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2017年3月

小川演出『令嬢ジュリー』を観る

 1ヶ月ぶりの劇場。そしてこの劇場も久しぶり。3月19日(日)マチネ、シアターコクーン。

『令嬢ジュリー』
作/アウグスト・ストリンドベリ
上演台本・演出/小川絵梨子
出演 小野ゆり子 城田優 伊勢佳世

 通路前の座席を全部つぶして、舞台が作ってあったので、いつものシアターコクーンと比べると、0.6がけな感じの劇場になっていたの。縦長で観づらい部分が解消されて、とても良い雰囲気。
 『令嬢ジュリー』と『死の舞踏』を交互に上演するというのだけれど、マダムは『令嬢ジュリー』しか観ない予定なので、本来の舞台がある場所にどういう仕掛けがしてあるのかは、よくわからないままだった。ただ交互にやるだけじゃなくて、なにか面白い仕掛けがあるのなら、もっと大々的に説明してほしかったなあ。両方観ると、なにか良いことがあったのかしら?そういう訳でもない? 知りたかった。

 
 さて、このあと書くのは所謂ネタバレとは違うのだけれど、これから観る予定の方は、ここで引き返し、観てから読んでくださいね。
 
 

 ストリンドベリはもちろん知ってはいたのだけれど、芝居を観たことは(たぶん)なく、今回『令嬢ジュリー』初見(たぶん。断言できない・・・)。あんまり上演されてなくない?マダムが避けてきただけかしら?とにかく、新しい演出に興味があったの。それに、城田優のストプレ初挑戦だし、イキウメ後の伊勢佳世はどんなかしら?と思って。
 有名な戯曲だし、他でも読めると思うので、あらすじは書かないね。
 
 料理女クリスティン(伊勢佳世)が台所で仕事をしていると、伯爵付き召使のジャン(城田優)がやってきて話すところから、芝居が始まるのだけれど、ジャンが全然召使っぽくないのだった。素の城田優っぽい好青年な作り。伸びやかで、屈折も不満もなさそうに見える。もちろん彼のイケメンはどうやったって隠しようもないのだけれど、彼は演技の下手な人ではないと思うし、これは演出なのだよね?これでいくのか?と心の中で確かめつつ、見守ったの。
 そうしたら今度は、ジュリー(小野ゆり子)が全然令嬢っぽくなく現れ、渋谷のあたりにいそうな、ちょっと高慢ちきな女の子ぽかったので、またも、ええっ?となってね。
 いちおう高ピーで、ジャンに向かって靴にキスしろとか言って、誘惑しつつからかうんだけど、全然ドキドキしない。だって、令嬢が令嬢らしくなく、召使が召使らしくないんだもん。言葉で言ってるような身分の壁があるようにも見えない。(いっそのこと伊勢佳世が令嬢をやった方が良かったのでは?イキウメの『太陽』の時の彼女を知っていると、そう思える。)マダムは困ってしまった。その後の展開も、色っぽくなく、官能的でもなく、はたまた胸に迫ることもなく・・・カナリアを殺すところだけ、ちょっとドキッとしたけど、マダムの心に波風を立てることなく芝居は終わってしまったのだった。話の筋はわかったけれどね。
 客席も、どう反応していいかわからない雰囲気が漂ってて。カーテンコールの拍手は「いちおう」あったけど、もやもやした感じは役者さんたちにもろ、伝わってたと思う。客電ついた途端、拍手は止んで、さ、帰ろ、という感じだった。ライブって目の前に結果が現れるから、辛いね。

 
 でもね、演出も、役者も、すごく真面目に取り組んでるんだと思うの。だから、手を抜いてるとかそういうんじゃない。ちゃんとしてた。だけど、どういうことを面白いと思うか、根本的に何かが違ってる気がした。マダムとは。
 小川演出が、この本のどこを、どう面白がってるのか、マダムはさっぱり理解できなかった。たとえば小野ゆり子が、思ったほど令嬢らしい存在感が出ないのなら、衣装とか化粧とかアクセサリーとか髪型とかを盛って、らしさを助ければよかったのに。城田優が召使らしくなければ、もっとくたびれた召使の衣装を着せればよいし、もっと疲れたメークをさせることもできたのに。でもそれは、しないんだもんね。身分の差と、男女の違い。この二つが交錯して面白い瞬間ができるのに。いちおうセリフで説明はされてるけど、芝居なんだから、目で見えるか、肌で感じさせてくれないとね。身分の差がにじみ出てない二人なので、火花が散らない。
 マダムが思うに、この戯曲の二人は、身分の違いがそれぞれの人間性にまで染み渡っていて、男も女もそこからは逃げられない。もっと閉塞してるの。その圧迫感のなかで、身分の低い男が、令嬢を籠絡するのを固唾を飲んで見ている、通俗的な喜びもあったりするのが、このホンの正体なのではない?(あまり品が良くないけど。でも、そうとしか考えられない。)だから、身分の差のこともそうだけど、ラブシーンもお上品過ぎて、全然ドキドキしなくて、なんだかなぁ。あれじゃ、何も知らずに見たら、ジャンとジュリーがやっちゃったこともよくわかんないんじゃない?もっと、部屋から出てきたときに身体から、だだ漏れてないといけないと思う(下品でスミマセン。でも、そうなんだ)。それでこそ、やっちゃったあとに急に女に対して粗暴で支配的になる男の(ありがちな)態度とか、妙に言いなりになるプライドのへし折れた令嬢の言動とかに、リアリティが出て面白くなるんだと思う。
 
 
 最近ね、マダムはちょっとブログやめたくなってきちゃった。だって、「見てみて!面白いんだよ〜。こんなに!」って言いたいのに、「なぜ面白くなかったか」の分析ばっかりしてるんだもん。そりゃ楽しくないわ。
 芝居選びの基準を、考え直さなきゃいけないのかも(あ、もちろん、自分だけに通用する基準だけどね)。 

マクダフの生まれ方〜翻訳と上演台本の間

 今日は、かなりマニアックなお話。興味のある方だけ、どうぞ。
 
 
 『ナルニア国物語 ライオンと魔女』の中に、魔法のかかったプリンが出てくるのを、憶えている方はいるかしら?

 ナルニアシリーズはマダムの幼い時からの愛読書なのだけれど、大人になってから知り合った同胞たちはみな、原書では、このお菓子がプリンではないことを知っていたの(翻訳者の注があったからね。愛読者は皆、注まで読み尽くすものだから)。Turkish Delight(トルコの悦び?凄いネーミング)という名のそのお菓子を、皆一度は食べてみたいと願い、イギリスに行った誰かがお土産に買ってきて試食会が開かれる、というようなことも彼方此方で、あったらしい。かく言うマダムもその一人で、ひとかけら食べただけで頭痛が起きるかと思うような甘さだったのを、忘れはしまい。魔法がかかっていなくても充分、気分が悪くなるような甘さだったわ。もちろん、これはこれで好きな人もたくさんおられるのでしょうけど。
 ナルニアシリーズは岩波の翻訳権が切れて、新しい翻訳が出たそうで、新訳ではプリンではなくターキッシュディライトとしているのだそう。だけど、マダムはこのお菓子を、悩んだ末に「プリン」と意訳した瀬田貞二訳を支持するわ。今でも。なぜなら、この翻訳は、日本の子供が読むためのものだったから。そのとき瀬田貞二は自分の立ち位置を、少しだけ、小さな読者たちの方へ寄せたのだ、と思うから。

 前置きが長くなった。でもこれは重要な前置き。

 1月にカクシンハンの『マクベス』を観て以来、気になっていたことがあった。カクシンハンの演出とかとは関係がない。翻訳のことなんだけど。
 マクダフの生まれ方について。

 マクダフは、最後にマクベスにとどめを刺す貴族。妻子をマクベスに殺され、恨み骨髄でマクベスに向かうんだけれど、マクベスの方は
「女から生まれた者は誰一人、マクベスを倒せはしない」
松岡和子訳
という予言を魔女からもらっていて、誰のことも全然怖くないの。ところがマクダフに
「月足らずのまま、母の腹を破って出てきた」
んだ、って言われて、マクベスは予言の隙を突かれたことにショックを受ける。
 ここの台詞(翻訳)が、どうしても腑に落ちない。
 だってさ、どこから出てこようが(帝王切開だろうが)、女から生まれたことに変わりはないでしょう?予言の裏をかいた感じが、わからないの、この台詞では。

 1月のカクシンハン公演の時、マダムの脳内では「あれ?マクダフって女の股からは生まれてないぞ、って話じゃなかったっけ?」という声がした。そして、「女の股」と翻訳した人は誰だったのか、気になったら、いてもたってもいられなくなり、当たれるだけの翻訳に当たってみたの。でも、見つからなくてね。

 松岡訳(承前)のほか、小田島雄志訳では魔女が
女が生んだものなどにマクベスを倒す力はない」
と予言し、マクダフが
「女から生まれる前に、月足らずのまま母の腹を裂いて出てきた」
と看破する。河合祥一郎訳では魔女は
「女から生まれた者にマクベスは倒せぬ」
と予言し、マクダフは
「母の腹から月足らずで引きずり出された」
と言い返す。
 予備知識なく芝居だけを見て、マクベスが魔女に騙されたショックを観客が受け取れるのは、小田島訳なのかな、とは思う。「女から生まれる前に、・・・出てきた」と言ってるから。それでも、「女の股」の納得感には負ける。

 友人たちと話してみて、「女の股」は『メタルマクベス』の上演台本を書いた宮藤官九郎の作ではないか?と行き当たったの。このあいだ録った録画を消してしまっていて確認するすべが今ないんだけれど。
 確か、魔女の「女の股から生まれた者にはマクベスは負けない」という予言があり(歌になってたかも?)、対するマクダフの「俺は女の股から生まれてない。俺は月足らずの帝王切開だから」みたいな分かり易いセリフになっていたような。『メタルマクベス』の録画を持っている方、ちょっと確かめてみてください。

 『メタルマクベス』(劇団新感線)は、シェイクスピア翻案物に厳しいマダムをも唸らせる面白さだったのだけれど、なにより上演台本が凄くよく出来ていた! シェイクスピアがどんな人物設定をし、どんなつもりでセリフを書いたかを、よ〜く理解した上で、初めて見る観客にもわかるような意訳でセリフを作り直し、さらにもっと面白くなるように話を盛っているの。土台の、「よ〜く理解」のところが、ホントによ〜く理解なので、どんなに意訳してあっても、どんなに盛ってあっても、ちゃんとマクベスらしいマクベスになっていた。
 
 翻訳本はシェイクスピアの書いたセリフから大きく離れることはできないから、「女の股」とはできないよね。そこが読み物としての翻訳本と上演台本の違いなのかな。
 でもせめて、「女に産んでもらった奴にはマクベスは倒せない」くらいには意訳してもいいのではないかな。そうしたら「自分で母の腹を破って出てきた」とマクダフが言い返した時、「俺は女に産んでもらってないからな!」っていう感じがちゃんと出るし、マクベスのショックがわかるじゃない?
 日本語の「生まれる」には、そもそも母によって生み出される感がない。もっと自然現象な感じ。だから生んで「もらった」とわざわざ言わないと、魔女の予言とマクダフの看破の、違いが出ないじゃない?
 ここで前置きで言ったことに戻る。最後の最後には、立ち位置を、日本の観客の方へ、少しだけ寄ってほしいの。
 それがいち観客としてのマダムの希望。
 メッチャ、細かいことにこだわってるんだけど。
 マクベスって何度も何度も見たから、いろんなこと考えちゃうのね。

浦井くん、芸術選奨新人賞受賞

 ビッグニュースが飛び込んできたよ!
 我らが浦井健治が、平成28年度芸術選奨<演劇部門>文部科学大臣新人賞を受賞した〜。
 やった〜!おめでとう!
 文科省もたまには良いことするよー。えらーい(この件に関しては)。
 文科省のHPで受賞の理由をしっかり読んできたんだけど、この1年間の「タイプの異なる4作品で、俳優としての進化を強く印象付けた。」ってことだ。4つの作品とは、『アルカディア』『あわれ彼女は娼婦』『王家の紋章』そして『ヘンリー4世』ね。全部、観てるっ!当然〜。

 今年の出演予定作は全てミュージカルだし、半分は再演。マダムとしては1作くらいは手強いストレートプレイをやってほしかったの。それが役者としての可能性をもっと押し広げてくれるだろうと期待しているから。いや、そんなことより、演技の稲妻に出会いたいから!
 でも、マダムの願いを聞き入れて(?)、映像に出演するのを最小限にして舞台に精進してくれてることを、ホントに感謝してる。来年の『ヘンリー五世』も決まってることだし、それまでは頑張って生きることにしてるから、まあいいかしらね。

 おめでとう。浦井くん自身と、浦井健治ファン(つまりマダムたち)、本当におめでとう!

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