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2018年1月

『秘密の花園』を観る

 備忘録。1月27日(土)ソワレ、東京芸術劇場シアターイースト。

『秘密の花園』
作/唐十郎 演出/福原充則
出演 寺島しのぶ 柄本佑 玉置玲央 川面千晶 三土幸敏
   和田瑠子 福原充則 池田鉄洋 田口トモロヲ

 極寒の疲れ、ハンパなく、意識がなくなることもあったので、レビュー書けません。
 でもこれは主演女優を飽くことなく眺めるための芝居だと感じ、寺島しのぶは実力ある人だけど、2時間半眺めて飽きないようなタイプではないと思いました。少なくとも、マダムはけっこうすぐ飽きた。
 一方で柄本佑は、かつて映画で共演した佐藤浩市が「顔がずるい」と賞賛(?)していた通り、眺めていて飽きない顔なのね。役者同士で「ずるい」と感じるのも無理ない、と妙なところで感心した。

文学座附属演劇研究所『美しきものの伝説』

 生まれてこのかた一番寒い日に、寒いと評判の場所に出かけた。1月26日(金)ソワレ、文学座アトリエ。

文学座附属演劇研究所2017年度 研修科卒業発表会
『美しきものの伝説』
作/宮本研 演出/西本由香
出演 A組 
島村抱月(先生)=溝井翔太郎 大杉栄(クロポトキン)=柳谷駿輔
伊藤野枝=田中佑香 堺利彦(四分六)=鈴木智加寿 
沢田正二郎(早稲田)=齊藤一輝 荒畑寒村(暖村)=光山恭平
平塚らいてう(モナリザ)=音道あいり 神近市子(サロメ)=青柳幸歩 
辻潤(幽然坊)=押川諒  ほか

 寒い寒いと聞かされていたので、お腹と背中にカイロを張り付け、客席でもダウンを着たまま座っていたの。準備がよかったのか、格別寒くはなかった。薄〜いひざ掛けも用意されてた。客席はびっしり満員で(卒業を見届けようという家族もたくさんいたのね)集中力があり、良い雰囲気だった。

 いやあ、面白かった!
 前半は、なんとなく覚束ない感じも見え、長ゼリフになるとこちらに届かなくなるところもあったんだけど、休憩の後、一気に盛り返した。後半はみんな役を生き、その役の人にしか見えなくなっていき、役が語る演劇論と人生論が切実に伝わり、抱月が死に、大杉栄と伊藤野枝が殺される日の朝で終わるラスト、全員が出てきて歌うと、涙がこみ上げた。「花を咲かそう。死ぬほど生きた人がいる」という歌詞に打ちのめされる思い。

 明治から大正にかけて、演劇界を生きた人たち、その周りにいた社会運動家たちの物語。江戸時代まで歌舞伎しかなかった演劇界で、新しい芝居を作ろうとした島村抱月。初めてのスター女優であった松井須磨子。娯楽劇と芸術劇の二つに、演劇を分けて考えることはありなのか、という今も解決しない問題。それぞれの主義に従い、民衆の権利を獲得しようという運動を展開する人たち。自由を獲得しようとする女たち。そのなかで起こる恋愛沙汰と、常に監視されながらの暮らし。思想は人々を助けることができるのか?という根本的な問い。
 
 やっぱり本が良いの。演技に多少瑕疵があっても、しっかりした脚本は役者を助けてくれさえするのね。そして若い人たちは、3時間の本番の中で成長する。幕開けの瞬間はまだどこか素の自分がいるんだけど、演じている間にどんどんそれが消えていき、役そのものを生きるようになっていった。(本当のプロなら幕開けの瞬間からその役でいられるのだろうけど。)
 内容も、若い人が演じるべき物語なのよ。どんなに上手くても実年齢がかけ離れた人では、ラストの歌の意味が違ってしまう。
 
 島村抱月をやった溝井翔太郎や大杉栄の柳谷駿輔が、目を引いた。今、舞台の若手はみんな似たようなイケメンだらけになってつまらないので、中身のしっかりある人に活躍していってほしいな。演技の上手い人こそ、イケメンである(マダムの格言)。
 
 それと、美術に石井強司の名前があって、しみじみ嬉しかった。つかこうへいが「蒲田行進曲のとき、俺に階段の装置を作らせまい、作らせまいとする。装置を作りたがらない装置家」と褒めて(?)いた人。今も健在なのね。
 
 途中、劇中劇というのかな、『人形の家』の一場面を関西弁など使った完全現代アレンジで見せてくれたんだけど、これが秀逸。出て行く決心したノラと、止めようとする夫の会話が、完全に今の日本に移し替えられてて、笑うと同時に、まんま当てはまるなんて日本ってやっぱり遅れてる・・・と実感する。このシーンは完璧に演出家の手柄ね。『人形の家』を本公演で是非!

1981年の『近松心中物語』 その2

 思えばこの時の『近松心中物語』(長いので以下『近松』と略す)は、蜷川御大が商業演劇に進出して数年が経ち、演出家として圧倒的スターダムにのし上がる、駄目押しのような作品だったの。
 そして私たちが馴染んだ(時には、またか、と思った)演出方法は、すべて『近松』に揃っている。御大の好きなものばかり。
 そびえる二階建ての長屋セット。群衆が一挙に動き出す、アッと言わせる幕開き。絢爛豪華な色使い。役者を消耗させるほどの何トンもの水。大音量の演歌。上から降ってくる大量の紙吹雪と風。そして・・・台詞を詠う役者。
 配役は

 忠兵衛=平幹二朗  梅川=太地喜和子  
 与兵衛=菅野忠彦  お亀=市原悦子  
 八右衛門=金田龍之介  忠兵衛の義母=嵐徳三郎  お亀の母=山岡久乃

 
といった具合で、新劇の人、歌舞伎の人、新派の人いろいろいて、異種格闘技戦の様相。これも御大が好きなやり方よね。
 でもね、言っておかなくちゃいけないのは、当時はどれもこれも皆、新しい挑戦だった、ってこと。ほかに誰もやらないようなことを、どんどん取り入れて実現させていったってことなの。帝劇で水。帝劇で大音量の森進一。誰もやろうとしなかったでしょう?考えてもみなかったでしょう?
 
 再演にもかかわらず、パンフレットには舞台写真がほとんど載ってなくて、昔からこうだったんだと改めてがっかりする。そこで、偶然パンフレットにはさんであった切り抜きの舞台写真をお見せしましょ。

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これは、週刊朝日に当時、小田島雄志が連載してた「週刊朝日劇場」のページ。毎週一本の舞台が、小田島先生の解説付きで紹介されるコーナーで、マダムは必ずチェックしていた。

 

 たったいま手にかけた梅川の遺体を抱きかかえて、雪の中をよろよろと進む忠兵衛・・・平幹二朗が、美しい・・・。(初演ではこのシーンで腰を痛め、残り三分の一の公演を代役がすることになった、伝説のシーンね。)
 この美しさもさることながら、平幹二朗と太地喜和子の台詞は詠うようで、人間離れしてたの。辻村ジュサブローが操る人形のように。
 
 ここまで水っぽい演出方法を連発しても、ギリギリ首の皮一枚のところで1981年の『近松』は芸術として踏みとどまっていたんだけど、それは蜷川御大が、そもそもの近松の心中もののテーマを決して忘れなかったから。江戸時代の、庶民の受けていた強烈な圧迫感をなんとか表現するんだと強く思っていたからだと、マダムは今になって、わかるの。忠兵衛と梅川はもちろん、群衆も、そして笑いをとってるお亀と与兵衛の二人さえ、時代の不自由さにがんじがらめになって、喘いでいる。一挙手一投足が決められてしまっている時代。心中するってことは、自由になりたいってことなのよ。壁を打ち破りたいってことなの。それには死ぬしかないという、どうにもならない圧迫感。
 それが舞台全体をちゃんと覆っていたのよ。

 そしてそれが、いのうえひでのり版に欠けているものなの。
 いのうえひでのりは、根が前向きな人なんだよね、きっと。明るいの。
 だから、つかこうへいの『熱海殺人事件』のときもそうだし、今回の『近松』でも、役者の立ち位置、型、音楽の入れ方や、舞台装置の使い方など見事で、エンターテインメントの王道を行く芝居を作ってくれるんだけど、圧迫感とか、劣等感とか、負の要素を込めるねちっこさがないの。カラッとしてるのよね。
 つかこうへいが持っていた、劣等感をネチネチとこねて裏返す複雑な快感。蜷川御大が持っていた、圧迫感をはねのけようとして役者を圧迫する執念深さ。いのうえひでのりには、どちらもないの。もちろん、本人は重々わかってるんだよね。それがダメなことだとは思わない。思わないけれど、少なくとも『近松』には、庶民の受けていた重圧が表現されていなければ、いけないのではないかしら。
 
 マダムは、繰り返し上演された蜷川演出の『近松』を、たった一度しか観なかった。繰り返し、手を替え品を替えて上演された最近の『近松』に、どれほどの圧迫感が残っていただろうか。
 人気が出すぎて、求められるままに再演を重ねて、蜷川御大も気持ちの込めようがなくなっていったのじゃないか、とマダムは推察しているのだけれどね。
 

1981年の『近松心中物語』 その1

 1981年12月、とある日の午後、マダムは帝劇にいた。
 その2年前の初演が評判高く、再演の運びとなった蜷川幸雄演出の『近松心中物語 それは恋』を観に行ったの。席はなんと!最前列。イ列35番(当時の帝劇って、席番がイロハだったのね・・・)。

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 これがその時のパンフレット。





 ワクワクしながら最前列に座ってたら、ホール係の人がやってきて、前から3列目くらいまでの客に、ビニールの風呂敷を配った。「水を使うシーンがありますので、これを使って防いでください」ってね。風呂敷は白地に赤い文字で、芝居の題名が印刷されてて、ちゃんと、くれたのよ。しばらく家にあったと思う。
 テント芝居ではなく商業演劇の劇場で本物の水を使ったのは、蜷川御大が最初なのだろうか?とにかくマダムはますますワクワクしたわけなんだけど、なにせ最前列だからね、こっちの想像をはるかに上回る水が飛んできて、かなり凄いことになった。水はもちろん、お亀と与兵衛が入水自殺を図る場面。いのうえ版を今回ご覧になった方にはわかるでしょうけれど、川の中で与兵衛は溺れることができずにかなり暴れる。それを本当の水でやるのだから、推して知るべし。

 最前列はとにかく強烈だった。忠兵衛と梅川が心中する場面も至近距離。かぶりつきで見たの。そのとき降った雪(紙吹雪)の量がメチャクチャで。今回のいのうえ版の雪が物足りなかった。御大の使った雪の量は10倍じゃきかないかも。最前列のマダムはすっかり雪の中よ。風も凄いから、ホントの吹雪に巻き込まれた感あった。
 
 あんまり前過ぎて、全体を見渡せていなかったのかもしれない。久々に開いてみたパンフの中にあったセットの写真に、びっくり。全然憶えてない・・・。

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 写真が小さくて、わからないかしら?
 二階建ての長屋のセット。舞台をぐるっと囲んでる。

  これ、そののちの下谷万年町とか2015年のハムレットとかのセットとおんなじじゃん? 御大、どんだけ好きだったんだろう、二階建ての長屋。
 ちなみにこの時の装置は朝倉摂。

 でね、音楽は猪俣公章で、歌は森進一で。道行のシーンなんかで、ガンガンかけるわけ、森進一の歌う主題歌「それは恋」。

 そして美術ではなく「アートディレクター」に辻村ジュサブロー。人形を作り人形を操り芝居を作る人だったんだけど、その世界観に惹かれる舞台人が多数いて、御大もその一人だった。『近松心中物語』では人形使いとして出演し、着物のデザインを手がけ、色彩を取り仕切った。この頃の蜷川御大の舞台の美しさ、妖しさは、辻村ジュサブローの力によるところが大きいのね。

 1981年の御大版と、いのうえひでのり版との違いについては、その2で。

いのうえひでのり版『近松心中物語』

 満員の客席。1月20日(土)マチネ、新国立劇場中劇場。

シス・カンパニー公演『近松心中物語』
作/秋元松代 演出/いのうえひでのり
出演 堤真一 宮沢りえ 池田成志 小池栄子
   市川猿弥 立石凉子 小野武彦 銀粉蝶 ほか

 二組の男女が心中していく物語。近松が書いたいくつかの心中物をミックスして作家が作り上げたストーリー。
 忠兵衛(堤真一)と梅川(宮沢りえ)は美男美女の正統派悲恋で、与兵衛(池田成志)とお亀(小池栄子)はダメ男とそれに溺れてるダメ女のバカップル。二組の心中話が同時進行するところが、この芝居のよくできたところ。かたっぽだけだと、単調で厚みのない話になっちゃうもんね。
 蜷川御大の出世作であり、20年以上に渡って役者を替え演出も手を加えて上演が続いてきた有名作品。マダムは1981年に帝劇で観てる。
 
 今回の客席は、平均年齢若干高めだけど老若男女ほどよく、キャストの華やかさとセットの豪華さ、彩りの鮮やかさもあり、よりわかりやすく演出したいのうえひでのりの腕前冴え渡ってて、楽しく観たの。高く組み上げた木組みのセットを盆に載せて素早く動かし、場面転換の時間も江戸の町の賑わいを作り出してて、大掛かりなセットを使わせたらいのうえ演出は本領発揮なのね。ホントにエンターテインメントだ。
 四人の主要キャストは役にぴったり。忠兵衛の実直さ、梅川の美しさと希望のなさ、与兵衛のいい加減さ、お亀の愛嬌ある嫉妬深さがそれぞれ滲み出てて、堪能したの。特に堤真一が素晴らしいよ〜。
 正統派悲恋組の方が演じるのは難しい。だって、二人の人物設定が描かれてるシーンは少ないし、どんどん話が進むから、形ばっかりになりかねない。宮沢りえには美しさという説得力が始めからあるけれど、堤真一の方は、すごく考えて、練りに練って忠兵衛を作り上げたと思う。実直さだけが取り柄で生きてきた男が、女に惚れ込み女に実直に向き合ったら、実生活のほうが崩壊してしまう。その道筋を、ブレずに演じていて、忠兵衛がどういう人か、納得したの(蜷川版の平幹二朗は美しかったけど、生きている人という感じがしなかった)。
 
 そう。とても楽しくて、満足したんだけれど、驚いたことに、観ているうちにどんどん1981年の記憶が呼び起こされてしまって。マダムも若かったし、すごいインパクトだったのね。一度しか観てなくて、その後中継映像観たわけでもないのに、これほど呼び起こされるとは。寝た子が起きてしまった。比べずにはいられない。
 でも、昔の話は聞きたくないよ、という人もいると思うので、ここでは比較の話はしないでおく。別記事を書くね。
 
 この日は、お亀と与兵衛の死ぬ死なないで揉めてるシーンで、与兵衛の鬘が取れるというハプニングがあった。すぐ付け直して、芝居は途切れず続行したし、そうでなくても可笑しくて客席は笑ってばかりいるシーンだったので、さらに笑いを取るための仕掛けだったんじゃないか(そんなわけないけど)と思えるほど自然に、大笑いして過ぎていった。感心したのは、カーテンコールで、このことについて謝る、というか触れてみせた、そのやりかた。
 カーテンコール自体はごく真面目にやって、一番最後に主要キャストが背中を向けて、舞台奥へとゆっくり歩き去っていく。そのとき、宮沢りえが隣にいる池田成志に向かって、手で「鬘が取れちゃったでしょ?」みたいな仕草をしたの。で、池田成志はちょっと頭をかいて「ごめん」的な仕草で応えた。客席は拍手しつつ大笑い。言葉で変に「すみませんでした」とか言われるよりずっと、気持ちがいい収まり方だったの。百戦錬磨の宮沢りえ、流石だ。
 
 というわけで、蜷川版『近松心中物語』の話へと続く。

マンガのページをめくるような『プルートウ』

 蜷川芸術監督がいなくなってから、とんと行かなくなってた、シアターコクーン。1月16日(火)ソワレ。

『PLUTO プルートウ』
   鉄腕アトム「史上最大のロボット」より
原作/浦沢直樹✖️手塚治虫 上演台本/谷賢一
演出・振付/シディ・ラルビ・シェルカウイ
出演 森山未來 土屋太鳳 大東駿介 吉見一豊
   吹越満 柄本明 ほか9人のダンサーたち。

 今年の観劇初め。
 昨年の初演の評判が良くて、観たいと思ってたの。テレビで中継もやってたんだけど、チラッと見て、あ、これは絶対ナマで観るべき、と直感して消してしまったくらい。そして、初演よりさらにバージョンアップしてるという話だ。
 演劇が、贅沢な総合芸術だってことを思いっきり味わわせてくれる、刺激的な舞台。
 身体能力ハンパない9人のダンサーが黒子的な役割を果たすんだけど、それが、見たことのないような美しい動きの黒子なの。組み合わせると大きな平行四辺形になるいくつものパネルをキビキビと動かして、次々と場面転換していくんだけど、それがマンガのコマ割りを彷彿とさせ、マンガのページをめくっていくような気持になる・・・。
 さらにアトム(森山未來)やゲジヒト(大東駿介)やその妻ヘレナ(土屋太鳳)たちロボットのロボット感を出す役割も、ダンサーたちが務める。例えば。ロボットが洋服のボタンを留めるとき、人工知能が「ボタンを留めるぞ」と決め、そのために「手をこう動かすぞ」と命令を下し、手がそのように動く(かすかにピー、カシャと音がするような)・・・その一瞬の神経の流れを、周りにいるダンサーたちが表現するの。演じる役者一人の演技だけに、ロボットらしさを背負わせない。周りのダンサーの何本もの手や足がロボット役の体に沿ってうごめき、役者の動きより一瞬早い命令系統の流れを、しなやかに表現してみせる。こんなの、見たことない!どうすればこんなことができるの? もうやみつきになって、ゲジヒトがシャツを着るシーン、20回くらい繰り返されてもいいと思った。
 
 そして気が付いたのだけど、ダンサーたちの動きは、マンガの表現を舞台の表現へ転化した稀有な瞬間。これまでもマンガ原作の舞台は数々あれど、原作のストーリーと人物の性格を写し取ろうとしたものばかり。でもこの『プルートウ』は、ストーリーだけじゃなく、マンガの表現を、舞台の表現に転化しようとして、成功しているのよ。
 マンガの、人物の外側の空間がゆがんだり暗くなったり、心の中のきしみが擬音となって(ゴゴゴゴーッとかボボボボーッとかゾワゾワとか、etc)飾り文字で描かれたり、マンガ独自の表現があるでしょ?人物の絵以外の部分が実はとても重要。そこのところを、ダンサーが担って表現してるの!こんなこと初めてよ。シェルカウイ、すごーい。
 
 圧巻はアトムが空を飛ぶ(当然だ、アトムなんだから)ところ。アトムが飛ぶシーンはね、「アトムになったつもりの3歳児をお父さんとお母さんが持ち上げて飛ばせてあげる」みたいな、超ベタなやり方なの。それなのに、森山未來とダンサーたちがやると、ホントにバビューンって飛んでいくんだよー。同じ人間とは思えない。
 巨大ロボットプルートウも、ダンサーたちが操るんだけど。『戦火の馬』のパペットに負けてなかった。死んでいくプルートウがひどく悲しそうに見えた。
 
 役者さんたちはみんなよかった。特に、もちろん森山未來、本領発揮。そして、テレビの演技があまり好きじゃないのでどうかしら、と思っていた土屋太鳳が、顔じゃなくて体全体で演技するととても魅力的なことに気づいた。

 少しばかり冗長なところがあると思ったけれど、それは芝居のせいというより、原作のせいなのではないかしら。『プルートウ』は読んでないけど、浦沢直樹のほかの作品はどれもちょっとずつ冗長だとマダムは感じたおぼえがある。溜めがありすぎるの。そこが好きって人もいると思うけど。
 そういう意味でも、実に原作に忠実な、画期的な舞台だった。
 

カウリスマキの『希望のかなた』

 年末から公開だったんだけど、角川シネマ有楽町での最終上映にやっと行ってきた。1月12日(金)夜。

『希望のかなた THE OTHER SIDE OF HOPE』2017年作品
監督・脚本/アキ・カウリスマキ
出演 シェルワン・ハジ サカリ・クオスマネン イルッカ・コイヴラ
   カイヤ・パカリネン サイモン・フセイン・アルバズーン ほか

 カウリスマキを映画館で見たのは『マッチ工場の少女』以来なので、20年ぶりくらいかもしれない。もっとかしら。映画を映画館で見なくなってしまっていたから。
 
 シリア難民の青年カーリドが、流れ着いたヘルシンキで難民申請を却下されながらも、ヘルシンキの街に紛れ込み、生き別れの妹を探して、生きていこうとする物語。
 『マッチ工場〜』を見た頃は、小津をはじめとする日本映画の後継とさえ思えるほどの、淡々としたタッチと残酷なくらいドライな視線に、一気に引き寄せられたものよ。今もそのタッチは健在で、最近の日本映画からは失われてしまってる「台詞がない時間が多くを語る」のが、マダムにとってはたまらない魅力。
 残酷なくらいのドライさは少しだけ弱まり、温かさを増している気がするのは、難民を主人公にしているからなのか。それとも年を経て、監督自身が変化したのかな。
 難民であることは、なにも特殊なことではなく、その境遇に置かれたら誰だって、このように戸惑い、逃げ、人を頼り、悲しむだろう。なにも私たちと違うところはない。どこにでも優しい人もいるし、憎む相手を探しているような人もいる。そのことを淡々と、ユーモアを持ち、しかしドライに描いていた。
 最終日とあって、夜遅い開始時間なのに、座席は結構埋まっていて、カウリスマキの時間を一緒に共有することができ、同じ箇所を笑って、幸せだった。家でDVDを見るのも同じ映画なのに、何倍も幸せだね。

新年のご挨拶

 あけましておめでとうございます。
 今年も当ブログをよろしくね。

 昨年暮れ押し迫って、1年間に観た芝居の数を数えて、絶句したの。
 子供の受験やら引越しやらがあったから、本格的に観始めたのが5月からなのに、こんな本数。マダムの生活パターンから言って、これがマックスだと思うのね。宝くじでも当たって仕事を辞めない限り、これ以上は無理。
 それに、すべてのレビューを書くことをずっと自分に課してきたんだけど、もう限界だなあと悟ったの。実際、書けずに終わった芝居もあるし。
 言い訳じゃないんだけど(ていうか誰に言い訳しなきゃいけないわけでもないんだけど)、マダムは芝居を紹介するために書いてるんじゃないの。だって仕事じゃないんだもん。芝居に突き動かされた心の中や脳の中を提示したくて書いてるの。だからつまらなかったり、楽しかったけど別に心までは動かなかった時、書く意欲が湧かないこともあって、辛いの。
 一方で芝居以外のこと、例えば読んだ本のこと、マンガのこと、映画のこと、日常のことを書く暇がなくなってしまって、それも不満だったの。観劇+α日記なのにね。
 マダムは面白い文章が書きたいのよ!
 去年で言えば、『スパイに口紅』や『薄い桃色のかたまり』の時や、『アテネのタイモン』稽古場レポートのときみたいに、乗りに乗って、そして突き動かされて、書きたいの。
 自分で勝手に課しといて、自由が欲しくなった勝手な奴だわね。

 というわけで、今年は、観た芝居のすべてのレビューを書くことは諦め、書きたい時だけ書くことにするね。観たデータは全部載せるので、レビューがなくてもコメントしたくなったらしてください。感想など質問してくれたら、それには応えますんで、よろしく。
 
 直近で一番期待しているのは上村聡史演出、岡本健一主演の『岸リトラル』。そして今年は新国立で鵜山仁演出、浦井健治主演の『ヘンリー五世』があるので、予習も含めてみんなで取り組みましょう! 秋には中川晃教主演の『ジャージー・ボーイズ』の再演もあるわ。楽しみだー。
 それでは、今年も観劇にうつつを抜かせるような、まっとうな世の中でありますように。マダム ヴァイオラをよろしくお願いいたしまする。

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