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2017年10月

古強者向け プルカレーテの『リチャード三世』

 ネット上で見た舞台写真の魑魅魍魎感に、ワクワクしながら出かけて行ったわ。10月21日(土)マチネ、東京芸術劇場プレイハウス。

『リチャード三世』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/木下順二
演出・上演台本/シルヴィヴ・プルカレーテ 演出補/谷賢一
出演 佐々木蔵之介 手塚とおる 今井朋彦 植本純米 山中崇
   山口馬木也 河内大和 有薗芳記 壤晴彦 渡辺美佐子 ほか

 

 なかなか楽しく観た!
 一方で、稲妻は降りて来なくって、薙ぎ倒されることもなくて。でも満足、という感じかしら?
 どう書いてもネタバレは免れないので、よろしくね。
 
 
 たまたま客席の中に友人がいて、終わった後、話したんだけれど、二人とも開口一番「これ、話を知らない人にはさっぱりわかんないよね〜?」と言い合ったの。
 演出はルーマニアの凄腕演出家、プルカレーテ。欧米の人にとってシェイクスピアは勝手知ったる庭なのね。普通に散歩したんじゃ面白くもなんともないんだ、きっと。
 だからいろんな変化球がてんこ盛りだし、「こいつはこっち側の人間、そいつは敵対する人間、あいつは敵に夫を殺された妻・・・」といった登場人物の立ち位置(わかりきったこと)を示すために知恵をしぼるようなことはしない。したがって、シェイクスピアに詳しくない人、あるいは芝居を見慣れてない人にとっては、話は追えなかったでしょう。事実、マダムのすぐ近くにいた、紳士にエスコートされてきた本物のマダムな方は「参ったわ〜。疲れた〜。どういう話なの?」と紳士を責めていた。紳士が気の毒。
 マダムはさすがにリチャード三世に関しては古強者の方に入るだろうと思うので、お話が理解できないなんてことはなかったんだけど、こういうのって、やっぱり影響がある。客席全体が固唾を飲んで見つめている時は、すごいエネルギーが生まれるし、それを受け止めた演者側が更なるエネルギーを放出して、いい循環が生まれる。でも、客席の4分の1か5分の1かが、ついていけずに戸惑ってたり寝てたり飽きてたりすると、不思議と、理解して見ている客のテンションもじわじわ下がってきてしまうのよ。
 
 だから一番良かったのは、幕開き。出だしが素晴らしいの!
 開演前にちゃんと幕が降りてる舞台って最近、珍しい気がした。ぴったりと降りた幕がスルスルと上がっていくと舞台は、城壁模様の高い高い垂れ幕に三方囲まれ、一面に緑がかった人工的な照明が当たり、ホーンセクションの生音に合わせて、大勢の男たちが体を揺らしている。みんな白いシャツに細身の黒いパンツ姿で、役を表すような衣装はなく、手にはシャンパングラス。くねくねと踊る姿が、カッコよくもありそうとう気色悪くもあって、マダムは「なにこれ〜?‼︎」と目を見張ったの。つかみはバッチリ。
 するとその中から「今や我らが不満の冬は去り・・・」というリチャードのセリフが聞こえてきて、ゆっくり現れたグロスター伯リチャード(佐々木蔵之介)は、せむしでもなく、足も曲がってなくて、すらっとしたいつもの佐々木蔵之介のまんまなのだった。そして饗宴のさなか、いつの間にか、踊っていた中の一人が手錠をかけられて連行されていく。二番目の兄クラレンス公ジョージだ。
 こんな風に、シーンとシーンは合体し、あるいは飲み込まれ、省略され、混じり合ってる。衣装も人を食った仕掛けになっていて、リチャードの足は、出てくるたびにいろんな曲がり方で、それに合わせていろんな杖をついているし、背中のみならずお腹までこぶができているときもあれば、本当のプライベートのときはまっすぐな体だったりする。これってつまり、リチャードが公的には不具を装っている、ってことだよね?
 女役の役者たちは皆、一応ドレスなど着ているので女とわかるんだけど、かつらはなくて、アン(手塚とおる)もマーガレット(今井朋彦)もエリザベス・グレイ(植本純米)もヨーク公夫人(壤晴彦)も、いつもの素顔。それなのに、なぜか皆、究極の色気のようなものを纏っているの。アンなんて、本当にいつもの手塚とおるなのに、なぜ女の色気が匂うのかしら。今井朋彦もなんだか美人だし。おかしいでしょ。どういう仕掛けなの。
 こんなに凄い女役メンバーなので、女たちだけで散々嘆き合うシーンがあっさりカットされてたのはちょっと残念だったんだけど、それにはワケがある。
 思うに、女たちのシーンに代表されるような、嘆きとか、情の入り込む余地のある箇所は、容赦なく切られていて、ただただ冷酷でスプラッターで乾ききった世界を作り出そうとしている演出なのよ。
 そして殺し方が怖い。バスタブに水を貯めるのに始まり、てらてらと光るビニール袋やチェーンソーが、めちゃくちゃ怖い。殺しは見えないようになってるんだけど、そのせいで何倍にも想像が刺激されて、見えないのに顔を背けるくらい。で、そのあとを無表情でモップかけてる掃除係の姿も恐ろしいし。
 従来の演出なら、最後の方に活躍する印象のケイツビー(河内大和)とラトクリフ(浜田学)が、最初からずっと舞台のどこかにいて、能面のような無表情でリチャードに付き従っているんだけど、怖いこと怖いこと。特に河内大和の存在感には圧倒されたの。体型が、腕や背中の筋肉が、そのままで演技になってる。彼の凄さは知っているけど、その彼をケイツビー役で使う贅沢さ。役にあまりにもぴったりなので・・・河内大和の代表作に数えられるかもしれないわ。
 
 後半、あの手この手に少し飽きが来て、さすがのマダムもちょっとダレかけたその時!とんでもないシーンが現れた。
 追い詰められたリチャードが戦場で夢を見るシーンがあるでしょう?自分が殺した人たちの亡霊が次々現れるところ。
 その前から、もう舞台には佐々木蔵之介しかいなくて、全然、進軍でも戦闘でもなくて、ひとりでぶつぶつ言ってるだけなのね。普通のリチャード三世の運びではないの。広い舞台の前の方でひとり寝そべってるリチャード・・・そこへ周りの城壁模様の垂れ幕がぞわぞわぞわ〜と動き出すんだよー。背筋がゾッとする瞬間。
 垂れ幕がぞわぞわと2メートルくらいずり上がるとそこに扉がたくさん現れ、一斉に扉が開くと、そこにはずらりと並ぶ幽霊たち。いつのまにかホーンセクションも現れて、幽霊たちは一人一人マイクを持って歌いながら進み出て、リチャードに呪いの唄を浴びせるのよ〜。この唄がいいの。すこーんと明るく突き抜けた、開き直ったサラリーマンの宴会後のカラオケみたい。それで歌詞は「この世に思いを絶って死ね!」なんだもんね。もう爆笑。
 でも気がつくと、笑ってるのはマダムの周りでは、マダムだけだったの。
 
 この芝居はね、ものすごい積み重ねの果てに作られたアンチテーゼ、みたいな演出。それは違う、あれも却下、そこは逆転して・・・っていうふうに作った。
 で、却下された方をどれだけ知っているかが、楽しめる鍵なの。
 もちろん最初から、話じゃなくて佐々木蔵之介のいろんな姿が見たかった人も、それなのに楽しかったんじゃないかなぁ。
 渡辺美佐子演じる代書屋の存在は、演出家の言い訳のような気がして、マダムには邪魔だったな。

本物の迫力『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』スペシャルショー

 来日公演というものには、あまり行かないんだけれど、今回ばかりは駆けつけた。10月14日(土)マチネ、東急シアターオーブ。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』スペシャルショー
脚本/ション・キャメロン・ミッチェル 音楽・歌詞/スティーブン・トラスク
演出/ヨリコ ジュン 音楽監督/岩崎太整
出演 ジョン・キャメロン・ミッチェル 中村中

 そもそも「ヘドウィグ」なる芝居について、漏れ聞いたことはあったものの、最近まであまり知らなかったマダム。日本で上演されたもの(山本耕史とか森山未來とか三上博史とか)も未見。StarSや単独コンサートなどで浦井健治がほぼ持ち歌のように歌っている「ミッドナイト・レディオ」がとても良くて、それを、本家本元が歌ってくれるなら、聴いてみたい。ただそれだけの気持ちで、行ってみることにしたの。
 だから今回の公演について予備知識がほとんどなかったんだけど、「スペシャルショー」と銘打っているように、これはオリジナルの芝居をだいぶ端折って、さわりを説明するような構成。ただし歌の殆どは、本家本元のジョン・キャメロン・ミッチェルが歌う。だから勿論「ミッドナイト・レディオ」も歌ってくれて、そこはちょっと言葉にならないくらい、薙ぎ倒されたマダム。それだけで、来た甲斐があったというもの。

 もともとの芝居も、ヘドウィグが、ショーの合間合間に自分のことを物語る、という構成らしい。今回は、だいぶ端折っているものの、そこは基本同じ。違うのは、セリフを日本人の中村中に任せて、歌のところだけジョン・キャメロン・ミッチェル登場、としていること。
 でもそれは良いアイデアだったね。だって字幕を読みながらでは、到底ヘドウィグの複雑な人生を理解することはできそうもなかったし、歌の日本語訳の字幕は出ていたものの、プロジェクションマッピングと一緒くたになってて、よく見えなかったから。

 芝居を観たというより、芝居を紹介するショーを観た、という感じだったので、内容に感動したというよりも、『ヘドウィグ』という芝居を最初から作り上げたジョン・キャメロン・ミッチェルの本物感に、ただただ圧倒された2時間だった。
 わかったのは、このロック・ミュージカルの凄さは、なによりもヘドウィグという人物設定の重さ、というか深さなんだなぁ、ってこと。
 だって、ヘドウィグの生まれは、東ベルリン。大戦終了後の駐留米兵を父とし、東ドイツ人の母から生まれてる。若い時に、ゲイとして自分もやっぱり米兵と恋に落ちアメリカに渡るの。その時受けた性転換手術が失敗したから、「アングリーインチ」なんだよね。物語の中には、戦中のユダヤ人迫害の始まりの話も出てくるし、ヘドウィグの現在の恋人イツアークもザグレブの出身だったり・・・戦後の矛盾がギュッと押し寄せている人物(矛盾を体現しているゲイ)なのよ、ヘドウィグという存在は。
 
 マダムと同じ回を、浦井健治も観劇していたらしい。この役をやりたいと、考えているのかな?相当な覚悟がいるよね〜?
 本物を観たら、気楽に「やってー」とは言えなくなってしまったわ。
 ただ、いつかどこかで、今回みたいな短縮版ではなく、完全版『ヘドウィグ』の舞台を観たい。それは、本当に。

 

『オーランドー』を観る

 横浜まで行くなら、友人と一緒に限る。10月7日(土)マチネ、KAAT神奈川芸術劇場大ホール。

『オーランドー』
原作/ヴァージニア・ウルフ 翻案・脚本/サラ・ルール
翻訳/小田島恒志・小田島則子
演出/白井晃
出演 多部未華子 小芝風花 戸次重幸 池田鉄洋
   野間口徹 小日向文世

 書き始めるまでに1週間もかかってしまったのは、面白くなかったからじゃないの。
 実は・・・最後の一番大事なところで、ちょっと意識が飛んでしまって・・・なので、正直、困っててね。
 すごく適当なので、読み流してください。

 ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」を白井晃が芝居にすると聞いて、誰が出るとかはいいから、観ようと決めていたの。原作はちょっと難しい(意識の流れ、とかいう文体で書かれているのだよ)ので読んでないんだけど、1993年の映画『オルランド』(サリー・ポッター監督)の大ファンなので。その時の主役はティルダ・スウィントンで、中性的な魅力がたまらなかったのよ。
 白井晃が映画を知らないわけはなく、映画のイメージをきっぱり断つようなポップな衣装のポスターが、「とりあえず映画を忘れて見てくれ」と言っているようで。わかった、と心の中で頷いて、KAATに向かったの。
 でも、わざと映画のイメージから離れるようなポップな雰囲気は、はじめ強かったけれど、芝居が進んでいくと、それは落ち着いて行った。

 お話は、イギリス、エリザベス一世の時代に始まる。女王(小日向文世)に仕える小姓のオーランドー(多部未華子)は美しい少年で、女王は特にその脚の美しさを愛で、お屋敷や位を与えて、保護する。美しいから、当然モテモテだ。オーランドーは女王の寵愛を受けていることを百も承知で、若い女の子(ロシアから来ている踊り子)とも仲良くする、したたかで積極的な若者なの。
 踊り子とのデートが、凍ったテムズ川をスケートで下ってロンドンまで行くことなんだけれど、移動する桟橋みたいなセットの上で、二人が並んで脚を滑らせるだけなのに、疾走感があって、見惚れた。こんなふうに、シンプルなセットで、ちょっとした工夫と役者の動きで見せていく演出は、随所に見られて、興味深かった。
 踊り子に振られて失意のオーランドーは、王の(いつのまにか女王の御代ではなくなっている)命を受けて、海外赴任に赴く。そこで何日もこんこんと眠り続けたオーランドーは、目覚めて、自分が女になっていることに気づく。
 このシーンの多部未華子の裸の背中が美しかった。そこに長い髪が揺れていると、あー、女になったんだね、と観客も実感する、説得力ある背中。
 イギリスへ帰国する船の上で、美しいドレスに身を包んだオーランドーは、女になってもやはりモテモテなんだけれど、女になってみて初めて気づく。男であった時はなんと自由だったことだろうか、と。帰国し、様々な男に言い寄られ、恋に落ち、かわしながら、男であっても女であっても、自分の感じ方(心)は変わりないことが語られていく。歩んでいくオーランドーの後ろで、時間の方がどんどん先に過ぎていき、お話は遂に現代に至る・・・。
 
 映画ではたしか、エリザベス女王の「美しいお前は、そのまま歳をとらずに生きなければならない。死んではならぬ」という不老不死命令(?)があって、かしこまりました、って答えたからオーランドーは不老不死になった、というファンタジーのお約束があったの。でも芝居にはそういうお約束はなかった。原作にはないのかな? マダムとしては、そういうお約束があった方が、芝居の世界に入って行きやすいと思ったのだけど。
 オーランドー以外は時代とともにどんどん移り変わっていく人物ばかりなので、多部未華子以外はみんな、次々役を替え、コロスのような役割も担っていた。多部未華子以外って5人しかいないので、八面六臂の大活躍ぶり。特に小日向文世はエリザベス女王から、女に変わったオーランドーの夫となる色男まで、変化すること!芸域の広さと演技のしなやかさに感嘆したわ。
 大ホールの広い舞台の上に、板付の舞台装置は何もなく、大きなホリゾントに絶えず雲が流れていく映像が映っているのが、時をどんどん越えていく感をよく表していて、それはとても心地よかったね。
 
 いろいろ感じることはあったんだけれど、現代のところ(それはつまり原作にはない部分。なぜかといえばヴァージニア・ウルフがこれを書いたのは1928年だから)は動きがピタリと止まり言葉だけになって、そこがこちらに届きにくくなった。(寝た言い訳だろと言われればその通りだ・・・)結果として、薙ぎ倒されるような感動みたいなものはなかったのだった。
 見に行ってよかったと思うのは、いよいよ原作を読むべきだと確信したことかな。原作は世に知られている以上に大傑作なのではないだろうか? 時を超えるお話はいろいろあれど、男であることと女であることの本質的な違いがあるのか、をここまで追求した小説は、ないのではないだろうか? しかも1928年に書いているのだから。
 「意識の流れ」に立ち向かわなければならないわ。
 

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