最近の読書

無料ブログはココログ

« 2019年10月 | トップページ

2019年11月

劇団AUN公演『一尺四方の聖域』を観る

 初めての劇場に行った。11月16日(土)マチネ、CBGKシブゲキ‼︎
 
劇団AUN 第25回公演『一尺四方の聖域』
作・演出/市村直孝  音楽/村井邦彦
出演 吉田鋼太郎 溝端淳平 大塚明夫 黒沢ともよ 原慎一郎 橋本好弘
   北島善紀 星和利 坂田周子 千賀由紀子 悠木つかさ
   金子久美子 長尾歩 
松本こうせい 工藤晶子 沢海陽子 飛田修司
   谷畑聡 長谷川祐之 齋藤慎平 
伊藤大貴 佐々木絵里奈 
   山田隼平 松尾竜兵 橋倉靖彦 河村岳司 近藤陽子 
砂原一輝
   宮崎夢子 上田理咲子

 

 劇団初の音楽劇に挑戦するというので、もう、何が来ても付いていくよという気持ちで観に行ったの。
 そうしたら、本当に紛れもなく音楽劇だったので、やっぱり驚いた。いきなり登場人物ほぼ全員で「ふるさと」を大合唱するんだもん。
 この芝居は「ふるさと」で始まり「ふるさと」で終わるんだけれど、最後に聞いた「ふるさと」は、最初に聞いたものとは違って聞こえてくる。美しくて懐かしくて温かいのだけど、とても苦い。芝居を観た後では、ただ美しいとは思えなくなる。
 そういう芝居。

 
 舞台は、昭和33年。日本海に面する真泉港(舞鶴港のことと思われる)。シベリアに抑留され強制労働させられていた男達を載せた引揚げ船を、港の人々は「ふるさと」を歌って出迎える。けれど、その歌声を聴いてなぜか、帰国した白瀬二等兵(溝端淳平)は気を失う。
 戦後10年以上もの間シベリアで過酷な日々を暮らしてきた白瀬と野口(長谷川祐之)は、すぐに動ける体ではなくて、港にある引き揚げ援護局の病室に収容される。白瀬は耳鳴りや頭痛や幻聴に悩まされていて、完全なPTSD(今で言う)。
 援護局には、親切な岩本局長(吉田鋼太郎)や、大らかな春田医師(大塚明夫)、朗らかな看護婦のたみ(金子久美子)などがいて、二人の面倒をみてくれる。港町には帰らぬ夫や息子を今も待っている女たちと、それを温かく受け入れる人たちもいて、皆、引揚者に優しい。一方で、二人はソ連での生活が長かったため、共産主義に染まっているのではないかと、公安警察に見張られてもいた。特に、日本に生きている身寄りがない白瀬は、本当に白瀬悟なのか疑われ、幼馴染の美和(黒沢ともよ)が首実検に連れてこられる。
 美和は、彼が白瀬でないことにすぐ気がつくのだけれど、突然彼が「カチューシャの唄」を大声で歌い出したので思わず「間違いなくこの人は白瀬悟さんです」と証言してしまう。「カチューシャの唄」は美和と白瀬の思い出の唄だったのだ。
 
 そのあたりから、白瀬(本当は平井実)の回想が始まる。
 満州開拓団から徴兵され、終戦を迎えた平井(溝端淳平)は、仲間とともに、ソ連の進行から逃げて南下し、逃げ切ったかに思えたところで中国軍に囲まれる。そこで彼は、死を覚悟した本物の白瀬悟二等兵(原慎一郎)から、幼馴染からもらった手紙を預かる。戦闘に巻き込まれ、白瀬は死んでしまう。平井は、白瀬を含むたくさんの仲間を見捨てて、逃げおおせたのだけれど、結局ソ連軍に捕まって、シベリアへ連れて行かれ、収容所に入れられる。白瀬、と名乗ってしまったので、そのまま白瀬としてずっと生きることになった。
 収容所での飢えと寒さと虐待の記憶、それから仲間を見捨てた記憶とが、今も平井を苦しめる。
 
 それでも平井は、美和の温かさに触れて、本名を打ち明け、白瀬の最期について話して聞かせ、預かっていた手紙を美和に返す。自分を取りもどした平井に呼応するように、援護局の人々も封印していた辛い過去を打ち明けていく。春田医師は、かつて福岡の二日市保養所にいて、引揚者(強姦され妊娠した女たち)の堕胎に携わり、産まれたばかりの赤ん坊に手をかけたことを告白する。援護局の岩本局長は平井と同じ、シベリア抑留からの引揚者だった。いち早くソ連の支配者側に付いて、日本人を監督する側になって虐待していた張本人だったのだ。岩本局長はそのことが知れて、姿を消す。
 立ち直りつつある平井が、援護局を去る日、最後の引き揚げ船が入港する。出迎えの人々が港に集まり「ふるさと」を合唱する。
 という物語。
 
 
 「ふるさと」を始めとして、大正と昭和の唱歌がたくさん出てくる。「カチューシャの唄」「コロッケの唄」そして「月の砂漠」。
 特に、回想シーンの満州で、白瀬役の原慎一郎が歌う「月の砂漠」が圧巻。この歌の持っている幻想的なところと、広い広い場所に一人で立っている宇宙規模の孤独感が、押し寄せてきて、なぎ倒されるの。
 白瀬の歌声が忘れられず、PTSD気味の平井が「人はなぜ歌うんだろう?」とうわ言のように言うんだけれど、この「月の砂漠」の威力はトラウマになるのも納得させられる美しさと寂寥感があった。
 
 主演の溝端淳平がとてもよかった。死んで何かを守るほどの勇気はなく、逃げ回る以外の策を持たず、虐待にあっても恨むよりトラウマとして抱え込んでしまう、平凡な青年なんだけど、役に対してすごく誠実なのが伝わってきて、ひきこまれる。唯一、久しぶりに酒に酔って収容所の様子を笑いごととして喋る(虐待の様子をペラペラ喋って周りが凍りつく)ところに、イっちゃってる感が足りなかった。そこ、思いっきり突き抜けてほしいとこだよ。
 翻って吉田鋼太郎の岩本局長(=収容所監督)は凄かった。収容所のシーンは完全にイっちゃっていて、観客までトラウマになりそうだったし、最後にそれを告白するシーンでも、喋ってるだけなのに怖かった。人間の持ってる恐ろしいほどの幅(優しくもなれるし残虐にもなれる)を言葉の端々で感じさせるの。さすがだ。
 

 「一尺四方の聖域」とはどんな意味なのか。台詞の中に軽く「立って三尺、寝て六尺」と出てきたようだったけれど、さっと流れて行ってしまった。一尺は30センチあまり。人一人が立つには余りにも狭い。それしか聖域はないのかしら。作者がこの題名に込めた意味がもう少し、知りたかったな。
 市村作品はこれで5作目なんだけど、昨年の『あかつきの湧昇流』の時感じた「人情を描くのではなく人間を描くことにシフトした」部分は、少し立ち往生してるのかな、と思った。今回の題材が余りにも重くて、人情に頼り、唱歌の美しさを借りなければ、描くのが難しかったのかもしれない。
 自分のことになるけれど、唱歌は母がよく口ずさんでいたので、ほぼ全て知っていたし、歌えるものもあった。でも子どもの頃、母が歌う唱歌はなんだか綺麗ごとに聞こえ、あまり好きではなかった。
 母は『一尺四方の聖域』の主人公たちと同年代の人だった。歌だけでも美しく優しくなければ、とてもやってられない、ということだったのかもしれないと今更ながら気づいた。
 人はなぜ歌うんだろう、って、そういうことだ。

野田地図の『Q』

 厳重な身元チェックののち、劇場入り。11月13日(水)マチネ、東京芸術劇場プレイハウス。
 
NODA・MAP 第33回公演『Q   A Night At The Kabuki』
作・演出/野田秀樹 音楽/QUEEN
出演 松たか子 上川隆也 広瀬すず 志尊淳 橋本さとし
   小松和重 伊勢佳世 羽野晶紀 野田秀樹 竹中直人
   アンサンブル 河内大和 ほか18名
 
 あらすじなどは書かないつもりだけど、それでもネタバレ必至なので、これから観る人は要注意ね。

 
 マダムはかなり面白く観たのだけれど、がっかりしてる人もいて、賛否両論ある。
 お話は、源氏と平家という日本人にわかりやすい敵味方を設定し、その両家の若い息子と娘の恋愛を描いている。そこは完全にロミジュリで、源のじゅりえ(広瀬すず)と平のろうみお(志尊淳)の悲恋物語が芝居の前半。
 普通のロミジュリなら、若い二人が死んで終わりなんだけど、この芝居では二人とも死なず、それから30年生き延びる。後半はその30年を描いてて、歌舞伎の「俊寛」プラス胡桃沢耕史の「黒パン俘虜記」で出来ている。
 このくっつけ方が凄く野田秀樹らしくて、珍しく彼が言いたいこと(だろう、たぶん)がスッと入ってきたの。
 死を絶対に美化しない(死を見世物として消費しない)、愛の描き方を模索したのではない?
 
 だから、仲間を斬られてカッとなったろうみおが源義仲(橋本さとし)を殺してしまうシーン(ロミジュリのティボルト殺害シーン)がとても大事。ここで人を殺してしまったろうみおは、絶対に幸せになれないの。じゅりえと共に心中することも失敗し、美しい死に方はさせてもらえない。生き延びて、じゅりえと再会することだけを願いながら生きてるのに、戦争捕虜になって、島流しにあって(ここは俊寛)、流された場所はスベリアで、強制労働させられて、食事は硬くなった黒パンで(ここは黒パン俘虜記)、やがて恩赦の船がやってくるけど、ろうみおの名前がなくて乗せてもらえない(ここ、再び俊寛)。
 もとのロミジュリなら、観客はとうの昔に彼のティボルト殺しを忘れて、ロミジュリ二人の死を嘆くわけだけど、野田秀樹は観客が簡単に泣く事を許さない。ろうみおの義仲殺しを許さないし、だからじゅりえとの美しい死も認めないし、二度とじゅりえと会えないし、最後は強制労働の果てに倒れ、遺体は穴の中に積み重ねて捨てられる。
 ろうみおは平清盛の後継ぎでお坊っちゃまで、もてはやされていたのに、あっという間に「名も無きもの」に転落し、最後は誰に看取られることもなく野たれ死ぬ。
 野田秀樹、容赦ない。
 
 平家は名前を大事にする一族で、それに対し源氏は新興勢力だから「名前なんかいらない、捨てちまえ」と主張する。ジュリエットの「ロミオという名をお捨てになって。」というセリフからの発想だけど、野田秀樹の言葉遊びの面目躍如。「名を捨テロリスト」とか「名を拾イズム」とかが飛び交って、源平合戦が繰り広げられるの。名前にこだわってた平家の跡取り息子が、名も無きものに転落して、ただの囚人として死んでいく皮肉が、効いてる。
 
 若い時のロミジュリを志尊淳と広瀬すず、大人になってからを上川隆也と松たか子が演じる・・・というほど事は単純じゃなかった。未来のロミジュリを上川隆也と松たか子が演じていて、二人は自分たちの辛い運命を変えたいと願って、若い二人のところに舞い戻って、要所要所で二人に働きかける。絶対に義仲を殺しちゃいけない!とか、そこで毒を飲んじゃいけない!とか、運命の決まるポイントを狙って努力するんだけど、それはことごとく叶わない。結局、別れは訪れる。「手紙を書くよ」というろうみおの言葉を信じて30年、やっと松たか子じゅりえのところに手紙が届いた時、ろうみおは遠く離れた場所で死ぬ。ホントに救いがない。野田秀樹、容赦ない。
 どんな死であれ、死を美化しないと決めると、こういう風になるんだね。どれほどの名芝居が死を美化する事で成り立ってきたかを、逆に思い知らされる。
 
 物語がどんなに容赦なく残酷でも、野田演出の魔法のような美しさが散りばめられてて、それはそれは目に染みた。いつものようにアンサンブルの人たちの八面六臂の肉体労働によって、芝居が進んでいく(河内大和がアンサンブルの要となって、どんなシーンにもいた!)のも、ひとつひとつ楽しいし、じゅりえが長い(10メートルくらいはある真っ白な)ベールを引いて現れる結婚シーンの美しい事と言ったら!若い二人(広瀬すずと志尊淳)の美しさと儚さを十二分に引き出してた。その瞬間が美しければ美しいほど、後の長い人生の苦さが浮き彫りになる。
 ラストの、空想の中のロミジュリ抱擁シーンは、主役老若ふた組が入れ替わりつつ抱き合うのだけど、舞台だからあり得る最高に美しい演出。ため息が出た。
 
 
 読んできて、クイーンはどこにいった? と皆思うよね?
 マダムはそこのところは、はなから期待してなかったんだよね。今更、野田秀樹にクイーンは必要ないし、クイーンの方にも野田秀樹は必要ないでしょ。
 だから「舞台で曲を使わせてもらいますよ」程度のことだと思ってたの。使う以上は、相手はクイーン。ちゃんと掲げないといけないでしょ?
 なので、クイーンのアルバム「A Night At The Opera」からインスパイアされた物語だと期待して行くと、がっかりするかもしれない。曲を適宜使わせてもらいました、という感じの使い方だったから。
 でもね、どんなに短く刈り込んで「適宜」な感じで使っても、クイーンの曲の自己主張は消えないの。野田秀樹の世界に、容赦なく食い込んでくるのよ。それがすごいよ。
 演劇の世界に「異化効果」っていう言葉があって、マダムは一度もこの言葉が腑に落ちたことがなくてずっと、ちゃんと体験したいと思ってたんだけど、もしかして、この野田秀樹VSクイーンは、異化効果ってやつかもしれない。すごいの、互いに張り合ってて。
 しばらく考えてみよう、このことについては。
 異化効果についてはひとまず置いて。とにかく、志尊淳ろうみおが義仲を殺しちゃったシーンに、ボヘミアン・ラプソディが「Mama, just killed a man(ママ、俺、人を殺しちゃった)」「Mama, life had just begun, But now I've gone and thrown it all away(ママ、人生始まったばかりなのに、俺、ぶち捨てちゃったよ)」って流れると、マダムはもう心ん中、滂沱の涙。これほどの取り返しつかなさを、かつて突きつけられたことがあるだろうか・・・とさえ思って。
 
 野田秀樹は御大亡き後、演劇界のお山の大将俺一人、の人だと思う。なので、こうやってたまには、ねじ伏せられない巨大な相手と組む方が、絶対面白い。今後も異化効果(?)を期待します。

トークイベント「『従軍中のウィトゲンシュタイン…』語りえぬことを語る夜、を聞いて

 トークイベントに行ってきた。11月9日(土)19時、田原町 Readin' Writin' BOOK STORE にて。
 
トークイベント『従軍中のウィトゲンシュタイン』語りえぬことを語る夜
   谷賢一 × 北村紗衣
   司会/李栄恵(編集者)

 
 『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行「ーおよそ語り得るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない」という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか?という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』という長ったらしい名前の芝居があって。
 
 谷賢一作・演出のこの芝居を観たのはたった一度だけれども、絶対に忘れられない体験だった(その時のレビューは→ここ)。書かれたばかりなのに既に古典的な価値をもった芝居だと感じたし、奇跡のような作品、とも思った。
 このたび戯曲が出版されることになり、その記念にトークイベントがあると聞いて、行ってみた。作家と相対するのは、シェイクスピア研究者の北村紗衣。彼女もまた、尖った批評を書く大好きな評論家なので、絶好の組み合わせ。
 一問一答のメモを残したわけではないので、あくまでマダムが受け取れた内容をつれづれに書いてみるね。今日は、特別に敬称つき。

 

 
 さえぼう先生(北村さん)の「ウィトゲンシュタイン」の印象は、「面白い」「哲学を知らない人(さえぼう先生もウィトゲンシュタインについてあまり知らないのだ、と)でも面白く見られるし、良き入門編ともなる」「第一次大戦の軍人の様子が大変リアルに描かれている」といったもの。
 それに対し、谷さんがひとつひとつ、芝居を作っていた当時のことを語っていった。
 谷さんは初演の時(2013年3月)、稽古初日に、台本が1枚も書けてなかったのだそう。そのようなことは、後にも先にもなかったのだって。当時、私生活的にも悩み事を抱えていたので、苦しかったのだとか。
 ウィトゲンシュタインを主人公にして戯曲が書きたいと思い立ってから、谷さんは物凄い量の関係書を読んで、勉強を重ねてきていた。準備は万端のはず。だけど、1枚も書けていない。そんなのでよく稽古場に行ったものだ(と本人の弁)。だけど、そこには谷さんが信頼してる役者たちがいて、彼らに助けられてインスピレーションが湧いてきた。特に、山崎彬くん(ピンセントとミヒャエルの二役)には公私ともに助けられた。まるで悩み苦しむウィトゲンシュタインと、彼を支えるピンセントのようだった、と。ピンセント(ウィトゲンシュタインの恋人)と、顔がそっくりなのにとんでもなく下品な一等兵ミヒャエルの二役を、一人の役者がやる、という素晴らしいアイデアは、山崎くんの存在があって生まれた。
 
 さえぼう先生の言う第一次大戦の戦場のリアルさというのは主に、塹壕のリアル。精神的に煮詰まっている軍人のリアル。谷さんはそれについてもよーく調べた。細長く掘られた穴の中で、兵士たちは唯々、敵がやってくるのを待っている。塹壕から出ればやられてしまうので、とにかく銃を抱えてじっと待つのだ。塹壕で食事し、塹壕で用を足し(だから塹壕の中は不衛生で酷い臭いだった)、時間が過ぎていく。いつ来るかわからない敵を待って、みんな疲弊していく…。負傷してその不潔な場所に倒れれば、みじめな死が待っている…。
 というような環境で兵士たちがどんな精神状態なのかを、この芝居はリアルに表現している。1時間後には死んでるかもしれない、という精神状態を役者たちはどう、体現できるのか。稽古のときに役者たちに、戦場の様子を事細かにレクチャーし、本当は見たくないような残虐な映像をyoutubeで見たりもしたそうだ。だからこそ滲み出たあの、殺伐としたリアリティ。芝居を観た時、「まるでヨーロッパの翻訳物みたい」とさえ感じたのは、そんな裏付けがあったからなんだね。
 
 この芝居のクライマックスは、ウィトゲンシュタインが手近にあるパンやソーセージやシケモクを使って、あたりの地図を再現しているうちに、遠くロシアから宇宙の果てまで見透してしまうところ。そのシーンについても北村さんは「主人公の哲学的に重大なひらめきが、演劇の手法(物を違う物に見立てて芝居する)と重なってるところが良い」と指摘していて、谷さんも稽古場でいつも「この椅子が⚪︎⚪︎ってことにしよう」と見立てているし、そもそも演劇っていうものは全てが見立てである、と。そのこととウィトゲンシュタインが発見することとが芝居の中で重なり、強烈な印象を生んでいく。
 つまり、見立てて、名前をつけることができれば(言葉を与えることができれば)、人間は、どんな小さな部屋にいてさえ、遠い宇宙や時の彼方のことを、語ることができ、把握することができるのだ。
 ということをウィトゲンシュタインが発見して歓喜するシーンを(たった一度しか観ていないのに)、トークを聞いていたらありありと思い出して、ザワザワした気持ちになった。また観たいよ〜。
 
 こうして出版されたからには、他の演出家、他の座組によって上演されていくことを、谷さん自身も願っているって。マダムは谷さんの演出も再演してほしいし、他での上演も観てみたい。さえぼう先生が「オールフィーメール」で上演してみても面白いかもしれない、と言ったのには膝を打った。役者が5人いて小さなスペースがあればできる戯曲だ。この本が広く知られて、上演されていくといいなあ。
 この芝居は若き日のウィトゲンシュタインを描いたものだけれど、谷さんは、後期のウィトゲンシュタインについても芝居にしたいと鋭意格闘中だそうだ。それも楽しみにしていよう。

 トークの後半は、シェイクスピアについても語ってくれた。さえぼう先生が言った「戯曲は芝居の設計図面。図面を見ただけで建物を思い浮かべられる人が少ないのと同じで、戯曲を読んで芝居の様子が思い浮かべられるようになるには、訓練がいる。それはつまり、芝居を観ること」という言葉は、わが師(マダムが学生の頃に、芝居道に導いてくれた先生)が言っていたことと全く同じで、ちょっと感動した。今も学生に、同じように語りかけている先生がいるんだね。


 「一行目を書き出すことは自分の人生とどう切り結ぶか、ということに関係している。書き始めたら、天から言葉が降りてくるように書けた。そんな風に書ける作品は、一生の間に一つか二つ、あるかないかだと思う」と谷さんは言った。芝居を観たときマダムは「奇跡のよう」と思ったんだけど、ある意味本当に奇跡だったんだね。
 でも一方で、書き始める前に、膨大な下調べと塾考があって、その努力がなかったらきっと、言葉は降りてこなかっただろう。
 だから半分は奇跡で、半分は必然だ。それがトークを聞いたマダムの結論。

サイズダウンして深くなった『ビッグ・フィッシュ』

 再演と言っても、そのままじゃなかった。11月6日(水)マチネ、シアタークリエ。
 
ミュージカル『ビッグ・フィッシュ』
脚本/ジョン・オーガスト 曲・作詞/アンドリュー・リッパ
翻訳/目黒条 訳詞/高橋亜子
演出/白井晃
出演 川平慈英 浦井健治 霧谷大夢 夢咲ねね 藤井隆 JKim 深水元基
   佐藤誠悟 東山光明 小林由佳 鈴木蘭々 ROLLY
 
 初演を観たのが去年、のような気がしてたんだけど2017年なんだって。時の経つのはあまりに早い。
 お話に変化はないので、ストーリーは以前のレビュー( →ここ)を読んでいただくとして、大きく変わった演出について。
 芝居が、深くなった!
 
 出演者は初演時と変わってないので、これは演出の変化によるもの。ハコが日生劇場からクリエに変わるのに合わせて、たくさんいたアンサンブルを切って、全てをメインの役者だけで演じる。その他大勢の役も、メインの役者たちが代わる代わる衣装を変えて出る。大劇場に合っていた賑やかしの場面(浦井くんがカウボーイ姿してた)などは無くなり、そのかわり家族の曲がいくつか増えた。
 それは大ボラ吹きの父親エドワード(川平慈英)のホラ話を楽しく見せることよりも、家族の(夫婦と親子の)気持ちを表現する方へシフトしたということで、これが大成功。初演よりずっと沁みて、ラストには不覚にも涙が・・・。
 パンフを買ってないので、どの曲が減りどの曲が増えたか、正確にはわからないのだけど、少なくとも、最初の方で母サンドラ(霧谷大夢)とウィル(浦井健治)で歌う歌は、初演ではなかったはず。父親を理解できず苛立つウィルに、サンドラが「おとうさんは一生懸命に生きてきたのよ、わかってあげて」と息子を諭す歌。これが出色の出来。
 初演の時も、霧谷大夢の演技はとてもよかったんだけど、今回曲が増えたことで、彼女の老若の演じ分けの素晴らしさが倍増。相手の素晴らしさに呼応するタイプの浦井健治の歌も、心のこもりかたが倍増。二人で歌うこの曲だけじゃなく、ウィルひとりの「Stranger」が沁みることといったら! 「Stranger」はコンサートなどでよく歌う曲なので何度も聴いてるんだけど、芝居の流れの中で役になりきって歌った時が格別だわ。
 ラスト近く、死に瀕して怯えるエドワードを抱き寄せて励ますサンドラの歌が、また素晴らしくて。この曲は初演でもあったはずなのに、今回の芝居の構成で夫婦や親子の関係がくっきりしたおかげで、このシーンの刺さりかたが全然違ったの。泣くよね(鬼の目にも涙ってやつ)。
 エドワードがいなくなったベッドに腰掛けて涙するウィルの姿も、初演の時とは比べ物にならないくらい、じーんときてしまって参った。
 
 演出は別に泣かせにきたわけじゃないと思う。夫婦と親子の間の気持ちをちゃんと描くほうへ舵を切ったら、いろんなシーンが有機的に働くようになって、見ている私たちもグッと入り込んだ、ってことよね。いろんなシーンが有機的に働くようにする、っていうのが演出の腕なので、再演は白井演出の勝利。マダムの中で、前回(KAATの新作ミュージカル)の失敗を完全に挽回してくれた感じだわ。

『終わりのない』で宇宙酔い

 渋谷で乗り換えずに三軒茶屋に行くルートを模索中。渋谷駅、大変すぎる。11月1日(金)ソワレ、世田谷パブリックシアター。
 
『終わりのない』
脚本・演出/前川知大
出演 山田裕貴 安井順平 浜田信也 森隆二 森下創 大窪人衛
   奈緒 清水葉月 村岡希美 仲村トオル
 
 Coming soon!
 
 

« 2019年10月 | トップページ

2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

関係するCD・DVD