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風間杜夫

早稲田大学演劇博物館主催「岩松了×風間杜夫×坂井真紀トークショー」

 何ヶ月も前から、この予定だけは決まっていた。12月11日(火)18:30〜。早稲田大学大隈記念講堂大講堂。

早稲田大学演劇博物館 2018年度 秋期企画展
 現代日本演劇のダイナミズム記念イベント トークショー
「逃げる劇作家、岩松了を追いかけて。」
 岩松了 風間杜夫 坂井真紀
 司会 徳永京子

 18時半ぴったりに司会の徳永京子が現れ、壇上に岩松了、風間杜夫、坂井真紀の三人を招き寄せてトークショーが始まった。のだけれど。
 スライドを使った「作家岩松了の軌跡と、日本演劇界に占める位置」みたいな徳永京子のレクチャーが延々続き、肝心のトークショーが一向に始まらない。なんと1時間半のうち最初の40分近くをレクチャーに費やし、しびれを切らした観客から「いい加減にしろ!」とか「作家自身に話させろよ!」とか「(おまえの)話なんか云々かんぬん」とかって怒号が飛ぶ惨状になり、「おおー!大昔の早稲田大学みたい!」とマダムはワクワクした。
 
 別に彼女が無駄話をしていたわけではない。内容は、岩松了の作品年表の説明や、岩松了の芝居が平田オリザや宮沢章夫と並んで「静かな演劇」と評されていること。でも、彼女に言わせれば、岩松了は平田オリザとは一線を画しているらしい。20年間くらい演劇論が書かれなかった日本の演劇界で、平田オリザの久しぶりの演劇論が実態以上に幅を利かせていて、岩松了がその仲間のように思われていることに、彼女は反論したいようだった。岩松了への思いが溢れてるのがすごーくわかる。
 だからマダムにとっては結構役に立つ話だったのだけれど、トークショーの運び方としては、いかにも不味いやり方。壇上でゲストを40分も黙って待たせておくのはダメでしょ。いっそのこと、最初から二部構成にして、一部でレクチャー、二部でトークショーとしておけば、客の怒りを買うこともなかったのではないかな。
 しかもスライドが、PCで書いたワード(?)の画面を写したもので、慌てて作った感満載。誤字はそのままだし、字が小さくて見えづらい。事前にみんなに紙で配ってくれた方が親切だったよね。
 この失敗は、彼女だけのせいじゃなくて、主催した演劇博物館側にも責任がある。もう少し学生が来ると思っていたのか、客層を読み間違えたのか、若い人向けのレクチャーのつもりだったかな、と。
 客席の年齢層はメチャクチャ高かった。マダムが若い方だったような気がしたのは、ただの勘違いかもしれないが。とにかく皆、暇な割には集中力が長続きしない年齢なのよ。目の前にゲストがいるんだから、早く声聞かせろ、って思うのは当然だよね。
 
 というわけで怒号の後、慌てて話を振られた風間杜夫は、いつものように穏やかに、でも茶目っ気たっぷりに話しだし、あっというまに場は和んだ。2008年の「恋する妊婦」で初めて岩松作品に参加したとき、台本はまだ半分くらいしかできてなくて、台本を手に持ちながら立ち稽古をしたこと。岩松演出は「千本ノック」と言われ、いいとも悪いとも言わずに「もう一回」「もう一回」と繰り返される稽古。若い役者はへろへろになっていく。実際、千本ノックを受けた坂井真紀は、意味がわからず、岩松了を睨んでたらしい。でも、風間杜夫はこの稽古にすぐ馴染んでしまったよう。
 人を褒めない岩松了も「つかさんのところでやっていた(テンションの高い)稽古と全然違う、台本を手に持ったままの稽古にも対応する風間さんって、なんて役者としての幅が広いんだ」と感心していて。すかさず「もっと褒めて」と風間杜夫。
 淡々と話しながらも、百戦錬磨の岩松了と風間杜夫の話は、ところどころ恐ろしく核心に触れる。(とてもじゃないが、割って入れない坂井真紀が気の毒だった。彼女には事前に話すことを用意してもらった方が良かったんじゃないかな。あの場で、ベテランの二人に並ぶような言葉を思いつけと言う方が無理よ。)

 どうして何回も同じシーンを繰り返すのか?と問われて岩松了は「役者が話す台詞には言葉の意味があるんだけど、なんども繰り返していけば、意味がだんだん無くなっていく」のが狙い、だというのね。人間は意味を伝えるために喋ってるわけじゃない、というのが岩松流の人間観なの。なるほど〜。
 風間杜夫も、「ひとりで台詞を全部おぼえていったところで、相手に向かって言ってみなきゃ、どんな意味になるのかはわからない」のだ、って言って演出家に同意してた。印象に残ってる台詞もいくつかあげて、言ってる内容とは裏腹の哀しさとかバカバカしさとかを役柄に感じながら喋った、と。

 昔々、劇団東京乾電池に岩松了が役者として参加し始めた頃、風間杜夫はつかこうへい劇団のスターで旋風を起こしまくってた。その二人が一緒に芝居を作る日が来ようとは、マダムも予想だにしなかったの。
 だけど、風間杜夫という役者の中には、芝居の中の人間関係をキャッチする嗅覚が昔からあって、つかこうへいとも岩松了とも芝居を作れる役者だったんだよね、きっと、はじめから。エキセントリックなエネルギーだけじゃ、70まで芝居を続けられやしない。
 岩松作品について、その稽古について、その台詞について語る風間杜夫を見ていたら、まあ、なんて芝居が好きな人なんだろ、って思った。40年近く前にこの人に惚れたマダムは正しかった。
 
 閑話休題。トークショーに話を戻すと。
 岩松了いわく「人は皆、事情があって、喋ってる」。これには笑った。
 つまり、その「事情」に興味があって、そこをめぐる人間を描きたいのね。「人は真実を語らない」とも言ってて。いちいち頷ける。
 あと一つマダムにとって印象的だったのは、彼が最初の作品「お茶と説教」を書いたときの話。
 東京乾電池という劇団は、それまで皆でエチュードをしながら芝居を作り上げていくスタイルだった。それに岩松了はうんざりしていて、「もうこの1作を作れたら、あとは芝居なんかやめてもいいや」と思って、思ったように書き、思ったように演出したのだそうだ。それがデビュー作「お茶と説教」。マダムは観ている。
 ああ、そんな風に思って作ったのか、と今更ながら感慨深い。だって、あの作品を境に、東京乾電池という劇団はすっかり違う劇団になっちゃった。すごくエポックメイキングだったの(そのときのことは、昨年の「薄い桃色のかたまり」の記事で書いた。興味のある方は読んでね→ここ )。
 あのときは、こっちの気持ちも準備が整わなかったし、岩松了も、誰にも理解されなくったっていいさ!って感じに意地悪だったから、いろいろとわからなかった。けど、最近はかなり面白いぞ、と思ってきてて。
 次の作品についてちょこっと説明してくれたら、メチャクチャ面白そうなの。嫌いなシアターコクーンだけど、行ってしまいそうだ。

普通の人々の物語『セールスマンの死』

 観たい芝居が立て込み、週末の数が足りない事態に陥った。11月15日(木)マチネ、KAAT神奈川芸術劇場大ホール。

『セールスマンの死』
作/アーサー・ミラー 翻訳/徐賀世子
演出/長塚圭史
出演 風間杜夫 片平なぎさ 山内圭哉 菅原永二 伊達暁 加藤啓 ちすん
   加治将樹 菊池明明 川添野愛 青谷優衣 大谷亮介 村田雄浩

 
 『セールスマンの死』といえば、新劇の中でも名作の誉れ高い作品ね。
 マダムはこれまでに一度しか観ていない。1985年1月14日、劇団民藝公演。演出と主演が滝沢修だった。場所はサンシャイン劇場。マダムは立見席。このとき滝沢修はなんと79歳。
 滝沢修翁は1954年に初めて『セールスマンの死』のウィリー・ローマンを演じたそうだけれど、そのときは46歳で、初老のウィリーをやるには若かったのかもしれない。けれどこの役は滝沢翁の当たり役となり、その後30年以上にわたって、ウィリーを演じた。最後に演じたのが1984〜85年にかけてではないかしら。だから、マダムはぎりぎり間に合ったの。立見席に滑り込めたのは幸運だった。
 マダムの記憶の中には、滝沢修の存在しか残っていない。あまりにも圧倒的な演技の稲妻だったので、その威力がウィリー・ローマンを強大で偉大な父親であるかのような印象を残したの。そしてその記憶とともに、『セールスマンの死』は滝沢修翁以外の役者にはアンタッチャブルな作品としてマダムの中で、ずっとしまいこまれてきた…。
 今回、風間杜夫がウィリー・ローマンを演じると聞いたとき、やっと、封印が解けた気がして。もう、別の『セールスマンの死』に出逢ってもいい頃だ。
 
 
 新しく翻訳され、長塚演出によって生まれ変わった『セールスマンの死』は身近で、ごくありふれた、普通の家族の物語だった。それがとても、とても静かに身に沁みた。
 セットは2階建てで、1階にダイニングと夫婦の寝室があり、2階には子供部屋があって、高さのあるセットだけど、壁は最小限で、開放的。廊下の奥は何も作りこまれていない。登場人物はその廊下を通って、自在に現れたり消えたりする。ダイニングから外へ出る玄関ドアも、枠の内側にはガラスもはまっていなくて、向こう側が透けて見える。リアルな家でもあるが、椅子の置き方一つでレストランにもホテルの部屋にも変化する機能的なセットでもあり。ダイニングのほぼ真ん中に置かれた冷蔵庫だけが現実的。それは何度も故障しているくせにまだ、ローンが終わっていない冷蔵庫なの。
 目を引くのは、床に、家の中を突っ切って奥へと向かう広い道路が描き込まれていることだ。道路の両脇とセンターに引かれている3本の白いラインが奥に向かって伸び、遠近法で閉じていくのが、照明の当て方によってぼんやりと浮かび上がる。マダムの席は2階だったので、その様子がよく見えた。
 風間杜夫のウィリーはその道路の一番奥から大きなトランクを両手にさげて、とぼとぼと歩いて登場する。運転してアメリカ中をセールスしてきたことの象徴としての道路。そして最後にウィリーが死の暴走を試みる道路。
 
 登場の瞬間から、ウィリーは疲れ果てていて、運転して遠くまでセールスに行くことなどもう出来はしない。妻リンダ(片平なぎさ)のいたわりの言葉も聞こえず、遮ったり、どなったり、全然違うことを喋りだしたり。妄想の中で兄(幽霊?)と会話したり。既にぼろぼろなのね。
 弱々しかったかと思うと、突然怒り出したり、妄想に突入したりするところは、風間杜夫の真骨頂。やっぱりこの人は狂気を演じてなんぼの人なのよ。
 風間杜夫のウィリーの造形のポイントは二つ。一つはほぼ認知症と言える「老い」。そしてもう一つは決して現実と向き合えない弱い人だ、というところ。滝沢修のウィリーにはどちらの観点ももっと小さかった。当時、認知症という言葉はなかったしね。父親が経済的のみならず精神的にも大黒柱である、という幻想が、今より強固だったしね。
 それと、長塚演出は、ウィリーの物語としてよりも、ローマン一家の物語として描いてる。特に息子たちの描き方がとても丹念で、唸った。長男ビフは、主役と言ってもいいくらい丁寧に描かれ、父親の盲目的な期待が、どれほど息子をスポイルしてきたか、どれほど息子の人生を台無しにしてしまったかが痛いほどわかり、終盤にかけてグイグイ胸に迫る。だから、最後ウィリーの死で終わり、それは悲劇なのだけれど、ビフは父親の期待というくびきから解放されて、そこは希望のように感じたの。父親の死と表裏一体の解放。残酷だけど、人生の真実でもあるよね。
 そこまで到達した長塚演出、見事だ。

 長男ビフと次男ハッピーが山内圭哉と菅原永二なので、観る前にマダムは「ハイバイなの?」とか思ったんだけど、この二人が素晴らしくて大正解だった。回想で子供の頃(高校生とか)も演るんで、そこもどうなの?と思ったけど、杞憂だった。やっぱりこれくらい芝居のできる人じゃないとダメだったんだね。若造を連れてこなくて正解!
 
 アーサー・ミラーがこの本を書いて70年近く経ってるけど、あまりにも日本の現状とぴったりなので、ドキドキした。家やら車やら電化製品(その象徴としての冷蔵庫)やらのローンに追われ、払い終わる頃にはもう定年が迫り、子供達は家を離れ、誰も住まない大きな家が残る…。まるで私たちじゃないの? そして出てくる男たちも皆、なんだか身に覚えのある男ばかりなのだ。
 今、マダムの周りを見渡した時、ウィリーのような男性はたくさんいると思うし、ビフのようにスポイルされてる男性もまたたくさんいると思うけれど、リンダのような女性はいないな(片平なぎさは好演だった)。
 現実と向き合えず、自分たちの弱さを直視できずにいる男たちはまだ沢山いるけど、それに一生つきあってあげる女はもういなくなった、ということかな。

風間杜夫の飽くなき挑戦『ピース』

 チェーホフの翌日はこれ!9月3日(日)マチネ、俳優座劇場。

風間杜夫ひとり芝居 『ピース』
作・演出/水谷龍二

 前回のひとり芝居の上演の時、さすがにもう、これで打ち止めかしら?と考えたマダムは、ファン歴35年以上とかのくせに、風間杜夫のことをちゃんとわかってなかった。きっとこの人は、足腰立たなくなるまでやるつもりなのだ。
 これまでのひとり芝居はずっと本多劇場だったのに、今回は俳優座劇場。久々に行ったら、ホントに古くなっててね・・・1階にバーがあるお洒落な劇場で、ロンドンの古式ゆかしい劇場にも似た作り。なのに、古くなると、味が出るというよりただ古びてしまうのは、どうしてなのかしら。ロンドンのようにはいかないの。
 でも、芝居が始まると、そんなことはすぐに忘れた。
 

 今度の主人公は、葬儀屋の男。その設定だけで、最初マダムはひとりでウケていたの。だって、マダムの住む辺りでは、風間杜夫はとある葬祭ホールのCMに出ていて、「顔」だから。
 だけどお話が進むにつれ、マダムは唸った。風間杜夫はCMに出ながら、その仕事を観察して「使える!」と思って設定に選んだに違いないわ。前回の風呂屋の番台にいるお爺さんの役よりも、何倍も、社会にコミットできる設定なの。
 だって、死っていうものは、その人の人生を浮き彫りにするものね。
 
 東京の下町で小さな葬儀社を営む男、武藤万作。後を継ぐ修行中の娘を連れて、葬儀を取りしきっている。今にもマイクを持って歌いだしかねない感じ(実際歌うシーンもある)で、笑わせてくれるけれど、既に「ひとりなのに共演者がいる」感が立ち込めてる。相談に来る客や、ハラハラしながら父の仕事を手伝っているらしい娘などが、同じ舞台上にいるような気がしてくる。ひとり芝居にコツ、のようなものがあるとすれば、もうすっかり掴んでいるの。役者も、そして観客の側も。
 場面転換の間に2年が過ぎ、妻と娘は事故で死んでいて、万作はすっかりやる気を失って、飲み屋に入り浸る。気遣うバイトの店員は、片言の日本語を話すシリア人の若者で、万作は少しずつ立ち直っていく。そして、その若者が死んで、身寄りのない彼の葬儀を引き受け、ラストには自分の生前葬をやるところまで、話は進んでいく。
 
 今の社会に対する疑問や意見などが、ストレートに盛り込まれていて、かなり未消化なところがあるものの、とにかく疑問を隠さずにまな板に上げようという態度なのね。そこは前回より、一歩踏み込んでる。いつものようにこれから2年くらいかけて、地方公演も打っていくのだろうし、その間にもっとこなれたものになっていきそう。
 なんかね、今をちゃんと捉えた本を、やりたいんだな、と思った。
 役者は役が来るのを待つ身な訳だけど、風間杜夫をもってしても、待ってるだけじゃ満足できないの。だから、ひとり芝居、やるんだね。
 先に足腰立たなくならないよう、マダムも精進する。

最後のPARCO劇場は『ラヴ・レターズ』

 幾度この坂を登って、この劇場へ向かったのかしら。8月4日(木)ソワレ、PARCO劇場。

『ラヴ・レターズ』
作/A.R.ガーニー 訳・演出/青井陽治
出演 風間杜夫 伊藤蘭

 
 現PARCO劇場が、ビルの取り壊しに伴い、終わりを迎える。そのことはもう昨年あたりから知っていたので、やはり最後にお別れを言うつもりで、なにか観に行こうとは考えていたの。
 そして、この芝居!ラストにふさわしい観劇となったわ。
 
 『ラヴ・レターズ』は男と女二人だけの朗読劇で、25年以上続いたPARCO劇場の十八番なのに、マダムは初めて。最初で、最後になったわけ。
 もちろん、観たかったのよ、ずっと。すごく魅力的な組み合わせが何度もあったし。岡本健一✖️奈良岡朋子とか、浦井健治✖️中嶋朋子とか。けれど、平日だと難しかったり、それぞれ一度ずつの公演だからプラチナチケットになってしまい、手に入らなかったり。それで今回に至ったというわけ。
 今回のキャスティングも、それぞれの長い期間の固定ファンがいるので、客席は普段の芝居とは全く様相を異にしていた。キャンディーズ時代からのファンである大量のおじさんと、つか劇団時代からのファンである大量のおばさん(紛れもなくその一人であるマダム!)と、劇場のラストランにやってきた関係者に占拠され、一種異様な雰囲気。
 その雰囲気に影響されないようにしようと頑張ったけれど、1幕めの最初の方は、やっぱり負けてしまい、気が散っちゃった。それは残念ではある。
 
 幼馴染みのアンディとメリッサが、思春期から中年を過ぎ、メリッサに死が訪れるまで、やりとりした手紙を読みあうお芝居。舞台には椅子が二脚あり、そこに座った役者二人が、台本を手に、セリフを(というか、手紙を)読む。
 アンディ(風間杜夫)は、たぶん典型的なWASPの男の子なのね。真面目で、書くということが好きで、親から(社会から)与えられた道を踏み外さず、あまり疑問視することなく歩んでいく。有名大学→海軍→弁護士→上院議員だもんね。
 一方のメリッサ(伊藤蘭)は自由奔放で、手紙を書くことは苦手。彼女は美術の道に進み、一時はヨーロッパに渡り、個展を開いたり、才能を開花させるけれど、アルコール中毒になって、精神的に不安定になっていく。
 二人は若い時から惹かれあっていたのだけれど、アンディにはメリッサの奔放さを受け止めるほどの度量は全く無いし、メリッサのほうも、アンディと一緒に社会に適応していくことはできないの。それでも、やはり惹かれあって、終生つながっている。恋とか友情とかいう言葉では全てを表しきれないような、男女のつながりの形。

 マダムが強く思い出したのは、ロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドの映画『追憶』だった。もちろん、全く別のお話なのだけれど。でも、アメリカの男女の真実を描いているところは、同じなのではないかしら。
 
 
 手紙だけで構成されているので、やりとりのない内容は想像するしかないわけだけど、そこがこの芝居の魅力。それぞれがへそを曲げて返事を出さず、一方がずっと手紙を出し続けているときもあれば、互いにクリスマスカードしか出さない数年もある。結婚式への招待状もあれば、欠席のご連絡もある。アンディが、上院議員としての挨拶状をそのまま送って、メリッサになじられる時もある。音信不通の間に、入院していたり、離婚していたり、選挙があったりもする。
 そして、アンディにはメリッサを救うことはできなかった。彼女は自身のコントロールを失い、自滅していく。(彼女の死の原因は、二人の手紙の中には書かれない。)救うことはできなかったけれど、アンディもまた、彼女がいなくなったことで、埋めがたい喪失感を味わいながら、佇んでいるところで、芝居は終わる。
 
 これはね、キャスティングによっていかようにも変わる、とても魅力的な本だわ。
 今回の風間杜夫と伊藤蘭の組み合わせ。前半の、思春期のふたりは少し落ち着きすぎていて、それはやむを得ないのかな、と思われた。休憩を挟んで二幕になり、大人になってからのやりとりは、本当に聴かせた。これは、聞いている観客の年齢層のせいもたぶんにあったと思うわ。切なさが身にしみるのよ。一幕目のなんだか落ち着かない場内の雰囲気が、二幕では一転して、みんなが集中して芝居に吸い込まれていったの。メリッサが亡くなって、アンディが彼女のお母さんに書いたお悔やみの手紙を読むうちに、二人を照らしていた照明はどんどん暗くなって、アンディの心がしぼんでいくのが目に見えるようだった。
 
 
 マダムは長いこと、PARCO劇場(西武劇場)に通った。高校生の時、『ショー・ガール』を観に行った時からよ。何度通ったのか、もう数えようもない。
 渋谷駅からいろいろ道はあるけれど、ラストは、最初に歩いた通りに行こう、と思った。だから、公園通りの坂を登っていったわ。ああ、ここにはジャンジャンがあったんだよ。そしてそのうしろに山手教会があって。いつもその道を歩いて、劇場に行ったの。
 いい、お別れができたと思うわ。でも、凄く寂しくなってしまった。。
 マダムを芝居道に導いた渋谷は、なくなってしまうのかも。

『家庭内失踪』の主役は誰なのか

 久々に行ったら、リニューアルされてて、内装が綺麗になってた。3月12日(土)ソワレ、本多劇場。

 
『家庭内失踪』

作・演出・出演/岩松了
出演  小泉今日子 風間杜夫 小野ゆり子 落合モトキ 坂本慶介

 
 久しぶりの岩松了作品だ。
 シアターコクーンでの修羅シリーズ、最初観てたんだけど(風間杜夫VS堤真一だったから)、劇場が広すぎて。観る側の持ち出しになる緊張感に耐えられず、観なくなったの。それ以来だから、ずいぶん久しぶり。今回はやっぱり、本多劇場だっていうことが大きかったわ。岩松作品は、小さめの劇場でないとね。
 それでも、面白い!ときっぱり言える感じではなく、かといって、つまらん!と一刀両断もできない、どう書いていいか難しい後味なのよ。
 
 初老の野村(風間杜夫)は、最初の妻を亡くし、今は歳の離れた後妻の雪子(小泉今日子)と、古い家で二人暮らしで、すでに倦怠期。が、そこに先妻との娘のかすみが、夫と喧嘩して出戻ってきて、家には、娘の夫が放つ偵察係の男たちが、取っ替え引っ替え出入りするようになる。近所に住む望月(岩松了)も、家出して、こっそり自分の家(妻)を観察していて、その経過をいちいち報告しにやってくる・・・
 というような、岩松了らしい、特に起承転結とか山場とかのない、日常に練りこまれた皮肉とか悪意とか可笑しさを描き出そうとしている話なのだけれど。修羅シリーズはヤクザの話だったけど、今回は家庭が舞台なので、少しは理解できたわ。
 でも、一番の問題は、小泉今日子演じる後妻の雪子が何を考えているのかわからない、ってこと。
 そういう本だから、とも言えるけど、台詞では本音が描かれることのない岩松作品なのは周知のことで、乗り越えてわからせてほしいよね、演技の力で。雪子のシーンは、なんだか退屈だった。
 そこいくと、岩松了と風間杜夫の二人が並んで喋ってると、妙に面白い。やってくれる。どうでもいいような会話のなかにある可笑しさや真実を、チラチラと垣間見させてくれて、味わいがあるの。この二人は台本をよく理解してるんだと思う。てか、当たり前よね、片っぽは作家本人なんだもん。

 一番面白かったのは、セットだった。リビングルームと、廊下を挟んで野村夫妻の寝室ともなる和室が、左右に並んでるセット。開幕前は、リビングルームが見えていて、客電が消えて暗くなり、舞台が明るくなって芝居が始まった時には和室になってて、びっくり。後から仕掛けがわかったんだけど、暗転用の横移動を使ったのだった。やがて、芝居の最中に横移動させて、役者たちも和室からリビングに移動したり、途中で横移動を止めて、真ん中の廊下の部分で芝居したり。セットを替えるためにある仕組みを逆手にとって、舞台の幅を倍に広げて使って見せたのよ。長いこと芝居を見てるけど、こんなセットは初めて。しかも、このゆっくりした移動のテンポが、岩松作品にぴったりなの。これには感心したわ。
 
 客席は土曜日ということもあって、満員。中高年が多く、しかも男性率がけっこう高かった。これは岩松作品のファン、ではなく、風間ファン、でもなく、キョンキョンのファン、ということなのかしら? でもマダムは、小泉今日子の舞台、あまりいいと思ったことがなくて。今回も、うーん、下手ではないが、よくもなかったの。50歳とは到底信じられない可愛さなのは確かだし、その姿を見てるだけでいいというファンがいるのもわかるけれど、それでもつのは最初の10分くらいだから。
 テレビドラマでは魅力的だったりするので、声のせいもあるかな。舞台では、くぐもってるように聞こえるよね。
 演出家も、天下のキョンキョンには遠慮してるのかな、とさえ、思ってしまった。雪子の考えがわからなくても、小泉今日子が魅力的だったらそれで良しとしてるところがあるのでは?
 いろいろとモヤモヤしてしまう観劇後だったわ。
 でもまあ、シアターコクーンみたいな広すぎる空間じゃなくて、よかった。エネルギー持ち出しにはならず、トントンくらいで済んだような気がする。

『熱海殺人事件』おまけ

 マダムの人生で3度の『熱海殺人事件』観劇の記録を、ここに載せるね。
  自己満足!Img_0524

いのうえひでのり版『熱海殺人事件』

 とうとうその日がやってきた。12月12日(土)マチネ、紀伊國屋ホール。

『熱海殺人事件』
作 つかこうへい  演出 いのうえひでのり
出演 風間杜夫(木村伝兵衛)
   平田満(熊田留吉)
   愛原実花(片桐ハナ子)
   中尾明慶(大山金太郎)

 比べてはいけない。思い出してはいけない。でもそれは無理。見ないほうがいいの?でも、見ないのも無理。懐かしさをこらえるのも無理。
 なんとも言えない緊張感が自分の中にあるのをじっと堪えて、とうとうこの日が来たの。33年ぶりに『熱海殺人事件』を観る日が。
 マダムにとって、つかこうへい劇団解散後、初めて観る、つかこうへいの芝居でもある。解散後、マダムは一度も、つかこうへい作品を舞台では観ていない。

 この芝居については、ストーリーを説明しないよ。ちゃんとしたレビューでもない。もう、マダムの徒然なるままに。

 心の準備はできていたので、取り乱したりはしなかった。客電が落ち、暗闇に「白鳥の湖」が流れ始めたとき思わず、ああ、と溜息をもらしてしまいそうになったけれど、それを飲み込んだあとは、もう大丈夫だったわ。落ち着いて、楽しんで観たの。
 演出は、基本、つか版に忠実だった。衣装は色こそ違えど、木村伝兵衛はタキシード、熊田刑事はツイードっぽいスーツ、大山金太郎はつなぎ。ハナ子だけがミニスカポリスじゃなかったけど。音楽の入れ方や、それぞれの人物の登場の仕方、照明の当て方や、小道具など、「ああそうそう。こんな風だった」と頷くことしばしば。いのうえひでのりは、コアな、つかこうへいチルドレンだったのね。
 かといって、懐かしい昔を再現しよう、というわけじゃないのね。ちゃんといま見て面白い芝居を作る、ってことを普通に目指してもいて、そのさじ加減はかなり計算してる。だから、マルマンライターからジャスティン・ビーバーまで、時代の幅が限りなく広い演出だったわ。初めて観た人はどんなふうに思ったでしょう? マダムはこの芝居が血肉化しちゃってるので、そこはちょっとわからない。

 風間杜夫と平田満は演出を受けるまでもなく、かつてのまま演じてた。二人とも60を過ぎてるわけだから、全てがかつてのままってわけにはいかない。勢いもエネルギー量も。だけどそれを、蓄えた芸の力で補えばいいなんて思ってはいないようだった。つか劇団の芝居は勢いとエネルギーで出来てるわけだから。二人とも今の全力で、走ってた。それはやはり、昔のようにはいかないけれども。
 マダムが『熱海殺人事件』を見るのは、今回が3回目。1回目は1976年11月、2回目は1982年4月、そして今回。1982年の時、マダムは風間杜夫の木村伝兵衛を観て恋に落ちた。1週間くらいぼーっとなって、何も手につかなかったの。舞台上の風間杜夫と眼が合うと妊娠する、とさえ言われてた頃よ。あの時紀伊國屋ホールを覆い尽くしてた彼の妖気は、今はもうなかった。あれだけは、時代とともに消えてしまったんだね。(でもやっぱりマダムは風間ファンを辞める日は来ないと知ったの。)
 驚いたのは平田満。彼は1回目の1976年の時から熊田刑事なんだけど、ほとんど変わってない。最初からおじさんぽかったとも言えるけど、40年印象の変わらない役者って、なんなのかしら(毛色は違うけど笠智衆みたい)。そして今回しみじみとわかったことは、つかこうへいの芝居を支えてた大黒柱は、平田満だったんだ、ってこと。華やかさは他の役者に譲っていたけど、一番太い大黒柱は平田満だったんだ。
 
 若い二人の役者は、たぶんみっちりと稽古を積んで、いのうえ演出を体に叩き込んだのでしょう。なかなかよかった。愛原実花は上手くはないけど、立ち姿が綺麗で動きがシャープ。つかこうへいの娘と聞いたけど、似てなくて安心したわ。そして大山金太郎役の中尾明慶である。
 彼、本当に大変だったと思うんだけど、加藤健一の大山金太郎を見てないわけだし、大変さの重みを知りようもない。それがかえってよかったね。つか劇団なんて彼にとっては生まれる前の出来事な訳だから。
 彼がロックを歌いながら現れた時、観客の8割くらいが「あ、マイウェイじゃないのか」って思ったと思うけど、それだって知ったこっちゃないもんね。選曲はマイウェイじゃなくて、正解。加藤健一の深く丸みを帯びたシナトラばりの声があってこそのマイウェイだから。
 若い二人だけのシーン(熱海の海辺で殺人に至るまでの、切ない会話)は、初めて見るような気持ちになった。そしてこのシーンに真実があるからこそ、伝兵衛がどんなに過激なことを言おうと、熱海は成立する。
 
 面白く観たわ。そしてわかったことは二つあって。
 一つは、『熱海殺人事件』は古くない。細かな小道具などを今に合うように変えていくだけで、今も通用する芝居であるということよ。
 一つは、こんなに判りやすい芝居だったんだ、ということ。初めて上演された時には、誰も聞いたことのないセリフが飛び交っていたから、みんな驚いたわけだけど、あれから40年経ち、演劇界にも観客側にも、つかチルドレンが行き渡ったんだね。「つか語」「つか的切り返し」「つか的舞台効果」などがすっかり馴染んだってことよ。
 40年経って、とうとう『熱海殺人事件』は古典になったのだわ。
 

観客にしかなれなかった、つかチルドレンのために

 ここのところ体調優れず、気になっていたライブ上映も見に行かず、ブログも書けず、ダラダラしてたんだけど。でも、転んでもただでは起きないマダム。寝転がりながら、本読んでたの。出来たてホヤホヤの、つかこうへいの伝記(!?)。あまりにも面白く、最近、こんなに寸暇を惜しんで読んだ本など、他に見当たらないわ。
 


『つかこうへい正伝 1968-1982』

 長谷川康夫 著  新潮社刊(2015.11月)

 

 これはね、もう、マダムのようなつかチルドレンにとっては、待ちに待った本。分厚くて高いけど、つかチルドレンは絶対買うべし!マダムのブログからポチッと押して買うべし〜。よくぞ、書いてくれた、長谷川康夫。大変だったろうけど、この役目はやっぱり彼しか背負えなかったと思うわ。

 2010年7月、肺がんを公表していたつかこうへいが亡くなったあと、新聞やネットやテレビで、追悼の言葉や特集が乱れ飛んだわけだけど、どれもみな、マダムの心を代弁してくれることはなかったの。演劇はとてもマイノリティであるし、世間から見るとどうも、つかこうへいはまず「直木賞作家」らしい。マダムにとってはつかこうへいはつかこうへいなのに。そしてまた、演劇界に残された彼の功績を、私達は知っているけれど、形として残っているのはNHK所蔵の、最近の中継録画1本きりで。死後、すぐにそれが放映されて、「あ・・・、これを代表作と皆が思ってしまうのは、困るぞ・・・」とマダムは思ったのよ。思って、記事も書いた。
 また、若い役者たちは、異口同音につかこうへいへの感謝と、歯の浮くような絶賛の言葉を述べるだけで。褒め殺しっていう言葉をみんな知らないのかしら、と歯がゆかった。もう死んじゃった人を褒め殺しするなんて、この逆説、つかこうへいならどんな風にこき下ろしたかしらね。それとも、もう死んじゃったあとは、まんざらでもないのかしら。

 その後、「本当のつかこうへいの功績」をちゃんと語ってくれる人が現れるのを、マダムは待ってた。本当のつかこうへいの功績は、1982年のつかこうへい劇団解散までになされていると、マダムは思ってきたけれど、当時ほとんど子供として、ミーハー的ファンとしてしか存在してなかったマダムは、ブログで語る以上のことは語れない。だから、当時つか劇団にいた誰かが語ってくれるのを、待ってたの。

 だから、これは待ちに待った本。やっと、つかこうへいが演劇界に何を残したかが、正当に語られたの。
 ベタ褒めしてない。失敗は失敗と書き、迷惑は迷惑と書き、愚かは愚かと書いてるの。遠慮はしてない。だってそんな必要がどこにあるの? どれほどつかこうへい本人がはた迷惑な人であっても尚、凄かったことに何も傷はつかないんだもの。ただ、もちろん、ずっと迷惑かけられても凄い人のそばを離れられなかった長谷川康夫だから、許されることなの。そしてまた、彼にだからこそ、当時一緒に行動した誰もが心を開き、本音を語り、当時何が起こっていたのかが明らかになっていったのね。
 そして、この本のタイトルが端的に示している通り、つかこうへいの功績は、つかこうへい劇団が解散するまでにその殆どが積み上げられたと、著者もまた考えているの。だから、この本は、つかこうへい劇団が解散するところまででハッキリ、キッパリ終わっている。潔い! それでよい、とマダムも思ったわ。
 
 マダムが聞きたかった、加藤健一や風間杜夫や平田満や根岸季衣の、その時々の本音がちゃんと書かれている。それは単なる褒め言葉とかではなくて、疑問や戸惑いも含んだ真摯な言葉なので、つかこうへいとの物作りがどんなものだったかが、ちゃんと見えてくるのよ。
 
 つかこうへい劇団時代の舞台を記録した映像は、VAN99ホール時代の『ストリッパー物語』と、紀伊國屋ホールで客席から撮られた『いつも心に太陽を』の2本しかないとマダムは思ってたんだけど、この本によれば、稽古を撮った映像とか『弟よ』のテレビ放映映像とか、まだいくつかはあるらしい。ここまで色々と明らかになった以上は、全部一箇所に集めてアーカイブを作って欲しい。だって、あのときを知っている人たちも随分年取っちゃったんだもの。記録を残さなきゃ。(ちなみに、マダムはつかこうへいがらみの記事には全て「アーカイブつかこうへい」のカテゴリーをつけてる。マダム程度の記憶でも、記録として残したいという気持ちの表れよ。この際、アーカイブつかこうへいの記事もよかったらどうぞ。)
 
 この本が出たことで、やっとつかこうへいを追悼できた。そして、つかこうへい劇団が作り上げた一時代に出会ってしまったがために、こんなふうに生きてきてしまったマダムの、落とし前をつけてもらったような、今はそんな気持ち。
 みんなも、是非読んで、一緒に頷いてほしいわ。

再演した『バカのカベ』

 工事中の下北沢駅で、毎回迷っちゃう。4月29日(水)マチネ、本多劇場。

『バカのカベ〜フランス風』
作/フランシス・ヴェベール 訳・演出/鵜山仁
出演 風間杜夫 加藤健一 新井康弘 西川浩幸
   日下由美 加藤忍  声の出演/平田満

 再演である。初演(2012年11月)のとき、30年ぶりの風間杜夫と加藤健一の共演に、震えたの。(そのときのレビューは→「30年ぶりの加藤健一×風間杜夫」
 初演の時にストーリーなどは書いたので、今回は書かないね。
 初演のレビューを読み返して思うけど、マダムの中で30年ぶりの共演は、凄く凄く凄ーく重大な出来事だったのよね。だからもう、そのことで頭がいっぱいで、芝居を楽しむ余裕がなかったようなの。
 なので、再演してくれてよかった。今回は、そういう邪念(?)から自由になり、芝居そのものを味わうことが出来たの。そうしたら、実に楽しい、心の凝りをほぐすような芝居だった。
 細部に初演と違うところがあるのかしら? これと言って発見できなかったんだけど、でも、初演の時よりずっと、ふたりのノリがいいように思ったわ。初演の時には聞けなかったアドリブ(たぶん)も出てた。最大の山場(?)、腰痛で床に倒れてるピエール(風間杜夫)をフランソワ(なんて似合わない名前なの。加藤健一)が助けるつもりで余計に痛めつけちゃうシーン。ふたりの柔らかい動きに惚れ惚れしてたんだけど、ピエールが「そのでかい顔を近づけないで! なんてでかいんだ」と言った時には爆笑して涙が出たー。だって、確かに加藤健一、風間杜夫の1.5倍くらいの顔に見えたんだもの。
 
 1ヶ月前に同じ風間御大の芝居を観た時(レビューは→これ )、台本と御大の相性はバッチリだったのに、劇場や観客がどこかアウェイだった。少なくとも客席にいたマダムはアウェイ感に苛まれてたわ。
 それに比べ、今回の本多劇場のホーム感といったら! やっぱり風間杜夫には本多劇場や紀伊國屋ホールが似合う。(しかし、客席の平均年齢たかーい。そして男性の比率も普段より高かった。男の人、他の芝居も見ようよー。)
 
 劇場で渡されたチラシの中に、いま話題沸騰の「熱海殺人事件」の仮チラシもあった。そして同じ頃、加藤健一も自分の事務所の公演があるし、さらにクリスマスコンサートなるもの(!)までやるのよ。残念だけど、加藤健一の大山金太郎は100%ありえないわ。
 でも、それはそれで、いいじゃない? 30年前に封印されたつか劇団の、あの時だけ開いた特別なエネルギーの扉を、風間杜夫はもう一度開けてみたいと願った。加藤健一はそれはもう、開けなくていい、ほかに開く扉がいっぱいあるから、と思った。そういうことなの。時は流れたのよ。
 
 30年ぶりとかいう邪念から自由になった、なんて言って、全然自由じゃないマダム。12月の「熱海」を観たら、出来の良し悪しに関係なく、泣いてしまうのかもしれないわ・・・。

観るべきなのか、21世紀の『熱海殺人事件』

 驚くようなニュースが入ってきた。
 今年の12月、紀伊國屋ホールでつかこうへいの『熱海殺人事件』が上演される。
 演出はいのうえひでのりで、婦人警官役をつかこうへいの娘がやると言うことで、話題になってるらしいのだけれど、それはたいしたニュースではない。
 事件なのは、くわえ煙草伝兵衛を風間杜夫、熊田刑事を平田満がやるってことよ!
 もう一度言うよ。伝兵衛を風間杜夫、熊田刑事を平田満がやるの。
 こりゃ、大変だわ。どうしよう。

 マダムの観劇人生を支えてきた柱は2本ある。1本はシェイクスピア。そしてもう1本がつかこうへい。
 さすがのつかこうへいもシェイクスピアと並べて言われると、照れまくりそうだけど、人の人生はそれぞれだから、こういうことだってあるわ。
 マダムの場合、生まれて初めて劇場で観た芝居が、つかこうへい劇団の『熱海殺人事件』で、場所はまさに紀伊國屋ホールだったの。マダムが今ここにこうしてあるのは、あの日あの時あの場所で『熱海殺人事件』を観たから、なのよ。
 1本の芝居が、人の人生を決定づけてしまうことがある。あるんです。
 でもさ、それから既に○十年が経とうとしてるわ。
 つかこうへいも、もうこの世にない。
 ないからこそ、できちゃうんだろうけど、さて、これはマダムが観るべきものなの?
 正直、どうしていいのか、わからないわ。
 勿論、誰が考えたって、かつてのつか劇団時代の『熱海』とは別物なのよ。そんなことは、よーくわかってるし、チケット売り出しの時期まで、何度もマダムは自分に言い聞かせるに違いないの。
 観ても観なくても、後悔するような気がして、とても困るわ。
 とにかく、まだ時間はある。気持ちの整理をしてみよう。

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