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蜷川幸雄

2019年10月18日 (金)

『蜷の綿』または、生きてる者は前に進む

 台風が去って、まだ爪痕だらけの夕方。10月13日(日)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。
 
彩の国さいたま芸術劇場会館25周年記念
『蜷の綿ーNina's Cotton』リーディング公演
作/藤田貴大 演出/井上尊晶
出演
さいたまネクストシアター 周本絵梨香 鈴木彰紀 竪山隼汰 手打隆盛 堀源起
             内田健司 中西晶 
平山遼 續木淳平 阿部輝 
             銀ゲンタ 鈴木真之介 髙橋英希

さいたまゴールドシアター 石井菖子 石川佳代 大串三和子 小渕光世 葛西弘
             神尾冨美子 上村正子 
北澤雅章 小林允子 佐藤禮子
             重本惠津子 田内一子 髙橋清 瀧澤多江 
竹居正武 
             谷川美枝 田村律子 ちの弘子 都村敏子 遠山陽一 
             
徳納敬子 中村絹江 西岡嘉十 林田惠子 百元夏繪
             宮田道代 森下竜一 渡邉杏奴

 
 
 蜷川御大が亡くなって3年、さい芸では御大が演出するはずだった作品をいろいろな人が引き継いで、上演してきた。シェイクスピアシリーズは吉田鋼太郎演出で、ゴールドシアターの『薄い桃色のかたまり』は岩松了演出で、そしてこれが最後に残っていた。『蜷の綿』。
 『蜷の綿』は蜷川御大についての物語。藤田貴大がインタビューを繰り返して、御大から聞き出した人生を、人生について語った言葉を、作品にしたもので、これを御大自身が演出するのって、本気だったのかしら? マダムの思い浮かべる蜷川幸雄という人のシャイさから言うと、時間があったとしても演出は相当難航したのではないか・・・と思っちゃう。だって、自分が主役の物語なんだよ?


 
 大ホールの席に着いてみると、席を何列か潰して花道が作られていた。花道をゆっくりと壮年担当の内田健司が現れて、語り始めたら、これはもう「リーディング公演」とかいう範疇じゃなかった。最初だけ台本を手に現れたけど、内田健司、台本なんか見ちゃいないの。ネクストシアターのメンバーは全員、普通の芝居のように、セリフを覚え、演技していた。
 物語は、蜷川御大の一生を描いている。とは言っても、御大本人が語ったことから作り上げられているので、極めて内面的で、御大の頭の中を具現化したような舞台。普通に思い浮かべるような一代記では、全然ない。業績を説明するようなものでも、一切ない。
 だから蜷川幸雄以外の登場人物は、さほど多くない。幼なじみで、戦後朝鮮へ帰って行った朝鮮人の金原。学生の頃、エリートの幸雄を拒絶した桃園。芝居を始めてから知り合った倉橋健や三好十郎や清水邦夫。妻の真山知子。商業演劇へ向かう時、袂を分かった蟹江敬三らの仲間。
 一方で舞台上には蜷川幸雄がいっぱい。蜷川役が幾重にも重なり合って存在して、セリフを繰り返し(藤田貴大おはこのリフレイン)呼応し合う。壮年担当の内田健司を始めとして、少年は中西晶、青年は竪山隼汰、そして自身の心の声(客観性の声のような)であるニーナをゴールドシアターが全員で担当しているの。ゴールドシアターには椅子と台本台が与えられていて、自分の番になると立ち上がってセリフを読む。つまりリーディング公演というのは、ゴールドシアターのために一応銘打たれていたのであって、内実はしっかり芝居として作られていたの。
 マダムは、マームとジプシー(藤田貴大主催)の凄さを認めつつも、あまり好みではなくて敬遠しがちだったのだけど、今回の『蜷の綿』の台本の良さには唸った。これだけの数の老若、タイプの違う役者たちがリフレインした時、蜷川御大の心の中の層が分厚く、多面的に伝わってくる。ニーナが問い、幸雄は惑う。幸雄が問い、ニーナは問い返す。ニーナが突きつけ、幸雄は知る。ただの繰り返しではない、時間の厚みと意味の変化がしっかり感じられて。御大はそうやって、長い演劇活動をひとりで歩んできたのね。
 なかでも、御大の核となったのは、自分が恵まれていて恥ずかしい、という気持ち。子供の頃の友達ーーー差別を受けていた金原や、貧しさに喘いでいた桃園に対し、自分は何が言えるのかを、ずっと考えてきたこと。そして、老いた自分が今度は若い人たちに、見せられることは全て見せてやりたい(自分のはらわたですらも)という強烈な気持ち。
 
 演出は、ずっと御大を演出補として支えてきた井上尊晶。インタビューでも言われてたように、御大ならどんな演出をしただろうか、と考えながら進んでいったらしい。使われる音楽は、御大が数々の作品で使ってきた、こちらの耳に馴染んだものばかりだし、音の入れ方がまさに蜷川流。能の鼓の音の入れ方があまりに御大っぽくて、ちょっと笑ってしまうくらい。
 薄い幕のこちらと向こうで演技し合うとか、防空壕の中で見つけた女の死体の着物の鮮やかな赤とか、川口の町から見た、東京大空襲の焼夷弾が輝く空とか、ホリゾントに映し出される舞台写真のにじむような色とか・・・オープニングで出演者たちが、あの奥行きの広い大ホールの奥の暗闇からゆらゆらと現れるところ。ラストでまた、奥の暗闇へ皆で歩き去っていくところ・・・。全てのシーンが、蜷川演出のエッセンスで出来上がっていた。
 それは、井上演出がものまねだということではなく、関わる全てのスタッフとキャストが蜷川御大から受け取ったものを精一杯表現すると、このような舞台になった、ということだと思った。

 だから観終わってわかったのは、これは、御大に育てられて演劇のバトンを手渡された人たちの、壮大な、別れの儀式だってこと。チケット代2500円のリーディング公演とは思えない、さい芸の力の結集ぶりだったの。
 この作品があって本当に良かったよ。みんなこれで、前を向いて生きていける。儀式は終わったのだし、生きてる者は前に進まなきゃ。受け取ったものをしっかりと握りしめて。

2018年1月25日 (木)

1981年の『近松心中物語』 その2

 思えばこの時の『近松心中物語』(長いので以下『近松』と略す)は、蜷川御大が商業演劇に進出して数年が経ち、演出家として圧倒的スターダムにのし上がる、駄目押しのような作品だったの。
 そして私たちが馴染んだ(時には、またか、と思った)演出方法は、すべて『近松』に揃っている。御大の好きなものばかり。
 そびえる二階建ての長屋セット。群衆が一挙に動き出す、アッと言わせる幕開き。絢爛豪華な色使い。役者を消耗させるほどの何トンもの水。大音量の演歌。上から降ってくる大量の紙吹雪と風。そして・・・台詞を詠う役者。
 配役は

 忠兵衛=平幹二朗  梅川=太地喜和子  
 与兵衛=菅野忠彦  お亀=市原悦子  
 八右衛門=金田龍之介  忠兵衛の義母=嵐徳三郎  お亀の母=山岡久乃

 
といった具合で、新劇の人、歌舞伎の人、新派の人いろいろいて、異種格闘技戦の様相。これも御大が好きなやり方よね。
 でもね、言っておかなくちゃいけないのは、当時はどれもこれも皆、新しい挑戦だった、ってこと。ほかに誰もやらないようなことを、どんどん取り入れて実現させていったってことなの。帝劇で水。帝劇で大音量の森進一。誰もやろうとしなかったでしょう?考えてもみなかったでしょう?
 
 再演にもかかわらず、パンフレットには舞台写真がほとんど載ってなくて、昔からこうだったんだと改めてがっかりする。そこで、偶然パンフレットにはさんであった切り抜きの舞台写真をお見せしましょ。

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これは、週刊朝日に当時、小田島雄志が連載してた「週刊朝日劇場」のページ。毎週一本の舞台が、小田島先生の解説付きで紹介されるコーナーで、マダムは必ずチェックしていた。

 

 たったいま手にかけた梅川の遺体を抱きかかえて、雪の中をよろよろと進む忠兵衛・・・平幹二朗が、美しい・・・。(初演ではこのシーンで腰を痛め、残り三分の一の公演を代役がすることになった、伝説のシーンね。)
 この美しさもさることながら、平幹二朗と太地喜和子の台詞は詠うようで、人間離れしてたの。辻村ジュサブローが操る人形のように。
 
 ここまで水っぽい演出方法を連発しても、ギリギリ首の皮一枚のところで1981年の『近松』は芸術として踏みとどまっていたんだけど、それは蜷川御大が、そもそもの近松の心中もののテーマを決して忘れなかったから。江戸時代の、庶民の受けていた強烈な圧迫感をなんとか表現するんだと強く思っていたからだと、マダムは今になって、わかるの。忠兵衛と梅川はもちろん、群衆も、そして笑いをとってるお亀と与兵衛の二人さえ、時代の不自由さにがんじがらめになって、喘いでいる。一挙手一投足が決められてしまっている時代。心中するってことは、自由になりたいってことなのよ。壁を打ち破りたいってことなの。それには死ぬしかないという、どうにもならない圧迫感。
 それが舞台全体をちゃんと覆っていたのよ。

 そしてそれが、いのうえひでのり版に欠けているものなの。
 いのうえひでのりは、根が前向きな人なんだよね、きっと。明るいの。
 だから、つかこうへいの『熱海殺人事件』のときもそうだし、今回の『近松』でも、役者の立ち位置、型、音楽の入れ方や、舞台装置の使い方など見事で、エンターテインメントの王道を行く芝居を作ってくれるんだけど、圧迫感とか、劣等感とか、負の要素を込めるねちっこさがないの。カラッとしてるのよね。
 つかこうへいが持っていた、劣等感をネチネチとこねて裏返す複雑な快感。蜷川御大が持っていた、圧迫感をはねのけようとして役者を圧迫する執念深さ。いのうえひでのりには、どちらもないの。もちろん、本人は重々わかってるんだよね。それがダメなことだとは思わない。思わないけれど、少なくとも『近松』には、庶民の受けていた重圧が表現されていなければ、いけないのではないかしら。
 
 マダムは、繰り返し上演された蜷川演出の『近松』を、たった一度しか観なかった。繰り返し、手を替え品を替えて上演された最近の『近松』に、どれほどの圧迫感が残っていただろうか。
 人気が出すぎて、求められるままに再演を重ねて、蜷川御大も気持ちの込めようがなくなっていったのじゃないか、とマダムは推察しているのだけれどね。
 

2018年1月22日 (月)

1981年の『近松心中物語』 その1

 1981年12月、とある日の午後、マダムは帝劇にいた。
 その2年前の初演が評判高く、再演の運びとなった蜷川幸雄演出の『近松心中物語 それは恋』を観に行ったの。席はなんと!最前列。イ列35番(当時の帝劇って、席番がイロハだったのね・・・)。

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 これがその時のパンフレット。





 ワクワクしながら最前列に座ってたら、ホール係の人がやってきて、前から3列目くらいまでの客に、ビニールの風呂敷を配った。「水を使うシーンがありますので、これを使って防いでください」ってね。風呂敷は白地に赤い文字で、芝居の題名が印刷されてて、ちゃんと、くれたのよ。しばらく家にあったと思う。
 テント芝居ではなく商業演劇の劇場で本物の水を使ったのは、蜷川御大が最初なのだろうか?とにかくマダムはますますワクワクしたわけなんだけど、なにせ最前列だからね、こっちの想像をはるかに上回る水が飛んできて、かなり凄いことになった。水はもちろん、お亀と与兵衛が入水自殺を図る場面。いのうえ版を今回ご覧になった方にはわかるでしょうけれど、川の中で与兵衛は溺れることができずにかなり暴れる。それを本当の水でやるのだから、推して知るべし。

 最前列はとにかく強烈だった。忠兵衛と梅川が心中する場面も至近距離。かぶりつきで見たの。そのとき降った雪(紙吹雪)の量がメチャクチャで。今回のいのうえ版の雪が物足りなかった。御大の使った雪の量は10倍じゃきかないかも。最前列のマダムはすっかり雪の中よ。風も凄いから、ホントの吹雪に巻き込まれた感あった。
 
 あんまり前過ぎて、全体を見渡せていなかったのかもしれない。久々に開いてみたパンフの中にあったセットの写真に、びっくり。全然憶えてない・・・。

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 写真が小さくて、わからないかしら?
 二階建ての長屋のセット。舞台をぐるっと囲んでる。

  これ、そののちの下谷万年町とか2015年のハムレットとかのセットとおんなじじゃん? 御大、どんだけ好きだったんだろう、二階建ての長屋。
 ちなみにこの時の装置は朝倉摂。

 でね、音楽は猪俣公章で、歌は森進一で。道行のシーンなんかで、ガンガンかけるわけ、森進一の歌う主題歌「それは恋」。

 そして美術ではなく「アートディレクター」に辻村ジュサブロー。人形を作り人形を操り芝居を作る人だったんだけど、その世界観に惹かれる舞台人が多数いて、御大もその一人だった。『近松心中物語』では人形使いとして出演し、着物のデザインを手がけ、色彩を取り仕切った。この頃の蜷川御大の舞台の美しさ、妖しさは、辻村ジュサブローの力によるところが大きいのね。

 1981年の御大版と、いのうえひでのり版との違いについては、その2で。

2016年5月12日 (木)

ずっと蜷川さんがいた

 今日、蜷川幸雄御大が亡くなった。

 覚悟はとうに、していたはずだったの。けれども、今は、このことの大きさにただ、呆然とするばかりだわ。蜷川幸雄を失って、これから演劇界は大きな曲がり角を迎えるね。
 マダムが蜷川演出に初めて触れたのは、1977年8月16日、帝劇の『三文オペラ』、まだほんの子供の時。そして最後に観たのは今年2月27日、さいたま芸術劇場インサイドシアターの『リチャード二世』この間、なんと40年! そして12、3年くらいマダムは劇場から遠ざかっていたので、正味30年として。さっき、数えてみたら、劇場で観た作品は40本弱くらい。あとから映像で観たものも加えれば、50本以上になるね。それでも、全演出作品の3分の1にもならないでしょう。なんという膨大な仕事量だったの!もう、御大一人で産業を成していたわ。演出業、ではなく、蜷川業といってもいいくらい。
 でもマダムは決して、模範的なファンというわけではなかった。数々の名演出とされる作品を見逃しても来ているしね。みんなが絶賛しても、マダムは首をかしげることもあったし、ブログでもはっきり疑問を呈することもあったしね。
 けれども、30年間の観劇人生で50本以上の作品を観た演出家は蜷川幸雄ただ一人。この事実を前にして、今は呆然と立ち尽くす。
 
 とても1本を選べないので、マダムの観劇人生に多大なる影響があった5本を選んでみるね。
1981年12月帝国劇場 『近松心中物語 それは恋』
2003年12月シアターコクーン 『ハムレット』(舞台は観られず、のちに映像で観た)

2005年9月シアターコクーン 『天保十二年のシェイクスピア』

2008年5月シアターコクーン 『わが魂は輝く水なり』

2015年4月さいたま芸術劇場インサイドシアター 『リチャード二世』

  特に、子育てに追われ劇場から遠ざかっていたマダムを、一気に芝居へと引き戻してくれた『天保十二年のシェイクスピア』は、マダムにとっての金字塔。蜷川幸雄✖️藤原竜也✖️井上ひさし✖️シェイクスピアという莫大なエネルギーで、マダムの芝居道の行方を決定付けてしまった。今、こうやって、ブログを書き続けているのは、『天保』のせいと言ってもいいくらいなの。
 そして、昨年以来の『リチャード二世』。胸の底を揺るがされる作品を、80近くなっても見せてくれた。この驚き、胸の高鳴りを、マダムはずっと忘れないでしょう。

 本当に長い間、お世話になりました、蜷川さん。
 ありがとうございました。

2016年3月 2日 (水)

『リチャード二世』再び

 2月は何も観ずに、この日を待ってた。ダブルヘッダー第1弾。2月27日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール内インサイドシアター。

 
さいたまネクストシアター✖︎さいたまゴールドシアター

『リチャード二世』
作/シェイクスピア 翻訳/松岡和子

演出/蜷川幸雄
出演 内田健司 竪山隼太 松田慎也 竹田和晢 手打隆盛
   佐藤蛍 白川大 百元夏繪 葛西弘 ほか

 
 『リチャード二世』が、蜷川御大の病気による急な上演作変更によって、再演の運びとなったのは、1月のこと。
 以来、マダムはツイッターでも呼びかけたし、友人知人にも勧めたし、自分もすぐチケットを買ったの。再演は偶然のこととはいえ、再演されて当然の作品だと思っていたから。
 ただ、昨年観たときは、インサイドシアター自体初めてだったから、劇場の雰囲気に飲まれていたこともあり。今回、全てを知った上で観ると、また印象は違ってくるのかどうか、ドキドキしながら出かけて行ったの。
 でも、全て杞憂に過ぎなかった。何度見ても、いいものはいいの!素晴らしかったー。ずっと息を飲んで、見つめ続けたわ。もうこりゃ、蜷川御大の代表作の一つになるのでは?
 演出に変更はないので、あらすじを含む流れは去年のレビューを読んでね。胸の底を揺るがす『リチャード二世』その1その2 よ。
 
 あまりにも面白かったので、今年もまたイチオシが『リチャード二世』になってしまうのではないかしら?とさえ、危惧してしまう。新作のみなさん、頑張ってよね。
 よかったところを挙げていくとキリがないので、昨年あまり書けなかった内田健司に絞って、書こう。
 リチャード二世は、ハムレット並みにひとりでブツクサ言ってるんだけど、それがいちいち面白くて。
 
  始めの偉そうにしている頃の「余は命令するために生まれてきたのだ」とか。
  海の波に揺られながら、部下の裏切りを聞いた時の「これほど悪い話をうまく言い表した。うますぎるほどだ」とか。
  下の中庭に降りて来いとボーリンブルック側から求められて、屈辱にまみれながら言う「降りよう、下へ、下へ・・・下へ降りる?裁きの庭へ、王は落ちる」とか。
 ボーリンブルックから王冠を譲渡することに異存があるかと問われての「ない、ある。ある、ない」とか。
幽閉されて一人つぶやき続ける台詞、「私は一人で色んな人間の役を演じるが、どの役にも満足できない。ある時は王になる、すると謀反を思い浮かべ、いっそ乞食の方がいいと思う。そこで乞食になる。すると貧しさに押し潰され、王だった時の方がましだと思う。そこでまた王になる、するとたちまち・・・」とか。
  台本読んでも一見、どんな意味があるのかわからない台詞が、ひとたび内田リチャードの口から出ると、彼の人物を余すところなく伝えてくれるので、聞き惚れてしまうの。王である傲慢さ、王である誇り、王を降りる屈辱、運命と折り合いをつけようともがく心・・・時折、ささやくような小声にもなるけど、観客は皆、必死に耳傾けて、彼の声を聞き取ろうとする。だって、もっと聞きたいから。彼の哲学的な薀蓄を聞きたいから。そういう薀蓄を喋らずにいられないリチャードという人の造作がメチャクチャ面白いから!
 内田健司の台詞は、素晴らしい。意味を伝えるところを遥かに通り越し、リチャードの人となりを語ってくれる。すると、マダムは、芝居の中のリチャードがどんなに愚かでも、どんなに弱々しくても、どんなに惨めでも、色っぽいなあって思うのよ。
 だからさ、イケメンであるかどうかなんて、ちっぽけな要素なのよ。どうでもいいの。台詞がその人物自身を鮮明に描き出した瞬間、その役者はイケメンになる。
 

2015年10月25日 (日)

さい芸で『ヴェローナの二紳士』を観る

 月に1本シェイクスピアを観るシリーズの10月はこれ。10月24日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

『ヴェローナの二紳士』
作・シェイクスピア  翻訳・松岡和子
演出・蜷川幸雄  演出補・井上尊晶
出演 溝端淳平 三浦涼介 高橋光臣 月川悠貴
   大石継太 正名僕蔵 岡田正 河内大和 横田栄司 ほか

 ここのところ、マダムの心はロンドンと神宮に行ってしまっていて、日本の劇場の呼び声が耳に聞こえなかった。だけど、チケット買ってあったし、出かけてみたの。そうしたら、前から3列目の通路ぎわという絶好のいじられポジションだったので、俄然やる気になって待ち構えてたんだけど・・・役者の誰も、いじりには来てくれなかった。残念だわ。マダムの心を呼び戻したくないのかしら。
 それはともかく、通路を使う演出のおかげで、マダムのすぐ隣でみんな演技するのよ。というわけで、主役4人の美しい青年たち、一人一人を50センチの距離でガン見させていただきました。三浦涼介のなんという美しさ!特にあの、細く伸びた、節さえ細い手があまりに綺麗なので、吸い込まれるように見てたの。眼福だわ〜。

 『ヴェローナの二紳士』は初見。本は30年以上前に読んだはずなのだけど、もちろん忘れていて。でも観て、お話はよくわかった! こりゃ滅茶苦茶な本だとわかったの。
 話のあちこちで、あ、これは「十二夜」だ、とか、あ、この指輪のところは「ヴェニスの商人」っぽいかな、とか色々思うのね。つまりいろんな要素てんこ盛りなんだけど、思いつきばっかりで、凄くこ都合主義でまとめられてて。シェイクスピアの初期の作品らしいけど、処女作と言われてる「ヘンリー六世」を書いた後に、こんなダメダメなの書いちゃってたのか・・・初日が迫ってて3日で書いたのかしら?とか思っちゃった。
 なので、それでもまあまあ楽しく見たんだから、及第点をあげたら?という心の声がか細く聞こえる・・・けれどね!

 まあまあ楽しく見られたのは、主役4人の働きではなく、周りを固めている横田栄司、大石継太、岡田正、河内大和たちの八面六臂の活躍によるもの。ここまで力技でねじ伏せないと、作品を成立させられないんだ・・・と、ちょっと苦笑。上手い役者さんたちの力量を、なんだか無駄遣いしてはいない?頼りすぎでしょ。 
 道化役の正名僕蔵が、本物の犬を連れて出て来るところも、ハラハラしちゃって、マダムはあまり楽しめなかった。

 あんまりな本ではあるけど、それでもドラマがあるのは主役4人のところなので、この4人のシーンがもっと面白くならないかなぁと思った。少し具体的に説明すると。
 ヴァレンタイン役の高橋光臣は、初日にやらかしちゃったことが有名になっちゃってるけど、役柄には合ってる人よね。ヴァレンタインは一本気で、融通の利かないタイプで、まっすぐ過ぎるところが傍目に可笑しい。そこはピッタリじゃない?
 その親友プローティアス役の三浦涼介も、演技はちゃんとしてて、4人の中では一番上手い。美しいしね。
 でもこの二人がしょっぱなに別れを言い合うところから、もう、何かが足りないのよ(舞台上で他の役者たちが小道具を運んだりしていて、客の気が散るのも良くないの)。多分、このシーンで、恋愛とは全く無縁の堅物ヴァレンタインと、女を追っかけることにしか興味のないチャラ男のプローティアスが、鮮やかに対照的でないとダメなのよ。それが伝わってれば、次のシーンでなぜか恋に落ちてるヴァレンタインの可笑しさがいっそう、笑えるし。で、一方のプローティアスは、チャラ男はチャラ男だから、目の前の女を好きなのは本気なんだけど、目の前からいなくなるとすぐ忘れちゃって、違う目の前の女に夢中になる。それも意外じゃなくなる。対照的な二人だってことが、ちゃんと台詞に書かれているんだから、言うだけじゃなく、体で(演技で)、全体的に、客に伝えてくれないと!
 で、そういう全然違うタイプの男ふたりが、親友なわけでしょう?違いを互いに認めて、好ましく思ってる。その親友らしさもまた、最初のシーンで伝わらなくちゃいけないんだよね。だけど、高橋光臣と三浦涼介は、全然親友らしくなかった。だからそのあとの展開が、親友なのに裏切った感がないの。言葉では「親友」って盛んに言ってるんだけど。
 プローティアスは、恋を誓ったジュリアのことをすっかり忘れちゃって シルヴィアに言い寄り、親友を陥れるわ、ジュリアからもらった指輪をシルヴィアにあげようとするわ、最後には力ずくでシルヴィアをものにしようとするわ、とーんでもない男なので、見てると、どんどん深刻になるの。深刻すぎて、色々バレたあとにヴァレンタインがすぐ許すのが、客は受け入れられない。ジュリアとくっついてメデタシとなることも、やっぱり受け入れられない。あっけにとられたまま、笑っていいのか、よくわからないで終わるの。
 三浦涼介のプローティアスの作りが繊細すぎるのね。もっともっと、豪快にチャラ男でいいんじゃない? 男の本能で脳みその95%できてるような。だからジュリアが目の前にいないときは、忘れてるんだけど、小姓の帽子を脱いで女の子のジュリアが現れたら、その場でまた恋に落ちればいいんじゃないのかな。いるじゃない?そんな、ある意味わかりやすい男。そういう風に造作されていたら、客も「うん、そういう肉欲だけのチャラ男って、いるよね。顔がいいからって騙されちゃダメだよ、ジュリア」と思えて、なんとなく笑えたんじゃないかしら。
 
 そして女役の二人。こんなダメダメな本の中にも、ちゃんと良いシーンが用意されているので、そこがもっと心に響くように演出されていたら、マダムはそれだけでこの芝居を観てよかったと感じたでしょう。残念だー。
 それは、お小姓のふりをしてるジュリアが、ジュリアの悲しさをシルヴィアに話し、シルヴィアもそこにいない(ホントはいるけど)ジュリアに想いを馳せて共感する、というシーン。「十二夜」のヴァイオラが公爵に「私の父に娘がありまして、ある人を愛しました・・・」と自分のことを回りくどく語る名シーンがあるんだけど、少し似てる。
 ジュリアの溝端淳平は、可愛い女の子を作り出すことで精一杯。このシーンも頑張ってはいたけど、台詞が次々続くと、何言ってるのかわからなくなってくるのね。そしてシルヴィアの月川悠貴は、台詞を淡々と言うだけで、ジュリアの台詞への反応の演技がない。反応してあげないから、溝端ジュリアが何言ってるかわからなくなるとも言える。
 月川悠貴はもうベテランと言ってもいいでしょ。もう少し上手くなってもいいのに。美しさは確かにピカイチ。マダムの女友達全員を思い出しても、彼みたいに綺麗だった人探せない。女も負ける美しさ。だけど、台詞に感情がこもらないし、相手に反応を返すこともできない。
 マダムは確かにイケメン大好きだけど、芝居心がないイケメンに興味はないの。そういう人は、雑誌のグラビアの中にいればいいのよ。
 
 役者さんにフォーカスしてしまったけど、演出の問題だと思う。ネクストシアターの『リチャード二世』があんなに斬新で踏み込んでいたのに、本公演がこれではね。 マダムは、ネクストシアターのシェイクスピアだけ見ればいいということなのかしら。
 あー、結構笑って楽しく観たのに、書いたら凄く辛口になっちゃった・・・。 

2015年4月16日 (木)

胸の底を揺るがす『リチャード二世』その2

 役者の身体の奥底には、本人も知らない扉がある。

 良いホンや良い演出、良い場を得て、ある瞬間に偶然、その扉は開く。とたんに、信じられないようなエネルギーが放出されて、稲妻となって劇場をかけめぐり、観客を放心状態に連れ込むの。
 偶然が何度か続くと、役者は自分の中の扉のありかを知るようになる。それでも、扉を自分で開けることはできない。やはり、良いホンと良い演出と良い場という、演劇の神様の降臨みたいな偶然がやってこないと、扉は開かないの。
 だけどいい役者は、努力の先に、扉が開く瞬間があることを信じられる。信じて、真摯に役に向かう。
 残念だけど、役者全員が扉を持ってるわけじゃなさそう。でも、持ってないのか、それとも開いたことがないだけなのか、それを始めから判断できる人はいない。
 
 ネクストシアターと、今回共演してたゴールドシアターの役者たちは、扉の存在を認識してない人たち。そして、さい芸の演出家御大は、そういう人の扉を開けてあげるのが大好きなのよ。あの手この手を使って、時には強引にこじ開けるように、扉を開けようとする。
 初めて扉が開いちゃった役者は、放出するエネルギーをコントロールできなくて、出すがまま、になっちゃう。それが時に、ベテランの役者が及ばないほどの力になることがある。御大はそれも好き、なのじゃないかしら。
 ちなみに今回、主役の内田健司もよかったけど、ボーリンブルックの竪山隼太も凄くよかった。ふたりして扉を開いて、エネルギー放出してたわ。しかも違う色合いの。違う色なのが、芝居を分厚くする。
 
 ネクストシアターの「ハムレット」を観て藤原竜也は、自分も是非もう一度「ハムレット」をやりたいと志願したという。今回ネクストシアターを観て、彼の気持ち、わかるなあと思ったわ。懐かしかったんじゃないかな。20歳で「ハムレット」をやったとき、たぶん、今のネクストシアターみたいだったのよ、藤原竜也も、小栗旬も、鈴木杏も、井上芳雄も。自分の中のエネルギーの扉のありかを知らない、あるいはコントロールを知らない、駆け出しの役者だったのよ、みんなね。

 
 ネクストシアターにもうひとつ、面白さの秘密があるとすれば、劇団だってことかしら? 秘密でもなんでもないけど。
 この10年くらい、劇団ではなく、プロデュース公演が演劇の主流を占めてた。公立系の劇場が芸術監督を置いて企画するのも、プロデュース公演だしね。御大しかり、野田秀樹しかり、野村萬斎しかり。劇団として君臨してるのは、宝塚とか四季とか新感線とか、劇団というより巨大プロジェクトみたいな集団しか見当たらなくて。このブログで書いてきたレビューも、ほとんどがプロデュース公演の芝居だもん。それとも、マダムが知らなかっただけ? そういうわけでもないとおもうけどな。
 マダムが劇団、と言って思い浮かべるのは、やっぱりつかこうへい劇団とか、夢の遊眠社とか、シェイクスピアシアターとか、なの。そういう劇団らしい劇団が出てきにくい10年だった、のじゃない?
 だけどここへ来て、俄然、劇団は盛り返してる。イキウメとかハイバイとかマームとジプシーとかあれとかこれとか・・・劇団は芝居の原点。そこからしか生まれない芝居を作り出すユニークな場所。
 ネクストシアターとゴールドシアターは、若い頃劇団活動で挫折した御大の、初めて作った自分の劇団。好きなように結界(小屋)を組み、劇団員を切磋琢磨させ競わせ、気に入らない役者をひっこめ、気に入った役者を追いつめてる。プロデュース公演みたいに、名のある役者に気を使うこともないし、下手な奴に下手というのを我慢する必要もないし。役をつけるもつけないも、前日まで決めなくていいし。いちばん楽しくて当然よ。だって、劇団なんだからさ。楽しいから演出も冴えるのね。
 このまま、さい芸の本公演より面白い状態が続くかもしれない。そんな気がする。そしたらマダムも本公演はヤメといて、ネクストシアターだけ行く、みたいなことになるかもね。
 それはそれで全然OKだわ。なにか問題でも?

2015年4月14日 (火)

胸の底を揺るがす『リチャード二世』その1

 毎月1本観るシェイクスピアの、4月はこれ。4月12日(日)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール、インサイドシアター。

さいたまネクストシアター第6回公演
『リチャード二世』
作/シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/蜷川幸雄
出演 内田健司 竪山隼太 松田慎也 竹田和哲
   手打隆盛 長内映里香 白川大 百元夏繪 ほか
   ネクストシアター+ゴールドシアター

 面白かったー! 面白いシェイクスピアが観られた時の、この、ざわざわと胸の中の湖が波立つような感じ!これよ、これ。久しぶりだー。
 ネクストシアターを観るのは初めて。だから、いつもと違うルートにいざなわれてさい芸の大ホールの、普段なら舞台上にあたる場所に組み立てられた階段席にすわったら、もう、ワクワクしちゃった。昔々、紀伊國屋ホールの階段に座ったり、花園神社のテントの中に腰を下ろしたりして、芝居が始まるのを待っていた、あのワクワク。
 その一方で、このかたい座席で3時間、マダムは耐えられるのか、少し風邪気味だからいねむりしちゃうのではないかしら?などとも思っていたけど、そんな心配は杞憂だったー。

 舞台の上に客席を組んでもなお、広い広い舞台。明かりがつくと、遠くから人々のさざめきが聞こえ、列を組んで、羽織袴と留袖の大勢の男女がゆっくりと進んでくる。それもみんな車椅子で。40台くらいの車椅子が一斉に進んでくるのは圧巻ね。
 正装の老若男女たちは、王の広間に集まった貴族たち。車椅子を脇によせて、いきなりタンゴを踊り出す。そこへタキシードを着た王リチャード(内田健司)が電動車椅子で登場して、お話が始まる。衣装は、若者はタキシード、年配者は着物で統一されていた。両者とも、衣装が似合って、融合が違和感なく、しっくりきたわ。
 「リチャード二世」は滅多に上演されないし、マダムも観るのは初めてで、読んだこともなかった(と思うのだけど)。でも、シェイクスピアの語り口にすっかりなじんでいるせいか、すぐ人間関係が理解できたわ。王リチャードは、貴族の争いを裁いて、決闘すると息巻く二人を、二人とも追放することで命を救ってやるのだけど、この温情ある裁きが仇となって、あっという間に王の身分から転落するの。助けた一人はいとこのボーリンブルック(竪山隼太)。やがてヘンリー四世となる人ね。
 追放する前に、リチャードはボーリンブルックの白いシャツを脱がせ、上半身裸の彼とタンゴを踊る。男二人のタンゴが凄く色っぽい。ただこの時点では、あー、またニナガワさん、若い子脱がしてんのかー、と思って、芝居の行方が心配になったよ。だけどね、今回はこの演出に大きな意味があったの。
 服を脱いでタンゴを踊るのは、王に対する忠誠の証し。リチャードは「忠誠を誓え」という代わりに、シャツを脱がせてタンゴの相手をさせるの。やがてリチャードが王の立場を追われ、ボーリンブルックが実権を掌握した時には、今度はボーリンブルックが他の貴族のシャツを脱がせてタンゴを踊るの。
 王に忠誠を誓うということは、裸になって身を捧げるようなことなのよ。権力者は好きな時に、好きな相手の服を脱がせてタンゴが踊れる。権力者にとっては身をくすぐられるような楽しみであり、強要される方にとっては屈辱であるとともに寵愛を受ける喜びでもあるのね。そんな複雑な両者の思いが、言葉を使わずにタンゴのステップで強烈に表現されてる。うなったわ。舞台上で色っぽいっていうのは、こういうことを言うのよ。
 
 リチャードは判断を誤り、ボーリンブルックの命を助けて追放した。そしてアイルランド討伐に自ら国を空けて旅立つという、更に大きな誤りを犯す。ボーリンブルックは兵を挙げ、リチャードの留守を狙って攻め込む。すると、リチャードに従っていた貴族たちは雪崩を打って、勢いのあるボーリンブルックに付くの。ボーリンブルックは、あくまで失われた地位と領土を返してもらいたいだけだと主張するけど、ここまできちゃったら、王冠を頭に載せない理由はない。捕らえられたリチャードは幽閉される。
 だけど正当とはいえないやり方で実権を握ったボーリンブルックに対し、やはり謀反の企てはある。未然に防いだものの、自分のいとこのオーマール公(ヨーク公の息子)も加わっていたことが発覚し、ボーリンブルックは彼の処遇に困る。このシーンが凄い。たとえ息子でも、裏切りを真っ先に知らせて家名を守ろうとするヨーク公(松田慎也)と、息子可愛さに徹底的に命乞いに走るヨーク公夫人(百元夏繪)の怒鳴り合い、ののしり合いが、真面目で必死なのに、掛け合い漫才のよう。面白すぎる。松田慎也はネクストシアターの若い役者で、老けメイクをして臨み、百元夏繪はゴールドシアターの役者だから、実年齢は松田の母親より上でしょ? 祖母くらいかもしれないわね。そのふたりが、素晴らしく息の合ったののしり合いを繰り広げるの。実年齢なんて、芝居の上では関係なくなる瞬間があるんだーって感心したわ。
 ヨーク公夫人の命がけの命乞いに呑まれるように、ボーリンブルックはいとこのオーマール公を許してやり、ヨーク公爵家を温存してやる。ああ、それこそが、因果はめぐる、だ。自らがリチャードに恩を仇で返したボーリンブルックは、自分が死んだあと今度は、自分の孫(ヘンリー六世)をヨーク公のひ孫(リチャード三世)に殺されるはめになるのよ・・・・。
 
 ここ数年で『ヘンリー六世』や『ヘンリー四世』や『リチャード三世』を網羅してきたマダムは、もう興奮状態。頭の中で家系図が、役者の顔写真付きでどんどん出来上がってったの。この彼(ボーリンブルック)が年取ると木場勝己になって、その息子が松坂桃李で、更にその息子が浦井健治。で、そっちの彼(ヨーク公)の孫が吉田鋼太郎だったり渡辺徹だったり(ダブルキャストっ)して、更にその息子が岡本健一なわけよ!わーい!(さい芸バージョンと新国立バージョンがごっちゃになってる。)
 
 内田リチャードはもともと内省的な人。そこがちょっとヘンリー六世に似てるなと思ったわ。いずれにしたって、王様には向いてない。幽閉されてみじめなはずでも、床の上の、窓から差し込む光のスジをたどって歩きながら、自分の運命を詩的な言葉で解きほぐしたりしてて、意外とこの人、幽閉されたままずーっと生きていけそう、と思わせる。でも、そんなわけないんだった。ボーリンブルックの気持ちを勝手に斟酌してやってきた刺客に、リチャードはあっけなく殺される。
 ボーリンブルックは最後の最後、リチャードを死刑にはできなかったの。正当な王を殺して自分が王になる、という罪を真正面から引き受けることは出来ない。それでいて、早くリチャードが亡き者になってほしいと願わずにはいられなかった。王にはなりたいけど、大悪人のレッテルは貼られたくない。だけど、結局はリチャードの命を奪ったも同然になっちゃって、この中途半端さを一生、背負っていくことになるの。
 
 あー、面白かったー。なんと、今のところ、今年いちばんの芝居よー。大好きなStarSたちや、大ファンの大御所の役者さんたちの芝居を組み伏せて。(ていうか、さい芸の本公演より面白いってどういうことなんだ? これでいいのか?)
 ということで、なぜネクストシアターが本公演より面白くなっちゃうのか、その2でもう少し掘ってみることにするね。

2015年2月 7日 (土)

藤原ハムレット再見

 チケット、買ってあったから、も一度行ったわ。2月5日(木)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール。

 えっと、レビューは既に長いのがアップしてあるから、もういいわよね。
 そっちを読んでから、読んでね。
 二度目なので、気が向いた箇所をガン見するという手法で観てきたの。なので、気がついたことの羅列です。

 
 前回観たとき、台本がかなりカットされているなと感じて、どこだろうと気になってた。ので、今回、注意して観てみたの。カットがわかった箇所は、最初の、兵士達が亡霊を発見するシーンのホレイショーの長い台詞。それからポローニアスが、フランスに帰った息子の様子をこっそりスパイしてくるように家臣に命じてるシーンまるごと。それと、ローゼンクランツとギルデンスターンの二人の台詞はあちこち細かくカットしてあるかも。クローディアスとレアティーズがハムレットを陥れる相談をするところも小さなカットがあるし。
 個人的には、最初のホレイショーの台詞のカットは残念だったー。亡霊が現われた不吉な予兆を、ローマ帝国時代を引き合いに出して語るところで、シーザーの名前も出すんだよね。横田ホレイショーがついこの間までシーザーだったことはこの芝居とはなんの関係もないけど、個人的にはこの台詞、聞きたかったわ。それにね、ここでローマ帝国を引き合いに出したことは、最後のほうの台詞と呼応するように作られているんだと思うのよね。ホレイショーがハムレットと一緒に死にたいと言うとき「デンマーク人であるより、古代ローマ人でありたい」って言って毒酒を飲もうとするでしょ? 最初と最後で、対になってる台詞だと思うので、カットしないでほしかった。
 ポローニアスのシーンも、重要なのよ。これがあるから、ポローニアスのせこい用心深さがわかる。だって、がんばって行ってこい!って息子を送り出しておきながら、すぐ息子の様子をスパイさせるのよ? 心配してると言えばそうだけど、凄くみみっちいやり方なの。ポローニアスの人となりをよく表しているシーン。これが無いせい(だけじゃないけど)で、ポローニアスが普通の好々爺みたいになっちゃって。
 というようにね。台本のカットは難しい。
 『ハムレット』の台本は長いので、カットもやむを得ないことだと思うわ。だけど、話はつながっても、カットによって失われるものは必ずあるの。それが芝居全体に、ボディーブローのように効いてくる。
 
 平クローディアスのテンポはすこーしだけアップしてた。でも、ますますクローディアスに疑問がわいたわ。亡霊とクローディアスが同一人物に見えるんだもん。兄貴を暗殺した奴に見えない。なにか企んでるように見えない。この前提が崩れると、ハムレットは成立しないじゃない?
 
 満島真之介のレアティーズはヤンキーだねえ。そういう演出ならしかたないけど、狙いでそうしたのか、それとも、そうなっちゃったのか・・・。死の間際の「許しあおう」っていう台詞が、高い生まれの人たちどうしに聞こえないよ。
 さい芸の回廊のところで今、歴代ハムレットの写真展してるでしょ? 12年前の藤原ハムレットのフェンシングのシーンの写真もある。剣を構えるハムレットがこっちを見ていて、こちら側には白い服を着た人物の後ろ姿が大きく写っている。立ち姿が凛として美しく、貴族の生まれの匂いが立ち上る後ろ姿なの。顔は全く写っていないけど、これは井上芳雄。演技はうまくなかったけど、あのときのキャスティングは間違ってなかった、と立ち姿を見て感じたの。
 今回のレアティーズとハムレットのフェンシングのシーンは、ヤンキーな匂いがいっぱいよ。藤原竜也の運動神経がいいのは、再確認したけど。
 
 横田ホレイショーは、学者らしいつくり。凄く控えめに造形されていて、25日に観た時には、ハムレットが「君はしもべじゃなくて友人だ」って言うのが嘘くさかったの。完全にしもべっぽかった。でも5日に観たときは、より友人らしくなっていた。藤原ハムレットがちゃんとホレイショーを友人として扱い始めたのね。幕が開いて間もなくは、友人を見つめる余裕がなかったということかしら。
 ホレイショーも、最後の台詞に、より力がこもっていた。二人の関係は、5日の方がずっとよかったわ。
 
 マダムがいちばん可哀想に思ったのは、満島ひかりだ。
 満島オフィーリアは、演出家から放っておかれているのじゃない? 造形が全然定まらない。どうしていいかわからなくて、困っているかのよう。蜷川演出は、女優に冷たいわ。関心がないのかしら。
 藤原ハムレットのオフィーリアに対する演技も、なんだかぞんざいなのよ。ハムレットは大変な役で自分のことで精一杯かもしれないけど、他の役はともかくオフィーリアに対しては、もっと一緒に芝居を作ってもいいのでは?
 前回は気がつかなかったんだけど、例のスローモーションのシーン、オフィーリアはちょっとだけ参加してるのね。その場で、手をスローに動かして、ハムレットの方を見てるんだけど、すぐ後ずさりして消えてしまう。この演出の中途半端さはなに?何を表現したいのか、さっぱりわからないわ。

 
 さて、二回目の観劇で思いも寄らぬ発見があった。
 劇中劇のシーンで、ひな壇が出てきて、お内裏さまとお雛さまが段を降りながら台詞を言うじゃない? その間、他の人物はただ座ってるだけで、お飾りなんだけど。
 三人官女のひとりとしてじっと座っているのが、岡田正だったのよー。もう、オペラグラスでガン見。心の中でひとり大爆笑してたの。ほんとに楽しいったらない。
 こんなふうな、力の抜けた見方が出来ちゃうなんて、チケットを買った時には予想だにしてなかったよ。芝居に圧倒されて、倒れたかったのに。そのつもりの二度目だったのに。
 人生って上手くいかないわ。 

2015年1月31日 (土)

なぜ藤原竜也にはハムレットが似合うのか その4

 えっと、その4から読まずに、その1から読んでね。
 
 

 
 マダムはこれまで、何本のハムレットを観たかしら。
 たいした本数にはならない。ハムレットをやれるタフで端正な役者はめったやたらにいるわけじゃないしね。
 ハムレットというとオフィーリア、と、すぐ名前が出てくるけど、この芝居は恋愛なんか描いていない。復讐劇っていう言い方もあるけど、復讐もなかなかしない。
 これは、行動できずにずっと頭の中でぐるぐる考えてばっかいるうちに、周りを不幸の連鎖に巻き込んでいってしまう、かなりダメダメな王子の物語。
 それなのに、ひとつひとつのシーンを丹念に積み重ねていくと、最後にハムレットが死んでホレーシオが「おやすみなさい、やさしい王子さま(たしかsweet prince)」って言うところで、もうどうしようもなく悲しくなって、ホレーシオと一緒に泣いちゃう。ダメな奴のはずなのに、その死がとても辛い。どこがsweetやねん!ていう王子なのに。
 だけど、今回、マダムは全然悲しくならなかった。
 悲しくならなかったのが、悲しかった。

 

 芝居を、マダムは1枚の織物によく例えるのだけれど。
 
 12年前の『ハムレット』は糸の材質も考え抜かれて選ばれ、きめ細やかに織り上げられていたわ。その中にあったからこそ、藤原ハムレットはハムレットたりえていたんだわ。あのハムレットはやはり金字塔だったのよ。(そのレビューは藤原ハムレットの衝撃と寂しさ その1その2その3 。この記事を読み終わったあとに、どうぞ)
 今回の『ハムレット』では、糸の1本1本の材質も太さも違い、織りも眼が粗かった。もともと力技な演出家であるから、眼が粗いことはしばしばあったけれど、今回は特別に粗かったよ。演技の質がバラバラで。舞台の上で、クローディアスはクローディアスであるより平幹二朗だったし、ハムレットはハムレットであるより藤原竜也だったし。
 それは、演出家がこれまで歩んできた道を思い起こさせたの。蜷川幸雄が広く人気を勝ち得たのは平幹二朗による『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『王女メディア』があるからだし、平幹二朗を失ったあと模索が続いた蜷川演出に再び人気をもたらしたのは、弱冠15歳の藤原竜也の『身毒丸』だったんだし。クローディアスの向こうに忠兵衛が見え、ハムレットの向こうに身毒丸が見えるような。
 その上に、次を託してみたい期待する若手をフォーティンブラスに据えたのね。ネクストの内田健司を特別な演出で忘れがたいものにしたのも、100%作品に寄与するためとは言えない、演出家の意図を感じるの(ぼんやりとだけどさ)。
 だから、悲しくならなかったのには理由があったの。マダムの前に広げられた織物は、ハムレットという名の織物じゃなかった。これは、ニナガワユキオという名の織物だったんじゃないか。
 それが、考え抜いたマダムの得た結論です。
 
 集大成って、そういう意味だったの?
 まさかね。

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