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シェイクスピア

嘆きの王冠ラスト 『リチャード三世』

 頑張りました。ホロウクラウンのラスト1本『リチャード三世』、見てきたよ。7月15日(土)夜、ヒューマントラストシネマ渋谷。

 見終わったら10時半くらいで、帰りのエレベーターは女性ばかり4人。誰ともなしに「いや〜よく完走しましたよね〜。大変だった〜。もうちょっとタイムテーブルを考えて欲しかったよね〜」というようなことを言い合い、そして「カンバーバッチの顔、たっぷり見たわ〜。暫く見なくていいわ〜」と思わず本音が(と言いつつ、シャーロックを見てしまうのだろうけれど)。
 そう。『ヘンリー六世』の作り方を見ても、これはもうカンバーバッチのための『リチャード三世』なのが明らかだったの。独白が全てカメラ目線のアップで、ちょっとしつこかった。映像の色々な手法をもっと使ってもよかったのに。カンバーバッチは上手いんだけど、アップばかりだと飽きちゃうんだよね。
 最後の戦闘シーンも、実際はああだったのかもしれないけど、不具な体で戦いながら「馬をくれ!代わりに王国をくれてやる」っていう切実さ(というか憐れさ)があまりなくて・・・演出家の見たいものとマダムの見たいものにズレがあるんだった。好みの問題かしら?

 シリーズを全部見終わって、とにかく『リチャード二世』の出来が素晴らしかったことと、『ヘンリー五世』のトムヒがかっこよかったことが後に残ってる。
 ヘンリー四世やヘンリー六世は、長い長い本をたくさん切って映像にしたので、わかりやすくなったとも言えるけれど、なにかが繋がらなくなった気がする。それに比べ『リチャード二世』『ヘンリー五世』は殆どシェイクスピアが書いたままだから、テーマを削らずにすんで、面白くなったのでは?
 シェイクスピアは、どうしてだかわからないけど切っちゃうとダメなシーンばかりなのよね。そこんとこ、わかりたいなあって思ってる。
 あー、でもなんだかんだ言って、7本も見に行っちゃったんだから、面白かったってことだね〜。
 来年の新国立の『ヘンリー五世』が楽しみだなぁ。

2時間でもちゃんと『リア王』 子供のためのシェイクスピア

 芝居に行くも帰るも汗びっしょりだわ。7月15日(土)マチネ、あうるすぽっと。

子供のためのシェイクスピアカンパニー『リア王』
作/シェイクスピア 訳/小田島雄志
脚本・演出/山崎清介
出演 福井貴一 戸谷昌弘 土屋良太 佐藤あかり
   若松力 加藤記生 チョウヨンホ 大井川皐月 山崎清介
 

 伊沢磨紀が出ないことに気づいたのはチケットを買って、だいぶ経った頃だったの。
 伊沢磨紀は日本のキャサリン・ハンターである、とマダムは思っているのだけれど、1年に1度、子供のためのシェイクスピアで伊沢磨紀に会う。それがあたりまえのことになっていたので、ショックは大きかったわ。チラシを見て「あ、リア王ね、伊沢さん、ゴネリルでもリーガンでもコーディリアでもいいけど、リア王もできるね」なんて考えていたんだもの。

 話は『リア王』なんだから、あらすじの説明はしなくていいよね?
 
 配役を書き出してみると。
 リア王は福井貴一。コーディリアと道化を大井川皐月。ゴネリルとコーンウォール公(リーガンの夫)を加藤記生。リーガンとオールバニ公(ゴネリルの夫)を佐藤あかり。グロスターを戸谷昌弘。その長男エドガーをチョウヨンホ。その次男の策士エドマンドを若松力。ゴネリルの執事オズワルドとフランス王を土屋良太。そして山崎清介はケント伯。人形はケント伯と行動を共にする・・・えーと名前失念(人形の声を山崎清介がやっているので、人形が山崎清介に似てるのは当然なんだけど、今年は山崎清介の方が人形に似てきた気がした。なんでかしらね?)。
 いつも感心するけれど、この少人数でシェイクスピアをやり遂げてしまうのよ。毎年だから、どんな風に乗り切るのか、その工夫を見ることが大きな楽しみ。今回も、ゴネリル夫妻とリーガン夫妻を加藤記生と佐藤あかりの二人でやるという離れ業が見ものだった!
 そして毎回2時間ちょっとにまとめてくるのも、すごいの。いろんな伏線とか、きっかけの台詞とか、知り尽くしたうえでの改編なので、そこもまたマダムは感心しきり。
 役者さんたちは少数精鋭。このカンパニーはみんな上手いの。マダムはエドマンド(若松力)の色悪ぶりに惚れ惚れしてたんだけど、そこはほら、どんな時にもイケメンを見逃さないってことだから。
 
 あとはね、いつも演技の話に終始してしまうので、その前にひとつ。
 このシェイクスピアシリーズの衣装(三大寺志保美)がすごおく素敵! 役に合った、選び抜かれた色合い、生地の美しい光沢に、毎回見惚れる。

 始まるまで配役は知らなかったので、福井貴一がリア王として登場した時、おおおー、と思った。彼の舞台は何度か見ているはずだけれど、その上手さに舌を巻いたのは2年前の加藤健一事務所制作の『ペリクリーズ』のとき(その時の記事は→これ )。台詞の心地よさったらなかった。
 今回も台詞回しの巧みさはいかんなく発揮されていたのだけれど、マダムが引きこまれたのは「老人としてのリア」像がブレなく存在していたからなの。
 リアは、「老いてわがままになり正常な判断ができなくなった迷惑な老人」のように描かれているところが多分にあって、海外では「認知症の老人」として演出されている舞台もあるそうな。でもね、マダムは福井貴一のリアを見たら、「認知症の老人」というような言葉では到底片付けられないリア像がある!と感じたの。
 リアは老いたからわがままになったのではなく、王だったから元からわがままなんだよね。そして王という身分とアイデンティティーが、ピッタリくっついてる人なの(さらに言えば、王って多分そういうものよね)。だから退位しても王として振舞っちゃうし、王として振舞うなと言われたら、どうすればいいかわからないのよ。まるで、定年退職したらそのあと、どう生きたらいいのかわかんない仕事人間みたい。
 そして色々と辛酸を舐めたあと、死の間際になってやっと、王ではなく一人の人間として、自分を一番愛してくれた娘は誰なのか、誰が本当の家臣だったのかを知るの。話の始めに「王を降りる!」と言ったけど、本当に退位して一人の人間になれたのは死ぬ時だった。憐れなリア。
 というようなことを、福井リアは見せてくれたのだった。演出によって、そして誰が演じてくれるかによって、戯曲が姿を見せる面が違う。あたりまえなのかもしれないけれど、このあたりまえの楽しみにちゃんと行き着くには手練の技が必要で、観客としてその技を持つ人たちを応援したいと、改めて思ったマダムだったわ。
 
 そんなわけで、来年も楽しみにしています。伊沢さんのことも、もちろん、待ってる。

嘆きの王冠 『ヘンリー六世』第一部&第二部

 ホロウクラウンシリーズも計画通り進んで、きっちり折り返し。『ヘンリー六世』第一部と第二部を一気に観てきた。7月2日(日)、ヒューマントラストシネマ渋谷。
 面白く見たし、退屈なところはなくて(というのも半分の尺に納めようとしてるから大事なシーンが数珠つなぎ)、お腹いっぱーい。
 でも、いろいろ言いたいことがでてきちゃった。

 『ヘンリー六世』って原作は三部作で、全部上演すると9時間くらいかかっちゃうのね。
 だから映像にする時、いちばん本作りが難しかった作品だろうと思う。ものすごくたくさんの人が出てくるし、それでも誰も「典型的」な描かれ方してない。シェイクスピアは、ワンシーンしか出てない人物にもちゃんとその人ならではのセリフを与えてるの。処女作がこれって、ホントにさすがなのよ。
 でも、だからこそ、本をカットするのが難しいし、改変はなおのこと。

 BBC版『ヘンリー六世』のいちばん大きな改変は、王妃マーガレットの浮気相手をサフォークではなく、サマセット公にしたこと。映画が始まってしばらく、マダムは凄く混乱してしまって、飲み込むのに時間がかかってしまったの。
 原作を知らなければ全然、戸惑ったりはしないでしょうし、ストーリー上おかしくなったりはしていないの。でも、マッチョで軍人そのもののサマセットが愛人だと、シェイクスピアが書いたものとは大きくかけ離れてしまう。
 原作のサフォークってさ、舌先三寸の寝技師でしょう? 剣では戦わなくて、口が上手くて、ベッドが戦場、みたいな男。気が強くて自ら戦場に出て行くマーガレットのような女が、口が上手いだけの男にメロメロっていうところが面白いのに。そして、サフォークは死ぬときも、軍人じゃないから、そういう正々堂々戦った死に方はできないわけよ。なんていうか、因果応報がピリリと効いてるのよ。シェイクスピア、ちゃんと描ききってるのよー、だからサフォークの設定を変えないでほしかったなあ。

 それとね、次の『リチャード三世』に繋げる意識がちょっと強すぎる感があるのね。なんといってもリチャード三世は大スターのカンバーバッチだから、第二部になるとリチャードが主役みたいになってくるんだけど。
 でもさ、そんな手心を加えなくたって、ヒタヒタと、リチャードはやってくるのよ。そんなに早くからスポットライトを当てなくても、大丈夫なのに。
 だって、あくまでこのお話は「ヘンリー六世」のお話なんだもの。そして気がついたらいつの間にか、日陰者のリチャードが真ん中に来ている・・・というね。
 
 いろいろ言ったけど、胸に刺さった演出も沢山あったの。いちばん刺さったのは、ヘンリーがほぼ全裸で羊の群れの周りを彷徨ってるところ。
 なんかね・・・リアじゃん。と思っちゃったら、わー、もうこの時にリアのもとがあったんだ、処女作には作家の全てが揃っているっていうけど、ほんとなんだわ、とかちょっと興奮気味のマダムであった(まあ、これは演出のおかげなんだけど)。
 そしてロンドン塔に幽閉されて、汚れた王冠が戻ってきて、初めてほんとに王らしくなるヘンリー。閉じ込められて、もう王でなくなって、初めて王らしくなるなんてさ・・・王様って哀しい。
 
 あとはね、戦争って、ほんとに血みどろだな、ってこと。人間はいくらでも残酷になれるんだな、ってこと。グロいのは苦手だけれど、こうやって血みどろを見ると、そのことを痛感する。グロい描写も必要なのかもしれないね。(でも、何度も顔をそむけました。)
 
 やっぱり『ヘンリー六世』の舞台が観たくなってしまって。新国立劇場の一挙上演から、もう8年とか経ってる。こんなに経っても、また観たいなんてね。
 
 さあ、ホロウクラウンも残すところ『リチャード三世』1本となったわ。
 ただね、スケジュールが・・・いつ行けるかなぁ?

嘆きの王冠 『ヘンリー五世』

 引き続き、嘆きの王冠ホロウクラウンシリーズ。第四弾は『ヘンリー五世』。7月1日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷。

 

 一連のシリーズでマダムが唯一、舞台で未見なのが『ヘンリー五世』なの。だから、台本を読んだことはあるにしても、映画でなーるほど!って思うことしきりだったわ。
 一番感じたのは、ヘンリー五世って特別に愛されてる王様だなあってこと。どんだけ褒めたたえてるんだ、シェイクスピアは。アジンコート(だっけ?)の戦いなんて、神風吹いてるし。フランス王女を口説くところも、なんかもう少女マンガの理想の王子みたいだし。そして、歴史に「たられば」は無いけれど、もしこの王が長生きしていれば薔薇戦争は起きなかったかもしれない、とみんな思ってるふしがあるのね。でも、歴史は冷酷。立派な人ほど夭折しちゃうのよ。
 トム・ヒドルストンは、やはりヘンリー五世を演るために配役されたのね。ハル王子のときも大人っぽかったけど、王になってからの格好良さが半端ない。
 『ヘンリー四世』の時とは監督が替わったせいもあって、映像だからこその表現が駆使されているのが楽しかった(思えば『ヘンリー四世』は舞台っぽかったのだ)。例えば、しょっぱなのトムヒが馬で駆けてくる疾走感や、風をはらむイングランドの旗。緑の丘陵に並ぶ軍の隊列。弓弦の空気を震わす音。野営地の焚き火の、温かなオレンジ色の輝き。
 やっぱり映像にするからには、舞台では見られないものを見せて欲しいし、『ヘンリー五世』の監督はよくわかってるなあ。
 一方で、舞台の台本では、かつての遊び仲間のバードルフが隊の規律を乱したと報告されると、確かに王は「処罰せよ」って命じてるけど・・・映像じゃ、既に木に吊るされてるんだもの。なんかショックだった。(こういう処刑のシーンとか、露骨っていうか、隠さないのね。こうだったものは、こうだったんだ、って。マダムはグロいの苦手なんだってば。)
 
 舞台はまた全然趣が違うと思うので、来年の新国立バージョンと、いつかやるはずのさい芸バージョンが、さらに楽しみになった!浦井ヘンリーと桃李ヘンリー(と決めてしまってるマダム)が、楽しみ楽しみ。(浦井くんとトムヒ、同い年なんだってよ〜!)
 
 

嘆きの王冠 『ヘンリー四世第一部・第二部』

 嘆きの王冠シリーズ、第二、第三弾の『ヘンリー四世』一部、二部、一気に見てきた。6月24日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷。
 
 大好きなシリーズ物なので、楽しんで観たものの、『リチャード二世』の出色の出来映えに比べると、少しトーンダウンするのだった。演出家が違うこともあって、画面の色(空気の色)が違う。全体にモノトーンがかっていて、印象がぼんやりするの。戦闘シーンなんて全部灰色で、何が何だかよくわからない(ただこれが、死にたくなくて唯うろうろしてるだけのフォルスタッフの目線だ、と思うと納得する)。

 リチャード二世でボーリンブルック(のちのヘンリー四世)を演じたロリー・キニアが王様をやらず、ジェレミー・アイアンズが演じていて。やっぱりハル王子のトム・ヒドルトンとの年齢的釣り合いを考えてのことかしら、と少し残念に思ったの。でも始まったら、ジェレミー・アイアンズの王様は、イメージぴったりだと感じた。なんのことはない、昨年末の記憶も新しい中嶋しゅうの王様と、そっくりなんだもん。プログラムの登場人物表の写真を入れ替えても、違和感ないと思う。神経質そうで憂鬱そうで、長いこと呪いを背中に背負いこんできたせいで、身体つきも既に枯れかけている。ぴったり〜。(ロリー・キニアだと枯れてないもんね。)

 このBBC版『ヘンリー四世』の主役は、マダムが舞台で観てきた『ヘンリー四世』とは違っていた。舞台ではタイトルロールのヘンリー四世は主役ではなく、主役はあくまでハル王子だったから。ハル王子の成長物語であったから。でも、BBC版は、呪われた王冠が主役で、その王冠の重みに耐えきれずに枯れていく王様と、その王冠を引き受ける決意をした王子のお話。切り口が違う、と感じたの。
 トム・ヒドルトン(通称トムヒ)は、上手くて素敵な役者だけれど、やんちゃ時代のハル王子をやるには、大人すぎていて、最初から成長しちゃっていたの。それともマダムの中に、松坂桃李と浦井健治のハル王子が刷り込まれちゃってて、さすがのトムヒでもそこに割り込むことができなかったということなのかしら?それとも、イギリスではハル王子っていうのは、あのくらい大人っぽいものとして定着しているのかしら?(でもあっちで見たハル王子の銅像は、ほとんど少年だったよ。)
 
 長いシェイクスピアの台本を映像にするとき大幅にカットされることは、当然よ。より良い効果が得られると思えば、改変もありうる。例えば『リチャード二世』では最後にロンドン塔でリチャードにトドメを刺す暗殺者を、本通りではなく、オーマール公に設定していた。マダムはなるほどね、それもありだね、って思ったんだけど。
 今回の『ヘンリー四世』では、何か大事なシーンがそっくり無くなってる気がして、気になって帰宅してから本をめくってみたのね。それでわかったのは、シュールズベリーの戦いの場で、王がダグラスに殺されそうになったとき、ハル王子が身を呈して王を守り、二人の間のわだかまりが溶けていく、そのシーンがなかったの!(それともマダムは寝ていた?)
 ここを切っても大丈夫、と演出家は考えたんだよね?
 どうしてかしら?・・・・演出家に訊いてみたくなった。

嘆きの王冠 第一弾『リチャード二世』

 BBCが製作した嘆きの王冠シリーズ全7作。映画館で是非、全部観るべく、スケジュールを調整しているの。ちゃんと時代順に観たいので、結構大変。
 舞台の中継ではないし、ブログ記事は自分用のメモ程度にしておくので、ストーリーとか詳細知りたい方は、次の参考文献をお読みください。シェイクスピア作「リチャード二世」「ヘンリー四世第一部・第二部」「ヘンリー五世」「ヘンリー六世第一部・第二部・第三部」「リチャード三世」。

 第一弾『リチャード二世』。6月18日(日)、ヒューマントラストシネマ渋谷にて。
 見終わって、まず頭に浮かんだ言葉は、「ベン・ウィショー、ぴったりだったー。そしてネクストの内田健司もやっぱりぴったりだったんだ!」。シェイクスピアのリチャード二世から読み取れることはだいたい、蜷川演出のネクストシアター『リチャード二世』から受け取れちゃっていたんだ、ってこと。王様に向いてない性格の王様だ、ってこととか、ちょっとホモっぽいところとか、最初っからいちいち重要ポイントの判断が間違ってることとか、どんなに苦境に立ってもその状況を詩のような言葉で分析する癖があるところとか・・・うんうん、こういう人だよね、と納得。
 ネクストの舞台より今回はっきりわかったことは、リチャード二世が自分を廃嫡した人々に強力な呪いをかけたところ。この呪いあればこそ、ボーリンブルックがヘンリー四世になってもなお、王座に自信が持てずに死んでいくのがわかるし、この呪いが薔薇戦争の本当の始まりなんだなあ(「ヘンリー六世」のウォリック伯の宣言で始まるんじゃなくて)、と強く感じられた。そこはベン・ウィショーのリチャードにしてやられた感じ。翻訳じゃない、書かれた言葉そのものだからだろうか?

 あとは、やっぱり映画だから、イギリスの風土がふんだんに感じられるのが楽しかった。険しい山はなくて、丘陵地帯にしっとりとした緑が続く道を、追放されたボーリンブルックが戻ってくるところとか、遠浅の美しい海岸で、誰も迎えに来ないのを嘆くリチャードとか・・・シェイクスピアの言葉はイギリスの風土から生まれてきたことが腑に落ちるのよね、映像だとなおのこと。
 あとは恐ろしい処刑のシーンとか、鎧をつけた人間を乗せてさらに自らも鎧をつけられた馬が、重みでまっすぐ走れない様子とか、リチャードが「下へ下へ」と言いながら狭い塔の中を降りていくところとか、色々とリアルだったな。
 
 海辺からアイルランド討伐に出発する時、林立した三角の旗が海風になびく美しさ。その絵柄を見た瞬間、マダムは、子どもの頃熟読したナルニア国物語の挿絵を思い出さずにいられなかったの。そして、マダムがシェイクスピア好きになるのはもう、ナルニアを読んだ時から運命付けられていたのだとさえ、思った。
 
 さてこれから『リチャード三世』まで、先は長いわ。

マクダフの生まれ方〜翻訳と上演台本の間

 今日は、かなりマニアックなお話。興味のある方だけ、どうぞ。
 
 
 『ナルニア国物語 ライオンと魔女』の中に、魔法のかかったプリンが出てくるのを、憶えている方はいるかしら?

 ナルニアシリーズはマダムの幼い時からの愛読書なのだけれど、大人になってから知り合った同胞たちはみな、原書では、このお菓子がプリンではないことを知っていたの(翻訳者の注があったからね。愛読者は皆、注まで読み尽くすものだから)。Turkish Delight(トルコの悦び?凄いネーミング)という名のそのお菓子を、皆一度は食べてみたいと願い、イギリスに行った誰かがお土産に買ってきて試食会が開かれる、というようなことも彼方此方で、あったらしい。かく言うマダムもその一人で、ひとかけら食べただけで頭痛が起きるかと思うような甘さだったのを、忘れはしまい。魔法がかかっていなくても充分、気分が悪くなるような甘さだったわ。もちろん、これはこれで好きな人もたくさんおられるのでしょうけど。
 ナルニアシリーズは岩波の翻訳権が切れて、新しい翻訳が出たそうで、新訳ではプリンではなくターキッシュディライトとしているのだそう。だけど、マダムはこのお菓子を、悩んだ末に「プリン」と意訳した瀬田貞二訳を支持するわ。今でも。なぜなら、この翻訳は、日本の子供が読むためのものだったから。そのとき瀬田貞二は自分の立ち位置を、少しだけ、小さな読者たちの方へ寄せたのだ、と思うから。

 前置きが長くなった。でもこれは重要な前置き。

 1月にカクシンハンの『マクベス』を観て以来、気になっていたことがあった。カクシンハンの演出とかとは関係がない。翻訳のことなんだけど。
 マクダフの生まれ方について。

 マクダフは、最後にマクベスにとどめを刺す貴族。妻子をマクベスに殺され、恨み骨髄でマクベスに向かうんだけれど、マクベスの方は
「女から生まれた者は誰一人、マクベスを倒せはしない」
松岡和子訳
という予言を魔女からもらっていて、誰のことも全然怖くないの。ところがマクダフに
「月足らずのまま、母の腹を破って出てきた」
んだ、って言われて、マクベスは予言の隙を突かれたことにショックを受ける。
 ここの台詞(翻訳)が、どうしても腑に落ちない。
 だってさ、どこから出てこようが(帝王切開だろうが)、女から生まれたことに変わりはないでしょう?予言の裏をかいた感じが、わからないの、この台詞では。

 1月のカクシンハン公演の時、マダムの脳内では「あれ?マクダフって女の股からは生まれてないぞ、って話じゃなかったっけ?」という声がした。そして、「女の股」と翻訳した人は誰だったのか、気になったら、いてもたってもいられなくなり、当たれるだけの翻訳に当たってみたの。でも、見つからなくてね。

 松岡訳(承前)のほか、小田島雄志訳では魔女が
女が生んだものなどにマクベスを倒す力はない」
と予言し、マクダフが
「女から生まれる前に、月足らずのまま母の腹を裂いて出てきた」
と看破する。河合祥一郎訳では魔女は
「女から生まれた者にマクベスは倒せぬ」
と予言し、マクダフは
「母の腹から月足らずで引きずり出された」
と言い返す。
 予備知識なく芝居だけを見て、マクベスが魔女に騙されたショックを観客が受け取れるのは、小田島訳なのかな、とは思う。「女から生まれる前に、・・・出てきた」と言ってるから。それでも、「女の股」の納得感には負ける。

 友人たちと話してみて、「女の股」は『メタルマクベス』の上演台本を書いた宮藤官九郎の作ではないか?と行き当たったの。このあいだ録った録画を消してしまっていて確認するすべが今ないんだけれど。
 確か、魔女の「女の股から生まれた者にはマクベスは負けない」という予言があり(歌になってたかも?)、対するマクダフの「俺は女の股から生まれてない。俺は月足らずの帝王切開だから」みたいな分かり易いセリフになっていたような。『メタルマクベス』の録画を持っている方、ちょっと確かめてみてください。

 『メタルマクベス』(劇団新感線)は、シェイクスピア翻案物に厳しいマダムをも唸らせる面白さだったのだけれど、なにより上演台本が凄くよく出来ていた! シェイクスピアがどんな人物設定をし、どんなつもりでセリフを書いたかを、よ〜く理解した上で、初めて見る観客にもわかるような意訳でセリフを作り直し、さらにもっと面白くなるように話を盛っているの。土台の、「よ〜く理解」のところが、ホントによ〜く理解なので、どんなに意訳してあっても、どんなに盛ってあっても、ちゃんとマクベスらしいマクベスになっていた。
 
 翻訳本はシェイクスピアの書いたセリフから大きく離れることはできないから、「女の股」とはできないよね。そこが読み物としての翻訳本と上演台本の違いなのかな。
 でもせめて、「女に産んでもらった奴にはマクベスは倒せない」くらいには意訳してもいいのではないかな。そうしたら「自分で母の腹を破って出てきた」とマクダフが言い返した時、「俺は女に産んでもらってないからな!」っていう感じがちゃんと出るし、マクベスのショックがわかるじゃない?
 日本語の「生まれる」には、そもそも母によって生み出される感がない。もっと自然現象な感じ。だから生んで「もらった」とわざわざ言わないと、魔女の予言とマクダフの看破の、違いが出ないじゃない?
 ここで前置きで言ったことに戻る。最後の最後には、立ち位置を、日本の観客の方へ、少しだけ寄ってほしいの。
 それがいち観客としてのマダムの希望。
 メッチャ、細かいことにこだわってるんだけど。
 マクベスって何度も何度も見たから、いろんなこと考えちゃうのね。

岐路に立つカクシンハン『マクベス』

 芸劇は、ざわざわしていたわ。1月27日(土)マチネ、東京芸術劇場シアターウェスト。

カクシンハン第10回公演『マクベス』
作/シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/木村龍之介
出演 河内大和 真以美 岩崎MARK雄大 穂高 白倉裕二
   鈴木智久 鈴木彰紀 鈴木真之介 東谷英人 塚越健一 ほか

 『ジュリアス・シーザー』での出会いから1年、早くもシアターウェストに進出と聞き、おお、やったじゃん、と盛り上がったマダムだったのだけれど、演目がマクベスと聞いて押し黙ったの。マクベスには悪い思い出がある。詳しくは言うまい。そしてマクベスって、演出家が何か色々したくなっちゃう本なのよね。シェイクスピアにしては無駄がなくてやけにストレートな作りだから、なにか仕掛けたくなっちゃう。
 で、もちろん、仕掛けちゃいけないなんてマダムは少しも思ってないの。ただ、シェイクスピアのセリフを大切にしてくれさえすれば。
 
 しかしそれにしても、仕掛けが満載だったー。見たこともないマクベスってホントね。そういう意味では。
 まず興味があったのは、殺陣をどうするだろう?ってことだったの。1年間見てきて、普通の殺陣をやらないことにこだわりがありそうだったし、かといって、この大きさの小屋でマクベスで、殺陣を全くやらないわけにもいかないでしょう? そうしたら、パイプ椅子を使っていたので、おおそう来たか!と思った。使い方はなかなか凝っていて、最後にはパイプ椅子がちゃんと剣に見えたの。面白い!
 他にも、マクベス夫妻以外が全部揃って魔女やったり、岩崎MARK雄大によるシェイクスピア・ラップ講座みたいなのも面白かった。
 仕掛けの良し悪しを言っても、ほとんど好みの問題みたいになっちゃうから、ひとつだけマダムがこりゃダメだと思ったものを挙げると、それはミスチルを延々流したことかな。マクベスとの関係がよくわからなかったし、ミスチルの桜井和寿は、今の日本で一、二を争う吟遊詩人だもん。彼の書いた詩と彼の声は不可分のものだから、そこに被せてマクベス夫人が朗読しても、負けちゃうよ。マクベス夫人だけじゃなくて、芝居全体がミスチルの歌に負けちゃった感じがして、かなり残念な気持ちになった。
 挑戦する気持ち、思いついたことを実現させようとする気持ち、すごく伝わってきた。その一方で、シェイクスピアの書いたセリフを大切にやり取りするところが、おろそかになったなあと感じて。これまでの公演にはちゃんとあったのに。劇場が大きくなった分、勢いだけじゃ埋められない。たくさんあるいいシーンが、よくわからないまま過ぎていって、河内大和だけを見に行ったようになってしまって。河内大和と、周りの役者との間に差ができすぎてしまった。これじゃ、彼もこれ以上先へは行けない。
 
 シェイクスピアの上演はたくさんある。シェイクスピアは、どんなに中身を改変しようともう文句は言わない。だから、筋書きだけもらったような上演もあるし、なんだってOK。
 でも、マダムが好きなのは、台詞から彼の書いた真実を浮かび上がらせようとする上演で、そのためには結局、役者が台詞を自分のものとして発してくれなければ始まらない。他のことはその次なの。日本語に翻訳したら、リズムも失われてしまうんだから、台詞をちゃんとやり取りしなかったら、もうシェイクスピアじゃなくてもよくね? ストーリーなんて、シェイクスピア自身だってどこかから持ってきてるわけだし。
 
 だけど、これは全部こちらの好みの問題。題名の「岐路に立つ」のはカクシンハンのほうじゃなくて、マダムのほう。自分の楽しみが増えるのか、減るのか、マダムは岐路に立ってるわ。

速報!浦井ヘンリー五世、再び

 きゃっほー!
 みんな、もう聞いてる?
 新年早々、来年の話なんだけど、2018年5月、新国立劇場で『ヘンリー五世』の上演が決まったよ!!
 主演は勿論、浦井健治その人。やった〜!これまでの鵜山組、続行よ。
 喜びのあまり今、うちで「We will Rock You」かけながらひと踊りして、マダムは、ツイッターのアイコンをヘンリー五世仕様にしたので、ツイッターの方もよろしくね。(ていうか、受験生の母の顔はどこにいったのかしら〜〜〜?)

 ヘンリー四世、観なかった人はもう、後悔してるでしょ?
 そうだよ、シリーズなんだから、見続けると喜び倍増なのよ。
 来年まで、頑張って生きるぞー。

『お気に召すまま』追記

 シアタークリエの『お気に召すまま』について、記事内容に言葉が足りてないところがあるようなので、補足するね。

 マダムは演出が気に入らなかったんだけど、「設定を1960年代のアメリカにもっていった」ことそのものが気に入らなかったんじゃないのよ。さらに言えば、その演出が失敗してるから批判してるわけでもないの。そもそも失敗なのか成功なのか判断材料がなさすぎだし。
 それが日本人の観客にどんな効果をもたらすか、演出家がよく考えてないのがありありとわかるので、嫌だったの。

 面白いと思ったから演出家は、その設定を選んだわけでしょう? ならば、日本人の観客に面白さをわかってもらおうと努力をしてほしいのよ。そのためには、自国で演出するのとは違う努力が必要となる。それが他国で演出する、ということなのではないかしら?
 努力したけど失敗してしまってる、というのとは、今回の舞台は違うと感じたわ。
 あのままでアメリカ人は面白さをわかるんだよ、っていうんなら、向こうで上演してるものをそのまま来日させればいいわけなのでね。マダムだって、もしブロードウェイでこういう演出を見たら、別の見方、別の反応ができると思う。

 もしこれがシェイクスピアじゃなくて、三島由紀夫の戯曲だったら、演出家はもっと身構えるでしょう?
 シェイクスピアは自分たちのところが本場だから身構えがいらない、と思っていないかしら? それが嫌なの。そして、依頼する側も、そちらが本場なのでおまかせしますっていう態度があるでしょ?(ミュージカルの時の作曲の依頼とかも、同じ精神構造が感じられるよ。)どっち向いて芝居作ってんの?と思うの。お金払って観てるのは、私たちです。
 
 ちなみに、これは役者さんたちを批判してるんじゃないんです。役者さんたちには全く関係がないこと(というか、どうしようもないこと)だから。
 むしろ、役者さんたちだけは私たち観客の方を向いてくれている、と思う(あたりまえのことといえば、そうなんだけど)。

 あー、またホントのこと、書いちゃったな〜。
 エネルギーがいるんで、大変なのよ、ホントのことを言うのって、ね。

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