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2019年6月

新注目のserial number 『機械と音楽』

 ちょうど劇場へ向かってる時に土砂降りなんだもの、まいった。6月15日(土)マチネ、吉祥寺シアター。
 
serial number 02 『機械と音楽』
作・演出/詩森ろば
出演 田島亮 三浦透子 田中穂先 浅野雅博 青山勝 酒巻誉洋
   大石継太 熊坂理恵子 きなり
 
 風琴工房という劇団があるのは随分前から知っていたし、評判は聞いていたのだけれどこれまで縁がなく、serial numberに変わってからも、なかなかスケジュールを押し分けてチケットを買うには至らなかったの。
 それを今回、初めて観に行ってみようと思わせたのは、「ロシア・アヴァンギャルド」に焦点を当てた物語だと知ったから。戯曲は新作ではないらしいけど、寡聞にして知らなかったのよ。
 「ロシア・アヴァンギャルド」と聞いて、ああ、あれね、と判る人はそんなに多くないよね。かく言うマダムも、ちょっとかじった程度。蘊蓄を傾けられるほど知らないけれど、知っているだけのことを説明すると。
 「ロシア・アヴァンギャルド」とは、ロシア革命前夜から革命ごく初期にかけての、みんなが希望を持って国づくりをしていた頃の芸術運動のこと。素晴らしいものが次々生まれかけたのだけれど、スターリンがトップになり全体主義がロシアを覆う頃には、すっかり当初の希望は消え去り、力を失ってしまった、たかだか20年にも満たないほどの儚い運動なの。
 マダムがほんのちょっと知ってるのは、ロシア・アヴァンギャルドの頃の絵本について。当時の超一流の画家やデザイナー達が、新しい国を作るには子供達のために良いものを!と希望に燃えて作っていて、ビックリするような素敵でハイレベルな絵本があるのよ。でも、あっという間に、ダメになっていった。
 芸術っていうのは、何か別の目的のために役立てと強制された途端ダメになってしまう、という絵に描いたような見本、それがロシア・アヴァンギャルドの時代と言えるの。
 

 『機械と音楽』はその中でも、構成主義という理想を掲げた建築家達の物語だった。
 吉祥寺シアターの天井の高さを生かして、背の高い、金属のセットが組まれていた。大きな銀色のアーチが2本、交差して立っていて、その下に円形の空間を作っている。なぜだか宇宙を連想させる。その空間がメインの舞台で、両側に少し高い踏み台が組まれ、脇には2階へ通じる階段もあって、様々な高さで演技ができるように工夫されている。役者たちは舞台奥から登場するほか、この両側の階段を降りてきながらセリフを交わす。
 舞台奥には大きなスクリーンが張られ建造物の写真が映し出されるし、電光掲示板みたいな文字も次々出る。ここに年号や、ロシア人の名前(こいつがやっかいだ)などをビシビシ出していく。幕前に、この電光掲示板には、用語説明がずっと出てた。
 
 レオニドフ(田島亮)は、学生の時から、その才能を嘱望されているけど、我が強くて生意気。大学で建築を教えているヴェスニン教授(青山勝)が教え子たちと議論している場にやってきて、レオニドフは先輩の設計図を遠慮なく批評する。先輩は怒ってしまうのだが、ヴェスニンはそんな生意気さも含めて、レオニドフを認めている。
 大学には、新しい時代を作っていこうという気がみなぎり、学生たちは自由に議論していく。男性と同じ土俵で認められたいと主張するエレーナ(三浦透子)や、同世代で認め合う仲のニコライ(田中穂先)と議論しながら、レオニドフは次々と設計図を引き、理想を語り、結婚もして、才能が花開くと見えたのだけれど。
 先輩建築家や、評論家に阻まれて、レオニドフの設計はなかなか採用にならない。やがてレーニンが死に、スターリンが権力を掌握し始めると、コンペに参加することもままならなくなる。ヴェスニンを筆頭に、構成主義建築家たちは理想を曲げ、スターリンが気にいるような設計をせざるを得なくなっていく。その状態を責めるレオニドフ。が、そこで初めてレオニドフは、これまで対立してきた先輩がずっと陰で自分をかばってくれていたことを知り、状況の深刻さを受け入れざるを得なくなる。
 結局、才能を嘱望されたレオニドフの設計は、一つも陽の目を見ることはなかった・・・という物語。
 
 会話劇といっていいスタイルなんだけど、舞台全体がスタイリッシュで、かっこいい。
 レオニドフ役の田島亮、苦悩する様子が色っぽくて、素敵。それと、建築界の先輩たちを演じる役者たちが、皆ひと癖あるところを上手く演じてて、魅力的ね。尖った才能がなくてのらりくらりしてるメーリニコフの浅野雅博や、レオニドフと対立しながら実はかばってきたギンスブルグの酒巻誉洋や、体制が変わるとそれに合わせて変節していく評論家ブリークの大石継太。
 
 飽きずに、それなりに面白く見たんだけれど、少し消化不良だった気もして、観劇後にあれこれ考えてみて。
 物語の主役は建築家たちなんだけれど、会話だけ聞いていると小説家でも脚本家でも画家でも同じなんだよね。もう少し、彼らが実際に関わった建築物(結局は理想を曲げざるを得なかったものも含め)のことがわかると良かったなぁ。もちろんスクリーンを使って幾つか写真を見せてはくれたんだけど、彼らの理想と現実のギャップを、マダムはあまり感じられなかったの。
 でも、この脚本は、ロシア革命の頃を描きながらも普遍的なテーマを内包していて、今の日本で上演するのにピッタリ。詩森ろばという作家に注目フラグを立てることにしよう。

円熟のケラ演出『キネマと恋人』

 どうしていい芝居の上演時期って重なるんだろ? 6月12日(水)ソワレ、世田谷パブリックシアター。
 
KERA・MAP#009『キネマと恋人』
台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 妻夫木聡 緒川たまき ともさかりえ 三上市朗 佐藤誓 橋本淳
   尾方宣久 廣川三憲 村岡希美 ほか
 
 初演のとき、子供の学校の三者面談日と重なり、泣く泣くチケットを友人に譲ったのだった。なので、再演を心待ちにしていたし、いざ観たら、天にも昇る心地。なんて素晴らしいの。
 
 ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」を、戦前の日本の架空の小さな島「梟島」にところを置き換えて台本を作った、本作品。
 映画だけを唯一の心の拠り所にしているヒロイン森口ハルコ(緒川たまき)が、村の小さな映画館で映画を見ているところからお話が始まる。まず、彼女が大好きな映画の名シーンが幾つもスクリーンに映し出されるのだけれども! それがことごとくマダムの大好きな映画だったので、たった3分で心を鷲掴みにされたの。マルクス兄弟とフレッド・アステア!! チャップリンではなくてマルクス兄弟。ジーン・ケリーでなくて(時代的にジーン・ケリーはまだ出てきてないけど)フレッド・アステア。そうでなくては!
 何が違うか、っていうとね。アメリカ映画の喜劇の祖といえばチャップリンとマルクス兄弟だけど、チャップリンが情緒的で感傷的なのに対し、マルクス兄弟はからっからに乾いてて感傷的なところはかけらもなくて、荒唐無稽でユーモアと皮肉にあふれているの。そこが好き。
 そしてフレッド・アステアのダンス。これもまた大人のユーモアがあって、なによりもパートナーを輝かせるダンス。パートナーがジンジャー・ロジャースの時もオードリー・ヘップバーンの時も、帽子掛けと踊る時でさえも。
 
 えっと。なんの話だっけ?
 そう。だからヒロインが大好きな映画が、マダムの好きなものとバッチリ重なって、マダムはすぐヒロインに感情移入して、物語の中に入って行ったのよ。
 
 ハルコは、飲んだくれですぐ暴力に出るダメ亭主(三上市朗)に良いように使われる日々を送っていて、映画を見ることだけが生きがい。ある日、お気に入りの「月之輪半次郎捕物帳」を観ている時、スクリーンの中のキャラクター間坂寅蔵(妻夫木聡)が、映画の中から抜け出して現実のハルコと話にやってくる。寅蔵は、捕物帳の中では三番手くらいの役で、演技にギャグを取り入れたいと思っているのに、周りはそれを受け入れてくれず、スクリーンの中に嫌気がさしていたのだ。寅蔵がいなくなったことで、映画の中では物語が進行せず、他の役者たちは右往左往する。
 寅蔵を演じる妻夫木聡が素晴らしいのよ。映画の中で限られた設定しか与えられていない寅蔵は、二次元っぽいの。いつもニコニコしているんだけど、ちょっと張り付いたような笑顔。悪気はないんだけど、物事を深く考えはしない。
 一方、実在の「月之輪半次郎捕物帳」シリーズの撮影隊が、同じ梟島にロケにやってきていて、寅蔵を演じている高木高助(妻夫木聡の二役)は、スクリーンから逃げ出した寅蔵を追って、ハルコと出会う。高助とハルコは演技論をかわし、互いに惹かれ合う。ハルコを巡って、寅蔵と高助の三角関係に発展するところが、芝居の見せ場。妻夫木聡の早変わりが楽しいし、生身の高助と、二次元的寅蔵の演じ分けが見事なの。
 ハルコを演じる緒川たまきも、これ以上のぴったりな役はないんじゃないかしら。レトロな着物姿も洋服姿も、庶民的な衣装なんだけど、とても似合って素敵だし、お人好しの部分と、高助にダメだしする熱っぽさと、可愛らしい方言とが、なんとも言えない魅力的なヒロインを造形してる。女優である奥さんに作家が贈りうる最高の役だわ。女優冥利につきるヒロインよね。
 ハルコの妹ミチル(ともさかりえ)は、惚れっぽくて騙されやすい女で、ホントなら悲しい女として描かれそうだけど、なぜか笑いを誘う。ともさかりえの、ジメジメしない軽みが凄くいいの。
 
 現実には、島の貧しい暮らしから逃れようがなく、しかもダメ亭主に殴られたり、稼いだお金を取られたりしているハルコ。そのハルコに、映画の神様がくれた、ひと時の夢。そういう物語だと思う。寅蔵に連れられスクリーンの中に入ったハルコは、寅蔵に連れられパリやロンドンを訪れるし、現実でも高助と一緒に東京へ行く約束をして、一夜の夢を見る。
 実際は、高助の乗った船はとっくに出航していて、ハルコは夢破れるの。大きなトランクを下げたまま、ハルコはふらふらといつもの映画館に入り、放心状態のまま画面に見入る。すると、映画嫌いだった妹のミチルがやってきて隣に座る。ミチルが映画仲間になったのが嬉しくて、ハルコは気を取り直して、画面に顔を向けなおす。やがて映画の世界に引き込まれた二人の笑顔で、芝居は幕を閉じる。
 温かくて苦くて切ない物語。
 
 
 お話がジーンとくるのはもちろんなんだけれど、この芝居の凄いのは、ケラリーノ・サンドロヴィッチがこれまで培った演出の技を全て注ぎ込んでるところ。
 衣装や照明の美しさや品の良さはもちろんのこと、音楽と映像(ハルコの観る映画の映像から、プロジェクションマッピングに至るまで)のクオリティの高さと、使い方の見事さ。映像と役者の動き(ダンスも素敵)が一体化しながら、観客を次へ次へと連れていく手際の良さ。手練の技とはこのことよ。見事すぎる。そしてその演出に寸分たがわず付いていく役者たちの、手練の技も(村岡希美に、惚れ惚れ・・・)。
 どの分野に焦点を当てても、全てが最高のクオリティ。魔法のよう。
 再演ではあるけれど、今年のマダム的No. 1かもしれないぞ・・・。
 
 これから地方公演もあるようだし、映像収録があったようなのでテレビ放映もあるかもしれない。みんな是非、見よう。幸せになれるよ。

女方競演 新派公演『夜の蝶』

 毎年この時期、三越劇場に行くようになった。6月9日(土)午前の部(13時開演)、三越劇場。
 
六月花形新派公演『夜の蝶』
作/川口松太郎 補綴・演出/成瀬芳一
出演 河合雪之丞 篠井英介 喜多村緑郎 瀬戸摩純 山村紅葉
   伊藤みどり 田口守 河合宥季 ほか
 
 マダムはとりたてて新派に肩入れしてきたわけではないけれど、一昨年の『黒蜥蜴』から演目に惹かれて、観に行くようになってるの。河合雪之丞と喜多村緑郎のチャレンジ精神に、ワクワクしてる。
 でも、今回の演目『夜の蝶』は、昔ながらの新派の十八番なので、演目だけ聞いた時には、ふう〜ん、と思った。そのあと告知をよーく見たら、篠井英介の名前があったから、おおお〜って感心した。これもまたチャレンジだな、って。
 『夜の蝶』について予備知識はあまりなかったのだけれど、原作が川口松太郎で、マダムが生まれるより前の作品で、銀座のママたちのお話だってことくらいは知っていた。銀座の老舗クラブのマダム葉子と、京都で舞妓をしていて銀座に進出してくるお菊との、女の戦いの話。初代の葉子とお菊は、花柳章太郎vs初代水谷八重子だったというから、それが今回、河合雪之丞vs篠井英介なのは、凄く意味がある。新派の女方vs新派の女優だったのが、新派の女方vs現代劇の女方、になったわけ。
 マダムはごく初期の花組芝居で篠井英介を見ているので、その人が新派の舞台に女方として上がることに、メチャクチャ感慨を覚えたし、女方として何かが違うのかを、見極めたいと思ったの。
 
 あらすじは特に説明しないね。
 
 古めかしく装飾的な三越劇場の内装をうまく使って、その内装と地続きに舞台上のセットが作られている。銀座の老舗クラブと、京都風の新味を出した店、二つのセットが盆に載って、回転し、場面転換する。場面はほぼその二つに絞られているし、派手なアクションシーンがあるわけでなし、美しいセットに立つ美しい着物姿の登場人物のやりとりをじっくり眺めることが、この芝居の見どころなの。
 銀座随一のクラブのマダムである葉子が着ている着物は、どんなに着物を着慣れている人でも普通は着こなせないような種類のもの。着物には全く門外漢のマダムですら、その違いははっきりと分かるし、河合雪之丞ほどの人でなければこんなに美しくは見せられない。少しでも品を失えば、あっという間にケバくなってしまう、そういうタイプの着物。誇り高く負けん気の強い葉子の性格も滲み出る。女優ではなく、女方だからこそ、の着こなしなんだろうか。2、3回着替えてくれて、どの着物姿も心底惚れ惚れする。
 対するお菊は、完全に舞妓の衣装で、その所作が柔らかく美しくて、篠井英介の面目躍如だ。彼の演技が、新派の舞台にどんな化学変化をもたらすのか、不協和音が起きないのか、マダムはその辺ちょっと心配してたんだけど、全くの杞憂。それどころか、あまりに溶け込んでいて、拍子抜けしたの。芝居の中の葉子とお菊は対決してるんだけど、河合雪之丞と篠井英介の演技は全く対決してなくて、篠井英介は完全に新派の人のようだったわ。初めての参加だし、そうすることに徹したように見えた。
 昔々、晩年の杉村春子と山田五十鈴が舞台で共演したのを観に行った時、役が対決する以上に二人の女優の間に静かな火花が散っていて、ドキドキしたのだけれど、そういう火花が今回の舞台で散ることはなかったね。そこは少しだけ、残念だった。残念だったけれど、新派の『夜の蝶』の伝統に入りきることに決めた篠井英介の決断は凄いな。決めたらできちゃうのも凄い。
 
それと、新派という男優と女優と女方が共存している不思議なジャンルに、時代が追いついてきて、ちっとも不思議じゃなくなっていることに気づいた。現代劇の観客の方がよっぽど、頭の中にそういう垣根はなくなっているのよ。篠井英介は女方だけど、今や女方じゃなくても、男優が女の役をやるのは普通(野田秀樹のおばさんとか、浅野和之のヴィクトリア女王とか、山内圭哉のお母さんとか)だし、おじいさんでも男児でも演じる女優伊澤磨紀のような人もいる(最近、見かけなくて寂しい)。
 今回観てるうちにマダムは、河合雪之丞と篠井英介が女方だ、という事実をすっかり忘れたもん。
 だから、新派ってなんなのか、という問いかけは、常に必要なのかもね。
 
 疑問なのはむしろ、興行体制の方。せっかく篠井英介を呼んできたのだから、そっちのファンに新派の舞台を観に来てもらういいチャンス、と捉えないと。いや、捉えてるのかもしれないけど、それなら、ソワレの開始時間3時っていうのを改めて、せめて数回、6時始まりの回を作るとか、工夫が欲しいよね。どんなにいい演目をやっていても、これでは観客は増えないよ。
 
 二人の女が主役の今回、喜多村緑郎は出番の少ない役だったけれど、出てくるだけであまりにカッコよく、クラクラした。若手大物政治家の役。昭和には、こういう大物政治家というのが存在したんだね、みんなの認識の中に。今はもう、そんなもの架空。
 そういう意味でも、昔懐かしい香りの漂う芝居だった。

ギリシャ悲劇って何なん?『オレスティア』

 梅雨って、劇場の空調が効きすぎてることが多くて、嫌。6月8日(土)マチネ、新国立劇場中劇場。
 
『オレスティア』
原作/アイスキュロス 作/ロバート・アイク 翻訳/平川大作
演出/上村聡史
出演 生田斗真 音月桂 趣里 横田栄司 チョウヨンホ 倉野章子 神野三鈴 ほか
 
 皆ご存知とは思うのだけれど、マダムの記事は基本、すべてネタバレします。
 そうでないと、思ったことを全部書けないもんね。
 なので、『オレスティア』に関しては特に、観てから読むことをお勧めします。


 
 
 マダムはギリシャ悲劇が苦手。あんまり面白いと思ったことがない。一番面白いと感じたのは、増上寺で上演した『王女メディア』なのだけれど、あれは場所が場所だったから。晴れた夜空、見上げると漆黒で、空気が凛と張っていてね。寺の大きな階段を降りてくるメディア(平幹二朗)の黄金色の衣装が、青みを帯びて冷たく光っていた。
 ギリシャ悲劇にはそういう「場」が、実は大事なのかもしれない。
 だから、空調の効いた劇場でやるなら、今までとは違うギリシャ悲劇じゃなくちゃ、と作家は考えたのかしら。『オレスティア』は、すっかり現代風にアレンジされていた。
 ギリシャ悲劇につきもののコロスはいなくて、そういう客観的語りは、オレステスを尋問する取調官と、インタビューを撮影するメディア関係者や、回想するオレステス自身が請負う構造になっていて。
 衣装も皆、現代風。アガメムノンはネクタイを締めた軍服だし、女性たちも現代風のドレス。
 
 オレステス(生田斗真)は、殺人の疑いで取調べを受けている。取調官の「いったい何があったのですか?」という問いかけに、彼は順を追って、ことの次第を思い起こす。1幕と2幕は、彼の回想として描かれていて、回想の中の出来事が再現される周りを、オレステスはぐるぐる歩き、記憶を絞り出そうとする。
 オレステスの父アガメムノン(横田栄司)は、職業軍人のトップであり、戦いに勝つことを使命としている。神のお告げにより、勝つためには、娘イピゲネイア(趣里)を生贄に捧げなければならないことを知って、アガメムノンは苦しみ、また妻クリュタイメストラ(神野美鈴)とも激しい口論となるのだけれど、結局はお告げに従う。
 イピゲネイア殺害は、メディアの撮影のもと行われる。アガメムノンがイピゲネイアを膝に乗せ、毒を混ぜた何種類かの飲み物を飲ませて死に至らしめるところは、舞台奥で演じられる。けれど、撮影された映像がリアルタイムでスクリーンに映し出されるので、疑いを知らないイピゲネイアの幼い笑顔と、娘を愛していながら殺害するアガメムノンの苦悶の表情が、オペラグラスなしに見ることができて、わかりやすい。
 一家の食卓は、子供が3人いる家なのに、席は4つしか用意されていなくて、必ずエレクトラ(音月桂)は遅れてやってくる。オレステスの記憶の中で、エレクトラの存在は曖昧だ。
 1幕から2幕へ、ストーリーは、マダムの知ってるオレステスの物語どおり、戦争の勝利→アガメムノンの凱旋帰国→クリュタイメストラによるアガメムノン殺害→オレステスとエレクトラによる謀議→オレステスによる母殺害、と進む。誰かが殺害されると、スクリーンに「◯時◯分 誰々、死亡」と表示が出て、これもわかりやすい。
 オレステスの回想でありながら、オレステスの台詞は少ないし、行動も少ない。肝心の母殺害のシーンもカーテンの奥に隠れていて、見えないし。一方でアガメムノンとクリュタイメストラの台詞量は膨大で、横田栄司と神野美鈴の面目躍如。芝居は二人の台詞術に支えられているといってもいいよね。(2年前の「エレクトラ」の時、同じくアガメムノンだった横田栄司の出番は7分間しかなく、マダムは泣かされたので、今回はすごく満足。)
 
 3幕は、脚本のロバート・アイクの創作だ。これまでの回想で、事実関係がはっきりしたので、オレステスに判決が下されるのが3幕。
 ここで明らかになるのが、エレクトラがオレステスの妄想の産物で(というか、二重人格みたいなもの?)実在しない、ということ。あー、だから食卓の席は4つしかなかったのね。
 父を殺した母に対して、復讐したことが認められて、オレステスは無罪になる。
 ここまで芝居は4時間20分。
 
 まず思うことは、ただ長いのじゃなく、冗長だってこと。そして、映像を利用して、凄くわかりやすく作られていたのにどうしても、「それで何が言いたいの?」と思っちゃう。
 ギリシャ悲劇を現代に置き換えるって、そもそも可能なのかな?なんか意味があることなの?そこがよくわからなかったの。
 だってね、例えば、現代的な常識では、神のお告げで人を生贄にしないでしょ。
 もちろん現代でも、親が自分の都合で、子供の命を差し出すことはある(子供の虐待死はよくあるし、戦争に喜んで送り出す親っているよね)ので、「神のお告げ」をそのまま使ってるところに激しく疑問符がついたの。
 ギリシャ悲劇の中で「神のお告げ」がどれほど大事なのかは知ってるけど、そこに手を触れずに現代に置き換えるなんていう都合のいいことが可能なのかしら。
 マダムはそこでもう、躓いてしまった。
 ギリシャ悲劇の、子殺しや親殺し、親子や姉弟の不義っていうのは、そのものだけじゃなく、何かもっと大きな事柄を象徴しているのではないの?
 普通に現代に置き換えたら、オレステスが無罪って、ありえなくない?
 
 もう、全然わからなくなってしまったよ。
 ストーリー展開はわかりやすく作られていたのに、意味はわからなくなってしまった。
 やっぱりマダムはギリシャ悲劇、苦手だわ。 
 
 

イキウメ『獣の柱』を観る

 毎回待ちに待ってるイキウメ公演。6月1日(土)ソワレ、シアタートラム。
 
『獣の柱』
作・演出/前川知大
出演 浜田信也 安井順平 盛隆二 森下創 大窪人衛
   村川絵梨 松岡依都美 薬丸翔 東野絢香 市川しんぺー
 
 少し前のことになるけれど、とある芝居を観に行った時、客席で浜田信也を見かけたことがある。その時のマダムの衝撃といったらなかった。なんと彼は、ごく普通の青年だったのよ。
 舞台上の人外感があまりにもハンパなく、印象がそれ一色なものだから、素の彼が普通の人(ただしやたら美しい)なのに暫く呆然としてしまったの。
 今回の『獣の柱』でも、やっぱり人外感は凄くて、しょっぱなに「僕は喋っていません。貴方がたの脳に直接語りかけています」と彼が話すと、ホントにそうかも、と思ってしまうのだった。イキウメ教という新興宗教があったら、マダムはあっという間に洗脳されそうだ。
 でもこれが、イキウメン(浜田信也、安井順平、盛隆二、森下創、大窪人衛)だけじゃなく、見たこともない新人もまた人外感が凄かったから更に驚いた。薬丸翔という役者、初めて観たの。
 それで再認識したのは、やっぱり前川知大の演出力の強靭さ。細部に渡るまで、しっかりとイメージがあって、その通りに役者の演技を導いていく。だから出演者は劇団員でなくてもみんな、イキウメンとイキウィメンになっちゃう。
 演出家なら、皆これくらい演出力を発揮してほしい(無理難題言ってる?)。
 
 再演なのだそうだけれど、マダムは初見。それで今回、色々と理解できない、というか、頭の中のパズルがぴったり嵌らないような所があって、ストーリーを説明することは、やめたいの。なんか上手くできそうもない。
 
 巨大な柱が天から降りてくると、人々はその柱を眺めることで圧倒的な幸福感に満たされ、他のこと(食べること、寝ること、その他生活の全て)を一切しなくなり、放っておけば死に至る。麻薬のような、魔術のような、その柱の存在が象徴しているのは、天災のようでもあり、原子力のようでもあり、宇宙人の侵略のようでもあり、はたまたインターネット中毒のようでもあって、作家はそれをわざと明確にしていないのね。
 でもそういう、個人の力では抗いようもない巨大な異変というものを、観客に見せることの、この劇団の技は本当に凄い。役者の演技のみならず、音楽や効果音、照明なども全て演出のイメージ通りに動いて、実際にはない巨大な柱が天から降りてきたことを、観客に納得させてくれる。イメージを体感させてくれる。音楽はかみむら周平で、なんとサイモン・ゴドウィンの『ハムレット』の音楽も担当した同一人物。『ハムレット』の場面転換時の安っぽい音楽とは、天と地ほども違うことに、マダムは感じ入ったわ。優れたスタッフからどんなアイディアを引き出せるか、それもまた演出家の力なのね。
 
 柱が降りてきた地域では、柱を見ないで生活できないから、人々は皆難民になる。そして柱のない地域に入植して、開墾し、新しい生活の場を作っていく。
 とにかく生活を営み、生き抜くこと。その基本になるのがイキウメ作品では、食べること=食べ物を作ること(農業)である。前川知大の芯にいつもあるもので、食料を生産し、食べて、生きていこう、自然な死が訪れるときまで・・・というテーマを体現しているのが、山田(安井順平)だ。安井順平の、淡々と、飄々と、毎日、やるべきことを積み重ねていくんだよ、力入れ過ぎずに。という演技が、浜田信也の人外感にしっかり対抗していて、話がSF一色になることを防いでる。
 山田が、人々を救った伝説のおじいさんとなった50年後、柱の魔力に捕まらない新人類が生まれて、新しい時代になっていく。でもそれは、いつのまにか宇宙人に洗脳されてしまった世界のようでもあり、混沌としてる。ラストの方では、マダムはちょっと混乱して、腑に落ちないままだったけれど、この、答えの出なささが、今回演出家が目指したものなのだろうな、と思い、混沌は混沌のままにしておくことにした。
 
 繰り返しになるけど、役者は皆すごい演技だ。村川絵梨、松岡依都美、東野絢香という女優たちも、どうしてこんなに劇団員のようになってしまうのかしら。観客のみならず、役者をも洗脳してしまうのか、イキウメ教。恐るべし。

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