最近の読書

無料ブログはココログ

« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »

2019年3月

パラドックス定数『Das Orchester』を観る

 桜が咲いたというのに、凍える寒さ。3月28日(木)ソワレ、シアター風姿花伝。
 
パラドックス定数第45項『Das Orchester』
作・演出/野木萌葱
出演 西原誠吾 松本寛子 小野ゆたか 皆上匠 生津徹 朝倉洋介
   植村宏司 井内勇希
 
 1月に『トロンプ・ルイユ』を観ただけで、この劇団の虜になったマダム。さっそく劇団のツイッターをフォローしたのだけれど、稽古中の役者に対する演出家のつぶやきが最高だったの。曰く「逃げるな。芝居に逃げ場があると思うなよ」。
 ひゃ〜。ドSよ、ドS。優れた演出家が皆持ってる大切な要素、ドS。
 今回もまたドSで緻密な演出が、美しく展開されていて、ホント素晴らしかったよ〜。

 
 時や場所は特に謳われていないけれど、題名からドイツだな、と受け取れる。そして軍服の将校(井内勇希)の腕章に鉤十字のマークがあることから、第二次大戦前夜の話であることも了解できるの。固有名詞は出てこない。
 風姿花伝の小さな舞台の上には椅子が二脚、置いてあるだけ。後方が数段高くなっていて、前方後方にそれぞれ左右に出入り口があるだけの、ごくシンプルなセット。
 
 物語はある日のコンサートが終わるところから始まる。コンサートが終わり、指揮者(西原誠吾)が舞台袖に戻ってくると、いつものように秘書官(松本寛子)が待ち構えている。指揮者は「今日の演奏はどうだった?」と訊き、秘書官は「明日の新聞の批評で叩かれるでしょう」と答えるのだけれど、気難しげな指揮者は意外にも怒らず「そうだろうな」と頷き、それから秘書官に矢継ぎ早に指示を出す。
 この短いやり取りの中に、びっしりと芝居上の情報が詰め込まれているのに舌をまくわ。指揮者の音楽への信念の強さや、秘書官が有能で、かつ指揮者に対する絶対的な尊敬を持っていること。秘書官は演奏中はいつも舞台袖で微動だにせず演奏を聴いているということ。指揮者も秘書官の耳を信頼していて、二人の間にお世辞や追従が入り込む隙間などないこと。そして、いつもと違うのはただ一つ、同じ舞台袖に、軍服の将校が立っていること、なの。
 演奏の失敗の原因が自分にあると思ったソリストのヴァイオリン奏者(皆上匠)は、ギャラを貰わずに立ち去ろうとするけれど、指揮者はそれを引き止め、彼をオーケストラの一員に加える。が、オーケストラの事務局長(小野ゆたか)は心配する。ヴァイオリン奏者をドイツに留めることが、果たして彼のためになるのか…?彼はすぐ「自分は劣等民族ですから」と卑下してしまうような弱気な若者なのだ。だが、指揮者は優秀なヴァイオリン奏者がオーケストラには必要だ、と言ってきかない。
 良い演奏を追求することだけに専念したい指揮者の気持ちとは裏腹に、事はどんどん進行していく。事務局長のところには宣伝相(植村宏司)と将校が頻繁に訪れ、コンサート会場に鉤十字の旗を掲げろとか、首相が演奏を聴きに来るので指揮者は首相と握手しろとか、楽団員の三分の一にあたる「劣等民族」を解雇しろとか、要求するの。
 外堀を埋められるようにじわじわと、オーケストラは政府の思惑に従わざるを得なくなっていき表向きは従いつつも、事務局長は、身の危険のある楽団員たちの移籍先をこっそり探す。指揮者もまた、黙って宣伝相の言いなりにはならず、次のコンサートの曲目を密かにベートーヴェンの第九に変え、抵抗を示そうとする。
 そのコンサートの日、秘書官は演奏を聞かずに旅立つ。事務局長の「アメリカにお逃げなさい。そして全てが終わったら、また帰ってきてください、マエストロのもとに」という言葉に秘書官は「終わる時が来るでしょうか…?」と尋ねる。事務局長は答えられないまま、彼女を見送るの。
 
 
 こんなふうに話のあらすじを書いてしまえば、聞いた事があるようなナチスの弾圧の話なの。けれどもこの作品は、あの時代を描いたどんな作品とも一線を画す。
 芝居の中には、ナチスという言葉は一度も出てこない。ユダヤ人という言葉も、出てこない。モデルであろうフルトヴェングラーの名前はもちろん、ゲッベルスの名も、出てこない。ヒットラーの名前も出てこない。ベートーヴェンの第九も、殆ど流れはしない。
 あくまで史実をモデルにしていながら、観客が知っている(だろう)事実や観客が持っている(だろう)イメージに一切頼る事なく、独立した芝居を作り上げている。それが、凄い!
 つまり、マダムはここでナチスとかフルトヴェングラーとか言っちゃってるけど、そのような予備知識は全く必要ないし(あっても邪魔にはならないが)、眼の前で展開される芝居は、遠い外国のものではなく、今まさに自分たちのことと感じられるの。
 指揮者はひとりの芸術家として、宣伝相はひとりの差別主義者として、事務局長はひとりの悩める中間管理職として、将校はひとりの秘密を抱えた軍人として、秘書官はひとりの弾圧され追われる者として、描かれている。描かれ切ってる。登場人物の誰も、典型になってない。
 
 マダムは今しみじみと、芝居の面白さについて思う。よく、いい台詞が心に残ったとか、音楽が沁みたとか、衣装が美しかったとか、装置がスペクタクルだったとか、芝居を褒める。だけど、結局、芝居の面白さは、役者の演技がもたらす、登場人物についての情報量なのではないかしら?その情報量がもたらす「作家の人間観」に打たれるのではないかしら。
 野木脚本と野木演出の特徴は、一瞬一瞬に込められた圧倒的な情報量だ。将校はその立ち姿だけで、隙がなく怖くて威圧的だし、さほど多くない台詞はシンプルな要求を伝えるだけなのに、何かが隠されている。秘書官の台詞もまた、彼女自身を語るような中身は殆どないにもかかわらず、マエストロの芸術に対する愛と使命に満ちていて、彼女がどういう人であるかを如実に語る。
 そして作品の奥底に、作家のメッセージが流れている。それは例えば台詞の中に安直に登場したりはしない。あくまでも奥底に秘められている。
 演劇の真髄に触れる喜び。それが3500円であることの驚きと戸惑い。
 
 役者の上手さにも脱帽する。ていうか、才能ある演出家の演出通りに演技するため、どれほどの努力があったかを思い、ただもう拍手するだけね。将校はこのあいだはドンガバーチョ(馬)だったし、宣伝相もアイゼンレイゲン(馬)だった。立ってるだけで馬にも将校にも見える役者って、マダムの長い観劇人生の中でも、なかなか逢ったことがないよ。
 

意地悪な岩松了『空ばかり見ていた』

 渋谷がどんどん苦手な街になっていく。困ったものだわ。3月16日(土)ソワレ、シアターコクーン。
 
『空ばかり見ていた』
作・演出/岩松了
出演 森田剛 勝地涼 平岩紙 筒井真理子 宮下今日子
   豊原功補 村上淳 ほか
 
 森田剛を舞台で観るのは初めて。色々な舞台に出ていて評判も聞いていたけれど、これまでは、なにしろチケットが入手困難だったの。今回もコクーンシート(見切れ席)だから手に入ったのかな。
 この一本だけを見て、彼の演技について何か言えるとは思えないけれど、舞台向きの人だな、と感じた。自分を消して、役に入り込んでいたしね。
 それよりもなによりも、岩松了が問題なのだった。まいったな、これ。
 
 ここのところ、岩松了の意地悪さを感じなくなっていたマダムだった。たとえばさい芸のゴールドシアター公演『薄い桃色のかたまり』には身体ごと揺さぶられたし、本多劇場での『市ケ尾の坂』も面白く見て、これは岩松了が意地悪をやめたか、はたまたマダムが岩松了に開眼したか、どっちだろうと思っていたの。
 でもどっちでもなかった。岩松了は相変わらず意地悪だったし、マダムも開眼には程遠かったわ。しいていえば、シアターコクーンでは特に岩松了の意地悪さが発揮されるのよ。
 
 シアターコクーンはたかだか750席くらいの中規模劇場なんだけれど、その見辛さといったらない。舞台から一階最後列までが24mの近さ、と詠っているけれど、後ろの方はホントに舞台が遠く感じられるし、二階になると、信じられないくらい遠くて、これをS席として売り出している劇場側の神経を疑う。縦長長方形なのがよくないんだと思う。
 なので、ちょっとした仕草や表情の微妙な変化、曖昧さを味わっていくような芝居には、シアターコクーンは向いてない。前方10列目くらいまでの人しか芝居を味わえないから。そして、岩松了の芝居はまさに、そういう芝居なのよ。
 岩松了自身も劇場の規模については意識していると見えて、シアターコクーンで上演する作品には、大掛かりな設定を決めてくる。以前やった『シダの群れ』シリーズは、ヤクザの抗争が設定だった。そして今回は、内戦、という設定。なんだけれど。
 ヤクザの抗争と内戦、設定は全然違うけど、岩松了の観点からすると、全く同じなんだね、これが。作者の興味は、人間関係にしかないので、ヤクザの抗争だろうが内戦だろうが、殺陣があるわけでなし、スペクタクルなシーンがあるわけでなし、場面転換すらないの。そしてひたすら、親分(または上官)を信じきれなくなっていく子分(部下)や、親分の娘(または上官の妹)に対する恋心や、仲間の裏切りとかが描かれていく。設定がどんなに大きくても、描くのはその中の小さな集団の小さな人間関係なの。
 
 作家からしたら、どんなに大きな出来事が起きてる設定であっても、その中にいる人間ひとりから見える光景はごく限られた範囲だし、情報も見える範囲からしか得られないし、スペクタクルになりようがないでしょ、ということなんだろう。だけど、人間の心の微妙な揺れとか迷いとかを味わうには、コクーンシートは遠すぎたね。表情が見えなさすぎ。
 
 でも『薄い桃色のかたまり』のときに確かに存在していたリリカルさは無かったし、『市ケ尾の坂』の時のような、映像ならクローズアップと呼ぶような手法を舞台の上に出現させた斬新さも、無かった。だから芝居を味わえなかった理由全てをコクーンシートのせいにはできないよね。

演劇の宇宙の広がり『世界は一人』

 ハイバイのつもりでつい、シアターイーストに行ってしまいそうだった。3月8日(金)ソワレ、東京芸術劇場プレイハウス。

 

パルコ・プロデュース『世界は一人』
作・演出/岩井秀人
音楽/前野健太
出演 松尾スズキ 松たか子 瑛太 平田敦子 菅原永二 
   平原テツ 古川琴音 

 

 2月16日に『ヘンリー五世』を観劇してから何も観ない3週間を経て、『世界は一人』を観た。そうしたら「演劇って、なんて広い広いジャンルなんだろう!凄くない?この広がり」って、世界中に向かって叫びたくなったマダム。あっちも演劇でこっちも演劇で、どっちも好きだなんて。自分の中に無限の愛を抱える幸せ。

 なんかね。

 

 凄いところに岩井秀人は突き抜けちゃったよ。
 ハイバイで、日常の人間関係をひたすら追求していて、掘って掘って掘りまくっていったら、別世界に到達した感じ。

 

 びっくりと、しみじみと、ずしーんとが、混ぜ合わさってやってきた観劇後の、なんとも言葉にならない感情を、これから書いてみるけれど、果たして、伝えられるのかしらん。
 

 

 まずは、びっくりから。

 

 見たこともないミュージカルだったのよ。
 この芝居のことを音楽劇だ、と紹介している方がたくさんいたんだけど(作者自身もそう言ってる)、マダムは敢えて「ミュージカル」だ、と言いたいの。だって、これは歌入りのお芝居ではなくて、台詞から繋がる感情が歌になっていってるんだもの。これをミュージカルと言わずに、何がミュージカル?
 マダムは日本発のオリジナルミュージカルが出てくるのを心待ちにしていたのだけれど、まさか岩井秀人から出てくると思っていなかった。いつも劇中で使われる曲の選曲がどんぴしゃりなので、感心していたんだけど、一気にミュージカルまで行ってしまうなんて。
 舞台上にバンドがいて、ギターを抱えた前野健太は完全に役者の一人のようにいつもいて、効果音のようにシャウトするし、役者たちも皆、台詞の流れの中で歌う。

 3人の幼馴染(松尾スズキ、松たか子、瑛太)が、辛い人生を生きて行く物語。
 岩井秀人は、ハイバイでの作風からわかる通り、人生を見る目の容赦ない人。簡単に慰めたり励ましたりしない人。それは重々承知しているマダムだけど、今回のこの容赦なさは、どうだろう。これまでにない救いのなさなの(←これがなんと褒め言葉)。
 吾郎(松尾スズキ)と良平(瑛太)と美子(松たか子)は、北九州のとある町で育った幼馴染。吾郎はお人好しで押されがち、良平は要領がいいと自分だけは信じてる子供で、美子は不動産収入たっぷりな金持ちの家の子で、でも親からネグレクトされている。
 三人がそれぞれの悲惨な時間を経て大人になっていく様子を、これといって悲惨を強調せずに淡々と、描いていく。簡単に感情移入されることを、拒んでいるかのよう。
 大人になった吾郎は東京に出るが、お人好しな性格が災いして、人を騙したり陥れたりして稼ぐような仕事をどんどんしてしまう。美子は、ネグレクトされ続けて心を病み、自宅マンションから飛び降り自殺を図って病院に運ばれる。長期入院の末にやっと退院すると、親は不動産を売り払って雲隠れしており、美子は文無しで宿無しの身分に転落する。
 そんな吾郎と美子が東京で偶然再会するシーンで、歌われる歌が、素晴らしくて。正確な歌詞ではないんだけど「これまでのことを話さずに生きよう。辛い過去には触れずにおこう」という歌。松たか子は、歌で役の心を表現させたら日本一の女優ね。この歌が沁みること沁みること!
 ミュージカルの歌が人物の心の声だとするならば、この曲こそがミュージカルの歌だよ。芝居の後も、メロディが耳に残って離れない。
 しかも歌詞に乗せている言葉が、実に日本人メンタリティ(というか、岩井メンタリティ?)。再会した二人は、お互いに知らない人のふりをして会話するのよ。一目見て互いに察知したの。過去が辛すぎて、それに触れたら心が壊れてしまうことを。そういう歌。

 二人は結婚し、北九州の町に戻る。吾郎が職を求めて公民館に行くと、そこにはひきこもりから抜け出そうとしている良平がいた。良平もまた、人との距離感が上手く測れないまま大人になってしまったの。
 吾郎と美子の間に子供が生まれ、美子は子供を溺愛し、激しい過干渉になるのだが、吾郎はそれを止めることができない。子供(平田敦子!)は外の世界を異常に怖がり、家を訪ねてきた良平に部分的(子供の分身=古川琴音)に救い出されるのだけれど・・・。
 お話は、とりたてて結論のようなものはなく、そこで終わっている。
 
 ハイバイで研ぎ澄まされてきた手法が、縦横無尽に舞台を作っている。ただ演技だけで子供時代から大人まで表現すること。枠組みしかないドア(ハイバイドア)を開け閉めすれば、どんな空間も瞬時に作れること。音楽が、状況の身も蓋もなさを限りなく増幅すること。
 そして、安易な感動を寄せつけないこと。
 言葉が見つからなくて、困っているのだけど、今マダムが言えるのは、岩井秀人が日本のカウリスマキになったみたいだ、ってことです。

« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »

2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

関係するCD・DVD