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2017年11月

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その2

 その1をアップしたらすぐ、皆さんから反応をいただきまして、記録係が演出家の隣にいるスタイルは広く行われているみたいなのですね。四季の浅利慶太さんは、そのメモを記録係の女優さんに読み上げさせた、とか。

 
 40分を越えるシーンを終えて、「ではダメだしをしよう」と言って鋼太郎さんは初めて席を立ちました。周りにびっしりと役者さんが集まって、ダメだしを聞きます。私の場所からはところどころしか聞こえなかったのですが、それは「ダメ」を「出す」という否定的なものじゃなくて、演出家のイメージを説明し、そのイメージから外れる部分を修正する、という感じでしょうか。アペマンタス役の藤原くんとは特に時間をとって話されていました。
 
 休憩のあと、同じシーンを始めから繰り返します。
 今度は、途中芝居を止めて、台詞や立ち位置を直しながら進んでいきます。アルシバイアディーズが去って、哲学者アペマンタスが登場してきました。
 藤原くんがこれまでシェイクスピアでやってきた役は、直情型で朗々と喋る役が殆どでしたが、今回の捻くれた哲学者はちょっと勝手が違います。一回目の通しの時は、まだ手探りな感じでした。でも二回目は、ときどき芝居を止めて、鋼太郎さんが自分の代役の長谷川さんの台詞まわしを直します(鋼太郎さんがタイモンの台詞を言うと、やはり全然違って、圧倒的です)。そうすると藤原くんもそれにパッと反応して口調が変わります。会話が立体的になり始める瞬間が見えて、ドキドキしました。
 だいたいこのシーンは、タイモンの長い長い台詞があって、アペマンタスがそれに茶々を入れるみたいな会話なので、はじめにタイモンありきなところがあるんですね。鋼太郎さんが長〜い台詞の、ここはこういう気持ち、これをきっかけにその気持ちが冷め、次のこの辺りから狂った状態に戻る、みたいな、タイモンの揺れ動きを一気に説明されたときには、私はもう唖然。へええええー、そうなのかー、と。小田島訳と松岡訳の両方を読んでいったのに、そんなこと何一つ読み取れない自分の凡人感にハンパなく満たされた瞬間でした。
 
 そしてシーン最後に登場するのが執事フレヴィアスです。横田さんが現れた瞬間、場の空気がガラリと変わり、もうフレヴィアスそのものでした。台詞を言い始めたら、言わずもがなです。上手いわ〜って心の中で感嘆しました(すみません。このような上から目線の言い方で。でも、本当にそう思った。うそはつけません)。そしてこのシーン、鋼太郎さんと二人でやるんだーと思ったら、ちょっともう、たまりません。稽古なのに、すでに感無量な私。
 鋼太郎さんと横田さん、そして藤原くんがシェイクスピアでがっぷり四つに組む瞬間を、私はずっと待っていましたので。共演はされていても、役によっては一緒のシーンがないことも多いし、火花散る会話のやり取りはずっと見られずにきましたが、とうとうその日が来るんです!
 
 すっかり興奮してしまいました。主演俳優が演出を兼ねる時、どんなやり方をするのか、についてちゃんと分析したかったのですが。途中から完全に観客になってしまって、冷静さは吹き飛んでしまったのでした。
 この日の稽古は、2時ごろから始まって、4時間あまり。まばたきも忘れるほど集中して見学しました。役者さんたちも、自分の出番がない時は、長机の側に座って、食い入るように稽古を見ていました。静かだけど熱と活気、そして朗らかさ溢れる稽古場でした。
 さて、鋼太郎さんはいつから役者の側に立たれるのでしょうか?「あと少し経ったらね」とおっしゃってましたが、そこをまた、見たいものです。再度、見学がかないましたら、また皆さんにご報告したいと思います。

『アテネのタイモン』稽古場見学日記 その1

 さいたま芸術劇場で12月に上演される『アテネのタイモン』。稽古場見学に行ってきました!
 日本のシェイクスピア俳優の80%(マダムヴァイオラ社比)が集合している稽古場を見学できるなんて・・・興奮と緊張のあまり、朝から肩凝りしてしまう私。
 見学日記を書くにあたりいつもの「敬称略」ではとても書けないので、役者さんのことは、私がふだん心の中で呼んでいる呼び方を使わせていただきますね。失礼があったらご容赦を。

 

 11月25日(土)午後、さいたま芸術劇場の大稽古場に、伺いました。
 大稽古場は、前の廊下を歩く時チラッと中が見えたことはありますが、入るのはもちろん初めてです。
 足を踏み入れると、聞きしに勝る広さです。大劇場の舞台プラス袖くらいの面積と、高い高い天井。片側の壁はいちめんの鏡張りになっています。床にはラインが引かれていて、緞帳が下りてくる位置や、センターの位置、上手と下手の切れる位置などが全部わかるようになっています。劇場と全く同じ立ち位置で稽古が出来る、故蜷川御大自慢の稽古場です。
 片側にずらりと長机が並んでいて、スタッフの方達が腰かけていました。真ん中に一つだけ木製の机があって、いかにも演出家の席、という感じでしたが、鋼太郎さんはそこには座らず、一つ奥に座ります。あとで伺ったら、この木製の机は故蜷川御大の席なのだそうです。今も、御大の魂は稽古場にあるよ、ということなのでしょう。
 
 今回見学するにあたり、私がいちばん知りたかったのは、主演俳優が演出を兼ねる場合、いったいどんなやり方で稽古するのだろうということでした。
 私は以前にも一度、鋼太郎さんの稽古場を見学したことがあります。劇団AUNの『十二夜』の稽古場でしたが(レポートは→ここ )、そのときの鋼太郎さんの役はマルヴォーリオで、重要な役ではあるけれど、主役ではない。今回のタイモンに比べたら、台詞の量も出演時間も、ずっと少なかったわけです。タイモンはほぼ出ずっぱりだし、いったいどうするんだろう、と興味津々だったのです。

 4幕3場をやります、というアナウンスがあって、役者さんたちが衣装をつけて舞台に集まり始めました。AUNの長谷川志さんがタイモンの代役で、衣装をつけ、現れたので、なるほど、と思いました。彼はAUNの若手公演の演出を手がけたこともある人で、『十二夜』のときも鋼太郎さんの代役をされてましたから。
 一回通してみよう、と鋼太郎さんが声をかけ、稽古が始まりました。
 始まって、いきなりびっくりです。長谷川さんがタイモンの台詞を全部憶えていたのにも驚きましたが、その台詞まわしが鋼太郎さんにそっくりだったので。シェイクスピアの台詞を客に伝わるように喋るにはこうする、という吉田鋼太郎イズムみたいなものが浸透しているのに感心してしまいました。海外の舞台でいうところのアンダースタディというのは、こういう存在なのでしょうか。
 4幕3場は、無一文になったタイモンが森の洞窟で隠遁しているところへ、以前の知り合いが次々やってくるシーンです。最初に武将アルシバイアディーズが現れます。カッキーはスレンダーな青年なので、武将ってどうなのかしら?と思っていましたが、軍服姿がメチャ格好いい! 怜悧な武将という感じ。そして後ろに屈強な兵士たちが控えているんですが、谷田さんや河内さんが甲冑を着けて睨んでいると迫力十分です。むき出しの腕の筋肉に、つい目がいってしまいますね。贅沢な配役です。
 アルシバイアディーズが去った後、哲学者アペマンタスが現れ、そのあと執事フレヴィアスが現れて、タイモンと物別れになるこのシーン、続けると40分以上になります。まず通してみると言った通り、鋼太郎さんは一度も芝居を止めず、片時も目を離しません。そして気がついたことがあると、目は離さないまま、次々口に出します。「今のところもっと早く出て」とか「今の台詞、縮める」とかそういったことを鋼太郎さんが小声で言うと、それを隣にぴったり張り付いている記録係の人(いちばん若い女優さんでしょうか?)が台本に付箋をつけてどんどんメモしていきます。鋼太郎さんは自分でメモしたり台本に目を落としたりはせず、稽古する役者さんたちから目をそらさないのです。はー、なるほどー、と私は心の中で何度も言ってました。(これが当たり前のやり方なのかどうか、私にはわかりません。鋼太郎さんの稽古しか見たことがありませんから。)

 通しが終わると、役者さんたちを集めて、さっきメモしてもらったことを含め、長いダメだしがありました。それを受けて「もう一度やってみよう」といって始まった次の稽古が、ちょっと凄かったんですが、長くなりましたので、その2で書くことにします。

『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』を観た

 三軒茶屋通いが続く。11月18日(土)ソワレ、世田谷パブリックシアター。

シス・カンパニー公演『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』
作/トム・ストッパード
翻訳・演出/小川絵梨子
出演 生田斗真 菅田将暉 林遣都 半海一晃 安西慎太郎
   松澤一之 立石凉子 小野武彦  ほか

 トム・ストッパードを脚本家たらしめた有名な戯曲なのだけれど、日本で上演されることは滅多にない。評判の高かった鵜山演出の古田新太VS生瀬勝久版は、残念ながら見逃してる。
 マダムが観た(はずな)のは、1985年の出口典雄演出。矢崎滋VS角野卓造という組み合わせだったのだけれど、記録が手元になく、ほとんど憶えていないという体たらくなの。マダムの記憶のどこを掘り返しても、この二人以外の登場人物はなかった気がするし、それがほんとなら、随分とホンをカットしていたことになる(そんなわけないよね〜。憶えてる方いますか?)。残っている印象は、角野卓造の演技が固かったことくらい。
 まあ、この芝居を楽しむための素地が、当時のマダムにはまだなかったということなのでしょう。
 
 これ、ストーリーを説明しようとすると、『ハムレット』から説明しないといけないので、やめます。知りたい人はどこかで調べてね。ごめーん。

 

 『ハムレット』のスピンオフだと考えていたら、ちょっと違ってたの。
 スピンオフっていうと、外伝のイメージ。元のお話とは違うところが思い切り膨らむんだと思っていたのよ。
 ところが『ロズギル』は膨らまない。『ハムレット』の枠から外へは一歩も踏み出さない。そしてそれこそが、この戯曲の醍醐味で、すごいところ。
 だから『ハムレット』を別の切り口で観る、というのに近かった。マダムのいる客席と、舞台を挟んで反対側(ホリゾントのある方)に実はもう一つ客席があって、そっちでは『ハムレット』が上演されている最中なんだと考えると、腑に落ちる。
 『ハムレット』の舞台は向こう側でもう、始まっているのだろうけれど、ローゼンクランツ(生田斗真)とギルデンスターン(菅田将暉)は、とにかく暇を持て余している。『ハムレット』の中では出番がメッチャ少ないし、待ち時間ばっかりなの。そもそも何を待っているのかも定かでない。出自や性格や背景などの人物設定がほとんど与えられていない二人なので、過ぎていく時間の中身も薄い。自分たちが何のために呼び出されたのかいまひとつわかっていないし、あとどれくらい待てばいいのかも、この先どうすればいいのかも、さっぱりわからない。でも勝手に離脱する自由は彼らにはないの。『ハムレット』には彼らの運命が全部書かれているので、そこからはみ出ることは許されない。それでひたすら暇つぶしで、コインを投げては裏表を当てるゲームをしているんだけど、ロズはずっと表に賭け、ギルは裏に賭けて、ギルは負け続けている。ただただ、不条理。
 その「薄い」中身しかないロズとギルの暇つぶしの会話がとてもおかしくてたくさん笑った。真面目に思い悩むタイプのギルと、なんでもホンワカと受け止めて流されがちのロズ。特にロズ役の生田斗真、マダムは初めて見たんだけど、正統派のイケメンぶりを捨て去って、垂れ目でニコニコしながら流されていく優しくも情けないロズを演じきってて、感心した。一方のギル役の菅田将暉は、今いちばん人気のある役者らしくオーラがハンパなかったのだけれど、全体を通して一本調子になりがち。セリフは早口だけど全て聞き取れて凄いなと感心はしたものの、ギルの気持ちの変化は受け取れなくて、このホンを演るのはまだ難しかったかな、という印象。
 そう。笑って楽しく観たものの、これは難しい芝居だと、後で考えれば考えるほど、思うわ。ストッパードといえば何年か前の『アルカディア』も難物だったんだけど、同じように噛みごたえがある。
 
 たぶん、二人の会話を面白がって見ているうちに、ドラマチックな『ハムレット』の主役たちと比べ、ロズギルが陥っている状態は主体性を奪われた、なんて非ドラマチックな人生なのかってことが、浮かび上がってくるのね。死ぬ時だってハムレットの方はかっこよく「あとは沈黙」なんて言っちゃうし、その死はホレイショーのセリフによって語り継がれていく。でもロズギルは、聞き伝えで「死んだそうです」の一言で片付けられちゃう。どんな死に方だったのか、最後に意味のある言葉を残したのかも書かれてないから、ただ彼らに当たってる照明がフッと消えて終わりなの。
 その非ドラマチックなロズギルが、まさしく客席にいる我々そのものだってことに苦々しく気づく・・・ところまで行ったら素晴らしいんだけど、今回の舞台はそこまでは至らなかった。
 垣間見える『ハムレット』側の登場人物(クローディアスやガートルードやオフィーリアやポローニアス)がロズギル側に近い緩〜い描かれ方だったのが、ちょっと疑問。あっち側がパロディっぽくなく真剣そのもので時を生きてこそ、ロズギル側の時間の意味のなさがくっきりするのではないのかな?
 でも、ハムレット(林遣都)はとてもよかった。生き生きしていて。ロズギルに対するハムレットの容赦なさにもスポットが当たって、なるほどと思った。出番は少なめだけど、いちばん目立って美味しい役だわ。
 それと旅の一座の座長(半海一晃)が、上手い〜。座長は『ハムレット』側でもあるし『ロズギル』側でもあって、その外側から全てを客観的に見ているような不思議でちょっと怖い存在。キラキラ光る眼がなにもかもを見通すようで、引き込まれた。
 
 『ロズギル』はホントに、凄く凄く面白いホンだよ〜。これを機に、もっと上演されるといいな。
 今回はマダム史上稀にみるチケ難に襲われ、一度は観劇を完全に諦めたの。あれほど高額でチケットが売買されているのに怒り心頭でもあったし。正規の値段以上びた一文払うもんかと思っていたので、見られないことはほぼ確定だったわ。でも、諦めた、諦めたって何度も騒いでたら、周りがとても気にかけてくれて、最後の最後に友人の友人からチケットが回ってきたの。お礼を申します。ありがとうございました〜。
 今後も、どれほど観たい舞台であっても、高額チケット売買に加担することだけはしない。そこんとこ、強調しておきますわ。製作会社も何か対策を考えてよね。
 

『散歩する侵略者』を観る

 早く観たくてソワソワしていた。11月11日(土)マチネ、シアタートラム。

イキウメ『散歩する侵略者』
作・演出/前川知大
出演 浜田信也 安井順平 盛隆二 大窪人衛 森下創
   内田慈 松岡依都美 板垣雄亮 天野はな 栃原楽人

 傑作だ〜。
 観終わって、身も心も作品世界と一体化してしまい、幸せで・・・全然ブログが書けずにいたの。脳の客観性が、とろけてしまったらしくて。
 つまりマダムの客観性をもとろかすような、舞台だったのよ。
 
 これから観る人は、絶対読んじゃだめよ。
 


 イキウメファン歴は自慢できるほど長くはないんだけど、マダムの知る限り、イキウメの芝居はどれも、人間と異人種がせめぎ合う。
 今回は、「宇宙人」が侵略してくる話。地球を侵略する前にまず、地球人について情報収集するため、スパイを送ってくるの。
 だけど、宇宙人には形がなくて、こっそり生き物の身体を乗っ取って活動する。はじめ金魚の体を乗っ取った宇宙人は、すぐ間違いに気づき、金魚を掬った人間の身体へ移動する。脳も乗っ取っているから、乗っ取られた人間の記憶もそのまま。言葉も使える。だけど、言葉が意味する「概念」については未知。そこで宇宙人は地球人から「概念」を学び取る。概念を吸い取られた人間は、その概念を失ってしまう。「家族」の概念を取られたら「家族」がなんだったかわからなくなるし、「禁止」の概念を取られたら「禁止」することができなくなるし。取られた概念によっては、社会生活が続かなくなるの。
 出てくる宇宙人は三人。真治(浜田信也)と天野(大窪人衛)とあきら(天野はな)は、それぞれ別の場所で身体を乗っ取り、街をうろつきながら出会う人間から概念を収集したり、人間の体を探求しようとして包丁を刺してみたり、人間をガイドにして手っ取り早く仕事を片付けようとする。
 なかでも真治は、何も知らずに「病気の」彼の面倒を見てしまう妻の鳴海(内田慈)と共に、この物語の主人公だ。
 いつの間にかイキウメの主演俳優へと成長した浜田信也の、人外感がすごくて。人の形をした謎の生き物そのもので、妻にとっては中身が完全に他人なのに結婚した記憶はちゃんとあるという、なんとも気持ち悪い相手。その気持ち悪さを過不足なく演じてて、ほんとに浜田信也に惚れ惚れする。
 最初は全く話の通じない真治が、散歩から帰ってくるたびに少しずつ話が通じるようになって、鳴海はだんだん彼に対する愛情を取り戻すようになってくる。この、概念をちょっとずつ奪ううちにだんだん人間らしくなっていくプロセスの、芸の細かいことといったら!役者の演技にも、それを引き出す演出にも、身もだえするほかはないわ。
 
 もちろん浜田信也のみならず、10人の役者がすべて素晴らしくて褒めていると終わらないので、あと一人だけマダムが絶賛するとしたら、大窪人衛ね。彼は、最初から最後まで変わらない宇宙人らしさで、すごく怖いの。得体の知れなさが体から顔から声から、わらわらと染み出してる。もう、大好きだ。
 
 話は宇宙人たちが三者三様に情報収集を行い、やがてお互いを探し出して集合、というところへ進んでいく。その間に、概念を奪われた側のことも描かれるの。鳴海の姉は「血縁」の概念を取られて鳴海との関係がわからなくなってしまうし、医師は「禁止」の概念を取られて面会「禁止」を解いてしまうし、「所有」の概念を奪われた男は徹底した平和主義者になって、反戦運動を開始する。そのあたりはシリアスでもあるけど、笑っちゃうところもたくさんあって、テーマが壮大であるにもかかわらず、フランクに楽しんで観ていられるの。
 
 そして、どんどん洗練されていく舞台美術、舞台効果。舞台の真ん中に小さな坂があって、その上と下と、坂の下に亀裂が入っていて、亀裂の中と外、というふうにさりげなく空間を分け、照明の当て方一つで場面転換し、同時進行もできる。ホリゾントには美しい海や地球や月が現れ、一瞬の時間も途切れることなく、密に芝居が進行する。空間の使い方が見事で、うっとりしてしまう。
 
 圧巻はラストだ。
 あらゆる概念を学び取ってほぼほぼ人間らしくなった真治が、鳴海と別れて宇宙へ帰ることを告げ、鳴海は絶望する。真治と別れたくなくて。一方の真治は、その鳴海の気持ちが理解できない。というのも、彼にはまだ収集できなかった概念が残っていたから。それを、鳴海は自分が真治に「あげるよ」と言う。真治がいなくなるのなら、もういらないから、と。迷いながら、真治は、それを奪う。
 「愛」の概念を奪われた時、鳴海は静かに笑っているだけだ。
 が、奪った真治は、受け取ったものの巨大さに泣き叫ぶ。崩れ落ち、泣き叫び、鳴海を抱きしめる。そこにはもう、「宇宙人」の姿はない。人間になった真治が崩れ落ちている。
 人間を人間たらしめている最後の概念は、愛だった、という結末に、マダムは泣いた。
 

 役者は年々演技に磨きがかかり、ホンも演出ももはや向かうところ敵無し、圧倒的な完成度の劇団ね。このままずうっと行ってほしい。

 

終わり良ければすべて良し? イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『オセロー』

 来日公演って短い。当然ブログは間に合わない。11月3日(金)ソワレ、東京芸術劇場プレイハウス。

トネールグループ・アムステルダム『オセロー』
作/ウィリアム・シェイクスピア
演出/イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演 オセロー=ハンス・ケスティング  デズデモーナ=ヘレーヌ・デヴォス
   イヤーゴー=ルーラント・フェルン・ハウツ  エミリア=ハリナ・ライン
   キャシオー=ロベルト・デ・ホーフ
   ロダリーゴー=ハルム・デュコ・スヒュッツ ほか

 
 オランダ語の上演だったので、勿論、字幕付きだったのだけれど、これがあんまりうまくいってなかったの。あきらかにズレズレなところが沢山あったし、字幕に出しきれなくて省略してるんだけど、しすぎてわけわからなくなってたし。
 話は「オセロー」なんだから、みんなわかるでしょ、ってことかもしれないが、本を切ってあるし、やっぱり「このセリフでこの表情!」みたいな瞬間、わかりたい。英語なら少しはわかるかもしれないところ、オランダ語では手も足も出ないのだった。悔し〜。
 一方でオランダ語の、独特の四角張った硬い響き(ドイツ語に近い)でシェイクスピア、というのがとても新鮮だったわ。
 
 
 幕が開くと、舞台は青いカーテンで三方を覆われた広い空間で、オセローとイヤーゴーが半裸で、ソファに身を投げている。ジムの中のサウナ、みたいな感じ。空間は広いのに、空気が重く圧迫感がある。戦いが終わった開放感や、デズデモーナという若くて美しい伴侶を得た喜びとかが、感じられない出だし。もちろん、自分が愛を勝ち得たのだ、みたいなセリフはあるんだけど、一方でデズデモーナのことを「戦利品」と言い、それが例えじゃなくて当然のようににそのつもりなのが、態度のあちこちに見えるの。
 不気味な効果音のような音楽(いや、音楽のような効果音?)がずっと流れていて、その使い方が舞台というより映画の劇盤みたいだった。
 出てくる男たちは全員軍人で、現代に置き換えられているので、きっちりネクタイを締めた軍服を着ている。そうじゃない時は裸。両極端。仕事かセックスしかない。生活ってものが全く無い。舞台が殺伐としてた。
 本を大胆にカットしてあって、話がどんどん進むので、いつも以上にオセローの只ならぬ愚かさが露呈して、いつも以上に呆れるマダム。
 オセローを白人俳優が演じ、他の男たちと違いがわからなくて戸惑った。セリフでは「ムーア人」とか「アラブの出」だとか出てくるけど、オセローとイヤーゴーの人種の違いとか、底にながれる差別感情とかは、正直、感じることができなかった。パンフレットによれば「アラブ系にルーツがあるオセローは外国人なので、周りで起きていることを全ては理解できず、疑念がイヤーゴーによって膨らんでいく」とのことだったんだけど。マダムはからきし受け取れなかった。その微妙さを受け取るには、オランダ語を理解できなければならなかったのかしら?
 
 新しいと感じたのは、デズデモーナの造形。
 小さくて華奢でショートカットのデズデモーナ。妖精みたいに身軽で、無邪気にオセローの周りを跳ね回ってる。オセローとの体格差がすごくて、巨人と小人のよう。片手で持ち上げられ、ひょいと投げられる。オセローの愛を無邪気に信じすぎ、口を出しすぎてしまう。

 イヤーゴーも、日本で上演される時の「色悪」のイメージは皆無。悪の魅力とかは全然無く、ただの悪い中年男。そして、自分を差し置いて出世していくキャシオーに対して、嫉妬しているようには見えない。何もかも気に入らなくて、ただ滅茶苦茶にしたいだけの人、に見えた(いるよね、そういう奴)。
 
 途中の場面転換で、巨大な青いカーテンが一斉に外れ、それが風にあおられて舞台上を舞う中、後ろから大きなガラスの箱(オセローの寝室)がゆっくり現れた。日本の舞台では見たことのない種類のセンスで、度肝を抜かれたわ。
 でもそれ以外は、前半ずっと同じトーンだし、字幕がズレズレだし、いまひとつ 乗れず。このまま行ったら、寝るな、と思ったの。初日なので、関係者っぽいおじさんが多数客席にいたけど、前半終わったところでゾロゾロ帰って行った。でもね、マダムは前半が面白くなかったからって、帰ったりはしないよ。後半何が起こるかわからないじゃない?
 事実、衝撃のラストに向けて、盛り上がった。
 
 全ての条件が出揃って、あとはオセローがデズデモーナに手をかけるだけとなったところで、不気味な音楽が鳴り響く中、やや後方に位置していたガラス張りの寝室がどどーっと前に進んできたの。寝室内の大きなベッドには、半裸のデズデモーナがすでに眠っていることを、観客は知っている。さあさあ、おたちあい!という演出家の声が聞こえるよう。寝室に入ったオセローは軍服を脱ぎ、パンツ一丁でベッドの脇に立ち、眠っているデズデモーナを冷たく見下ろす。獲物を見つめるハンターのよう。妻を殺さなければならない苦しみが、感じられない。
 その状態フィックスのまま、なんと寝室の方の照明が消え、舞台後方に光が当たると、そこでは台詞なしの寸劇のように、ロダリーゴーがキャシオーを殺そうとして失敗したり、キャシオーの情婦が殺されたりする。パントマイムによる舞台説明みたいに、その辺りの顛末が済んでしまい、あっけにとられた。前方ではデズデモーナを見下ろしたオセローの姿がシルエットで立ち尽くしている。
 そして寝室上の照明が再びつくと、フィックスが解けてデズデモーナ殺しの場面になるのだけれどこれはもう、舞台上の型とかお約束とかは一切なしの、まごうかたなき殺人そのものだった。逃げ惑うデズデモーナを捕まえて、枕を押し付けて窒息死させるの。
 そのあと駆けつけたエミリアの叫びと、追いかけてきたイヤーゴー(何故か半裸。寝室から来たから?)によるエミリア殺害まで、徹底して女を見下した扱いだった。
 女たちは殺されて半裸で転がっているのに、オセローは自害するため、ゆっくりと軍服を着るのだ。そしてナイフを首に当てるとき、傍では軍服姿の部下が敬礼している・・・。
 
 緑色の目をした嫉妬という生き物がオセローを狂わせ苦しめる、そういう物語だと思ってきたのだけれど、このホーヴェ演出では色々と切り口が違っていた。
 人種差別的な切り口については、最初に言ったようにマダムは感じられなかったけれど、それよりも圧倒的な、女への差別が描かれていたのよ。
 オセローのデズデモーナ殺しは、嫉妬というより、自分を裏切った女への粛清だったし、イヤーゴーのエミリア殺しも、お喋りの口を塞ぐためではなく、自分に刃向かったからのように見えた。
 オセローのデズデモーナへの愛し方は、ペットへのそれであって、同じ人間の愛ではないの。
 そしてイヤーゴーの悪事のモチベーションは、自分よりキャシオーを重く用いたことへの仕返しではなく、オセローの愛をデズデモーナに奪われたことへの復讐にしかみえなかった。
 緑色の目をした嫉妬という生き物にいちばん取り憑かれていたのは、イヤーゴーだったということかしらね?
 
 
 『オセロー』って、四大悲劇の中でも一番にがてだ。オセロー、バカすぎる。
 男はなぜ、自分がこうと決めたものしか見ないのか?それほど馬鹿なのか。何百年も前からずっとそうなの?どうして客観視できないのよ?・・・そう感じて、ため息をつき首を振る。
 でもすごいのは、そんな男のひとりでありながら、シェイクスピアは冷徹なまでに客観的だってこと。
 プルカレーテの『リチャード三世』に引き続き、刺激を受けた舞台だったわ。
 世界は動いてる。

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