最近の読書

« 『秘密の花園』を観る | トップページ | 『ヒッキー・ソトニデテミターノ』を観る »

死なないハムレット 加藤泰監督の『炎の城』

 先日BSで、ハムレットの翻案映画を見た。

『炎の城』
1960年公開作品(東映)
脚本/八住利雄 撮影/吉田貞次 音楽/伊福部昭
監督/加藤泰
出演
正人(ハムレット)=大川橋蔵  師景(クローディアス)=大河内傳次郎
時子(ガートルード)=高峰三枝子  ?(オフィーリア)=三田佳子  ほか

 シェイクスピアの翻案映画といえば黒澤明の『蜘蛛巣城』(マクベス)や『乱』(リア王)が有名で、マダムは加藤泰監督のファンであるにもかかわらず、ハムレットを翻案した『炎の城』について寡聞にして知らなかったの。

 加藤泰について、ご存じない方も多かろうと思うので、少し説明すると。
 主に1950年代から70年代前半くらいまで、東映を中心に映画を撮った名監督で、傑作をたくさん残してる。例えば、中村錦之助主演の『瞼の母』や『沓掛時次郎遊侠一匹』。藤純子主演の『緋牡丹博徒お竜参上』。鶴田浩二主演の『明治侠客伝三代目襲名』。ほかにも『骨までしゃぶる』や『男の顔は履歴書』などなど。作品の名前を口にするだけでため息が出そうなくらいの、傑作揃いよ。
 この傑作の数々、公開当時はマダムも子供だったので、もちろん知らなかった。マダムは80年代に映画祭や名画座で見たのだけれど、その時のラインナップの中に『炎の城』は見当たらなかった。ので、まさか加藤泰がハムレットの翻案映画を撮っていただなんて、思いもよらなかった。
 
 加藤泰は脚本も書く人であったので、すわ監督自身の翻案なのか?!と見ながら腰が浮きかけたけど、どうもそうではなかったようね。
 そして見てわかったけど、名画座でかかるような人気作ではなかっただろうし、映画祭でかかるような名作でもなかったのだった。傑作の数々に比べると、核心に向かって一気に収斂していく加藤泰らしさが全然ないんだもん。
 昨年、国立近代美術館フィルムセンターで行われた加藤泰生誕100年のサイトによれば、「八住脚本の結末に納得できないまま撮りあげた」作品であり、監督自身「失敗作」と言っていたのだそう。さもありなん。
 
 でもそこは、「ハムレット」だから、マダムは別の意味で面白く見た。「ハムレット」を戦国時代の日本にどう移し替え、大スター大川橋蔵主演の娯楽大作にどう作り替えるか、苦心惨憺(した挙句に失敗)のあとが見えて、面白い。
 そもそも、どうして東映が「ハムレット」を題材に映画を作ろうだなんて思ったのか。ここからはマダムの想像に過ぎないけれど、『炎の城』の製作年から容易に推測できるのは、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年東宝)の成功を見たプロデューサーが「そっちがマクベスなら、こっちはハムレットやったるでー」とかなんとか言って決まったんじゃないかしら(想像ですよ、想像)。黒澤御大がなぜ「ハムレット」を選ばなかったか、については考えてみなかったのでしょうね。
 
 『炎の城』では、クローディアスを徹底的に悪とすることで、勧善懲悪的な物語にしようとしている(それ自体、既に「ハムレット」じゃないのね)。先王が生きてる間にガートルードを無理やり手篭めにして言う通りにさせ、先王を殺して自分が王になると、隣国に侵略する資金を作るために、農民に重税を課す。農民の反発にあうと有無を言わせず弾圧。先王を殺した罪に悩んだり懺悔したりするシーンは無し。クローディアスの人間像はすごく一面的で、全然魅力がない。
 一面的、といえばガートルードもオフィーリアもそう。ガートルードはクローディアスの悪事を全て知っていて、運命に押し流されている女として描かれ、オフィーリアはハムレットを一途に慕って、想いが叶わないのを悟ると覚悟の入水自殺。狂って歌うシーンはなかった。
 そしてハムレットはいっこうに行動に出られず悩んだり嘆いたりしているわけ(ハムレットだから!)なんだけど、農民からは救世主として期待されているし、クローディアスは極悪人なわけだから、ハムレットがなんで行動しないのか、原作以上に理解できないし、イライラする。戦国時代なら、兄弟や親子でも殺してトップになることなんて、普通なわけで。寝ているクローディアスを目の前に刀を引っ込めるなんて、なんちゅう情けない若様であろうか・・・。
 そのうえ、『ゴジラ』の伊福部昭の音楽が仰々しいばかりで、浮いている。なぜか途中で『ゴジラ』のテーマ曲にそっくりのメロディが流れて、なんのつもりかと悩むマダム。
 極め付けはラスト。ハムレットが死なないの。
 レアティーズとの決闘で傷ついたハムレットだが、死に物狂いで塔の上にクローディアスを追い詰めてなんとか復讐を果たし、農民の一揆で火を放たれた城は燃え、ハムレットも死んでいく・・・のかと思いきや、助け出され、悪政を正していくだろう・・・という、無理やりな勧善懲悪のラストになっていた。こりゃあ、監督も撮りづらかったでしょう。加藤泰、超がつく真面目な人であったと思うから。
 
 「ハムレット」を換骨奪胎して娯楽大作にするか、芸術映画として加藤泰に好きなように作らせるか、どっちかを選べずに妥協を繰り返した結果、こういう映画になったんでしょうね。そのことがわかりやすく画面から伝わってきて、面白かったよー。

 私たちは『ハムレット』の何に惹かれているのかしら?
 結局そのことを考えずにはいられないのよね。

« 『秘密の花園』を観る | トップページ | 『ヒッキー・ソトニデテミターノ』を観る »

シェイクスピア」カテゴリの記事

映画」カテゴリの記事

コメント

はは〜ん、なるほどねぇ。
話題作だっていうことで、録画はしたけど、まだ見てません。
でも、番組案内のあらすじ見ただけで、面白いのか?これ?
と思いました(笑)。
そのうち、時間があったら、ツッコミながらゆっくり見ます。

それはそれとして、私、「ハムレット」は好きじゃないです。
基本的にシェイクスピア作品で手放しで「好き!」って言えるものは
ないんだけれども、嫌いだ、嫌いだ、と言いながら、なぜ観るか?
と言えば、やっぱり「解釈に興味があるから」じゃないかなぁ。
有名なあの台詞、このシーンを、今度の舞台はどうするんだろう?
そこに興味があるので「このっご迷惑野郎がっ!」と思いながらも、
ウジウジ、ブツブツ言ってるハムレットに付き合っちゃう(笑)。
それだけシェイクスピアの戯曲の余白部分の広さに力がある〜ってことなのかな?

ぷらむさま。
いや〜、もうね、ツッコむためにあるような映画です。どうぞお楽しみください。この映画に関わった人の誰も、本気でハムレットやりたかったわけじゃなさそうで、それが根本的間違い。装備も準備もなしにマッキンリーに登っちゃったみたいな感じです。
でも、監督の生真面目さは伝わってきます。農民の弾圧シーンとかリアルに残虐です(そういうところ手を抜かない人なのです)。

ハムレットって、忠臣蔵みたいなものですね。大石内蔵助は勘三郎が一番良かったとか、吉良のイチオシは伊丹十三だ、とか皆ひとこと言いたいことがある。でもじゃあ、忠臣蔵が死ぬほど好きかと言われると、そうでもない。だけど見て、あれこれ言いたい・・・そんな感じです。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 『秘密の花園』を観る | トップページ | 『ヒッキー・ソトニデテミターノ』を観る »

2018年9月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

関係するCD・DVD

無料ブログはココログ