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2016年10月

横田ホレイシオ再び

 シェイクスピアの講座に行ってきたわ。10月22日(土)1:30〜、清泉女子大学。

 
清泉女子大学ラファエラ・アカデミア一日講座
シェイクスピア没後400年記念特別企画
『ハムレット』から見える世界 トークと朗読ワークショップ

 講師 横田栄司
    米谷郁子(司会) 清泉女子大学英語英文学科准教授

 
 役者さんが講師になるシェイクスピアの講座は、これまでも色々あったのだけれど、平日のことが多くて、なかなか行けなかった。今回は土曜日だったので、これ幸いと行ってきたの。
 配られた資料には、ハムレットについてのアカデミックな説明が色々あり、マダムが日頃気にしていた「ハムレットって、一体いくつの設定なんだろ?」というような疑問にも、答え(あくまでも研究上の)が載っていて、なるほどなるほど、と思ったの。
 でも、始まったら、とにかく「今日はもう、横田さんの話を聞こう」という流れになり、受講者全員が、待ってました!な感じで、前半は横田栄司のほぼ独演会だったわ。

 彼はこれまで、「ハムレット」に様々な役で出演している。蜷川演出に初めて出たのが、真田広之主演の「ハムレット」で、このとき彼はレアティーズ。その後、野村萬斎主演の「ハムレット」でホレイシオ。そして皆知ってる藤原竜也主演の「ハムレット」でホレイシオ。
 会場では萬斎ハムレットのときのDVDから、幕開きのシーン(夜中の城壁で、ホレイシオが亡霊に会うシーン)が流れた。10年以上前の作品なのに、横田ホレイシオは今と変わらぬ落ち着きが備わっていて、マダムはおおっ!と思ったわ。
 ホレイシオは好きですか?と問われ、それについては好きとも嫌いとも言ってなかったけれど、ホレイシオは俯瞰する人物だ、と分析していて。そして知性の人である、とも。だから幽霊なんか信じていない。その彼が王の亡霊を見たから、信憑性があるのだ、という言葉に、納得。
 話の中心は、二度のホレイシオ体験について。同じ役とはいえ、相手役によって変化があって、萬斎ハムレットとは学友な感じだけど、藤原ハムレットとは悪友な感じだった、と。そしてそこから、昨年の「ハムレット」のときの蜷川演出が、いかに苛烈なものだったかの話になった。
 当時すでに闘病中だった蜷川御大は、車椅子で酸素チューブ付き。病院から稽古場に通っていた。病院のベッド上、御大の頭の中では稽古がどんどん進んでいて、でも現実の稽古場に来てみると、出来てたはずのことが出来ていない。なので、御大はいまだかつてなかったほど激しく怒っていて、とても大変であった・・・そうなの。
 「竜也にもっと優しくしろ!」と怒鳴られ、「・・・あの、それは、舞台上でしょうか?それとも、普段の竜也に、ですか?」と問い返し、「馬鹿野郎!舞台上に決まってんだろ!飲み屋で優しくしてどうすんだ」とまた怒鳴られた横田栄司。「それなら竜也に、じゃなくて、ハムレットに優しく、と言ってくれないと・・・」って。みんな大爆笑だったわ。
 この話を聞いていて、マダムはちょっとリア王を思い浮かべたの。御大、ちょっとリア王入ってるよ。
 
 質問していいと言われたので、早速手を上げて質問してみたマダム。
「本来なら今頃、小栗旬くんのハムレットが上演されていたと思いますが、横田さんはどの役をやるはずだったのですか?」
 我ながら、めちゃくちゃいい質問だわ。答えは、
「出演の予定はあったんですが、役はまだ言われてませんでした。」
とのこと。でも、ホレイシオはもうなかっただろう、と。ホレイシオは、二人のハムレットには相まみえない、のだそうだ。だから、他の役、いくつかを挙げていたんだけど、「なにがやりたいですか?」と訊いたら、素晴らしい答えが返ってきた!
「河内大和とのコンビで、ローゼンクランツとギルデンスターンがやりたいです」
だって! うおー、なんて贅沢。それ見たい、是非、それ採用してほしい。そして「ハムレット」公演後、今度はその二人で引き続き「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を演ってほしい!!!
 さい芸シェイクスピアシリーズ番外編で、是非!
 
 休憩を挟んで後半は、朗読ワークショップ。受講者の中で希望した人が前へ出て、ハムレットとホレイシオとオズリックのセリフを読み合ってみる。
 何組かやってみたんだけど、毎回、横田アドバイスによって、どんどん変化して、芝居が立体的になっていくのがわかるの。面白い!マダムは、出来上がった芝居も好きだけど、作っていく過程も好き。見ると、ワクワクする。
 最後に、受講者の中にいたAUNの齋藤慎平と、清泉の学生さん(たぶん)、そして横田栄司で、読み合ってくれた。もちろん横田ホレイシオで。
 横田ホレイシオの「負けるんじゃないですか、この試合」というセリフがまた聞けて、幸せだった。
 
 あっという間に2時間が過ぎ、聴き足りない気もしたけれど、とにかく楽しかった。芝居を観るだけじゃなく、こうやってあれこれ考えたり、勉強したりするのがよっぽど好きなんだね、マダムは。老後もたぶん、飽きないわ。
 
 探求する次の課題も見つかった。
 司会の米谷先生が少し言いかけて、あまり掘り下げずに終わってしまったのだけれど、ホレイシオが死んだハムレットに言う「Goodnight,sweet prince」というセリフの「sweet」。これが問題なの。
 これをどう翻訳するか。2003年に河合祥一郎訳で、初めて翻訳された(と、マダムは聞いてます。ホントかな?)ときは「やさしい王子さま」。
 でも米谷先生的には「やさしい」よりも「いとしい」である、と。そうなると、少しホモセクシャルな感じになってくる。
 じゃあ、小田島訳、どうなってたんだっけ?と思って、見てみたら、「おやすみなさい」だけになってて、王子様すら訳されてなかった!
 このあたりについては、個人的に、探求してみたいな、って思ってる。
 

『あの大鴉、さえも』に悩む

賑わっていたわ、芸劇。10月9日(日)マチネ、東京芸術劇場シアターイースト。

『あの大鴉、さえも』

作/竹内銃一郎 上演台本/ノゾエ征爾
演出/小野寺修二
出演 小林聡美 片桐はいり 藤田桃子

 
 風邪をひいてしまったのが、不覚だった。
 そのせいで集中力を欠き、ぼんやりしてしまうこともしばしばで、芝居を観る態度としては最低だったと、反省してるの。
 だって、面白くなかったのが、芝居のせいなのか自分のせいなのか、わからないんだもんね。
 
 まず言っておかなくちゃいけないのは、この有名な戯曲、マダムは初見だということ。戯曲の名前と演出家と三人のキャストの名前を見たら、そりゃあチケット買うよねえ。ワクワクする取り合わせ。何か見たこともないことが起こるぞ、と思うでしょう?
 初見でも、この芝居にいわゆるストーリーがないことは知っていたし、こちらの五感が鈍っていても割って入って来る、新感線みたいなサービスは無いことも承知していたから、もうとにかく、マダムの体調管理の甘さが責められるべきなの。
 それはもう、責めていただいていいのだけれど、敢えて言わせて貰えば、やっぱり、あまり出来のいい芝居ではなかったのではないかしら。
 三人の動きの面白さは、それなりに面白く見た。運んできた大ガラスを壁の隙間に入れたら、出てきたときは小さくなってたり、三つに分かれてたり。紐を使って、ガラスを運んでいるように演技したり。切り立った壁に身体をぴったり寄せたり、壁に足をついて床に寝転んだりして演技すると、どっちが壁でどっちが床だかわからなくなったり。視覚的な面白さは、いろいろあったの。
 でも、台詞が面白くない。弱いの。力が足りないの。
 視覚的な仕掛けと、台詞とが、分裂していたと思う。本当は、動きの面白さと台詞の面白さが分かれていては、いけないんじゃないかな。一緒になって、突き進んでいくのが本来の姿だったのでは?
 いえね、ぼんやりしてただろ、お前、と言われたら、言い返す言葉は無いんです。無いんですけどね。
 
 なので、今日はこの辺にしておきます。
 ごめんなさーい。体調、整えまーす。

アマヤドリ公演『月の剥がれる』を観る

 この劇場は、風間杜夫主演の「大人の時間」以来だから、なんと7年ぶりだわ。10月1日(土)マチネ、吉祥寺シアター。

劇団アマヤドリ本公演『月の剥がれる』
作・演出/広田淳一
出演 笠井里美 倉田大輔 榊菜津美 宮崎雄真 沼田星麻
   毛利悟巳 谷畑聡 ザンヨウコ 田中美甫 ほか



 初めて観に行く劇団には、いつも何かきっかけがあるものなんだけど、劇団AUNの谷畑聡が出演していること以外、予備知識は何もなかったの。
 ただ、作家(演出家)がツイッターでつぶやいているのを幾つか読んだとき、何かが匂った、としか言い表せない。言葉の意味よりも、言葉の選び方に強く惹かれるものがあって。
 マダムは一筋縄ではいかない人に惹かれがち。その勘は当たって、一筋縄ではいかないお芝居だったー。
 
 日本の近未来なのか、幻なのか、はっきりしないけれど、とある高校で、過去の事件を振り返る授業が行われている。過去の、新興宗教の連続自殺事件について。
 新興宗教「散華(さんげ)」は、身を挺して戦争を止めることを目的としている集団。日本が戦闘で他国民を殺害した場合、その数と同じだけの信者が自殺する(散る)ことにしている。その衝撃的な行為で、反戦を訴えようとしている。死に方は本人に任されているが、その映像を残し、メッセージとして世界に働きかける。
 だけど結局、それは戦争を止める方へは全く働かないの。それで、散華は生贄となる人間が足りなくて、せっせと自殺願望のある人間をリクルートしなくちゃならない。そんな人を探して、青木樹海の入り口で待ち構えたりする。
 でも、このファナティックな集団の描き方は、最初から皮肉に満ちていて。他人を自殺せざるを得ない立場に追い込み、自分は生き残っていく幹部たちの裏表が、初めから隠されずに描かれてる。そして、上手く立ち回る幹部たち、追い込まれて自殺する人、どちらにも感情移入できないように、芝居が作られているんだよね。
 
 そして「散華」の発足から消滅までを、授業で勉強している高校生たち。
 こちらもまた、誰かに感情移入できるかというと、できないように作られてる。謎の転校生が来たり、その転校生をかばう女の子がいたりするんだけど、わかりやすくは描かれないので、それぞれが何を考えているのか、つかめない。
 いちばん謎めいているのは、高校生たちが「散華」をすごく突き放した感じで議論しているところ。まるで私たちが歴史の授業で関ヶ原の戦いを学んでいるかのように、距離が遠い。
 
 ふたつの違う場所、違う時間を絡み合わせるだけじゃなく、そこにさらにダンスも絡んでくる。しょっぱなから、時の女神みたいな人(配られた人物表ではイノリ。田中美甫)が美しいステップで現れて、ふたつの場所、ふたつの時間のまわりで踊る。踊りは美しくて見つめちゃうんだけど、本筋のお話とのつながりは、よくわからない。
 そして群舞。これが凄い。出演者30人弱。全員がバレエのようなステップを踏んで、踊るラストのパフォーマンスは圧巻。
 だけど、わかりやすい意味づけは見えない。
 
 「散華」が滅亡するところまでを見つめてきた高校生たちは、自分たちが、その歴史から何を学んで、何を選んだのかを知る。高校生たちは(というか、日本人は)、「怒りを放棄する」ことを選んできて、彼らのような人間になったのだ。憲法第9条の「武力」の部分が「怒り」に置き換えられて、高らかに宣言されると、いろいろとわからなかった事柄が、マダムの脳の中でジリジリと集まってくるような感覚に捕らわれたの。
 

 わかりやすい主人公をたてず、わかりやすい善悪に分けず、わかりやすい感情の流れを示さず、それでいて、いろんな筋立てもダンスもごった煮のように放り込まれている芝居。その中からマダムがかろうじてわかったのは、「何かに反論するとき、怒りで反対することは結局、同じ穴のムジナに陥る。怒りを捨てよ」という作家の主張。「争いを止めたくても、そこに命をかけることは結局、争いの火に油を注いでしまうよ?」という問いかけね。そして、だからこそ、ひとつの結論に収斂していくような芝居にはしたくないんだと思う。ごった煮を、ごった煮のまま差し出してみよう、という。それが面白くもあり、どこか理が優っているようにも思えたの。
 いろいろわからなかったんだけど、すごく後を引く芝居だったわ。それはつまり作家の術中にはまったってことだよね。
 
 ただ登場人物の誰もが、人間というより、作り物っぽくマダムには感じられて。「怒り」を失うと、争いは無くなるのかもしれないけれど、人間らしくなくなってしまうのではないかしら。煩悩の塊のマダムとしては、美しくは生きられないと感じながら、帰路に着いた土曜日だった。

ミュージカル俳優浦井健治ファンのための、「ヘンリー四世」講座 その3

 その3、遅れてしまい、ごめんなさい。
「ヘンリー四世」だけを読んだのでは、イマイチ理解できないところが出てきてしまいます。そこで知っておきたいのは、この作品の大前提になっている歴史的事実。一番のポイントはここです。

5. 王様(ヘンリー四世)は何をそんなに悩んでいるのか?

 王様は、しょっぱなからイライラしているのですが、それは息子のハル王子が放蕩息子だからというだけではありません。
 実はこのヘンリー四世、正統な皇太子から王になった人ではないのです。
 王家の血筋なのは間違いないのですが、従兄弟である前王(リチャード二世)がダメな王様だったので、戦って、彼を無理やり退位させ、自分が王様になった。リチャードを幽閉し、結局は死に追いやった。それがヘンリー四世です。
 リチャード二世から王位を簒奪したときには若く血気盛んで自信満々だったけれど、年を取ってくるにつれて、自分が正統な王でないことが気になっていきます。部下である貴族たちも、王に対して少しでも不満があると「あいつは本当は王になるべき奴じゃなかったんだ」とか「我らが王にしてやったのに、今の偉そうな態度はなんだ」とか裏で言うのです。王と呼ばずに、王となる前のボーリンブルックという名前で呼ばれるときは、たいてい悪口なわけなのです。
 ですから王様は、自分が死んだ後、王位を巡って争いが起きるのではないかと、気が気ではない。死ぬ前に、悪い芽は摘んでおこうと必死なのです。それなのに息子は親の気も知らないで遊んでいる。だから、ますますイライラしてしまうのです。

 一方のハル王子が、なぜ父王に逆らって遊んでいるのか。
 そこは何も書かれていないのですが、マダム的解釈では、父王の「後ろ指さされない、王様らしい王様でありたい」みたいな変なプライドに対して、素直になれないところがあるのでは?と思えますね。

 この王位の正当性問題は、「ヘンリー四世」のお話全体を覆っている空気の色を決めていると言ってもいいでしょう。そういう意味では、題名が「ヘンリー四世」であるのも、うなずけます。

 そして結局のちのちには、王位を巡って貴族たちは真っ二つに分かれて戦う内戦に突入してしまう。それを描いたのが「ヘンリー六世」三部作なわけです。
(ちなみにヘンリー四世が若いとき王位を奪ったのを描いたのが「リチャード二世」という芝居です。いずれ、新国立劇場でやってくれないかなあ、とマダムは期待しています。もちろんリチャードが岡本健一、ヘンリー・ボーリンブルックを浦井健治で。

 以上がマダムの「ヘンリー四世」講座です。
 台本を読むヒマがなくても、とりあえずこのくらいの大前提さえ頭に入っていれば、芝居を楽しめるんじゃないかなあと思った次第です。
 サクッと説明、なんて言って、やっぱりちょっと長くなってしまいました。お許しを。

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