最近の読書

蜷川幸雄

ずっと蜷川さんがいた

 今日、蜷川幸雄御大が亡くなった。

 覚悟はとうに、していたはずだったの。けれども、今は、このことの大きさにただ、呆然とするばかりだわ。蜷川幸雄を失って、これから演劇界は大きな曲がり角を迎えるね。
 マダムが蜷川演出に初めて触れたのは、1977年8月16日、帝劇の『三文オペラ』、まだほんの子供の時。そして最後に観たのは今年2月27日、さいたま芸術劇場インサイドシアターの『リチャード二世』この間、なんと40年! そして12、3年くらいマダムは劇場から遠ざかっていたので、正味30年として。さっき、数えてみたら、劇場で観た作品は40本弱くらい。あとから映像で観たものも加えれば、50本以上になるね。それでも、全演出作品の3分の1にもならないでしょう。なんという膨大な仕事量だったの!もう、御大一人で産業を成していたわ。演出業、ではなく、蜷川業といってもいいくらい。
 でもマダムは決して、模範的なファンというわけではなかった。数々の名演出とされる作品を見逃しても来ているしね。みんなが絶賛しても、マダムは首をかしげることもあったし、ブログでもはっきり疑問を呈することもあったしね。
 けれども、30年間の観劇人生で50本以上の作品を観た演出家は蜷川幸雄ただ一人。この事実を前にして、今は呆然と立ち尽くす。
 
 とても1本を選べないので、マダムの観劇人生に多大なる影響があった5本を選んでみるね。
1981年12月帝国劇場 『近松心中物語 それは恋』
2003年12月シアターコクーン 『ハムレット』(舞台は観られず、のちに映像で観た)

2005年9月シアターコクーン 『天保十二年のシェイクスピア』

2008年5月シアターコクーン 『わが魂は輝く水なり』

2015年4月さいたま芸術劇場インサイドシアター 『リチャード二世』

  特に、子育てに追われ劇場から遠ざかっていたマダムを、一気に芝居へと引き戻してくれた『天保十二年のシェイクスピア』は、マダムにとっての金字塔。蜷川幸雄✖️藤原竜也✖️井上ひさし✖️シェイクスピアという莫大なエネルギーで、マダムの芝居道の行方を決定付けてしまった。今、こうやって、ブログを書き続けているのは、『天保』のせいと言ってもいいくらいなの。
 そして、昨年以来の『リチャード二世』。胸の底を揺るがされる作品を、80近くなっても見せてくれた。この驚き、胸の高鳴りを、マダムはずっと忘れないでしょう。

 本当に長い間、お世話になりました、蜷川さん。
 ありがとうございました。

『リチャード二世』再び

 2月は何も観ずに、この日を待ってた。ダブルヘッダー第1弾。2月27日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール内インサイドシアター。

 
さいたまネクストシアター✖︎さいたまゴールドシアター

『リチャード二世』
作/シェイクスピア 翻訳/松岡和子

演出/蜷川幸雄
出演 内田健司 竪山隼太 松田慎也 竹田和晢 手打隆盛
   佐藤蛍 白川大 百元夏繪 葛西弘 ほか

 
 『リチャード二世』が、蜷川御大の病気による急な上演作変更によって、再演の運びとなったのは、1月のこと。
 以来、マダムはツイッターでも呼びかけたし、友人知人にも勧めたし、自分もすぐチケットを買ったの。再演は偶然のこととはいえ、再演されて当然の作品だと思っていたから。
 ただ、昨年観たときは、インサイドシアター自体初めてだったから、劇場の雰囲気に飲まれていたこともあり。今回、全てを知った上で観ると、また印象は違ってくるのかどうか、ドキドキしながら出かけて行ったの。
 でも、全て杞憂に過ぎなかった。何度見ても、いいものはいいの!素晴らしかったー。ずっと息を飲んで、見つめ続けたわ。もうこりゃ、蜷川御大の代表作の一つになるのでは?
 演出に変更はないので、あらすじを含む流れは去年のレビューを読んでね。胸の底を揺るがす『リチャード二世』その1その2 よ。
 
 あまりにも面白かったので、今年もまたイチオシが『リチャード二世』になってしまうのではないかしら?とさえ、危惧してしまう。新作のみなさん、頑張ってよね。
 よかったところを挙げていくとキリがないので、昨年あまり書けなかった内田健司に絞って、書こう。
 リチャード二世は、ハムレット並みにひとりでブツクサ言ってるんだけど、それがいちいち面白くて。
 
  始めの偉そうにしている頃の「余は命令するために生まれてきたのだ」とか。
  海の波に揺られながら、部下の裏切りを聞いた時の「これほど悪い話をうまく言い表した。うますぎるほどだ」とか。
  下の中庭に降りて来いとボーリンブルック側から求められて、屈辱にまみれながら言う「降りよう、下へ、下へ・・・下へ降りる?裁きの庭へ、王は落ちる」とか。
 ボーリンブルックから王冠を譲渡することに異存があるかと問われての「ない、ある。ある、ない」とか。
幽閉されて一人つぶやき続ける台詞、「私は一人で色んな人間の役を演じるが、どの役にも満足できない。ある時は王になる、すると謀反を思い浮かべ、いっそ乞食の方がいいと思う。そこで乞食になる。すると貧しさに押し潰され、王だった時の方がましだと思う。そこでまた王になる、するとたちまち・・・」とか。
  台本読んでも一見、どんな意味があるのかわからない台詞が、ひとたび内田リチャードの口から出ると、彼の人物を余すところなく伝えてくれるので、聞き惚れてしまうの。王である傲慢さ、王である誇り、王を降りる屈辱、運命と折り合いをつけようともがく心・・・時折、ささやくような小声にもなるけど、観客は皆、必死に耳傾けて、彼の声を聞き取ろうとする。だって、もっと聞きたいから。彼の哲学的な薀蓄を聞きたいから。そういう薀蓄を喋らずにいられないリチャードという人の造作がメチャクチャ面白いから!
 内田健司の台詞は、素晴らしい。意味を伝えるところを遥かに通り越し、リチャードの人となりを語ってくれる。すると、マダムは、芝居の中のリチャードがどんなに愚かでも、どんなに弱々しくても、どんなに惨めでも、色っぽいなあって思うのよ。
 だからさ、イケメンであるかどうかなんて、ちっぽけな要素なのよ。どうでもいいの。台詞がその人物自身を鮮明に描き出した瞬間、その役者はイケメンになる。
 

さい芸で『ヴェローナの二紳士』を観る

 月に1本シェイクスピアを観るシリーズの10月はこれ。10月24日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

『ヴェローナの二紳士』
作・シェイクスピア  翻訳・松岡和子
演出・蜷川幸雄  演出補・井上尊晶
出演 溝端淳平 三浦涼介 高橋光臣 月川悠貴
   大石継太 正名僕蔵 岡田正 河内大和 横田栄司 ほか

 ここのところ、マダムの心はロンドンと神宮に行ってしまっていて、日本の劇場の呼び声が耳に聞こえなかった。だけど、チケット買ってあったし、出かけてみたの。そうしたら、前から3列目の通路ぎわという絶好のいじられポジションだったので、俄然やる気になって待ち構えてたんだけど・・・役者の誰も、いじりには来てくれなかった。残念だわ。マダムの心を呼び戻したくないのかしら。
 それはともかく、通路を使う演出のおかげで、マダムのすぐ隣でみんな演技するのよ。というわけで、主役4人の美しい青年たち、一人一人を50センチの距離でガン見させていただきました。三浦涼介のなんという美しさ!特にあの、細く伸びた、節さえ細い手があまりに綺麗なので、吸い込まれるように見てたの。眼福だわ〜。

 『ヴェローナの二紳士』は初見。本は30年以上前に読んだはずなのだけど、もちろん忘れていて。でも観て、お話はよくわかった! こりゃ滅茶苦茶な本だとわかったの。
 話のあちこちで、あ、これは「十二夜」だ、とか、あ、この指輪のところは「ヴェニスの商人」っぽいかな、とか色々思うのね。つまりいろんな要素てんこ盛りなんだけど、思いつきばっかりで、凄くこ都合主義でまとめられてて。シェイクスピアの初期の作品らしいけど、処女作と言われてる「ヘンリー六世」を書いた後に、こんなダメダメなの書いちゃってたのか・・・初日が迫ってて3日で書いたのかしら?とか思っちゃった。
 なので、それでもまあまあ楽しく見たんだから、及第点をあげたら?という心の声がか細く聞こえる・・・けれどね!

 まあまあ楽しく見られたのは、主役4人の働きではなく、周りを固めている横田栄司、大石継太、岡田正、河内大和たちの八面六臂の活躍によるもの。ここまで力技でねじ伏せないと、作品を成立させられないんだ・・・と、ちょっと苦笑。上手い役者さんたちの力量を、なんだか無駄遣いしてはいない?頼りすぎでしょ。 
 道化役の正名僕蔵が、本物の犬を連れて出て来るところも、ハラハラしちゃって、マダムはあまり楽しめなかった。

 あんまりな本ではあるけど、それでもドラマがあるのは主役4人のところなので、この4人のシーンがもっと面白くならないかなぁと思った。少し具体的に説明すると。
 ヴァレンタイン役の高橋光臣は、初日にやらかしちゃったことが有名になっちゃってるけど、役柄には合ってる人よね。ヴァレンタインは一本気で、融通の利かないタイプで、まっすぐ過ぎるところが傍目に可笑しい。そこはピッタリじゃない?
 その親友プローティアス役の三浦涼介も、演技はちゃんとしてて、4人の中では一番上手い。美しいしね。
 でもこの二人がしょっぱなに別れを言い合うところから、もう、何かが足りないのよ(舞台上で他の役者たちが小道具を運んだりしていて、客の気が散るのも良くないの)。多分、このシーンで、恋愛とは全く無縁の堅物ヴァレンタインと、女を追っかけることにしか興味のないチャラ男のプローティアスが、鮮やかに対照的でないとダメなのよ。それが伝わってれば、次のシーンでなぜか恋に落ちてるヴァレンタインの可笑しさがいっそう、笑えるし。で、一方のプローティアスは、チャラ男はチャラ男だから、目の前の女を好きなのは本気なんだけど、目の前からいなくなるとすぐ忘れちゃって、違う目の前の女に夢中になる。それも意外じゃなくなる。対照的な二人だってことが、ちゃんと台詞に書かれているんだから、言うだけじゃなく、体で(演技で)、全体的に、客に伝えてくれないと!
 で、そういう全然違うタイプの男ふたりが、親友なわけでしょう?違いを互いに認めて、好ましく思ってる。その親友らしさもまた、最初のシーンで伝わらなくちゃいけないんだよね。だけど、高橋光臣と三浦涼介は、全然親友らしくなかった。だからそのあとの展開が、親友なのに裏切った感がないの。言葉では「親友」って盛んに言ってるんだけど。
 プローティアスは、恋を誓ったジュリアのことをすっかり忘れちゃって シルヴィアに言い寄り、親友を陥れるわ、ジュリアからもらった指輪をシルヴィアにあげようとするわ、最後には力ずくでシルヴィアをものにしようとするわ、とーんでもない男なので、見てると、どんどん深刻になるの。深刻すぎて、色々バレたあとにヴァレンタインがすぐ許すのが、客は受け入れられない。ジュリアとくっついてメデタシとなることも、やっぱり受け入れられない。あっけにとられたまま、笑っていいのか、よくわからないで終わるの。
 三浦涼介のプローティアスの作りが繊細すぎるのね。もっともっと、豪快にチャラ男でいいんじゃない? 男の本能で脳みその95%できてるような。だからジュリアが目の前にいないときは、忘れてるんだけど、小姓の帽子を脱いで女の子のジュリアが現れたら、その場でまた恋に落ちればいいんじゃないのかな。いるじゃない?そんな、ある意味わかりやすい男。そういう風に造作されていたら、客も「うん、そういう肉欲だけのチャラ男って、いるよね。顔がいいからって騙されちゃダメだよ、ジュリア」と思えて、なんとなく笑えたんじゃないかしら。
 
 そして女役の二人。こんなダメダメな本の中にも、ちゃんと良いシーンが用意されているので、そこがもっと心に響くように演出されていたら、マダムはそれだけでこの芝居を観てよかったと感じたでしょう。残念だー。
 それは、お小姓のふりをしてるジュリアが、ジュリアの悲しさをシルヴィアに話し、シルヴィアもそこにいない(ホントはいるけど)ジュリアに想いを馳せて共感する、というシーン。「十二夜」のヴァイオラが公爵に「私の父に娘がありまして、ある人を愛しました・・・」と自分のことを回りくどく語る名シーンがあるんだけど、少し似てる。
 ジュリアの溝端淳平は、可愛い女の子を作り出すことで精一杯。このシーンも頑張ってはいたけど、台詞が次々続くと、何言ってるのかわからなくなってくるのね。そしてシルヴィアの月川悠貴は、台詞を淡々と言うだけで、ジュリアの台詞への反応の演技がない。反応してあげないから、溝端ジュリアが何言ってるかわからなくなるとも言える。
 月川悠貴はもうベテランと言ってもいいでしょ。もう少し上手くなってもいいのに。美しさは確かにピカイチ。マダムの女友達全員を思い出しても、彼みたいに綺麗だった人探せない。女も負ける美しさ。だけど、台詞に感情がこもらないし、相手に反応を返すこともできない。
 マダムは確かにイケメン大好きだけど、芝居心がないイケメンに興味はないの。そういう人は、雑誌のグラビアの中にいればいいのよ。
 
 役者さんにフォーカスしてしまったけど、演出の問題だと思う。ネクストシアターの『リチャード二世』があんなに斬新で踏み込んでいたのに、本公演がこれではね。 マダムは、ネクストシアターのシェイクスピアだけ見ればいいということなのかしら。
 あー、結構笑って楽しく観たのに、書いたら凄く辛口になっちゃった・・・。 

胸の底を揺るがす『リチャード二世』その2

 役者の身体の奥底には、本人も知らない扉がある。

 良いホンや良い演出、良い場を得て、ある瞬間に偶然、その扉は開く。とたんに、信じられないようなエネルギーが放出されて、稲妻となって劇場をかけめぐり、観客を放心状態に連れ込むの。
 偶然が何度か続くと、役者は自分の中の扉のありかを知るようになる。それでも、扉を自分で開けることはできない。やはり、良いホンと良い演出と良い場という、演劇の神様の降臨みたいな偶然がやってこないと、扉は開かないの。
 だけどいい役者は、努力の先に、扉が開く瞬間があることを信じられる。信じて、真摯に役に向かう。
 残念だけど、役者全員が扉を持ってるわけじゃなさそう。でも、持ってないのか、それとも開いたことがないだけなのか、それを始めから判断できる人はいない。
 
 ネクストシアターと、今回共演してたゴールドシアターの役者たちは、扉の存在を認識してない人たち。そして、さい芸の演出家御大は、そういう人の扉を開けてあげるのが大好きなのよ。あの手この手を使って、時には強引にこじ開けるように、扉を開けようとする。
 初めて扉が開いちゃった役者は、放出するエネルギーをコントロールできなくて、出すがまま、になっちゃう。それが時に、ベテランの役者が及ばないほどの力になることがある。御大はそれも好き、なのじゃないかしら。
 ちなみに今回、主役の内田健司もよかったけど、ボーリンブルックの竪山隼太も凄くよかった。ふたりして扉を開いて、エネルギー放出してたわ。しかも違う色合いの。違う色なのが、芝居を分厚くする。
 
 ネクストシアターの「ハムレット」を観て藤原竜也は、自分も是非もう一度「ハムレット」をやりたいと志願したという。今回ネクストシアターを観て、彼の気持ち、わかるなあと思ったわ。懐かしかったんじゃないかな。20歳で「ハムレット」をやったとき、たぶん、今のネクストシアターみたいだったのよ、藤原竜也も、小栗旬も、鈴木杏も、井上芳雄も。自分の中のエネルギーの扉のありかを知らない、あるいはコントロールを知らない、駆け出しの役者だったのよ、みんなね。

 
 ネクストシアターにもうひとつ、面白さの秘密があるとすれば、劇団だってことかしら? 秘密でもなんでもないけど。
 この10年くらい、劇団ではなく、プロデュース公演が演劇の主流を占めてた。公立系の劇場が芸術監督を置いて企画するのも、プロデュース公演だしね。御大しかり、野田秀樹しかり、野村萬斎しかり。劇団として君臨してるのは、宝塚とか四季とか新感線とか、劇団というより巨大プロジェクトみたいな集団しか見当たらなくて。このブログで書いてきたレビューも、ほとんどがプロデュース公演の芝居だもん。それとも、マダムが知らなかっただけ? そういうわけでもないとおもうけどな。
 マダムが劇団、と言って思い浮かべるのは、やっぱりつかこうへい劇団とか、夢の遊眠社とか、シェイクスピアシアターとか、なの。そういう劇団らしい劇団が出てきにくい10年だった、のじゃない?
 だけどここへ来て、俄然、劇団は盛り返してる。イキウメとかハイバイとかマームとジプシーとかあれとかこれとか・・・劇団は芝居の原点。そこからしか生まれない芝居を作り出すユニークな場所。
 ネクストシアターとゴールドシアターは、若い頃劇団活動で挫折した御大の、初めて作った自分の劇団。好きなように結界(小屋)を組み、劇団員を切磋琢磨させ競わせ、気に入らない役者をひっこめ、気に入った役者を追いつめてる。プロデュース公演みたいに、名のある役者に気を使うこともないし、下手な奴に下手というのを我慢する必要もないし。役をつけるもつけないも、前日まで決めなくていいし。いちばん楽しくて当然よ。だって、劇団なんだからさ。楽しいから演出も冴えるのね。
 このまま、さい芸の本公演より面白い状態が続くかもしれない。そんな気がする。そしたらマダムも本公演はヤメといて、ネクストシアターだけ行く、みたいなことになるかもね。
 それはそれで全然OKだわ。なにか問題でも?

胸の底を揺るがす『リチャード二世』その1

 毎月1本観るシェイクスピアの、4月はこれ。4月12日(日)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール、インサイドシアター。

さいたまネクストシアター第6回公演
『リチャード二世』
作/シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/蜷川幸雄
出演 内田健司 竪山隼太 松田慎也 竹田和哲
   手打隆盛 長内映里香 白川大 百元夏繪 ほか
   ネクストシアター+ゴールドシアター

 面白かったー! 面白いシェイクスピアが観られた時の、この、ざわざわと胸の中の湖が波立つような感じ!これよ、これ。久しぶりだー。
 ネクストシアターを観るのは初めて。だから、いつもと違うルートにいざなわれてさい芸の大ホールの、普段なら舞台上にあたる場所に組み立てられた階段席にすわったら、もう、ワクワクしちゃった。昔々、紀伊國屋ホールの階段に座ったり、花園神社のテントの中に腰を下ろしたりして、芝居が始まるのを待っていた、あのワクワク。
 その一方で、このかたい座席で3時間、マダムは耐えられるのか、少し風邪気味だからいねむりしちゃうのではないかしら?などとも思っていたけど、そんな心配は杞憂だったー。

 舞台の上に客席を組んでもなお、広い広い舞台。明かりがつくと、遠くから人々のさざめきが聞こえ、列を組んで、羽織袴と留袖の大勢の男女がゆっくりと進んでくる。それもみんな車椅子で。40台くらいの車椅子が一斉に進んでくるのは圧巻ね。
 正装の老若男女たちは、王の広間に集まった貴族たち。車椅子を脇によせて、いきなりタンゴを踊り出す。そこへタキシードを着た王リチャード(内田健司)が電動車椅子で登場して、お話が始まる。衣装は、若者はタキシード、年配者は着物で統一されていた。両者とも、衣装が似合って、融合が違和感なく、しっくりきたわ。
 「リチャード二世」は滅多に上演されないし、マダムも観るのは初めてで、読んだこともなかった(と思うのだけど)。でも、シェイクスピアの語り口にすっかりなじんでいるせいか、すぐ人間関係が理解できたわ。王リチャードは、貴族の争いを裁いて、決闘すると息巻く二人を、二人とも追放することで命を救ってやるのだけど、この温情ある裁きが仇となって、あっという間に王の身分から転落するの。助けた一人はいとこのボーリンブルック(竪山隼太)。やがてヘンリー四世となる人ね。
 追放する前に、リチャードはボーリンブルックの白いシャツを脱がせ、上半身裸の彼とタンゴを踊る。男二人のタンゴが凄く色っぽい。ただこの時点では、あー、またニナガワさん、若い子脱がしてんのかー、と思って、芝居の行方が心配になったよ。だけどね、今回はこの演出に大きな意味があったの。
 服を脱いでタンゴを踊るのは、王に対する忠誠の証し。リチャードは「忠誠を誓え」という代わりに、シャツを脱がせてタンゴの相手をさせるの。やがてリチャードが王の立場を追われ、ボーリンブルックが実権を掌握した時には、今度はボーリンブルックが他の貴族のシャツを脱がせてタンゴを踊るの。
 王に忠誠を誓うということは、裸になって身を捧げるようなことなのよ。権力者は好きな時に、好きな相手の服を脱がせてタンゴが踊れる。権力者にとっては身をくすぐられるような楽しみであり、強要される方にとっては屈辱であるとともに寵愛を受ける喜びでもあるのね。そんな複雑な両者の思いが、言葉を使わずにタンゴのステップで強烈に表現されてる。うなったわ。舞台上で色っぽいっていうのは、こういうことを言うのよ。
 
 リチャードは判断を誤り、ボーリンブルックの命を助けて追放した。そしてアイルランド討伐に自ら国を空けて旅立つという、更に大きな誤りを犯す。ボーリンブルックは兵を挙げ、リチャードの留守を狙って攻め込む。すると、リチャードに従っていた貴族たちは雪崩を打って、勢いのあるボーリンブルックに付くの。ボーリンブルックは、あくまで失われた地位と領土を返してもらいたいだけだと主張するけど、ここまできちゃったら、王冠を頭に載せない理由はない。捕らえられたリチャードは幽閉される。
 だけど正当とはいえないやり方で実権を握ったボーリンブルックに対し、やはり謀反の企てはある。未然に防いだものの、自分のいとこのオーマール公(ヨーク公の息子)も加わっていたことが発覚し、ボーリンブルックは彼の処遇に困る。このシーンが凄い。たとえ息子でも、裏切りを真っ先に知らせて家名を守ろうとするヨーク公(松田慎也)と、息子可愛さに徹底的に命乞いに走るヨーク公夫人(百元夏繪)の怒鳴り合い、ののしり合いが、真面目で必死なのに、掛け合い漫才のよう。面白すぎる。松田慎也はネクストシアターの若い役者で、老けメイクをして臨み、百元夏繪はゴールドシアターの役者だから、実年齢は松田の母親より上でしょ? 祖母くらいかもしれないわね。そのふたりが、素晴らしく息の合ったののしり合いを繰り広げるの。実年齢なんて、芝居の上では関係なくなる瞬間があるんだーって感心したわ。
 ヨーク公夫人の命がけの命乞いに呑まれるように、ボーリンブルックはいとこのオーマール公を許してやり、ヨーク公爵家を温存してやる。ああ、それこそが、因果はめぐる、だ。自らがリチャードに恩を仇で返したボーリンブルックは、自分が死んだあと今度は、自分の孫(ヘンリー六世)をヨーク公のひ孫(リチャード三世)に殺されるはめになるのよ・・・・。
 
 ここ数年で『ヘンリー六世』や『ヘンリー四世』や『リチャード三世』を網羅してきたマダムは、もう興奮状態。頭の中で家系図が、役者の顔写真付きでどんどん出来上がってったの。この彼(ボーリンブルック)が年取ると木場勝己になって、その息子が松坂桃李で、更にその息子が浦井健治。で、そっちの彼(ヨーク公)の孫が吉田鋼太郎だったり渡辺徹だったり(ダブルキャストっ)して、更にその息子が岡本健一なわけよ!わーい!(さい芸バージョンと新国立バージョンがごっちゃになってる。)
 
 内田リチャードはもともと内省的な人。そこがちょっとヘンリー六世に似てるなと思ったわ。いずれにしたって、王様には向いてない。幽閉されてみじめなはずでも、床の上の、窓から差し込む光のスジをたどって歩きながら、自分の運命を詩的な言葉で解きほぐしたりしてて、意外とこの人、幽閉されたままずーっと生きていけそう、と思わせる。でも、そんなわけないんだった。ボーリンブルックの気持ちを勝手に斟酌してやってきた刺客に、リチャードはあっけなく殺される。
 ボーリンブルックは最後の最後、リチャードを死刑にはできなかったの。正当な王を殺して自分が王になる、という罪を真正面から引き受けることは出来ない。それでいて、早くリチャードが亡き者になってほしいと願わずにはいられなかった。王にはなりたいけど、大悪人のレッテルは貼られたくない。だけど、結局はリチャードの命を奪ったも同然になっちゃって、この中途半端さを一生、背負っていくことになるの。
 
 あー、面白かったー。なんと、今のところ、今年いちばんの芝居よー。大好きなStarSたちや、大ファンの大御所の役者さんたちの芝居を組み伏せて。(ていうか、さい芸の本公演より面白いってどういうことなんだ? これでいいのか?)
 ということで、なぜネクストシアターが本公演より面白くなっちゃうのか、その2でもう少し掘ってみることにするね。

藤原ハムレット再見

 チケット、買ってあったから、も一度行ったわ。2月5日(木)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

 えっと、レビューは既に長いのがアップしてあるから、もういいわよね。
 そっちを読んでから、読んでね。
 二度目なので、気が向いた箇所をガン見するという手法で観てきたの。なので、気がついたことの羅列です。

 
 前回観たとき、台本がかなりカットされているなと感じて、どこだろうと気になってた。ので、今回、注意して観てみたの。カットがわかった箇所は、最初の、兵士達が亡霊を発見するシーンのホレイショーの長い台詞。それからポローニアスが、フランスに帰った息子の様子をこっそりスパイしてくるように家臣に命じてるシーンまるごと。それと、ローゼンクランツとギルデンスターンの二人の台詞はあちこち細かくカットしてあるかも。クローディアスとレアティーズがハムレットを陥れる相談をするところも小さなカットがあるし。
 個人的には、最初のホレイショーの台詞のカットは残念だったー。亡霊が現われた不吉な予兆を、ローマ帝国時代を引き合いに出して語るところで、シーザーの名前も出すんだよね。横田ホレイショーがついこの間までシーザーだったことはこの芝居とはなんの関係もないけど、個人的にはこの台詞、聞きたかったわ。それにね、ここでローマ帝国を引き合いに出したことは、最後のほうの台詞と呼応するように作られているんだと思うのよね。ホレイショーがハムレットと一緒に死にたいと言うとき「デンマーク人であるより、古代ローマ人でありたい」って言って毒酒を飲もうとするでしょ? 最初と最後で、対になってる台詞だと思うので、カットしないでほしかった。
 ポローニアスのシーンも、重要なのよ。これがあるから、ポローニアスのせこい用心深さがわかる。だって、がんばって行ってこい!って息子を送り出しておきながら、すぐ息子の様子をスパイさせるのよ? 心配してると言えばそうだけど、凄くみみっちいやり方なの。ポローニアスの人となりをよく表しているシーン。これが無いせい(だけじゃないけど)で、ポローニアスが普通の好々爺みたいになっちゃって。
 というようにね。台本のカットは難しい。
 『ハムレット』の台本は長いので、カットもやむを得ないことだと思うわ。だけど、話はつながっても、カットによって失われるものは必ずあるの。それが芝居全体に、ボディーブローのように効いてくる。
 
 平クローディアスのテンポはすこーしだけアップしてた。でも、ますますクローディアスに疑問がわいたわ。亡霊とクローディアスが同一人物に見えるんだもん。兄貴を暗殺した奴に見えない。なにか企んでるように見えない。この前提が崩れると、ハムレットは成立しないじゃない?
 
 満島真之介のレアティーズはヤンキーだねえ。そういう演出ならしかたないけど、狙いでそうしたのか、それとも、そうなっちゃったのか・・・。死の間際の「許しあおう」っていう台詞が、高い生まれの人たちどうしに聞こえないよ。
 さい芸の回廊のところで今、歴代ハムレットの写真展してるでしょ? 12年前の藤原ハムレットのフェンシングのシーンの写真もある。剣を構えるハムレットがこっちを見ていて、こちら側には白い服を着た人物の後ろ姿が大きく写っている。立ち姿が凛として美しく、貴族の生まれの匂いが立ち上る後ろ姿なの。顔は全く写っていないけど、これは井上芳雄。演技はうまくなかったけど、あのときのキャスティングは間違ってなかった、と立ち姿を見て感じたの。
 今回のレアティーズとハムレットのフェンシングのシーンは、ヤンキーな匂いがいっぱいよ。藤原竜也の運動神経がいいのは、再確認したけど。
 
 横田ホレイショーは、学者らしいつくり。凄く控えめに造形されていて、25日に観た時には、ハムレットが「君はしもべじゃなくて友人だ」って言うのが嘘くさかったの。完全にしもべっぽかった。でも5日に観たときは、より友人らしくなっていた。藤原ハムレットがちゃんとホレイショーを友人として扱い始めたのね。幕が開いて間もなくは、友人を見つめる余裕がなかったということかしら。
 ホレイショーも、最後の台詞に、より力がこもっていた。二人の関係は、5日の方がずっとよかったわ。
 
 マダムがいちばん可哀想に思ったのは、満島ひかりだ。
 満島オフィーリアは、演出家から放っておかれているのじゃない? 造形が全然定まらない。どうしていいかわからなくて、困っているかのよう。蜷川演出は、女優に冷たいわ。関心がないのかしら。
 藤原ハムレットのオフィーリアに対する演技も、なんだかぞんざいなのよ。ハムレットは大変な役で自分のことで精一杯かもしれないけど、他の役はともかくオフィーリアに対しては、もっと一緒に芝居を作ってもいいのでは?
 前回は気がつかなかったんだけど、例のスローモーションのシーン、オフィーリアはちょっとだけ参加してるのね。その場で、手をスローに動かして、ハムレットの方を見てるんだけど、すぐ後ずさりして消えてしまう。この演出の中途半端さはなに?何を表現したいのか、さっぱりわからないわ。

 
 さて、二回目の観劇で思いも寄らぬ発見があった。
 劇中劇のシーンで、ひな壇が出てきて、お内裏さまとお雛さまが段を降りながら台詞を言うじゃない? その間、他の人物はただ座ってるだけで、お飾りなんだけど。
 三人官女のひとりとしてじっと座っているのが、岡田正だったのよー。もう、オペラグラスでガン見。心の中でひとり大爆笑してたの。ほんとに楽しいったらない。
 こんなふうな、力の抜けた見方が出来ちゃうなんて、チケットを買った時には予想だにしてなかったよ。芝居に圧倒されて、倒れたかったのに。そのつもりの二度目だったのに。
 人生って上手くいかないわ。 

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その4

 えっと、その4から読まずに、その1から読んでね。
 
 

 
 マダムはこれまで、何本のハムレットを観たかしら。
 たいした本数にはならない。ハムレットをやれるタフで端正な役者はめったやたらにいるわけじゃないしね。
 ハムレットというとオフィーリア、と、すぐ名前が出てくるけど、この芝居は恋愛なんか描いていない。復讐劇っていう言い方もあるけど、復讐もなかなかしない。
 これは、行動できずにずっと頭の中でぐるぐる考えてばっかいるうちに、周りを不幸の連鎖に巻き込んでいってしまう、かなりダメダメな王子の物語。
 それなのに、ひとつひとつのシーンを丹念に積み重ねていくと、最後にハムレットが死んでホレーシオが「おやすみなさい、やさしい王子さま(たしかsweet prince)」って言うところで、もうどうしようもなく悲しくなって、ホレーシオと一緒に泣いちゃう。ダメな奴のはずなのに、その死がとても辛い。どこがsweetやねん!ていう王子なのに。
 だけど、今回、マダムは全然悲しくならなかった。
 悲しくならなかったのが、悲しかった。

 

 芝居を、マダムは1枚の織物によく例えるのだけれど。
 
 12年前の『ハムレット』は糸の材質も考え抜かれて選ばれ、きめ細やかに織り上げられていたわ。その中にあったからこそ、藤原ハムレットはハムレットたりえていたんだわ。あのハムレットはやはり金字塔だったのよ。(そのレビューは藤原ハムレットの衝撃と寂しさ その1その2その3 。この記事を読み終わったあとに、どうぞ)
 今回の『ハムレット』では、糸の1本1本の材質も太さも違い、織りも眼が粗かった。もともと力技な演出家であるから、眼が粗いことはしばしばあったけれど、今回は特別に粗かったよ。演技の質がバラバラで。舞台の上で、クローディアスはクローディアスであるより平幹二朗だったし、ハムレットはハムレットであるより藤原竜也だったし。
 それは、演出家がこれまで歩んできた道を思い起こさせたの。蜷川幸雄が広く人気を勝ち得たのは平幹二朗による『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『王女メディア』があるからだし、平幹二朗を失ったあと模索が続いた蜷川演出に再び人気をもたらしたのは、弱冠15歳の藤原竜也の『身毒丸』だったんだし。クローディアスの向こうに忠兵衛が見え、ハムレットの向こうに身毒丸が見えるような。
 その上に、次を託してみたい期待する若手をフォーティンブラスに据えたのね。ネクストの内田健司を特別な演出で忘れがたいものにしたのも、100%作品に寄与するためとは言えない、演出家の意図を感じるの(ぼんやりとだけどさ)。
 だから、悲しくならなかったのには理由があったの。マダムの前に広げられた織物は、ハムレットという名の織物じゃなかった。これは、ニナガワユキオという名の織物だったんじゃないか。
 それが、考え抜いたマダムの得た結論です。
 
 集大成って、そういう意味だったの?
 まさかね。

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その3

 しつこいようだけれど、ネタバレありなので、これから観劇予定の人は読んじゃダメ。観てから、また来てね。





 ツッコミどころ満載であっても、マダムはなぜ飽きること無く観続けることが出来たのかしら?
 いくつか理由があるとは思うのだけれど、一番は、それでも藤原竜也がハムレットに見えたから、なの。
 あー、もうここで、マダムがずっと抱えてきた思いを全部、書いてしまうよ。
 
 2005年9月、マダムは初めて藤原竜也の舞台を観た。蜷川演出の『天保十二年のシェイクスピア』、エネルギーに満ちた素晴らしい舞台で。いろんな意味でマダムにとってターニングポイントになった芝居なんだけれど、それはともかく、すでに圧倒的な人気のあった藤原竜也を、マダム自身が発見した瞬間だったの。
 以来、マダムは藤原竜也の舞台を全部、観ているわ。見逃してしまった『ハムレット』も『ロミジュリ』もちゃんと映像で観たし。でも映像で観たものは、本当に観たうちに入らない。
 そして10年近く追いかけてきたけれど、最初に観た「きじるしの王次」以上にマダムを感電させる演技は、現われなかった。もちろん、面白いものはいろいろあったし、期待し過ぎだったのかもしれない。マダムはだんだん失望するようになった。なにかが違う、と言葉にならない不満を抱えるようになった。それでも、彼の演じるシェイクスピアを生で観たいとずっと待ってたの。
 若い時にハムレットやロミオを演った役者に期待することは、年齢を重ねるうちに、その時々の最適な役を演じていってもらうことよ。たとえば、マダムにとって吉田鋼太郎との出会いは凄く幸福な出会い。オーシーノー公爵(十二夜)を観たとき、彼は22歳。以来、ハムレットもマクベスもリチャード三世も見せてもらったし、年を重ねてシャイロックもマルボーリオもリア王もフォルスタッフも見せてもらった。この後もきっと、またリアを見せてくれると思っているしね。そんな風に、役者と一緒に年齢を重ねていけたら、マダムは年を取ることは怖くない。
 だから、藤原竜也がシェイクスピアを演じるのをずっと待っていたし、『ジュリアス・シーザー』のアントニーを演じることがわかった時の、期待の大きさがわかってもらえるかしら? そして彼がずっとぶつかったまま乗り越えられずにいる壁を今こそ乗り越えてほしいと、拳を握りしめて芝居を観たのよ。だけど結果はいまいち。格好いいのよ。格好はいいんだけど、アントニーの生命線とも言うべき演説がさ・・・。
 なので、マダムは今回のハムレット、期待より不安の方が大きかった。ハムレットは台詞の人だし。
 それがね。現われた藤原ハムレットは、「ジュリアス・シーザー」のときの定まらないアントニーとは違って、ハムレットだったー。不思議なくらいハムレットが似合うの。ただ、台詞術は12年前とあまり変わらない。12年前にすでに出来上がっていたとも言えるし、12年間積み上げたものが少ないとも言える。それなのに、どうして、ハムレットに見えるのかしら? 逆に不思議でしかたなかったわ。それで、芝居を観ながら、観たあとも、ずっと考えていたの。
 もちろん、主役を引き受けるだけの覚悟とかオーラとかエネルギーとかは、さすがなの。でもそれだけでハムレットが似合うわけもないでしょ。
 考えた末に思い至ったのは、かなり皮肉な結論。
 藤原竜也にマダムが感じていた壁の正体は、「相手との通いあいの欠如」だった。彼の台詞はいつも、相手がいる時も、独り言っぽいの。本来、台詞は、話しかける相手が違えば変わってくるでしょう? 相手の反応が違えばまた、変わっていくでしょう? でも彼の台詞は、相手が違ってもあまり変わらないのよ。変われない、のかな。
 だからアントニーの演説は、彼にとって最大の壁だったに違いないわ。だって、演説は独り言じゃないもん。相手の反応を見ながら、説得しなくちゃならないんだもん。
 ところがハムレットの台詞はね、ほとんど独り言なのよ。しかも、相手がいる時でさえ、ハムレットはどこか上の空なの。半分独り言みたいに喋ってる人なの。だから、壁を乗り越えてない藤原竜也の台詞術が、かえってハムレットにぴったりだったのよ・・・。
 
 身も蓋もないことを言ってしまったかもしれないわね。
 でも、10年近く藤原竜也を見守ってきたのだから、嘘をつくわけにはいかないの。
 その4では、総まとめします。
 あー、倒れるかも、マダム。

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その2

 まさかその2から読む方はいないとは思うけれど、今一度、注意喚起。この記事はネタバレ三昧ですので、これから観劇の方は、読むの禁止です!

 
 
 さて、フォーティンブラスについて。
 フォーティンブラスは、場面としては二回しか出てこない、言わばちょい役なのだけれど(そして、ちょい役としてしか扱われない演出もたくさんあるけれど)、これまでの蜷川演出のハムレットでは、とても重要な役として扱われてきてるのね。で、ハムレットの台詞をちゃんと聞くと、チラッとしか出てこない他国の王子がぴりっと効いてくる存在だってことは確かなの。1度目の登場のときにはハムレットに「俺はうじうじしてるだけなのに、あいつは一国の王子としてちゃんとやってるよなあ、若いのにさ(マダム超訳)」って言わせてるし、2度目のときはハムレット亡き後のデンマークを託されるんだから。
 でも、蜷川演出ではホンが示す以上のこだわりを演出家がもっているのがわかる。たとえば小栗フォーティンブラスはパンクロックみたいないでたちで現われて、死んだハムレットにキスしてたし、成宮フォーティンブラスはバイクで現われてライフルぶっ放したりした(見てないけど)。ムダに派手(@マダムM)とも言えるフォーティンブラスなの。
 今回の内田健司のフォーティンブラスも演出家のこだわりが激しく見えたのだけれど。マダムが名付けるとしたら「ひきこもりなフォーティンブラス」といったところかしら。ポーランドへ遠征軍を率いて進軍中のはずなのに、しゃがみこんで指で地面にお絵描きしてる(ように見えたけど?)。台詞はつぶやきなので、ほとんど聞き取れない。まったく意味不明。ここまで意味不明だと、面白いとも言えるわ。
 極めつけはラスト。またも意味不明な上半身裸で現われたフォーティンブラスの台詞は、やっぱりつぶやきで、全然聞こえない。(ムダに地味なフォーティンブラス!) ホレーシオが横田栄司でよかったわ。フォーティンブラスが締めくくらない芝居を、ホレーシオの台詞でちゃんと結着つけてくれたから。

 満島ひかりのオフィーリアはとにかく可愛らしかった。凄く可憐だった。なのに、葬儀の時、なんで役者じゃなくて人形なのか、凄ーく不思議だった。ハムレットを見るときマダムはいつも、ハムレットは本当にオフィーリアが好きだったのかしら?と半信半疑になるのだけれど、墓穴に飛び込んで彼女の遺体を抱き上げるのを見て、あー、やっぱりホントに好きだったんだ、って毎回思うの。でも、今回は満島ひかりの可愛らしい顔が見えず、人形相手のハムレットの演技はいまいち盛り上がらず。なんで人形なの?こんなところケチるところだろうか。
 
 これだけいろいろと疑問に思っても、飽きずに最後まで見続けたのはなぜかしら?
 その3で追求するわ。藤原竜也と蜷川幸雄とマダムとの総括になるのかも・・・。

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その1

 今年最初の観劇。期待と不安のいりまじった気持ちで出かけていったわ。1月25日(日)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。
 
彩の国シェイクスピア・シリーズ番外編
『ハムレット』
作/シェイクスピア 翻訳/河合祥一郎 演出/蜷川幸雄
出演 藤原竜也 満島ひかり 満島真之介 横田栄司 内田健司
   たかお鷹 鳳蘭 平幹二朗 ほか

 
 藤原竜也の12年ぶりのハムレットである。
 マダムは、12年前、見逃してしまっていて、このブログを始めた後に映像で見る機会があり、あまりの素晴らしさに膝が震えたほどだったの。
 今回、彼が33歳になって挑むハムレットを見るとき、12年前の(映像でしか見てないけど)と比べてしまうかもしれない自分を、どんな風に扱っていいか、困ってしまってね。だから、ブログでもその話題に触れてこなかったの。いつもなら、「キャーッ、藤原竜也のハムレット、遂に来たーっ」とかってはしゃぐところなんだけど、全然そんな気になれなくて、観劇の日が来るのをひとり身を潜めてじーっと待っていたのよ。
 それで、今、感想を書き始めると、怒濤のように言葉があふれそうだけれど、全てがネタバレになるので、観劇を予定している人は、事前に読むのは禁止。必ず、必ずここで引き返してね。観終わってから、読みにきてちょうだい。
 
 
 
 
 いいかしら?
 
 全体として飽きること無く楽しんで観たの。でも、期待していたような感動の嵐は吹き荒れなかったわ。
 そして、思ったことは大きく言って、ふたつ。ひとつは、蜷川演出に対するたくさんの疑問。もうひとつは、藤原竜也はなぜハムレットが似合うんだろうか、ってこと。ここはもう、腰を据えて、このふたつについて徹底的に書いちゃうからね。
 まずは、蜷川演出について、だ。
 
 劇場に着くと、舞台上にはなぜか下谷万年町のときみたいな長屋のセットが組まれていて、「日本で初めてハムレットが上演された頃に貧しい人たちが住んでいた長屋のセットで、私たちは芝居の稽古を始めます」というような前書きが日本語と英語で映されていた。蜷川演出のこんなサプライズはよくあることで、正直言ってマダムは飽きているのよね。ハムレットに長屋!?みたいな、なんていうか異化効果的なことを狙っているのかな、とも思うけれど、意外な組み合わせは化学変化を起こしてこそのことで、蜷川演出のなかで成功することもあれば失敗してる時も数多くあることなので。
 先に言っちゃうけど、長屋のセットは結局あんまり役立ってなかった。スモークが沢山たかれていて、セットが見えなくなることも多く、途中で長屋のセットだっていうことを忘れたし。そのセットのせいで、さい芸のステージの特徴である奥行きが使えず、役者の動きがちいさく感じられたしね。唯一、セットに組まれていた井戸が脚光を浴びる瞬間があったんだけど、それについてはまたあとで。
 それでセットが長屋ってことは、衣装も和風?と思ってマダムは脅えたね。かつてのNINAGAWAマクベスとかを思い出し、もうそれはいいです、って心の中で言ってたら、衣装は洋風で、ほっとしたわ。
 で、長屋の二階に先王の亡霊が現われて、お話が始まる!ってワクワクしたのも束の間、次のシーンで、あれ?と思ったのよ。
 テンポがメッチャ、遅いの。クローディアスが出てくると、物語のスピードに急ブレーキがかかるのよ。平幹二朗の台詞が、朗々として少し時代がかってるのはまあよしとしても、言葉は悪いけど、動きが緩慢。亡霊を演じてる時はテンポがピッタリなんだけど、クローディアスはもっと精悍であってくれないと・・・。あとで聞いたら、膝が悪いのだそう。そりゃ無理もない、80を超えられているんだもの。そのお年も素晴らしいキャリアに対してもマダムは敬意を表するわ。でも、クローディアスの演技が芝居全体にブレーキをかけてしまった事実に変わりはないの。演出家に訊きたいのは、今回のハムレットはいったい何歳の設定なの? それに対してクローディアスは何歳の設定なの?ってこと。
 致命的じゃないかと思われたのは、劇中劇を観たクローディアスが激怒し、それを見たハムレットとホレーシオが先王が暗殺されたと確信するシーン。またスローモーションを使ったのは受け入れるとしても、そのスローモーションにクローディアスが参加していなかったの。王と王妃が立ち去ってからスローモーションが始まるんだけど、切れ味が悪い。そりゃそうよね。悪事を暴いた側と暴かれた側が同時にスローに動くからこそ、表情や動きにそれぞれの思惑が読み取れて面白いのに。暴かれた側がさっさといなくなっちゃって、暴いた側だけでスローに動いたってさ・・・これも、後から考えたら、平幹二朗にはスローモーションの動きは無理ってことだったんだと思うの。ならば、ならばね。スローモーションという手段の方を諦めるわけにはいかなかったのかしら。こんな中途半端な演出になるより、別な方法を探せなかったのかしら。どうしてもクローディアスを平幹二朗でいくならば。
 全体的に、ハムレットやレアティーズのテンポと、クローディアスやポローニアスや墓堀のテンポが合わなすぎる(ポローニアスのたかお鷹はがんばっていたけどね)。なので、こちらの気持ちが乗っていきそうになったところで、沈んでしまうの。掛け合いが掛け合いにならないし。
 そんなクローディアスに見せ場を作ろうとしたわけではないと思うけど、ビックリする演出は、懺悔のシーン。クローディアスが一人祈っているところにハムレットが通りかかり、剣を構えて復讐しようとするんだけど、祈ってるところを殺すと天国に行っちゃうからやめるっていう、ちょっとまどろっこしい場面ね。たいていはひざまずいて祈ってるんだけど、平クローディアスは井戸のところで裸になって水をかぶるのよ!水ごり?みそぎ?みそぎなの、あれは? 確かに衝撃的なシーンだったよ。でもマダムは、大丈夫なの、平幹二朗?倒れちゃわないの?って気もそぞろ。凄く大切なシーンなのに、役者の体の心配しちゃってて、ハムレットの台詞が聞こえてなかったよ・・・はっきり言って悪趣味な演出だと思う。マダムは嫌いです。
 
 その2は、見たことのないようなフォーティンブラスについて、から。 

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