最近の読書

野田秀樹

野田作品、そのまま歌舞伎になる

 建て替えられた後、初めて行った! 8月12日(土)18:30〜、歌舞伎座。

八月納涼歌舞伎第三部『野田版 桜の森の満開の下』
坂口安吾作品集より
野田秀樹/作・演出
出演 中村勘九郎 市川染五郎 中村七之助 中村梅枝 中村巳之助
   片岡亀蔵 坂東彌十郎 中村扇雀 ほか

 古い歌舞伎座が取り壊される前になんとしても、と子供を連れて行ったのが、2009年の『野田版鼠小僧』だったの。
 そして、新装なった歌舞伎座にまだ行ったことがなかったマダムが、初めて行くことになったのが『桜の森の満開の下』。もう歌舞伎座に戻ることはないのかと思っていた野田秀樹が演出するというから、マダムも一緒に戻ってきたのよ。
 知り合いに「どんな席でも良いので」とチケットをお願いしておいたら、なあんと桟敷席が来てしまって!もう、こんなお大尽気分は最初で最後だろうと、ウキウキしながら出かけて行った。開場と同時に中に入り、お大尽な席を確認してから、三階まで上がって劇場全体を見渡したわ。以前ほど傾斜がきつくなくて、三階席は怖くなくなってた(前は、転がり落ちそうな気持ちがした)。しかし、良い劇場だ〜、歌舞伎座。芝居を観る喜びに溢れてる。
 三階ロビーに掲げられた、亡くなった歌舞伎役者たちの写真を眺め、その錚々たる顔ぶれの中に勘三郎の姿を見つけてちょっと悲しくなり、落ち込んだところに、甘〜いいい香りがしてきたの。吸い寄せられるように屋台でたい焼きを買って、お大尽席でお茶を飲みつつ、たい焼きを食べてたら開演時間になった。
 
 お話は(細かく説明するつもりはないけど)、浦島太郎的な、昔話というか寓話という感じ。耳男という男が一人、竜宮城ならぬ桜の森に迷い込み、妖しくも美しく残酷なお姫様に会い、魂を持って行かれてしまう、そういう物語。そこにオオアマという男の天下取りの副筋が絡む。
 幕が開いた途端、桜の森の湿った美しさに息を呑んだの。
 薄暗い、湿った妖気の漂う、怪しい桜の森。蠢く鬼(妖怪)たち。
 『桜の森の満開の下』は野田秀樹としては再再演くらいらしいけれど、マダムは今回が初めて。芝居が始まって吃驚。完全に遊眠社だーと思って。
 本は言葉を少し七五調にしたくらいで、殆ど変えていないらしい。でも、歌舞伎役者がやると、歌舞伎になるんだね、これが。野田秀樹が「歌舞伎って何?」と訊いたら勘三郎が「歌舞伎役者がやれば歌舞伎」と答えたそうな。ていうか、そこ以外に、遊眠社との違いが見つけられない。それくらい、野田戯曲が、まんま歌舞伎になってた。
 ただ、野田戯曲の特徴である、言葉遊びに関しては、歌舞伎役者たちにはちょっと(ノリが)難しかったのか、聞き取れなかった箇所が多かった。言葉遊びを効かせるための畳み掛けるスピードも、足りなかったし。一方で、動きに関してはNODA・MAP以上にNODA・MAP。桜の森に妖しく蠢く鬼(妖怪)の動きとか、鬼の遊園地のシーンで、人海戦術でジェットコースターやメリーゴーランドを描いて見せるところなんて、さすがの身体能力なのだった。
 
 とにかく夜長姫(七之助)の、ぞわ〜っと背筋が寒くなるような美しい冷酷さがたまらないの。もう化け物ですね、彼。化け物の役なんだけど。
 耳男(勘九郎)は「調子が良くて気が弱い」っていう、お父さんがやったら滅茶苦茶上手かっただろう役なので、少し損をしているかもしれない。でもこの役は彼にぴったりだった。
 それと、一人だけ人間だった(?)オオアマ(染五郎)の演技に迷いがなくて、感心した。オオアマは、鬼の世界の勢力争いをうまく利用し、夜長姫を娶り、天下を取るのだけど、イケメンの青年がどんどん策謀家の顔を見せていくところをうまく演じてる。
  
 
 観ていると、どこか上の方から「なぜ俺にやらせない?」って勘三郎が化けて出てきそうに思えて。
 『足跡姫』からスタートして『表に出ろぃ』まで、野田秀樹が1年かけて勘三郎を鎮魂する、クライマックス。セットも衣装も、さすがの歌舞伎座、豪華だったよ。
 ビリー・エリオットを観て、イギリスへの敗北感に打ちひしがれてたマダムだけど、たった一週間で、これが日本の芝居だよ〜って心の中でほくそ笑むことができて、すっかり気持ちは挽回したのだった。
 
 観終わった後に、『演劇界 9月号』の野田秀樹のインタビューを読んだの。この『桜の森の満開の下』も、勘三郎と一緒に、やりたいねって話していた作品なのだそう。とてもいいインタビューだったので、観劇に満足した方は、読んでみてね。

野田地図の『足跡姫』

 前のほうの席、歌舞伎座の客層に混じって座ったわ。2月2日(木)ソワレ、東京芸術劇場プレイハウス。

NODA・MAP公演『足跡姫 時代錯誤冬幽霊 ときあやまってふゆのゆうれい』
作・演出/野田秀樹
出演 宮沢りえ 妻夫木聡 古田新太 佐藤隆太 鈴木杏
   池谷のぶえ 中村扇雀 野田秀樹 ほか
 

 年明け以来、かなり無理しながら劇場に行ってたんだけど、無理のしわ寄せがやってきてね。もう、レビュー書けない。ちょっとエネルギー、枯渇しました。
 シェイクスピアについては身を削ってでも書いたんだけど、野田地図については他にもレビューを書く方が沢山おられるだろうし、そちらに委ねることにするわ。
 すまぬ。

天才と名人

 久々に、本を読んで、話したいことが山ほど出てきたので、紹介するね。

 
『天才と名人  中村勘三郎と坂東三津五郎』
 長谷部浩 著  (文春新書 2016年2月刊)
 
 3年ほど前に中村勘三郎が57歳という若さで亡くなってしまった時の、あの途方に暮れた気持ち、今も胸に痛いほど、残ってる。振り返るのさえまだ、痛みを伴うわ。
 マダムはさほど歌舞伎を知ってるわけじゃないのに、この深い喪失感はどうしてかしら? 
  疑問は、この本を読み進むにつれ、ゆっくりと解けていったの。
 
 著者の長谷部浩は、あらゆるジャンルの芝居を観ている人で、マダムの拙い知識で言えば、蜷川幸雄や野田秀樹に長いインタビューを試み、本を書いている人。だから意外だったわ。こんなに以前から、しっかり歌舞伎を観てきて、二人の役者を公私ともに知っていたとは。
 勘三郎を天才、三津五郎を名人と呼び、二人の軌跡を、デビュー(ほんの子供だった頃)から、死に至るまで、時間とともに追っていく。歌舞伎についての豊富な知識と、それでも、歌舞伎にべったり肩入れしない、公平な目のようなものをもって、二人の有り様を解説してくれる。門外漢のマダムにも、伝統芸能がどういうものか、今更ながら、理解できたの。
 小さな頃から役者としての才能と「人たらし」な魅力を兼ね備えていた、天才、勘三郎。それに対し、若い頃はかなり日陰の存在で、一歩一歩地道に芸域を広げていった名人、三津五郎。同じ歌舞伎界にあっても、光の当たりようは大きく違っていた。だから、ライバルとしての人間模様をグリグリと追求する・・・というような書き方もあったと思うし、センセーショナルに書けば、もっと一般受けするような本にもなったと思うのに、著者はそうしなかった。愛はあるけど、少しだけ離れたところから俯瞰するような、深入りをしないスタンス。そうでなければ、演劇評論家でいられなかったのかもしれないわ。だって、あまりにも勘三郎は人として魅力的だし、深入りして惚れてしまえば、客観的な劇評などすっ飛んでしまうものね。著者は、そうならないように、踏みとどまってきたのかも。
 
 そして、幅広く演劇を観てきた人が書いた本だからこそ、読むにつれ、マダムの中に猛然と形になった思いがあって。なんの根拠もないのに、なんだか確信めいたものになりつつあるの。それをこのあと、書きます。
 
 勘三郎&三津五郎がこの20年くらい取り組んできた、コクーン歌舞伎や、野田秀樹をはじめとする作家に依頼して作り出した新作ものは、現代演劇ファンのマダムをも歌舞伎に連れ込む力があった。マダムは、必死に抵抗していた。だって、もし、歌舞伎に完全に連れ込まれたら、もう現代演劇ファンでいられなくなっちゃう。お金と時間には限りがあるから、歌舞伎に全部取られちゃうもん。
  一時期、現代演劇で観たいものが極端に減ったことがあって、その時は本当に危なかった。同じ頃、コクーン歌舞伎が凄く盛り上がっていたし、歌舞伎はやらないと言ってた野田秀樹すら、勘三郎に口説かれて、歌舞伎に引き込まれそうになっていた。一緒にマダムも、歌舞伎側に行ってしまいそうだった。
 実際、出来上がった「野田版鼠小僧」とか「野田版研辰の討たれ」とかは、野田節炸裂ながら、受け継がれてきた歌舞伎役者の動きを生かしきった、これぞ現代の新作歌舞伎と言えるようなものだったわ。勘三郎と三津五郎に当て書きしたと思える役柄もあって、野田秀樹も芸劇の新作以上に、熱が入ってる感があったの。歌舞伎役者たちの技術の高さに、惚れてしまったのかもしれない。歌舞伎はね、二人のような主役級の役者だけじゃなく、アンサンブルの役者が凄いハイレベルなの。だから、アンサンブル使いの野田秀樹にとっては、たまらなかったんじゃない?
 勘三郎が逝って、歌舞伎座での新作上演の流れは途絶えて行き、コクーン歌舞伎もひと頃の勢いを失った。野田秀樹ももう、歌舞伎のために新作は書かないでしょう。いえ、書けないでしょう。役者の魅力が書かせたものだったのだから。
 それとともに、マダムには、歌舞伎の呼び声が聞こえなくなった。もう、抵抗する必要もなくなったの。
 だから、だからね。勘三郎と三津五郎とが、70代まで生きていたら、現代演劇史というか、現代演劇地図は今とは違うものになっていったかもしれないと思うのよ。現代演劇の中心が、ぐっと、歌舞伎側に寄ったものになったのでは?
 二人が亡きあとは、歌舞伎はやっぱり古典芸能で、現代演劇との間に、もとどおりの深い川が流れている。二人がいた時、水かさは減り、素足で渡れそうな中州が出来かけていたのに。もう中州はすっかり見えなくなってしまった。マダムは今後、川を渡ろうとは思わないのではないかしら。それこそが、この深い喪失感の正体。
 芝居って、徹頭徹尾、役者の肉体に宿るものなのね。儚い。
 
 とても良い本。歌舞伎ファンでなくとも、読んでみてね。

カクシンハンの余韻

 年が明けたと思ったらもう、1ヶ月が経ってしまった。だからこんなこと言うのは、遅いのだけれど、年頭に決めたことがあって。それは、1万円ルール。

 1万円以上のチケットを買うことは、許可制とする!
 許可を申請するのも、許可するのもマダムなので、うっかりすると絵に描いた餅になりかねない。でもね、頭の中に「1万円以上は許可がいる」という大きな文字が掲げてあるだけで、立ち止まって塾考することになると思うのよ。1000円当りの面白さってものがあるでしょ。今年はこれでいきます。
 
 1万円以内の芝居で、1月は十分楽しんだわ。カクシンハンのジュリアス・シーザーはホントに面白かった。すっかり河内大和のファンになって、ツイッターやらブログやら、彼の経歴を読んでみたんだけど。なんだか36歳と書いてあるのを読んで、ガーン!となった。ホ、ホントかしら?
 ガーンとなってから、なんでショックを受けたんだろ、今?と、苦笑しながら、考えた。意外に若かったから? 否。意外に年とっていたから? これも違うわ。自分でもショックの意味がわからない!
 ま、それはおいといて、彼の最近の出演作に『MIWA』とあって。もしそうなら、マダムが河内大和を初めて見たのが『ヴェローナの二紳士』だったというのが、間違っていたことになる。なるのだけど・・・『MIWA』でマダムが見てたのは、宮沢りえと古田新太と浦井健治だけなので、どう考えてみても思い出せなかった。そこで、録画してあった中継映像を見てみたの。
 そしたら、いたわ。確かにいた、河内大和。
 アンサンブルの中で、結構中心的な動きをしていた。台詞はあるんだけど、日本語じゃなくてデタラメ語で、台詞というより音声に近いような感じ。身体的に高度な要求がされる野田地図のアンサンブルの中、ハードに滑らかに動き回っていたわ。でもこれでは、凄く良く彼を知っていなければ、彼だとはわからないよね。
 河内大和を確認するために録画をかけたのに、いつの間にか『MIWA』に見入ってしまっててね、これはやっぱり面白い芝居だったなあ・・・と唸っていたのだけど、ハッと気がついた。
 河内大和はこのとき、吸収したんだわ、装置の使い方とか音楽の効果的な入れ方とか。
 『ジュリアス・シーザー』のとき、アントニーが毒ガスで敵を一網打尽にするシーンがあって、薄いビニールの膜を敵に被せていたんだけど、そこに凄く既視感があったのね。野田秀樹の芝居を見てる人なら思い出す『MIWA』とか『南へ』(だったっけ?それとも『エッグ』?)とかの、布やビニールの使い方。そこから学んだんだわ。
 河内大和は『ジュリアス・シーザー』で演出補だし、たくさん詰め込まれたアイデアの幾つかは彼のものだったのでしょう。
 えーと、マダムはこれを、パクリだとかは思ってないので、そこはちゃんと言っておこう。
 真似から入るの、大いに結構じゃない? まして、野田秀樹は今や、日本演劇界の第一人者だもん。彼から、演出を学ぶのは当然のことだ。真似から始まり、真似で終わったらそれはパクリだけど、真似から始めて演出で終わればいいのよ。
 30を越えてなお、野田地図のアンサンブルに参加して、そこから何かを吸収してやろうという、河内大和の芝居魂に、マダムはちょっと感心しちゃった。
 だから、彼の年齢に衝撃を受けたのは、なんでもうちょっと早く彼に気づかなかったかな〜という「ガーン」だったのかしらね、もしかして。たぶん。きっと。

そして野田秀樹は大劇場の唐十郎になった その2

 昨年のお正月に蜷川演出『下谷万年町物語』(唐十郎作)を観た時の、マダムの感想の中にこんな部分がある。

そしてマダムが発見したのは・・・野田秀樹は唐十郎によく似ている、いや、そっくりだ、っていうことよ。これには心底ビックリした。でも、ホントなのよ。
 別に宮沢りえと藤原竜也が出ていたからじゃない。この二人が野田MAPの『ロープ』で共演してたことは後から思い出したくらいだもん。
 どこが似てるかっていうとね。まずイメージからイメージへの論理的じゃない飛び方がそっくりなの。こっちの穴にはいったら、あっちのゴミ箱から出てくるというような空間移動の仕方もそっくりなの。ヒロインが必ず女神的存在なところも似てるし。そして台詞のところどころに言葉遊びがあって、独白の途中から言葉が詩になっちゃうところなんか、あれ、野田秀樹の芝居観てるんだったっけ?と思うくらいよ。

 『MIWA』を観るにあたって、もうこんなことは忘れていたんだけど、観ているうちに思い出して、確信に近くなったのよ。

 『下谷万年町物語』を観た後、マダムは蜷川演出のアングラ芝居にはもう行かない、と決めたの。チケットが1万円もするアングラって、やっぱりおかしい。もともと新劇だの大劇場だのに対するアンチとして、アンダーグラウンドだったわけでしょ? それをシアターコクーンで1万円もする席で観る。もう、アングラじゃないよね。きれいに整備された劇場に、いくら猥雑な雰囲気を再現しようとしても、やっぱりそれは偽物。唐十郎が書いた戯曲には、どうしたって、花園神社とか紅テントとかいう、時代の結界が必要なのよ。
 一方、野田秀樹は遊眠社時代から既に、演劇的には凄く唐十郎に近かったんだと思うけど、決定的に違ったのは、唐十郎の持つ戦前と戦後へのこだわりが、野田秀樹にはなかったことなの。ところが、今回、美輪明宏をテーマにしたら、どんぴしゃり、唐十郎的こだわりと一致しちゃった。しかも野田秀樹には、時代の結界は必要がない。始めから、普通の劇場でやってきてるし、大劇場の舞台効果を駆使することでは最先端を走っているしね。
 なので、『MIWA』によって野田秀樹は大劇場の唐十郎になった、わけです。
 証明終わり。
 
 
 いつも、様々な新しい「見立て」を使って、見たことのないイメージを見せてくれる野田演出だけど、今回マダムが一番唸ったのは、原爆が落ちる時。深くて静かで恐ろしかった・・・。息を止めて、見つめたよ。
 一方で、最近凝っていた大人数のモブシーン(?)とか映像をどーんと前に出すとかは、影を潜めたのね。それも、よかった。ちょっと飽きてたから。
 マダムと同じで、野田地図はもう行かなくていいかな・・・と思っちゃってた方は、少なくとも今回は観たほうがいいんじゃないかしら? お勧めします。
 あー、それにしても、なるべくネタバレしないようにレビューを書くって、大変。次からは、意識しないで、書こうっと。

そして野田秀樹は大劇場の唐十郎になった その1

 5列目のど真ん中というあまりにも良い席に歓喜の涙。10月12日(土)ソワレ、東京芸術劇場。

野田地図第18回公演 『MIWA』
作・演出 野田秀樹
出演 宮沢りえ 瑛太 井上真央 小出恵介 浦井健治
   青木さやか 池田成志 野田秀樹 古田新太 ほか

 久々に面白い野田地図公演だったー。
 ここ数年、『THE BEE』などの番外編をのぞいて、あまり面白いと思えなかった野田作品。見切りを付けたマダムは昨年の『エッグ』を観に行かず、あとからWOWOWで観たときも寝てしまったくらいなの。だから『MIWA』も始めは行くつもりなかった。でも浦井健治が初参加だっていうから、チケットをゲットしたのよ。よかったなあ、浦井君、出ててくれて。
 しかもメチャ良い席だったので、まるで小劇場で観たみたいに恵まれすぎてて、感想がみんなの参考にならないかも。割り引いて、読んでね。あ、どうしても多少はネタバレしちゃうので、これから観る方は要注意。
 
 
 お話は基本、あの美輪明宏の一生について。長崎の浦上天主堂の近くで生まれ育ち、お母さんが次々変わり、原爆を目の当たりにし、男性に恋する自分を発見し、東京に出てきてからは銀座の店でシャンソンを歌い、ゲイに対する差別と戦い、有名俳優や小説家と浮き名を流す。虚実ないまぜになってるし、登場人物も名前を変えてあるけど、ほぼ忠実なんだろうと思う。
 それが、とても良いほうに働いたのね。
 野田秀樹は現実に対する危機感が凄く強くって、そして、現実に対する演劇の無力感も感じているのでしょう、ここのところずっと、暗くてしつこくて押し付けがましい作風に傾いてた。だけど、美輪明宏を題材にした今回、モデルが辛い現実にへこたれない人なので、観終わったあと、暗い気持ちにならないの。それどころか、元気になる!
 もちろん、作風は完全な野田流なので、全くリアリズムなんかではなく。MIWA役は宮沢りえなんだけど、MIWAが抱え込んでいる化け物性の部分を古田新太が請け負っていて、二人で一人のMIWAなの。この二人のコンビネーションが素晴らしいのよ。宮沢りえは鮮やかな水色のスーツの美少年で、軽やかに駆け回る。一方の古田新太は現在の美輪明宏を彷彿とさせる黄色の髪でのしのし歩いてる。古田新太がアドリブ連発してる風で、宮沢りえは時々こらえられず笑ってたけど、それが全く芝居のリズムに支障を来さない。それどころか、エネルギーをどんどん増していく感じ。マダムに言わせれば、二人とも化け物だわー。
 この主役の二人を除くと、あとはみんな野田演出らしい記号的な人物なんだけれど、記号は記号なりに上手下手が見えるものなのね。記号慣れしている池田成志は別格として、他の役者は野田地図初心者がずらりと並んでる。小出恵介は躯が重そうに見え、テンポが遅れがちだったね。瑛太や井上真央、青木さやかは健闘していた。そしてお目当ての浦井健治である。
 浦井健治といえば外国人の役しか観たことがないし、姿形から日本人の役って向いてなさそうに思っていたの。(『宝塚BOYS』で日本人をやってはいるんだね、観てないけど。)でもそんな心配は無用だった。だって、そもそも野田地図の舞台に人種は無関係だったのよー。マダムが一生かけても似合うことがないだろう、白いレースがいっぱいのブラウスが堂々と似合っちゃって。凄いな〜、なんでもやれるよ〜、浦井君。
 
 長くなったので、その2で、野田秀樹が唐十郎になった話をするわね。

役者 野田秀樹の魅力

 床にこぼれた水を拭き取りたくて、少しばかり洗濯機の位置をずらそうとしたのよ。
 そのとき、腰に電流のようなものが走った・・・・こ、これが、あの有名なギックリ腰という奴なの? しかしなぜ、よりによって今日? 1週間前でもなく、1週間あとでもなく、今日のこの日にくるとは・・・絶句。5月1日(水)ソワレ、東京芸術劇場プレイハウス。

『おのれナポレオン』
作・演出 三谷幸喜
出演  野田秀樹 天海祐希 山本耕史
    浅利陽介 今井朋彦 内野聖陽

 
 多くの人がチケットゲットに奔走したであろう『おのれナポレオン』。プラチナチケットとはこのことでしょう? 絶対ムダにしてはならじ。というわけで、歩くことは出来る程度の腰痛だったので、マダムはもの凄くゆっくり歩いて劇場へ。
 動きが不自由な身の上だと、野田秀樹の激しくかつ滑らかな動線が、ほとんど魔法のように見えたわ。遊眠社時代を思い出させる八面六臂な役者ぶり。演出から解放されると、こんなに楽しげな役者なんだ〜って、改めて感心。
 
 三谷幸喜が、役者野田秀樹のために書き、野田秀樹も作家&演出家の立場を封印して、一役者として臨んだーーこんなことは今までなかったし、今後も無いかもしれない。チケットを買えなかった大勢の人たちにも観てもらうため、なんとライブビューイングが行われることになったのね。5月9日19時〜だって。凄いのよ、全国の映画館20館と公共劇場6カ所で、生中継。こりゃあ、もう、祭り? プレイハウスだけなら立ち見を入れても観客はたかだか850人。それが9日の夜にはもしかしたら万単位に膨れ上がるかもしれないのよ?
 なので、その人たちをがっかりさせないためにも、マダムは一切のネタバレを封印することにしたわ。だって、つまんないでしょ、中身を知ってて観るのって。 祭りの成功を祈る!
 
 お話はいつもの三谷節なので、面白いし、上手いし、飽きさせない。役者も選りすぐりの6人で、テンポよくそれぞれの見せ場も得て、とにかく楽しそう。マダムは心が激しく突き動かされたり、新しい発見に目から鱗がとれたり、ってことは無かった。でもね、安心して身を任せることの出来る上質なお芝居だったよ〜。
 
 萌えポイントはやっぱり衣装かな。全員が、完璧なベルバラ衣装なの。野田秀樹のナポレオン、妙に似合ってて可愛かったわ。
 

マダムの観劇史 その3 夢の遊眠社

 野田秀樹が学生時代に結成した劇団夢の遊眠社。マダムの出会いはもっと昔のはずだけれど、見つかった中でいちばん古い資料はなんと、これ。

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大きく写ってるけど、年賀状よ! 1985年、『白夜の女騎士(ワルキューレ)』の公演お知らせとして来たもの。
でも、マダムが『白夜のワルキューレ』を観た証拠はもう、残っていない。
画像が小さいのでわからないだろうけれど、上杉祥三が棒高跳びの構えをしてて、それを撮ろうとカメラを構えてるのが野田秀樹。後ろで見物してる女の子たちは、たぶん円城寺あやや竹下明子たちでしょう。地味にレフ板を掲げてるスタッフが段田安則と思われる。

野田秀樹は劇団をもりたてていくのが上手だったね。彼自身も優れたプロデューサーだし、スタッフにも恵まれていたのかも。

 
  

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次は1985年8月29日ソワレ、『彗星の使者(ジークフリート)』パルコ劇場。
上が、配布された五つ折のパンフレット。下がチラシとチケット。
翌年ハレー彗星が来るという話題を先取りして野田秀樹が書いた書き下ろし。
 
でも、どの話がどの記憶なのか、ごちゃごちゃになっててね、『彗星の使者』がどんな舞台だったのかは思い出せないわ。
 
 

 
 

 

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これがその翌年、1986年9月21日『小指の思い出』、本多劇場。
人気投票で一位に選ばれたので、再演したもの。
パンフは配布されたものだけど、大きいの。B4で6ページあり、充実してる。

学生演劇から始まって、押しも押されぬ人気劇団になった絶頂期の始まりの頃。

 

でもやっぱりストーリーは思い出せないわ。
 
 
 
 

 

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そしてこれ。名作『半神』。原作・脚本が萩尾望都! 1988年5月12日ソワレ、シアターアプルで、この時が再演だったのね。だから、このパンフには初演の時の舞台写真が沢山載っていて、それが嬉しい。やっぱり舞台写真が載っててくれないと、後からどんな舞台だったかを思い出すためのよすが、が無いじゃない?

だけどこの頃から、パンフは配布じゃなくて、売り物になったのね。マダムはもともと、必ずパンフを買う人間じゃなかったから、『半神』を凄く気に入ったからこそ、今ここにあるんだわ。

 遊眠社は、ホントに何度も観て、後半は人気が出てチケットが手に入らないこともしょっちゅうで、そんな時は「こんなに盛りたててきた私が観られないなんて、どういうことよ?!」って怒ったりもしてたね。
 遊眠社のとき、はっきりしたテーマをわざと打ち出さないようにしていた(らしい)野田秀樹が、今のようなホンを書くようになるとは想像できなかったな。

技の出し合い『表に出ろぃ!』

 チケットが手に入らず見逃した公演。WOWOWの中継録画で。

NODA・MAP番外公演『表に出ろぃ!』
(2010年9月 東京芸術劇場)
作・演出 野田秀樹
出演  中村勘三郎 野田秀樹 太田緑ロランス

 ここのところ、野田地図は番外公演のほうが面白いと思っているんだけど、これを観てますます確信した。野田秀樹には、上手い役者が2、3人(自分も含めて)いれば、それで充分、あとはなにも要らないのではないかしら。

 夫婦とその娘がそれぞれ熱中しているもの(テーマパークとアイドルグループと新興宗教!)のために外出しようとしていて、誰かに留守番を押しつけようとしている。飼っている犬が出産間近だから、誰か家にいないといけないのね(犬の名前がピナ・バウシュっていうの・・・よくやるよ)。やがて激しい喧嘩になって、全員が互いを鎖でつないじゃって、部屋から誰も出られなくなり、飢え死にするかも・・・な状態に陥る。
 設定はたったこれだけ。なのに、芸達者な勘三郎と野田秀樹がやれば、70分間が可笑しくて過激でブラックな作品が出来上がっちゃう。ここまで笑えてハイテンションだったら、最近の野田作品につきもののテーマもろ出し感も全然OK。なんなく受け入れちゃうね。
 夫が勘三郎で妻が野田秀樹。これだけで凄く過剰。しかも娘がどう見てもハーフの、スタイル抜群の太田緑ロランス(好演!)なので、このギャップがまた過剰。衣装も装置も色鮮やかなストライプで覆われてて、目に突き刺さるように派手。
 だけど実際の演出方法は極めてオーソドックスなの。言葉遊びなし、『THE BEE』の時のような小道具の(何かに見立てるような)使い方もなし。明快にオーソドックスな芝居だった。勘三郎と野田秀樹ふたりでもう充分なので、後はシンプルに、ということかもしれないわね。それが功を奏してる。
 たぶん台本もおおまかに決まっているだけで、稽古しながらどんどん二人で作っていっちゃったんじゃないかな。芸達者なふたりの技の出し合い。どんどんエスカレートしていくお話に、ふたりの技もエスカレートしていくのが、楽しい。

 誰もがみんな好きなものなしには生きられない。でもそれをエスカレートしていくと互いを抹殺するところまでいっちゃうこともあるんだよ・・・どうするんだい?って、言ってる芝居よ。

 芝居が終わってカーテンコールで流れるコルトレーンのMy Favorite Things(私のお気に入り)、マダムの大好きな曲なんだけれど、これがまた皮肉たっぷりに響くこと。同じ曲がこうも違う印象を与えるなんて。芝居の効果、絶大だわ。

『THE BEE』の原作を読む

 野田秀樹の『THE BEE』には、野田戯曲には珍しく原作があるの。探しだして読んでみた。

『毟りあい』(オール読物1975年11月号初出)
筒井康隆 著
新潮文庫 自選ドタバタ傑作集2「傾いた世界」に収録

 なんと1975年の作品なのよ。ってことは、野田秀樹は当時現役の学生で、出たばかりのこの作品を読んだのかもね。そのときから忘れられずに、脳裏にちゃんと取っておいたのかもしれない。
 筒井康隆の数多ある作品群の中で最も一般に知られているのは『時をかける少女』かな。それなら読んだことある、という人もいるわよね。でも、あれはたぶん筒井康隆の余芸分野(マダムの造語)で書かれたもので、彼の本質はあきらかにこっちの『毟りあい』の方よ。
 
 ストーリーは舞台とほぼ同じ。大きな改変はみられない。文庫本でたかだか40ページほどの短編だけれど、筒井康隆の持ってるブラックで、シュールで、どこにも感情移入を許さない乾ききった文章そのもの。野田版の舞台よりさらに残酷で、狂気で、ずっと濃いブラック。暗黒よ、これは。それなのに、後ろには巨大なユーモアが控えているの。隠されてるけど。
 しかし昨今若い人たちの間で盛んに読まれているらしい殺し合いゲームみたいな話とは、一線を画す。スプラッタを目的にしてないから。だから、マダムにも読めるし、ちょっと唸った。
 原作と『THE BEE』の台本の一番大きな違いは何かというと、主人公の井戸の設定。舞台では、井戸は初めごく普通のサラリーマンで、事件そのものと警察やマスコミのいい加減さによって、どんどん変貌させられていくでしょ? だけど、原作の方は井戸の中にかなり最初から「被害者にはなりたくない意志」が満ち満ちていて、受け身じゃないの。自分から進んで変貌していくの。
 
 この、真っ直ぐに核心へ突き進むような原作があってこそ、舞台の成功があったのね。舞台の面白さは細部に宿っているけれども、細部が結集してある核心を指し示す時、初めて芝居は観る側の心の奥深くに届く。
 野田秀樹には原作があった方がいいのではないかしら。
 『毟りあい』を読んで、今再びそのように思ったわ。
 
 
 追伸
 この『毟りあい』が入ってる「自選ドタバタ傑作集2 傾いた世界」という文庫を探すのにだいぶ苦労したんだけど、苦労した甲斐があったわ。マダムが学生の時読んで以来、忘れられず、もう一度是非読みたいと思っていた短編に再会できたから!
 その短編は『関節話法』という。皆さんも是非、読んでみて下さい。死ぬ程可笑しいから。不覚にも学生だったマダムは通学途中の電車内で読んでしまい、笑いをこらえるのが大変だったの。身をよじり鼻息は荒くなり、きっと周りの乗客は怖かったと思うわ。皆さんも読むことがあったら、くれぐれも電車の中は避けるようにね!

 

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