最近の読書

« 2017年8月 | トップページ | 2017年10月 »

2017年9月

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その3

 マダムが岩松了を初めて見たのは、かれこれ35年くらい前になる。

 その頃、アクロバティックな演技とアナーキーな笑いに満ちた新興劇団だった東京乾電池。その新人俳優として、岩松了は渋谷のジャンジャンに現れた。弾けている柄本明や高田純次に押されながらも、新人らしからぬふてぶてしさがあって、マダムはちゃんと憶えているの。役者としても、魅力的な人よね。
 それから何年か経って、東京乾電池は突然、役者だった岩松了に台本を書かせ、公演を打つ。これまでの笑いに次ぐ笑いの舞台とは180度方向の違う、微妙な台詞のやりとりが延々と続く芝居。客席は静まり返ってた。それまで付いていた大量のファンが離れても、柄本明は「岩松了は天才ですよ」と断言して憚らず、岩松作品の上演をやめなかった。東京乾電池は、ファンを選び直したのよ。
 以来、基本的に岩松了の書くものの核心は変わらない。「黒澤明より小津安二郎。シェイクスピアよりチェーホフ」と何かのインタビューで語ったのが、彼の目指すものを示しているね。岩松節は初めから確立していた。そしてその核を、頑固に追求していく。
 だけど、彼の芝居についていくのは骨が折れた。特に大きめの劇場で、席が後方だともう、苦しい。彼の求める細かくて複雑で割り切れない人間の演技を、遠い距離で受け止めるのは至難の技で。起承転結なんかハナから無いし。睡魔に負けることもしばしばだったの。はっきり言って、彼は客に意地悪してるのよ。試されてる、と何度感じたことか。
 彼の演出した映像作品を何本か見たけれど、クローズアップができる映像の方が、向いているんじゃないのか?と思ったこともあるのよ。
 だからマダムは、彼の良きファンではない。ただマダムの好きな風間杜夫や小泉今日子などが岩松作品の常連となったので、要所要所でチェックしてきたかな、という程度。
 なので、こんな日が来るとは思わなかった。
 岩松了が、社会的な問題と向き合ったり。丘の上で叙情的なモノローグを叙情的に言わせたり。客に対して意地悪をやめたり。
 そんなことしたら、岩松了でなくなってしまう・・・と思っていた、のだけれど。
 
 インサイドシアターの公演でいつももらえるパンフレット。岩松了の挨拶が載っていて、その中の言葉にマダムは打たれた。
 

・・・私が毛細血管一本一本にまで血が通うようにとこだわってきた芝居をあっさり壊しかねない存在(つまりゴールドシアターのこと。マダム注)との出会い。しかしながら今回の私は、築いてきた演劇の枠組みを広げて自分がまだ出会っていない演劇に到達したいという思いで日々の稽古に臨んでいます。

 ゴールドシアターと芝居を作るには、自分の方が枠を広げていかなくちゃ、と思ったのね。岩松了にそこまでさせたゴールドシアターの存在って・・・。客に意地悪する暇もなかったのよ、きっと。そして本当に「まだ出会っていない演劇に到達した」んだ。
 『薄い桃色のかたまり』はマダムにとって、35年の岩松史上、最高の傑作。
 すごいな。演劇ってすごいし、人生ってすごいや。まいったなぁ。

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その2

 言うのをすっかり忘れてたけど、ネタバレしてます。ってもう遅いか。


 いつもの岩松作品が用意周到であるのとは別の意味で、『薄い桃色のかたまり』はとても用意周到に作られていた。
 例えば、ゲスト出演の岡田正。全く中心的な役ではなくて、老人たちがワイワイガヤガヤしている中にいつもいて、相槌など打っているんだけど、彼はゴールドシアターの芝居が大崩れしないための命綱。実際、ゴールドの一人がセリフにつまづいたら、彼が後を引き取って、次の人のセリフにサッと橋渡ししていたの。ゴールドの男優たちの、たった一人の重要な命綱よ。
 ゴールドの女優たちの中には、ネクストの大柄の男の子が紛れ込んでいた。おばさんの格好をして、十分おばさんになりきってた。彼もまた、命綱役だったんだと思う。
 そして、言い直しのきかない、リズムの大事なモノローグは、ほとんどネクストの役者に任されていた。二人一役の竪山隼汰と内田健司は、『リチャード二世』のときのボーリンブルックとリチャードで、マダムは特に思い入れのある役者だけれど、この二人が堂々と、作品を引っ張っていくのが気持ちよかったし、ワクワクしたの。この二人で、二人一役だなんて、なんて「粋な計らい」なんだろう。
 そして、ダンス。ゴールドの、セリフより物を言うダンス。別に上手くはない。揃ってもいない。でも、かっこいいの。白髪頭の、エプロンした普段着の老人たちが一斉に踊るシーンは、日本版ビリー・エリオットの「Solidarity」よりも、訴えかけてくるものがあったよ。心根の在り処が見えるダンスなの。接ぎ木された人工的なダンスじゃないのよ。
 
 そして、この作品の素晴らしさを生んだ最大の力は、岩松了(と、演出の予定だった蜷川御大)が選んだ、震災後の福島という場所だわ。
 岩松了らしく、決して声高に悲しみを叫んだりはしないし、理屈を説明したりはしない。ただ、ずっと暮らしていた土地をもう一度住める街にしたい、という老人たちの願いと、それを阻む現実と、溶けていく希望と、色が失われて灰色になっていく視界と、突き抜けた辛さの向こうからやってくる絶望的に美しい夢を、淡々と描いていくの。その根本に、老人たちの生活(人生)を破壊したのが、天災ではなく人災である原発事故だってことがある。
 社会的背景のない人間なんていない。そのことを忘れては、ドラマは生み出せない。やり方は様々あって、岩松了は、他にないようなやり方で、ドラマを作り出してみせたの。
 せっかくだから、もう少し岩松了について、その3で。

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その1

 突然思い立って、当日券の列に並んだ。9月23日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール、インサイドシアター。
 

さいたまゴールド・シアター第7回公演『薄い桃色のかたまり』
作・演出/岩松了
出演 宇畑稔 上村正子 田内一子 葛西弘 重本惠津子 寺村耀子 岡田正
   竪山隼汰 佐藤蛍 内田健司 白川大 鈴木真之介 ほか


 
 観終わった時、自分がグラグラ揺れたの。
 雷に打たれたみたいになって、劇場の外へ出たら、外の景色がこれまでとは違って見えた。芝居のせいで、脳細胞が位置どりを変えてしまったらしいの。
 一人では抱えきれないと思い、誰かと話したくて、すぐにツイッターもしたし、しばらく外のベンチにへたり込んで出てくる観客を眺めてたんだけど、知っている誰にも会えなくて(あとで知ったけど友人が二人も、同じ回を観ていたんだって。会えてたら、それからどれくらい長時間話したことだろう!)。とぼとぼと一人帰ったの。
 これは、只事ではない。マダムにとっての岩松史上、最高傑作かもしれない。


 さい芸のインサイドシアターには魔法がかかっているよう。狭くて長いくねくねした通路を歩いて劇場内の階段席にたどりつくと、それだけで否応なく、結界の中に引き込まれてしまう。そしてこんな結界こそが、岩松了の最も必要としていた場なのではないか、と今になって思う。
 
 三方向を階段型の座席に囲まれた舞台。ファーストシーンは、大きな民家の広い座敷で、古そうなコタツやソファや椅子がそこかしこにあり、逆さにしたビールケースの上に座布団などが載せてあったりし、大勢の人が集まれるようになっている。が、奥の障子は破れ放題で、その向こうには暗闇が広がっているの。
 家のあるじ添田(宇畑稔)が、帰ろうとするハタヤマ(竪山隼汰)を必死に引き止めている。どうやら添田の息子学(白川大)がイノシシに襲われたところをハタヤマが助けたので、添田はお礼のため妻真佐子(上村正子)の手料理(パエリア)をご馳走したい。でも、料理はなかなかできず、ハタヤマはその場が居心地悪そうで、結局帰ってしまう。添田は妻に対して怒りを露わにして殴りかかり、その場にいるみんなに止められる。
 ベクトルがあちこちに向かう、それぞれの勝手な思惑が匂う会話は、いかにも岩松節なんだけれども、ゴールドシアターの人たちは、「微妙」な演技ができないので、ストレートにセリフを相手にぶつけるの。そして演技なのかナマの自分なのか境界線のわからない強烈な存在感があって。これが意外にも岩松節をくっきりとわかりやすくし、普段の岩松演劇ならこっそり練りこまれているだろう情報が、どんどん浮かび上がってくる。ここは福島の原発事故による避難区域だった場所で、避難指示が解除され、村の再建のため、人々が帰ってきている。でも、家は荒れ果て、イノシシが徘徊し、線路は寸断されたまま。戻ってきている人々はほとんどが老人で、子供の姿はない。励ましあったり、喧嘩したりしながら、獣を追い払い、線路を修復して鉄道を再建したいと思っていて、自ら道具を手に、毎日線路を直しているの。そしてハタヤマだけが、立場の違う人間で、東電の社員。福島の復興本社に、東京から派遣されている若者なの。
 こんなふうに設定がすぐ腑に落ちる岩松戯曲が、これまであったかしら? 今回だって決して親切な台本ではないと思うのに、見えてくるのよ。ゴールドシアターの役者の演技のおかげで。

 それからは次々に一見繋がらないシーンがどんどん繰り出されていく。でも一つ一つが吸引力に富んでいて、繋がらなくてものめりこんでしまう。丘の上(階段の上)の樹のところに突然現れる若い男(内田健司)は、恋人が電車に乗ってやってくるのを待って、丘の上から線路を見張っている。線路は寸断されて電車が走ることはないのに。そして久しぶりに聴いた内田健司の叙情的なセリフに、酔ったことといったら!あの名作『リチャード二世』のリチャードのときより更にパワーアップして、マダムをなぎ倒したよ。素晴らしい!
 女たちが東京へ陳情に行った帰りの電車内のシーンの会話の可笑しさ。東京からやってきた、恋人を探す若い女ミドリ(佐藤蛍)の謎。線路工事に出かける男たちの前に立ちはだかる巨大なイノシシ(名演!)。最初に現れたきり、自殺したらしい添田の妻真佐子とハタヤマは、恋に落ちていたのだろうか? やがてハタヤマも失踪し、復興を前進させたい人たちの気持ちを受け止めるものは誰もいなくなってしまう。それでも日々、線路を直すことを続けながら悩む老人たち。一方で現実を夢が覆い始め、若い男はハタヤマのもう一つの姿(幻?)だったことがわかり、二人は入れ替わりながら、ミドリと真佐子の間を行き交う。
 ラストシーンの線路を挟んで咲く桜並木と、そこに集うにこやかな人たちの群れ。美しくて、この世のものとは思えない。
 多分、この世のものじゃないのよ。
  
 正直な話、全てをクリアに理解したかといえば、全然そうじゃない。スジとか辻褄みたいなものは途中から理解の外になったけれど、それよりも心の底に確かに降りてくる、生きていくことの切なさや哀しさや愛おしさや力強さの方に、身を任せた。理解の糸より、長い糸があって、マダムの心の深いところまで降りてきたの。泣きそうだった。
 真実に触れると、泣きたくなる。
 
 ああ、全然説明できてないね。スミマセン。
 あのインサイドシアターの結界の内側には、蜷川御大が育んだ演劇への愛が充満してたわ。
 次々と繰り出される場面の舞台美術が素晴らしく、一瞬たりとてタイミングを外さない照明が美しく、観客の気持ちを絶対に切らさない密やかで素早い転換が見事で。その舞台の運びのありようも、それから勿論ゴールドシアターとネクストシアターのメンバーもみんな、蜷川御大が育んだもので、それがあったから、岩松了はこれまで行けなかったところまで、辿り着いたのね。
 
 今日はここまで。その2で、岩松作品について、もう少し考えなきゃ。

進化した『デス・ノート』

 今月の、好きな役者の芝居、最後を飾る。9月16日(土)マチネ、新国立中劇場。

『デス・ノート THE MUSICAL』
原作「DEATH NOTE」
音楽/フランク・ワイルドホーン 演出/栗山民也
歌詞/ジャック・マーフィー 脚本/アイヴァン・メンチェル
出演 浦井健治 小池徹平 唯月ふうか 髙橋果鈴 濱田めぐみ
   石井一孝 別所哲也 ほか

 
 初演から2年。
 もとのお話にそれほど深みはないわけなので、めっちゃ感動、とはならないのだけれど、それでも色々と進化して、洗練されていたので、感心したの。
 
 浦井健治の夜神月も、小池徹平のLも、すごく上手くなっていた。初演の時は、もっと一本調子だったのが、浦井ライトは、だんだん邪悪になっていく変化が表情や声に細かく現れていたし。小池Lは、以前は猫背のまま歌うのが苦しそうだったんだけど、いまやあの猫背があたりまえになったのかしら。歌の安定度、抜群。
 キャストも、死神リュークは吉田鋼太郎から石井一孝に、ライトの父が鹿賀丈史から別所哲也に代わって、全体のバランスが良くなったね。吉田リュークはどうしたって舞台全体をさらっていてしまう感があった。石井リュークも基本的に同じ演技だったんだけど、芝居全体の中に溶け込んでいた。演出が全体を修正できたのだと思う。
 更に、アンサンブルも上手くなって、歌に厚みが出ていた。マダムはプログラムを買わないので、細かい配役の変化はよくわからないけど、メンバーも変わり、人数も増えたのかしら。ライトの父を囲む刑事たちも、グレードアップしてたの。
 なので、このお話が持ちうる限りの厚みが加わって、なかなか良作に育ってた。惜しいのは、唯一つ、衣装ね。死神の衣装のデザインは素敵なのだけれど、夜神月を含む若者の服が、ダサいの。妹も相変わらず、変な組み合わせの衣装で、かわいそうだし。今時、その辺を歩いている若者の方がよっぽどおしゃれ。渋谷のスクランブル交差点でライトとミサミサが出会うところなんか、もっとスタイリッシュになってもいい場面なのに、若者たちが垢抜けないので、渋谷らしくない。それからミサミサのコンサートシーンだって、衣装次第でもっともっとカッコよくできて、見せ場の一つになるのに。
 衣装問題さえクリアできたら、このミュージカルは、傑作まではいかないまでも佳作として残っていくことができるよ!主役クラスの顔ぶれが変わったとしても。
 
 そう。マダムは今回2列目という良席だったので、かぶりつきで浦井ライトの演技を堪能した。どんどん変わっていく表情や、いい声や、歌の演技力をたっぷり味わって、すごく幸せだったの。そして「でも、もうこれが最後だな」と思ったのよ。高校生を演じるのは。
 童顔だし、声が若いし、演技力でやれてしまうんだけれども、もう少年の体型じゃないんだもん。
 これは文句ではなくてね、そろそろ高校生の役を卒業し、大人の男の役をやってもいいんじゃないか、と思ったわけなの。わかるでしょう?
 『デスノート』というミュージカルが、マダムの予想に反して佳作に育ってきているので、再再演とかがあるかもしれない、と感じたの。でもそれは、次の人に手渡して、もっと違う、大人の役に進んでいってほしい。どんな役だって、できるもの。
 
小柄な小池徹平のほうは、あと5年くらいLが出来そうな感じだったけどね。

『クライムズ オブ ザ ハート 心の罪』を考える

 好きな役者さんの舞台が次々。9月9日(土)マチネ、シアタートラム。

『クライムズ オブ ザ ハート 心の罪』
作/ベス・ヘンリー 翻訳/浦辺千鶴 
演出/小川絵梨子 
出演 安田成美 那須佐代子 伊勢佳世 渚あき
   斉藤直樹 岡本健一

 
 観に行って1週間以上経つけれど、レビューをなかなか書き出せなかった。
 というのも、興味深く観たんだけれど、腑に落ちない気持ちがマダムを覆っていたから。
 一方で、この顔ぶれでウェルメイドなのに、土曜のマチネでも空席が目立つ状態だったの。そこへもってきて、さらに内容に対して疑問を呈すれば、公演の邪魔をしてしまう気がして。もちろん、マダムの個人的な感想なんか、さしたる影響ないよ、と言われればその通りなんだけれど。
 
 アメリカ南部の田舎町の、三人姉妹のお話。
 女が、銃を構えて、誰かに発砲する。が、それが誰なのかは、少しの間伏せられて、舞台上の家のセットに、疲れ果てた顔の長女レニー(那須佐代子)がヨロヨロと帰ってくるところから本当のお話が始まる。レニーは、入院中の祖父の見舞いに行って、帰ってきたところで、更に三女ベイブ(伊勢佳世)が引き起こした事件を解決するため、家を離れている次女メグ(安田成美)の帰りを待っている。

 最初の方の会話の中ですぐに、ベイブが夫をピストルで撃ってしまったことがわかって、ああ、さっきの出だしのシーンはそういうことか、と思うんだけど、謎を引っ張ることなく解明しちゃったので、ちょっと肩透かしだったの。謎でもなんでもなかったんだな、って。
 出だしのシーンは、台本に最初からあるのかしら? あるよね。
 
 それから美しい次女が帰ってきて、更に保釈されたベイブも帰ってきて、三人姉妹が揃い、そこへ隣に住む従姉妹のチック(渚あき)やベイブの弁護士バーネット(岡本健一)やメグの元彼ドク(斉藤直樹)が次々やってくる。会話の中から、三人姉妹の境遇や、今抱えている問題がだんだん浮かび上がってくるの。
 父親は、姉妹が小さい頃に失踪し、母親は自殺。姉妹は祖父母の住む今の家に引き取られたこと。今は、年老いた祖父と長女のレニーだけがこの家に住み、レニーは恋人もなく、仕事と祖父の介護で疲れ果てていること。美人のメグは歌手をしているという話だったが、とっくにやめていて、事務員として働いていること。ベイブの夫は上院議員だけれど、DV男であること。が、ベイブが夫を撃ったのは、それ以外に重大な理由があること。
 
 彼女たちの抱える問題はそれぞれ深刻なんだけれど、行き交う会話の中では思わず笑ってしまうことも多くて、コメディタッチな芝居。レニーが誰にも祝ってもらえない誕生日を自分で祝おうとしたり、ベイブが自殺を図ろうとしても首を吊るための縄をかけた梁が折れたり、深刻と滑稽が同居している物語なの。丁寧に演出されている、とも感じたわ。
 そうなんだけど、いろいろよくわからないことがあって、わからないまま芝居が終わってしまったの。たとえば、家の(セットの)構造がどうしても理解できなかったのよ。玄関らしい場所があって、レニーが鍵を開けるシーンがあるにもかかわらず、全然違う場所から他人が出入りしたり、窓があるのかないのか、外を歩いてる人とアイコンタクトがあったりするの。その法則が最後まで腑に落ちず、気になるのが煩わしかった。
 いつの時代のお話なのかも、なかなかわからなくて。セットや衣装などからは判断できず、唯一のヒントはダイヤル式の電話。そこから、1970〜80年代かなあ、と推測した。それと、アメリカ南部の田舎町らしいことはセリフでわかるのだけれど、セリフでわかる以上の空気感、圧迫感、差別感などは流れてこない。ベイブが黒人の男の子とセックスしてしまったことが、致命的な醜聞になるんだろうとは思うんだけれども。思うけれども、それがどれくらいの重大さなのか、よくわからないんだよね。ベイブの感じている深刻さはともかく、写真を見せられた弁護士や、姉のメグの反応はなんだか鈍いし。
 もともとこっちには1980年頃のアメリカ南部について予備知識がなさすぎるから。
 日本の観客はみんなこんなもんだと思うけど。
 
 いちばんわからないのは、題名かも。全然違う邦題をつけられたら、よかったのに。

 わからなすぎたので、新聞の批評を読んでみたら、ベイブの相手の黒人の男の子の年齢設定、もとの本では15歳となっているところを20歳に変更したのはどうしてか、と書かれていて。それで、ますますわからないことが増えてしまったのだった。
 さらに、気になったのは、亡くなった中嶋しゅうが、メグの元彼の役をやるつもりだったのか?ということで、もはや芝居の出来とは何の関係もないよね。すみません。
 
 期待していた岡本健一の演技の稲妻は不発だった。本筋を背負う役ではなかったからね。でも彼は役の大きさに関係なく、なりきってしまう。今回の、切れ味の悪そうな人の良い新米弁護士も、上手いなあと思ったし。
 イキウメを退団して全力活躍中の伊勢佳世が、役の幅をどんどん広げていくのには感心しちゃった。それがいちばんの収穫だったわ。

風間杜夫の飽くなき挑戦『ピース』

 チェーホフの翌日はこれ!9月3日(日)マチネ、俳優座劇場。

風間杜夫ひとり芝居 『ピース』
作・演出/水谷龍二

 前回のひとり芝居の上演の時、さすがにもう、これで打ち止めかしら?と考えたマダムは、ファン歴35年以上とかのくせに、風間杜夫のことをちゃんとわかってなかった。きっとこの人は、足腰立たなくなるまでやるつもりなのだ。
 これまでのひとり芝居はずっと本多劇場だったのに、今回は俳優座劇場。久々に行ったら、ホントに古くなっててね・・・1階にバーがあるお洒落な劇場で、ロンドンの古式ゆかしい劇場にも似た作り。なのに、古くなると、味が出るというよりただ古びてしまうのは、どうしてなのかしら。ロンドンのようにはいかないの。
 でも、芝居が始まると、そんなことはすぐに忘れた。
 

 今度の主人公は、葬儀屋の男。その設定だけで、最初マダムはひとりでウケていたの。だって、マダムの住む辺りでは、風間杜夫はとある葬祭ホールのCMに出ていて、「顔」だから。
 だけどお話が進むにつれ、マダムは唸った。風間杜夫はCMに出ながら、その仕事を観察して「使える!」と思って設定に選んだに違いないわ。前回の風呂屋の番台にいるお爺さんの役よりも、何倍も、社会にコミットできる設定なの。
 だって、死っていうものは、その人の人生を浮き彫りにするものね。
 
 東京の下町で小さな葬儀社を営む男、武藤万作。後を継ぐ修行中の娘を連れて、葬儀を取りしきっている。今にもマイクを持って歌いだしかねない感じ(実際歌うシーンもある)で、笑わせてくれるけれど、既に「ひとりなのに共演者がいる」感が立ち込めてる。相談に来る客や、ハラハラしながら父の仕事を手伝っているらしい娘などが、同じ舞台上にいるような気がしてくる。ひとり芝居にコツ、のようなものがあるとすれば、もうすっかり掴んでいるの。役者も、そして観客の側も。
 場面転換の間に2年が過ぎ、妻と娘は事故で死んでいて、万作はすっかりやる気を失って、飲み屋に入り浸る。気遣うバイトの店員は、片言の日本語を話すシリア人の若者で、万作は少しずつ立ち直っていく。そして、その若者が死んで、身寄りのない彼の葬儀を引き受け、ラストには自分の生前葬をやるところまで、話は進んでいく。
 
 今の社会に対する疑問や意見などが、ストレートに盛り込まれていて、かなり未消化なところがあるものの、とにかく疑問を隠さずにまな板に上げようという態度なのね。そこは前回より、一歩踏み込んでる。いつものようにこれから2年くらいかけて、地方公演も打っていくのだろうし、その間にもっとこなれたものになっていきそう。
 なんかね、今をちゃんと捉えた本を、やりたいんだな、と思った。
 役者は役が来るのを待つ身な訳だけど、風間杜夫をもってしても、待ってるだけじゃ満足できないの。だから、ひとり芝居、やるんだね。
 先に足腰立たなくならないよう、マダムも精進する。

チェーホフの深さを知る 『ワーニャ伯父さん』

 忙しい9月の到来ね。9月2日(土)マチネ、新国立小劇場。

シス・カンパニー公演『ワーニャ伯父さん』
作/アントン・チェーホフ
上演台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 段田安則 宮沢りえ 黒木華 山崎一 横田栄司
   水野あや 遠山俊也 立石凉子 小野武彦 伏見蛍(ギター演奏)

 

 ご贔屓の横田栄司、初チェーホフだというので、すごく楽しみにしていたの。春頃、早々と戯曲も読んで、予習していたのよ。で、きっとこの役だろうと思ったアーストロフだったんで、狂喜乱舞。
 しかし、戯曲読んでもね、ピンとくるやらこないやら。これでも最後まで読めるようになったのは、芝居道を深めたからか、年の功なのか。
 ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出のチェーホフは、2年前の『三人姉妹』がとても面白かったから、今回もきっと大丈夫と思っていた。そして思った通り、わかりやすく、飽きないように演出されていたの。予習してなくても、みんな理解できたと思う。
 さて、今から、思いっきり本題に入るので、これから観るかたはここで引き返してください。ネタバレとはまた違うんだけど。

 
 
 

 マダムはチェーホフをずっと敬遠してきたので、『ワーニャ伯父さん』を観るのも今回が初めてなの。だから、すっごく的外れなことを言うかも知れないんだけど、とにかく感じたところを正直にいうとね。
 難解なところはなかったし、ところどころ笑いながら楽しく観た。エレーナ(宮沢りえ)が伸び伸びした演技。自身を切り売りするのではない、演技らしい演技をしていて役に入り込んでいて、「宮沢りえ」感がなくて、エレーナだった。
 そして、アーストロフの横田栄司も期待通りだった。殆ど主役と言ってもいいくらい、ずっと舞台にいてくれて、いい声でずっと穏やかに話してくれていたので、婆やになったつもりで聴き入ってた。ラストの方は、もっともっとフェロモン出しまくってもいいんじゃないの?と思ったけどね。後から芝居全体についてよーく考えてみたら、エレーナやソーニャが言ってる言葉通りの「ハンサム」になっちゃうのも違うのね。なかなか、さじ加減の難しい役。
 上手い役者さんばかりが揃っているので、ちゃんと、その役の、エゴイスティックさや、すぐ諦めちゃうところや情けなさが、ありありと描き出されて、さすがチェーホフ、めちゃくちゃイライラさせられるんだった(褒め言葉です)。

 全体としては面白く観たの。それでいいはずなのに、終わった後、釈然としない気持ちが残って。どうしてなのか、あれこれ考えたわ。
 ギターで、既成曲が流れるのが邪魔だったから? それは、ちょっとあったの。この曲、なんだっけ?と意識がそっちに行って、心が芝居から離れる。でも、それは決定的なことではない。
 いろいろ考えて、ワーニャ伯父さん(段田安則)とソーニャ(黒木華)の造形が違うのだ、とわかった。マダムが求めているものと違う、と言ってるのではないのよ。戯曲が指し示しているものと違うと思った。 
 この二人が違うので、他の人たちの演技としっかりとかみ合わない隙間ができてしまう。パズルがきちんとはまらない感じ。

 ワーニャ伯父さんは、田舎で農園を経営しながら、妹の夫セレブリャーコフ(山崎一)にずっと仕送りしてきた。都会で文学を研究している大学教授への強い憧れが、田舎の、退屈で貧しい暮らしを耐えるよすが、だったのね。
 だけど、妹はとうに死に、職を失ったセレブリャーコフが転がり込んでくると、こんな俗物の生活をずっと支えてやってたんだ、とわかっちゃう。自分は、47歳にもなるのに、自慢するような妻も子も仕事もなくて、これまでやってきたことはバカみたいだった・・・だから、愕然とし、憤りもしている。その一方で、セレブリャーコフが連れてきた後妻エレーナがとびきり美しいので、文句や愕然や憤りをちょっと脇において、ポワワーンとしている。
 ワーニャ伯父さん、というのは、そういう47歳の男なのよ?まだ取り返せるかも知れない、と思っちゃうギリギリの年齢ではある。
 これは見てるだけで、滑稽だし、可笑しいし、哀しい・・・はずなの。
 だけど、段田安則のワーニャは違ったの。演技がスクエアだし、なんていうか・・・年取りすぎている。ポワワーンに現役感がないよ。ワーニャ伯父さん、というより、ワーニャ爺さんぽい。ヴォイニーツカヤ夫人(立石凉子)を「おかあさん」と呼ぶのが最後までしっくりこなかった。
 ちょっと実年齢と離れ過ぎていたのかもしれないね。
 
 一方のソーニャは、セレブリャーコフと、死んだヴェーラ(ワーニャ伯父さんの妹)の間の娘なのね。ヴェーラの死後、実家に引き取られ、ワーニャ伯父さんや、祖母のヴォイニーツカヤ夫人と暮らしてきた。農園の経営を手伝い、忙しくて、若い娘らしい時間は全くないの。彼女のただ一つの楽しみは、時々屋敷にやってくる医者のアーストロフに会うこと。なぜ彼女がアーストロフに惹かれているかというと、彼女の生活圏に、他にまともな恋愛対象が皆無だからなの。アーストロフがめっちゃイケメンだから、ってわけでは全然ないのよ。半径5キロ圏内に、他にまともな男がいないんだもの(これは役者がイケメンかどうかには、全く関係がない。アーストロフという役はそういう役だってこと)。で、アーストロフの方は、気立てのいいソーニャに全く見向きもしない。なぜかというと、ソーニャが不器量だから。
 そう。ここが問題なの。だって、黒木華、美しいんだもん。全然、不器量じゃない。なので、アーストロフが見向きもしない理由が、わからなくなってしまう。
 ソーニャっていうのはさ、たぶん、例えば若い頃の杉村春子や、若い頃の吉田日出子や、若い頃の伊沢磨紀がやるような役なのね。彼女たちは不器量だけど、あまりに上手いので美しく見える、そういう大女優なんで。
 黒木華は、宮沢りえとはタイプが違うけれど、やっぱり美人なので、ラストの人生終わった感の漂うセリフが、身に沁みてはこない。まだまだこれからいいことあるでしょ、という気がしてしまうのよ。
 でもこれも役者を責めているのではないの。黒木華が美しいのは、始めからわかっていることだ。
       
        *        *        *
  
 イギリスで上演中の「ハムレット」で、ホレイショー以下、ハムレットを取り巻く友人たちが全員女に改変されていると聞き、マダムの心は踊った。シェイクスピアには、そういう改変の余地がある。成功するにせよ、失敗するにせよ、試みを受け入れる間口の広さが、シェイクスピアにはある。上演台本が残されているだけで、ト書きも年齢指定も何もないしね。
 でも、チェーホフは細かな条件をつけて、ピンポイントで書いている。すごく繊細なパズルのよう。一箇所ずらしただけで、全体が狂う。
 そういえば、2008年に藤原竜也主演の『かもめ』を観た後、しばらく『かもめ』のことばかり考えていて。あの時も、作家トリゴーリン(母の愛人)の年齢を変えたことで全体が違ってしまったなあと思ったのよ。
 
 芝居を観終わってこんな風にあれこれ考えるのは、とても楽しい。そして、これだけ考えることができたんだから、やっぱりケラ演出は侮れない。 

« 2017年8月 | トップページ | 2017年10月 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

関係するCD・DVD

無料ブログはココログ