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市村正親の『炎の人』

 市村正親が『炎の人』に挑戦すると聞き、ずっと楽しみにしてきた(それについては→ここ )。それで、この重厚な物語を味わうには今ひとつの体調だったけれど、がんばって行ってきたわ、銀河劇場。6月17日(水)のマチネ。

 『炎の人』
  三好十郎・作 栗山民也・演出
  出演 市村正親 益岡徹 銀粉蝶
     中嶋しゅう 荻野目慶子 他

 うーん。綻びのない舞台だとは思うものの、マダムの心の真ん中にはヒットしなかった。原因はいろいろある。でも一番大きいのはたぶん、これ。演出の栗山民也と相性が悪いの、マダムは。
 昨年の『かもめ』も同じような感じだった。丁寧だし、大きな欠落はないものの、ここぞというインパクトが不足している。これだけは伝えずにはおかないぞ、という演出家魂が感じられない。
 なぜなのかしらん。マダムの推測するに、これは頼まれ仕事、であるからよ。演出家のなかにこの作品を是が非でも演出したい!という渇望がないところから出発してるから。のようにマダムには感じられるよ。でも、それって、客に見えたらいけないことじゃないの?
 観たあとだからしみじみ思うけれど、『炎の人』という戯曲、今、演出するのは一筋縄ではいかないんだよね。書かれた頃の時代背景、三好十郎自身の思想信条が、色濃く映し出されている。劇団民藝と滝沢修であれば書かれた通りにやればよかったけど、これを今、どう、料理するか。自分はどう対峙するか。客にどこをわかってもらいたいか。書かれてから50年経ち、良くも悪くも古くなった部分を、どう見せるのか。演出家が格闘した痕跡が観たかった。それが芝居というものじゃあないの?
 栗山民也は自分自身が格闘することを、微妙に避けている。戯曲の作家性を尊重しているのだと言ってしまえば聞こえはいいが、演出家は調整係ではないのよ。戯曲と役者の折り合いのつく地点を探してるばっかりじゃ、客の心に切り込むことは出来ないよ。
 何本も観て、演出家としての心意気が伝わらないんじゃ、もうマダムは観に行かなくてもいいかな、と思う。(なあんて言っても、こまつ座の演出はほとんどこの人なんだよねえ。こまっちゃうな)
 特に今回大きく首を傾げたのは2幕の開始部分。スクリーンにゴッホの絵を大きく映し出し、ゴッホの独白(市村正親の声)をだらだらとテープで流した。その後も、ゴッホの心の中の声を演技中にテープで流す。これは台本の指定だろうか。だとしても、今、その手法をそのまま使うことに対して、疑問に思わなくてはいけないのではないかしら? もし今回のオリジナル演出だとしたら、何をかいわんや、だわ。
 音声や映像をどう舞台で使っていくか、演劇は今どんどん進化してる。それなのに、こんな工夫のないやり方を見せられると、がっかりしてしまうわよ。

 そこで結局、舞台の成否は役者の提供する演技にどうしてもかかってきちゃう。今回は市村正親がその全てを支えていた。他の役者たちも確かにちゃんと熱演なのだけれど、市村正親の台詞を聞いたとたん、本物は誰か、すぐ区別がついてしまうんだよね。さすがだな。
 だからこそ、組んだ演出家との化学反応とも言うべき、突き抜けた何かがなかったのは寂しかったし、彼自身もこの役をやることで未だかつてない領域に踏み込みたかったろうに、残念な気がするよ。

 30年も前にテレビ中継で観て、細部はほとんど忘れてしまった滝沢修のゴッホと、比べるのはあまりに失礼なはなしよね。ので、たったひとつだけマダムの気がついたことを言わせてね。
 何かのインタビューで蜷川幸雄が市村正親について「太陽のような役者」だと言ってたの。ホントに彼はそうなの。体の芯に明るいエネルギーを持ってて、どんな絶望的な役をやってもそれを隠すことが出来ないの。だから、市村正親のゴッホはどうしても明るい。どうしても元気だ。それはたぶんどうしようもないことなのだろう。逆にそこから元気をもらう観客だっているはずなのよ。
 でもね、30年前に高校生だったマダムの心を貫いた滝沢修のゴッホは、例えようもない絶望を抱えていた。マダムはそこに人生の真実を感じて涙したの。
 芝居体験は一期一会。観客の人生のタイミングも絡んでくるので、どっちが優れているとは言えないけど、マダムはやっぱり忘れられないな、滝沢ゴッホ。
 

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芝居レビュー」カテゴリの記事

コメント

戯曲、買ってきて読む暇がなかったので、
今、2幕の最初とゴッホの声のところだけ
確認しました。

脚本、かなり細かく指定してあります。
スクリーンを使うことも声をテープで
流すことも、脚本通りです。

1幕最後の音楽も指定してあったり
しています。
2幕最後の中嶋さんの朗読の最後、
(唸り、どよもすハミングの中に、拍手)
というト書きの指示には従っていないです
から、すべて指示通りというわけでも
無いようです

栗山さん、新劇の良さを少し残した感じの
重厚な演出をなさるので、私は好きです。
ただ、それが古いと感じられる方は苦手に
なさるかもしれませんね。

「かもめ」はあのキャパでやること、これは
ホリプロの意向でしょうが、そのこと自体に
無理があるので、観劇しませんでした。

たかちゃんさま。

やはり戯曲の指示通りなんですね、かなり。
書かれて50年経つってことをしみじみ感じちゃいます。かといって、何でもかんでも新解釈すればいいというものでもないでしょうし。

『かもめ』は、おっしゃる通りで、埼玉芸術劇場の小ホールでやるべきホンでした。

新聞の劇評は、各紙とも名作が栗山演出でよみがえったと評価していますね。
脚本が細かく書いてあるので、役者も当然誰でもできるものではないということですね。

滝沢さん、役づくりのためにパリのゴッホの
通った道までたどったり、計算しつくされた
役作りだったようで、TV放送でも良いから
見たかったです。

こんばんは。
炎の人の戯曲、青空文庫で読めます。
一応お知らせしますね。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001311/files/47646_34743.html

たかちゃんさま。
情報、ありがとうございます!
時間が許せば(というか体調が許せば)、読んでみたいと思います!

マダムさま、お久しぶりです。
レヴュー、ありがとうございました!実は、私も30年前(?)にテレビで滝沢ゴッホを見た一人です。ただ、その時涙しはしなかったのですが、何年か後に生で観た滝沢さんの「セールスマンの死」は、恐ろしく素晴らしかった。。。あの絶望は何かこう、、、底のないものでした。今回の市村さんのゴッホは、なんとなくイメージが合わないような気がして、ちょっとパスでした。

栗山演出は数えるほどしか観ていませんが、栗山色というのが私には、今一つ、つかめない方です。印象的だったのは、大竹さん主演のブレヒトの肝っ玉で、昔の千田さん演出より、人間がくっきりとして魅力的でした(ただし、ブレヒトらしいかと言うとそうではなかったかも)。

shuさま。
貴女も観たのですね『セールスマンの死』。マダムも観たんです。
ああ、こんなに時が流れて、同じ芝居を観た人とこうして語り合えるとは・・・ちょっと、涙が・・・。
滝沢修の孤独の表現、あれ以上の絶望を舞台でまだ観たことがないです。
今こうして大人に(というか、だいぶ大人に)なって思うのですが、あれは戦争をくぐり抜けてきた人ならではの、絶望表現だったのかもしれないですね。
だから同じものを市村正親に求めてはいけないんです。
そう、わかっている。わかっているけれども、滝沢修の雷に撃たれたことのある人間には、満足できないんです。
shuさん、また、お話ししましょうね。

マダムさま、すみません、続けてコメントします。
嬉しい、、、私もお返事読ませていただいてちょっと泣けてきそうです。ご覧になってたんですね、「セールスマンの死」。
あぁ、戦争をくぐりぬけてきた人の絶望ですか、、、そうか、、、20代で観た時、そういうことは思いもしなかったし、二十数年ぶり(?)にマダムさまの記事であの時の感情を思い出したくらいですから、今まで放りっぱなしで、ちゃんと考えたこともなかった。
ごめんなさい、今はなんともコメントできないです。でも、嬉しい。

shuさま。
インターネットなくしては、私たち、出会わなかったし、『セールスマンの死』のことも思い出さなかったかもしれないですね。
これだから、ブログ、やめられないです。

滝沢修のなにがよかったか、いろいろ思い起こすと、あの深みのある声に尽きるのかな、とも思います。

今マダムは観劇のペースダウンが避けられない状況ですけど、昔のことを少し掘り起こして、書いたりしようかしら。
アーカイブ・シリーズってことで。
そうしたらまたshuさんと同じ観劇経験、発見できるかもね。

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