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藤原竜也

藤原ハムレット再見

 チケット、買ってあったから、も一度行ったわ。2月5日(木)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

 えっと、レビューは既に長いのがアップしてあるから、もういいわよね。
 そっちを読んでから、読んでね。
 二度目なので、気が向いた箇所をガン見するという手法で観てきたの。なので、気がついたことの羅列です。

 
 前回観たとき、台本がかなりカットされているなと感じて、どこだろうと気になってた。ので、今回、注意して観てみたの。カットがわかった箇所は、最初の、兵士達が亡霊を発見するシーンのホレイショーの長い台詞。それからポローニアスが、フランスに帰った息子の様子をこっそりスパイしてくるように家臣に命じてるシーンまるごと。それと、ローゼンクランツとギルデンスターンの二人の台詞はあちこち細かくカットしてあるかも。クローディアスとレアティーズがハムレットを陥れる相談をするところも小さなカットがあるし。
 個人的には、最初のホレイショーの台詞のカットは残念だったー。亡霊が現われた不吉な予兆を、ローマ帝国時代を引き合いに出して語るところで、シーザーの名前も出すんだよね。横田ホレイショーがついこの間までシーザーだったことはこの芝居とはなんの関係もないけど、個人的にはこの台詞、聞きたかったわ。それにね、ここでローマ帝国を引き合いに出したことは、最後のほうの台詞と呼応するように作られているんだと思うのよね。ホレイショーがハムレットと一緒に死にたいと言うとき「デンマーク人であるより、古代ローマ人でありたい」って言って毒酒を飲もうとするでしょ? 最初と最後で、対になってる台詞だと思うので、カットしないでほしかった。
 ポローニアスのシーンも、重要なのよ。これがあるから、ポローニアスのせこい用心深さがわかる。だって、がんばって行ってこい!って息子を送り出しておきながら、すぐ息子の様子をスパイさせるのよ? 心配してると言えばそうだけど、凄くみみっちいやり方なの。ポローニアスの人となりをよく表しているシーン。これが無いせい(だけじゃないけど)で、ポローニアスが普通の好々爺みたいになっちゃって。
 というようにね。台本のカットは難しい。
 『ハムレット』の台本は長いので、カットもやむを得ないことだと思うわ。だけど、話はつながっても、カットによって失われるものは必ずあるの。それが芝居全体に、ボディーブローのように効いてくる。
 
 平クローディアスのテンポはすこーしだけアップしてた。でも、ますますクローディアスに疑問がわいたわ。亡霊とクローディアスが同一人物に見えるんだもん。兄貴を暗殺した奴に見えない。なにか企んでるように見えない。この前提が崩れると、ハムレットは成立しないじゃない?
 
 満島真之介のレアティーズはヤンキーだねえ。そういう演出ならしかたないけど、狙いでそうしたのか、それとも、そうなっちゃったのか・・・。死の間際の「許しあおう」っていう台詞が、高い生まれの人たちどうしに聞こえないよ。
 さい芸の回廊のところで今、歴代ハムレットの写真展してるでしょ? 12年前の藤原ハムレットのフェンシングのシーンの写真もある。剣を構えるハムレットがこっちを見ていて、こちら側には白い服を着た人物の後ろ姿が大きく写っている。立ち姿が凛として美しく、貴族の生まれの匂いが立ち上る後ろ姿なの。顔は全く写っていないけど、これは井上芳雄。演技はうまくなかったけど、あのときのキャスティングは間違ってなかった、と立ち姿を見て感じたの。
 今回のレアティーズとハムレットのフェンシングのシーンは、ヤンキーな匂いがいっぱいよ。藤原竜也の運動神経がいいのは、再確認したけど。
 
 横田ホレイショーは、学者らしいつくり。凄く控えめに造形されていて、25日に観た時には、ハムレットが「君はしもべじゃなくて友人だ」って言うのが嘘くさかったの。完全にしもべっぽかった。でも5日に観たときは、より友人らしくなっていた。藤原ハムレットがちゃんとホレイショーを友人として扱い始めたのね。幕が開いて間もなくは、友人を見つめる余裕がなかったということかしら。
 ホレイショーも、最後の台詞に、より力がこもっていた。二人の関係は、5日の方がずっとよかったわ。
 
 マダムがいちばん可哀想に思ったのは、満島ひかりだ。
 満島オフィーリアは、演出家から放っておかれているのじゃない? 造形が全然定まらない。どうしていいかわからなくて、困っているかのよう。蜷川演出は、女優に冷たいわ。関心がないのかしら。
 藤原ハムレットのオフィーリアに対する演技も、なんだかぞんざいなのよ。ハムレットは大変な役で自分のことで精一杯かもしれないけど、他の役はともかくオフィーリアに対しては、もっと一緒に芝居を作ってもいいのでは?
 前回は気がつかなかったんだけど、例のスローモーションのシーン、オフィーリアはちょっとだけ参加してるのね。その場で、手をスローに動かして、ハムレットの方を見てるんだけど、すぐ後ずさりして消えてしまう。この演出の中途半端さはなに?何を表現したいのか、さっぱりわからないわ。

 
 さて、二回目の観劇で思いも寄らぬ発見があった。
 劇中劇のシーンで、ひな壇が出てきて、お内裏さまとお雛さまが段を降りながら台詞を言うじゃない? その間、他の人物はただ座ってるだけで、お飾りなんだけど。
 三人官女のひとりとしてじっと座っているのが、岡田正だったのよー。もう、オペラグラスでガン見。心の中でひとり大爆笑してたの。ほんとに楽しいったらない。
 こんなふうな、力の抜けた見方が出来ちゃうなんて、チケットを買った時には予想だにしてなかったよ。芝居に圧倒されて、倒れたかったのに。そのつもりの二度目だったのに。
 人生って上手くいかないわ。 

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その4

 えっと、その4から読まずに、その1から読んでね。
 
 

 
 マダムはこれまで、何本のハムレットを観たかしら。
 たいした本数にはならない。ハムレットをやれるタフで端正な役者はめったやたらにいるわけじゃないしね。
 ハムレットというとオフィーリア、と、すぐ名前が出てくるけど、この芝居は恋愛なんか描いていない。復讐劇っていう言い方もあるけど、復讐もなかなかしない。
 これは、行動できずにずっと頭の中でぐるぐる考えてばっかいるうちに、周りを不幸の連鎖に巻き込んでいってしまう、かなりダメダメな王子の物語。
 それなのに、ひとつひとつのシーンを丹念に積み重ねていくと、最後にハムレットが死んでホレーシオが「おやすみなさい、やさしい王子さま(たしかsweet prince)」って言うところで、もうどうしようもなく悲しくなって、ホレーシオと一緒に泣いちゃう。ダメな奴のはずなのに、その死がとても辛い。どこがsweetやねん!ていう王子なのに。
 だけど、今回、マダムは全然悲しくならなかった。
 悲しくならなかったのが、悲しかった。

 

 芝居を、マダムは1枚の織物によく例えるのだけれど。
 
 12年前の『ハムレット』は糸の材質も考え抜かれて選ばれ、きめ細やかに織り上げられていたわ。その中にあったからこそ、藤原ハムレットはハムレットたりえていたんだわ。あのハムレットはやはり金字塔だったのよ。(そのレビューは藤原ハムレットの衝撃と寂しさ その1その2その3 。この記事を読み終わったあとに、どうぞ)
 今回の『ハムレット』では、糸の1本1本の材質も太さも違い、織りも眼が粗かった。もともと力技な演出家であるから、眼が粗いことはしばしばあったけれど、今回は特別に粗かったよ。演技の質がバラバラで。舞台の上で、クローディアスはクローディアスであるより平幹二朗だったし、ハムレットはハムレットであるより藤原竜也だったし。
 それは、演出家がこれまで歩んできた道を思い起こさせたの。蜷川幸雄が広く人気を勝ち得たのは平幹二朗による『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『王女メディア』があるからだし、平幹二朗を失ったあと模索が続いた蜷川演出に再び人気をもたらしたのは、弱冠15歳の藤原竜也の『身毒丸』だったんだし。クローディアスの向こうに忠兵衛が見え、ハムレットの向こうに身毒丸が見えるような。
 その上に、次を託してみたい期待する若手をフォーティンブラスに据えたのね。ネクストの内田健司を特別な演出で忘れがたいものにしたのも、100%作品に寄与するためとは言えない、演出家の意図を感じるの(ぼんやりとだけどさ)。
 だから、悲しくならなかったのには理由があったの。マダムの前に広げられた織物は、ハムレットという名の織物じゃなかった。これは、ニナガワユキオという名の織物だったんじゃないか。
 それが、考え抜いたマダムの得た結論です。
 
 集大成って、そういう意味だったの?
 まさかね。

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その3

 しつこいようだけれど、ネタバレありなので、これから観劇予定の人は読んじゃダメ。観てから、また来てね。





 ツッコミどころ満載であっても、マダムはなぜ飽きること無く観続けることが出来たのかしら?
 いくつか理由があるとは思うのだけれど、一番は、それでも藤原竜也がハムレットに見えたから、なの。
 あー、もうここで、マダムがずっと抱えてきた思いを全部、書いてしまうよ。
 
 2005年9月、マダムは初めて藤原竜也の舞台を観た。蜷川演出の『天保十二年のシェイクスピア』、エネルギーに満ちた素晴らしい舞台で。いろんな意味でマダムにとってターニングポイントになった芝居なんだけれど、それはともかく、すでに圧倒的な人気のあった藤原竜也を、マダム自身が発見した瞬間だったの。
 以来、マダムは藤原竜也の舞台を全部、観ているわ。見逃してしまった『ハムレット』も『ロミジュリ』もちゃんと映像で観たし。でも映像で観たものは、本当に観たうちに入らない。
 そして10年近く追いかけてきたけれど、最初に観た「きじるしの王次」以上にマダムを感電させる演技は、現われなかった。もちろん、面白いものはいろいろあったし、期待し過ぎだったのかもしれない。マダムはだんだん失望するようになった。なにかが違う、と言葉にならない不満を抱えるようになった。それでも、彼の演じるシェイクスピアを生で観たいとずっと待ってたの。
 若い時にハムレットやロミオを演った役者に期待することは、年齢を重ねるうちに、その時々の最適な役を演じていってもらうことよ。たとえば、マダムにとって吉田鋼太郎との出会いは凄く幸福な出会い。オーシーノー公爵(十二夜)を観たとき、彼は22歳。以来、ハムレットもマクベスもリチャード三世も見せてもらったし、年を重ねてシャイロックもマルボーリオもリア王もフォルスタッフも見せてもらった。この後もきっと、またリアを見せてくれると思っているしね。そんな風に、役者と一緒に年齢を重ねていけたら、マダムは年を取ることは怖くない。
 だから、藤原竜也がシェイクスピアを演じるのをずっと待っていたし、『ジュリアス・シーザー』のアントニーを演じることがわかった時の、期待の大きさがわかってもらえるかしら? そして彼がずっとぶつかったまま乗り越えられずにいる壁を今こそ乗り越えてほしいと、拳を握りしめて芝居を観たのよ。だけど結果はいまいち。格好いいのよ。格好はいいんだけど、アントニーの生命線とも言うべき演説がさ・・・。
 なので、マダムは今回のハムレット、期待より不安の方が大きかった。ハムレットは台詞の人だし。
 それがね。現われた藤原ハムレットは、「ジュリアス・シーザー」のときの定まらないアントニーとは違って、ハムレットだったー。不思議なくらいハムレットが似合うの。ただ、台詞術は12年前とあまり変わらない。12年前にすでに出来上がっていたとも言えるし、12年間積み上げたものが少ないとも言える。それなのに、どうして、ハムレットに見えるのかしら? 逆に不思議でしかたなかったわ。それで、芝居を観ながら、観たあとも、ずっと考えていたの。
 もちろん、主役を引き受けるだけの覚悟とかオーラとかエネルギーとかは、さすがなの。でもそれだけでハムレットが似合うわけもないでしょ。
 考えた末に思い至ったのは、かなり皮肉な結論。
 藤原竜也にマダムが感じていた壁の正体は、「相手との通いあいの欠如」だった。彼の台詞はいつも、相手がいる時も、独り言っぽいの。本来、台詞は、話しかける相手が違えば変わってくるでしょう? 相手の反応が違えばまた、変わっていくでしょう? でも彼の台詞は、相手が違ってもあまり変わらないのよ。変われない、のかな。
 だからアントニーの演説は、彼にとって最大の壁だったに違いないわ。だって、演説は独り言じゃないもん。相手の反応を見ながら、説得しなくちゃならないんだもん。
 ところがハムレットの台詞はね、ほとんど独り言なのよ。しかも、相手がいる時でさえ、ハムレットはどこか上の空なの。半分独り言みたいに喋ってる人なの。だから、壁を乗り越えてない藤原竜也の台詞術が、かえってハムレットにぴったりだったのよ・・・。
 
 身も蓋もないことを言ってしまったかもしれないわね。
 でも、10年近く藤原竜也を見守ってきたのだから、嘘をつくわけにはいかないの。
 その4では、総まとめします。
 あー、倒れるかも、マダム。

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その2

 まさかその2から読む方はいないとは思うけれど、今一度、注意喚起。この記事はネタバレ三昧ですので、これから観劇の方は、読むの禁止です!

 
 
 さて、フォーティンブラスについて。
 フォーティンブラスは、場面としては二回しか出てこない、言わばちょい役なのだけれど(そして、ちょい役としてしか扱われない演出もたくさんあるけれど)、これまでの蜷川演出のハムレットでは、とても重要な役として扱われてきてるのね。で、ハムレットの台詞をちゃんと聞くと、チラッとしか出てこない他国の王子がぴりっと効いてくる存在だってことは確かなの。1度目の登場のときにはハムレットに「俺はうじうじしてるだけなのに、あいつは一国の王子としてちゃんとやってるよなあ、若いのにさ(マダム超訳)」って言わせてるし、2度目のときはハムレット亡き後のデンマークを託されるんだから。
 でも、蜷川演出ではホンが示す以上のこだわりを演出家がもっているのがわかる。たとえば小栗フォーティンブラスはパンクロックみたいないでたちで現われて、死んだハムレットにキスしてたし、成宮フォーティンブラスはバイクで現われてライフルぶっ放したりした(見てないけど)。ムダに派手(@マダムM)とも言えるフォーティンブラスなの。
 今回の内田健司のフォーティンブラスも演出家のこだわりが激しく見えたのだけれど。マダムが名付けるとしたら「ひきこもりなフォーティンブラス」といったところかしら。ポーランドへ遠征軍を率いて進軍中のはずなのに、しゃがみこんで指で地面にお絵描きしてる(ように見えたけど?)。台詞はつぶやきなので、ほとんど聞き取れない。まったく意味不明。ここまで意味不明だと、面白いとも言えるわ。
 極めつけはラスト。またも意味不明な上半身裸で現われたフォーティンブラスの台詞は、やっぱりつぶやきで、全然聞こえない。(ムダに地味なフォーティンブラス!) ホレーシオが横田栄司でよかったわ。フォーティンブラスが締めくくらない芝居を、ホレーシオの台詞でちゃんと結着つけてくれたから。

 満島ひかりのオフィーリアはとにかく可愛らしかった。凄く可憐だった。なのに、葬儀の時、なんで役者じゃなくて人形なのか、凄ーく不思議だった。ハムレットを見るときマダムはいつも、ハムレットは本当にオフィーリアが好きだったのかしら?と半信半疑になるのだけれど、墓穴に飛び込んで彼女の遺体を抱き上げるのを見て、あー、やっぱりホントに好きだったんだ、って毎回思うの。でも、今回は満島ひかりの可愛らしい顔が見えず、人形相手のハムレットの演技はいまいち盛り上がらず。なんで人形なの?こんなところケチるところだろうか。
 
 これだけいろいろと疑問に思っても、飽きずに最後まで見続けたのはなぜかしら?
 その3で追求するわ。藤原竜也と蜷川幸雄とマダムとの総括になるのかも・・・。

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その1

 今年最初の観劇。期待と不安のいりまじった気持ちで出かけていったわ。1月25日(日)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。
 
彩の国シェイクスピア・シリーズ番外編
『ハムレット』
作/シェイクスピア 翻訳/河合祥一郎 演出/蜷川幸雄
出演 藤原竜也 満島ひかり 満島真之介 横田栄司 内田健司
   たかお鷹 鳳蘭 平幹二朗 ほか

 
 藤原竜也の12年ぶりのハムレットである。
 マダムは、12年前、見逃してしまっていて、このブログを始めた後に映像で見る機会があり、あまりの素晴らしさに膝が震えたほどだったの。
 今回、彼が33歳になって挑むハムレットを見るとき、12年前の(映像でしか見てないけど)と比べてしまうかもしれない自分を、どんな風に扱っていいか、困ってしまってね。だから、ブログでもその話題に触れてこなかったの。いつもなら、「キャーッ、藤原竜也のハムレット、遂に来たーっ」とかってはしゃぐところなんだけど、全然そんな気になれなくて、観劇の日が来るのをひとり身を潜めてじーっと待っていたのよ。
 それで、今、感想を書き始めると、怒濤のように言葉があふれそうだけれど、全てがネタバレになるので、観劇を予定している人は、事前に読むのは禁止。必ず、必ずここで引き返してね。観終わってから、読みにきてちょうだい。
 
 
 
 
 いいかしら?
 
 全体として飽きること無く楽しんで観たの。でも、期待していたような感動の嵐は吹き荒れなかったわ。
 そして、思ったことは大きく言って、ふたつ。ひとつは、蜷川演出に対するたくさんの疑問。もうひとつは、藤原竜也はなぜハムレットが似合うんだろうか、ってこと。ここはもう、腰を据えて、このふたつについて徹底的に書いちゃうからね。
 まずは、蜷川演出について、だ。
 
 劇場に着くと、舞台上にはなぜか下谷万年町のときみたいな長屋のセットが組まれていて、「日本で初めてハムレットが上演された頃に貧しい人たちが住んでいた長屋のセットで、私たちは芝居の稽古を始めます」というような前書きが日本語と英語で映されていた。蜷川演出のこんなサプライズはよくあることで、正直言ってマダムは飽きているのよね。ハムレットに長屋!?みたいな、なんていうか異化効果的なことを狙っているのかな、とも思うけれど、意外な組み合わせは化学変化を起こしてこそのことで、蜷川演出のなかで成功することもあれば失敗してる時も数多くあることなので。
 先に言っちゃうけど、長屋のセットは結局あんまり役立ってなかった。スモークが沢山たかれていて、セットが見えなくなることも多く、途中で長屋のセットだっていうことを忘れたし。そのセットのせいで、さい芸のステージの特徴である奥行きが使えず、役者の動きがちいさく感じられたしね。唯一、セットに組まれていた井戸が脚光を浴びる瞬間があったんだけど、それについてはまたあとで。
 それでセットが長屋ってことは、衣装も和風?と思ってマダムは脅えたね。かつてのNINAGAWAマクベスとかを思い出し、もうそれはいいです、って心の中で言ってたら、衣装は洋風で、ほっとしたわ。
 で、長屋の二階に先王の亡霊が現われて、お話が始まる!ってワクワクしたのも束の間、次のシーンで、あれ?と思ったのよ。
 テンポがメッチャ、遅いの。クローディアスが出てくると、物語のスピードに急ブレーキがかかるのよ。平幹二朗の台詞が、朗々として少し時代がかってるのはまあよしとしても、言葉は悪いけど、動きが緩慢。亡霊を演じてる時はテンポがピッタリなんだけど、クローディアスはもっと精悍であってくれないと・・・。あとで聞いたら、膝が悪いのだそう。そりゃ無理もない、80を超えられているんだもの。そのお年も素晴らしいキャリアに対してもマダムは敬意を表するわ。でも、クローディアスの演技が芝居全体にブレーキをかけてしまった事実に変わりはないの。演出家に訊きたいのは、今回のハムレットはいったい何歳の設定なの? それに対してクローディアスは何歳の設定なの?ってこと。
 致命的じゃないかと思われたのは、劇中劇を観たクローディアスが激怒し、それを見たハムレットとホレーシオが先王が暗殺されたと確信するシーン。またスローモーションを使ったのは受け入れるとしても、そのスローモーションにクローディアスが参加していなかったの。王と王妃が立ち去ってからスローモーションが始まるんだけど、切れ味が悪い。そりゃそうよね。悪事を暴いた側と暴かれた側が同時にスローに動くからこそ、表情や動きにそれぞれの思惑が読み取れて面白いのに。暴かれた側がさっさといなくなっちゃって、暴いた側だけでスローに動いたってさ・・・これも、後から考えたら、平幹二朗にはスローモーションの動きは無理ってことだったんだと思うの。ならば、ならばね。スローモーションという手段の方を諦めるわけにはいかなかったのかしら。こんな中途半端な演出になるより、別な方法を探せなかったのかしら。どうしてもクローディアスを平幹二朗でいくならば。
 全体的に、ハムレットやレアティーズのテンポと、クローディアスやポローニアスや墓堀のテンポが合わなすぎる(ポローニアスのたかお鷹はがんばっていたけどね)。なので、こちらの気持ちが乗っていきそうになったところで、沈んでしまうの。掛け合いが掛け合いにならないし。
 そんなクローディアスに見せ場を作ろうとしたわけではないと思うけど、ビックリする演出は、懺悔のシーン。クローディアスが一人祈っているところにハムレットが通りかかり、剣を構えて復讐しようとするんだけど、祈ってるところを殺すと天国に行っちゃうからやめるっていう、ちょっとまどろっこしい場面ね。たいていはひざまずいて祈ってるんだけど、平クローディアスは井戸のところで裸になって水をかぶるのよ!水ごり?みそぎ?みそぎなの、あれは? 確かに衝撃的なシーンだったよ。でもマダムは、大丈夫なの、平幹二朗?倒れちゃわないの?って気もそぞろ。凄く大切なシーンなのに、役者の体の心配しちゃってて、ハムレットの台詞が聞こえてなかったよ・・・はっきり言って悪趣味な演出だと思う。マダムは嫌いです。
 
 その2は、見たことのないようなフォーティンブラスについて、から。 

大人の男の格好良さ 『ジュリアス・シーザー』その2

 少し冷静になってきたような気がするので、芝居全体について考えてみるわ。
 ずいぶん昔に小田島訳を読んだけど詳細は忘れ、昨年こどものためのシェイクスピアで編集版を楽しく観た記憶が大きいせいか、今回、あれ?「ジュリアス・シーザー」ってこんな芝居だったの?って思うところがいくつかあって。
 
 まずは意外なほどシーザーがおびえているところ。権力者って、登り詰めたらいつ転落するかを考えるようになるのは世の常だけど、シーザーは王になる前に既におびえているんだよね。
 「3回王冠を捧げられたのに、3回とも払いのけた」って何度も出てくる逸話をマダムは最初、シーザー(とアントニー)の策略だと思っていたの。そうやって、自分は野心なんかないんだよーって皆を安心させとこう、っていうね。だけど、不吉な夢を見たり、占い師の予言に一瞬たじろいだりする横田シーザーを見てるうちに、あながち策略とも思えなくなってくるのね。
 ほとんど王に等しい権力を握ってても、ホントに王になることは、周りにとって脅威だし、本人にとっても、それを手にした時のおのれの変化が想像できずにたちすくんでる、という印象だったわ。最後の段を登ったら、もうそれ以上一段も上がることがない、そこでたじろぐ。シーザーは意外と繊細な人として描かれてるの。
 
 それから、あまりにも有名な演説のシーン。
 マダムは最前列だったから、ホントにローマ市民たちの中にすっぽり入ってしまって、間から顔を出してる野次馬のローマのおばさんみたいになってたの。臨場感は申し分なかったんだけど、阿部ブルータスと藤原アントニーの演説は、鮮やかに対照的、というわけではなかった。ふたりとも押し出しよくてかっこよかったんだけど、ほんのすこーしずつ足りないものがあるような気がしたわ。蜷川演出はビジュアルは申し分ないんだけど、台詞の言い回しは役者の力量にまかされてるところが大きいの。でもこの演説だけは、もっともっと細かくしつこく演出してほしかったな。どこがって言えないんだけど・・・強いて言えば、ブルータスも市民を前にしたらもっと必死さがあってもいいし、アントニーにはもっと情に訴える浪花節な感じがあってもよかったんじゃないかな。楽日へ向かっていくうちにそんな風になっていくかしら。
 結局、二人の演説競演の雌雄を決したのは、アントニーの能弁というより、シーザーの遺体だった。これ、効果抜群。アントニーが、シーザーの顔を覆っていた布を取り去るタイミングが、絶妙すぎる。あんなふうに血だらけのシーザーの顔を見たら、みんな「誰だ、こんな惨いことをしたのは!」ってなるよね〜。市民にシーザーの遺体を見せることを認めるなんて、ブルータスってどんだけお人好しなの?って思っちゃった。

 そして芝居の印象を決める後半、ブルータス陣営VSアントニー陣営の戦闘になっていくんだけど(そしてホンの一瞬しか見せてくれないんだけど、藤原竜也の殺陣のキレが際立っていた!)、またまた意外にも、物語の本筋はそこじゃなくて、ブルータスとキャシアスの男同士の関係をフォーカスしてるの。
 ブルータスとキャシアスは共通の敵シーザーを倒したあと、方針の違いがどんどん顕在化して、仲間割れ寸前の喧嘩になる。椅子だの机だのが宙を飛び交っているうちに吉田キャシアスまで宙を飛び、観ている方まで痛いくらいの大喧嘩のあと、二人は和解し、ともに戦うことを誓うのだけど、そこには既に死の影が忍び寄ってる。戦いの前に死を覚悟したキャシアスとブルータスは、別れの言葉を口にして、抱き合い、出陣していく。
 二人の男の、喧嘩と和解、友情、死出の道行きに引き込まれて見ていたマダムの脳裏によぎったのは、高倉健と池部良の姿。(ごめんなさい、読んでる方のほとんどがわからないようなたとえで。マダムもリアルタイムでは見ていない東映任侠映画。)なんていうか、痩せ我慢の美学。女は絶対入り込めない、男同士の熱い関係。
 でもシェイクスピアって醒めてる人だから、すべてを格好良くは終わらせないのよ。キャシアスは、負けてないのに負けたと思い込んで自害しちゃうの。最後の最後まで人間臭いキャシアスで、吉田鋼太郎の面目躍如。(だから、キャシアスはいい役だよ〜って言ったでしょう?)
 あー、面白かった。ワクワクドキドキ、興奮のるつぼの3時間だったわ。
 大人の男たちが格好良い舞台。ありそうで意外とないのよね、これが。

大人の男の格好良さ 『ジュリアス・シーザー』その1

 台風が遅れてくれてよかった。10月12日(日)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第29弾
『ジュリアス・シーザー』
作/シェイクスピア 訳/松岡和子
演出/蜷川幸雄 演出補/井上尊晶

 最近、楽しみ過ぎてテンションがおかしくなったまま観劇の日を迎えることが多くなってる。
 『ジュリアス・シーザー』もそう。衣装をつけた稽古場写真を雑誌で見ちゃったら、格好良過ぎて倒れそうになり、そのうえ本物からコメント来ちゃったりしたから、もうテンションうなぎ上りで。
 さらにチケットを改めて見たら、なんとB席。2列目だわ、すご〜い。って、劇場に行ってみたら、A列は存在してなくてB列が最前列であることを知ったの。絶句。
 階段状に組まれたセットは、マダムの足元まで切れ目なく伸びていた。なので、開演するなり林檎が転がり落ちてきてマダムのブーツに当たったのを皮切りに、1.5m先の吉田キャシアスと目が合いそうになったり、藤原アントニーの翻したマントが触れそうになったり、戦闘シーンで槍が頭上を通過したり、臨場感なんてもんじゃなく、臨場そのもの。特にシーザー暗殺の場面では、噴き出した血しぶきの宙を飛ぶ動線がありありと見え、キャーッと悲鳴をあげそうになってしまったくらい。
 なので、このレビューは、全然冷静じゃありません。そのつもりで、読んでね。

 とにかく、男たちがメッチャ格好良かったー。
 しょっぱなのシーザー、アントニー、ブルータス、キャシアスが揃ってるシーンは、もう眼福〜!! なんなの、あの格好良さは!純白の長いガウンのような美しい衣装。裾を翻して歩く大人の男の格好良さ。最近若いイケメンをそろえた芝居がいろいろあるけど、そんなの目じゃないわ。イケメンでも演技力の伴わない奴なんか、見なくて良いの。
 注目の横田シーザーは、貫禄充分。堂々のタイトルロール。凄く大きく見え、歩き方も重厚感みなぎってた。演技の大きさもそうなんだけど、実際かなり体重を増やして臨んだのではないかしら。もともと背の高い人だけど、横にも大きくなってて、どっしりした体躯とメイクがあいまって、これまで見たことのない横田栄司だった。タイトルロールだけど実は出番が多くはないので、現われただけで圧倒的な存在感を示さなきゃならない。精神的にも肉体的にも、何人もの男たちが寄ってたかってかからなければ倒すことのできない巨大な存在だってことを、体現してたわ。
 藤原アントニーは、ああ、やっぱりこの人は舞台の人、と思わせるオーラがあった。実はマダムは彼のシェイクスピアを見るのがほとんど初なの。ロミオもハムレットも映像でしか見てないし、ドーラン版ヴェニスはマダムの中ではカウント外なので。シェイクスピアの世界がとても似合う役者、と改めて思ったわ。それも、恋愛ものではなく権力闘争ものが実は向いてるのかも。金色の髪で白い衣装の裾をなびかせて歩く姿を、眼が勝手に追ってしまう。自分が舞台に出て行った時にはみんなが自分を見ていると、信じて疑ったことのない人のオーラなのよね。
 阿部ブルータスは、鍛えた身体が美しくて。台詞術はまだまだだけど、ブルータスの愚直さ、正しいことを求めてはいるけど人の心をわかってない武骨なところが、立ち姿に表れてて、ぴったりなの。
 そして吉田キャシアス。熱情あふれる男を演じると、この人は水を得た魚のよう。キャシアスが立っているだけで、不満が躯に充満しているのがわかるし、口を開けば、言葉の意味を何倍にもして手渡してくれる。キャシアスは物語を牽引していく役だけれど、役以上に、吉田鋼太郎がこの芝居をぐいぐい牽引していくのが、手に取るようにわかったの。
 
 芝居全体についてはその2で、ね。

まさかの横田シーザー!

 ビックリした。そして、にやにやしたの。やってくれるね、蜷川御大。
 10月のさい芸の『ジュリアス・シーザー』である。今日、メインのキャスティングが発表になったのだけれど、ちょっと、興奮したー!

ブルータス 阿部寛
アントニー 藤原竜也
キャシアス 吉田鋼太郎
シーザー  横田栄司

なのよ! 凄くない、これ? マダムは少し前に予想キャスティングを発表した(記事は「竜也&鋼太郎でシェイクスピアを」やることになった )のよ。そのとき、マダムイチオシのいい役は、キャシアスだよ〜って言ったの。そのいい役を横田栄司にやらせてねって言ってたの。
 ところがところが。皆の予想通りにいくのは御大の気に入らなかったのか、上記のような、予想を素晴らしく裏切る、素敵なキャスティングに! こりゃあ、観たい! もちろん前から観る予定にはしてたけれど、ますます観たくなったわ。
 吉田鋼太郎のキャシアス、今からワクワクだし。遂に来たね、横田栄司のタイトルロール。
 これこそ、正しい野心(これについてはこの記事 をコメント欄まで読んでくださいな)の賜物だわ。

「竜也&鋼太郎でシェイクスピアを」やることになった

 だいぶ前にマダムは「竜也&鋼太郎でシェイクスピアを」 という記事を書いた。興味のある方、まずは、お読みくださいな。

 読んだ?

 これを書いたのが2010年の9月だから、もう3年以上経ってしまったのね。すっかり諦めちまった頃になって、蜷川御大、やっとやってくれるの。今年10月のさい芸シェイクスピアシリーズ『ジュリアス・シーザー』。遅い!けど、やっぱり嬉しい。
 昨年、子供のためのシェイクスピアで観て以来、すっかり『ジュリアス・シーザー』の面白さに目覚めたマダム。今度のさい芸版は、藤原竜也&吉田鋼太郎のみならず、超絶技巧な役者がずらりと顔を揃えてて、舌を巻くわ。主役の阿部寛はまあ、あんな感じとして、藤原竜也、吉田鋼太郎、横田栄司、大石継太、ベテランのたかお鷹、間宮啓行、それに文学座の星智也も出る。蜷川本格組、全員集合よ〜。
 ということで、配役予想してみる。楽しいんだな、こういうのが。
 
 阿部寛・・・・・ブルータス(これだけは発表になってる)
 藤原竜也・・・・アントニー
 吉田鋼太郎・・・シーザー
 横田栄司・・・・キャシアス
 大石継太・・・・ルシアス
 星智也・・・・・オクタヴィアス・シーザー

 ってところかしら。
 阿部寛のブルータスはイメージ、合ってるわ。真っ直ぐで骨太で、無骨な感じ。筋を通しさえすれば、結果がついてくると信じてる人。一方のアントニーは、策士で、一見爽やかそうだけどウラがあり、舌先三寸な男。みんなが騙されちゃう口のうまい奴。ブルータスとアントニーが、鮮やかに対照的であることが、この芝居の肝なので、藤原竜也は相当がんばらなくちゃいけないわ。
 吉田鋼太郎=シーザーは、この顔ぶれなら間違いなしだと思うけれど、少し残念なのは、シーザーはタイトルロールのわりには早く死んじゃうのよ。マダムは吉田鋼太郎と藤原竜也のがっぷりよつを期待してたので、そこはちょっと無念。
 キャシアスはブルータスの盟友。この芝居の中で、役者なら誰でもやりたくなるような、いい役なの。例えば「ハムレット」でいえばホレーシオ、「ロミジュリ」でいえばマキューシオみたいな、ね。マダムは今回キャシアスを横田栄司にやってほしい、どうしても。ここは、予想というより願望で、横田栄司に1票!
 ルシアスはブルータスの忠実な従者。ずっとブルータスに付き添い、他の誰よりも忠実であることを最後の最後に示してみせる。皆の涙を全部さらっていくような役。大石継太で一度想像したら、もう他の配役が想像できなくなったー。似合い過ぎる。
 星智也は身長190センチくらいあるでしょ? 目立ちすぎて、普通の「部下」みたいな役はできないよ。なので、当然、シーザーの後継者、オクタヴィアス・シーザーで決まり。
 
 さて、本当の配役はどうなるかしら。蜷川御大はマダムの記事なんか読まないので、影響はないけれど、どうか、他の配役はどうでも、キャシアスを横田栄司でよろしくお願いしまーす。
 ホントはね、『ジュリアス・シーザー』のすぐあとに『アントニーとクレオパトラ』が観たいのよ。二つの作品は合わせ鏡、っていうか、本編と続編ともいうようなものだとマダムは考えてるから。『ヘンリ−6世』のあとに『リチャード3世』があるみたいにね。
 

『ムサシ』再再演

 気がつけば前楽日。10月19日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

『ムサシ』ロンドン・ニューヨークバージョン
作・井上ひさし 演出・蜷川幸雄
出演 藤原竜也 溝端淳平 鈴木杏 六平直政
   吉田鋼太郎 大石継太 白石加代子 ほか

 ムサシ、三回目ね。
 藤原竜也×蜷川幸雄の組み合わせで、あと何本やってくれるのかと考えると、新しいものにチャレンジしてほしかったな・・・などと思いつつ、律儀なマダムはさい芸まで出かけていったの。
 そうしたら、これまでとは違った、穏やかな喜びがあったので、自分でも意外だった。再再演を迎えて、このチームはもう、ほとんど劇団となっていたのよ。だから全員が勝手知ったる庭のように自在に動き回って、芝居が進んでいく。吉田鋼太郎、白石加代子といったベテランは、余裕綽々で遊んでいるかのよう。ベテランの域に達しつつある大石継太も揺るがぬ温かさ。盤石な安心感が劇場全体を包んでいて、客席も朗らかだったのよ。
 武蔵役の藤原竜也は、実年齢が役に追いついてきて、幼さがなくなり、剣豪らしくなっていたね。着物姿の身のこなしが素晴らしいのよ〜すり足の練習をするところの躯の切れ方の美しいこと。
 これがもし、佐々木小次郎役を小栗旬が降りることなくずっと演じていたら、このチームはどれほどの域に達したのかしら? そんなことをどうしても思ってしまったわ。ひとつの作品を同じメンバーで再演を繰り返してゆき、円熟の域に達する、っていうのも、芝居の楽しみのひとつかもしれないもの。
 もちろん、溝端淳平を責める気はないのよ。出来上がったチームに一人だけ新人として入ってきたのだから、よく頑張ってたなあと思う。でも、滑舌をなんとか修正して、言葉の意味を伝えるところまではできたけど、武蔵に対する憎しみが過ぎて恋のように求めている裏腹感が出せない。そこがこの役の一番面白いところだから、本人もきっと悔しいよね。これから地方と海外もあるから、どこまで到達するかしら?
 それでも、小栗小次郎を思い出させるシティボーイな小次郎で、それはとてもよかった。勝地小次郎のときのワイルドな感じから、またもとへ戻した演出。ホンの通りにやると、そうなるということかも。

 2009年3月初演、2010年5月再演、そして2013年10月再再演。ストーリーについては以前のレビューを観てね、と書こうとして、今、振り返って驚いたことに、初演のレビューをマダムは書いてない。体調を崩してブログを休んでたんだったわ。ムサシの直前に観た『春琴』のレビューも途中で止まってるくらいだから。
 ということで関連する過去の記事は『ムサシ』再見『ムサシ』ロンドン・ニューヨークバージョンを観るムサシのスアシ です。

より以前の記事一覧

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