『ヘンリー五世』を巡るあれこれ 台本を切るということ
今日、さいたま芸術劇場の吉田鋼太郎演出『ヘンリー五世』は無事、埼玉千秋楽を迎えた。まだ地方公演はあるけれど、一つの区切りと思い、この公演の周りで起きた論争について、マダムの私見を書いておきます。
いろんな意見がSNSなどで飛び交っていたようなのだけれど、どうも、問題点が整理されずにごちゃごちゃのままだ。そんな中では意見が言いにくい。だからSNSではなくて、自分のブログで整理したい。
問題は3つに分かれている。
①そもそもシェイクスピアの台詞を切っていいのか
②脚本を切るとき、誰が切るのか
③脚本を切るとき、どこを切るのか
①について。
これはもう言うまでもない。日本でシェイクスピアの公演をするどんな団体も劇団も、脚本を部分的にカットして上演してきた。新国立の『ヘンリー五世』鵜山演出版も勿論だ。俳優の実力の問題もあるし、予算もあるだろうし、目標とする上演時間というものがあるから。もしカットせずにやるとなったら、上演時間が4時間とか、5時間とか、6時間とかになって、観客が埼京線の最終に乗れない事態になったりする。そんなことが許されるのは蜷川御大だけだ。現存する演出家でそんな治外法権が認められてる人なんて、いない。
だからどんな場合にも、脚本のカットはせざるを得ない。
次に②について。
これは最終的には演出家の専権事項である。どんな作品にしたいのか、その方向性に従って、脚本のカットを決めるわけだから。方向性が頭の中にあるのは演出家だから。ある台詞をカットしたとしても大丈夫だ、と判断できるのは、どういう演出でカバーできるかを知っている人だけだから。
途中、周りの人の意見を聞いたとしても、決めることができるのは演出家だ。他にはいない。
①も②にも、議論の余地はない。なので、論争になるべきは③だけである。
③について。
これはまず芝居を観てみなければ、その是非について話すことはできない。今回だって、出来上がったものを見て、マダムは演説がないことを寂しいと思ったり、一方で無くても成立していることに驚いたりした。台本がカットされている事実だけでは、なにも議論できない。なんのために、どこをカットし、その結果、芝居がどうなったのか、を考え、その上で、芝居を評価する。ある人は良い芝居だといい、ある人はダメな芝居だと言うだろう。そこで初めて議論ができるのだ。
そしてダメな芝居だと言うなら、具体的に演出について考え、指摘しなければならない。演出家には演出家の考えがあって台本を変えたわけだから、そこをリスペクトしてものを言わなければ、ただの悪口だ。個人攻撃なんぞ議論の足しにはならない。ただの悪口なら聞かないでいい、議論しなくていいや、となるだけである。
吉田鋼太郎という人は、もう40年もほぼシェイクスピア一筋でやってきた役者である。蜷川作品で多くの人に知られるより前に、シャイロック役で紀伊國屋演劇賞個人賞も取っている名優であり、自分の劇団で20年近くシェイクスピアの演出を続けてきた演出家でもある。
そういう人が、なんの考えもなく思いつきで、台詞を切ったり貼ったりするわけないではないか。まずはその考えがなんなのか、探ってみようとするのが批評の第一歩なのではないのか。
なぜこんなあたりまえのことを、市井でちまちまとブログを書いてるだけのマダムが言わなければならないのだ。
そして言いたいのは、観客一人一人がそれぞれ芝居から受け取ったものについて、誰も他人が否定することなんかできない、ってこと。
みんな、自分が感じ取ったことを大切にして。批評するにせよなんにせよ、それがスタートだよ。
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