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藤原竜也

『アテネのタイモン』二回目

 二回目の観劇。12月27日(水)マチネ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール。

 評判が良く、平日の昼間にもかかわらず満席で、当日券にもたくさんの人が並んでいたわ。
 芝居自体は初日の方が面白かったんだけど、それはやっぱり色々と初めて見る驚きとかドキドキ感が違うからね。二回目は逆にリラックスして観られたの。そうしたら、いくつか細かいことに気づいたりした。例えば、小さな役で台詞を言う人が違っていたり、踊り子たちがタイモンの周りに侍る形が変化してたり、火事の時赤い借用書の紙が舞い散るんだけど、途中から黒い紙に変わっていくのを確認できたり。火事の煙が今日は多いな、と思ったり。アペマンタスの纏う毛皮が熊っぽいのからキツネっぽいのに変わってたり。
 演技も日々、変化していくものなんだね。カッキーは通路での演技にすっかり慣れて、空いてる座席に座ってみたりしてた。マダムは通路脇の席だったので、彼がマントを翻しながら横を通るたび、いい香りがするなあ・・・なんて思ってた。

 プログラムは普通買わないことにしてるんだけど、今回は買ってよかった。凄く素敵な写真と、メインの四人のロングインタビューと、すべての役者さんの一言が載ってる。それと、吉田鋼太郎VS横田栄司、藤原竜也VS柿澤勇人の対談が載ってるんだけど!横田ファンはこの対談を見逃してはならないと思うわ。

 稽古場見学に始まって1ヶ月間マダムは、ほぼこの公演のために生きてきたので、いま、どっと疲れが押し寄せている。でも、心地よい疲れなので、このまま寝正月に突入するのもいいかしらね。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その2

 これほど1幕と2幕が、まるで別の芝居のようなテイストのシェイクスピア作品って、他にあったかしら?

 2幕は暗い森の中。セットが、ひんやりと湿気を帯びた深緑色で美しい。日本の森とは樹の姿が違うし、想像するアテネの森とも違い、一番近いのはイギリスの森、のような気がした。
 破産して、アテネの街を出て、タイモンは穴蔵暮らし。アペマンタスに似たボロをまとって、木の根を掘っては齧っている。アテネにいた頃の面影はない。そこへ次々と彼を知る人たちがやってきて、禅問答みたいな会話をする2幕が、圧倒的に1幕より面白いんだけど、それも1幕あってこそ。
 タイモンのところへは、アルシバイアディーズの一群が来て、アペマンタスが来て、強盗たちが来て、フレヴィアスが来て、画家と詩人が来て、元老院議員たちが来る。彼らとの長い不毛な対話。誰とも共感しない。台詞の連なりは、読んでも殆ど理解不能なのに、吉田鋼太郎の声で聞くと、タイモンの人間への絶望の深さ、人間的なものへの徹底した拒否がぐんぐん浮かび上がってくる。台詞がどんな感情から生まれているかを正確に読み取る優れた演出家と、それを正確に、しかもパワフルに演じることができる優れた役者。両方が彼の中に同居してる。ちょっと奇跡だ。だから、吉田鋼太郎演出の時、役者吉田鋼太郎も一番いい演技をするのね。
 
 藤原竜也や横田栄司とのがっぷり四つの会話を観たいというマダムの願いは、ついに叶えられたよ。藤原アペマンタスは1幕こそ苦戦していたけれど、タイモンとサシでの演技になった時、逃げることのできない対話の波に飲み込まれ、心を決めて身を任せたようだった。二人の会話は、人間を信じるなんてくだらないという一点で一致するんだけれど、タイモンは、だからこそもう生きないと決め、アペマンタスはそれでも生きると決め、互いを認め合って別れる(と受け取ったのだけれど、違うかしら)。ののしりあい殴り合って、最後に抱きあってしまった時、演技の高みに上り詰めたように見えて、マダムはちょっと、芝居の中身とは違う部分で感じるものがあったの。藤原竜也はこれでもう一度、舞台を面白いと思うようになれるだろうか。そうあってほしいのだけれど。
 横田フレヴィアスとタイモンのシーンは、他のどの対話とも違っていた。他の対話では常時主導権を握ってるタイモンが、ここでは受け身になるんだよね。気が触れたのか触れたふりしているのか、タイモンはフレヴィアスを知らないそぶりで逃げるけれど、横田フレヴィアスはタイモンを逃がさない。強靭な誠実さでタイモンの心をこじ開けるの。そしてタイモンの「正直な男がたった一人だけいる・・・その一人とは、執事だ・・・」という台詞で、こっちはフレヴィアスとともに、心の涙腺決壊だよ・・・。もう、このシーンは一切の雑音なく、芝居の中に入り込んで観た。なんかね、終わってほしくなかった、このシーンが(無理を言うな、無理を)。


 大劇場での演出は初めてだったけれど、よく知っているさい芸の空間をフル活用し、蜷川御大の遺産ともいうべきスタッフの力を借り、ベテランから若手まで共に歩んできた役者さんたちを集めて、隅々まで台詞術の行き届いた、美しくて面白い舞台が出来上がってた。凄く満足。
 最後に極々個人的なことをひとつ。30年来の友達が、初めてさい芸の大舞台を踏み、大事な役を演じるのを見届けたの。感慨ひとしお。長く生きてくると、こんな凄いこともあるのね。嬉しかった。

祝 第1回芸術監督作品『アテネのタイモン』その1

 初日前夜から興奮状態。自分でもよくわからないテンションに。12月15日(金)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第33弾『アテネのタイモン』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出・主演/吉田鋼太郎
出演 藤原竜也 柿澤勇人 横田栄司 大石継太 間宮啓行 谷田歩
   河内大和 松田慎也 浅野望 松本こうせい 星和利 杉本政志
   坂田周子 千賀由紀子 林佳世子 ほか

 待ったわ。
 待ちくたびれた、と言っていいと思う。
 吉田鋼太郎演出のシェイクスピアは、なんと 劇団AUNの『十二夜』以来、ほぼ6年ぶりなのよ(『十二夜』の翌年の『冬物語』の時は、母が亡くなって、マダムは観に行けず)。ほんとにもう、待ちくたびれたわー。ブログ10年やってんのに、半分以上は待ってたんだからね。
 そのうえ、読んでもよくわからない『アテネのタイモン』だし、劇場もいきなり4倍位大きいし、どうなるんだろう、って期待と不安が渦巻いちゃってこの1ヶ月くらい、マダムの心はさい芸のまわりをグルグル回っていたのよ。
 でも、待った甲斐があったー。面白かったー。吉田演出の真骨頂!
 マダムはずっと言ってたのよ。今、日本語で上演するシェイクスピアで一番面白い演出をするのは、吉田鋼太郎だって。それが証明されたのよ!どうだどうだ〜。

 このあと観ることが決まってる人は、ここで引き返してね。予習はいらないから。

 

 芝居は1幕と2幕に分かれているんだけど、お話も真っ二つに分かれている。
 1幕目は、アテネの街で裕福に暮らすタイモン(吉田鋼太郎)が客に贅沢なふるまいをし過ぎて破産し、誰も助けてくれないことを知って怒りが爆発するまで。タイモンの屋敷を舞台に、華やかで賑やかなシーンが続く。
 2幕目はうって変わって暗くて静かな森の中。人間に恨み骨髄のタイモンが森の穴蔵で暮らし、訪ねてくる人間と議論の末、次々追い返し、死んでいく(?)までを描く。

 幕開きが素晴らしいの。開演10分前くらいから舞台に役者さんたちが現れ始めて声を出して歩き回る。蜷川御大の舞台でよくあった、見慣れた、懐かしい光景。それだけで観客は喜んじゃって、吉田鋼太郎が現れたらもう拍手が起きちゃうし、そこへまた「ただいま」だなんて言うもんだから、客席はすでに歓喜の悲鳴。まあ、なんて心憎い演出なの。
 そして彼の「さあ、始めようか」の一声で、役者たち全員が舞台の前面にぎっしりと並び、挨拶とともに音楽がなって、一斉にみんな踊り始める。緊張を一気に解かれて、芝居の世界にサッと引き込まれる瞬間。
 このオープニングのダンス、華やかで本当に楽しい!まずはダントツに、ミュージカル出身の柿澤勇人の素敵さにシビれる。そしてもう一人の注目の人は河内大和。彼の美しい立ち姿と鍛えたキレの良さがなんと、ダンスに生かされるとは。すばらしー。
 役者さんたちによる芝居の幕開けを告げるダンスが、やがてタイモンの屋敷で開かれている宴のダンスとなり、お話が始まるこの出だし、つかみはバッチリだ。
 1幕目はとにかく嘘と追従のオンパレード。金のなる木ならぬタイモンに、びっしりと群がる人々。見え見えのお世辞や追従に、大枚叩いて饗すタイモン。お世辞にも歯が浮くけど、もてなすタイモンの台詞もまた「本気なのか?」と疑うような美辞麗句が並んでて、すごく人間関係が上っ面なの。その中で、浮かれてない人間が3人いるのね。哲学者アペマンタス(藤原竜也)と軍人アルシバイアディーズ(柿澤勇人)と、タイモンの執事フレヴィアス(横田栄司)。
 藤原アペマンタスは1幕目はちょっと苦戦してた。華やかな人々の中たった一人ボロを着て歩き回り、皮肉な言葉を投げるんだけど、ほとんどが相手がいない状態で喋らなくちゃならない。すると、彼の台詞術のクセで詠ってしまうのね。でもアペマンタスは皮肉屋だから、詠うのはちょっと違うとマダムは感じたの。もっと、カラッとドライでいいのではないかしら。
 アペマンタスは哲学者ゆえにタイモンたちと逆の意味で浮世離れしてる。なので、ほんとに真っ当な感覚でいるのは執事フレヴィアスだけ。横田フレヴィアスの台詞は、1幕目のなかで際立つ、心に嘘がない台詞。似合いすぎ。優しい役柄を、演じる役者がさらに優しくする。
 アルシバイアディーズは軍人だから浮かれてない。カッキー、堂々のシェイクスピアデビュー。彼だけ別の展開があって、アテネの元老院と対立して追放を命じられ、怒りまくるシーンがあるんだけど、台詞が見事で、舌を巻いたよ。かっこいいし。ようこそ、シェイクスピア界へ。メッチャ、歓迎する〜!
 
 お世辞と追従の波のあと、破産寸前のタイモンに対して、手のひらを返したように冷たくなる人々。描写がくり返しになって、本だと退屈に思えるのだけれど、舞台は演出のアイデアがいっぱいで、飽きなくて、わかりやすくて、笑っちゃうところもたくさんあって。タイモンからの借金の申し入れを断る人々は、カウチに寝そべってワイン飲んでたり、風呂入ってたり、酒場でクダ巻いてたりする。演じる谷田歩、杉本政志、松田慎也も皆テンポが良くてノリが良くて、すごく楽しい。
 そして、誰からも援助が得られないとわかって、人々の裏切りにタイモンの怒りが爆発するのだけれど、この怒りのパワーが半端ではない。これはもう、吉田鋼太郎ならでは。そしてこれこそシェイクスピアならでは。日常生活では絶対感じられないような(もし感じたら凡人には到底耐えられないような)感情の振り幅なの。本当に久しぶりに、パワー全開の吉田鋼太郎を見た!
 この怒り爆発のシーンで、まさか屋敷を燃やしてしまうとは思わなかった。そういう台詞は確かにあるけど。燃える屋敷の前でタイモンが吼える。凄まじいシーンだけど、照明がにじむように美しくて。そして赤い借用書の紙切れが轟々と舞って、少しだけ蜷川演出のことを思い出したマダムだった。
 
 やっぱり長くなる。2幕目については、その2で。

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その3

 鋼太郎さんが遂に役者として稽古場に立たれたと聞き、再び見学に行ってきました!(ちなみに最初にその情報を得たのは、カッキーのツイートからでした。)
 時期が重なって、ブログ10周年記念企画のようになってますが、嬉しい偶然です。
 その1その2 を読んでから、どうぞ。
 

 12月6日(水)午後、再び大稽古場に伺いました。
 1度目に伺ったときには『NINAGAWAマクベス』のシンガポール公演のため留守だった役者さんたちが、皆もどってきていて、日本のシェイクスピア俳優集合度がさらに増していました。そして、やはりシンガポールから戻られたのでしょうか、故蜷川御大の写真が、真ん中の机の上に置かれています。

 「あとは俺だけなんだよな〜」と言いながら、タイモンの衣装をつけた鋼太郎さんが板の上に上がりました。
 演出家の椅子にいるときにはぴったり隣にいた記録係はもう、いませんでした。その代わり舞台に一番近いところにプロンプター(という呼び名でいいのでしょうか?)が二人ついて、鋼太郎さんの稽古をフォローします。びっしりメモが書かれた台本を手にしていますが、これ、殆ど台詞の流れを暗記していないと務まりません。演技に目を凝らし、台詞が止まって鋼太郎さんと目が合った瞬間に、次の台詞のきっかけを教えてあげなければならないのです。先日の記録係といい今回のプロンプターといい、最重要な、縁の下の力持ちですね。

 「あとは俺だけなんだ」と聞いて私が思い浮かべたのは、周りが完全に出来上がっているところへ鋼太郎さんがピタリと収まる、というような図だったのですが、それは完全に裏切られました。4幕3場はタイモンのところへさまざまな人が訪れては去っていきますが、新しい相手役が現れるたびに鋼太郎さんは稽古を止めて、新しいアイデアをどんどん試すのです。相手役の役者さんたちも、受けて立ちます。
 アルシバイアディーズの一行が通過する場面も、フレヴィアスとの別れも、画家と詩人が訪ねて来る場面も、どんどん変化していきます。鋼太郎さんはまるで、たった今思いついたかのように「こうしてみよう」「ああしてみよう」と言い、やってみると俄然芝居が活気づくので、ちょっと魔法にかかったようになってしまいます。見ているスタッフや役者さんたちも固唾を飲んだり、ドッと笑ったりして、思わず引き込まれていました。
 でも、あとから思い返すと、たった今思いついた訳がないのでした。このお芝居の影の主役は「カネ」なのですね。どの演出も、それぞれの人物の「カネ」に対する態度をくっきりさせることにベクトルが向かっています。そうやってテーマに沿った人物描写をすれば、おのずと面白くなるように本ができているのです。感心して見てるのは私だけじゃなかった。「おもしろいな〜」「よくこんな本、書いたよな〜、シェイクスピア」という声がスタッフの方から漏れたのを、私は聞き逃しませんでしたよ!
 
 長い4幕3場の稽古が終わり、次のシーンに移る時、藤原くんが鋼太郎さんに「大丈夫なの?ヘロヘロに(なってるんじゃない?)」と、わざと心配していない風なそっけない言い方で、実は気遣っていました。そう、ここはタイモンが出ずっぱりなだけでなく、ご自身の演出のせいで更に膨大なエネルギーが必要になっています。で、鋼太郎さんの藤原くんへの返答は「シェイクスピアハイだ(から大丈夫)」ですって。ランニングハイならぬシェイクスピアハイについては、鋼太郎さんのインタビュー記事で見たことがあった気がしますが、こういう時に使うのかと、聞いてにやにやしてしまいました。
 主演と演出を兼ねる時の方法を整理しますと。
① 信頼できる人を代役に立てて、まず他の役者さんたちとスタッフに全体の流れをわかってもらう。
② 頃合いを見計らって、自分も役者の方に加わる。
③ そうしながら細部の演技の演出をどんどん加えていく。全体のバランスを演出補に常にチェックしてもらいながら、進める。
④ プロンプターを立てて、同時に自分の台詞の曖昧さも修正していく。
 特別に効率の良いやり方があるわけではありませんでした。全て計算があって進めているのですが、それでも凄く凄く大変。そして最後の最後にシェイクスピアハイが助けてくれる、ということでしょうか。
 
 出番が終わって、タイモンの衣装をその場で脱いで着替え、鋼太郎さんは演出の椅子に戻ります。そこからはセットの移動があるシーンをチェックしていきます。そういう場面になると、どこか蜷川演出テイストが感じられるんですね。意識してそうしている部分もあると思いますが、これはさいたま芸術劇場で作っているから、というのが大きいのではないでしょうか。ゴールドシアターの『薄い桃色のかたまり』のときも同じように感じたのですが、長く蜷川演出を支えてきたスタッフの方達が、同じように真摯に岩松演出や吉田演出を支えようとすると、おのずと芝居の隅々からそのテイストが立ちのぼってくる、そんな気がしました。
 
 稽古場見学は十分すぎるほど刺激的でした。恋愛も権力闘争も嫉妬もなく、離れ離れの家族も間違われる双子も男装する女の子も出てこないんですが、これもまた紛れもないシェイクスピアだったんです。
 来週末にはいよいよ開幕です。ワクワクする気持ちをうんと貯めて、本番を待ちたい。
 皆さんも是非、ご一緒に。予習は特に要らないです(たぶん)!

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その2

 その1をアップしたらすぐ、皆さんから反応をいただきまして、記録係が演出家の隣にいるスタイルは広く行われているみたいなのですね。四季の浅利慶太さんは、そのメモを記録係の女優さんに読み上げさせた、とか。

 
 40分を越えるシーンを終えて、「ではダメだしをしよう」と言って鋼太郎さんは初めて席を立ちました。周りにびっしりと役者さんが集まって、ダメだしを聞きます。私の場所からはところどころしか聞こえなかったのですが、それは「ダメ」を「出す」という否定的なものじゃなくて、演出家のイメージを説明し、そのイメージから外れる部分を修正する、という感じでしょうか。アペマンタス役の藤原くんとは特に時間をとって話されていました。
 
 休憩のあと、同じシーンを始めから繰り返します。
 今度は、途中芝居を止めて、台詞や立ち位置を直しながら進んでいきます。アルシバイアディーズが去って、哲学者アペマンタスが登場してきました。
 藤原くんがこれまでシェイクスピアでやってきた役は、直情型で朗々と喋る役が殆どでしたが、今回の捻くれた哲学者はちょっと勝手が違います。一回目の通しの時は、まだ手探りな感じでした。でも二回目は、ときどき芝居を止めて、鋼太郎さんが自分の代役の長谷川さんの台詞まわしを直します(鋼太郎さんがタイモンの台詞を言うと、やはり全然違って、圧倒的です)。そうすると藤原くんもそれにパッと反応して口調が変わります。会話が立体的になり始める瞬間が見えて、ドキドキしました。
 だいたいこのシーンは、タイモンの長い長い台詞があって、アペマンタスがそれに茶々を入れるみたいな会話なので、はじめにタイモンありきなところがあるんですね。鋼太郎さんが長〜い台詞の、ここはこういう気持ち、これをきっかけにその気持ちが冷め、次のこの辺りから狂った状態に戻る、みたいな、タイモンの揺れ動きを一気に説明されたときには、私はもう唖然。へええええー、そうなのかー、と。小田島訳と松岡訳の両方を読んでいったのに、そんなこと何一つ読み取れない自分の凡人感にハンパなく満たされた瞬間でした。
 
 そしてシーン最後に登場するのが執事フレヴィアスです。横田さんが現れた瞬間、場の空気がガラリと変わり、もうフレヴィアスそのものでした。台詞を言い始めたら、言わずもがなです。上手いわ〜って心の中で感嘆しました(すみません。このような上から目線の言い方で。でも、本当にそう思った。うそはつけません)。そしてこのシーン、鋼太郎さんと二人でやるんだーと思ったら、ちょっともう、たまりません。稽古なのに、すでに感無量な私。
 鋼太郎さんと横田さん、そして藤原くんがシェイクスピアでがっぷり四つに組む瞬間を、私はずっと待っていましたので。共演はされていても、役によっては一緒のシーンがないことも多いし、火花散る会話のやり取りはずっと見られずにきましたが、とうとうその日が来るんです!
 
 すっかり興奮してしまいました。主演俳優が演出を兼ねる時、どんなやり方をするのか、についてちゃんと分析したかったのですが。途中から完全に観客になってしまって、冷静さは吹き飛んでしまったのでした。
 この日の稽古は、2時ごろから始まって、4時間あまり。まばたきも忘れるほど集中して見学しました。役者さんたちも、自分の出番がない時は、長机の側に座って、食い入るように稽古を見ていました。静かだけど熱と活気、そして朗らかさ溢れる稽古場でした。
 さて、鋼太郎さんはいつから役者の側に立たれるのでしょうか?「あと少し経ったらね」とおっしゃってましたが、そこをまた、見たいものです。再度、見学がかないましたら、また皆さんにご報告したいと思います。

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その1

 さいたま芸術劇場で12月に上演される『アテネのタイモン』。稽古場見学に行ってきました!
 日本のシェイクスピア俳優の80%(マダムヴァイオラ社比)が集合している稽古場を見学できるなんて・・・興奮と緊張のあまり、朝から肩凝りしてしまう私。
 見学日記を書くにあたりいつもの「敬称略」ではとても書けないので、役者さんのことは、私がふだん心の中で呼んでいる呼び方を使わせていただきますね。失礼があったらご容赦を。

 

 11月25日(土)午後、さいたま芸術劇場の大稽古場に、伺いました。
 大稽古場は、前の廊下を歩く時チラッと中が見えたことはありますが、入るのはもちろん初めてです。
 足を踏み入れると、聞きしに勝る広さです。大劇場の舞台プラス袖くらいの面積と、高い高い天井。片側の壁はいちめんの鏡張りになっています。床にはラインが引かれていて、緞帳が下りてくる位置や、センターの位置、上手と下手の切れる位置などが全部わかるようになっています。劇場と全く同じ立ち位置で稽古が出来る、故蜷川御大自慢の稽古場です。
 片側にずらりと長机が並んでいて、スタッフの方達が腰かけていました。真ん中に一つだけ木製の机があって、いかにも演出家の席、という感じでしたが、鋼太郎さんはそこには座らず、一つ奥に座ります。あとで伺ったら、この木製の机は故蜷川御大の席なのだそうです。今も、御大の魂は稽古場にあるよ、ということなのでしょう。
 
 今回見学するにあたり、私がいちばん知りたかったのは、主演俳優が演出を兼ねる場合、いったいどんなやり方で稽古するのだろうということでした。
 私は以前にも一度、鋼太郎さんの稽古場を見学したことがあります。劇団AUNの『十二夜』の稽古場でしたが(レポートは→ここ )、そのときの鋼太郎さんの役はマルヴォーリオで、重要な役ではあるけれど、主役ではない。今回のタイモンに比べたら、台詞の量も出演時間も、ずっと少なかったわけです。タイモンはほぼ出ずっぱりだし、いったいどうするんだろう、と興味津々だったのです。

 4幕3場をやります、というアナウンスがあって、役者さんたちが衣装をつけて舞台に集まり始めました。AUNの長谷川志さんがタイモンの代役で、衣装をつけ、現れたので、なるほど、と思いました。彼はAUNの若手公演の演出を手がけたこともある人で、『十二夜』のときも鋼太郎さんの代役をされてましたから。
 一回通してみよう、と鋼太郎さんが声をかけ、稽古が始まりました。
 始まって、いきなりびっくりです。長谷川さんがタイモンの台詞を全部憶えていたのにも驚きましたが、その台詞まわしが鋼太郎さんにそっくりだったので。シェイクスピアの台詞を客に伝わるように喋るにはこうする、という吉田鋼太郎イズムみたいなものが浸透しているのに感心してしまいました。海外の舞台でいうところのアンダースタディというのは、こういう存在なのでしょうか。
 4幕3場は、無一文になったタイモンが森の洞窟で隠遁しているところへ、以前の知り合いが次々やってくるシーンです。最初に武将アルシバイアディーズが現れます。カッキーはスレンダーな青年なので、武将ってどうなのかしら?と思っていましたが、軍服姿がメチャ格好いい! 怜悧な武将という感じ。そして後ろに屈強な兵士たちが控えているんですが、谷田さんや河内さんが甲冑を着けて睨んでいると迫力十分です。むき出しの腕の筋肉に、つい目がいってしまいますね。贅沢な配役です。
 アルシバイアディーズが去った後、哲学者アペマンタスが現れ、そのあと執事フレヴィアスが現れて、タイモンと物別れになるこのシーン、続けると40分以上になります。まず通してみると言った通り、鋼太郎さんは一度も芝居を止めず、片時も目を離しません。そして気がついたことがあると、目は離さないまま、次々口に出します。「今のところもっと早く出て」とか「今の台詞、縮める」とかそういったことを鋼太郎さんが小声で言うと、それを隣にぴったり張り付いている記録係の人(いちばん若い女優さんでしょうか?)が台本に付箋をつけてどんどんメモしていきます。鋼太郎さんは自分でメモしたり台本に目を落としたりはせず、稽古する役者さんたちから目をそらさないのです。はー、なるほどー、と私は心の中で何度も言ってました。(これが当たり前のやり方なのかどうか、私にはわかりません。鋼太郎さんの稽古しか見たことがありませんから。)

 通しが終わると、役者さんたちを集めて、さっきメモしてもらったことを含め、長いダメだしがありました。それを受けて「もう一度やってみよう」といって始まった次の稽古が、ちょっと凄かったんですが、長くなりましたので、その2で書くことにします。

藤原ハムレット再見

 チケット、買ってあったから、も一度行ったわ。2月5日(木)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

 えっと、レビューは既に長いのがアップしてあるから、もういいわよね。
 そっちを読んでから、読んでね。
 二度目なので、気が向いた箇所をガン見するという手法で観てきたの。なので、気がついたことの羅列です。

 
 前回観たとき、台本がかなりカットされているなと感じて、どこだろうと気になってた。ので、今回、注意して観てみたの。カットがわかった箇所は、最初の、兵士達が亡霊を発見するシーンのホレイショーの長い台詞。それからポローニアスが、フランスに帰った息子の様子をこっそりスパイしてくるように家臣に命じてるシーンまるごと。それと、ローゼンクランツとギルデンスターンの二人の台詞はあちこち細かくカットしてあるかも。クローディアスとレアティーズがハムレットを陥れる相談をするところも小さなカットがあるし。
 個人的には、最初のホレイショーの台詞のカットは残念だったー。亡霊が現われた不吉な予兆を、ローマ帝国時代を引き合いに出して語るところで、シーザーの名前も出すんだよね。横田ホレイショーがついこの間までシーザーだったことはこの芝居とはなんの関係もないけど、個人的にはこの台詞、聞きたかったわ。それにね、ここでローマ帝国を引き合いに出したことは、最後のほうの台詞と呼応するように作られているんだと思うのよね。ホレイショーがハムレットと一緒に死にたいと言うとき「デンマーク人であるより、古代ローマ人でありたい」って言って毒酒を飲もうとするでしょ? 最初と最後で、対になってる台詞だと思うので、カットしないでほしかった。
 ポローニアスのシーンも、重要なのよ。これがあるから、ポローニアスのせこい用心深さがわかる。だって、がんばって行ってこい!って息子を送り出しておきながら、すぐ息子の様子をスパイさせるのよ? 心配してると言えばそうだけど、凄くみみっちいやり方なの。ポローニアスの人となりをよく表しているシーン。これが無いせい(だけじゃないけど)で、ポローニアスが普通の好々爺みたいになっちゃって。
 というようにね。台本のカットは難しい。
 『ハムレット』の台本は長いので、カットもやむを得ないことだと思うわ。だけど、話はつながっても、カットによって失われるものは必ずあるの。それが芝居全体に、ボディーブローのように効いてくる。
 
 平クローディアスのテンポはすこーしだけアップしてた。でも、ますますクローディアスに疑問がわいたわ。亡霊とクローディアスが同一人物に見えるんだもん。兄貴を暗殺した奴に見えない。なにか企んでるように見えない。この前提が崩れると、ハムレットは成立しないじゃない?
 
 満島真之介のレアティーズはヤンキーだねえ。そういう演出ならしかたないけど、狙いでそうしたのか、それとも、そうなっちゃったのか・・・。死の間際の「許しあおう」っていう台詞が、高い生まれの人たちどうしに聞こえないよ。
 さい芸の回廊のところで今、歴代ハムレットの写真展してるでしょ? 12年前の藤原ハムレットのフェンシングのシーンの写真もある。剣を構えるハムレットがこっちを見ていて、こちら側には白い服を着た人物の後ろ姿が大きく写っている。立ち姿が凛として美しく、貴族の生まれの匂いが立ち上る後ろ姿なの。顔は全く写っていないけど、これは井上芳雄。演技はうまくなかったけど、あのときのキャスティングは間違ってなかった、と立ち姿を見て感じたの。
 今回のレアティーズとハムレットのフェンシングのシーンは、ヤンキーな匂いがいっぱいよ。藤原竜也の運動神経がいいのは、再確認したけど。
 
 横田ホレイショーは、学者らしいつくり。凄く控えめに造形されていて、25日に観た時には、ハムレットが「君はしもべじゃなくて友人だ」って言うのが嘘くさかったの。完全にしもべっぽかった。でも5日に観たときは、より友人らしくなっていた。藤原ハムレットがちゃんとホレイショーを友人として扱い始めたのね。幕が開いて間もなくは、友人を見つめる余裕がなかったということかしら。
 ホレイショーも、最後の台詞に、より力がこもっていた。二人の関係は、5日の方がずっとよかったわ。
 
 マダムがいちばん可哀想に思ったのは、満島ひかりだ。
 満島オフィーリアは、演出家から放っておかれているのじゃない? 造形が全然定まらない。どうしていいかわからなくて、困っているかのよう。蜷川演出は、女優に冷たいわ。関心がないのかしら。
 藤原ハムレットのオフィーリアに対する演技も、なんだかぞんざいなのよ。ハムレットは大変な役で自分のことで精一杯かもしれないけど、他の役はともかくオフィーリアに対しては、もっと一緒に芝居を作ってもいいのでは?
 前回は気がつかなかったんだけど、例のスローモーションのシーン、オフィーリアはちょっとだけ参加してるのね。その場で、手をスローに動かして、ハムレットの方を見てるんだけど、すぐ後ずさりして消えてしまう。この演出の中途半端さはなに?何を表現したいのか、さっぱりわからないわ。

 
 さて、二回目の観劇で思いも寄らぬ発見があった。
 劇中劇のシーンで、ひな壇が出てきて、お内裏さまとお雛さまが段を降りながら台詞を言うじゃない? その間、他の人物はただ座ってるだけで、お飾りなんだけど。
 三人官女のひとりとしてじっと座っているのが、岡田正だったのよー。もう、オペラグラスでガン見。心の中でひとり大爆笑してたの。ほんとに楽しいったらない。
 こんなふうな、力の抜けた見方が出来ちゃうなんて、チケットを買った時には予想だにしてなかったよ。芝居に圧倒されて、倒れたかったのに。そのつもりの二度目だったのに。
 人生って上手くいかないわ。 

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その4

 えっと、その4から読まずに、その1から読んでね。
 
 

 
 マダムはこれまで、何本のハムレットを観たかしら。
 たいした本数にはならない。ハムレットをやれるタフで端正な役者はめったやたらにいるわけじゃないしね。
 ハムレットというとオフィーリア、と、すぐ名前が出てくるけど、この芝居は恋愛なんか描いていない。復讐劇っていう言い方もあるけど、復讐もなかなかしない。
 これは、行動できずにずっと頭の中でぐるぐる考えてばっかいるうちに、周りを不幸の連鎖に巻き込んでいってしまう、かなりダメダメな王子の物語。
 それなのに、ひとつひとつのシーンを丹念に積み重ねていくと、最後にハムレットが死んでホレーシオが「おやすみなさい、やさしい王子さま(たしかsweet prince)」って言うところで、もうどうしようもなく悲しくなって、ホレーシオと一緒に泣いちゃう。ダメな奴のはずなのに、その死がとても辛い。どこがsweetやねん!ていう王子なのに。
 だけど、今回、マダムは全然悲しくならなかった。
 悲しくならなかったのが、悲しかった。

 

 芝居を、マダムは1枚の織物によく例えるのだけれど。
 
 12年前の『ハムレット』は糸の材質も考え抜かれて選ばれ、きめ細やかに織り上げられていたわ。その中にあったからこそ、藤原ハムレットはハムレットたりえていたんだわ。あのハムレットはやはり金字塔だったのよ。(そのレビューは藤原ハムレットの衝撃と寂しさ その1その2その3 。この記事を読み終わったあとに、どうぞ)
 今回の『ハムレット』では、糸の1本1本の材質も太さも違い、織りも眼が粗かった。もともと力技な演出家であるから、眼が粗いことはしばしばあったけれど、今回は特別に粗かったよ。演技の質がバラバラで。舞台の上で、クローディアスはクローディアスであるより平幹二朗だったし、ハムレットはハムレットであるより藤原竜也だったし。
 それは、演出家がこれまで歩んできた道を思い起こさせたの。蜷川幸雄が広く人気を勝ち得たのは平幹二朗による『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『王女メディア』があるからだし、平幹二朗を失ったあと模索が続いた蜷川演出に再び人気をもたらしたのは、弱冠15歳の藤原竜也の『身毒丸』だったんだし。クローディアスの向こうに忠兵衛が見え、ハムレットの向こうに身毒丸が見えるような。
 その上に、次を託してみたい期待する若手をフォーティンブラスに据えたのね。ネクストの内田健司を特別な演出で忘れがたいものにしたのも、100%作品に寄与するためとは言えない、演出家の意図を感じるの(ぼんやりとだけどさ)。
 だから、悲しくならなかったのには理由があったの。マダムの前に広げられた織物は、ハムレットという名の織物じゃなかった。これは、ニナガワユキオという名の織物だったんじゃないか。
 それが、考え抜いたマダムの得た結論です。
 
 集大成って、そういう意味だったの?
 まさかね。

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その3

 しつこいようだけれど、ネタバレありなので、これから観劇予定の人は読んじゃダメ。観てから、また来てね。





 ツッコミどころ満載であっても、マダムはなぜ飽きること無く観続けることが出来たのかしら?
 いくつか理由があるとは思うのだけれど、一番は、それでも藤原竜也がハムレットに見えたから、なの。
 あー、もうここで、マダムがずっと抱えてきた思いを全部、書いてしまうよ。
 
 2005年9月、マダムは初めて藤原竜也の舞台を観た。蜷川演出の『天保十二年のシェイクスピア』、エネルギーに満ちた素晴らしい舞台で。いろんな意味でマダムにとってターニングポイントになった芝居なんだけれど、それはともかく、すでに圧倒的な人気のあった藤原竜也を、マダム自身が発見した瞬間だったの。
 以来、マダムは藤原竜也の舞台を全部、観ているわ。見逃してしまった『ハムレット』も『ロミジュリ』もちゃんと映像で観たし。でも映像で観たものは、本当に観たうちに入らない。
 そして10年近く追いかけてきたけれど、最初に観た「きじるしの王次」以上にマダムを感電させる演技は、現われなかった。もちろん、面白いものはいろいろあったし、期待し過ぎだったのかもしれない。マダムはだんだん失望するようになった。なにかが違う、と言葉にならない不満を抱えるようになった。それでも、彼の演じるシェイクスピアを生で観たいとずっと待ってたの。
 若い時にハムレットやロミオを演った役者に期待することは、年齢を重ねるうちに、その時々の最適な役を演じていってもらうことよ。たとえば、マダムにとって吉田鋼太郎との出会いは凄く幸福な出会い。オーシーノー公爵(十二夜)を観たとき、彼は22歳。以来、ハムレットもマクベスもリチャード三世も見せてもらったし、年を重ねてシャイロックもマルボーリオもリア王もフォルスタッフも見せてもらった。この後もきっと、またリアを見せてくれると思っているしね。そんな風に、役者と一緒に年齢を重ねていけたら、マダムは年を取ることは怖くない。
 だから、藤原竜也がシェイクスピアを演じるのをずっと待っていたし、『ジュリアス・シーザー』のアントニーを演じることがわかった時の、期待の大きさがわかってもらえるかしら? そして彼がずっとぶつかったまま乗り越えられずにいる壁を今こそ乗り越えてほしいと、拳を握りしめて芝居を観たのよ。だけど結果はいまいち。格好いいのよ。格好はいいんだけど、アントニーの生命線とも言うべき演説がさ・・・。
 なので、マダムは今回のハムレット、期待より不安の方が大きかった。ハムレットは台詞の人だし。
 それがね。現われた藤原ハムレットは、「ジュリアス・シーザー」のときの定まらないアントニーとは違って、ハムレットだったー。不思議なくらいハムレットが似合うの。ただ、台詞術は12年前とあまり変わらない。12年前にすでに出来上がっていたとも言えるし、12年間積み上げたものが少ないとも言える。それなのに、どうして、ハムレットに見えるのかしら? 逆に不思議でしかたなかったわ。それで、芝居を観ながら、観たあとも、ずっと考えていたの。
 もちろん、主役を引き受けるだけの覚悟とかオーラとかエネルギーとかは、さすがなの。でもそれだけでハムレットが似合うわけもないでしょ。
 考えた末に思い至ったのは、かなり皮肉な結論。
 藤原竜也にマダムが感じていた壁の正体は、「相手との通いあいの欠如」だった。彼の台詞はいつも、相手がいる時も、独り言っぽいの。本来、台詞は、話しかける相手が違えば変わってくるでしょう? 相手の反応が違えばまた、変わっていくでしょう? でも彼の台詞は、相手が違ってもあまり変わらないのよ。変われない、のかな。
 だからアントニーの演説は、彼にとって最大の壁だったに違いないわ。だって、演説は独り言じゃないもん。相手の反応を見ながら、説得しなくちゃならないんだもん。
 ところがハムレットの台詞はね、ほとんど独り言なのよ。しかも、相手がいる時でさえ、ハムレットはどこか上の空なの。半分独り言みたいに喋ってる人なの。だから、壁を乗り越えてない藤原竜也の台詞術が、かえってハムレットにぴったりだったのよ・・・。
 
 身も蓋もないことを言ってしまったかもしれないわね。
 でも、10年近く藤原竜也を見守ってきたのだから、嘘をつくわけにはいかないの。
 その4では、総まとめします。
 あー、倒れるかも、マダム。

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その2

 まさかその2から読む方はいないとは思うけれど、今一度、注意喚起。この記事はネタバレ三昧ですので、これから観劇の方は、読むの禁止です!

 
 
 さて、フォーティンブラスについて。
 フォーティンブラスは、場面としては二回しか出てこない、言わばちょい役なのだけれど(そして、ちょい役としてしか扱われない演出もたくさんあるけれど)、これまでの蜷川演出のハムレットでは、とても重要な役として扱われてきてるのね。で、ハムレットの台詞をちゃんと聞くと、チラッとしか出てこない他国の王子がぴりっと効いてくる存在だってことは確かなの。1度目の登場のときにはハムレットに「俺はうじうじしてるだけなのに、あいつは一国の王子としてちゃんとやってるよなあ、若いのにさ(マダム超訳)」って言わせてるし、2度目のときはハムレット亡き後のデンマークを託されるんだから。
 でも、蜷川演出ではホンが示す以上のこだわりを演出家がもっているのがわかる。たとえば小栗フォーティンブラスはパンクロックみたいないでたちで現われて、死んだハムレットにキスしてたし、成宮フォーティンブラスはバイクで現われてライフルぶっ放したりした(見てないけど)。ムダに派手(@マダムM)とも言えるフォーティンブラスなの。
 今回の内田健司のフォーティンブラスも演出家のこだわりが激しく見えたのだけれど。マダムが名付けるとしたら「ひきこもりなフォーティンブラス」といったところかしら。ポーランドへ遠征軍を率いて進軍中のはずなのに、しゃがみこんで指で地面にお絵描きしてる(ように見えたけど?)。台詞はつぶやきなので、ほとんど聞き取れない。まったく意味不明。ここまで意味不明だと、面白いとも言えるわ。
 極めつけはラスト。またも意味不明な上半身裸で現われたフォーティンブラスの台詞は、やっぱりつぶやきで、全然聞こえない。(ムダに地味なフォーティンブラス!) ホレーシオが横田栄司でよかったわ。フォーティンブラスが締めくくらない芝居を、ホレーシオの台詞でちゃんと結着つけてくれたから。

 満島ひかりのオフィーリアはとにかく可愛らしかった。凄く可憐だった。なのに、葬儀の時、なんで役者じゃなくて人形なのか、凄ーく不思議だった。ハムレットを見るときマダムはいつも、ハムレットは本当にオフィーリアが好きだったのかしら?と半信半疑になるのだけれど、墓穴に飛び込んで彼女の遺体を抱き上げるのを見て、あー、やっぱりホントに好きだったんだ、って毎回思うの。でも、今回は満島ひかりの可愛らしい顔が見えず、人形相手のハムレットの演技はいまいち盛り上がらず。なんで人形なの?こんなところケチるところだろうか。
 
 これだけいろいろと疑問に思っても、飽きずに最後まで見続けたのはなぜかしら?
 その3で追求するわ。藤原竜也と蜷川幸雄とマダムとの総括になるのかも・・・。

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