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劇団AUN公演『一尺四方の聖域』を観る

 初めての劇場に行った。11月16日(土)マチネ、CBGKシブゲキ‼︎
 
劇団AUN 第25回公演『一尺四方の聖域』
作・演出/市村直孝  音楽/村井邦彦
出演 吉田鋼太郎 溝端淳平 大塚明夫 黒沢ともよ 原慎一郎 橋本好弘
   北島善紀 星和利 坂田周子 千賀由紀子 悠木つかさ
   金子久美子 長尾歩 
松本こうせい 工藤晶子 沢海陽子 飛田修司
   谷畑聡 長谷川祐之 齋藤慎平 
伊藤大貴 佐々木絵里奈 
   山田隼平 松尾竜兵 橋倉靖彦 河村岳司 近藤陽子 
砂原一輝
   宮崎夢子 上田理咲子

 

 劇団初の音楽劇に挑戦するというので、もう、何が来ても付いていくよという気持ちで観に行ったの。
 そうしたら、本当に紛れもなく音楽劇だったので、やっぱり驚いた。いきなり登場人物ほぼ全員で「ふるさと」を大合唱するんだもん。
 この芝居は「ふるさと」で始まり「ふるさと」で終わるんだけれど、最後に聞いた「ふるさと」は、最初に聞いたものとは違って聞こえてくる。美しくて懐かしくて温かいのだけど、とても苦い。芝居を観た後では、ただ美しいとは思えなくなる。
 そういう芝居。

 
 舞台は、昭和33年。日本海に面する真泉港(舞鶴港のことと思われる)。シベリアに抑留され強制労働させられていた男達を載せた引揚げ船を、港の人々は「ふるさと」を歌って出迎える。けれど、その歌声を聴いてなぜか、帰国した白瀬二等兵(溝端淳平)は気を失う。
 戦後10年以上もの間シベリアで過酷な日々を暮らしてきた白瀬と野口(長谷川祐之)は、すぐに動ける体ではなくて、港にある引き揚げ援護局の病室に収容される。白瀬は耳鳴りや頭痛や幻聴に悩まされていて、完全なPTSD(今で言う)。
 援護局には、親切な岩本局長(吉田鋼太郎)や、大らかな春田医師(大塚明夫)、朗らかな看護婦のたみ(金子久美子)などがいて、二人の面倒をみてくれる。港町には帰らぬ夫や息子を今も待っている女たちと、それを温かく受け入れる人たちもいて、皆、引揚者に優しい。一方で、二人はソ連での生活が長かったため、共産主義に染まっているのではないかと、公安警察に見張られてもいた。特に、日本に生きている身寄りがない白瀬は、本当に白瀬悟なのか疑われ、幼馴染の美和(黒沢ともよ)が首実検に連れてこられる。
 美和は、彼が白瀬でないことにすぐ気がつくのだけれど、突然彼が「カチューシャの唄」を大声で歌い出したので思わず「間違いなくこの人は白瀬悟さんです」と証言してしまう。「カチューシャの唄」は美和と白瀬の思い出の唄だったのだ。
 
 そのあたりから、白瀬(本当は平井実)の回想が始まる。
 満州開拓団から徴兵され、終戦を迎えた平井(溝端淳平)は、仲間とともに、ソ連の進行から逃げて南下し、逃げ切ったかに思えたところで中国軍に囲まれる。そこで彼は、死を覚悟した本物の白瀬悟二等兵(原慎一郎)から、幼馴染からもらった手紙を預かる。戦闘に巻き込まれ、白瀬は死んでしまう。平井は、白瀬を含むたくさんの仲間を見捨てて、逃げおおせたのだけれど、結局ソ連軍に捕まって、シベリアへ連れて行かれ、収容所に入れられる。白瀬、と名乗ってしまったので、そのまま白瀬としてずっと生きることになった。
 収容所での飢えと寒さと虐待の記憶、それから仲間を見捨てた記憶とが、今も平井を苦しめる。
 
 それでも平井は、美和の温かさに触れて、本名を打ち明け、白瀬の最期について話して聞かせ、預かっていた手紙を美和に返す。自分を取りもどした平井に呼応するように、援護局の人々も封印していた辛い過去を打ち明けていく。春田医師は、かつて福岡の二日市保養所にいて、引揚者(強姦され妊娠した女たち)の堕胎に携わり、産まれたばかりの赤ん坊に手をかけたことを告白する。援護局の岩本局長は平井と同じ、シベリア抑留からの引揚者だった。いち早くソ連の支配者側に付いて、日本人を監督する側になって虐待していた張本人だったのだ。岩本局長はそのことが知れて、姿を消す。
 立ち直りつつある平井が、援護局を去る日、最後の引き揚げ船が入港する。出迎えの人々が港に集まり「ふるさと」を合唱する。
 という物語。
 
 
 「ふるさと」を始めとして、大正と昭和の唱歌がたくさん出てくる。「カチューシャの唄」「コロッケの唄」そして「月の砂漠」。
 特に、回想シーンの満州で、白瀬役の原慎一郎が歌う「月の砂漠」が圧巻。この歌の持っている幻想的なところと、広い広い場所に一人で立っている宇宙規模の孤独感が、押し寄せてきて、なぎ倒されるの。
 白瀬の歌声が忘れられず、PTSD気味の平井が「人はなぜ歌うんだろう?」とうわ言のように言うんだけれど、この「月の砂漠」の威力はトラウマになるのも納得させられる美しさと寂寥感があった。
 
 主演の溝端淳平がとてもよかった。死んで何かを守るほどの勇気はなく、逃げ回る以外の策を持たず、虐待にあっても恨むよりトラウマとして抱え込んでしまう、平凡な青年なんだけど、役に対してすごく誠実なのが伝わってきて、ひきこまれる。唯一、久しぶりに酒に酔って収容所の様子を笑いごととして喋る(虐待の様子をペラペラ喋って周りが凍りつく)ところに、イっちゃってる感が足りなかった。そこ、思いっきり突き抜けてほしいとこだよ。
 翻って吉田鋼太郎の岩本局長(=収容所監督)は凄かった。収容所のシーンは完全にイっちゃっていて、観客までトラウマになりそうだったし、最後にそれを告白するシーンでも、喋ってるだけなのに怖かった。人間の持ってる恐ろしいほどの幅(優しくもなれるし残虐にもなれる)を言葉の端々で感じさせるの。さすがだ。
 

 「一尺四方の聖域」とはどんな意味なのか。台詞の中に軽く「立って三尺、寝て六尺」と出てきたようだったけれど、さっと流れて行ってしまった。一尺は30センチあまり。人一人が立つには余りにも狭い。それしか聖域はないのかしら。作者がこの題名に込めた意味がもう少し、知りたかったな。
 市村作品はこれで5作目なんだけど、昨年の『あかつきの湧昇流』の時感じた「人情を描くのではなく人間を描くことにシフトした」部分は、少し立ち往生してるのかな、と思った。今回の題材が余りにも重くて、人情に頼り、唱歌の美しさを借りなければ、描くのが難しかったのかもしれない。
 自分のことになるけれど、唱歌は母がよく口ずさんでいたので、ほぼ全て知っていたし、歌えるものもあった。でも子どもの頃、母が歌う唱歌はなんだか綺麗ごとに聞こえ、あまり好きではなかった。
 母は『一尺四方の聖域』の主人公たちと同年代の人だった。歌だけでも美しく優しくなければ、とてもやってられない、ということだったのかもしれないと今更ながら気づいた。
 人はなぜ歌うんだろう、って、そういうことだ。

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