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縮んでいく王 吉田鋼太郎の『リア王』 その2

 その1では吉田鋼太郎の台詞についてばかり書いてしまったし、それでもう『リア王』という芝居はかなり成立してしまうんだけど、正直にいうと、吉田リアとがっぷりよつな芝居が成立してたのは、グロスター伯(山西惇)とケント伯(山内圭哉)だけだった。(エドガーとエドマンドの兄弟もなかなかよかったのだけど、リアとの会話がほとんどないので、そこはまた後で話すね。)
 山西惇と山内圭哉はおふたりともシェイクスピアはほぼ初めてだそうなのだが、やっぱり役者のキャリアって大きいんだな、と感じた。台詞の意味が全部伝わるのはもちろん、性格の実直さとか頑なさとか騙されやすさとかが当たり前のようにそこに載っている。実直すぎて、悪巧みによって駆逐されてしまう老家臣たちがちゃんとそこにいて、王様と対峙している。


 それに比べると、コーディリア(吉田美月喜)や道化(中山祐一朗)などは、どういう人物なのかよくわからないまま芝居が終わってしまった。リア王との関係が浮かび上がらない。
 気づいた人がどれくらいいたかわからないけど、かぶりつきの前方席で観た私はひとつ、素晴らしい演出に気づいた。荒野でリアとグロスター伯が出会って語り合うシーンの最後に、リアが目の前の地面を引っ掻いて掘ると(舞台は土でできているので、掘れる)、土の中から道化が被っていた帽子が出てくる。リアが「これはいい帽子だ。フェルトで騎兵隊の靴を作るか」という台詞を言いながら、帽子を握って立ち上がる。
 つまり、道化はもうはぐれたきり行方不明で、おそらくは野垂れ死しており、その帽子が風に飛ばされ砂に埋まっていた。それをリアが偶然掘り出し、飄々と持っていく。あんなにずっとそばにいた道化のことを、リアはもう憶えていないのだ…。
 道化の帽子が埋まっているのをリアが掘り出すという演出は、他で見たことがない。めちゃくちゃ良い演出だと思うのだが、残念なのは、芝居の前半で、リアと道化の関係がちゃんと描ききれていないことだ。前半で王と道化の仲の良さがちゃんと描けていれば、この帽子のシーンは効果絶大だったと思うのだけど。
 それに、大きな劇場でこの演出が伝わるためには、もっと特徴的な帽子でなければならないだろうし、前半で帽子の存在をもっとアピールしておかなければいけないだろう。たぶん多くの観客は、掘り出したのが帽子だとわからなかっただろうし、ましてそれが道化の帽子だとは気づけない。せっかく良い演出なのに。

 全体に、人物たちの関係性が薄い。そこまで演出が行き渡っていない。3姉妹が姉妹らしくない(仲がよかろうと悪かろうと、長年の付き合いが感じられてもいいはずだ)し、ゴネリル(石原さとみ)もリーガン(松岡依都美) も夫との関係性が匂わない。その関係性がちゃんと伝わってこそのエドマンドへの執着じゃないだろうか。この辺りは上演も重ねると、よくなっていくかな?
 身も蓋もないこと言っちゃうけど、石原さとみがコーディリアをやればよかったんじゃないだろうか。彼女にゴネリルを振ったことで、いろんなバランスが狂った気がする。

 
 グロスター家の兄弟、エドガー(藤原竜也)とエドマンド(矢崎広)はイキイキしてて、面白かった。
 エドマンドはひとりだけ観客に本心を語る人物で、矢崎広は八面六臂の活躍だったんだけど、一番最初のシーンが台本から切られていたのが痛かった。彼が妾腹の子であるため、父親のグロスター伯から侮蔑的な扱いを受けるシーン。それがあってこそ彼の色悪ぶりが引き立つ。そのシーン無しでエドマンドという悪役を背負うのはだいぶ荷が重いと思った。てか、最初の場面てこれほど重要だったんだなあ。シェイクスピア、無駄にファーストシーンを書いてないの。
 一方のエドガー、藤原竜也は凄く楽しそうだった。余裕綽々で自由に舞台にいる。途中の荒野のシーンで、エドガーは上半身裸に泥を塗りたくって出てくるんだけど、この数年観たどのエドガーよりも「裸です」という感じがなくて、衣装を着ている時と全く同じように気負いなく舞台にいることに、なんだかしみじみ凄いと思った。他のエドガーはどうしても「役者が頑張って裸で出てきました」感が出ちゃってたのよ(上手く説明できないのが、もどかしいんだけど…)。友人は「そりゃ、デビューが身毒丸なんだから、裸なんて慣れてるわ」と言ってたけど、慣れてるという言葉だとちょっと違うんだよ。服着てても着てなくてもエドガーです、という感じで舞台上に存在できてるの。自分の身体を丸ごとエドガーに差し出していられるんだなあ。
 (ここまで余裕綽々ならば、道化をやってもよかったんじゃないか、とふと思った。藤原竜也の道化を吉田リアが「あほう」と呼ぶ世界線を想像して、ニヤニヤする私。)
 
 勝手なことを言うのはこの辺でやめておこう。
 
 リア王とグロスターとケント伯がよければある程度満足できちゃうのだけれども、周りの人たちが自分の役や台詞のことだけじゃなく、もっと関係性を表現できれば、芝居全体が凄く良くなるのでは、と思った。これから長い上演期間があるので(私はもう観られないけれども)、深まっていくのでは、と期待しています。

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コメント

一応、突っ込んでおくけど、「慣れてる」っていうのは、演劇的に舞台上で裸になるなんて、彼に取っては「普通のこと」でしょって意味ですからね。
石原さとみがコーデリアやって、シェイクスピアの昔のように、道化と二役やったら面白かったのに〜と思います。かつて、エマ・トンプソンだってやったのだし。

ぷらむさま。
そうですね!「普通のこと」だから、そこになんのこだわりも気負いもない、ってことなのね。
石原さとみにコーディリアはやれても、道化はやれるかどうか…と思うけど、やってしまえばやってしまったことになったのにね。

多分マダムの4公演後に観劇しました。
吉田鋼太郎さんの声がガサガサだったので驚きました。支障はなかったけど、ちょっとびっくり。
またまた2階席の、上手の細長〜い席だったので、ちゃんと帽子を掴んだの、見えていましたよ。舞台に十字の切れ込みがあるから何だろう?と思っていたら、そこへガッと手を突っ込んでいましたね。プラスチック部分がしっかり見えて萎えましたが。
というのも、ゴネリルが青、リーガンが緑でコーディリアが白、フランス王が金で後はみんな黒なので「赤はないのか?」と思いながら見ていて、ようやく登場したら道化が赤だったのが印象的だったからです。赤なら道化の帽子だと。
エドガーの突然裸説は本当にそうで、段田版の小池徹平さんは違和感しかなかったです。ピッカピカの上半身だったし。私の初リア王だったので、そんなもんなのかな、と思いましたが、藤原竜也さんがやると「エドガーって、こんないい役だったっけ?」って思いましたもん。役としてはエドマンドの方がおいしいと思っていて、実際玉置玲央さんや章平さんは「悪の華」感が強く、姉妹まとめてやってやったぜ〜グヘヘ、というのが伝わってきたので。今回矢崎さんはちょっと薄味だったかな。周りが濃すぎただけか…。確かに、最初に酷い目に遭うというジャンプ台が必要でしたね。

たまレオスさま。
私は前方席だったので、役者の表情が見えてよかったのですが、盛り土の上は見えませんでした。
なので、そんな切れ込みがあったなんて!
あの帽子の演出は、二階席からの方がよく見えたのですね。
色使いの演出も、遠目の方が理解できた気がしますし、前方が良いとは限らないです。
エドマンドの色悪味が薄くなってしまったの、色々原因あると思いますが、やっぱりファーストシーンのカットが痛かったなあと感じています。シェイクスピアってうっかりカットできないんですよ、ちゃんとそこにある理由があるんでね。

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