舞台好きが観る、映画『ハムネット』の喜び
海外では昨年公開されていて、待ちくたびれた。日本公開、遅いよ〜。4月13日(月)、某シネコンにて。
『ハムネット』
原作/マギー・オファーレル
脚本/クロエ・ジャオ、マギー・オファーレル
監督/クロエ・ジャオ
出演 ジェシー・バックリー ポール・メスカル ジャコビ・ジュープ
オリヴィア・ラインズ ノア・ジュープ ほか
ネタバレが嫌な方は、映画を観てからまた読みに来てください。特に事前準備が必要な映画ではないので。
シェイクスピアとその家族の物語。けれども、これは全くのフィクション。シェイクスピアは、日本で言えば安土桃山時代から江戸初期の頃のいち戯作作家なので、実際にどのような人だったのか、残っている記録はごくわずかだから。
ストラットフォード・アポン・エイボンの革職人の家に生まれたらしいこと。故郷で8歳年上のアン・ハサウェイと結婚し、すぐに何人かの子供が産まれていること。その後、妻子を残してロンドンに出て、芝居小屋で座付き作家になり売れっ子になること。息子ハムネットを(たぶん疫病で)亡くしていること。
シェイクスピア本人でさえこの程度のことしかわかってないんだから、その妻アンについて残っている記録なんて、ほぼ無いようなものだ。
あまりにわずかな史実を忠実に残しながら、ほかは壮大な想像で作り上げたのがこの『ハムネット』。なので、シェイクスピアの家族の物語として、これが正解とかいうものではない。紫式部のことを壮大に想像した『光る君へ』と同じようなフィクションだ。だが、確かにありえたかもしれない物語。
映画の前半は、アグネス(ジェシー・バックリー)とウィル(ポール・メスカル)の出会いと、周りから疎まれつつの結婚を描いている。何度も言うようだけど、安土桃山時代のイギリスの田舎が舞台なので、めちゃくちゃ時代劇。アグネスには自然崇拝の傾向(アニミズム)があり、予知能力もあると自他ともに認めていて、周囲から魔女のように思われていたりする「変わった女」だ。一方のウィルも、革職人の家に生まれながら、その仕事には全く興味が湧かず、ラテン語など習得している変わり者。変わり者同士が出会い、惹かれ合い、恋に落ちる。
アグネスが森で産気づき、一人で森の中で長女を産むシーンは少しばかりショッキングだけれど、それも、ちょっと考えれば時代劇として納得。安土桃山時代に産婆が駆けつけてお産できた人がどれくらいいただろうか、と。このシーンを見て私は、今の常識に染まり過ぎてたなあ、と反省した。出産は命懸けだった、長い歴史のほとんどの間ずっと。
前半は、ウィルがウィリアム・シェイクスピアであることを忘れるくらい、田舎の家族の話だ。ただひとつ「あ、この人、シェイクスピアだったんだ」と思い出せたのは、3人の子どもたちが魔女ごっこをして遊ぶシーン。3人のセリフはそっくりそのまま『マクベス』の魔女のセリフだ。ロンドンから時々帰ってはお父さんは物語をきかせていて、子どもたちはそれをネタに遊んでいる。
後半にさしかかって、疫病にかかって息子ハムネットが死んでしまうと、アグネスとウィルの間には深い溝が残る。子どもを失った悲しみが大きすぎ、アグネスはその時そばにいなかった夫を憎むし、ウィルは無力感に苛まれる。ウィルは仕事のためロンドンに戻り、ふたりの溝はもう修復できないかに思われた。
そこから初めて、ウィルがウィリアム・シェイクスピアであることの意味が描かれるのだが、この映画の後半は、舞台好きの私にとって珠玉の展開。ウィルは、息子を失い家族が崩壊しかけている絶望をそのまま込めて『ハムレット』を書き、舞台では亡霊役を演じてハムレットに「私のことを忘れてくれるな」と懇願する。それはまるで死んだハムネットに語りかけているようだ。初めてロンドンに出てきて、たまたま舞台を観ることになったアグネスは、そのウィルの姿を見て、夫の深い悲しみをやっと理解する。そして舞台上で死にゆくハムレットに、思わず救いの手を差し伸べようとするアグネスは、舞台の背景の書き割りの森に去っていく我が子ハムネットの幻を見る。
照明も効果音もなく、粗末な装置しかない当時の舞台。役者のセリフの力だけが頼りの舞台なのだが、それがどれほど人の心を打つものだったかを、映画は見せてくれる。
絶望の淵にある時、作家はそれを書いて作品にしてしまう以外、生きる術がない。
そして出来上がった作品は、絶望の淵にある人を慰め、励まし、時には、いくばくかの生きる力を与えることができる。
この映画は、そのことを描いたシェイクスピア夫妻の物語だ。
監督と脚本家(原作者でもある)の『ハムレット』に対する理解が深い。
生きていくことは、困難と悩みの連続で、その度に選択を迫られる。逃げてしまいたいと誰しも思う。それが「To be, or not to be」ということなのかな。到底、翻訳することのかなわない根源的なセリフなんだね。
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