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2019年10月

serial number 03『コンドーム0.01』を観る

 またまた下北沢へ。10月25日(金)ソワレ、スズナリ。
 
serial number 03『コンドーム0.01』
作・演出/詩森ろば
出演 田島亮 森下亮 碓井将大 根津茂尚 杉木隆幸 酒巻誉洋
   岡野康弘 藤尾勘太郎 佐野功
 
 先日の『三億円事件』といい今回といい、男ばっかりの芝居が続く。
 二つとも、とある職場の話。一方は警察で、一方は化学メーカー。どちらも仕事の内容についての人生をかけた物語が展開するんだけど、あまりにも女の存在がなくて(登場人物も、話の中身への影響力も)、マダムはここのところ、唖然としてる。
 いや、どちらも取材をもとに書かれた芝居だし、現実を反映してるんだから、作家を責めるわけじゃなくて。
 ただ、世の中の動きを決める大事な瞬間に、いかに女は関わってない(関わらせてもらえない)かを思い知る。そして、絶対よくないことだ、と思うのよ。
 そしてそのことをよくわかって書いてるだろう作家が、二人とも女性なのは当然のことかもね。いろいろ複雑な気持ち。
 
 
 コンドームを作っている化学メーカー。社長命令で、長年の懸案だった薄さ0.01ミリのコンドームを開発することになる。開発部、企画部、営業部、広報部の面々が、0.01開発チームに集められるのだが、それぞれこの開発に対して思うところがある。しかも0.01ミリの壁は技術的に大きな壁で、乗り越えるのは難しいかに思われた・・・。
 というお話。途中、歌や踊りを混じえて楽しく進みつつ、それぞれがコンドームにまつわる(?)初体験話を披露していくと、これが深刻な悩みだったりする。そして、コンドームが男向けに作られているのはおかしい、女性のためにも作られなければいけないだろ、という話になっていく。そこが詩森ろばらしいところだし、評価したいな、と思うの。
 
 でも芝居としてはあまり、いい出来とは思わなかった。興味深かったけど、すごく面白くはなかったの。
 なぜなのか、考えてみたんだけど。
 マダムは、あの踊りと歌が、好きになれなかった。話を深刻にしないために、あれが必要だったのはわかる。けれど、なんだかお手軽な作りなんだもん。精魂込めて歌ってないし、踊ってない。自分たちは踊りも歌も専門ではありませんから、という言い訳の膜のようなもの(照れ、だろうか?)が1枚うっすらとかかっているの。そんなことはわかってるので、それをはねつけるくらいの真剣さがほしかった。
 それと、登場人物全員が、折に触れて、観客に向かって初体験話をするんだけど、ひとつひとつは大事なエピソードなのに、思い出話として語られるだけなので、深くなっていかない。それに話のどれもが予定調和気味なの。唯一、子供の時のDV体験のせいでED(勃起障害)になってしまってるコンドーム開発者(田島亮)のところは意外性があって、惹きつけられた。彼をもっと中心に据えた物語(たとえば彼が開発のチーフをやらなければならなくなるとか)のほうが、もっと面白かったのでは?
 
 
 だけど、さすがだ。どんな会社でも、組織でも、男だけで考えたり決めたりしていくのは限界がある。っていうことは、しみじみ、わかったよ。何かを決めるのには男と女(と、それ以外の人)の意見が必要なのよ。

芝居好きの血が騒ぐ『三億円事件』

 開発をストップさせたいな、下北沢。もういいじゃない、この辺で。らしさを大事にしてほしいよ。10月19日(土)マチネ、シアター711。
 
ウォーキングスタッフプロデュース『三億円事件』
脚本/野木萌葱 演出/和田憲明 
出演 中西良太 加納幸和 福本伸一 若杉宏二 おかやまはじめ
   八代進一 小林大介 石田佳央
 
 スズナリの隣にある小さな劇場。711っていうと711席かと思いきや(いや、思ってないが)、71席かな?っていうくらい小さい。この劇場、来たことあったかなあ・・・と一生懸命考えた。だって席に着いた途端、懐かしくてたまらない気持ちがしたから。
 向かい合うように組まれた座席。真ん中に開いた僅かなスペースが舞台。そこには、コの字に組まれた折りたたみの長机と、それに向かい合う長机ひとつ。パイプ椅子が8脚。傍に小さな台があって、ポットと急須と湯飲みが用意されている。壁に打ち付けられた扇風機。かたわらに、昔アラジンと呼ばれていた筒型のストーブ。
 セットはまあ、それが全て。府中警察の一室。解散間近の「三億円強奪事件特別捜査本部」
 
 現実の「三億円事件」のことを知っている人、事件の衝撃を憶えている人は、マダムと同年代か、それ以上の人よね。知らない人のために少しだけ話しておくと、1968年12月にそれは起こった。銀行の現金輸送車を、一台の白バイが止め、「この車に爆弾が仕掛けられたという情報がある。今すぐ確認する」という偽白バイの警官に、現金を運んでいたガードマン達はあっさり騙された。輸送車ごと、まんまと三億円は強奪されたの。誰も傷つけずに大金を盗んだ手口は、あまりにも見事過ぎ、世間はその話題でもちきりになった。当時の三億といえば、今なら二十億円くらいな感じよ。時価(?)二十億の現金を、たったひとりでさらっていった犯人は、結局捕まらなかった。犯人の、白いヘルメット姿のモンタージュ写真だけが、みんなの記憶にしっかりと焼きついたまま。
 
 その現実の事件をどこまで取材し、どこまでを取り入れたのかは定かではないけれど、野木萌葱の脚本は、虚実ないまぜにした完全なフィクションでありながら、全てこの通りだったのではないか?と思わせるリアリティがあって、ゾクゾクする。事実じゃないかもしれないけれど、ここには限りなくそうであるかもしれない真実があるよ。
 

 1975年12月に時効を迎えるという「三億円強奪事件」なのに、時効3ヶ月前に特別捜査本部は縮小された。100人以上の体制だったのが、たった8人になったのだ。これは、捜査なんかもうやめろという上層部の暗黙のお達しなのか。所轄の府中警察から4人。警視庁捜査一課から4人。お話は、ひたすら、この8人の捜査会議の会話だけで、進んでいく。
 犯人を追い事件を解決する、という大きな目的の中に、沢山の思惑のベクトルが入り乱れていて、一向に解決の方向に進んでいかない様子が、もどかしいんだけど、面白い。

 ずっと所轄の捜査を指揮してきた馬見塚警部(中西良太)と、警視庁から新しく派遣されてきた荻荘警視(おかやまはじめ)の対立。同僚が捜査機密を漏洩したことを庇い続けている高瀬巡査部長(福本伸一)。公安の刑事なのに、警視庁捜査一課としてやってきた白砂警部補(加納幸和)と部下の宮内巡査部長(石田佳央)には、事件解決とは別の思惑があるし、所轄の天本巡査部長(小林大介)は警視庁からの出向組なので、府中警察内では浮いた存在だ。
 「所轄VS警視庁」というわかりやすい構図の他に、警視庁内でも「捜査一課VS公安」という対立があり、公安の中でも、先輩と後輩で協力してるような牽制しあってるようなところがあり。所轄のなかでも「生え抜きVS警視庁からの出向」、という視線があるし、機動隊上がりにはどこか侮蔑の視線が向けられていたり、誰ひとりとして、完全に立場と意見が一致することはないの。
 そういう彼らの激しい、ぶつかり合うような会話のなかから、事件の真相がじわじわと観客に提示されていく。
 盗まれた現金は、大企業の社員に渡される給料用の金だった。現金輸送車は毎月、違うルートを通って金を企業へ運ぶ。そのルートを漏らした銀行員がいたのではないか。その銀行員には目星がついていた。その家に出入りしている怪しい男を、刑事たちは突き止めていたのだ。あとは証拠だ。物証さえあれば・・・。
 一方で、捜査資料の一部が部外者に流出し、警察を密かに脅している人間もいて、公安は、事件の解決よりも警察のメンツが保たれることを選ぼうと動く。
 刑事たちの動きと会話から浮かんできたのは、恐ろしいカラクリ。盗まれた金には、盗難用の保険が賭けてあり、全額保険から賄われた。つまり誰も損をしていない。誰も損することなく、三億円という巨大な裏金を作る仕掛けとして、事件は起こったのでは・・・?事件の裏にいるのは闇の人間と手を組んだ企業や銀行なのではないのか・・・?銀行は実は被害者ではないのではないか・・・?
 結局、捜査は時効を迎え、真相は闇に葬られて、刑事たちはそれぞれの悔しさや諦めや怒りを抱えながら、解散していく。
 という、物語。
 
 面白かったあ。
 一瞬も気を抜くことなく、8人の会話を聞き続けたの。野木萌葱の台詞の濃さを、堪能した。
 台詞の濃さというのはね、込められた意味が幾重にもあるってことなの。文字通りの意味、皮肉をこめた意味、立場としての建前、誰かをかばうための嘘、本音が言えない忸怩たる思い、保身、そして現状への怒りや意地。一言一言に、その刑事独自の意味が何重にも込められてる。ダブルスタンダードなんて言う言葉があるけど、ダブルどころの話じゃないの。
 3ヶ月の時の移り変わりが、ちょっとした演出でわかるのも、心にくい。外回りから帰ると代わる代わる扇風機の前に行って、顔を冷ます。そこからやがて、ポットから熱いお茶を湯飲みに注いで、美味しそうに飲み、アラジンストーブで手を炙る季節へ。舞台の小ささ、小道具の少なさは、全く演技の妨げにならない。
 
 役者たちは、本当に楽しそうだった。いえ、もちろん、すごく大変そうな会話劇なのよ。だけど、こんなに演技しがいのある芝居は滅多にない。ワクワクしていたのは観客だけじゃないはず。
 申し訳ないのだけれど、観る前から名前をはっきり知っていたのは加納幸和(スーツの着こなしが素敵。うなじが綺麗で)だけだった。だけど、どの役者も、生き生きと役を生き、魅力的で、かっこよかった。普通に皆、おじさんなんだけどさ。一人挙げるのはホントに難しいんだけど、マダムとしては、荻荘警視をやったおかやまはじめかなあ。深くて落ち着いたあの声。落ち着いてるのに、並々ならぬ覚悟を感じさせて、見事。あー、でも、府中署警部の中西良太のダミ声も、かっこよかった。
 野木萌葱の本は、おじさんを輝かす本なのかも。
 
 注目の舞台なのか、マダムが知ってるだけでも3人は、観客席に役者さんがいた。皆、やりたいんじゃないかなあ、野木作品。

『蜷の綿』または、生きてる者は前に進む

 台風が去って、まだ爪痕だらけの夕方。10月13日(日)ソワレ、さいたま芸術劇場大ホール。
 
彩の国さいたま芸術劇場会館25周年記念
『蜷の綿ーNina's Cotton』リーディング公演
作/藤田貴大 演出/井上尊晶
出演
さいたまネクストシアター 周本絵梨香 鈴木彰紀 竪山隼汰 手打隆盛 堀源起
             内田健司 中西晶 
平山遼 續木淳平 阿部輝 
             銀ゲンタ 鈴木真之介 髙橋英希

さいたまゴールドシアター 石井菖子 石川佳代 大串三和子 小渕光世 葛西弘
             神尾冨美子 上村正子 
北澤雅章 小林允子 佐藤禮子
             重本惠津子 田内一子 髙橋清 瀧澤多江 
竹居正武 
             谷川美枝 田村律子 ちの弘子 都村敏子 遠山陽一 
             
徳納敬子 中村絹江 西岡嘉十 林田惠子 百元夏繪
             宮田道代 森下竜一 渡邉杏奴

 
 
 蜷川御大が亡くなって3年、さい芸では御大が演出するはずだった作品をいろいろな人が引き継いで、上演してきた。シェイクスピアシリーズは吉田鋼太郎演出で、ゴールドシアターの『薄い桃色のかたまり』は岩松了演出で、そしてこれが最後に残っていた。『蜷の綿』。
 『蜷の綿』は蜷川御大についての物語。藤田貴大がインタビューを繰り返して、御大から聞き出した人生を、人生について語った言葉を、作品にしたもので、これを御大自身が演出するのって、本気だったのかしら? マダムの思い浮かべる蜷川幸雄という人のシャイさから言うと、時間があったとしても演出は相当難航したのではないか・・・と思っちゃう。だって、自分が主役の物語なんだよ?


 
 大ホールの席に着いてみると、席を何列か潰して花道が作られていた。花道をゆっくりと壮年担当の内田健司が現れて、語り始めたら、これはもう「リーディング公演」とかいう範疇じゃなかった。最初だけ台本を手に現れたけど、内田健司、台本なんか見ちゃいないの。ネクストシアターのメンバーは全員、普通の芝居のように、セリフを覚え、演技していた。
 物語は、蜷川御大の一生を描いている。とは言っても、御大本人が語ったことから作り上げられているので、極めて内面的で、御大の頭の中を具現化したような舞台。普通に思い浮かべるような一代記では、全然ない。業績を説明するようなものでも、一切ない。
 だから蜷川幸雄以外の登場人物は、さほど多くない。幼なじみで、戦後朝鮮へ帰って行った朝鮮人の金原。学生の頃、エリートの幸雄を拒絶した桃園。芝居を始めてから知り合った倉橋健や三好十郎や清水邦夫。妻の真山知子。商業演劇へ向かう時、袂を分かった蟹江敬三らの仲間。
 一方で舞台上には蜷川幸雄がいっぱい。蜷川役が幾重にも重なり合って存在して、セリフを繰り返し(藤田貴大おはこのリフレイン)呼応し合う。壮年担当の内田健司を始めとして、少年は中西晶、青年は竪山隼汰、そして自身の心の声(客観性の声のような)であるニーナをゴールドシアターが全員で担当しているの。ゴールドシアターには椅子と台本台が与えられていて、自分の番になると立ち上がってセリフを読む。つまりリーディング公演というのは、ゴールドシアターのために一応銘打たれていたのであって、内実はしっかり芝居として作られていたの。
 マダムは、マームとジプシー(藤田貴大主催)の凄さを認めつつも、あまり好みではなくて敬遠しがちだったのだけど、今回の『蜷の綿』の台本の良さには唸った。これだけの数の老若、タイプの違う役者たちがリフレインした時、蜷川御大の心の中の層が分厚く、多面的に伝わってくる。ニーナが問い、幸雄は惑う。幸雄が問い、ニーナは問い返す。ニーナが突きつけ、幸雄は知る。ただの繰り返しではない、時間の厚みと意味の変化がしっかり感じられて。御大はそうやって、長い演劇活動をひとりで歩んできたのね。
 なかでも、御大の核となったのは、自分が恵まれていて恥ずかしい、という気持ち。子供の頃の友達ーーー差別を受けていた金原や、貧しさに喘いでいた桃園に対し、自分は何が言えるのかを、ずっと考えてきたこと。そして、老いた自分が今度は若い人たちに、見せられることは全て見せてやりたい(自分のはらわたですらも)という強烈な気持ち。
 
 演出は、ずっと御大を演出補として支えてきた井上尊晶。インタビューでも言われてたように、御大ならどんな演出をしただろうか、と考えながら進んでいったらしい。使われる音楽は、御大が数々の作品で使ってきた、こちらの耳に馴染んだものばかりだし、音の入れ方がまさに蜷川流。能の鼓の音の入れ方があまりに御大っぽくて、ちょっと笑ってしまうくらい。
 薄い幕のこちらと向こうで演技し合うとか、防空壕の中で見つけた女の死体の着物の鮮やかな赤とか、川口の町から見た、東京大空襲の焼夷弾が輝く空とか、ホリゾントに映し出される舞台写真のにじむような色とか・・・オープニングで出演者たちが、あの奥行きの広い大ホールの奥の暗闇からゆらゆらと現れるところ。ラストでまた、奥の暗闇へ皆で歩き去っていくところ・・・。全てのシーンが、蜷川演出のエッセンスで出来上がっていた。
 それは、井上演出がものまねだということではなく、関わる全てのスタッフとキャストが蜷川御大から受け取ったものを精一杯表現すると、このような舞台になった、ということだと思った。

 だから観終わってわかったのは、これは、御大に育てられて演劇のバトンを手渡された人たちの、壮大な、別れの儀式だってこと。チケット代2500円のリーディング公演とは思えない、さい芸の力の結集ぶりだったの。
 この作品があって本当に良かったよ。みんなこれで、前を向いて生きていける。儀式は終わったのだし、生きてる者は前に進まなきゃ。受け取ったものをしっかりと握りしめて。

『終夜』 夫婦であること 親子であること と生きること

 秋の初日といってもいい冷んやりした午後。10月6日(日)マチネ、風姿花伝。
 
『終夜』
作/ラーシュ・ノレーン  翻訳/岩切正一郎
演出/上村聡史
出演 岡本健一 栗田桃子 斉藤直樹 那須佐代子
 
 同じラーシュ・ノレーン作の『ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる』を、同じ風姿花伝で観て唸ったのが記憶に新しいと思ったのだけど、もう5年経ってるんだって(そのレビューは http://madam-viola.tea-nifty.com/blog/2014/08/post-2bd7.html ) 。5年!? ちょっとショックだ。深く考えないようにしよう。
 『終夜』は、『ボビー・フィッシャー』と同じく、得られぬものを求めるが故に絶望する夫婦の、一夜の物語。
 
 なかなか面白かった。圧倒されたというわけじゃなく、「いるよねー、こういう奴」と心の中でうんざりしながら引き込まれてた感じ。登場人物4人全員がダメな奴なの。
 精神科医だけど、自分の妻や子供の精神状態にはなすすべのない中年男ヨン(岡本健一)。
 ヨンの(2度目の)妻で、アル中気味でエキセントリックなシャーロット(栗田桃子)。
 ヨンの弟で、妻に対するマザコン(という表現で、伝わるかしら?)の激しいアラン(斉藤直樹)。
 アランの妻で、ずっと家庭のために自分を抑えて生きてきたが、今、初めての恋愛に夢中なモニカ(那須佐代子)。
 
 ヨンの母親が死んで、葬儀を終え、ヨンは妻のシャーロットと、帰宅する。疲れはてているのに、シャーロットがヨンの弟夫婦を「ウチに泊まっていけば?」と誘ったことがわかり、ヨンは怒りを爆発させる。彼は、弟のアランと仲が悪く、ずっと疎遠だったのだ。果たしてアランとその妻モニカが泊りにやってきて、地獄のような一晩が始まるの。
 4人は一見、まともな社会生活を営む大人なのだけれど、その実、全員が問題山積で、心が破れそうな人間ばかり。ヨンは一度結婚に失敗していて、別れた妻との間にティーンエイジャーの娘がいるのだけれど、娘は引き取った母親からネグレクトにあっている。引きこもり、過食症になり、壊れそうな娘との電話を、ヨンは切ることができず、ずっと受話器を上げたままにしておく。結局、受話器は、その夜の修羅場を電話線の向こうへ全て筒抜けにすることになる。
 ヨンは精神科の医師らしいのだけど、私生活の人間関係はメチャクチャ。周りにいる人間を一人も助けることができない。娘は過食症だし、2番目の妻シャーロットはアル中気味で、ヨンを愛しているといいつつ激しく罵り続ける。弟のアランは、母親に冷たかったとヨンを責め、骨壷を引き取ると言ってきかない。しっかり者の弟風だけど、実は妻の心が若い男に向いてることで、中身はボロボロだ。
 酒が入ってどんどん遠慮がなくなるむき出しの会話から、それぞれの人物像が見えてきて面白いのだけど、マダムはなぜか、重いとか、刺さるとかはあまりなかった。ものすごく知ってる世界だ、と思ったの。場面がヨンのマンションの無機質なリビングだけなので、外国の感じもまったくなくて、翻訳劇であることを示すのが呼び合う名前だけ。これがもし、洋一郎と沙織と晃と萌子、みたいな名前だったら、そのまま日本の現代劇になりそう。
 というのはね、描かれてる男と女のあり方や、関係性が、日本の状況ととても近いの。男たちは見え方は違えど、結局マザコンで、女に母親になってもらうことしか考えてないし、子供に対しても、親になりきれず、最終責任を女に負わせようとする。女が(妻が)解決してくれると期待してるから、いつまでも自分で問題を向き合うことをしないの。
 一方、女は女で、いつまでも母親役をしなければならないことに絶望してるくせに、男と離れられず、どこにいっても男の精神的ケア役をつい引き受けてしまう。モニカは若い恋人に夢中だけど、その男からも結局精神的母親役を期待されて応えてしまっているのだ。
 アランが海外単身赴任している間に、すっかり夫婦間が冷え切り「俺の帰る(温かい)家庭が、ないよ〜。俺は一体どこに帰ればいいんだ〜!」って泣いてるのなんか、心当たり有りまくりよ。日本のアラン、周りにいすぎで、笑える。
 
 安直な結論に至らない、ある意味、絶望的な終わりかたなのも、すんなり納得した。問題と向き合わない限り、ずっとこのまま。
 
 役者はみんな手練れのうまさで、嫌な奴を見事に体現してた。小さい小屋ならではの緊張感の伝わり。岡本健一がきめ細やかに、自身と同年齢の中年男を演じてるの、新鮮だった。そうだよ、彼、中年だったんだよね。普段、忘れがちだけど。贅沢だなあ、こんな近距離で見つめてて。
 
 一つ疑問点があって。ヨンとシャーロットの間の子供って、小さいんだよね?家の中であんなにわめいてたら、起きてきちゃうのが普通じゃない?それとも、あの子供は、まぼろし?
 疑問を解決するために再見するには、3時間40分はちと長いけどね。 

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を味わう その2

 結局、千秋楽まで、4回も観てしまった。ちょっと、予定外。9月4日(水)ソワレ、六本木EXシアター。9月28日(土)マチネ、Zepp Tokyo。9月29日(日)マチネ千秋楽、Zepp Tokyo。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』
作/ション・キャメロン・ミッチェル  作詞・作曲/スティーヴン・トラスク 
翻訳・演出/福山桜子  歌詞/及川眠子  音楽監督/大塚茜
バンド/DURAN  YUTARO  楠瀬タクヤ 大橋英之 大塚茜
出演 浦井健治 アヴちゃん(女王蜂)


 マダムが最初に観に行ったのは9月1日。初日の翌日だった。全体的に芝居がソワソワしてて、あまりよくなかった。それは、その1に書いた通り。このままでは、ヘドウィグのコスプレをした浦井健治で終わってしまうぞ、という危機感があったの。
 でも、4日に観に行ったら、すごく修正されてた。浮ついたところがなくなって、MCのあいだも浦井健治本人が顔を出すようなことはなくなり、ちゃんと最初から最後まで役を演じられるようになっていた。それから、尻上がりに良くなっていって、千秋楽は貫禄すら感じられるようになってた。
 だから、これまでに見たことのない浦井健治を見せてくれたし、今まで到達したことのない場所に行ったな、と思うし、役者として新しいステージに入った、と感じるの。
 もう、少年(が入ってる役)は出来ないし、しなくてよいし、王子ではなく、王をやるべきだし、大人の男のほうへ、踏み出したね。
 そういう意味で、このタイミングでヘドウィグをやってよかったのよ。
 これは、浦井ファンとしての素直な気持ち。
 
 ただ作品の出来という点から見たら、いろいろ残念だ。もっと凄いものにもなったと思うと、惜しい。そして、役者浦井健治の出来は、作品の出来と完全にシンクロするから、ターニングポイントにはなっても、代表作にはならなかった。
 彼の舞台は、たいてい尻上がりに良くなっていく。ファンはみんな進化と呼んで、楽しんでいるし、マダムもそういう部分がないわけじゃない。だけど、今回は余りにも出だしが悪すぎたので、そのわけを考えていたの。そして、千秋楽まで観て、思い至ったのは、演出家はこれを芝居だと思って稽古してなかったのではないかということ。
 その1でも書いたけれど、キャメロン・ミッチェルがやるとき、彼は殆どヘドウィグそのものだから、芝居じゃない部分があるのかもしれない。だけど、浦井健治にはヘドウィグの要素は何もないので、隅々まで演出されていなければいけないのよ。MC部分は客の反応を見ながら、と考えていたとすれば、甘いよ。
 幕が開いて、バンドの煽りに客が乗せられているとき、浦井ヘドウィグは、舞台の上に役者が自分しかいないことに愕然としたのではないかしら。(それでも一人でなんとか芝居の領域に引き戻したのはえらかったけれど。)イツァーク(アヴちゃん)は元々ロック歌手だし、バンドのメンバーはバンドそのものだし、どんなに稽古をしてても、ノリノリの客の前では芝居を忘れがちだ。アヴちゃんは必死に、役から逸脱しないように自分を律していて立派だったけど、バンドの人たちは要らないアドリブが多かった。楽日近くなると、途中でナイフや銃を出してヘドウィグに怒られるアドリブもあって、シリアスなシーンを台無しにしそうになった。これは芝居であって、バンドも「アングリーインチ」というバックバンドであって、その役から逸脱してはいけないのよ。それを徹底できなかったのは演出の責任だよ。
 お客さんと作っていく・・・とかって言葉は、逃げだ。芝居はノリじゃない。
 キャメロン・ミッチェルだって、そこは物凄く計算して、作っているはずだ。ライブのふりをした、演劇なんだから。
 
 ベルリンの壁の東側で、貧しく、見捨てられたゲイの少年が、壁を越えるためにどんな犠牲を払ったのか。なのに、越えた後、あっさり壁が崩れたことを知って、どれほどの絶望があったのか。イツァークとザグレブで出会って連れ出すとき、同じように犠牲を求めるヘドウィグの中に、どんな揺れ動きがあるのか。嫉妬や老いと、どう向き合って生きていくのか・・・ヘドウィグの壮絶な人生をどうすれば、隅々まで描き出せるか、演出はもっともっともっと戦ってほしかった。どこまでも戦い甲斐のある作品じゃないの?
 
 それでも、名作は名作である理由があって、ヘドウィグの怒りや悲しみを表現してる曲の数々が、マダムの心を揺さぶってやまなかった。役として歌う浦井健治の歌の説得力! コンサートやCDで何度も聴いている「Midnight Radio」がヘドウィグの声で歌われると、全然別の哀しみと力強さを運んでくる(ただ、訳詞は、三上博史のものの方が耳に届くのだけど)。ヘドウィグが歌い、最後にトミーが返歌として再度歌う「Wicked Little Town」が刺さることといったら!
 これは芝居の流れの中で聴くから、良いのよ。歌だけど、セリフなの。あまりにも心に沁みて、涙流れる。
 
 
 9月はヘドウィグの月だった。秋の訪れとともに祭りは終わった。
 マダムも平常心に戻ります。

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