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2019年8月

『最貧前線』を観る

 世田パブのチケット取り忘れて、桜木町まで行く羽目になった。8月28日(水)マチネ、神奈川県立青少年センター紅葉坂ホール。
 
『最貧前線』
原作/宮崎駿 脚本/井上桂
演出/一色隆司
出演 内野聖陽 風間俊介 溝端淳平 佐藤誓 加藤啓 蕨野友也 
   福山康平 浦上晟周 塩谷亮 前田旺志郎 ベンガル
 

 SNSで「宮崎駿の最貧前線、初の舞台化」と銘打たれていて、そのことに違和感を持ったのは確かだった。というのも、「最貧前線」を舞台化した上演を既に、高校演劇の大会で観ていたから。
 上演したのは川越高校演劇部。2年くらい前かな。
 高校演劇の大会は、1本の上演時間がだいたい1時間以内(正確には50分?)に決められていて、1分でもオーバーすると失格だから、すごくコンパクトな話にまとめられていたんだけれど、それにしても凄く面白く温かく、ちゃんと戦争のバカバカしさを浮かび上がらせていて、感心した。セットも工夫の賜物で、バラバラの木組みの塊を、いくつか寄せ集めるとちゃんと船になり、これこそ演劇、と感じたの。
 ということで、初の、と言われると少し引っかかったのだけれど、今度のはプロの役者たちが演じるものだし、上演時間も3時間近いので、全然別物よね。比べるつもりはハナからなかった。
 
 それなのに、観終わって、比べてしまう自分がいて。「川越高校の方がおもしろかったな・・・」って。
 知らず知らず、大きな期待をしてたのね。
 

 
 太平洋戦争末期。軍艦がたりなくなった日本海軍は、漁船の徴用を始める。吉祥丸は、乗組員5、6名の小さな船で、近海で漁をしている漁船なのだが、特別監視艇にされ、太平洋上へ乗り出すことになる。乗組員は、艦長(風間俊介)を始めとする海軍の軍人5名と、もともと吉祥丸で漁をしている漁師たちで、船長(内野聖陽)を含め6名。
 軍人たちは軍艦乗りであって、小さな漁船を操るのには慣れていない。だがプライドだけは高いので、漁師たちをアゴで使って命令しようとする。威丈高な軍人たちに、仕方なく従う漁師たちだったけれど、海の上で起こる命のかかった出来事に、やがて漁師たちの経験値に頼るしかなくなっていって、軍人たちと漁師たちの間に、奇妙な信頼関係が出来上がっていく。
 嵐と、敵のB29の来襲とに、はたして吉祥丸は持ちこたえることができるのだろうか・・・?
 というような、あらすじ。
 
 これね。ネタはいくらでも面白くなる話のはずなのに、いろいろと盛り上がらない。本がイマイチなせいもあるけど、セットのせいが大きいのではないか、と感じたの。というか、セットの使い方、かな。もっと言えば、セットというものへの考え方。
 舞台上には船の構造と同じ三段構造のセットが組まれていて、それはもう、立派なセットなんだけど、これが全然舞台向きではない。そりゃあ確かにホンモノの船は縦方向の三段構造かもしれないけど(船底があって、操舵室があって、甲板があってという、ね)、芝居が行われるのは常にどこか一箇所なのよ。縦方向の動きや、各階同士で芝居が呼応したりする演出が、全然ないの。立派なセットの構造がかえって仇になって、舞台上の動きが制約されてしまい、つまらなくなっている。セットはダイナミックだけど、演技はダイナミックにならない。
 このセットを考案した時、どんな演出を考えていたんだろう?とマダムは激しく疑問に思ったので、そこで初めて、名も知らないこの一色隆司という演出家が何者かを調べたの。
 そうしたら、ちょっと、わかった気がした。
 この人は、テレビドラマ(主にNHK)の演出家だったのよ。別にそれはいいんだけど、舞台をテレビドラマと全く同じように演出しちゃったんだよね、きっと。
 そう思うといろいろ納得できた。演出が平面的で、広がりがない。舞台っていうのは、縦にも横にも奥行きにも自由があって、伸びたり縮んだりも可能で、すごく小さなことを拡大することもできるし、宇宙規模の大きさを感じさせることだってできる。二つの場面を重ねて見せることもできる。なのに、それが全然わかってない。だから、船の三段構造をまんまリアルに三段構造で作っちゃって、普通に役者が上り下りしてるだけで、舞台らしい誇張が全く無いの。
 一幕、二幕それぞれの始まりに、宮崎駿の原作の画像を幕に映し出すんだけど、それも画像をただ大きく映し出すだけ。テレビドラマならオープニングはそれでいいのかもしれないけど、舞台効果としては工夫なさすぎ。全然おもしろくない。出さないほうがよかったわ。
 
 セットはそんな風だし、本もいまひとつだから、役者もやりどころがなくて、気の毒な感じだったよ。船長の内野聖陽と、艦長の風間俊介は、それぞれ役の描かれ方が浅くワンパターン。船長はどこまでも愚直で物知りで温かいし、艦長はどこまでも頑なで肩肘張ってて融通が利かない。これじゃ掘り下げようがないわ。内野聖陽をもってしても、描き込まれてない役を面白くすることは無理だったの。
 一人だけ、役が比較的描き込まれていたのが通信長(溝端淳平)。毎日夜になると、彼は船底にある無線部屋に降りて行って、漁船の無線士(佐藤誓)に声をかけ、タバコを吸う。次第に二人の間の隔たりがなくなっていって、通信長は自分が、様々な船に乗り戦闘に参加してきたのに生き残っていて、今や死に場所を探しているだけだということを、無線士に語ってしまう。
 溝端淳平、これまでさほど気にしたことがなかったけど、この通信長の役がとても良かった。一人の人物として筋が通ってて、無理なく存在してたの。どんな瞬間もその役でいるってことを、つかんだ感じ。
 
 いい原作だし、お金をかけてセットも作ったのに、色々もったいなかったなあ。
 もう一度、川越高校の公演、見たくなった。

マダム、『福島三部作』一挙上演に挑む その3

 第三部『2011年:語られたがる言葉たち』に対しては、「面白い」という言葉を使いたくないような気持ちがある。これを、面白がっていいのか、という畏れのような気持ち。
 芝居はいきなり、2011年3月11日2時45分から始まる。警報が鳴り、巨大な揺れが来て、みんな叫び、ものが倒れ、埃が巻き上がり、人が倒れ・・・それはマダムにとっても観客全てにとっても、生々しい記憶が体に刻まれている。そしてその後の混乱も。少なくともあの時東日本にいたならば。
 第三部には、はっきりした主役というのがなくて、登場人物は皆、福島で被災した、傷を抱えた人たちばかり。強いて主役といえば、福島のテレビ局でディレクターをしている穂積真(井上裕朗)だろうか。第二部で「日本の原発は安全です!」と踊り狂ってた双葉町町長穂積忠の、弟だ。
 彼の下には、ニュース素材を集めている若いスタッフたちがいて、被災者の声を集めようとするのだけれど、被災者に取材を拒まれる。拒む理由は様々で、自分だけが生き残ったことを後悔して言葉が出てこない男もいるし、マスコミへの不信感で語らない人もいるし、世間の反応が怖くて顔を出したくない人もいる。スタッフの気持ちも様々。センセーショナルな絵柄を欲しがる編集マンもいれば、被災者の気持ちに寄り添うあまり、当たり障りのない映像しか取れなくなったスタッフもいる。被災者は追い詰められていて、自分を守るのに必死で、被災者同士で罵り合うような事態も起きてしまう。見ていて、辛いシーンが多かった(でも、見たくない、というのではない。むしろどんどん辛くなるべきだ、って思ってる)。
 
 最後まで集中して観ることができたんだけれど、第三部は、一部、二部と比べて人物造形が浅くなってしまった気がする。あらゆる立場の被災者を登場させたので、やむを得ない点があるとは思うけれど、穂積真と、その部下飯島香織(佐藤千夏)がどういう人物なのか、もう少し明快だとよかった。
 テーマは「語られたがる言葉たち」だし、口をつぐむ被災者の心の中には、本当は語りたい叫びがあって、それを聞き出すのが報道の仕事だ、というのがこの芝居の前提なの。だけど、もうひとつ報道には大事な仕事がある。それは、真実を追求すること、じゃない?
 だとすれば、穂積真が、今は引退し病床についてボケてしまっている兄(かつての双葉町町長穂積忠、山本亘)に対し、取材できずに手をこまねいているところが、この物語の核なのじゃない? そこの描き方がなんだか弱い。シャープじゃない。ラストも「この人を責めないで。この人はすごく頑張ったの、だからもう責めないで」という妻の言葉で終わっているんだけど、そして、妻がそう思うのは勿論そうかもしれないんだけど、作家がそれを肯定しちゃったら、違うんじゃない? 肯定はしてないのかもしれないけれど、一部、二部とキレッキレだった演出家らしくない、遠慮がちな態度に思えた。
 
 ただ、あまりにもみんな傷つき、希望が見えないでいる今をここまで描き出したことが、すごい。
 そしてこういう芝居が作られたことが、ひとすじの光、みたいなものだ。
 芸劇にまる1日いたけど、全然疲れなかった。知的好奇心が、体力を凌駕することもある。よかった。

マダム、『福島三部作』一挙上演に挑む その2

 第二部『メビウスの輪』は、いちばん鋭角にマダムの心に切り込んできたんだけど、なによりそれは忌野清志郎(Timers)のサマータイムブルースのせいだ。1982年生まれの作家は、いつ、この曲を知ったのだろう。この曲を知って、第二部はできたぞ!と思っただろうか。
 マダムの世代にとって、サマータイムブルースは、人生真っ只中の頃の歌だ。1988年に、この曲の入ったアルバムを発売しようとして清志郎は、発売中止に合う。清志郎が契約していたレコード会社は東芝EMI。親会社は原発を作っている東芝なのだ。許すはずがないよね。
 アルバムはキティレコードから出ることになったけれど、もちろんテレビでは流れず、ラジオからも率先して流れはしなかった。でも友達がアルバムを買ってきて、みんなで聴きまくった。なので、マダムは歌えるし(音痴だけど)、途中のアナウンスの声が三浦友和なのも、最後の「いらねーんだよ!」と怒鳴ってるのが泉谷しげるなのも、知ってる。
 幕前にこの曲が流れ始めると、劇場内に「あの頃」の空気が充満した。第一部は昭和の唱歌、第二部は清志郎。音楽の選び方がドンピシャリだよね。サマータイムブルースは歌詞にインパクトありすぎて、ついそっちに気をとられがちだけど、このロックな曲調は1980年代の曲だ。歌詞はともかく、このノリがバブルの時代そのものだ。そんな風に思ったことなかったんだけどね。
 
 第二部は1986年の福島県双葉町が舞台。1986年はチェルノブイリ原発事故が起きた年で、本来なら、そこで立ち止まって原発政策を見直す転換点になったはずの年なのだけれど、現場にはそんな考えを根本から吹き飛ばすような嵐が吹き荒れていたのね。補助金、という名の嵐が。
 原発用地のために土地を売った穂積家の息子、忠(岸田研二)は、反原発を訴えて何度も選挙に落ち続けている。死に目に会えなかった老犬モモの遺体を抱きしめて泣くような、優しくて涙もろい忠なのだが、そんな忠のところへ、社会党の議員丸富(藤川修二)と自民党の代議士秘書吉岡(古河耕史)がやってくる。不気味な組み合わせの二人が、忠を双葉町の町長選挙に担ぎ出そうというのだ。「俺は原発に反対なんだよ」と忠が言うと、「反対だからこそ、原発に安全を求めることができるし、安全を求めることによって、国からもっと補助金を引き出せる」というようなことを吉岡がなだめたりすかしたりしながら言って、結局、忠は双葉町の町長になってしまうのよ。
 現実に、あちこちにいるよね。政治家になった途端、これまでと真逆のほうへ行ってしまう人。その謎が、目の前で明かされていくのを見た気がする。
 純朴な心を持った人に、手練手管満載の言葉を畳み掛けて、思う方向に誘導していく人間がいるのよ。第一部では東電職員の佐伯、そして第二部では代議士秘書の吉岡。この造型が出色の出来。冴えた演出と、それに応える役者の演技が素晴らしい。吉岡役の古河耕史は、以前、同じ谷賢一作品で哲学者ウィトゲンシュタインをやった人で、マダムは絶対に忘れないんだけど、今回の吉岡もすごい。悪魔のよう。メフィストフェレスってこういう奴なんじゃないの? 補助金を抱えたメフィストフェレス。
 町長になった途端に、チェルノブイリの事故が起きて、不安な忠は、一度原発を止めて再点検したほうがいいのでは?と思う。けれど、そこへまた悪魔、じゃなくて吉岡がやってきて「するってーと、今動いてる原発は安全じゃない、って言いたいんですか? あなた、安全じゃないものをこれまで動かしてきたんですか、町長?」みたいなことを山ほど浴びせる。追い詰められた忠は、一気に逆方向へ振り切れる。圧巻なのは、町長室で一同が歌う「サマータイムブルース」。「日本の原発は安全です!」って歌いながら踊り狂うシーンは、これ以上ないくらいブラックで、ホント刺さった。だってさ、歌ったり踊ったりしてなかったとしても、殆どこういう空気だったに違いないんだもの。
 真実を突きつけられるとは、こういうことだ。
 全編を通じて、死んだ老犬モモの幽霊(百花亜希)だけが冷静で、忠に向かって「それでいいの?ほんとにいいの?自分に嘘ついてないの?」って問い続けるんだけど、冷静なのが犬だけだっていうのが、痛くて悲しくて笑うしかないほどだ。犬の幽霊を配したことも、第二部の出来を支えてるよね。
 そしてマダムがいちばん痛く感じたことは、1960年代も、1980年代も、女の意見は訊かれたことがない、ということ。大事なこともくだらないことも全部男たちが決め、女は従ったり支えたりするばっかりだ。いったい、女は、何をしていたんだろう。何を考えていたんだろう。意見はなかったのか。せめて老犬モモくらいに、「それでいいの?自分に嘘ついてないの?やめようよ」と言える女はいなかったのか・・・と、マダムは我と我が身を振りかえったのだった。

マダム、『福島三部作』一挙上演に挑む その1

 体調を整え、万全を期してこの日を迎えたよ。8月24日(土)13時〜21時、東京芸術劇場シアターイースト。
 
DULL-COLORED POP vol.20 福島三部作  作・演出/谷賢一

第一部『1961年:夜に昇る太陽』13時〜15時
出演 東谷英人 井上裕朗 内田倭史 大内彩加 大原研二
   塚越健一 宮地洸成 百花亜希 阿岐之将一 倉橋愛実

 
第二部『1986年:メビウスの輪』16時〜18時
出演 宮地洸成 百花亜希 岸田研二 木下祐子 椎名一浩 藤川修二 古河耕史

 
第三部『2011年:語られたがる言葉たち』19時〜21時
出演 東谷英人 井上裕朗 大原研二 佐藤千夏 ホリユウキ 有田あん 柴田美波
   都築香弥子 春名風花 平吹淳史 森準人 山本亘 渡邊りょう
 
 
 一部ずつバラバラに観ても、見応えあると思うけれど、一挙に観たマダムからすると、全部観てこそ伝わってくるものがある。
 二つの点で、素晴らしいの。
 一つは、今の私たち日本人にとって最大の問題である福島の原発事故について、真っ向から真摯に取り組んだことよ。福島原発事故は、第二の敗戦といってもいいくらいの出来事。戦後、多くの戦争文学が書かれ、多くの映画や芝居が作られたことを考えたら、今、もっと沢山の、原発事故にまつわるものが生まれてきていいはず。作家なら、取り上げたい問題のはず。だけどなかなか世に出てこない。有形無形の圧力があるんだよね、きっと。圧力に屈せずに、取材し、考え、ここまでの作品を作り上げたのが、素晴らしい。
 もう一つは、出来上がった芝居から立ち上る日本人観の強烈さ、確かさね。新作がたくさん生まれる日本演劇界にあっても、ここまで強烈に日本人観を突きつけてくる作品は滅多にないよ。私たちが、こんなであり続ける限り、原発に限らず、どんな問題も、乗り越えていくのは難しいと思われ…。突きつけられた自画像を見つめて、愕然とする。
 
 ということで第一部。
 1961年、福島県双葉町に原発誘致が決定する。東京電力は、双葉町の農家から広大な用地を買収する。用地を売った、とある農家の物語。
 穂積家の長男、孝(内田倭史)は、東大の物理学科で学ぶ大学生。このまま東京の企業に勤めて、学んだことを生かしたいと考え、「農家は継がない。福島へは帰らない」と家族に話すため、一時帰郷する。その同じタイミングで、町には原発誘致の話が起こっていて、穂積家には、町長やら、福島県職員やら、東京電力社員がやってくる。農業だけではやっていけない貧しさから逃れたいと、町の発展を願って、あるじ穂積正(塚越健一)は、すべての土地を売り、移転することを決める・・・。
 この、ほんの数日間のお話の中に、日本人の来し方がぎっしり詰まっていて驚くわ。土地の売却を迫られる農家は、ギリギリまで、何も知らされていなくて、迫られた時には、県も町も、すっかりその気で前のめり。外堀は埋まっていて、うんと言わざるを得ない。しかも、自分で決めたかのような話になっている。ほんとは決断させられてるのに。声の大きい人とか、やたら話のうまい人とかが、一方的な情報で塗り固めて、説得するの。不安や疑問をよく考える暇を与えない。寝耳に水の田舎の人は、いい鴨にされてしまう。東電社員の「広島出身の私が、誰よりも原爆の恐ろしさを知っている私が、言うのです!原子力発電所は安全です!」って、よく考えたら何の根拠にもならないんだけど(そもそも彼がホントに広島出身かどうか誰も知らない)、正面から反論しにくい凄い発言。リアルだ。
 とにかく貧しいから、その状態から脱したい。その切羽詰まったところに、つけ込まれてしまうの。そのシーンの会話はあまりにもリアルだし、このパターンで、いつでもどこでも押し切ってきたんだな、日本政府。と思う。
 戦争に負けて15年かそこらで、もうこんなことをやってたんだ・・・と暗澹たる気持ちになるんだけど、芝居の醸し出す雰囲気は妙にピュアで、明るいの。役者たちの演技もまっすぐで明るい。演出家は、あの頃の空気を、まるで知っているかのよう。
 子どもたちの役は、役者が声を出しながら人形を操るんだけど、この人形が、「ひょっこりひょうたん島」を彷彿とさせる動き。昭和の表現、だよね。使われる音楽は「ふるさと」とか「夕焼け小焼け」とか「夏の思い出」もあったっけ? マダムの母が大好きだった昭和の唱歌オンパレード。そして、貧乏が嫌だと言いながらも、皆明るくて、元気なの。熱があるの。希望があったの。
 マダムがいちばん共感したセリフは、孝が明るく叫ぶ「田舎には、自由がない。自分のことを自分で決められないんだ」ってヤツ。それは個人だけじゃなくて、町も県も同じなの。
 福島の原発の始まりの数日間を描いた第一部は、それだけで十分、日本という国を、日本人っていうものを、浮かび上がらせていた。
 
 第二部以降については、その2で。

子供のためのシェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』を観る

 暑すぎて外出を控えてたので、ちょっと久しぶりの観劇。8月17日(土)マチネ、赤坂区民センター区民ホール。
 
子供のためのシェイクスピアカンパニー公演『じゃじゃ馬ならし』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
脚本・演出/山崎清介 
出演 鷹野梨恵子 若松力 山口雅義 戸谷昌弘 加藤記生 
   大井川皐月 川澄透子 山崎清介
 
 毎夏、楽しみにしているカンパニーの公演。演目が「じゃじゃ馬ならし」と聞いて、このどうにも不愉快な芝居を、いかに子供のためのシェイクスピア流にしてみせるのか、興味津々だった。

 子供のための、と言いつつ、大人の鑑賞に耐えるクオリティなのがいつも素晴らしい。衣装も毎回美しくて、惚れ惚れする。
 ただ、今回は全体的に、若干インパクト弱め。ペトルーチオがキャタリーナにする仕打ち(敢えて仕打ちと言う)が台本通りでは酷すぎるので、その表現をやわらげたためかな。不愉快度が大幅減なんだけど、インパクトも下がる。難しい芝居ね。
 
 飲んだくれのスライ(若松力)は、飲み屋から放り出されて地面で寝ている。それを見つけた領主が、いたずらを思いつく。スライを自宅に運び込み、目が覚めたら殿様扱いして遊ぼうというわけ。
 スライは目覚めて、領主の召使いたちにちやほやされ、スライだったことは夢で、殿様が現実と思い込む。殿様にみせるお芝居「じゃじゃ馬ならし」が始まる。そこまでは通常の「じゃじゃ馬ならし」なんだけど、今回の山崎演出のひねりは、スライ(殿様)が役者たちに誘われ、芝居の主人公ペトルーチオを演じることになるところ。スライとペトルーチオは同じ役者がやるのが常だけど、そこにちゃんと理由があるの。そしてこれが、最後に効いてくる。

 鷹野梨恵子のキャタリーナは、大柄で華やかで品があって、全然「じゃじゃ馬」ではなく、自分の意思を無視しないでくれと言っている、現代的価値観からすれば、至極まっとうな女性。妹を縛るところはとんでもないけど、それ以外では、当然の主張をしているの。でも、台本が書かれた当時の価値観では、娘が、意志を持って意見を言うなんて、あってはならないことだったのね。
 当時のむきだしの男尊女卑観がこの本の不愉快なところだし、今、上演するときに、観客を納得させられるかどうかが演出の鍵なの。
 
 昔、シェイクスピアシアターで観たときは、全部スライの都合のいい夢でした、というオチだったの。なるほど、と思った。
 蜷川演出では、猿之助(当時は亀治郎だったかな)のキャタリーナが、表向きは夫に従ってるけど「今に見てなさいよ、このままじゃ済まないわよ」という気をギラギラと出してて、二人の今後が楽しみ、と思えた。
 で、今回の山崎演出のラストはね、終わったとき、ん?今のは・・・?って、すぐには腑に落ちなくて、一緒に観た友達と色々擦り合わせて、納得したの。合意に達した解釈を説明すると。
 ラスト、ペトルーチオの「じゃじゃ馬ならし」が成功してキャタリーナが貞淑な妻になり、ペトルーチオの「キスしてくれ、ケイト」の言葉に、キャタリーナが顔を寄せる・・・のだけれど、キャタリーナは冷たい眼差しでペトルーチオを見る。キスはせずに二人は離れ、劇中劇が終わって、ペトルーチオ役のスライは、衣装を脱ぎ、スライに戻る。
 ひとりになったスライは、すっかり恋に落ちている。ペトルーチオを演じているうちに、キャタリーナ役の役者を好きになってしまったのね。スライはひとり、キャタリーナを口説く場面のセリフを、もう一度繰り返す。
 するとそこへ、キャタリーナ役の役者が現れる。彼女もまた、芝居をしているうちにスライを好きになったのだった。二人は、口説き口説かれるセリフをもう一度、繰り返す。さっき演じていたときとは全く違う、情熱的で、心のこもった愛のやりとり。二人はキスして・・・芝居は終わる。
 戯曲の二重構造を利用して、後味のいいラブコメディとして終わらせるの、うまいなぁ。
 この終わり方にするならば、ペトルーチオのキャタリーナへの仕打ちを、酷いまま描いても良かったのかもしれない。子供向けではなくなっちゃいそうだけど。

 最後のシーンの、本気のスライのセリフが凄くいい! 同じセリフなのに、恋しい気持ちがあるのとないのとで、こんなにも違う。スライを演じた若松力、いい役者なのは毎年確認してたけど、改めて、本当に素晴らしい。居酒屋の女将に張り倒されたり、キャタリーナに突き飛ばされたりすると、トンボを切って、くるくる回るのには驚いた。
 役者の顔ぶれは、キャタリーナの鷹野梨恵子とルーセンショーの川澄透子以外は、安定のいつものメンバー。高いクオリティ。だけど、マダムは客席に伊澤磨紀さんの姿を見つけてしまって、やっぱり彼女に帰ってきてほしいな、と思わずにはいられなかった。

馬とトラック

 父について書いたことは殆どなかったのだけれど。
 マダムの父は、大正の半ば生まれの人で、青春時代は思い切り戦時中とかぶっていた。徴兵もされ、戦争に行った。
 嫌な思い出が多かったのだろう、当時のことについてあまり話してくれたことはないのだけれど、晩年、マダムが母の介護に実家に通っていた頃、聞かせてくれた話を、今日は書くね。
 父は大学に行き、その間徴兵猶予されていたのだけれど、やがて打ち切られるように卒業させられ、即、徴兵された。徴兵されると、まず訓練がある。父は関東に住んでいたが、送られたのは広島だかの、訓練所だった。
「着くとすぐ、二つのグループに分けられたんだよ」と父は言った。「分けるときには別に理由とかなくて、偶然だったね」
 二つというのは、乗馬訓練か、運転訓練かのどちらかだった。父が入れられたのは運転訓練のグループで、大きな軍用トラックの運転を覚えるのだ。
「そのトラックがおんぼろでね。ちゃんとしてるやつは戦地に持ってってしまったからなのか、訓練用のトラックはだいたいガタがきていた。鍵をさして回しても、一回じゃエンジンがかからないんだよ」
 エンジンがかからないと、父は殴られた。車がポンコツなのに、兵隊のせいにして殴るのだ。
 たまに一回でエンジンがかかると、ああ、今日は殴られないで済む、と思う。でも大抵ほかのことでケチをつけられ、結局父は殴られる毎日だった。そんな目にあったのは父だけだったのか?
「そんなことはない。みんな殴られていた。でも大学卒は目をつけられてたんだよ。大学を出てると、訓練後は一兵卒ではなくてすぐ将校(?)になるので、手が出せなくなるから、今のうちに殴っておこうというわけだよ」
 訓練なんていうものではない、醜いいじめだ。それが横行し、父はただただ耐えた。
 しかし、その横では、もっと恐ろしいことが進行していた。
「乗馬訓練のほうでは、集められてた馬は乗馬用の訓練がされてない馬だったんだよ。農家から取り上げた農作業用の馬ばかりで、人を乗せたことがないから、みんな、落ちるわ踏まれるわで、けが人続出だよ。死んだやつもいた」
 毎日のように、怪我人が運び出されるのを感じつつ、父は黙って我が身の幸運を思ったそうだ。運動神経の良くない自分が乗馬訓練させられていたら、即、死んでいたかもしれない。おんぼろトラックのエンジンのせいで殴られるほうがまだマシだ。
「だいたい、乗馬訓練したって、戦地に行ったら馬なんかいない。馬が与えられる身分の人間なんか、ほんの一握りだしね。意味のない訓練なんだよ」
「あのとき乗馬訓練のほうに入れられていたら、今ここにこうしていなかったかもしれないからなあ」
と、そのとき父は笑って、マダムの子供達の頭を撫でた。
 
 愚かな人たちが上に立ち、命令し、反論できない状況になったら、それはもう地獄だ。
 だからせめて、今、家で、職場で、友人同士で、違うと思うなら意見を表明しなければいけないのよ。
 たとえ、たわいのない芝居についてであっても、意見を言わなくなったら、そこから衰退が始まる、とマダムは思ってる。
 

ネクストシアター『朝のライラック』を観る

 コンサートも入れると週に4本の予定が入ってしまった、究極の週の締めくくり。7月21日(日)マチネ、さいたま芸術劇場NINAGAWA STUDIO。
 
世界最前線の演劇3『朝のライラック』
作/ガンナーム・ガンナーム 翻訳/渡辺真帆 翻訳監修/ナーヘド・アルメリ
演出/眞鍋卓嗣 
出演 松田慎也 占部房子 茂手木桜子 手打隆盛 竪山隼太
   堀源起 中西晶 鈴木真之介
 
 シリーズの最新作。これまでの3本の中で、いちばんストレートでいちばん心の逃げ場のない、辛い話だった。武装組織に支配された中東の町で、妻ライラク(占部房子)を差し出せと命じられた教師ドゥハー(松田慎也)の、逃避行の物語。追い詰められた二人が互いの手首を傷つけあって、抱き合って死んでいく。
 これを観ると、宗教対立がどうとか、そもそもの対立の原因とか、戦いの大義名分なんてものは、どこかにいってしまう。武器を持って偉そうにしている方の言い分がなんでも通ってしまうんだもん。その理不尽さ。
 もう中東かどうかも、関係ないのかも、と思ったの。中東だから、こんな恐ろしいことが起こってる、と考えるのが間違いよ。ライラクを武装組織のリーダー(堀源起)に差し出すのが嫌なら自分に差し出せ、と町の長老(手打隆盛)がにやけながら言うところなんか、国は関係ないじゃん。衣装を変えれば、すぐ日本の話にもなる。
 そしてドゥハーとライラクの教え子であったフムード(竪山隼太)が、いちばん哀れ。彼は両親を殺され、武装組織に引き入れられ、そこでかつての先生たちを監禁し、見張る側になる。なんとかして二人を助けたいと危ない橋を渡るんだけど、最後には、二人の遺体を発見して呆然となる。そこで芝居は終わる。
 この日、終了後に、来日していた作家を交えたアフタートークがあって、このラストに希望があるのかどうか、みたいな話になった。それは見る側の人がどう受け取ったか、が全てだよね、とマダムは思う。マダム自身は、希望は感じられなかったよ。すごく重い観劇後感。
 
 固唾を飲んで芝居の行方を見守ったわりには、実はマダムの心の深いところまでは刺さらなかったの。
 その原因はもうわかっていて、首をかしげる演出があったから。
 ドゥハーとライラクが最後に隠れたのは、かつての学校の倉庫のような場所で、その建物自体が武装組織に占領されている。灯台下暗しで、その中に潜んでいても探される心配がないから隠れているんだけれども、二人はそこで大声を出して歌を歌ったりするのよ。そりゃないよね。すぐ発見されるでしょ。
 そこを不自然と感じさせない演出方法はいくらでもあったと思うので、どうしてこんなことになったのかなぁと不思議。
 ずっと芝居に入り込んでいたのに、そのあたりでかなり興ざめしてしまったのが、すごく残念だった。

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