえに、東宝シネマズ日本橋に行ってきた。

ロイヤルバレエ『冬物語』(2018年2月28日収録)
振付/クリストファー・ウィールドン 音楽/ジョビー・タルボット
美術/ボブ・クローリー 指揮/トム・セリグマン
出演 ローレン・カスバートソン(ハーマイオニー) 平野亮一(リオンティーズ)
   サラ・ラム(パーディタ) ワディム・ムンタギロフ(フロリゼル)
   マシュー・ポール(ポリクシニーズ) ラウラ・モレーラ(ポーリーナ)ほか

 

 ひさびさに演技の稲妻を浴びた。
 しかも、なまの舞台ではなくシアターライブ、つまり映像からなのだから、まさかの『ビリー・エリオット』体験の再来!なのでは? ヤバいわ〜これは。『ビリー・エリオット』の時は、感極まったあまり結局ロンドンまでなまを見に行ってしまったのだから。まずいぞ・・・。
 
 マダムは殆どバレエを知らない。舞台を観たのは2回しかなく、1度目は記憶にないくらい子供の時だし、憶えているのはトロカデロモンテカルロバレエ団なのよ。なので全くの素人である。
 テレビのドキュメンタリーで、今ロイヤルバレエ団のプリンシパル(主役級)に2人の日本人がいると紹介されていたのね。そこで平野亮一の練習風景などをチラリと見て、何か機会があればこの人の踊りを見てみたいなあと、ちょっと思ってはいたの。
 それでもこの演目でなかったら、見に行かなかっただろう。シェイクスピアの『冬物語』!

 こりゃね、シェイクスピア好き、の中でも役者の人に見せたいっ。
 というのも、台詞がなくても、リオンティーズを表現できるってところを、見た方がいいと思うの・・・(あたりまえだけど、真似しろってことではなくてね)。
 平野亮一のリオンティーズは本当に素晴らしかった。演技の稲妻が出まくり。もちろん、バレエであるから、普通のシェイクスピア劇とは全然違う。これを見るまでは、台詞のないシェイクスピアってなんやねん、くらいに思っていたマダム、完全に倒れた〜。
 リオンティーズは「何の根拠もなく」、愛してやまなかったはずの王妃の浮気を疑い、「何の根拠もなく」疑いは確信となり、嫉妬と怒りの塊となって、まわり中をなぎ倒し、妃と王子を死に追いやってしまうのだけど、シェイクスピアは台詞の嵐で表現している。それをロイヤルバレエの演出は、古典的なダンス(とマダムが思う)とは違う振付で、表現する。疑いのダンス、嫉妬のダンス、怒り心頭のダンス。高い高い技術に裏打ちされた豊かな表現で、平野亮一はリオンティーズの激しい振れ幅をぐんぐん押し広げていく。そして映像ならではの醍醐味は、顔の演技をしっかり見られること。嫉妬で顔が歪むほどの表情や、怒りで人は本当に狂うんだってことを目の演技で見せていて、1幕はひたすら息を呑んで、画面を見つめてたの。
 
 2幕はリオンティーズから捨てられた赤ん坊パーディタが、羊飼いに育てられ、美しい娘となって恋をする様子が描かれるのだけど、1幕の狂おしい暗さを吹き飛ばすような、明るくて美しい群舞。素直に楽しい。(でも、ドラマティックなところはないの。)
 そして3幕。自分の狂気のせいで妃も子供もすべて失って廃人のようになったリオンティーズのもとに、救いがもたらされる終幕。パーディタとの再会、仲違いしたかつての親友との和解。そして最後の最後に、死んだはずのハーマイオニーの彫像が生きたハーマイオニーとなってリオンティーズの前に現われた時の感動といったら!それまでのリオンティーズとハーマイオニーの演技の素晴らしさで、完全に二人がその役の人にしか見えなくなっていて、20年の時を経て許し許される姿に、心の涙腺が決壊よ・・・。
 
 というわけで平野亮一の演技の稲妻に倒れ切ったマダムだった。
 海外のシェイクスピア上演ものを観るたび、言葉の壁は大きいなあと思ってきたマダムだったけれど、思わぬ伏兵現る!なんと、シェイクスピアなのに言葉を使わない演技があったのだったわ。溜息。

死なないハムレット 加藤泰監督の『炎の城』

 先日BSで、ハムレットの翻案映画を見た。

『炎の城』
1960年公開作品(東映)
脚本/八住利雄 撮影/吉田貞次 音楽/伊福部昭
監督/加藤泰
出演
正人(ハムレット)=大川橋蔵  師景(クローディアス)=大河内傳次郎
時子(ガートルード)=高峰三枝子  ?(オフィーリア)=三田佳子  ほか

 シェイクスピアの翻案映画といえば黒澤明の『蜘蛛巣城』(マクベス)や『乱』(リア王)が有名で、マダムは加藤泰監督のファンであるにもかかわらず、ハムレットを翻案した『炎の城』について寡聞にして知らなかったの。

 加藤泰について、ご存じない方も多かろうと思うので、少し説明すると。
 主に1950年代から70年代前半くらいまで、東映を中心に映画を撮った名監督で、傑作をたくさん残してる。例えば、中村錦之助主演の『瞼の母』や『沓掛時次郎遊侠一匹』。藤純子主演の『緋牡丹博徒お竜参上』。鶴田浩二主演の『明治侠客伝三代目襲名』。ほかにも『骨までしゃぶる』や『男の顔は履歴書』などなど。作品の名前を口にするだけでため息が出そうなくらいの、傑作揃いよ。
 この傑作の数々、公開当時はマダムも子供だったので、もちろん知らなかった。マダムは80年代に映画祭や名画座で見たのだけれど、その時のラインナップの中に『炎の城』は見当たらなかった。ので、まさか加藤泰がハムレットの翻案映画を撮っていただなんて、思いもよらなかった。
 
 加藤泰は脚本も書く人であったので、すわ監督自身の翻案なのか?!と見ながら腰が浮きかけたけど、どうもそうではなかったようね。
 そして見てわかったけど、名画座でかかるような人気作ではなかっただろうし、映画祭でかかるような名作でもなかったのだった。傑作の数々に比べると、核心に向かって一気に収斂していく加藤泰らしさが全然ないんだもん。
 昨年、国立近代美術館フィルムセンターで行われた加藤泰生誕100年のサイトによれば、「八住脚本の結末に納得できないまま撮りあげた」作品であり、監督自身「失敗作」と言っていたのだそう。さもありなん。
 
 でもそこは、「ハムレット」だから、マダムは別の意味で面白く見た。「ハムレット」を戦国時代の日本にどう移し替え、大スター大川橋蔵主演の娯楽大作にどう作り替えるか、苦心惨憺(した挙句に失敗)のあとが見えて、面白い。
 そもそも、どうして東映が「ハムレット」を題材に映画を作ろうだなんて思ったのか。ここからはマダムの想像に過ぎないけれど、『炎の城』の製作年から容易に推測できるのは、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年東宝)の成功を見たプロデューサーが「そっちがマクベスなら、こっちはハムレットやったるでー」とかなんとか言って決まったんじゃないかしら(想像ですよ、想像)。黒澤御大がなぜ「ハムレット」を選ばなかったか、については考えてみなかったのでしょうね。
 
 『炎の城』では、クローディアスを徹底的に悪とすることで、勧善懲悪的な物語にしようとしている(それ自体、既に「ハムレット」じゃないのね)。先王が生きてる間にガートルードを無理やり手篭めにして言う通りにさせ、先王を殺して自分が王になると、隣国に侵略する資金を作るために、農民に重税を課す。農民の反発にあうと有無を言わせず弾圧。先王を殺した罪に悩んだり懺悔したりするシーンは無し。クローディアスの人間像はすごく一面的で、全然魅力がない。
 一面的、といえばガートルードもオフィーリアもそう。ガートルードはクローディアスの悪事を全て知っていて、運命に押し流されている女として描かれ、オフィーリアはハムレットを一途に慕って、想いが叶わないのを悟ると覚悟の入水自殺。狂って歌うシーンはなかった。
 そしてハムレットはいっこうに行動に出られず悩んだり嘆いたりしているわけ(ハムレットだから!)なんだけど、農民からは救世主として期待されているし、クローディアスは極悪人なわけだから、ハムレットがなんで行動しないのか、原作以上に理解できないし、イライラする。戦国時代なら、兄弟や親子でも殺してトップになることなんて、普通なわけで。寝ているクローディアスを目の前に刀を引っ込めるなんて、なんちゅう情けない若様であろうか・・・。
 そのうえ、『ゴジラ』の伊福部昭の音楽が仰々しいばかりで、浮いている。なぜか途中で『ゴジラ』のテーマ曲にそっくりのメロディが流れて、なんのつもりかと悩むマダム。
 極め付けはラスト。ハムレットが死なないの。
 レアティーズとの決闘で傷ついたハムレットだが、死に物狂いで塔の上にクローディアスを追い詰めてなんとか復讐を果たし、農民の一揆で火を放たれた城は燃え、ハムレットも死んでいく・・・のかと思いきや、助け出され、悪政を正していくだろう・・・という、無理やりな勧善懲悪のラストになっていた。こりゃあ、監督も撮りづらかったでしょう。加藤泰、超がつく真面目な人であったと思うから。
 
 「ハムレット」を換骨奪胎して娯楽大作にするか、芸術映画として加藤泰に好きなように作らせるか、どっちかを選べずに妥協を繰り返した結果、こういう映画になったんでしょうね。そのことがわかりやすく画面から伝わってきて、面白かったよー。

 私たちは『ハムレット』の何に惹かれているのかしら?
 結局そのことを考えずにはいられないのよね。

『アテネのタイモン』二回目

 二回目の観劇。12月27日(水)マチネ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール。

 評判が良く、平日の昼間にもかかわらず満席で、当日券にもたくさんの人が並んでいたわ。
 芝居自体は初日の方が面白かったんだけど、それはやっぱり色々と初めて見る驚きとかドキドキ感が違うからね。二回目は逆にリラックスして観られたの。そうしたら、いくつか細かいことに気づいたりした。例えば、小さな役で台詞を言う人が違っていたり、踊り子たちがタイモンの周りに侍る形が変化してたり、火事の時赤い借用書の紙が舞い散るんだけど、途中から黒い紙に変わっていくのを確認できたり。火事の煙が今日は多いな、と思ったり。アペマンタスの纏う毛皮が熊っぽいのからキツネっぽいのに変わってたり。
 演技も日々、変化していくものなんだね。カッキーは通路での演技にすっかり慣れて、空いてる座席に座ってみたりしてた。マダムは通路脇の席だったので、彼がマントを翻しながら横を通るたび、いい香りがするなあ・・・なんて思ってた。

 プログラムは普通買わないことにしてるんだけど、今回は買ってよかった。凄く素敵な写真と、メインの四人のロングインタビューと、すべての役者さんの一言が載ってる。それと、吉田鋼太郎VS横田栄司、藤原竜也VS柿澤勇人の対談が載ってるんだけど!横田ファンはこの対談を見逃してはならないと思うわ。

 稽古場見学に始まって1ヶ月間マダムは、ほぼこの公演のために生きてきたので、いま、どっと疲れが押し寄せている。でも、心地よい疲れなので、このまま寝正月に突入するのもいいかしらね。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その2

 これほど1幕と2幕が、まるで別の芝居のようなテイストのシェイクスピア作品って、他にあったかしら?

 2幕は暗い森の中。セットが、ひんやりと湿気を帯びた深緑色で美しい。日本の森とは樹の姿が違うし、想像するアテネの森とも違い、一番近いのはイギリスの森、のような気がした。
 破産して、アテネの街を出て、タイモンは穴蔵暮らし。アペマンタスに似たボロをまとって、木の根を掘っては齧っている。アテネにいた頃の面影はない。そこへ次々と彼を知る人たちがやってきて、禅問答みたいな会話をする2幕が、圧倒的に1幕より面白いんだけど、それも1幕あってこそ。
 タイモンのところへは、アルシバイアディーズの一群が来て、アペマンタスが来て、強盗たちが来て、フレヴィアスが来て、画家と詩人が来て、元老院議員たちが来る。彼らとの長い不毛な対話。誰とも共感しない。台詞の連なりは、読んでも殆ど理解不能なのに、吉田鋼太郎の声で聞くと、タイモンの人間への絶望の深さ、人間的なものへの徹底した拒否がぐんぐん浮かび上がってくる。台詞がどんな感情から生まれているかを正確に読み取る優れた演出家と、それを正確に、しかもパワフルに演じることができる優れた役者。両方が彼の中に同居してる。ちょっと奇跡だ。だから、吉田鋼太郎演出の時、役者吉田鋼太郎も一番いい演技をするのね。
 
 藤原竜也や横田栄司とのがっぷり四つの会話を観たいというマダムの願いは、ついに叶えられたよ。藤原アペマンタスは1幕こそ苦戦していたけれど、タイモンとサシでの演技になった時、逃げることのできない対話の波に飲み込まれ、心を決めて身を任せたようだった。二人の会話は、人間を信じるなんてくだらないという一点で一致するんだけれど、タイモンは、だからこそもう生きないと決め、アペマンタスはそれでも生きると決め、互いを認め合って別れる(と受け取ったのだけれど、違うかしら)。ののしりあい殴り合って、最後に抱きあってしまった時、演技の高みに上り詰めたように見えて、マダムはちょっと、芝居の中身とは違う部分で感じるものがあったの。藤原竜也はこれでもう一度、舞台を面白いと思うようになれるだろうか。そうあってほしいのだけれど。
 横田フレヴィアスとタイモンのシーンは、他のどの対話とも違っていた。他の対話では常時主導権を握ってるタイモンが、ここでは受け身になるんだよね。気が触れたのか触れたふりしているのか、タイモンはフレヴィアスを知らないそぶりで逃げるけれど、横田フレヴィアスはタイモンを逃がさない。強靭な誠実さでタイモンの心をこじ開けるの。そしてタイモンの「正直な男がたった一人だけいる・・・その一人とは、執事だ・・・」という台詞で、こっちはフレヴィアスとともに、心の涙腺決壊だよ・・・。もう、このシーンは一切の雑音なく、芝居の中に入り込んで観た。なんかね、終わってほしくなかった、このシーンが(無理を言うな、無理を)。


 大劇場での演出は初めてだったけれど、よく知っているさい芸の空間をフル活用し、蜷川御大の遺産ともいうべきスタッフの力を借り、ベテランから若手まで共に歩んできた役者さんたちを集めて、隅々まで台詞術の行き届いた、美しくて面白い舞台が出来上がってた。凄く満足。
 最後に極々個人的なことをひとつ。30年来の友達が、初めてさい芸の大舞台を踏み、大事な役を演じるのを見届けたの。感慨ひとしお。長く生きてくると、こんな凄いこともあるのね。嬉しかった。

より以前の記事一覧

2018年6月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

関係するCD・DVD

無料ブログはココログ