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このブログは、マダム ヴァイオラが観たお芝居、お気に入りの役者さんたち、読んだ本などについて、勝手な感想を綴ったものです。内容は基本的にマダム ヴァイオラの記憶によるものです。間違いのないように気をつけてはいますが、事実関係の正確さは保証できません。
記事を引用されることはかまいませんが、著作権は私(マダム ヴァイオラ)にあります。引用される時には、必ず引用元としてこのブログ名を明記してください。
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コメントは大歓迎です。願いはただひとつ、芝居の話で盛り上がること!

『プライマ・フェイシィ ー私の声を聞いてー』を観に行く

 少し間が空いて、1ヶ月ぶりの劇場。7月7日(火)ソワレ、下北沢ザ・スズナリ。
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 シス・カンパニー公演

 『プライマ・フェイシィ ー私の声を聞いてー』
 作/スージー・ミラー
 翻訳/徐賀世子

 演出 栗山民也
 出演 三浦透子
 





 一人芝居にはあまり行かないのだけれど、これは三浦透子に惹かれてチケットゲットした。NTLiveは観ていないので、予備知識はチラシのあらすじのみ。
 プライマ・フェイシィというのは法律用語で「反証されない限り事実を証明する十分な証拠」という意味らしい(濱田元子氏の毎日新聞の劇評による)。邦題をつけるのが難しいね。
 
 100席ちょっとのスズナリは超満員。通路に補助席を出して当日券の客を入れていた。
 舞台はグレーの壁に囲まれた無機質な部屋のセット。上手側の壁にはドアが2つ作ってあり、一つはクローゼットになっていてドアの陰で役者が着替えたりできる。真ん中に大きなテーブルがあり、3方に椅子が1脚ずつ。下手に引き出しのある小さめのデスク。上手に一人がけのソファ。
 後ろの壁には時折、時や場所を示す字幕が映る。また、壁の中央に照明の縦ラインが入ることがあって、それによって、場面転換や主役の気持ちの変化などが示される。
 小さな舞台だし、基本的に余計なものを置かず、シンプル。役者の力量のみが勝負。
 三浦透子、凄かった。
 
 テッサ(三浦透子)は若いが、やり手の弁護士だ。労働者階級の生まれだけれど、ロースクールを優秀な成績で卒業し、同窓生の中を勝ち抜いて大手の事務所に入ったことを自慢に思っている。
 テッサは依頼があった仕事はほぼ受ける。最近よく来るのは性暴力事件の加害者側の弁護だ。グレーのスーツでバシッと決めてテッサは、被害者に弁護側の尋問をしていく。被害者の記憶の曖昧さを突き、訴えの信憑性に疑問を投げる。そのやり方で大抵、加害者は無罪になる。テッサは「裁判では真実を明らかにすることなど、求められてない」と言い切って得意げだ。
 自信に満ちているテッサは、深夜、同僚のジュリアンの仕事部屋でジュリアンと関係を持つ。しかしある日、ふたりで酒を飲み酔っ払ってテッサの部屋になだれ込んだ時に、事件が起きる。テッサは酔いが回りすぎて体調が悪くなり、足元がおぼつかないところを、ジュリアンに無理やりレイプされてしまう。
 テッサは酷く傷つき、フラフラになりながら自分のアパートを抜け出し、逡巡した後、警察に行く。屈辱的な扱いを受けながら、テッサはジュリアンを告発することを決め、そこから長い裁判への道が始まる。
 テッサは自分がかつて弁護士として被害者に浴びせてきた質問を、被害者となった今、浴びなければならない。そして、被害者がいかに動揺していて記憶が曖昧であるか、論理的な行動が取れない状態であるかを思い知る。法律を作ってきたのが男たちで、いかに男に有利な法律であったかも知る。それでもテッサは、自分の尊厳のため、裁判を最後まで闘おうとする…。
 
 というお話。テッサ役でありながら、語り手であるので、三浦透子は相手の台詞も、状況説明も全てしなくてはならない。テッサが慟哭していても、説明は淡々と行わなければならない。それはそれは大変なのだけれど、三浦透子、完璧。凄い役者だ。知ってたけど、再確認。
 前半のキビキビしてイケイケな、少し傲慢でもあるテッサを演じてる時と、後半の傷つき怯え、自信を失っているテッサを演じてる時が別人のように違う(衣装などの助けもあるけれども)。演技の幅が広いんだけれども、ちょっと違いすぎて、逆に同一人物感が足りなくなってしまった気がした。被害を受けて別人のようになってしまった、という演出であるのはわかるんだけど、いきすぎてるかも。
 
 三浦透子を観に行ったようなものなので、満足なのだけれど、芝居に関しては、思ったほど刺さらなかった。わからないところはなかったし、演出も手堅いし、役者は完璧なのに、どうしてかなあと帰宅の道々、考えていたんだけど。
 ひとつには、現実の日本の状況が、もっともっと手前の酷さだからかもしれない。レイプが立証されていても、和解という名の妥協が成立すると、加害者は罰せられなくなってしまう日本なのである。「恋人からのDVをどう立証するか」問題よりはるか手前で足踏みしているような日本。
 もうひとつには、この脚本の背景にはイギリスの階級社会があって、ジュリアンは上流階級出身の弁護士であり、一族郎党がジュリアンの側についているのに対し、テッサには娘を心配しそばに立っていてくれるけれども立っているだけの母親しかいない。男VS女の構図の中に、微妙に入り込む上流階級VS労働者階級。その微妙なブレが、日本の観客には(というか私には)ストレートに胸打つのを邪魔した気がする。
 
 でも、この芝居が徹頭徹尾、テッサの一人語りでなければならなかったのは、さもありなん。テーマが一人芝居という形式を選ばせた。加害者の役者がいると、観客はそちらに興味を向けてしまうし、憎しみを向けてしまう。そうではなくて、あくまで被害者の心理をちゃんと描きたいし、わかってもらいたいということだろう。
 一人芝居だからというだけで敬遠してると、こういう良作を見逃すことになってしまうね。気をつけよう。

『BOOP! THE MUSICAL ブープ!ザ ミュージカル』を観る

 6月の観劇予定はこれ1本なのだった。6月13日(土)ソワレ、東急シアターオーブ。
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 『BOOP! THE MUSICAL』
 脚本/ボブ・マーティン 作詞/スーザン・バーケンヘッド
 音楽/ディヴィッド・フォスター
 キャラクター原案/マックス・フライシャー
 翻訳・訳詞/土器屋利行
 演出・振付/ジェリー・ミッチェル
 出演 ベティ・ブープ   礼真琴
    ドウェイン    松下優也
    トリーシャ    藤森蓮華
    レイモンド    中河内雅貴   
    キャロル     まりゑ
    オスカー     青柳塁斗
    グランピー    東山義久
    ヴァレンティーナ 柚希礼音  ほか
  

 なんの予備知識もなく、ただ松下優也見たさでチケットを入手したのだけれど、これが大当たりだった! とんでもない作品に出会ってしまったわ。松下優也はもちろん期待通りだったんだけど、初めて観る礼真琴に度肝を抜かれた。宝塚を卒業してくるスターは、皆舞台で一日の長があるんだけど、中でもこの人は別格中の別格だった。ヤバい人、来たわ。
 
 ベティ・ブープは戦前のアメリカで人気絶大だった漫画のキャラクター。
 30年代のモノクロのアニメ映画の中で大活躍中なのだが、実際のところベティ(礼真琴)は忙しさと寄ってくる周囲の人達(特におっさん)にうんざりしていて、誰にも邪魔されない平凡な1日を願うようになる。ある日、発明家のグランピー(東山義久)が作った椅子型タイムマシンに座って、気まぐれにスイッチを押したら、ベティは現代のニューヨークにタイムワープで放り込まれる。
 降り立ったのは、キャラクターにコスプレしたオタクたちが集まるフェスのど真ん中。いきなりカラフルな世界に来て目が眩んだベティは、助け起こしてくれた青年ドウェイン(松下優也)の瞳の青さに見惚れる。周りは皆、ベティのコスプレが見事だ(ベティそっくり!)と感心するが、ひとりだけベティが本物だと気付いたオタクがいた。その女の子トリーシャ(藤森蓮華)と、ベティは友達になる。
 トリーシャは親を亡くし、叔母の家に住んでいる。叔母のキャロル(まりゑ)は活動家で、新しい市長候補レイモンド(中河内雅貴)に肩入れしている最中。ベティはトリーシャの部屋に泊めてもらいながら、現代のニューヨークの街を歩き回り、自分の意思を発見していく。トリーシャと友情を結び、ドウェインと恋に落ち、レイモンドの選挙活動の応援を途中でやめてキャロルを応援し、生き生きと暮らし始める。
 が、そこに、モノクロの世界からグランピーがやってくる。グランピーはベティの失踪で映画を作る仲間たちが困り果てていることを伝え、ベティを連れ戻しに来たのだ。現代にすっかり馴染んでいたベティは悩む。特にドウェインと別れなければならないことが辛いのだが、そんなベティにドウェインは戻ることを勧める。そこでベティは…。
 
 というようなお話。タイムスリップものだけど、アニメの中のキャラクターが現実のニューヨークに現れる…という設定が斬新。荒唐無稽なファンタジーだけど、そこにふんだんなショーのシーンを織り込んであって、めちゃくちゃ楽しいミュージカルだ。前面には出てこないけれど、30年代の価値観で作られたキャラクターであるのを本人が窮屈に思っていたり、選挙運動にキャラクター的に利用されることを拒んだり、ひとりの女性が自分を確立していく物語になってる。それをカラフルで楽しくてエネルギーに溢れた作品に仕上げている。セット、照明、プロジェクションマッピング、衣装の全てが噛み合って、寸分の隙なく楽しませてくれるよ。さすがは『キンキー・ブーツ』の演出家だ。
 
 なによりも、ほぼブロードウェイと同演出で歌い、踊る礼真琴が素晴らしい。初っ端のモノクロでのショーのシーンがもう、華やかで迫力満点で伸びやかな声が劇場を制圧してて、目が釘付けに。そこからは夢中で観た。こんなに魅力的なショーガールに出会ったのは、50年近く前に観た『ショーガール』の木の実ナナ以来。一緒に観た友人とも「もう、上手いとかいう言葉じゃ伝えきれない凄さ」だと興奮状態で言い合った。ショーのシーンだけではなく、芝居も上手い。男役だったことを忘れる台詞の癖のなさも感心する。今、現時点で、歌とダンスと演技総合点で日本一(当社比)の女優なのでは⁉️
 もちろん、ドウェインもトリーシャもキャロルもグランピーもヴァレンティーナも、そのほかの役者もアンサンブルも含め、完璧。歌もダンスも、表現力も。日本にも、実力ある舞台俳優が仰山おるわ、と改めて感心した。今、一点の躓きもなく、最高峰のミュージカルを味わえてる。
 
 いやあ、困っちゃうよね。松下優也は今、脂が乗り切って凄くいいし、礼真琴を発見しちゃったし、でもチケット代は高くなる一方だし、ミュージカルから撤退していこうと思っていたのにさ。引き裂かれる思い。どうしたらいいのか。

野田地図『華氏マイナス320°』を観る

 評判も情報もかなり遮断されていた。5月22日(金)ソワレ、東京芸術劇場プレイハウス。
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 NODA・MAP 第28回公演

 『華氏マイナス320°』
 作・演出/野田秀樹
 美術/堀尾幸男 衣裳/ひびのこづえ
 振付/井出茂太
 出演 阿部サダヲ 広瀬すず 深津絵里 大倉孝二 高田聖子
    川上友里 橋本さとし 野田秀樹 橋爪功 ほか
 



 いつの頃からか、野田地図に関してSNSで具体的な感想を言うことは御法度のようになっていて(なんでだ?)、今回も殆ど前情報は入ってこなかった。それはつまり、予備知識なしで臨んだ方がいいよ、という皆のメッセージだろうと思ったので、とにかくなんの準備も心構えもなく、劇場に出かけていった。
 それで。
 このブログでぼんやりしたことしか書かないのは嫌なので、私は普通にネタバレもするし、テーマにも触れるつもり。まっさらの状態で観たい人は、ここで引き返して、観てからまた来てね。観た人にしか通じない感想だと思うし。
 
 
 百戦錬磨の観劇の達人のような人が「今回は難しかったんだよ、よくわからなかった」と言ってたので、私としてはよりコンディションを整えて挑んだつもりだったのだが、実際のところ、やっぱりわかりにくかった。私はパンフも買ってないし戯曲も読んでなくて、本当に一度だけ舞台を観ただけ(野田地図についてはこれまでもずっとそう)。少なくともその私の理解は越えてた。なので、あらすじっぽいものを書くことはできない。

 テーマは障害と、出生前診断についてで、命の選別をしてはならない、と訴えるもの。凄い巨大なテーマ、ぶっ込んできたな、と思うけれど、お話の作りはいつもの野田地図。古代の人骨を遺跡から掘り出すシーンから始まって、人類の記憶は骨から骨へ伝わってきたという研究を進めている女博士(深津絵里)と、その研究から出生前診断の新薬を開発しようとする製薬会社の社長たち(高田聖子、橋本さとし)と、研究材料とされそうになる男(阿部サダヲ)と、謎の堕天使(広瀬すず)が絡み合う。女博士の師匠(橋爪功)や女博士の助手(野田秀樹)も絡む。骨に宿っている記憶を探っていく話なので、話が現代と中世と古代にまたがって、あっちへ飛びこっちへ飛びする。
 作りはいつもの野田地図なんだけど、今回はついていくのが大変で。私の歳のせい?
 役者さんたち、現代と中世と古代に出てきて、それぞれ別の役なのに、関係性は似てたりするので「あれ、今ってどの役で喋ってるんだっけ?」と混乱して、考えてしまう。こっちが考えてるうちに、舞台上ではどんどん芝居が進んでいっちゃうので、色々聴き逃す。いつも以上に、置いてきぼりになることが多くて、困った。
 なので、話を理解することを途中で諦め、役者さんを眺めることにした。
 広瀬すずが、動きも台詞も素晴らしすぎて、眺め甲斐があった。声がよく通り滑舌もいいので、全ての台詞が気持ちよくスイスイ届く。動きが機敏で綺麗。もちろんスタイルも抜群。これまで、野田地図のミューズは、松たか子、宮沢りえ、深津絵里の3人だったけれど、遂に跡継ぎの若手が現れた。『Q』の時、既に輝いていたけれども、今回観て、演技の確かさも場の支配力も数段高まっているのを目にして、本当に眼福。
 他の役者さんたちは通常の実力通りだったんだけど、ハーメルンの笛吹き男役の大倉孝二がいつもにまして印象的だった。もちろん、役のせいもある。笛吹き男は、実験のために捕えられているネズミたちを解放しにやってくる。彼が笛を吹くと、ネズミたちは踊りながらついていき、脱走に成功するけれども、逃げた場所が「ヤマユリの咲く、あの場所」と呼ばれるところで、最終的には笛吹き男そっくりの殺し屋がやってきて襲われてしまう(時代が違ってたかもしれない。記憶がごちゃごちゃになってる?)。「ヤマユリが咲く、あの場所」から連想されるのは相模原で起きた障害者施設での殺傷事件なのだが、この言葉遣いだけでパッとそこに結びついた観客はあまり多くなかったかもしれない。それより、大倉孝二演じる殺し屋の単刀直入な行動がショックだったし、このシーンを描くことは野田秀樹の覚悟、みたいなものを感じた。
 
 命の選別をするな、という主張は本当に至極真っ当なテーマで、その通りなのだが、最後にミューズである深津絵里演じる女博士に「生まれる前に障害があるとわかっている子どもでも、私は産みます」と宣言させて終わったので、正直なところ私はガックリきた。結局、女に重大な選択を委ねて終わるんかい?と思って。
 ごちゃごちゃした物語の中で、すんなり面白がれたのは、古代の巫女ヒミコ(深津絵里)に母親のハミコ(高田聖子)が「早く子どもを産みなさい、女の子を!それを巫女の跡継ぎにするのよ。名前はフミコで、決まり」とうるさくせっつくところ。ハヒフヘホになってるのがバカバカしくて可笑しいんだけど、古代から今に至るまで女は子どもを産め産め言われてるんだー、全く!と思った。それなのに、重要なテーマも結局、女に選択を丸投げなの、あまりにも酷い。
 観客の中にいる10代〜30代の女性たちが、日頃から受けている「子どもを産め」圧力がどれほどのものか、作家は気づいていないのか? 「早く産め」「男の子を産め」「女の子も産め」「きょうだいがいた方がいい」「頭のいい子を産め」「背の高い子になるように」「 イケメンだといいね」「スポーツが得意だといい」「少子化を解決しろ」もう沢山である。
 障害のある子どもを育てている夫婦の離婚率は高く、夫はその責任から逃げていく人がたくさんいて、女だけが一生を子どもに捧げることになってる例がとても多いと聞いている。若い女性たちはそういう情報も知っているのよ。だからどういう子どもであれ、産むこと自体がリスクだ、と無意識のうちに受け止めている。怖がっている。それは女のせいじゃないし、女が心を決めれば済むようなことじゃない。そこまで考えてほしかったよ。
 なので、最高レベルの舞台効果が見られたし広瀬すずは輝いてたし、観てよかったんだけど、結末には大いに不満が残る芝居だった。
 
 とはいえ、今回はちゃんとわかってないので、色々誤解しているかもしれない。自信ない。

イキウメ リーディング『太陽』を聴く

 チケットゲットできてよかった。5月15日(金)ソワレ、OAGホール。
 
イキウメ
Re:Creationリーディング『太陽』
出演 奥寺鉄彦   大窪人衞
   森繁富士太  浜田信也
   生田結    平井珠生
   生田草一   森下創
   奥寺純子   澤田育子(翌日は池谷のぶえ)
   曽我征治   盛隆二
   曽我玲子   豊田エリー
   金田洋次   安井順平
   奥寺克哉   薬丸翔
   ト書き    前川知大
 
 チケ代節約モードの私なので、普段は「リーディング」なるものには行かないことにしてる。でもこの告知があった時にはチケットゲットするぞ、と決めていた。年に1度のイキウメ公演にすっかり慣れてしまってるので、無いと禁断症状が出るのよ。この辺でイキウメ成分を補給しておかないと。
 しかし、演目が『太陽』とは? だいぶ前の作品だよね…。
 とか思った私はバカだった。なんかちょっと、雷に打たれたみたいになって、終演後は魂抜けた人のようにヨロヨロしながら駅まで歩いたよ。
 
 『太陽』は粒揃いのイキウメ作品の中でもトップクラスの代表作だ。イキウメで2度上演し、亡き蜷川御大もシアターコクーンで演出したし、韓国や台湾の劇団でも上演されてる。映画にもなった。私は再演(2016年5月)で観て、観終わった瞬間「もう何もいらない」と思った、と感想に書いている。(その時のレビューはこちら。そしてトラムは世界になる イキウメの『太陽』その1 とその2  とその3
 どんなお話かは、2016年のレビューに書いてるので、知りたい方はそちらをお読みくださいね。
 
 OAGホールは、青山のドイツ文化会館の中にある、小規模の講演会などができるスペースだった。客席はゆったりめに間をとって簡易な椅子が並んでいた。全部で200席くらいだろうか。
 舞台は舞台というより、ただ一段高いだけの演壇。狭く、奥行きはない。そこに9個(役者人数分)の椅子が横一列にこちらを向いて並んでいて、上手端っこに演出の前川知大の席がある。その席だけはメモなど取れるように机付き。役者たちは椅子に座っていて、場面ごとに、出番のある人だけ立ち上がって一歩前に出て、台詞を読み合う。場面が終わると、静かに座る。ト書きを読む前川知大だけがマイクを通している。休憩なし。
 最初に演出家から「5年以内(と聞こえた)の再演を目指して、練り直しのためのリーディングです。なので、感想をアンケートでお寄せくださいね」と挨拶あり、壇上の役者から「この本は、何か手直し入れてるんですか?」と質問あり、前川氏「何もしてません」との答え。
 そして、すぐ全ての明かりが消え、ゆっくり壇上だけ明るくなると、リーディングが始まった。

 イキウメンの人たちはほぼ元やっていた役を読んだ。一人だけ森下創は、ノクス殺人事件の犯人役ではなく、結(ゆい)の父親草一役に変更されていて、これがきっちりハマっていた。年齢的にふさわしくなった、ということかも。
 なので空いた犯人奥寺克哉役は薬丸翔が読んだ。彼が立つとすごく背が高いので、それだけで威圧感が出て傍若無人さが倍増され、合ってる、と思った。年齢的にももう森下創じゃないのよね。
 年齢的にというと、じゃあ大窪人衞の鉄彦少年はどうなるんだ、と案じたけれど、そっちは何も心配する必要なく、鉄彦少年がそこにいて「俺、18歳。」と言ってたし、浜田信也の森繁も「俺、23歳。」と応じてて、なんの違和感もないのだった。杉村春子並みにヤバい人たちだ。
 2016年時点でイキウメ所属だった女優が皆、劇団を辞めているので、女性役は新しい顔ぶれなのだけど、それも違和感なくハマっている。脚本があまりにもキッチリ計算されて出来上がっているから、台詞が求める通りに読めば、役が立ち上がってくるのだ。
 ホントに、なんの演出もない(効果音とか照明とか小道具とか、ない。鉄彦少年が最後に破る封筒があるだけ)ただのリーディングだったけど、台詞の意味を知り尽くした役者たちのやり取りに、ドキドキし、心奪われ、緊迫し、胸の痛くなる2時間だったよ。途中、客席から押さえがちのすすり泣きも聞こえた。ラストが解放だった。

 
 いえね、練り直しなんて要らんわ、このまますぐ上演できるわ!という出来だったよ。どこ直すっていうのよ。素晴らしすぎる。てか、5年は待てない。禁断症状で死んでしまう。
 確かに台本は、私が憶えている2016年の再演時のものと何も変えてなかった。それでもじっと台詞に耳傾けていると、この10年間に私たちに起きたこと(パンデミック、あちこちで起きている戦争、地震や災害やその被害の手当のされなさ、政治の腐敗、差別主義者の台頭、治安の低下などなど)が、次々連想されて胸がえぐられる。とても15年前の作品とは思えない、今の私たちに切迫した、生々しい展開だ。10年前にはSFだったのに、もう現実のよう。私たちは今、酷い政治状況のなかで無理やりノクスとキュリオに仕分けされているようだし、どちらに分けられていても、とても幸せな未来を想像できない。リーディングだけど、2016年の観劇の時以上に、いろいろな感情が湧いてくる私がいた。
 これは、当面、直しなど要らない、完璧な脚本なのでは? と言うと「せっかくリーディングをやったのに」と作家は嘆くかもしれないけど。

   *  *  *  *
 
 私が聴いた回の途中、地震があった。揺れ自体は小さめだったけど、少し長くゆらゆらした。役者さんたちのリーディングは止まることはなかったし、客席も芝居を途切れさせてはならないと、揺れを感知しながらもそこに気を取られないように懸命に耐えて集中していて、舞台上と観客とのコラボが成立していた。それほど、会場にいるみんなが没頭してたし、そのことに少なからず感動した。
 観客参加型という演劇があって、やれプラカード掲げてくれとか、やれ声出してくれとか、観客に要求することがあるけど、私はそういうのは苦手。だって、こうやって観客席に座りただ没頭してることだって、芝居に参加してるし貢献してるでしょ、と思うから。私の集中は役者に伝わって、演技に影響を与えているでしょ。思わずため息が漏れる。涙が出てしまい静かに鼻をすする。笑う。猛烈に集中して見つめる。興奮する。全部、空気を通じて役者に伝わるでしょ。そしてもちろん、退屈したりすれば、それもしっかり伝わるでしょ。
 ライブは初めから観客参加型ってことなんだよ。役者と観客との、自然に起こる協力関係が好きだし、そのために配信ではなく、劇場に通っている。通いたいと思ってる。

縮んでいく王 吉田鋼太郎の『リア王』 その2

 その1では吉田鋼太郎の台詞についてばかり書いてしまったし、それでもう『リア王』という芝居はかなり成立してしまうんだけど、正直にいうと、吉田リアとがっぷりよつな芝居が成立してたのは、グロスター伯(山西惇)とケント伯(山内圭哉)だけだった。(エドガーとエドマンドの兄弟もなかなかよかったのだけど、リアとの会話がほとんどないので、そこはまた後で話すね。)
 山西惇と山内圭哉はおふたりともシェイクスピアはほぼ初めてだそうなのだが、やっぱり役者のキャリアって大きいんだな、と感じた。台詞の意味が全部伝わるのはもちろん、性格の実直さとか頑なさとか騙されやすさとかが当たり前のようにそこに載っている。実直すぎて、悪巧みによって駆逐されてしまう老家臣たちがちゃんとそこにいて、王様と対峙している。


 それに比べると、コーディリア(吉田美月喜)や道化(中山祐一朗)などは、どういう人物なのかよくわからないまま芝居が終わってしまった。リア王との関係が浮かび上がらない。
 気づいた人がどれくらいいたかわからないけど、かぶりつきの前方席で観た私はひとつ、素晴らしい演出に気づいた。荒野でリアとグロスター伯が出会って語り合うシーンの最後に、リアが目の前の地面を引っ掻いて掘ると(舞台は土でできているので、掘れる)、土の中から道化が被っていた帽子が出てくる。リアが「これはいい帽子だ。フェルトで騎兵隊の靴を作るか」という台詞を言いながら、帽子を握って立ち上がる。
 つまり、道化はもうはぐれたきり行方不明で、おそらくは野垂れ死しており、その帽子が風に飛ばされ砂に埋まっていた。それをリアが偶然掘り出し、飄々と持っていく。あんなにずっとそばにいた道化のことを、リアはもう憶えていないのだ…。
 道化の帽子が埋まっているのをリアが掘り出すという演出は、他で見たことがない。めちゃくちゃ良い演出だと思うのだが、残念なのは、芝居の前半で、リアと道化の関係がちゃんと描ききれていないことだ。前半で王と道化の仲の良さがちゃんと描けていれば、この帽子のシーンは効果絶大だったと思うのだけど。
 それに、大きな劇場でこの演出が伝わるためには、もっと特徴的な帽子でなければならないだろうし、前半で帽子の存在をもっとアピールしておかなければいけないだろう。たぶん多くの観客は、掘り出したのが帽子だとわからなかっただろうし、ましてそれが道化の帽子だとは気づけない。せっかく良い演出なのに。

 全体に、人物たちの関係性が薄い。そこまで演出が行き渡っていない。3姉妹が姉妹らしくない(仲がよかろうと悪かろうと、長年の付き合いが感じられてもいいはずだ)し、ゴネリル(石原さとみ)もリーガン(松岡依都美) も夫との関係性が匂わない。その関係性がちゃんと伝わってこそのエドマンドへの執着じゃないだろうか。この辺りは上演も重ねると、よくなっていくかな?
 身も蓋もないこと言っちゃうけど、石原さとみがコーディリアをやればよかったんじゃないだろうか。彼女にゴネリルを振ったことで、いろんなバランスが狂った気がする。

 
 グロスター家の兄弟、エドガー(藤原竜也)とエドマンド(矢崎広)はイキイキしてて、面白かった。
 エドマンドはひとりだけ観客に本心を語る人物で、矢崎広は八面六臂の活躍だったんだけど、一番最初のシーンが台本から切られていたのが痛かった。彼が妾腹の子であるため、父親のグロスター伯から侮蔑的な扱いを受けるシーン。それがあってこそ彼の色悪ぶりが引き立つ。そのシーン無しでエドマンドという悪役を背負うのはだいぶ荷が重いと思った。てか、最初の場面てこれほど重要だったんだなあ。シェイクスピア、無駄にファーストシーンを書いてないの。
 一方のエドガー、藤原竜也は凄く楽しそうだった。余裕綽々で自由に舞台にいる。途中の荒野のシーンで、エドガーは上半身裸に泥を塗りたくって出てくるんだけど、この数年観たどのエドガーよりも「裸です」という感じがなくて、衣装を着ている時と全く同じように気負いなく舞台にいることに、なんだかしみじみ凄いと思った。他のエドガーはどうしても「役者が頑張って裸で出てきました」感が出ちゃってたのよ(上手く説明できないのが、もどかしいんだけど…)。友人は「そりゃ、デビューが身毒丸なんだから、裸なんて慣れてるわ」と言ってたけど、慣れてるという言葉だとちょっと違うんだよ。服着てても着てなくてもエドガーです、という感じで舞台上に存在できてるの。自分の身体を丸ごとエドガーに差し出していられるんだなあ。
 (ここまで余裕綽々ならば、道化をやってもよかったんじゃないか、とふと思った。藤原竜也の道化を吉田リアが「あほう」と呼ぶ世界線を想像して、ニヤニヤする私。)
 
 勝手なことを言うのはこの辺でやめておこう。
 
 リア王とグロスターとケント伯がよければある程度満足できちゃうのだけれども、周りの人たちが自分の役や台詞のことだけじゃなく、もっと関係性を表現できれば、芝居全体が凄く良くなるのでは、と思った。これから長い上演期間があるので(私はもう観られないけれども)、深まっていくのでは、と期待しています。

縮んでいく王 吉田鋼太郎の『リア王』 その1

 与野本町駅前は薔薇が満開だった。5月8日(金)マチネ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール。
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 彩の国シェイクスピア・シリーズ 2nd Vol.3

 『リア王』
 作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
 演出/長塚圭史
 出演 吉田鋼太郎 石原さとみ 松岡依都美 矢崎広 吉田美月喜
    中山祐一朗 稲荷卓央 田中佑弥 町田水城 塚本幸男
    山内圭哉 山西惇 藤原竜也  ほか
 




 いつものことだけど、舞台の詳細に触れるので、観劇前に読むかどうかはご自分の判断でね。


 さいたま芸術劇場で第2弾のシェイクスピアシリーズが始まると発表されたのは、確か4年くらい前のこと。その時に1年に1本ずつ『ハムレット』『マクベス』『リア王』の順にやるとラインナップも発表になっていた。『リア王』は四大悲劇の中でも上演が少ないし、実際に私がこれまでライブで観たのは1999年(たぶん)のシェイクスピアシアター版と2017年の子どものためのシェイクスピアによる2時間縮小版だけなので、楽しみだ、予習しなくちゃ、と思ったのだった。
 ところが。
 その後、『リア王』ラッシュが襲ってきて、立て続けに観ることになった。
 2024年4月 段田安則のリア(ショーン・ホームズ演出)。
 2024年11月 木場勝己のリア(藤田俊太郎演出)。
 2025年10月 大竹しのぶのリア(フィリップ・ブリーン演出)。
 なんでこういうことになったのか知らないけど、世はリア王が流行中だ。9月には内野聖陽のリアが待ってるし。予習は要らなくなった。
 
 幕が開くと大ホールの奥行きある舞台に、巨大な土俵のような円形の盛り土がしてあり、芝居はほぼ全てこの上で行われる。土俵の周りに椅子が並んでいて、出番ではない役者たちが椅子に腰掛けて舞台上を見守る仕掛け。
 土を使うのも、脇の方で役者が座って舞台を見ているのも、『浮標』(2016年)を思い出し、お、長塚演出だ、と思ったんだけれど、それ以降はこれといって長塚演出らしさみたいなものは前面に出てこなくて、芝居はとてもオーソドックス。現代風にアレンジしたりもなく、何か新解釈を加えようという意図もなさそうで、シンプルに役者の身体と言葉(台詞)とで見せることに徹してた。これは逆に新しいとも言える。2024年から観てきた3本は皆、演出家(または翻訳家)がこれまでにはないものを出そうとしてたし、古典である『リア王』を今更やるんだから、何か新しいことがしたいと思うのも無理はない。でも、長塚演出は、何か付加することはせず、シンプルを目指した。それは、このシェイクスピアシリーズ2nd.の流れにも即していて、他の演出とはまた違う、「台詞を聴かせる」芝居になってた。
 
 しかしそうなると、吉田鋼太郎の独壇場だった。
 この芝居は圧倒的にリアの台詞量が多いし、またリアは感情の起伏がとんでもなく激しいので、芝居はリアの色に染まる。これだけ膨大なエネルギーを放出できるのって、やっぱり吉田鋼太郎だ〜って圧倒されながら観た。
 そして特段、舞台効果が施されてるわけじゃないのに、リア王の姿がだんだん縮んで、小さくなっていくように見えた。最初は王のオーラが出まくっているのに、やがて正気を失った老人になった時にはオーラは消え果てていて、身体が小さく小さく萎んだように見える。友人が「どんな魔法?」って言ってたけど、ホントに不思議。
 特に素晴らしかったのは、荒野でグロスター伯(山西惇)と出会い、狂気と正気が入り混じった会話をするところ。意味があるようで無く、無いようである台詞に聴き入ってしまう。「お前のことはよく知っている、グロスターだろう」と一瞬、威厳ある王に立ち戻るところなど、観ているこっちもグロスターと気持ちが一緒になってしまい、揺さぶられっぱなし。
 1999年のシェイクスピアシアター版リア(出口典雄演出)を観た時、同じ吉田鋼太郎のリアだったのだけれど、王の威厳を最後まで失わないリアだったと記憶している。その時30代後半だった吉田鋼太郎が、今、60代後半になって演じるリアは、同じようにエネルギーを放出していながら、王の威厳よりも老人の癇癪や悲哀を表現するようになった。そこが大きく違う。演じる年齢によるものなのか、演出の狙いによるのか。
 
 長くなったので、他の役者については、その2で。

役を交換したことの意味 『最強のふたり』を観る

 今年の浦井健治、今までにも増して忙しい。5月1日(金)マチネ、ヒューリックホール東京。
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 ミュージカル『最強のふたり』

 原作映画「最強のふたり」
   監督・脚本/エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ
 脚本・作詞・演出/板垣恭一
 作曲・編曲・音楽監督/桑原あい
 出演 川平慈英 浦井健治 紅ゆずる 宮原浩暢 小野塚勇人
   福田えり 加賀谷真聡 宮野怜雄奈 元榮菜摘 菊池愛
  





 実は原作映画を観ていない。のだが、話はなんとなく知っていて、「ふたり」の年齢を逆にするという発想には惹かれた。それと、演出の板垣恭一は、私にとっての浦井伝説作品『シャーロック・ホームズ〜アンダーソン家の秘密〜』を演出した人なので、かなり期待して観に行った。

 
 事故により首から下が麻痺して車椅子生活を送る大富豪フィリップ(浦井健治)。その介護があまりに厳格で過酷なので、介護人は長くもたずに皆、辞めてしまう。そして新しい介護人に応募してきたのは、介護の経験も学歴もない、刑務所あがりのドリス(川平慈英)だった。秘書イヴォンヌ(紅ゆずる)をはじめとして邸の使用人たちはドリスの面接の受け答えに呆れるのだが、フィリップはドリスが気になり、試験採用する。
 失業保険のためだけに面接に来て、介護に全く興味のないドリスの行動は、常識はずれで自由といえば自由なのだが、誰に対しても公平に対する態度に、逆にフィリップの心は開かれていき、周囲の心配をよそにドリスは正式採用される。
 毎日一緒にいるようになったフィリップとドリスは次第に、それぞれの持つ家族の悩みや孤独を分かち合うようになっていく。
 
 という物語。
 映画では、フィリップの方が老境に差し掛かった中年男性で、ドリスは礼儀をわきまえない若者という設定。それを川平慈英と浦井健治のために設定を逆にしていて、お話としては功を奏してた。

 車椅子から動かない浦井健治ってどうなのかしら、と思っていたけど、首しか動かせなくても細かな表情でフィリップの気持ちの揺れを表現していたし、座ったままの姿勢での歌は完璧だったし、電動車椅子の操作も完璧。趣味の良いジャケットとスカーフの衣装もすごく似合っていて素敵だった。これまでの舞台で、浦井健治のスーツ(ジャケットを含む)姿って、サイズ大きめのぶかっとしたのを着てることが多くて、役にも合ってないしかっこよくないよ、と思うことがよくあったんだけど、今回のフィリップの衣装は役にピッタリの品の良さで、サイズもピッタリで(てかそれ当たり前なんだけど)、ノーブルで似合ってて、とても良かった。眼福。
 一方の川平慈英のドリスも、人はいいのにダメおやじな感じを醸し出してて、リアリティがあった。この人なら、フィリップが心を開いていくのがわかる、心の底の温かみを感じられる(ドリスが、というより川平慈英そのものなのかも)。
 歌も、歌詞と作曲が日本人なので、歌詞が自然に耳に入ってくる。
 ふたりがパラグライダーで飛ぶ時の歌、身も心も開放されて(唯一、フィリップが立ち上がって歌う、想像上の自由なシーン)、気持ちよかった。
 
 ただ、主役のふたり以外の役の設定(と演出)が、典型の域を越えてこないのが惜しいの。眼鏡をかけてスーツにヒールのツンデレ秘書は典型すぎる上にデフォルメしすぎだし、金持ちなのを鼻にかけてるフィリップのいとこアントニーも大雑把な造形だし、ドリスの息子やフィリップの養女のぐれ方もよくあるという以上のリアリティがないし。
 フィリップの養女の話や、秘書とアントニーの恋バナのような脇筋はあんまり必要なかった気がする。それよりも、フィリップとドリスが互いを認め合うまでの葛藤をもっと丁寧に見たかったなぁ。互いの壁が、簡単に崩れすぎな感ある。
 
 ヒューリックホールは舞台用の劇場ではなく、舞台の奥行きが狭い。たぶん舞台袖も、無い。なので、セットはフィックスで、転換はできない。袖が無くピットも無いので、セットを2階建てにしてバンドの場所を作り、残りの狭い場所に何か作るのはもう無理…といった感じだった。セットに関してはあまりにも工夫の余地がなくて、ちょっと気の毒だった。舞台用の劇場でやれてたら、パラグライダーのシーンにダンスやプロジェクションマッピングを入れるとかもできたのにね。

 再演があるかどうかはわからないけど、面白い要素が揃ってる題材なので、色々軌道修正したものをまた観てみたいな、と思った。主役のふたりの組み合わせは最強だから。

極めて刺激的な。『ナルキッソスの怒り』を観る

 芸劇はプレイハウスが野田地図で、階下では岸辺のアルバムとナルキッソス。凄いホットスポットだ。4月23日(木)マチネ、シアターウェスト。
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 『ナルキッソスの怒り』

 作/セルヒオ・ブランコ 翻訳/仮屋浩子
 上演台本/仮屋浩子、成河、藤田俊太郎
 演出/藤田俊太郎
 出演 成河
 







 この芝居に限っては、何を語ってもネタバレ必至なので、これから観る予定の人は、絶対に読まないでください。読んじゃうと観劇の楽しさが半減するよ。観た後に、読みにきてください。このあと全部、ネタバレなので。
 
 いい? これから観る人は、とりあえず帰った?

 
 予備知識全く無しで、チケットを買った。成河と藤田俊太郎で一人芝居を企ててると聞いたら、無条件でチケットをポチってたの。
 この、予備知識無しだったことがとても良かった。
 
 開演5分くらい前になると、まだ客電のついてる通路に成河が現れ、「場内は飲食禁止です。蓋のついた飲み物だけは飲むことが可能です」とか「光や音の出る機器は電源を切っていただくか、機内モードにしてください」とか一般的な注意事項を本人が説明してくれる。あら、親切、とか思ってると、ここからがもう芝居の始まりなので、気が抜けない。注意事項を喋りながら成河はゆっくり移動し、気がつくと舞台の真ん中にいて、作家のセルヒオとは友人で、ある日「君のために芝居を書きたい」って電話してきたんですよ、などと成河のままで説明する。そして「僕は成河で、セルヒオではありません。でも頑張って、セルヒオになってみます」と言ってジャケットを脱ぐと、表情が一変し、パキッと役に入る。

 セットは、基本的にホテルの部屋の設定で、ベッドとミニテーブルと内線電話と冷蔵庫などが置いてある。舞台の前後を分けるような位置に、すりガラス状の大きなパネルがぶらさがっていて、これは必要に応じて上がり下がりする。照明の当て方によって、パネルの向こう側が見えたり見えなかったりするし、パネルに映像を映し出すこともでき、舞台は瞬時にホテルの部屋以外の場所(ジョギングする公園とか、カフェとか、学会の会場とか)に変化する。
 舞台上にはいくつか形の違う椅子があり、ほとんど皆、倒れている。主人公が違う場所に行ったり、誰かと会ったりするときに成河が椅子を起こし、その椅子に座ったり向かい合って話したりし、その場面が終われば成河が自分で椅子をもとどおり倒していく。簡易な場面転換。
 また、奥の方にハンガーラックがあって、ジャケットが何枚もかかっている。これも成河が場面ごとに自分で着替えていく。
 つまり、一人芝居の舞台上には、場面転換のためであっても成河のほかは誰も現れない。スタッフの姿も隠されている。

 物語の主人公、私セルヒオ(成河)は劇作家で、大学で教えてもいる。学会に出席するためスロベニアの首都リュブリャナにやってきた。ホテルの部屋に着いた時、セルヒオは何か違和感を持つんだけど、最初はそれが何かわからない。セルヒオは旅慣れた様子で、スマホとPCを部屋のWi-Fiに繋ぎ、マッチングアプリで相手を選び、ホテルに招き入れる。やってきた美しい青年イゴールとセルヒオはセックスし、別れるのだが、イゴールはセルヒオのジョギング中につけてきたり、何度もしつこく電話をかけてきたりするようになる。一方、ホテルの部屋の違和感が強まるばかりだったセルヒオはとうとう、部屋のあちこちに血痕があることに気づく。部屋を変えてもらえずにそのまま逗留するうちセルヒオは、ホテルの従業員や刑事から、その部屋で起きた事件について話を聞き、戦慄する。
 部屋で起きたのは、バラバラ殺人事件で、生きたまま、ある若者が殺されたという。刑事から聞いたその様子をセルヒオは(つまり成河は)赤いジャケットを破りながら、観客に微に入り細に入り説明する。
 そして、セルヒオはその夜、ホテルに押しかけてきたイゴールに襲われ、刑事から聞いたと同じように、バラバラに切断され、殺される。彼は生きながら、自分の腕が切り落とされるのを見る。
 舞台上で、成河は成河に戻り、亡くなったセルヒオの葬儀のため、リュブリャナまで出かけた話をし、彼の死と自分の娘が誕生した話を涙ながらに語る。 
 
 という、なかなかセンセーショナルな話だった。とても出来のいいホラー。セックス描写(一人芝居だからジャケット相手だけど)も過激ではあるし、バラバラ殺人のシーンの解説もショッキングで、ジャケットが破れていく時には客席で悲鳴があがってた。一人で全ての演技と観客の感情をコントロールしていく成河の、役者としての力量をまざまざと見せつけた、という感じ。圧巻。
 舞台美術も、照明も、効果も、全てが計算され尽くしていて、隙がない。刺激的で面白い舞台だったよ。

 で、この話は全部フィクションで、嘘っぱち(これは褒め言葉)なわけだけど、いつ観客が気づくか(あるいは騙されたままでいるか)は観客の手に委ねられている。私は、最初に「私は成河ですが、セルヒオになってみます」と強調された時から変な気がして、セルヒオが襲われるシーンがきた時「だって、作家は来日してアフトクに出てるやん」と思い、成河が葬儀のためリュブリャナに行ったとか言い始めた時には「いい加減なこと言いやがって」とちょっと苦笑いしてしまった。それも面白かったけど。
 確かに、「セルヒオになります」って言ったけど「セルヒオ・ブランコになります」とは言ってないもんね。でも成河の魔法にかかって客は、これが作家自身の話だという思い込みに引き込まれてしまうの。そこが観客を騙す、最初の関門。
 現実と芝居を行ったり来たりしてるように見せて、実は「現実」の方も全くのフィクションなのだ。成河は、自分自身と、設定された「この芝居上での成河」と「この芝居上でのセルヒオ」を行ったり来たりしてるの、自由自在に。何重にもなってる入れ子構造っていうか。でもこれ、相当な力量がないとできない技だ。楽しそうだったよ、成河。
 
 物語の方にはこれといったテーマがあるわけではない(ありそうに感じるのはただの目くらましだと思う)ので、なにか人間について深く考えたりとかはない。話はただのホラーだ。そこは別に凄くなくて、それよりも手法が断然面白い芝居。役者の力に惚れ惚れする芝居。役者ってなんだろう、とか、演技ってなんだろうとか、芝居ってなんだろうとか、そういうことを考えて楽しくなっちゃう、という芝居なんだと思う。

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