最近の読書

本(芝居以外の)

復帰前の挨拶

 ご無沙汰しました。
 いろいろ片付いてきたので、観劇生活を再開したいと思ってる。
 その前に、この1ヶ月くらい読んだ本を紹介するね。本について話すことはなかなか機会がないので。

「文藝別冊 総特集 くらもちふさこ」2017年4月発行
 くらもちふさこの凄さを改めて、噛みしめるための特集。マンガの技法を極め続けた人の、今も止まらない歩みに、ため息。

「向田邦子シナリオ集Ⅲ 幸福」
 持っていたシナリオ本を人に貸して返ってこなくて、この最高傑作が本棚になくて。文庫で出てるのを発見して買ったら、また読んでしまい、全て知っているのにまた感激してしまったわ。皆さん、これが彼女の最高傑作です。

「日本会議の研究」菅野完著
 長年新聞を読んでいても、知らないことがたくさんある。そのことを痛感するし、黙ってはいられない気持ちになるわ。

「ブラッカムの爆撃機」ウェストール著
 宮崎駿による解説(?)と飛行機の解説図が、ウェストールへの偏愛を語っていて、プラスアルファの楽しみ。

「海街diary8 恋と巡礼」吉田秋生
 1冊出ると、繰り返し読み、さらに1巻からまた読み返してしまう。楽しい。

「悟浄出立」万城目学
 今読みかけ。

「グレート・ギャツビー」フィッツジェラルド 村上春樹訳
 今、再読中(予習)。

 ラインナップの脈絡のなさに、クラクラする。忘れてるものもあるかも。
 今後は芝居のことだけじゃなく、本のことももう少し書けたらいいんだけどね。
 それと、さっき気がついたんだけど、今年の12月で、このブログが10周年を迎えるかも?! えーっ!もう10年経っちゃうのお? やだなあ、もう。年取るわけだわ。まさかの10年・・・。
 というわけで、観劇生活、再開です。

『大人エレベーター』を読む

 こんな本を読んだ。売れてるのか、知られているのか、よくわからないのだけれど、マダムのブログに来る方にはご紹介しておかねば。

『大人エレベーター』(2014年7月20日発行 扶桑社)
ナビゲーター 妻夫木聡
54階 中村勘三郎&Char   77階 仲代達矢
64階 高田純次&岸部一徳  56階 竹中直人
46階 古田新太   ほか

 サッポロ黒ラベルのCMの「大人エレベーター」と言えば、誰でも見覚えがあるわよね? CMは15秒とか30秒のもので、目立つひと言をクローズアップして終わってしまうものなんだけど。実は、その30秒を撮るために、1時間くらい喋ってた、その対談集がこの本。
 上に挙げたのは役者が多いけど、この他にもスガシカオとか斉藤和義とか中村俊輔とか、マダムの興味のある人たちが登場するので、つい買っちゃったの。

 インタビュアーが妻夫木聡で、誠実なんだけど、いまひとつ話が膨らんでいかないきらいがあって。やっぱり、登場する側の方が1枚も2枚も3枚もうわてな人たちだからね、ついていけないのよ。
 それと、決められた質問をしなきゃいけなくて、縛られているから。そこはやっぱりCMだから、ね。
 でもそんな中で、中村勘三郎とCharとか、高田純次と岸部一徳とか、二人で出てくると俄然話が面白くなるのよ。妻夫木聡を置き去りにして、二人で盛り上がってる部分がそうとう面白い。
 勘三郎の発言の中で、おおおっと思ったところをひとつだけ引用するとね。

「型のある人が型を破ると『型破り』になり、型のない人が破ると『形無し』になる。・・・もし二十歳の時に型を破ろうとしてたら、僕は『形無し』になっていたでしょうね」

 ね? さらっと、こんな凄いこと言ってる。このとき、勘三郎54歳。まさか3年後にいなくなってしまうとは、お釈迦様でもご存知あるめえ・・・って、ホントよ。人生、どう終わるか誰も知らないの。

 ちょっと気になった本の紹介でした。 

石井桃子は私の母だった

 今日は、芝居以外のお話。
 こんな本を読んだの。

『ひみつの王国 評伝 石井桃子』
尾崎真理子著 新潮社刊(2014年6月)

 この本を読む以前も、石井桃子という人はマダムにとって、とても大きな存在だとは思ってた。
 マダムの記憶では、マダムが生まれて初めて文字を読んで愛読したのが、『ゆきのひのうさこちゃん』(ディック・ブルーナ作 福音館書店)だった。今や、ミッフィーとしてみんなに知られているけど、日本に最初に紹介されたときは石井桃子の翻訳により「うさこちゃん」だったの。だから、長いことマダムにとっては「うさこちゃん」以外の呼び名はありえなかった。
 本が大好きだったマダムは、その後も石井桃子の翻訳本を何冊か読んでいる。すぐ思い出せるのは『百枚のきもの』(エリノア・エスティーズ作 岩波書店)や『くまのプーさん/プー横町にたった家』(A.A.ミルン作 岩波書店)や『ゆかいなホーマーくん』(マックロスキー作 岩波書店)。大好きでなんども読んだから、どの場所にどんな挿絵があったか、今でも思い浮かべることが出来るくらいよ。
 だから、愛読書の翻訳家であるということで石井桃子のことを認識していたのだった。
 
 2008年4月、石井桃子は亡くなった。享年101歳(!)。
 没後6年となる今年、石井桃子の伝記が出たので、読んでみたというわけなの。そして、いろいろな驚愕の事実を知ったのよ。
 よく考えてみたらわかったはずのことだけど、子供のマダムが、石井桃子が翻訳してくれた本を次から次へと読んでいた頃、既に彼女は人生を折り返していた。マダムの最初の愛読書『ゆきのひのうさこちゃん』を翻訳したとき、石井桃子はなんと57歳。びっくりよ!
 じゃあ、その前は、いったい何をしてたというんだ、彼女は?と思った人はこの評伝を読んでみるしかない。明治に生まれ、日本女子大英文科を卒業し、菊池寛に誘われ文藝春秋社で働く。戦前、既に子どもの本の出版にも着手し、『ドリトル先生シリーズ』を井伏鱒二に翻訳させたりもしてる。だけど突然、東京を去って、友人とともに宮城の田舎暮らしを始め、開墾なんかに着手したりし・・・。
 戦後の彼女の活躍は、実は戦前に培った人脈や志しが、タイミングを得て実ったものだったとわかるの。
 
 分厚くて中身の詰まった本なので、内容をこれ以上説明はしない。興味のある方は是非、読んでみて。
 
 この本を読んでマダムは、石井桃子が自身で翻訳をしていただけではなく、沢山の出版を企画し、実現していたことを知った。そしてその多くが、やはりマダムの愛読書だったのよ。『ドリトル先生シリーズ』しかり。『星の王子さま』(サン・テグジュペリ作 内藤濯訳)しかり。ほかにも『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』(トラヴァース作 林容吉訳)、『長い長いお医者さんの話』(チャペック作 中野好夫訳)、『おさるのジョージシリーズ』(H.A.レイ作 光吉夏弥訳)・・・・ここに書ききれない。
 それで、わかったの。マダムの読書人生、いえ、もっと広く言えば日本語人生あるいは文化的人生の産みの母は、石井桃子であった。この歳になって初めて知るとはね。母を訪ねて三千里とはこのことだったのか・・・。
 ちなみに、マダムの日本語人生の父は、『ナルニア国物語』や『指輪物語』を翻訳した瀬田貞二だと思っている。そっちはけっこう早くに自覚してたんだけどね。

ユーミンは有罪か

 最近やっと活字熱が戻ってきたので、少しばかり本の話を。

『ユーミンの罪』(講談社現代新書)
  酒井順子 著  2013年11月発行

 新刊の本など滅多に買わなくなってたんだけど、いつも読んでるohnoblogで「面白い」とあり、なにより題名のインパクトに惹かれて、読んでみた。
 面白かったわ。
 著者は言わずと知れた『負け犬の遠吠え』で一世を風靡した酒井順子。
 題名が示してる通り、ユーミンこと松任谷由実についての分析本なんだけど、本人にインタビューしたわけではなく、あくまで彼女の曲、特に詩の内容に焦点を当てている。1973年のデビューアルバム「ひこうき雲」に始まり1991年のバブル崩壊前夜まで、アルバム1枚に対して1章を割いて、ユーミンの詩の内容と、それを受けとめた女性ファンの気持ちや時代背景との関係を、分析していく。
 言葉は平易だけど、分析は鋭い。
 酒井順子自身がファンとしてユーミンの曲を聴き続けてきているし、「その時自分がどんなだったから、どんなポイントで胸を打たれたか」について具体的に(そして、どこか諦めにも似た客観性をもって)書かれているの。
 こう書くと、ユーミンの熱烈なファンでなければ理解できなそう・・・と感じるかもしれないけれど、そんなことはなくてね。まあ、一時期好きだったな、とか、好きというわけでもないけど、なんとなくずっと聞こえてたな、とかいう人でも充分わかるし、面白く読めると思うわ。
 かくいうマダムも、聴き込んだと言えるアルバムは、荒井由実時代の2枚だけ。その後は、ドラマや映画やCMやスキー場などのBGMとしていつも傍らにいたな、という感じ。
 そしてここからが肝心なんだけれど。
 ある頃を境にして、マダムはユーミンを全く聴かなくなったの。なんでかしら?・・・しいて言えば、必要としなくなったからよ。そう断言できるし、ずっとそう思っていたの。
 でもこの本を読んだら、別の言い方も出来るってことがわかった。
 マダムがユーミンを聴かなくなったのは、ユーミンのターゲットから外されたからだったのよ。いやはや、まいったなあ。
 こっちの意志だと思ってたのに、一方では、向こうのふるいにかけられて落とされてたんだわね。
 その辺りを知らしめた『ユーミンの罪』は、なかなかの本だと思う。

村上春樹に群がる人々

 

村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は発売前にベストセラーが約束されていて、発売日には各局のニュースでもトップで報じられていた。なんだか文学の世界の出来事じゃないみたい。新しいi phoneなんかと肩を並べてるのね。
 一方で、アマゾンのレビュー(一般の人が書くやつ)では、せきららな酷評が書かれ、それに賛同する書き込みが膨れ上がって凄いらしい。と聞いたので、マダムもちょっと見てきたの。確かに酷評だったし、賛同する人と、村上ファンとの間で議論(というより喧嘩?)が激しく起っておりましたわ。アマゾンのレビュー欄でこんなことになるのって、滅多に無いことじゃない?
 なんていうか、彼が小説を出すと、いちいち社会現象を呼び起こしちゃうのねー。

 マダムは村上春樹をデビューのときからリアルタイムで読んでた。彼の文体はそれまでの作家とは一線を画す新しさがあって、魅力的だったの。『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』あたりまでは、出るとすぐ買って読んでいたの。ハルキストという言葉は無かったけど、ハルキストであったと言っても過言ではないかもね。
 でも『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでちょっと飽きた。現実に対する距離の置き方が新しい!と感じてきたけど、ずっと距離を置いているだけでは生きられないんだよ?と思った憶えがあるわ。
 以来、長編小説は読んだり読まなかったりしてた。一方でエッセイと短編は必ずと言っていいくらい読んできた、はず。
 だから『ねじまき鳥クロニクル』も『海辺のカフカ』も『1Q84』も発売からだいぶ経って借りて読んだの。(まあ、結局読んじゃうんだけどさ。)
 今回の新作も買う気はなかったんだけど、たまたま知り合いのお家で2冊買っちゃったから1冊あげる、と言われて、読んだのよ。
 で、マダムが思うに『色彩を持たない・・・』は駄作だね。

 村上春樹の長編って結局いつも同じじゃん?とは、友人との間で話してきたことだ。特に女性の設定が、なんだか常に主人公に都合よく出来てるのよ。昔は新しく感じた比喩も、今は無理を感じる時もあったし。
 それでも騙されるように最後まで読んでしまうのは、時折圧倒的な描写でまきこんでくれたからなのよ。だけど、今回はそういうところが一カ所も無かった。全体として、作家の入魂がどこにも感じられなくて、説得力がまるっきり不足してる。
 アマゾンでは村上ファンとアンチ村上派とでバトルしてるけれど、マダムはどっちに加勢するとかじゃなく、冷静にこの作品だけについて考えて、不出来だって思う。それも村上春樹自身の水準線を大きく下回っているんじゃない?習作を習作のまま出しちゃったのかしら・・・とさえ思ったの。村上春樹ほどの作家になると、編集者もただ原稿を戴くだけなんだろうか。
 それでね、ここからは思いっきり推測っていうか邪推なんだけれど、文芸春秋は経営が苦しいのかしら。とにかく早くベストセラーが欲しかったんじゃない? だから作家の中で十分温まってなくても、出来がいまいちでも、いいんですっ、とにかくうちから一冊出すって約束でしょう?うちを助けると思って早く書いてくださいっ!・・・みたいなことを思い浮かべちゃったよ。
 村上春樹だって神様じゃないんだから、駄作を書くこともあるわよね。神様を利用して儲けようとする人々ばかりじゃなくて、ちゃんと批評眼のある人が近くにいるといいのに。
 演劇もそうだけど、宣伝から離れた批評って今、見かけなくなっているでしょう? 宣伝だけしてて共倒れにならないようにしないと、ね。

 

『海辺のカフカ』について語るときにマダムの語ること

 野田秀樹と風間杜夫と堤真一の余韻が醒めないうちに、また次の芝居を観てしまったわ。スケジュールがタイト過ぎて、倒れそう。で、レビューが遅れちゃった。さいたま芸術劇場、5月13日(日)マチネ。

 

『海辺のカフカ』
原作・村上春樹 脚本・フランク・ギャラティ
演出・蜷川幸雄
出演 柳楽優弥 田中裕子 長谷川博己
   佐藤江梨子 高橋努 木場勝己 ほか

 

 一緒に行った友人の観劇後のひと言。「退屈はしなかったけど、釈然としない」。・・・うん、ホントにそうなのよ。
 蜷川演出といったらビジュアルが命なんだけれど、やはり今回もそこは魅せてくれた。セットがとても面白かったの。カフカの自宅、高松の図書館、ナカタさんが猫と話す公園、星野が運転するトラック・・・などなど全部のセットが各々、透明なアクリルの箱(というかコンテナ)に積まれていて、さいたま芸術劇場の奥行きの広ーい舞台の上を、ぐるぐる移動する。正面に来たらそれが今のシーンになるの。
 アクリルの箱には、骨格に沿って蛍光灯が付いていて、人工的な白い光でセットを浮かび上がらせる。
 セットの有り様が作家の文体を視覚化していて、そこには感心したの。村上春樹の小説は『海辺のカフカ』に限らず、人物一人一人のテリトリーがはっきりしていて、容易に他の人物とテリトリーを共有しない。フレンドリーに見えても一線を画してる。空間的にも心理的にも、ね。そういう雰囲気をちゃんと舞台の上に目に見える形で出してくる、さすがは蜷川演出。
 でも、凄いのはそこまで。
 
 役者はみんな、その人物らしかったわ。柳楽優弥は少年にしては線が太かったけれど、カフカの真っ直ぐで頑ななところが出ていたし、高橋努は能天気な星野ちゃんそのものだったし、木場勝己のナカタさんときたら、この人以外のナカタさんが考えられないくらいにぴったりだったの。
 そして、エピソードも一個一個は、小説に沿ったものだし、退屈せずに最後まで観たのよ。
 でも釈然とはしない。それはなぜか、というとね。
 小説の背骨、とも言える「カフカ少年が何故家を出たのか」が、脚本から抜け落ちているからよ。
 小説では、少年は父親から呪いを掛けられているの。「お前は俺を殺すだろう。そして母親や姉と寝るだろう」というオイディプス的な呪い。そうなることを恐れて少年は家出をするのよ。
 にもかかわらず、少年は夢で父親を殺し、母や姉かもしれない人たちと寝ちゃうことになる・・・それがこの小説の芯だからね。
 でも脚本にはこの呪いの部分がまったく無いので、どうしてカフカ少年が逃避行するのか、わからないのよ。大前提が無いから、その後のことがバラバラなエピソードとしてしか、受け取れなかった。
 いったいどうして、この大事な動機部分を、カットしちゃったのかしら。腑に落ちないわ。

 マダムは田中裕子という女優をいいと思ったことがないので、その好みを割り引くとしても、カフカ少年が佐伯さんと寝ちゃうのも唐突だしね。少女時代の佐伯さんが幻で出てきたけど、全然魅力的じゃないし、歌われる「海辺のカフカ」という歌が恐ろしく陳腐なので、がっかりしちゃった。
 
 村上春樹の小説を舞台化するのは、難しいことなのね。特に『海辺のカフカ』のように長い小説だと。
 しかも『海辺のカフカ』は村上春樹の長編の中で、出来のいい方ではない気がするし。
 そんなこと言い始めたら、レビューじゃなくて村上春樹論を展開しなくちゃいけなくなるから、もうやめるね。

 カフカ少年と佐伯さんのシーンより、ナカタさん(木場勝己)と星野ちゃん(高橋努)のシーンをもっといっぱい観たかったな。
 

大いなる賭け

 

村上春樹の『海辺のカフカ』が芝居になるという。演出は蜷川幸雄。さいたま芸術劇場で5月公演だそうよ。このニュースには驚いたし、何より未だ新しいことに挑戦し続ける演出家の、衰えを知らぬ創作意欲に、つくづく感心したのよ。やるなあ、蜷川幸雄。

 

『海辺のカフカ』は数年前、アメリカはシカゴで初めて上演されている。その時のレポートが朝日新聞に載り、マダムはブログにそのことを書いたの。だいぶ前なので、誰も憶えていないかしらね。その記事は→ここ  なので、まずは読んでみて。

 村上春樹作品ではかつて『エレファント・ヴァニッシュ』がサイモン・マクバーニーの手によって舞台になった。残念ながらマダムは観ていない。でもあの『春琴』のサイモンだからきっと、いい舞台だったのではないかしらん。(ああ、『春琴』・・・また観たい。ま、それはいいとして)
 さて、そして蜷川演出『海辺のカフカ』である。台本はシカゴ版から翻訳するらしい。どうかなあ、村上春樹と蜷川幸雄の組み合わせ。観に行くかなあ? これはね、大いなる賭けであるとマダムは思うよ。身悶えするほどいいかもしれないし、驚愕の大失敗に終わるかもしれない。
 だけれども、安全パイを拾っていくような巨匠にはならないんだぞ、と態度で示す蜷川幸雄にまずは敬意を。

 後はスケジュールやお財布と相談することにしましょう。

友達が作家になった!

 左手日記その4。
 なんとなんと、マダムの友達が作家デビューしたの! ワオー!
 この歳になって。友達が作家になるなんて、作家と友達になるより奇跡なことよ。凄ーい!

『デフ・ヴォイス』
 丸山正樹 著  文芸春秋社刊
 7月23日発売!

 この小説はね、今年度の松本清張賞の最終候補に残り、惜しくも大賞は逃した。逃したのだけれど、審査員だった桐野夏生や伊集院静のようなベテラン作家たちが、口を揃えて「本になるべきだ」って言って、それで出版されることになった力作ミステリーなのよ〜!
 さっそくマダムも読んでみたの。
 少ーし硬い文章ながら、これまでマダムの全く知らなかった世界(ろう者=耳の聞こえない人)の話が次々展開して、興味が尽きなかったわ。
 なにより新鮮だったのは、作家の態度。マイノリティを描くときお涙頂戴になるのが昨今の常道手段だけど、それを断固拒否しているの。それはとても大事なことよね。お涙頂戴は、涙と同時に問題意識も一緒に流れ去っちまうことが多いんだもの。
 是非、一度、本屋さんで手に取ってみて。本屋で見つからない時には、図書館にリクエストしてみてくださいな。
 

マダムの本棚

 先日来、学校帰りの子供に、都心の大きな本屋に寄ってもらうことが多かった。近所の本屋には『悲劇喜劇』もないし、シアターガイドさえ見かけないので、子供を頼ってしまってたのよ。そうするうちに、子供自身が本屋の楽しさに目覚めたらしい。曰く「アマゾンだと欲しい本はすぐ手に入るけど、知らない本には出会えない。だけど、本屋で欲しい本を探してると、それ以外に思いがけなく発見できる本があって、面白いんだー」。よく言った、我が子よ。それよ、それ。
 本屋にしろ、CDショップにしろ、今、どんどん縮小してる。近所では、有名な著者の新刊か、何処でも買えるような雑誌の類しか置いてないような本屋ばかり。刺激の少なさにマダムの脳も縮む思いよ。
 そんなとき、実にタイムリーな本を読んだの。芝居とは直接関係ない本だけど、結局は文化をどう維持するかについて書いてあるので、巡り巡って、演劇とも繋がる話だと思うのよ。

『街場のメディア論』2010年8月刊
 内田樹 著  (光文社新書)

 ま、この人も今や超有名な著者だし、何処の場末の本屋でも探せるベストセラー的な本なんだけどね。内田センセの本は一時ハマって次々熱心に読んだけど、最近はちょっとご無沙汰してたの。でもこの本は今、マダムが直面してる問題を、腑分けして、納得させてくれたんで、ここで取り上げてみようと思って。
 まずはマダムがこの十年くらいひしひしと感じていることーー現存のメディアが(新聞も雑誌もテレビも)どんどんつまらなくなってることについて、なぜそうなのか、を内田センセは解き明かしてくれてるの。つまりさ、記事にしろ番組にしろ、誰も自分の責任において真摯に作ってはいない、ということなんだよね。そして、みんなが薄々感じている疑問について「知らんふり」したり「無いことに」したりしたまま、「なにも知らない庶民の代表」みたいな顔つきで記事を書いたりニュースを流したりしている。そんなものが、面白いはずがないじゃないの。納得だー。
 だって本来、メディアの側の人たちはプロなんだから、私たちより早く疑問を感じたり問題を察知したりできるはずなんだし、それを私たちにいち早く知らせてくれるはずなのよ。だのに、新聞でもテレビでも、たいていの分析はマダムが想像してた範囲のことばかり。雑誌は品物の広告記事ばかり。知的な刺激は何処からもやってはこないのよ。

 内田樹の分析は多岐にわたっているんだけど、一番唸った箇所はね、電子書籍と紙の本との攻防について語っている中で、「自分の書棚の効果」に触れているところ。

書棚は・・・家に来た人に「思われたい」という僕自身の欲望がそこに露出しているということです。・・・本といったら「書棚に置くもの」でしょう。でも、電子書籍は書棚に配架することができない。・・・電子書籍の、紙媒体に対する最大の弱点は、電子書籍は「書棚を空間的にかたちづくることが出来ない」ということです。その前を歩いたり、こたつで昼寝をしていて、ふと目を覚ますと背表紙と目が合うというようなことが起こらないということです。
 ・・・本棚は人間関係を取り結ぶためにきわめて有益な情報を提供してくれます。だって、人と付き合う時に知るべきことは、そのひとが「ほんとうはなにものであるか」よりもむしろその人が「どんな人間であると思われたがっているか」に決まっているからです。
 電子書籍の出現によって出版文化は危機に瀕すると言う人は沢山います。けれども「本棚」の機能について論及する人はいません。どうして誰も本棚のことを問題にしないのでしょう。どうして、その自己啓発的な機能について論じないのでしょう。

 引用が飛び飛びで少しわかりにくいかと思うけど、つまり本棚はその人の「こうありたい」姿をトレースしているってことよ。だから誰かの部屋を訪ねてその人の本棚を見れば、その人がどうありたいかがわかる。だけど、紙の本が全て電子書籍に取って代わられたら、今までの本棚の役割を果たすのは一体なんなのか、ってところなのよ、問題は。
 かく言うマダムの本棚は、といえば、芝居の雑誌やらパンフやらシェイクスピアやら野田秀樹の戯曲やらの隣に、村上春樹とくらもちふさこと高野文子が並び、その下段には子供の頃から大事にしているナルニアとアーサー・ランサム全集とその英語版とリンドグレーンなんかがあり、その横には吉田秋生とよしながふみがあって、すぐそばに夏目漱石やら福岡伸一やら酒見賢一やら・・・何ていうか、ホントにマダムの脳をトレースしてるのね。そしてなにより大切にしているランサムの原書本には著者のサインがある。そう、電子書籍にはサインしてもらえないんだよ、今気づいたけど。
 マダムが今、なんとなく停滞しているのはたぶん、狭くなった本棚にそれでもどうしても置きたいんだと思える本と、なかなか出会えなくなっているせいではないかしら。
 そしてそれは、別に電子書籍が現われたせいではなくて、それ以前からとっくに始まっていたことなんじゃないのかしら、としみじみ思うのよ。
 あー、まともな本屋に行きたい。

のだめと村上春樹な休日

 さしたる予定もないのに、あれよあれよと過ぎていくマダムの黄金週間。
 ま、主婦にとって、子供が休みの日は休みではないのでね。

 黄金週間の初日に、子供と約束していた映画『のだめカンタービレ 最終章後編』を観に行ってきたわ。
 前編が確か昨年末だったので、半年待たされたわけね。前編のときは、とにかく千秋こと玉木宏が指揮の演技、頑張ってるなーと感心したマダムだった。ところが、ところが。
 直後の一月、マダムがぼんやりテレビ画面を見ていたら、小沢征爾が病気療養のため公演をしばらく休む、というニュースをやっててね。小沢征爾が指揮している姿が3秒くらい映ったのよ。マダムはクラシック音楽ファンでもなく、コンサートなるものにもほとんど行ったことがないんだけれど、たった3秒で、小沢征爾が紛れもなく本物であり、千秋こと玉木宏の指揮はホントにただの演技であることがわかったのよ。まあ、当たり前のことなんだけど。
 演技っていうのは、その映画なり芝居なりドラマなりのなかで、客に信じさせることができたら、それでいいんだね。本物である必要はない。もちろん本物を見せることができたら、それはそれで客を魅了できるんだけど。

 『のだめ 後編』の話だった。
 映画ならでは、の部分が後退して、原作マンガの手法そのままになってた。千秋の心のナレーションをバシバシ入れてあって。原作を読んでいるマダムにとってはわかりやすすぎちゃって。千秋の心の揺れや不安感は画面で充分伝わったと思うから、ナレーションを控えめにしてほしかったわ。親切過ぎると、こちらの感受性が鈍る。結局、感動は目減りする。
 観終わってすぐ子供が「ね、あれって、つまり二人は結婚したの?」と訊く。「ううん、結婚はしてないんじゃないかな」と答えると、子供はいたく不満そうだった。だから「二人でこれからもオンガクの道を一緒に進んでいく、ってことよ」と説明すると、「ずっとカレカノの関係だねってこと?結婚はしないの?」としつこく訊く。どうも結婚にこだわってるのね。小学生の限界だわ。
 原作マンガ『のだめ』の凄いところは、ただの恋愛マンガじゃないところだ。男と女が、それぞれ何かを極める道を行きつつ、子供の言うところの『カレカノ』関係を維持することの困難さを、マンガらしいストーリー展開を崩すことなく(このあたりのさじ加減がいかに難しいことか!)ちゃんと描いているの。
 映画ではもちろんそこを押さえつつも、やはり万人受けする恋愛映画に仕立てる方へ向かったのよね。うん、まあ、そうだろうな、とマダムはひとり頷きました。

 一方、村上春樹の『1Q84』第3巻も読破。
 1、2巻を読んだとき、これは『ノルウェイの森』を『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の手法で書いたものかしら、と思ったの。で、3巻読んだら、なんだかよくわからなくなっちゃった。
 でも彼がデビューしたときから読んでいるので、その文章の中毒になっていて、とりあえず読まずにはいられないし、読み始めたらどうしたって最後まで読んでしまうのよ。
 寿司のあとに苦めの煎茶を飲むように、イタリアンのあとにコーヒーを注文するように、そこにあれば手に取って読まずにはいられない。
 で、4巻って、出るんですか? 出たら、やっぱり読んじゃうんだろうか・・・読んじゃうんだわね、たぶん。

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