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2017年7月

『怒りをこめてふり返れ』追記

 勢いで書いてしまったら、大事なことを書き忘れてしまった。
 衣装やら小道具やらのことをたくさん書いたけれど、もっと根本的な演出上の問題があってね。マダムだけがわからなかったんだろうか?
 子供のこと、なんだけど。
 アリソンは子供ができたことを、ジミーに話せずにいて、クリフからも「話した方がいいよ」と言われている。だけど、いつもジミーは怒っているから、話せない。
 そこまではわかったんだけど。結局、子供のことをジミーに話せないまま実家に帰るじゃない?その辺から、アリソンの気持ちが全然わからなくなったの。あのときのアリソンは次のどれだったんだろう?
 ①とりあえず実家に帰って子供を産み、それからジミーとのことを考えよう。
 ②ジミーとは別れるけど、実家で子供を産んで育てよう。
 ③疲れ果てて、何も考えられない。
 ④正直、子供のことは考えたくない(子供なんてできなければよかったのに)。忘れたい。

 お父さんが迎えに来てて、トランクに荷物を詰めながらお父さんと話をするとき、このどれかのはずなんだけれど、どれにも見えなかったの。お腹の子供のことはシーンから忘れられている感じがした。
 だから、ラストで、流産したアリソンとジミーが対峙するとき、アリソンが子供のことをすごく嘆くのが、そのまま受け取れなかったの。ホントに悲しいのかなあ、と疑ってしまう気持ちがぬぐえなくてね。
 結局、アリソンの気持ちは全然理解できなかった、ということだわ。
 
 みんなはどうでしたか?

議論沸騰の『怒りをこめてふり返れ』

 久しぶりの平日夜の観劇。最近、夜公演自体が減ってるね。7月28日(金)ソワレ、新国立劇場小劇場。

『怒りをこめてふり返れ』
作/ジョン・オズボーン 翻訳/水谷八也
演出/千葉哲也
出演 中村倫也 中村ゆり 浅利陽介 三津谷葉子 真那胡敬二

 最近は、芝居のための予習をほとんどしなくなったマダム。怠けているわけではなくて、わざとなの。
 だって、演劇のお約束のようなものはもう心得ているし、大抵のストーリー展開にはついていけるし、あらすじのようなものは「読まなければよかった」と思うことが多いし。芝居が始まって、そこから受け取れることが全てなんじゃないのか?という思いが強まっているの。なんか色々お勉強していかなくちゃいけないなんて、間違ってる、と思ったりするのよ。パンフレット読まなきゃ感じ取れない芝居なんか言語道断!
 なので、今回も、前日まで何もせず、感想のツイッターなども一切見ないようにしていたんだけど、それでもやっぱり難しいらしい・・・という感想は聞こえてしまって、慌てて、友人に「予習が必要?」と訊いたの。そしたら、1950年代のイギリスが舞台で、大学は出たけれど下層階級の出なので色々うまくいかず、怒ってばかりいる男ジミーのお話だ、と教えてくれたの。
 それで、十分だったよ。別段、ほかに必要な知識などない。演出さえ、行き届いていさえすれば。

 とある町の、とある屋根裏部屋。ジミー(中村倫也)は、妻アリソン(中村ゆり)と、同じ下層階級の出の友人クリフ(浅利陽介)との、奇妙な共同生活をしている。ジミーは政治にも宗教にも、あらゆる社会情勢にも、自分が今読みたい新聞をクリフが読んでいることにも、妻が疲れた顔をしていることにさえも、激しく怒り、常に罵り続け、生活は殺伐としているの。アリソンは中産階級の家の出で、ジミーと恋に落ちて駆け落ち同然で結婚したのだけれど、ジミーはどんな仕事も長続きせず、今はキャンディの屋台で稼ぐのみで、先が見えないの。アリソンは妊娠したことさえ、ジミーに打ち明けられずにいて、そんなこととは知らないジミーは苛立ち続けてアリソンを追い詰める。だけど、クリフはそんなジミーを飄々と受け流し、アリソンのことを慰め続ける。クリフが緩衝材となって、ギリギリのところで破綻を免れているのね。
 そこへアリソンの友人ヘレナ(三津谷葉子)が訪ねてきて、危ういバランスは一気に崩れていく。アリソンの窮状を見かねて、ヘレナはアリソンの実家に連絡を取り、疲れ果てたアリソンは父親に連れられ、家に帰っていく。けれど、口実を設けて居残ったヘレナはジミーに言い寄り、アリソンのいた場所にまんまと居着いてしまうの。しかし今度はクリフがその生活に嫌気がさし、出て行こうとする。
 そんなとき、子供を流産したアリソンが、屋根裏部屋を訪ねてくる。ジミーとアリソンは希望のない真っ暗な状態で、それでも互いが必要だと抱き合う・・・。
 というようなお話。

 とにかくずうっと怒って、怒鳴り散らして叫んでるジミー役の中村倫也と、どんなときも飄々としているクリフ役の浅利陽介が素晴らしいの。この芝居の面白さは、二人に支えられてた。特に、中村倫也。彼ほど演技の幅が広い役者はなかなかいないよ。怒れる若者も、可愛く賢い女性も、骨太の新劇も、ふざけたコメディも、なんでもござれね。ジミーはしょっぱなから最後までハイテンションで怒っていなければならないから、尋常じゃないエネルギーが必要なんだけど、中村倫也はそれを惜しげもなく放出していて、もうそれはそれは苛々させられたの(←褒め言葉!)。彼のエネルギーがなかったら、この芝居は散々なものになっていたでしょう。

 というのも、面白く見られたのは中村倫也のエネルギー放出のおかげがほとんどで、演出的には色々と首をかしげるところがあったからなの。
 最初、奥行きのある屋根裏部屋のセットを前にしてマダムは、「あら素敵な部屋」と思ってしまったんだけど、これがまず✖️よね。話が進むにつれ、おかしいな、と思ったの。キャンディの屋台でどれほど稼いでいるのか知らないけど、あんな広々した部屋に住んでちゃ、リアリティがない。仮に当時のイギリスの下層階級はあの空間に住んでたのが本当だとしても、演劇的リアリティとしては、もっと狭くてもっと息苦しくてもっと圧迫感があって、「こんなところで怒鳴られたら逃げ場がない」と思うような空間じゃなきゃダメじゃん? 「こんなところで夫婦+友人で住んでるの?うそでしょーっ?」と感じられなきゃいけないんじゃないかしら。
 セットのみならず、リアリティがないな、と思うところが続出だったんだけれど、特に感じたのは、女優さんたちの衣装、そして細かな演技ね。アリソンの衣装は、何年もジミーと暮らして困窮している人の服ではなかったわ。実家から持ち出した服だとしても、もっと経年変化がなければおかしいし。化粧品やバッグなども、そう。小道具ひとつひとつが考えられて、揃えられたのかしら?これは実家から持ってきて、大切にしまいこんであったもの。これは実家から持ってきて、使い込んですっかり古くなってしまったもの。これはジミーの少ない稼ぎからやっと買えたもの。全ての衣装と小道具が、そうやって揃えられるべきだし、そういうものたちが物語るリアリティってものがあるでしょ?
 セットも衣装も小道具も、この物語を支えていない。
 演技も。屋根裏部屋だから水道がきていなくて、水を運んでこないといけないらしき台詞があったような気がするんだけど、だとしたら、お茶を飲んだ後の洗い物はどこでしているのか、洗濯はどこでしているのか(それはいちいち大変なはず)。それは舞台上には見えなくても、演出家は知っていなければいけないし、それに従って、役者は演技しなくちゃいけない。
 そして舞台の上で象徴的な役割を果たしているアイロン! アリソンもヘレナもアイロンをかけるシーンが長々とあるのに、それがすごく無意味になっちゃってる。一体、誰のために、なににアイロンをかけているのか、マダムは一番後ろの席だったからわからなかったんだけど。あんな風に表面を撫でてるだけでアイロンがかかるのは、最近の性能のいいスチームアイロンであって、一昔前のアイロンはすごく重くて、その重みの上に更に自分の体重を乗せてかけるものでしょう?だからアイロンがけは重労働なわけだし、実家にいた頃はやったこともなかったアリソンが、疲れ果てながらアイロンかけてるから、意味があるんで。そのことがさらにジミーを苛立たせるんでしょう?
 それが、軽々とアイロンがけしてて、全然大変そうじゃないんだもん・・・物語を支えていないよ。
 
 中産階級の苦労知らずのお嬢さんだったアリソン。でも彼女はそんな自分を心のどこかで疑っていた。自信がなかった。だからこそ、下層階級の怒れる若者ジミーに惹かれてしまう隙があったわけだし、恋に「墜ちて」しまう。でも代償は大きくて、今や彼女は疲れ果てている。そしてジミーは、彼女をそんな風にしてしまった自分にも苛立ち、彼女にも苛立ち、先が見えない未来にも苛立っている。
 そういうことなのよね?だけど、ジミーの方は描かれていたのに、アリソンの描かれ方はピントがずれていて、焦点を結んでいなかった。
 男たちの演技にはリアリティがあり、女たちの演技にはリアリティがなかったの。だから、もっと面白くもっと刺激的になるはずだったのに、そこまで行けなかったの。
 それでも面白い芝居だった。書き込まれた本と、主役のエネルギーが、刺激的だったし。見終わった後、友人と議論沸騰したし。それはやっぱり、面白かったってことだよね。
 

期待通りの『子供の事情』

 三谷幸喜の芝居は久しぶりかも。7月16日(日)マチネ、新国立劇場中劇場。

シス・カンバニー公演『子供の事情』
作・演出/三谷幸喜
出演 天海祐希 大泉洋 吉田羊 小池栄子 林遣都 春海四方
   小手伸也 青木さやか 浅野和之 伊藤蘭

 最近、三谷幸喜離れしていたマダム。
 必ず一定水準の芝居を見せてくれて、それはすごいことなんだけど、マダムはびっくりしたり、塞がっていた脳の小窓が開いたり、胸の底を揺るがされたりしたいの。そういう深いことはやりたくない、心に残らない芝居が作りたい、っていうのが三谷幸喜がよく言ってることだから、向かう方向が違うんだなぁと思って、離れてた。
 でもさ、本当にひとっかけらも心に残らない芝居を作りたいと思ってるのかしら、三谷幸喜?
 そんなことないよね。だって、面白いものを作ろうとすると、人間を描いちゃうことになるし、テーマらしきものがまるっきり深刻じゃなくても、だからって、心に残らないわけじゃないもんね。
 
 それにしても今回、反射的にチケット買っちゃったのは、シス・カンバニーの罠にまんまとはまったの。だって、こんなメンバーを一つの芝居に投入してくるなんて、もう異常事態だもん。それぞれ主役が張れるような人ばかり。当日券に並ぶ徹夜組が出るなんて、なんかもう吃驚だわ。
 それでもって、半ズボンのお坊っちゃまスタイルの林遣都の第一声が「こんにちは。三谷幸喜です。」だったからさー、まったくもう。やりたい放題ね。
 
 小学四年生の放課後の日々を描くのに、このメンバーを集めた、その発想だけでもう勝ったも同然で、なんだかちょっと悔しい気もする(昔々、ギャングを描いた映画で、ギャングの親玉から情婦まで全員子供が演じるという、面白い映画があったんだけど(←「ダウンタウン物語」)、その逆の発想というか。三谷幸喜は同世代なので、案外そのあたりからの発想だったりして)。わざとらしい子供っぽい演技はなくて、それぞれいつもの役者さんの演技だったのがよかった。
 学校の教室を後ろから眺めるようなセットで、毎回毎回、放課後に残ってダラダラしている、同じ顔ぶれの子供たち。アニキというあだ名の女の子(天海祐希)を筆頭に、ゆるくもどこか緊張感のある人間関係が作られている。そこへ転校生ジョー(大泉洋)が現れて、人間関係は微妙に変化していく。アニキは、みんなのアニキだった地位を追われ、ソウリ(青木さやか)は学級委員から転落し、リピート(浅野和之)が学級委員となりジョーの傀儡政権となる。子役として芸能活動しているヒメ(伊藤蘭)、クラス一のワルのゴータマ(小池栄子)、ゴータマの番頭みたいなジゾウ(春海四方)、恐竜博士のドテ(小手伸也)のそれぞれに少しずつジョーの魔の手が伸び、みんなジョーの影響下に入るかというとき。
 クラスの中でも地味なホリさん(吉田羊)の番がやってくる。ホリさんは、家族の中で事件があった過去があって、クラスの仲間は、子供なりに彼女のことを気遣ってやってきてる。が、校門のところにマスコミがやってきて、ホリさんのことを捕まえようとして、ジョーはこの機をとらえていかにもホリさんの味方のように振る舞い、一気にクラスを掌握しようとするのだが・・・。
 他の話が他愛のない悪戯なのに比べ、ホリさんがマスコミにさらされそうになる件は、大人顔負けの悪魔的な仕業なの。だからそこにはちゃんとアニキの機転でストップがかかり、ジョーの化けの皮が剥がれ、クラスはまたもとの平和を取り戻す。
 そこは期待通り。「蠅の王」みたいな怖い話には絶対にならない。そこは三谷幸喜だから。
 途中、ミュージカルみたいな瞬間があって、みんな歌がうまいし、めちゃくちゃ楽しい。これだけのメンバーがほぼずっと舞台の上に出ずっぱりでいてくれるのも、眼福だったなあ。
 最後の畳み掛けるあたりで、なにもかもアニキ一人が謎を解明するムリヤリ感と、ジョーの暴かれた転校前の性格が不自然だったのが、気になったわ。なんか、いつも三谷幸喜、こういう匙を投げた感じがあるんだよね。彼ほどの人がこの不自然さを気づかぬはずはなく、わざとだと思うんだけど、どうなのかな。
 
 マダムは、大好きな浅野和之の軽快な動きが見られたので満足。これなら、ワンピースやっても、似合うでしょうね。11月、どうしようかなぁ。迷うところだわ。
 
 そうだ、とてもよかったラストのことを書こうと思ったんだけど、これは公演が終わってからにしようっと。

嘆きの王冠ラスト 『リチャード三世』

 頑張りました。ホロウクラウンのラスト1本『リチャード三世』、見てきたよ。7月15日(土)夜、ヒューマントラストシネマ渋谷。

 見終わったら10時半くらいで、帰りのエレベーターは女性ばかり4人。誰ともなしに「いや〜よく完走しましたよね〜。大変だった〜。もうちょっとタイムテーブルを考えて欲しかったよね〜」というようなことを言い合い、そして「カンバーバッチの顔、たっぷり見たわ〜。暫く見なくていいわ〜」と思わず本音が(と言いつつ、シャーロックを見てしまうのだろうけれど)。
 そう。『ヘンリー六世』の作り方を見ても、これはもうカンバーバッチのための『リチャード三世』なのが明らかだったの。独白が全てカメラ目線のアップで、ちょっとしつこかった。映像の色々な手法をもっと使ってもよかったのに。カンバーバッチは上手いんだけど、アップばかりだと飽きちゃうんだよね。
 最後の戦闘シーンも、実際はああだったのかもしれないけど、不具な体で戦いながら「馬をくれ!代わりに王国をくれてやる」っていう切実さ(というか憐れさ)があまりなくて・・・演出家の見たいものとマダムの見たいものにズレがあるんだった。好みの問題かしら?

 シリーズを全部見終わって、とにかく『リチャード二世』の出来が素晴らしかったことと、『ヘンリー五世』のトムヒがかっこよかったことが後に残ってる。
 ヘンリー四世やヘンリー六世は、長い長い本をたくさん切って映像にしたので、わかりやすくなったとも言えるけれど、なにかが繋がらなくなった気がする。それに比べ『リチャード二世』『ヘンリー五世』は殆どシェイクスピアが書いたままだから、テーマを削らずにすんで、面白くなったのでは?
 シェイクスピアは、どうしてだかわからないけど切っちゃうとダメなシーンばかりなのよね。そこんとこ、わかりたいなあって思ってる。
 あー、でもなんだかんだ言って、7本も見に行っちゃったんだから、面白かったってことだね〜。
 来年の新国立の『ヘンリー五世』が楽しみだなぁ。

2時間でもちゃんと『リア王』 子供のためのシェイクスピア

 芝居に行くも帰るも汗びっしょりだわ。7月15日(土)マチネ、あうるすぽっと。

子供のためのシェイクスピアカンパニー『リア王』
作/シェイクスピア 訳/小田島雄志
脚本・演出/山崎清介
出演 福井貴一 戸谷昌弘 土屋良太 佐藤あかり
   若松力 加藤記生 チョウヨンホ 大井川皐月 山崎清介
 

 伊沢磨紀が出ないことに気づいたのはチケットを買って、だいぶ経った頃だったの。
 伊沢磨紀は日本のキャサリン・ハンターである、とマダムは思っているのだけれど、1年に1度、子供のためのシェイクスピアで伊沢磨紀に会う。それがあたりまえのことになっていたので、ショックは大きかったわ。チラシを見て「あ、リア王ね、伊沢さん、ゴネリルでもリーガンでもコーディリアでもいいけど、リア王もできるね」なんて考えていたんだもの。

 話は『リア王』なんだから、あらすじの説明はしなくていいよね?
 
 配役を書き出してみると。
 リア王は福井貴一。コーディリアと道化を大井川皐月。ゴネリルとコーンウォール公(リーガンの夫)を加藤記生。リーガンとオールバニ公(ゴネリルの夫)を佐藤あかり。グロスターを戸谷昌弘。その長男エドガーをチョウヨンホ。その次男の策士エドマンドを若松力。ゴネリルの執事オズワルドとフランス王を土屋良太。そして山崎清介はケント伯。人形はケント伯と行動を共にする・・・えーと名前失念(人形の声を山崎清介がやっているので、人形が山崎清介に似てるのは当然なんだけど、今年は山崎清介の方が人形に似てきた気がした。なんでかしらね?)。
 いつも感心するけれど、この少人数でシェイクスピアをやり遂げてしまうのよ。毎年だから、どんな風に乗り切るのか、その工夫を見ることが大きな楽しみ。今回も、ゴネリル夫妻とリーガン夫妻を加藤記生と佐藤あかりの二人でやるという離れ業が見ものだった!
 そして毎回2時間ちょっとにまとめてくるのも、すごいの。いろんな伏線とか、きっかけの台詞とか、知り尽くしたうえでの改編なので、そこもまたマダムは感心しきり。
 役者さんたちは少数精鋭。このカンパニーはみんな上手いの。マダムはエドマンド(若松力)の色悪ぶりに惚れ惚れしてたんだけど、そこはほら、どんな時にもイケメンを見逃さないってことだから。
 
 あとはね、いつも演技の話に終始してしまうので、その前にひとつ。
 このシェイクスピアシリーズの衣装(三大寺志保美)がすごおく素敵! 役に合った、選び抜かれた色合い、生地の美しい光沢に、毎回見惚れる。

 始まるまで配役は知らなかったので、福井貴一がリア王として登場した時、おおおー、と思った。彼の舞台は何度か見ているはずだけれど、その上手さに舌を巻いたのは2年前の加藤健一事務所制作の『ペリクリーズ』のとき(その時の記事は→これ )。台詞の心地よさったらなかった。
 今回も台詞回しの巧みさはいかんなく発揮されていたのだけれど、マダムが引きこまれたのは「老人としてのリア」像がブレなく存在していたからなの。
 リアは、「老いてわがままになり正常な判断ができなくなった迷惑な老人」のように描かれているところが多分にあって、海外では「認知症の老人」として演出されている舞台もあるそうな。でもね、マダムは福井貴一のリアを見たら、「認知症の老人」というような言葉では到底片付けられないリア像がある!と感じたの。
 リアは老いたからわがままになったのではなく、王だったから元からわがままなんだよね。そして王という身分とアイデンティティーが、ピッタリくっついてる人なの(さらに言えば、王って多分そういうものよね)。だから退位しても王として振舞っちゃうし、王として振舞うなと言われたら、どうすればいいかわからないのよ。まるで、定年退職したらそのあと、どう生きたらいいのかわかんない仕事人間みたい。
 そして色々と辛酸を舐めたあと、死の間際になってやっと、王ではなく一人の人間として、自分を一番愛してくれた娘は誰なのか、誰が本当の家臣だったのかを知るの。話の始めに「王を降りる!」と言ったけど、本当に退位して一人の人間になれたのは死ぬ時だった。憐れなリア。
 というようなことを、福井リアは見せてくれたのだった。演出によって、そして誰が演じてくれるかによって、戯曲が姿を見せる面が違う。あたりまえなのかもしれないけれど、このあたりまえの楽しみにちゃんと行き着くには手練の技が必要で、観客としてその技を持つ人たちを応援したいと、改めて思ったマダムだったわ。
 
 そんなわけで、来年も楽しみにしています。伊沢さんのことも、もちろん、待ってる。

『子午線の祀り』を観る

 さて、久々の劇場。そして観劇の夏、到来だー。7月8日(土)マチネ、世田谷パブリックシアター。

『子午線の祀り』
作/木下順二 音楽/武満徹
演出・主演/野村萬斎
出演 成河 河原崎國太郎 今井朋彦 村田雄浩 
   若村麻由美 星智也  ほか

 『子午線の祀り』はいろんな意味で特別な作品ね。
 初演(1979年)版は、テレビの中継で見たような・・・。記憶は曖昧。細部は憶えてないけれど、滝沢修とか山本安英とか若き(?)日の野村万作(萬斎のお父さん)が出演していたの。新劇界の重鎮と、伝統芸能の名門役者が一堂に会する公演。当時は、画期的な企画でね。本は木下順二だし、音楽は武満徹だし。
 本は「平家物語」の語りと役者の演技を融合するように書かれていて。さらに、人間の営みを子午線の彼方から眺めるような壮大な視点があって、その語り(ナレーション)が随所に挟み込まれて。色々と挑戦的な作品だったのよ。マダムはテレビで中継映像を見て、「テレビじゃスケールが全然伝わってこないなあ」と歯がゆかったことだけ、憶えている。
 野村萬斎にとって、これを演出し主演することは特別な意味があること。狂言師としての仕事の枠を広げた先駆者の、後継ぎなわけだから。
 でもその気負いが、彼を不自由にしたような気がする。

 いつもだと、妙にだだっ広く感じる世田パブだけど、今回ばかりはこの広さが役立っていた。豪華なセットと美しい照明。
 舞台の上にもう一段高い舞台を組み、それが前にせり出してきたり、引っ込んだりする。段の間の隙間を利用して、そこからたくさんのコロスが出ては消え、階段なとの大道具もそこから現れ、暗転がほとんどいらない。
 舞台の前方で演技していた人たちが、せり出してきた舞台の下に飲み込まれて消えていくのを、しばらく感心して眺めたりしたのよ。

 だけど、芝居自体はなんだか凡庸なのだった。
 平家と源氏が戦うのは一番最後だし、平知盛(萬斎)と義経(成河)が直接ぶつかることはないの。離れた場所にいる両陣営の、それぞれの葛藤が別々に描かれながら話が進んでいくのね。
 だから芝居の肝は、平氏陣営ならば四国へ落ち延びた知盛と、支える四国の豪族阿波民部(村田雄浩)との、味方でありつつも権謀術数が巡らされてる様子。そして源氏陣営ならば義経と、頼朝から目付として送られている梶原景時(今井朋彦)との腹の探り合い。双方盛り上がって壇ノ浦の戦いになだれ込んでほしかったんだけど。
 源氏側の、成河と今井朋彦の探り合う会話はなかなか面白かったの。義経の、頼朝の弟だというプライドと、なのに認めてもらえないコンプレックスが、会話から滲み出てるし、景時は景時で、頼朝を支える家臣として義経と対等だ、というプライドが前面に出るのね。
 だけど平家側がどうも面白くなかった。野村萬斎の詠うような台詞は、宙に漂うばかりで相手(特に阿波民部)にしっかり届かない。なので、芝居ががっぷり四つにならないの。民部の言葉は知盛にちゃんと向かっているんだけど。知盛の演技に深さがない。知盛の方は恋人(影身)を殺した民部に対する憎しみと、それでも手を組んでいかなければならない武将としての判断という、相反する気持ちを湛えていなければならないんだけど、詠うような台詞は上滑りして、伝わってこないの。
 
 初演の時は、野村万作や滝沢修御大の、異種格闘技戦っていうのがまず大きな売りだったじゃない? だから演出家野村萬斎は、自分が古典芸能側だってことを台詞の言い回しで表そうとしたのね。でも、それが少し空回り気味だったの。
 もはや異種格闘技戦は珍しくないし、それを売りにするなら、何か違うものを見つけなきゃいけなかったのかも。
 演出に専念すれば、そこをしっかり追求できたんじゃないかしら。全体のテンポももっと緩急がつけられたと思うし。それと、初演時よりはるかに技術は進歩しているわけなので、舞台効果ももっともっと、びっくりするような使い方ができたんじゃないかしらね。
 やっぱり演出か主演か、どっちかにすればよかったんじゃないか、とマダムはちょっと残念だった。

嘆きの王冠 『ヘンリー六世』第一部&第二部

 ホロウクラウンシリーズも計画通り進んで、きっちり折り返し。『ヘンリー六世』第一部と第二部を一気に観てきた。7月2日(日)、ヒューマントラストシネマ渋谷。
 面白く見たし、退屈なところはなくて(というのも半分の尺に納めようとしてるから大事なシーンが数珠つなぎ)、お腹いっぱーい。
 でも、いろいろ言いたいことがでてきちゃった。

 『ヘンリー六世』って原作は三部作で、全部上演すると9時間くらいかかっちゃうのね。
 だから映像にする時、いちばん本作りが難しかった作品だろうと思う。ものすごくたくさんの人が出てくるし、それでも誰も「典型的」な描かれ方してない。シェイクスピアは、ワンシーンしか出てない人物にもちゃんとその人ならではのセリフを与えてるの。処女作がこれって、ホントにさすがなのよ。
 でも、だからこそ、本をカットするのが難しいし、改変はなおのこと。

 BBC版『ヘンリー六世』のいちばん大きな改変は、王妃マーガレットの浮気相手をサフォークではなく、サマセット公にしたこと。映画が始まってしばらく、マダムは凄く混乱してしまって、飲み込むのに時間がかかってしまったの。
 原作を知らなければ全然、戸惑ったりはしないでしょうし、ストーリー上おかしくなったりはしていないの。でも、マッチョで軍人そのもののサマセットが愛人だと、シェイクスピアが書いたものとは大きくかけ離れてしまう。
 原作のサフォークってさ、舌先三寸の寝技師でしょう? 剣では戦わなくて、口が上手くて、ベッドが戦場、みたいな男。気が強くて自ら戦場に出て行くマーガレットのような女が、口が上手いだけの男にメロメロっていうところが面白いのに。そして、サフォークは死ぬときも、軍人じゃないから、そういう正々堂々戦った死に方はできないわけよ。なんていうか、因果応報がピリリと効いてるのよ。シェイクスピア、ちゃんと描ききってるのよー、だからサフォークの設定を変えないでほしかったなあ。

 それとね、次の『リチャード三世』に繋げる意識がちょっと強すぎる感があるのね。なんといってもリチャード三世は大スターのカンバーバッチだから、第二部になるとリチャードが主役みたいになってくるんだけど。
 でもさ、そんな手心を加えなくたって、ヒタヒタと、リチャードはやってくるのよ。そんなに早くからスポットライトを当てなくても、大丈夫なのに。
 だって、あくまでこのお話は「ヘンリー六世」のお話なんだもの。そして気がついたらいつの間にか、日陰者のリチャードが真ん中に来ている・・・というね。
 
 いろいろ言ったけど、胸に刺さった演出も沢山あったの。いちばん刺さったのは、ヘンリーがほぼ全裸で羊の群れの周りを彷徨ってるところ。
 なんかね・・・リアじゃん。と思っちゃったら、わー、もうこの時にリアのもとがあったんだ、処女作には作家の全てが揃っているっていうけど、ほんとなんだわ、とかちょっと興奮気味のマダムであった(まあ、これは演出のおかげなんだけど)。
 そしてロンドン塔に幽閉されて、汚れた王冠が戻ってきて、初めてほんとに王らしくなるヘンリー。閉じ込められて、もう王でなくなって、初めて王らしくなるなんてさ・・・王様って哀しい。
 
 あとはね、戦争って、ほんとに血みどろだな、ってこと。人間はいくらでも残酷になれるんだな、ってこと。グロいのは苦手だけれど、こうやって血みどろを見ると、そのことを痛感する。グロい描写も必要なのかもしれないね。(でも、何度も顔をそむけました。)
 
 やっぱり『ヘンリー六世』の舞台が観たくなってしまって。新国立劇場の一挙上演から、もう8年とか経ってる。こんなに経っても、また観たいなんてね。
 
 さあ、ホロウクラウンも残すところ『リチャード三世』1本となったわ。
 ただね、スケジュールが・・・いつ行けるかなぁ?

嘆きの王冠 『ヘンリー五世』

 引き続き、嘆きの王冠ホロウクラウンシリーズ。第四弾は『ヘンリー五世』。7月1日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷。

 

 一連のシリーズでマダムが唯一、舞台で未見なのが『ヘンリー五世』なの。だから、台本を読んだことはあるにしても、映画でなーるほど!って思うことしきりだったわ。
 一番感じたのは、ヘンリー五世って特別に愛されてる王様だなあってこと。どんだけ褒めたたえてるんだ、シェイクスピアは。アジンコート(だっけ?)の戦いなんて、神風吹いてるし。フランス王女を口説くところも、なんかもう少女マンガの理想の王子みたいだし。そして、歴史に「たられば」は無いけれど、もしこの王が長生きしていれば薔薇戦争は起きなかったかもしれない、とみんな思ってるふしがあるのね。でも、歴史は冷酷。立派な人ほど夭折しちゃうのよ。
 トム・ヒドルストンは、やはりヘンリー五世を演るために配役されたのね。ハル王子のときも大人っぽかったけど、王になってからの格好良さが半端ない。
 『ヘンリー四世』の時とは監督が替わったせいもあって、映像だからこその表現が駆使されているのが楽しかった(思えば『ヘンリー四世』は舞台っぽかったのだ)。例えば、しょっぱなのトムヒが馬で駆けてくる疾走感や、風をはらむイングランドの旗。緑の丘陵に並ぶ軍の隊列。弓弦の空気を震わす音。野営地の焚き火の、温かなオレンジ色の輝き。
 やっぱり映像にするからには、舞台では見られないものを見せて欲しいし、『ヘンリー五世』の監督はよくわかってるなあ。
 一方で、舞台の台本では、かつての遊び仲間のバードルフが隊の規律を乱したと報告されると、確かに王は「処罰せよ」って命じてるけど・・・映像じゃ、既に木に吊るされてるんだもの。なんかショックだった。(こういう処刑のシーンとか、露骨っていうか、隠さないのね。こうだったものは、こうだったんだ、って。マダムはグロいの苦手なんだってば。)
 
 舞台はまた全然趣が違うと思うので、来年の新国立バージョンと、いつかやるはずのさい芸バージョンが、さらに楽しみになった!浦井ヘンリーと桃李ヘンリー(と決めてしまってるマダム)が、楽しみ楽しみ。(浦井くんとトムヒ、同い年なんだってよ〜!)
 
 

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