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映画

死なないハムレット 加藤泰監督の『炎の城』

 先日BSで、ハムレットの翻案映画を見た。

『炎の城』
1960年公開作品(東映)
脚本/八住利雄 撮影/吉田貞次 音楽/伊福部昭
監督/加藤泰
出演
正人(ハムレット)=大川橋蔵  師景(クローディアス)=大河内傳次郎
時子(ガートルード)=高峰三枝子  ?(オフィーリア)=三田佳子  ほか

 シェイクスピアの翻案映画といえば黒澤明の『蜘蛛巣城』(マクベス)や『乱』(リア王)が有名で、マダムは加藤泰監督のファンであるにもかかわらず、ハムレットを翻案した『炎の城』について寡聞にして知らなかったの。

 加藤泰について、ご存じない方も多かろうと思うので、少し説明すると。
 主に1950年代から70年代前半くらいまで、東映を中心に映画を撮った名監督で、傑作をたくさん残してる。例えば、中村錦之助主演の『瞼の母』や『沓掛時次郎遊侠一匹』。藤純子主演の『緋牡丹博徒お竜参上』。鶴田浩二主演の『明治侠客伝三代目襲名』。ほかにも『骨までしゃぶる』や『男の顔は履歴書』などなど。作品の名前を口にするだけでため息が出そうなくらいの、傑作揃いよ。
 この傑作の数々、公開当時はマダムも子供だったので、もちろん知らなかった。マダムは80年代に映画祭や名画座で見たのだけれど、その時のラインナップの中に『炎の城』は見当たらなかった。ので、まさか加藤泰がハムレットの翻案映画を撮っていただなんて、思いもよらなかった。
 
 加藤泰は脚本も書く人であったので、すわ監督自身の翻案なのか?!と見ながら腰が浮きかけたけど、どうもそうではなかったようね。
 そして見てわかったけど、名画座でかかるような人気作ではなかっただろうし、映画祭でかかるような名作でもなかったのだった。傑作の数々に比べると、核心に向かって一気に収斂していく加藤泰らしさが全然ないんだもん。
 昨年、国立近代美術館フィルムセンターで行われた加藤泰生誕100年のサイトによれば、「八住脚本の結末に納得できないまま撮りあげた」作品であり、監督自身「失敗作」と言っていたのだそう。さもありなん。
 
 でもそこは、「ハムレット」だから、マダムは別の意味で面白く見た。「ハムレット」を戦国時代の日本にどう移し替え、大スター大川橋蔵主演の娯楽大作にどう作り替えるか、苦心惨憺(した挙句に失敗)のあとが見えて、面白い。
 そもそも、どうして東映が「ハムレット」を題材に映画を作ろうだなんて思ったのか。ここからはマダムの想像に過ぎないけれど、『炎の城』の製作年から容易に推測できるのは、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年東宝)の成功を見たプロデューサーが「そっちがマクベスなら、こっちはハムレットやったるでー」とかなんとか言って決まったんじゃないかしら(想像ですよ、想像)。黒澤御大がなぜ「ハムレット」を選ばなかったか、については考えてみなかったのでしょうね。
 
 『炎の城』では、クローディアスを徹底的に悪とすることで、勧善懲悪的な物語にしようとしている(それ自体、既に「ハムレット」じゃないのね)。先王が生きてる間にガートルードを無理やり手篭めにして言う通りにさせ、先王を殺して自分が王になると、隣国に侵略する資金を作るために、農民に重税を課す。農民の反発にあうと有無を言わせず弾圧。先王を殺した罪に悩んだり懺悔したりするシーンは無し。クローディアスの人間像はすごく一面的で、全然魅力がない。
 一面的、といえばガートルードもオフィーリアもそう。ガートルードはクローディアスの悪事を全て知っていて、運命に押し流されている女として描かれ、オフィーリアはハムレットを一途に慕って、想いが叶わないのを悟ると覚悟の入水自殺。狂って歌うシーンはなかった。
 そしてハムレットはいっこうに行動に出られず悩んだり嘆いたりしているわけ(ハムレットだから!)なんだけど、農民からは救世主として期待されているし、クローディアスは極悪人なわけだから、ハムレットがなんで行動しないのか、原作以上に理解できないし、イライラする。戦国時代なら、兄弟や親子でも殺してトップになることなんて、普通なわけで。寝ているクローディアスを目の前に刀を引っ込めるなんて、なんちゅう情けない若様であろうか・・・。
 そのうえ、『ゴジラ』の伊福部昭の音楽が仰々しいばかりで、浮いている。なぜか途中で『ゴジラ』のテーマ曲にそっくりのメロディが流れて、なんのつもりかと悩むマダム。
 極め付けはラスト。ハムレットが死なないの。
 レアティーズとの決闘で傷ついたハムレットだが、死に物狂いで塔の上にクローディアスを追い詰めてなんとか復讐を果たし、農民の一揆で火を放たれた城は燃え、ハムレットも死んでいく・・・のかと思いきや、助け出され、悪政を正していくだろう・・・という、無理やりな勧善懲悪のラストになっていた。こりゃあ、監督も撮りづらかったでしょう。加藤泰、超がつく真面目な人であったと思うから。
 
 「ハムレット」を換骨奪胎して娯楽大作にするか、芸術映画として加藤泰に好きなように作らせるか、どっちかを選べずに妥協を繰り返した結果、こういう映画になったんでしょうね。そのことがわかりやすく画面から伝わってきて、面白かったよー。

 私たちは『ハムレット』の何に惹かれているのかしら?
 結局そのことを考えずにはいられないのよね。

カウリスマキの『希望のかなた』

 年末から公開だったんだけど、角川シネマ有楽町での最終上映にやっと行ってきた。1月12日(金)夜。

『希望のかなた THE OTHER SIDE OF HOPE』2017年作品
監督・脚本/アキ・カウリスマキ
出演 シェルワン・ハジ サカリ・クオスマネン イルッカ・コイヴラ
   カイヤ・パカリネン サイモン・フセイン・アルバズーン ほか

 カウリスマキを映画館で見たのは『マッチ工場の少女』以来なので、20年ぶりくらいかもしれない。もっとかしら。映画を映画館で見なくなってしまっていたから。
 
 シリア難民の青年カーリドが、流れ着いたヘルシンキで難民申請を却下されながらも、ヘルシンキの街に紛れ込み、生き別れの妹を探して、生きていこうとする物語。
 『マッチ工場〜』を見た頃は、小津をはじめとする日本映画の後継とさえ思えるほどの、淡々としたタッチと残酷なくらいドライな視線に、一気に引き寄せられたものよ。今もそのタッチは健在で、最近の日本映画からは失われてしまってる「台詞がない時間が多くを語る」のが、マダムにとってはたまらない魅力。
 残酷なくらいのドライさは少しだけ弱まり、温かさを増している気がするのは、難民を主人公にしているからなのか。それとも年を経て、監督自身が変化したのかな。
 難民であることは、なにも特殊なことではなく、その境遇に置かれたら誰だって、このように戸惑い、逃げ、人を頼り、悲しむだろう。なにも私たちと違うところはない。どこにでも優しい人もいるし、憎む相手を探しているような人もいる。そのことを淡々と、ユーモアを持ち、しかしドライに描いていた。
 最終日とあって、夜遅い開始時間なのに、座席は結構埋まっていて、カウリスマキの時間を一緒に共有することができ、同じ箇所を笑って、幸せだった。家でDVDを見るのも同じ映画なのに、何倍も幸せだね。

嘆きの王冠ラスト 『リチャード三世』

 頑張りました。ホロウクラウンのラスト1本『リチャード三世』、見てきたよ。7月15日(土)夜、ヒューマントラストシネマ渋谷。

 見終わったら10時半くらいで、帰りのエレベーターは女性ばかり4人。誰ともなしに「いや〜よく完走しましたよね〜。大変だった〜。もうちょっとタイムテーブルを考えて欲しかったよね〜」というようなことを言い合い、そして「カンバーバッチの顔、たっぷり見たわ〜。暫く見なくていいわ〜」と思わず本音が(と言いつつ、シャーロックを見てしまうのだろうけれど)。
 そう。『ヘンリー六世』の作り方を見ても、これはもうカンバーバッチのための『リチャード三世』なのが明らかだったの。独白が全てカメラ目線のアップで、ちょっとしつこかった。映像の色々な手法をもっと使ってもよかったのに。カンバーバッチは上手いんだけど、アップばかりだと飽きちゃうんだよね。
 最後の戦闘シーンも、実際はああだったのかもしれないけど、不具な体で戦いながら「馬をくれ!代わりに王国をくれてやる」っていう切実さ(というか憐れさ)があまりなくて・・・演出家の見たいものとマダムの見たいものにズレがあるんだった。好みの問題かしら?

 シリーズを全部見終わって、とにかく『リチャード二世』の出来が素晴らしかったことと、『ヘンリー五世』のトムヒがかっこよかったことが後に残ってる。
 ヘンリー四世やヘンリー六世は、長い長い本をたくさん切って映像にしたので、わかりやすくなったとも言えるけれど、なにかが繋がらなくなった気がする。それに比べ『リチャード二世』『ヘンリー五世』は殆どシェイクスピアが書いたままだから、テーマを削らずにすんで、面白くなったのでは?
 シェイクスピアは、どうしてだかわからないけど切っちゃうとダメなシーンばかりなのよね。そこんとこ、わかりたいなあって思ってる。
 あー、でもなんだかんだ言って、7本も見に行っちゃったんだから、面白かったってことだね〜。
 来年の新国立の『ヘンリー五世』が楽しみだなぁ。

嘆きの王冠 『ヘンリー六世』第一部&第二部

 ホロウクラウンシリーズも計画通り進んで、きっちり折り返し。『ヘンリー六世』第一部と第二部を一気に観てきた。7月2日(日)、ヒューマントラストシネマ渋谷。
 面白く見たし、退屈なところはなくて(というのも半分の尺に納めようとしてるから大事なシーンが数珠つなぎ)、お腹いっぱーい。
 でも、いろいろ言いたいことがでてきちゃった。

 『ヘンリー六世』って原作は三部作で、全部上演すると9時間くらいかかっちゃうのね。
 だから映像にする時、いちばん本作りが難しかった作品だろうと思う。ものすごくたくさんの人が出てくるし、それでも誰も「典型的」な描かれ方してない。シェイクスピアは、ワンシーンしか出てない人物にもちゃんとその人ならではのセリフを与えてるの。処女作がこれって、ホントにさすがなのよ。
 でも、だからこそ、本をカットするのが難しいし、改変はなおのこと。

 BBC版『ヘンリー六世』のいちばん大きな改変は、王妃マーガレットの浮気相手をサフォークではなく、サマセット公にしたこと。映画が始まってしばらく、マダムは凄く混乱してしまって、飲み込むのに時間がかかってしまったの。
 原作を知らなければ全然、戸惑ったりはしないでしょうし、ストーリー上おかしくなったりはしていないの。でも、マッチョで軍人そのもののサマセットが愛人だと、シェイクスピアが書いたものとは大きくかけ離れてしまう。
 原作のサフォークってさ、舌先三寸の寝技師でしょう? 剣では戦わなくて、口が上手くて、ベッドが戦場、みたいな男。気が強くて自ら戦場に出て行くマーガレットのような女が、口が上手いだけの男にメロメロっていうところが面白いのに。そして、サフォークは死ぬときも、軍人じゃないから、そういう正々堂々戦った死に方はできないわけよ。なんていうか、因果応報がピリリと効いてるのよ。シェイクスピア、ちゃんと描ききってるのよー、だからサフォークの設定を変えないでほしかったなあ。

 それとね、次の『リチャード三世』に繋げる意識がちょっと強すぎる感があるのね。なんといってもリチャード三世は大スターのカンバーバッチだから、第二部になるとリチャードが主役みたいになってくるんだけど。
 でもさ、そんな手心を加えなくたって、ヒタヒタと、リチャードはやってくるのよ。そんなに早くからスポットライトを当てなくても、大丈夫なのに。
 だって、あくまでこのお話は「ヘンリー六世」のお話なんだもの。そして気がついたらいつの間にか、日陰者のリチャードが真ん中に来ている・・・というね。
 
 いろいろ言ったけど、胸に刺さった演出も沢山あったの。いちばん刺さったのは、ヘンリーがほぼ全裸で羊の群れの周りを彷徨ってるところ。
 なんかね・・・リアじゃん。と思っちゃったら、わー、もうこの時にリアのもとがあったんだ、処女作には作家の全てが揃っているっていうけど、ほんとなんだわ、とかちょっと興奮気味のマダムであった(まあ、これは演出のおかげなんだけど)。
 そしてロンドン塔に幽閉されて、汚れた王冠が戻ってきて、初めてほんとに王らしくなるヘンリー。閉じ込められて、もう王でなくなって、初めて王らしくなるなんてさ・・・王様って哀しい。
 
 あとはね、戦争って、ほんとに血みどろだな、ってこと。人間はいくらでも残酷になれるんだな、ってこと。グロいのは苦手だけれど、こうやって血みどろを見ると、そのことを痛感する。グロい描写も必要なのかもしれないね。(でも、何度も顔をそむけました。)
 
 やっぱり『ヘンリー六世』の舞台が観たくなってしまって。新国立劇場の一挙上演から、もう8年とか経ってる。こんなに経っても、また観たいなんてね。
 
 さあ、ホロウクラウンも残すところ『リチャード三世』1本となったわ。
 ただね、スケジュールが・・・いつ行けるかなぁ?

嘆きの王冠 『ヘンリー五世』

 引き続き、嘆きの王冠ホロウクラウンシリーズ。第四弾は『ヘンリー五世』。7月1日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷。

 

 一連のシリーズでマダムが唯一、舞台で未見なのが『ヘンリー五世』なの。だから、台本を読んだことはあるにしても、映画でなーるほど!って思うことしきりだったわ。
 一番感じたのは、ヘンリー五世って特別に愛されてる王様だなあってこと。どんだけ褒めたたえてるんだ、シェイクスピアは。アジンコート(だっけ?)の戦いなんて、神風吹いてるし。フランス王女を口説くところも、なんかもう少女マンガの理想の王子みたいだし。そして、歴史に「たられば」は無いけれど、もしこの王が長生きしていれば薔薇戦争は起きなかったかもしれない、とみんな思ってるふしがあるのね。でも、歴史は冷酷。立派な人ほど夭折しちゃうのよ。
 トム・ヒドルストンは、やはりヘンリー五世を演るために配役されたのね。ハル王子のときも大人っぽかったけど、王になってからの格好良さが半端ない。
 『ヘンリー四世』の時とは監督が替わったせいもあって、映像だからこその表現が駆使されているのが楽しかった(思えば『ヘンリー四世』は舞台っぽかったのだ)。例えば、しょっぱなのトムヒが馬で駆けてくる疾走感や、風をはらむイングランドの旗。緑の丘陵に並ぶ軍の隊列。弓弦の空気を震わす音。野営地の焚き火の、温かなオレンジ色の輝き。
 やっぱり映像にするからには、舞台では見られないものを見せて欲しいし、『ヘンリー五世』の監督はよくわかってるなあ。
 一方で、舞台の台本では、かつての遊び仲間のバードルフが隊の規律を乱したと報告されると、確かに王は「処罰せよ」って命じてるけど・・・映像じゃ、既に木に吊るされてるんだもの。なんかショックだった。(こういう処刑のシーンとか、露骨っていうか、隠さないのね。こうだったものは、こうだったんだ、って。マダムはグロいの苦手なんだってば。)
 
 舞台はまた全然趣が違うと思うので、来年の新国立バージョンと、いつかやるはずのさい芸バージョンが、さらに楽しみになった!浦井ヘンリーと桃李ヘンリー(と決めてしまってるマダム)が、楽しみ楽しみ。(浦井くんとトムヒ、同い年なんだってよ〜!)
 
 

嘆きの王冠 『ヘンリー四世第一部・第二部』

 嘆きの王冠シリーズ、第二、第三弾の『ヘンリー四世』一部、二部、一気に見てきた。6月24日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷。
 
 大好きなシリーズ物なので、楽しんで観たものの、『リチャード二世』の出色の出来映えに比べると、少しトーンダウンするのだった。演出家が違うこともあって、画面の色(空気の色)が違う。全体にモノトーンがかっていて、印象がぼんやりするの。戦闘シーンなんて全部灰色で、何が何だかよくわからない(ただこれが、死にたくなくて唯うろうろしてるだけのフォルスタッフの目線だ、と思うと納得する)。

 リチャード二世でボーリンブルック(のちのヘンリー四世)を演じたロリー・キニアが王様をやらず、ジェレミー・アイアンズが演じていて。やっぱりハル王子のトム・ヒドルトンとの年齢的釣り合いを考えてのことかしら、と少し残念に思ったの。でも始まったら、ジェレミー・アイアンズの王様は、イメージぴったりだと感じた。なんのことはない、昨年末の記憶も新しい中嶋しゅうの王様と、そっくりなんだもん。プログラムの登場人物表の写真を入れ替えても、違和感ないと思う。神経質そうで憂鬱そうで、長いこと呪いを背中に背負いこんできたせいで、身体つきも既に枯れかけている。ぴったり〜。(ロリー・キニアだと枯れてないもんね。)

 このBBC版『ヘンリー四世』の主役は、マダムが舞台で観てきた『ヘンリー四世』とは違っていた。舞台ではタイトルロールのヘンリー四世は主役ではなく、主役はあくまでハル王子だったから。ハル王子の成長物語であったから。でも、BBC版は、呪われた王冠が主役で、その王冠の重みに耐えきれずに枯れていく王様と、その王冠を引き受ける決意をした王子のお話。切り口が違う、と感じたの。
 トム・ヒドルストン(通称トムヒ)は、上手くて素敵な役者だけれど、やんちゃ時代のハル王子をやるには、大人すぎていて、最初から成長しちゃっていたの。それともマダムの中に、松坂桃李と浦井健治のハル王子が刷り込まれちゃってて、さすがのトムヒでもそこに割り込むことができなかったということなのかしら?それとも、イギリスではハル王子っていうのは、あのくらい大人っぽいものとして定着しているのかしら?(でもあっちで見たハル王子の銅像は、ほとんど少年だったよ。)
 
 長いシェイクスピアの台本を映像にするとき大幅にカットされることは、当然よ。より良い効果が得られると思えば、改変もありうる。例えば『リチャード二世』では最後にロンドン塔でリチャードにトドメを刺す暗殺者を、本通りではなく、オーマール公に設定していた。マダムはなるほどね、それもありだね、って思ったんだけど。
 今回の『ヘンリー四世』では、何か大事なシーンがそっくり無くなってる気がして、気になって帰宅してから本をめくってみたのね。それでわかったのは、シュールズベリーの戦いの場で、王がダグラスに殺されそうになったとき、ハル王子が身を呈して王を守り、二人の間のわだかまりが溶けていく、そのシーンがなかったの!(それともマダムは寝ていた?)
 ここを切っても大丈夫、と演出家は考えたんだよね?
 どうしてかしら?・・・・演出家に訊いてみたくなった。

嘆きの王冠 第一弾『リチャード二世』

 BBCが製作した嘆きの王冠シリーズ全7作。映画館で是非、全部観るべく、スケジュールを調整しているの。ちゃんと時代順に観たいので、結構大変。
 舞台の中継ではないし、ブログ記事は自分用のメモ程度にしておくので、ストーリーとか詳細知りたい方は、次の参考文献をお読みください。シェイクスピア作「リチャード二世」「ヘンリー四世第一部・第二部」「ヘンリー五世」「ヘンリー六世第一部・第二部・第三部」「リチャード三世」。

 第一弾『リチャード二世』。6月18日(日)、ヒューマントラストシネマ渋谷にて。
 見終わって、まず頭に浮かんだ言葉は、「ベン・ウィショー、ぴったりだったー。そしてネクストの内田健司もやっぱりぴったりだったんだ!」。シェイクスピアのリチャード二世から読み取れることはだいたい、蜷川演出のネクストシアター『リチャード二世』から受け取れちゃっていたんだ、ってこと。王様に向いてない性格の王様だ、ってこととか、ちょっとホモっぽいところとか、最初っからいちいち重要ポイントの判断が間違ってることとか、どんなに苦境に立ってもその状況を詩のような言葉で分析する癖があるところとか・・・うんうん、こういう人だよね、と納得。
 ネクストの舞台より今回はっきりわかったことは、リチャード二世が自分を廃嫡した人々に強力な呪いをかけたところ。この呪いあればこそ、ボーリンブルックがヘンリー四世になってもなお、王座に自信が持てずに死んでいくのがわかるし、この呪いが薔薇戦争の本当の始まりなんだなあ(「ヘンリー六世」のウォリック伯の宣言で始まるんじゃなくて)、と強く感じられた。そこはベン・ウィショーのリチャードにしてやられた感じ。翻訳じゃない、書かれた言葉そのものだからだろうか?

 あとは、やっぱり映画だから、イギリスの風土がふんだんに感じられるのが楽しかった。険しい山はなくて、丘陵地帯にしっとりとした緑が続く道を、追放されたボーリンブルックが戻ってくるところとか、遠浅の美しい海岸で、誰も迎えに来ないのを嘆くリチャードとか・・・シェイクスピアの言葉はイギリスの風土から生まれてきたことが腑に落ちるのよね、映像だとなおのこと。
 あとは恐ろしい処刑のシーンとか、鎧をつけた人間を乗せてさらに自らも鎧をつけられた馬が、重みでまっすぐ走れない様子とか、リチャードが「下へ下へ」と言いながら狭い塔の中を降りていくところとか、色々とリアルだったな。
 
 海辺からアイルランド討伐に出発する時、林立した三角の旗が海風になびく美しさ。その絵柄を見た瞬間、マダムは、子どもの頃熟読したナルニア国物語の挿絵を思い出さずにいられなかったの。そして、マダムがシェイクスピア好きになるのはもう、ナルニアを読んだ時から運命付けられていたのだとさえ、思った。
 
 さてこれから『リチャード三世』まで、先は長いわ。

愛する「海街」が映画になって

 吉田秋生の「海街diary」が映画となったので、観てきたわ。普段、映画のことは書かないけど、これだけは取り上げないとね。これから観る人は、観てから読んで。

『海街diary』
原作/吉田秋生
脚本・監督/是枝裕和
出演 綾瀬はるか 長澤まさみ 夏帆 広瀬すず
   加瀬亮 リリー・フランキー 大竹しのぶ 樹木希林
   風吹ジュン 堤真一 ほか

 えっとね。なかなか良かったです。1本の映画として。原作ファンとしてはいろいろ言いたくなっちゃうけど、それはあとで少しね。1本の映画として愛せる映画だったわ。
 なんていうか。マダムが思い出したのは、市川崑監督の『細雪』。あれは昔の船場の四姉妹のお話だったけど、映画「海街」は、現代の「鎌倉版細雪」として作られてると言える。美しい街の、四季折々のエピソード。桜や紅葉や緑や海の輝き。美しい四姉妹の、エピソードにふさわしい衣装(普段着、喪服、浴衣、職場や学校の制服)も見どころなの。まあ、少し美しすぎるかな、四姉妹。アレじゃ、鎌倉中で有名になっちゃうよ、美人姉妹ってことで。ホントはもう少し普通な人たちなんだけどな。
 舞台が鎌倉なので、小津映画と比べる向きもあるようだけど、マダムは全然小津を思い出さなかった。だって、小津は、風景に感情移入させるような手は使わないもん。だから、小津じゃなくて、『細雪』なのよ。
 もの凄く豪華で、手堅いキャスティングなので、下手な人などいない。そこはなるほど、と思ったけど、この映画の演技で圧巻なのは、すず役の広瀬すずと、大叔母役の樹木希林だった。もう、凄いのー、この二人。演技のベクトルが真逆なんだけど、到達点が同じくらい高い。
 広瀬すずは、自分と演技の境目が無くなる憑依型。狙ってなのか、監督は台本を彼女にだけ渡さず、その場その場で口立てで台詞を伝えて、撮影していったらしい。
 一方の樹木希林。出番は2、3シーンなんだけれど、大叔母さんそのものとして存在してた。彼女は憑依してるわけじゃなく、長年の経験があった上での冷静な計算があって演技してるわけなので、さすがとしか言いようがないわ。
 原作マンガをおのれの掌のようによく知っちゃってるマダムは、映画を見ながら、あ、ここはあの台詞、あ、ここは是枝監督のオリジナル、あ、ここはこう変えたんだー、などと気が散ること甚だしかった。でも、すずと大叔母さんの出てくるシーンは、そんなこと忘れて、見入ったの。
 そのほかの役者たちは、皆上手いし、手練の人たちばかり。でも、だからこそなのか、予定通りな演技なの。悪く言えば予定調和。それで原作との違いばかりが気になってしまうんだった。
 四姉妹のキャスティングだけで言えば、長澤まさみのよっちゃんは大健闘で、夏帆のちかちゃんもマンガとは別物だけどOKであったわ。ただ綾瀬はるかのシャチねえだけは、もう全然違う人になっちゃってた。キャスティングの時点での、監督の考えが、マダムとは180度違ったんだわ。
 
 原作はまだ連載中だし、2時間の映画にするとき取捨選択があるのが当然なので、別物として考えなきゃね、といつも自分に言い聞かせてる。でも別物でも、原作のどこをキャッチしたかは大事でしょ? 
 不在の親との関係が、この物語の鍵だと思うの。父親の不在については、ちゃんと語られているけれど、母親の不在については監督の意識が薄いような気がする。だから、母の演技は大竹しのぶにお任せしちゃったのかなあ。どうも腑に落ちなかったのよ。母と娘の関係は、シャチねえの性格の一部を作ってるのにね。
 吉田秋生の作品を愛する女性ファンと、映画を作る男性監督の間には、越えられない深い河が存在するね、きっと。
 四半世紀前の『桜の園』映画化の時から、河は変わらず深いままなのかも。

私を怖い映画に連れてった。

 観劇休憩中のマダム。試写会の券が当たったので、観に行ってきたわ。11月23日(日)15時半、ニッショーホール。興味のない方は飛ばしてください。

『寄生獣』
原作/岩明均(講談社) 脚本/古沢良太
監督・VFX/山崎貴
出演 染谷将太 深津絵里 阿部サダヲ 橋本愛
   東出昌大 余貴美子 國村隼 ほか

 なぜこのような映画を観に行くことになったかは、この記事 を読んでね。
 試写会のチケットが当たってしまい、大急ぎで一緒に行ってくれる人を捜さなくちゃならなくなって、やはりこれは、20年前にマンガをマダムに無理矢理読ませたK氏に責任を取ってもらおうってことになったの。よかったなあ、一人で見なくて正解。思ったほど怖くなかったけど、マダムの苦手のスプラッタ系なのは明らかだったからね。
 マンガを知らない人に少しだけ設定を説明すると。
 人間に寄生し、人間の躯を乗っ取り、人間を食べる、寄生生物が現われる。高校生新一にも、その生物が入り込もうとするんだけど、新一はなんとか右手を乗っ取られただけで、くい止める。でもそのせいで、ひとつの躯に新一と寄生生物が同居する、妙なことになってしまう。新一は、寄生生物側から狙われ、いやおうなしに戦うことになっていく・・・というような物語。
 設定だけきくと、たいして怖くない。怖いのは、マンガの絵。寄生生物が人間を襲うとき、顔の部分が花開いたみたいにパッカリ開くんだけど、その絵がムチャクチャ怖い。上手い絵じゃないところが余計に怖い。20年前に読んだっきりなのに、あのときの衝撃と怖さと気持ち悪さがありありと甦るわ。
 その図の衝撃を、どれくらい再現できるのかが、実写映画化の意味と言っても過言ではないくらい。そこのところは製作者もよくわかっていたらしくて、特殊撮影がすばらしかった。花開いたみたいな寄生生物の気持ち悪さは、100点満点。
 でも原作が世に出て20年以上の歳月は、衝撃を弱めてしまったね。この間に、あらゆる地球外生物が人類を襲う映像がたくさん作られて、さしたる興味のないマダムでさえ、慣れちゃった部分があって。ターミネーター2の映像に息を呑んだ憶えがあるけど、それよりも早く描かれながら『寄生獣』がこれまで映像にならなかったのが、やっぱり残念な気がする。残念、というより、今更ながら悔しいというべきかしら。
 
 来年、完結編が公開されるらしく、お話は尻切れとんぼで終わっていた。そんな中で、マダムの印象に残ったことは、ふたつあって、ひとつは、主人公の右手に寄生した通称ミギーの声を担当した阿部サダヲの上手さ。気持ち悪い右手と共存しなくちゃならなくなった主人公が、だんだんミギーと互いを受け入れあっていくところが、よく描けてるんだけど、染谷将太の演技より、阿部サダヲの声の演技に支えられているな、と思った。さすが阿部サダヲ。人間以外のものにもちゃんとなれる。
 もうひとつは、寄生生物側で登場した東出昌大の演技。張り付いたような笑顔が気持ち悪くて最高だった。心が伴わない笑顔がここまで怖いものだとは。
 
 全体に、特殊撮影の方に引きずられて登場人物の心の変化の描写が、薄くなってしまっている。原作が、寄生生物の怖さだけじゃなく、人間ってなんなの?っていう凄いテーマにまで迫っていることを思い出すと、取りこぼしてしまった部分が大きいかなあ、と思ったわ。残念。
 完結編で、取り返してくれるかしら?

 

大満足の『のぼうの城』

 滅多に映画館に行かないのだけれど、周りの評判がよかったので、近くの映画館に駆け込み、観てきたよ〜『のぼうの城』
 これは、面白い!
 映画じゃなきゃダメな作品。大きなスクリーンで観なくちゃダメな作品よ〜。だからテレビ放映まで待とうとか思わず、映画館に行ったほうがいいわ。
 マダムの周りには野村萬斎の声が苦手、という人がけっこういてね。そういう人に無理強いはしないけれど、でも、見入っているうちに野村萬斎だってことさえ忘れちゃうから、たぶん大丈夫。
 で、野村萬斎ののぼうさまも良かったけれども、マダムのイチオシはなんと言っても佐藤浩市! もう彼に尽きるでしょう!
 彼の役は、城主ののぼうに仕える重臣のひとり。もう一人の主役、と言ってもいいくらいずうーっと画面に映ってる。萬斎の柔に対して、佐藤浩市は剛。鎧を着て馬を乗りこなす姿のカッコいいことと言ったら!惚れ惚れした〜。毎日車を運転するかのように馬に乗ってただろう武士の日常を、当たり前のように体現してる。いま、時代劇のなかでこういう演技ができる人を、マダムは他に知らない(真田広之を別として)。久々に佐藤浩市の役者としての魅力をぜ〜んぶ見せてもらいましたわ。素敵すぎるー!!!
 
 まるで黒澤明かって思う程、セットも風景も衣装も完璧だったよ。田園風景も、田舎城の簡素さも、嘘くささが無い。戦いのシーンも、人海戦術から馬の迫力、水の迫力、泥の飛び散り方まで見事であった。最近の日本映画によくあるCGのやり過ぎ感もなくて、凝ってるけど、でしゃばってないの。全てがドラマに奉仕しているの。
 ということは監督の仕事が素晴らしいってこと。で、監督は誰かな?と見てみたら、ダブル監督なのね、これが。犬童一心と樋口真嗣。かたや『メゾン・ド・ヒミコ』の繊細な演出の人だし、かたや『ガメラ』の特撮監督の人だね。普通、こういう時はA班、B班に分かれて撮影を受け持つんだけど、今回は同じ現場にいつもふたりいて、演出してたらしい。よほど互いを信頼していたのね。滅多にあることではないわ。
 しいて言えば、栄倉奈々がいまいちなのが残念。着物が躯になじんでない感じだったし、「姫」の孤高な雰囲気も足りなかったね。
 
 ここのところ日本映画で見たいものがなかったので、久しぶりのヒットで嬉しくなっちゃって。滅多に書かない映画の話を書いちゃいました。

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