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トークイベント「『従軍中のウィトゲンシュタイン…』語りえぬことを語る夜、を聞いて

 トークイベントに行ってきた。11月9日(土)19時、田原町 Readin' Writin' BOOK STORE にて。
 
トークイベント『従軍中のウィトゲンシュタイン』語りえぬことを語る夜
   谷賢一 × 北村紗衣
   司会/李栄恵(編集者)

 
 『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行「ーおよそ語り得るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない」という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか?という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』という長ったらしい名前の芝居があって。
 
 谷賢一作・演出のこの芝居を観たのはたった一度だけれども、絶対に忘れられない体験だった(その時のレビューは→ここ)。書かれたばかりなのに既に古典的な価値をもった芝居だと感じたし、奇跡のような作品、とも思った。
 このたび戯曲が出版されることになり、その記念にトークイベントがあると聞いて、行ってみた。作家と相対するのは、シェイクスピア研究者の北村紗衣。彼女もまた、尖った批評を書く大好きな評論家なので、絶好の組み合わせ。
 一問一答のメモを残したわけではないので、あくまでマダムが受け取れた内容をつれづれに書いてみるね。今日は、特別に敬称つき。

 

 
 さえぼう先生(北村さん)の「ウィトゲンシュタイン」の印象は、「面白い」「哲学を知らない人(さえぼう先生もウィトゲンシュタインについてあまり知らないのだ、と)でも面白く見られるし、良き入門編ともなる」「第一次大戦の軍人の様子が大変リアルに描かれている」といったもの。
 それに対し、谷さんがひとつひとつ、芝居を作っていた当時のことを語っていった。
 谷さんは初演の時(2013年3月)、稽古初日に、台本が1枚も書けてなかったのだそう。そのようなことは、後にも先にもなかったのだって。当時、私生活的にも悩み事を抱えていたので、苦しかったのだとか。
 ウィトゲンシュタインを主人公にして戯曲が書きたいと思い立ってから、谷さんは物凄い量の関係書を読んで、勉強を重ねてきていた。準備は万端のはず。だけど、1枚も書けていない。そんなのでよく稽古場に行ったものだ(と本人の弁)。だけど、そこには谷さんが信頼してる役者たちがいて、彼らに助けられてインスピレーションが湧いてきた。特に、山崎彬くん(ピンセントとミヒャエルの二役)には公私ともに助けられた。まるで悩み苦しむウィトゲンシュタインと、彼を支えるピンセントのようだった、と。ピンセント(ウィトゲンシュタインの恋人)と、顔がそっくりなのにとんでもなく下品な一等兵ミヒャエルの二役を、一人の役者がやる、という素晴らしいアイデアは、山崎くんの存在があって生まれた。
 
 さえぼう先生の言う第一次大戦の戦場のリアルさというのは主に、塹壕のリアル。精神的に煮詰まっている軍人のリアル。谷さんはそれについてもよーく調べた。細長く掘られた穴の中で、兵士たちは唯々、敵がやってくるのを待っている。塹壕から出ればやられてしまうので、とにかく銃を抱えてじっと待つのだ。塹壕で食事し、塹壕で用を足し(だから塹壕の中は不衛生で酷い臭いだった)、時間が過ぎていく。いつ来るかわからない敵を待って、みんな疲弊していく…。負傷してその不潔な場所に倒れれば、みじめな死が待っている…。
 というような環境で兵士たちがどんな精神状態なのかを、この芝居はリアルに表現している。1時間後には死んでるかもしれない、という精神状態を役者たちはどう、体現できるのか。稽古のときに役者たちに、戦場の様子を事細かにレクチャーし、本当は見たくないような残虐な映像をyoutubeで見たりもしたそうだ。だからこそ滲み出たあの、殺伐としたリアリティ。芝居を観た時、「まるでヨーロッパの翻訳物みたい」とさえ感じたのは、そんな裏付けがあったからなんだね。
 
 この芝居のクライマックスは、ウィトゲンシュタインが手近にあるパンやソーセージやシケモクを使って、あたりの地図を再現しているうちに、遠くロシアから宇宙の果てまで見透してしまうところ。そのシーンについても北村さんは「主人公の哲学的に重大なひらめきが、演劇の手法(物を違う物に見立てて芝居する)と重なってるところが良い」と指摘していて、谷さんも稽古場でいつも「この椅子が⚪︎⚪︎ってことにしよう」と見立てているし、そもそも演劇っていうものは全てが見立てである、と。そのこととウィトゲンシュタインが発見することとが芝居の中で重なり、強烈な印象を生んでいく。
 つまり、見立てて、名前をつけることができれば(言葉を与えることができれば)、人間は、どんな小さな部屋にいてさえ、遠い宇宙や時の彼方のことを、語ることができ、把握することができるのだ。
 ということをウィトゲンシュタインが発見して歓喜するシーンを(たった一度しか観ていないのに)、トークを聞いていたらありありと思い出して、ザワザワした気持ちになった。また観たいよ〜。
 
 こうして出版されたからには、他の演出家、他の座組によって上演されていくことを、谷さん自身も願っているって。マダムは谷さんの演出も再演してほしいし、他での上演も観てみたい。さえぼう先生が「オールフィーメール」で上演してみても面白いかもしれない、と言ったのには膝を打った。役者が5人いて小さなスペースがあればできる戯曲だ。この本が広く知られて、上演されていくといいなあ。
 この芝居は若き日のウィトゲンシュタインを描いたものだけれど、谷さんは、後期のウィトゲンシュタインについても芝居にしたいと鋭意格闘中だそうだ。それも楽しみにしていよう。

 トークの後半は、シェイクスピアについても語ってくれた。さえぼう先生が言った「戯曲は芝居の設計図面。図面を見ただけで建物を思い浮かべられる人が少ないのと同じで、戯曲を読んで芝居の様子が思い浮かべられるようになるには、訓練がいる。それはつまり、芝居を観ること」という言葉は、わが師(マダムが学生の頃に、芝居道に導いてくれた先生)が言っていたことと全く同じで、ちょっと感動した。今も学生に、同じように語りかけている先生がいるんだね。


 「一行目を書き出すことは自分の人生とどう切り結ぶか、ということに関係している。書き始めたら、天から言葉が降りてくるように書けた。そんな風に書ける作品は、一生の間に一つか二つ、あるかないかだと思う」と谷さんは言った。芝居を観たときマダムは「奇跡のよう」と思ったんだけど、ある意味本当に奇跡だったんだね。
 でも一方で、書き始める前に、膨大な下調べと塾考があって、その努力がなかったらきっと、言葉は降りてこなかっただろう。
 だから半分は奇跡で、半分は必然だ。それがトークを聞いたマダムの結論。

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コメント

アゴラでの初演山崎彬ヴィンセント&ミヒャエルを観ました。このスペース雑遊も観てます。初演は照明が良くてラストに観客の背後から照らして役者と観客丸ごとに(神の)光に包み込むのが感動的でした。スペース雑遊の時はそうはなっていなかった気がします。

谷賢一の名は彼の作品以前に、幾つか見た素晴らしい作品の翻訳に
彼の名があり、気になっていたのです。
そこにあのチラシ!アゴラでの再演のチラシの素敵さ!
見に行ったら閉塞的な塹壕が再現され、匂いも漂い
始まった芝居にクラクラしたのを思い出しました。
本になったからには、学生や色んな上演が可能ですね。
海外での上演もきっと近い内にと、妄想してます

叡さま。
確かに私が観たときには、その光の演出はなかったかもしれません。再演のときは、役者さんが素晴らしくて、特にウィトゲンシュタインの古河さんに見とれていました。役者冥利につきる芝居だと思います。

かおりママさま。
谷さんの名はだいぶ前にブログを発見して知っていたのに、この芝居の初演を観てなかったのは不覚でした。(再演を勧めてくれたのはかおりママさんだったかも!感謝です。)
今回のトークで一番驚いたのは、ブログでの尖った感じが本人には全然なかったこと。ブログではわざと戦闘服を着ているのかな。(私もそうなので、ちょっと気持ちわかる…)

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