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風間杜夫

最後のPARCO劇場は『ラヴ・レターズ』

 幾度この坂を登って、この劇場へ向かったのかしら。8月4日(木)ソワレ、PARCO劇場。

『ラヴ・レターズ』
作/A.R.ガーニー 訳・演出/青井陽治
出演 風間杜夫 伊藤蘭

 
 現PARCO劇場が、ビルの取り壊しに伴い、終わりを迎える。そのことはもう昨年あたりから知っていたので、やはり最後にお別れを言うつもりで、なにか観に行こうとは考えていたの。
 そして、この芝居!ラストにふさわしい観劇となったわ。
 
 『ラヴ・レターズ』は男と女二人だけの朗読劇で、25年以上続いたPARCO劇場の十八番なのに、マダムは初めて。最初で、最後になったわけ。
 もちろん、観たかったのよ、ずっと。すごく魅力的な組み合わせが何度もあったし。岡本健一✖️奈良岡朋子とか、浦井健治✖️中嶋朋子とか。けれど、平日だと難しかったり、それぞれ一度ずつの公演だからプラチナチケットになってしまい、手に入らなかったり。それで今回に至ったというわけ。
 今回のキャスティングも、それぞれの長い期間の固定ファンがいるので、客席は普段の芝居とは全く様相を異にしていた。キャンディーズ時代からのファンである大量のおじさんと、つか劇団時代からのファンである大量のおばさん(紛れもなくその一人であるマダム!)と、劇場のラストランにやってきた関係者に占拠され、一種異様な雰囲気。
 その雰囲気に影響されないようにしようと頑張ったけれど、1幕めの最初の方は、やっぱり負けてしまい、気が散っちゃった。それは残念ではある。
 
 幼馴染みのアンディとメリッサが、思春期から中年を過ぎ、メリッサに死が訪れるまで、やりとりした手紙を読みあうお芝居。舞台には椅子が二脚あり、そこに座った役者二人が、台本を手に、セリフを(というか、手紙を)読む。
 アンディ(風間杜夫)は、たぶん典型的なWASPの男の子なのね。真面目で、書くということが好きで、親から(社会から)与えられた道を踏み外さず、あまり疑問視することなく歩んでいく。有名大学→海軍→弁護士→上院議員だもんね。
 一方のメリッサ(伊藤蘭)は自由奔放で、手紙を書くことは苦手。彼女は美術の道に進み、一時はヨーロッパに渡り、個展を開いたり、才能を開花させるけれど、アルコール中毒になって、精神的に不安定になっていく。
 二人は若い時から惹かれあっていたのだけれど、アンディにはメリッサの奔放さを受け止めるほどの度量は全く無いし、メリッサのほうも、アンディと一緒に社会に適応していくことはできないの。それでも、やはり惹かれあって、終生つながっている。恋とか友情とかいう言葉では全てを表しきれないような、男女のつながりの形。

 マダムが強く思い出したのは、ロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドの映画『追憶』だった。もちろん、全く別のお話なのだけれど。でも、アメリカの男女の真実を描いているところは、同じなのではないかしら。
 
 
 手紙だけで構成されているので、やりとりのない内容は想像するしかないわけだけど、そこがこの芝居の魅力。それぞれがへそを曲げて返事を出さず、一方がずっと手紙を出し続けているときもあれば、互いにクリスマスカードしか出さない数年もある。結婚式への招待状もあれば、欠席のご連絡もある。アンディが、上院議員としての挨拶状をそのまま送って、メリッサになじられる時もある。音信不通の間に、入院していたり、離婚していたり、選挙があったりもする。
 そして、アンディにはメリッサを救うことはできなかった。彼女は自身のコントロールを失い、自滅していく。(彼女の死の原因は、二人の手紙の中には書かれない。)救うことはできなかったけれど、アンディもまた、彼女がいなくなったことで、埋めがたい喪失感を味わいながら、佇んでいるところで、芝居は終わる。
 
 これはね、キャスティングによっていかようにも変わる、とても魅力的な本だわ。
 今回の風間杜夫と伊藤蘭の組み合わせ。前半の、思春期のふたりは少し落ち着きすぎていて、それはやむを得ないのかな、と思われた。休憩を挟んで二幕になり、大人になってからのやりとりは、本当に聴かせた。これは、聞いている観客の年齢層のせいもたぶんにあったと思うわ。切なさが身にしみるのよ。一幕目のなんだか落ち着かない場内の雰囲気が、二幕では一転して、みんなが集中して芝居に吸い込まれていったの。メリッサが亡くなって、アンディが彼女のお母さんに書いたお悔やみの手紙を読むうちに、二人を照らしていた照明はどんどん暗くなって、アンディの心がしぼんでいくのが目に見えるようだった。
 
 
 マダムは長いこと、PARCO劇場(西武劇場)に通った。高校生の時、『ショー・ガール』を観に行った時からよ。何度通ったのか、もう数えようもない。
 渋谷駅からいろいろ道はあるけれど、ラストは、最初に歩いた通りに行こう、と思った。だから、公園通りの坂を登っていったわ。ああ、ここにはジャンジャンがあったんだよ。そしてそのうしろに山手教会があって。いつもその道を歩いて、劇場に行ったの。
 いい、お別れができたと思うわ。でも、凄く寂しくなってしまった。。
 マダムを芝居道に導いた渋谷は、なくなってしまうのかも。

『家庭内失踪』の主役は誰なのか

 久々に行ったら、リニューアルされてて、内装が綺麗になってた。3月12日(土)ソワレ、本多劇場。

 
『家庭内失踪』

作・演出・出演/岩松了
出演  小泉今日子 風間杜夫 小野ゆり子 落合モトキ 坂本慶介

 
 久しぶりの岩松了作品だ。
 シアターコクーンでの修羅シリーズ、最初観てたんだけど(風間杜夫VS堤真一だったから)、劇場が広すぎて。観る側の持ち出しになる緊張感に耐えられず、観なくなったの。それ以来だから、ずいぶん久しぶり。今回はやっぱり、本多劇場だっていうことが大きかったわ。岩松作品は、小さめの劇場でないとね。
 それでも、面白い!ときっぱり言える感じではなく、かといって、つまらん!と一刀両断もできない、どう書いていいか難しい後味なのよ。
 
 初老の野村(風間杜夫)は、最初の妻を亡くし、今は歳の離れた後妻の雪子(小泉今日子)と、古い家で二人暮らしで、すでに倦怠期。が、そこに先妻との娘のかすみが、夫と喧嘩して出戻ってきて、家には、娘の夫が放つ偵察係の男たちが、取っ替え引っ替え出入りするようになる。近所に住む望月(岩松了)も、家出して、こっそり自分の家(妻)を観察していて、その経過をいちいち報告しにやってくる・・・
 というような、岩松了らしい、特に起承転結とか山場とかのない、日常に練りこまれた皮肉とか悪意とか可笑しさを描き出そうとしている話なのだけれど。修羅シリーズはヤクザの話だったけど、今回は家庭が舞台なので、少しは理解できたわ。
 でも、一番の問題は、小泉今日子演じる後妻の雪子が何を考えているのかわからない、ってこと。
 そういう本だから、とも言えるけど、台詞では本音が描かれることのない岩松作品なのは周知のことで、乗り越えてわからせてほしいよね、演技の力で。雪子のシーンは、なんだか退屈だった。
 そこいくと、岩松了と風間杜夫の二人が並んで喋ってると、妙に面白い。やってくれる。どうでもいいような会話のなかにある可笑しさや真実を、チラチラと垣間見させてくれて、味わいがあるの。この二人は台本をよく理解してるんだと思う。てか、当たり前よね、片っぽは作家本人なんだもん。

 一番面白かったのは、セットだった。リビングルームと、廊下を挟んで野村夫妻の寝室ともなる和室が、左右に並んでるセット。開幕前は、リビングルームが見えていて、客電が消えて暗くなり、舞台が明るくなって芝居が始まった時には和室になってて、びっくり。後から仕掛けがわかったんだけど、暗転用の横移動を使ったのだった。やがて、芝居の最中に横移動させて、役者たちも和室からリビングに移動したり、途中で横移動を止めて、真ん中の廊下の部分で芝居したり。セットを替えるためにある仕組みを逆手にとって、舞台の幅を倍に広げて使って見せたのよ。長いこと芝居を見てるけど、こんなセットは初めて。しかも、このゆっくりした移動のテンポが、岩松作品にぴったりなの。これには感心したわ。
 
 客席は土曜日ということもあって、満員。中高年が多く、しかも男性率がけっこう高かった。これは岩松作品のファン、ではなく、風間ファン、でもなく、キョンキョンのファン、ということなのかしら? でもマダムは、小泉今日子の舞台、あまりいいと思ったことがなくて。今回も、うーん、下手ではないが、よくもなかったの。50歳とは到底信じられない可愛さなのは確かだし、その姿を見てるだけでいいというファンがいるのもわかるけれど、それでもつのは最初の10分くらいだから。
 テレビドラマでは魅力的だったりするので、声のせいもあるかな。舞台では、くぐもってるように聞こえるよね。
 演出家も、天下のキョンキョンには遠慮してるのかな、とさえ、思ってしまった。雪子の考えがわからなくても、小泉今日子が魅力的だったらそれで良しとしてるところがあるのでは?
 いろいろとモヤモヤしてしまう観劇後だったわ。
 でもまあ、シアターコクーンみたいな広すぎる空間じゃなくて、よかった。エネルギー持ち出しにはならず、トントンくらいで済んだような気がする。

『熱海殺人事件』おまけ

 マダムの人生で3度の『熱海殺人事件』観劇の記録を、ここに載せるね。
  自己満足!Img_0524

いのうえひでのり版『熱海殺人事件』

 とうとうその日がやってきた。12月12日(土)マチネ、紀伊國屋ホール。

『熱海殺人事件』
作 つかこうへい  演出 いのうえひでのり
出演 風間杜夫(木村伝兵衛)
   平田満(熊田留吉)
   愛原実花(片桐ハナ子)
   中尾明慶(大山金太郎)

 比べてはいけない。思い出してはいけない。でもそれは無理。見ないほうがいいの?でも、見ないのも無理。懐かしさをこらえるのも無理。
 なんとも言えない緊張感が自分の中にあるのをじっと堪えて、とうとうこの日が来たの。33年ぶりに『熱海殺人事件』を観る日が。
 マダムにとって、つかこうへい劇団解散後、初めて観る、つかこうへいの芝居でもある。解散後、マダムは一度も、つかこうへい作品を舞台では観ていない。

 この芝居については、ストーリーを説明しないよ。ちゃんとしたレビューでもない。もう、マダムの徒然なるままに。

 心の準備はできていたので、取り乱したりはしなかった。客電が落ち、暗闇に「白鳥の湖」が流れ始めたとき思わず、ああ、と溜息をもらしてしまいそうになったけれど、それを飲み込んだあとは、もう大丈夫だったわ。落ち着いて、楽しんで観たの。
 演出は、基本、つか版に忠実だった。衣装は色こそ違えど、木村伝兵衛はタキシード、熊田刑事はツイードっぽいスーツ、大山金太郎はつなぎ。ハナ子だけがミニスカポリスじゃなかったけど。音楽の入れ方や、それぞれの人物の登場の仕方、照明の当て方や、小道具など、「ああそうそう。こんな風だった」と頷くことしばしば。いのうえひでのりは、コアな、つかこうへいチルドレンだったのね。
 かといって、懐かしい昔を再現しよう、というわけじゃないのね。ちゃんといま見て面白い芝居を作る、ってことを普通に目指してもいて、そのさじ加減はかなり計算してる。だから、マルマンライターからジャスティン・ビーバーまで、時代の幅が限りなく広い演出だったわ。初めて観た人はどんなふうに思ったでしょう? マダムはこの芝居が血肉化しちゃってるので、そこはちょっとわからない。

 風間杜夫と平田満は演出を受けるまでもなく、かつてのまま演じてた。二人とも60を過ぎてるわけだから、全てがかつてのままってわけにはいかない。勢いもエネルギー量も。だけどそれを、蓄えた芸の力で補えばいいなんて思ってはいないようだった。つか劇団の芝居は勢いとエネルギーで出来てるわけだから。二人とも今の全力で、走ってた。それはやはり、昔のようにはいかないけれども。
 マダムが『熱海殺人事件』を見るのは、今回が3回目。1回目は1976年11月、2回目は1982年4月、そして今回。1982年の時、マダムは風間杜夫の木村伝兵衛を観て恋に落ちた。1週間くらいぼーっとなって、何も手につかなかったの。舞台上の風間杜夫と眼が合うと妊娠する、とさえ言われてた頃よ。あの時紀伊國屋ホールを覆い尽くしてた彼の妖気は、今はもうなかった。あれだけは、時代とともに消えてしまったんだね。(でもやっぱりマダムは風間ファンを辞める日は来ないと知ったの。)
 驚いたのは平田満。彼は1回目の1976年の時から熊田刑事なんだけど、ほとんど変わってない。最初からおじさんぽかったとも言えるけど、40年印象の変わらない役者って、なんなのかしら(毛色は違うけど笠智衆みたい)。そして今回しみじみとわかったことは、つかこうへいの芝居を支えてた大黒柱は、平田満だったんだ、ってこと。華やかさは他の役者に譲っていたけど、一番太い大黒柱は平田満だったんだ。
 
 若い二人の役者は、たぶんみっちりと稽古を積んで、いのうえ演出を体に叩き込んだのでしょう。なかなかよかった。愛原実花は上手くはないけど、立ち姿が綺麗で動きがシャープ。つかこうへいの娘と聞いたけど、似てなくて安心したわ。そして大山金太郎役の中尾明慶である。
 彼、本当に大変だったと思うんだけど、加藤健一の大山金太郎を見てないわけだし、大変さの重みを知りようもない。それがかえってよかったね。つか劇団なんて彼にとっては生まれる前の出来事な訳だから。
 彼がロックを歌いながら現れた時、観客の8割くらいが「あ、マイウェイじゃないのか」って思ったと思うけど、それだって知ったこっちゃないもんね。選曲はマイウェイじゃなくて、正解。加藤健一の深く丸みを帯びたシナトラばりの声があってこそのマイウェイだから。
 若い二人だけのシーン(熱海の海辺で殺人に至るまでの、切ない会話)は、初めて見るような気持ちになった。そしてこのシーンに真実があるからこそ、伝兵衛がどんなに過激なことを言おうと、熱海は成立する。
 
 面白く観たわ。そしてわかったことは二つあって。
 一つは、『熱海殺人事件』は古くない。細かな小道具などを今に合うように変えていくだけで、今も通用する芝居であるということよ。
 一つは、こんなに判りやすい芝居だったんだ、ということ。初めて上演された時には、誰も聞いたことのないセリフが飛び交っていたから、みんな驚いたわけだけど、あれから40年経ち、演劇界にも観客側にも、つかチルドレンが行き渡ったんだね。「つか語」「つか的切り返し」「つか的舞台効果」などがすっかり馴染んだってことよ。
 40年経って、とうとう『熱海殺人事件』は古典になったのだわ。
 

観客にしかなれなかった、つかチルドレンのために

 ここのところ体調優れず、気になっていたライブ上映も見に行かず、ブログも書けず、ダラダラしてたんだけど。でも、転んでもただでは起きないマダム。寝転がりながら、本読んでたの。出来たてホヤホヤの、つかこうへいの伝記(!?)。あまりにも面白く、最近、こんなに寸暇を惜しんで読んだ本など、他に見当たらないわ。
 


『つかこうへい正伝 1968-1982』

 長谷川康夫 著  新潮社刊(2015.11月)

 

 これはね、もう、マダムのようなつかチルドレンにとっては、待ちに待った本。分厚くて高いけど、つかチルドレンは絶対買うべし!マダムのブログからポチッと押して買うべし〜。よくぞ、書いてくれた、長谷川康夫。大変だったろうけど、この役目はやっぱり彼しか背負えなかったと思うわ。

 2010年7月、肺がんを公表していたつかこうへいが亡くなったあと、新聞やネットやテレビで、追悼の言葉や特集が乱れ飛んだわけだけど、どれもみな、マダムの心を代弁してくれることはなかったの。演劇はとてもマイノリティであるし、世間から見るとどうも、つかこうへいはまず「直木賞作家」らしい。マダムにとってはつかこうへいはつかこうへいなのに。そしてまた、演劇界に残された彼の功績を、私達は知っているけれど、形として残っているのはNHK所蔵の、最近の中継録画1本きりで。死後、すぐにそれが放映されて、「あ・・・、これを代表作と皆が思ってしまうのは、困るぞ・・・」とマダムは思ったのよ。思って、記事も書いた。
 また、若い役者たちは、異口同音につかこうへいへの感謝と、歯の浮くような絶賛の言葉を述べるだけで。褒め殺しっていう言葉をみんな知らないのかしら、と歯がゆかった。もう死んじゃった人を褒め殺しするなんて、この逆説、つかこうへいならどんな風にこき下ろしたかしらね。それとも、もう死んじゃったあとは、まんざらでもないのかしら。

 その後、「本当のつかこうへいの功績」をちゃんと語ってくれる人が現れるのを、マダムは待ってた。本当のつかこうへいの功績は、1982年のつかこうへい劇団解散までになされていると、マダムは思ってきたけれど、当時ほとんど子供として、ミーハー的ファンとしてしか存在してなかったマダムは、ブログで語る以上のことは語れない。だから、当時つか劇団にいた誰かが語ってくれるのを、待ってたの。

 だから、これは待ちに待った本。やっと、つかこうへいが演劇界に何を残したかが、正当に語られたの。
 ベタ褒めしてない。失敗は失敗と書き、迷惑は迷惑と書き、愚かは愚かと書いてるの。遠慮はしてない。だってそんな必要がどこにあるの? どれほどつかこうへい本人がはた迷惑な人であっても尚、凄かったことに何も傷はつかないんだもの。ただ、もちろん、ずっと迷惑かけられても凄い人のそばを離れられなかった長谷川康夫だから、許されることなの。そしてまた、彼にだからこそ、当時一緒に行動した誰もが心を開き、本音を語り、当時何が起こっていたのかが明らかになっていったのね。
 そして、この本のタイトルが端的に示している通り、つかこうへいの功績は、つかこうへい劇団が解散するまでにその殆どが積み上げられたと、著者もまた考えているの。だから、この本は、つかこうへい劇団が解散するところまででハッキリ、キッパリ終わっている。潔い! それでよい、とマダムも思ったわ。
 
 マダムが聞きたかった、加藤健一や風間杜夫や平田満や根岸季衣の、その時々の本音がちゃんと書かれている。それは単なる褒め言葉とかではなくて、疑問や戸惑いも含んだ真摯な言葉なので、つかこうへいとの物作りがどんなものだったかが、ちゃんと見えてくるのよ。
 
 つかこうへい劇団時代の舞台を記録した映像は、VAN99ホール時代の『ストリッパー物語』と、紀伊國屋ホールで客席から撮られた『いつも心に太陽を』の2本しかないとマダムは思ってたんだけど、この本によれば、稽古を撮った映像とか『弟よ』のテレビ放映映像とか、まだいくつかはあるらしい。ここまで色々と明らかになった以上は、全部一箇所に集めてアーカイブを作って欲しい。だって、あのときを知っている人たちも随分年取っちゃったんだもの。記録を残さなきゃ。(ちなみに、マダムはつかこうへいがらみの記事には全て「アーカイブつかこうへい」のカテゴリーをつけてる。マダム程度の記憶でも、記録として残したいという気持ちの表れよ。この際、アーカイブつかこうへいの記事もよかったらどうぞ。)
 
 この本が出たことで、やっとつかこうへいを追悼できた。そして、つかこうへい劇団が作り上げた一時代に出会ってしまったがために、こんなふうに生きてきてしまったマダムの、落とし前をつけてもらったような、今はそんな気持ち。
 みんなも、是非読んで、一緒に頷いてほしいわ。

再演した『バカのカベ』

 工事中の下北沢駅で、毎回迷っちゃう。4月29日(水)マチネ、本多劇場。

『バカのカベ〜フランス風』
作/フランシス・ヴェベール 訳・演出/鵜山仁
出演 風間杜夫 加藤健一 新井康弘 西川浩幸
   日下由美 加藤忍  声の出演/平田満

 再演である。初演(2012年11月)のとき、30年ぶりの風間杜夫と加藤健一の共演に、震えたの。(そのときのレビューは→「30年ぶりの加藤健一×風間杜夫」
 初演の時にストーリーなどは書いたので、今回は書かないね。
 初演のレビューを読み返して思うけど、マダムの中で30年ぶりの共演は、凄く凄く凄ーく重大な出来事だったのよね。だからもう、そのことで頭がいっぱいで、芝居を楽しむ余裕がなかったようなの。
 なので、再演してくれてよかった。今回は、そういう邪念(?)から自由になり、芝居そのものを味わうことが出来たの。そうしたら、実に楽しい、心の凝りをほぐすような芝居だった。
 細部に初演と違うところがあるのかしら? これと言って発見できなかったんだけど、でも、初演の時よりずっと、ふたりのノリがいいように思ったわ。初演の時には聞けなかったアドリブ(たぶん)も出てた。最大の山場(?)、腰痛で床に倒れてるピエール(風間杜夫)をフランソワ(なんて似合わない名前なの。加藤健一)が助けるつもりで余計に痛めつけちゃうシーン。ふたりの柔らかい動きに惚れ惚れしてたんだけど、ピエールが「そのでかい顔を近づけないで! なんてでかいんだ」と言った時には爆笑して涙が出たー。だって、確かに加藤健一、風間杜夫の1.5倍くらいの顔に見えたんだもの。
 
 1ヶ月前に同じ風間御大の芝居を観た時(レビューは→これ )、台本と御大の相性はバッチリだったのに、劇場や観客がどこかアウェイだった。少なくとも客席にいたマダムはアウェイ感に苛まれてたわ。
 それに比べ、今回の本多劇場のホーム感といったら! やっぱり風間杜夫には本多劇場や紀伊國屋ホールが似合う。(しかし、客席の平均年齢たかーい。そして男性の比率も普段より高かった。男の人、他の芝居も見ようよー。)
 
 劇場で渡されたチラシの中に、いま話題沸騰の「熱海殺人事件」の仮チラシもあった。そして同じ頃、加藤健一も自分の事務所の公演があるし、さらにクリスマスコンサートなるもの(!)までやるのよ。残念だけど、加藤健一の大山金太郎は100%ありえないわ。
 でも、それはそれで、いいじゃない? 30年前に封印されたつか劇団の、あの時だけ開いた特別なエネルギーの扉を、風間杜夫はもう一度開けてみたいと願った。加藤健一はそれはもう、開けなくていい、ほかに開く扉がいっぱいあるから、と思った。そういうことなの。時は流れたのよ。
 
 30年ぶりとかいう邪念から自由になった、なんて言って、全然自由じゃないマダム。12月の「熱海」を観たら、出来の良し悪しに関係なく、泣いてしまうのかもしれないわ・・・。

観るべきなのか、21世紀の『熱海殺人事件』

 驚くようなニュースが入ってきた。
 今年の12月、紀伊國屋ホールでつかこうへいの『熱海殺人事件』が上演される。
 演出はいのうえひでのりで、婦人警官役をつかこうへいの娘がやると言うことで、話題になってるらしいのだけれど、それはたいしたニュースではない。
 事件なのは、くわえ煙草伝兵衛を風間杜夫、熊田刑事を平田満がやるってことよ!
 もう一度言うよ。伝兵衛を風間杜夫、熊田刑事を平田満がやるの。
 こりゃ、大変だわ。どうしよう。

 マダムの観劇人生を支えてきた柱は2本ある。1本はシェイクスピア。そしてもう1本がつかこうへい。
 さすがのつかこうへいもシェイクスピアと並べて言われると、照れまくりそうだけど、人の人生はそれぞれだから、こういうことだってあるわ。
 マダムの場合、生まれて初めて劇場で観た芝居が、つかこうへい劇団の『熱海殺人事件』で、場所はまさに紀伊國屋ホールだったの。マダムが今ここにこうしてあるのは、あの日あの時あの場所で『熱海殺人事件』を観たから、なのよ。
 1本の芝居が、人の人生を決定づけてしまうことがある。あるんです。
 でもさ、それから既に○十年が経とうとしてるわ。
 つかこうへいも、もうこの世にない。
 ないからこそ、できちゃうんだろうけど、さて、これはマダムが観るべきものなの?
 正直、どうしていいのか、わからないわ。
 勿論、誰が考えたって、かつてのつか劇団時代の『熱海』とは別物なのよ。そんなことは、よーくわかってるし、チケット売り出しの時期まで、何度もマダムは自分に言い聞かせるに違いないの。
 観ても観なくても、後悔するような気がして、とても困るわ。
 とにかく、まだ時間はある。気持ちの整理をしてみよう。

華とリアリティと現実と 

 芝居は前楽を観るのがいちばんいい、と言われているらしいわ。その前楽で、観た。3月28日(土)マチネ、シアタークリエ。

『死と乙女』
作/アリエル・ドーフマン 翻訳/青井陽治
演出/谷賢一
出演 大空祐飛 豊原功補 風間杜夫

 予備知識はチラシに書いてある程度しかなかった。今回ばかりは少し勉強していけばよかったかしら。
 でも観ただけで、充分理解できてると思う。
 場所は、海辺のコテージ。テラスは海に面していて、潮騒が聞こえる。妻ポーリナはテーブルに食事を用意して、夫ジェラルドの帰りを待っていたのだけれど、車の音を聞いて怯え、棚の引き出しから拳銃を取り出す。果たして帰ってきたのは、ジェラルドで、車がパンクして、通りかかった男の車に乗せてもらい、送ってもらったのだ、と言う。そのお礼に日曜日、男を食事に招待したよ、と。
 何気ない始まりのように見えて、見知らぬ車が停まっただけで拳銃を取り出すポーリナの怯え方が、ただならぬストーリーを予感させるの。
 
 その夜、ドアをたたく音に起こされたジェラルドが、玄関を開けると、さっき自分を助けてくれた男ロベルトだった。ジェラルドは彼を家に招き入れ、もう遅いからと客間に案内して、泊める。そこで暗転して、何か一撃加えるガンという音がし、明るくなると、ロベルトが椅子に縛られ、さるぐつわを噛まされている。すごい急展開。
 そこからは一気に核心へ。
 ポーリナとジェラルドは、かつて国を覆っていた独裁政権に対し、反体制運動をしていた同士だった。ポーリナは捕まって、拷問され、強姦された経験があり、それでもジェラルドの名前を漏らさなかった。独裁政権が倒れ、ジェラルドは現政権の査問委員会の一員になろうとしている。かつての独裁政権に加担した人たちを捌く側になるのだけれどジェラルドは、復讐ではなく、民主的に、事実を明らかにしたいと考えていたの。
 それなのに、自分を道ばたで助けてくれたロベルトのことを、ポーリナは、かつて彼女を拷問し強姦した男だと言って、きかない。声も、喋り方も、匂いも、そしてなにより、ロベルトが乗っていた車にあった「死と乙女」のカセットテープが証拠だと言って。寝ているロベルトに一撃を加えて、椅子に縛り上げ、仰天するジェラルドの説得もきかず、それどころか夫にも拳銃を向けて、ポーリナは復讐を貫徹しようとするの。でもロベルトは一貫して、人違いだと訴える。
 ポーリナは、ロベルトを殺したい訳じゃない、と言う。全てを白状させ、書面にサインさせたら解放する、と言う。ジェラルドはロベルトが拷問した男かどうか半信半疑だけれど、拳銃を持ってるポーリナの本気に押されて、ロベルトに自白を強要するの。彼女の意向どおりに自白すれば、解放されるから、と。
 しかたなくロベルトは「自白」し、書面にサインする。これで終わりと思ったジェラルドがその場を離れた隙に、ポーリナは拳銃をロベルトに向けて復讐を遂げてしまう。ロベルトが本当に「その男」なのか、最後まで明かされないまま。
 幕がいったん下り、客席通路から正装したジェラルドとポーリナが現われて、査問委員会が成功し、民主的な政治が始まったとにこやかに告げる。けれど、その裏でポーリナは私的な復讐をしてしまっているし、ジェラルドもまた民主的でありたいという望みとは裏腹に、妻の復讐を隠蔽したまま、現政権の中枢に居続けることをえらんでしまっている・・・。
 皮肉で冷たい、希望の無い終わり方ね。
 残酷な痛めつけられ方をした人の、立ち直ることの困難さ。
 立ち直るために、結局は復讐を踏み台にしてしまう人間の弱さ。
 相手が本当にその罪を犯した張本人であるかどうかが、最後にはどうでもよくなってしまう狂気。

 
 セットの転換がなく、大きなアクションも無くて、台詞だけで紡いでいく3人芝居。演出は奇をてらわず、真摯に本に向き合っている感じがして、よかった。演出の谷賢一については、マダムは何年か前に注目して、何本か観ているんだけど、その頃に比べて、進化してるなって感じたの(←自分でも、何様のつもりだ?と思うけどさ)。
 だけど、この緊密で隙のない台本なら、観終わったあとの衝撃がもっと強くていいはずなのに、そうでもなかった。理解はしたけど、心揺さぶられるまでに至らなかったの。その要因を考えてみると。
 
 まず休憩が余計だったんじゃない?
 休憩を含めて2時間20分って・・・・。入れなければ2時間でしょ?蜷川御大の芝居だったら、「2時間経ってはじめて休憩」が普通なので、正直驚いたわ。休憩なんか入れずにたたみかけていったらよかったのに。せっかくの緊張が緩んじゃったのが残念よ。
 休憩を入れるのが、劇場側の要請だったのかしら。売店の売れ行きが・・・とかね。だけど、この台本を選んだ以上、そんな形式にこだわるのは潔くないよ。
 それから3人の役者の演技の種類が違ったの。演技に種類があるのか?って思うかもしれないけど、マダムはあると思うんだ。
 今回、我が風間杜夫がシアタークリエに登場すると知った時、正直戸惑ったの。彼が明治座に出た時とおんなじくらいに。彼の本質は小劇場にあると思っているからね、マダムは。そして、「死と乙女」の台本は凄く小劇場的なホンだと思うの。だから風間杜夫とホンの相性はよかった。そしてジェラルド役の豊原功補の演技も、リアルを追求する演技だったと思う。
 一方、大空祐飛は華があって、美しかったんだけど、台詞をうたうように喋る。リアルから少し浮き上がってしまう。演技の振幅も狭くて、泣いてても怯えてても強いままなのよ。男たち二人の演技とがっぷりよつにならない。それでも、劇場の持つ雰囲気は、彼女のものなんだよね。
 前楽を観たのはたまたまだったのだけれど、夜には千秋楽というこの日、客席は大空ファンが埋め尽くしてた(たぶん)。みんな、もっと違う種類の芝居を期待していたのじゃないかな。そこは断言できないけど。
 いろいろな要素が少しずつずれていたのかもしれない。1個1個が少しずつでも、全体としては大きな狂いが生じてしまったのかも。
 それでも今、この芝居を観られてよかった、とマダムは感じているのだけれどね。

風間杜夫の挑戦は続く

 車で劇場に行ったのって、初めてかもしれないわ。5月10日(土)マチネ、久喜総合文化会館大ホール。

トム・プロジェクトプロデュース 
風間杜夫ひとり芝居『正義の味方』
作・演出 水谷龍二
出演 風間杜夫

 
 5月から6月にかけて本多劇場で上演される新作を、他に先駆けて上演するというので、マダムは車を磨いて、風間杜夫に会いに行った。よく晴れて乾いた風が吹いて、ドライブには最高の日。
 しかしホールに足を踏み入れた瞬間、えっ、これは、ちょっと、うーん・・・と思ったの。
 大きすぎる。2階は無く、1階だけのホールなんだけど、1200席余の座席数。形は、赤坂ACTみたいなの。これで一人芝居は、かなりキツい。しかも客席はキッチリ前半分の席しか埋まってなくてね、後ろ半分は完全な空席なの。もちろん、それだって600人近い観客がいるわけなので、たとえばさい芸の大ホールやシアターコクーンなら、ほぼ満席なわけだけど。こりゃ、入れ物を間違ってるよ。
 ただ、同じ建物内の小ホールは300席のホールなので、それだと2回公演しなくちゃならない計算になるのね。つまり、ぴったりな感じのホールはなかったってこと。
 地方を回ろうと思えば、こういうことは往々にしてあることなのかもしれない。そんなこと気にしてたら、地方公演はできないからね、俺はやるよ、と風間杜夫が舞台裏で言ってるような気がしたわ。
 
 とある(たぶん東京の下町)昔ながらの風呂屋が舞台。その風呂屋の主、大角卯三郎、95歳は、腰が曲がった白髪(それも長髪、内田裕也みたいな)の老人だけど、かくしゃくとして、風呂の掃除をし、客を迎えては話をする。孫のような年齢の子供を励ましたり、同年齢のお婆さんたちを集めて番台の周りでボケ防止かるたをしたり、アルバイトの学生に瓶のコーヒー牛乳を勧めたりする。そういう日常のなかに、なぜ卯三郎がこの風呂屋をやっているのかとか、そもそも卯三郎という人はどういう人なのかが回想のシーンのように入れ込まれていく。
 前に一人芝居をしたのは2010年の11月の本多劇場で(その時のレビューは風間杜夫の稲妻に撃たれて その1その2 )、それから3年以上経ってるわけだけど、風間杜夫の動きの良さや、声の通り、そして一人なのに相手がいるように見えてくる上手さは健在だったの。残念なのは、劇場が広過ぎて、神通力をきかせるための結界の役割を果たしていないこと。風間杜夫のエネルギーが、むやみに広い空間に吸い取られてしまって、稲妻には至らなかったのよ。
 それと、初演の初日ということもあって、どこか手探りな感じもあって。どこからアドリブでどこから台詞なのか境目を見せない人なので、わからないんだけど、アドリブを入れるタイミングや内容も、まだ決めきれてないようだった。本多劇場に戻れば、その辺りはもっと調子が良くなるんじゃないかしら。
 
 少し疑問に思ったのは、台本。あまりにも、大衆演劇的なテイストになり過ぎじゃないかしら。前の「カラオケマン」シリーズも、いきなり三波春夫を歌ったり、なぜかフラメンコを踊ったり、大衆演劇的な(なんていうか、演歌歌手のショーの第二部かなんかみたいな)要素がありながら、ギリギリのところでちゃんと芝居として成立していたの。それは、主人公の牛山明の造形がちゃんとできていたから。人間臭くて、弱いところも馬鹿なところも情けないところもある中年男のキャラクターが描けていたから。
 それに比べると今回の大角卯三郎は、角がなさ過ぎる。誰にでもウケる都合のいい人物になっちゃってて、人間というより仙人みたいで。見た目も仙人みたいなんだけどね。
 だからところどころに見せる、戦争批判や、原発のことや、最近の風潮(?)への目線とかも、どうもとってつけたようになって、切れ味が悪い。
 正義の味方というには、どうも腰が引けてる感じに思えたのでした。
 
 でも出来立てのほやほやの新作だからね、これからどんどん変化して行って、風間杜夫らしい、エッジのきいたものになっていくかも。それを期待して、待っていようっと。
 
 

思いつきなマクベス その2

 衣装がスーツだったりトレンチコートだったりするのだから、普通に剣をさしてると変なのは、わかるんだけど。だけどね、傘での殺陣は、子供のごっこ遊びのようで、全然迫力も、緊迫感もないんだった。見立てっていうことを、勘違いしてるみたい。
 いい芝居なら、主人公が死に瀕すればドキドキもするし、死んでいくあわれに涙することもあるの。そういう気持ちを味わいたくて劇場に足を運ぶのよ。それがわかっていて、こんな演出なの?
 堤マクベスと白井マクダフの殺陣は、予定調和的にマクベスが刺されて倒れる。緊張感もないし、驚きもない。驚いたのはその後よ。
 倒れたマクベスの首が、勝ち誇るマルカム一派の前に投げ出されたその時、客席の後方隅から突然巨大な物体が現れたの。しばらく見つめて、それが直径2mくらいの堤マクベスの首であるらしいことがわかり、絶句。顔は堤真一そのものでは気持ち悪いからという理由からなのか、少しマンガっぽくて、トイ・ストーリーのウッディに似てたわ。その首がね、ビニール製のボールみたいにはずむの。役者たちがその首ボールを観客の頭上に運び入れ、観客は頭上に手をかざさせられて玉転がしさせられたのだった。首ボールは緩慢な動きで劇場を一周したんだけど、幸いにもマダムの席には来なかった。よかったわ、来なくて。来てたら、マダムがどういう行動に出たか、想像がつかない。怒りに駆られて、とんでもない方向へ突き出してたかも。首ボールが一周する長い長いあいだ、死んだはずの堤マクベスはなぜか、舞台の真ん中に一人たたずんでいた。表情からはなにも読み取れず、なんのために立っているのか腑に落ちないように見えたの。あまりにも意味不明な時間で、マダムは「早く帰りたいな」って考えていたのよ・・・。
 
 いろんな思いつきが詰め込まれたマクベスだったわ。もしこれがどこかの大学生の劇団がテントでやった芝居だったら、「マクベスを使ってこんな風に遊ぶのも、まあいいかな」と思えたかも。だけど、長塚圭史は名の知れた中堅の演出家だし、思いつきの中から芝居に寄与するものを選択できなきゃいけないでしょ。チケット代は決して安くはないし、わが風間杜夫をはじめとして、堤真一、三田和代、横田栄司、白井晃、中嶋しゅう、とマダムの大好きな役者も苦手な役者も、そろって芸達者でエネルギッシュな凄いメンバーなわけよ。役者同士の火花散る瞬間を観られたかもしれないのに。あまりにももったいない3時間だった。
 気がついたら、常磐貴子のマクベス夫人については何にも語ってないね。でももう、いいや。これ以上は言わずもがなよね。
 

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