最近の読書

嘆きの王冠 第一弾『リチャード二世』

 BBCが製作した嘆きの王冠シリーズ全7作。映画館で是非、全部観るべく、スケジュールを調整しているの。ちゃんと時代順に観たいので、結構大変。
 舞台の中継ではないし、ブログ記事は自分用のメモ程度にしておくので、ストーリーとか詳細知りたい方は、次の参考文献をお読みください。シェイクスピア作「リチャード二世」「ヘンリー四世第一部・第二部」「ヘンリー五世」「ヘンリー六世第一部・第二部・第三部」「リチャード三世」。

 第一弾『リチャード二世』。6月18日(日)、ヒューマントラストシネマ渋谷にて。
 見終わって、まず頭に浮かんだ言葉は、「ベン・ウィショー、ぴったりだったー。そしてネクストの内田健司もやっぱりぴったりだったんだ!」。シェイクスピアのリチャード二世から読み取れることはだいたい、蜷川演出のネクストシアター『リチャード二世』から受け取れちゃっていたんだ、ってこと。王様に向いてない性格の王様だ、ってこととか、ちょっとホモっぽいところとか、最初っからいちいち重要ポイントの判断が間違ってることとか、どんなに苦境に立ってもその状況を詩のような言葉で分析する癖があるところとか・・・うんうん、こういう人だよね、と納得。
 ネクストの舞台より今回はっきりわかったことは、リチャード二世が自分を廃嫡した人々に強力な呪いをかけたところ。この呪いあればこそ、ボーリンブルックがヘンリー四世になってもなお、王座に自信が持てずに死んでいくのがわかるし、この呪いが薔薇戦争の本当の始まりなんだなあ(「ヘンリー六世」のウォリック伯の宣言で始まるんじゃなくて)、と強く感じられた。そこはベン・ウィショーのリチャードにしてやられた感じ。翻訳じゃない、書かれた言葉そのものだからだろうか?

 あとは、やっぱり映画だから、イギリスの風土がふんだんに感じられるのが楽しかった。険しい山はなくて、丘陵地帯にしっとりとした緑が続く道を、追放されたボーリンブルックが戻ってくるところとか、遠浅の美しい海岸で、誰も迎えに来ないのを嘆くリチャードとか・・・シェイクスピアの言葉はイギリスの風土から生まれてきたことが腑に落ちるのよね、映像だとなおのこと。
 あとは恐ろしい処刑のシーンとか、鎧をつけた人間を乗せてさらに自らも鎧をつけられた馬が、重みでまっすぐ走れない様子とか、リチャードが「下へ下へ」と言いながら狭い塔の中を降りていくところとか、色々とリアルだったな。
 
 海辺からアイルランド討伐に出発する時、林立した三角の旗が海風になびく美しさ。その絵柄を見た瞬間、マダムは、子どもの頃熟読したナルニア国物語の挿絵を思い出さずにいられなかったの。そして、マダムがシェイクスピア好きになるのはもう、ナルニアを読んだ時から運命付けられていたのだとさえ、思った。
 
 さてこれから『リチャード三世』まで、先は長いわ。

新鮮な刺激 新派公演『黒蜥蜴』

 この劇場は30年ぶりくらいかしら?(以前観たのは杉村春子主演の『金色夜叉』だった。)6月17日(土)午前の部、三越劇場。
 

六月花形新派公演『黒蜥蜴』
原作/江戸川乱歩 脚色・演出/齋藤雅文
出演 喜多村緑郎 河合雪之丞 秋山真太郎 春本由香
   伊藤みどり 田口守 永島敏行 ほか

 某俳優が来年明智小五郎をやるらしい。マダムはどうもしっくりこなくて、首を振っていたのだけれど、そんなある日、1枚のチラシに目を奪われたの。それがこの新派公演の『黒蜥蜴』だったんだけれども、とにかく、マダムの思うところの荒唐無稽でまがまがしい(そしてワクワクする)江戸川乱歩の世界を実にキッチリ表現している写真だったから。マダムはその場で「こっちの方が断然観たーい!」と叫び、30年ぶりの三越劇場来場の運びとなった。
 大学時代に日本の近現代演劇史をかじったので、新派がどんな風に生まれたのかはなんとなく知っていて、テレビの中継映像などでも水谷八重子や波乃久里子の舞台を眺めたことはある。だけど、ちゃんと生で観たのは初めてかもしれない。ただ、チラシが、どんな舞台なのかを余すところなく伝えてくれていたから、想定外とか期待外れとかは全然なくて。改めてチラシの大事さを思い知ったわ。どんな舞台なのか、わかんないの、最近多いもの。それに比べ、この新派のチラシは、世界観を明確に表していて、えらい!
 
 お話はみんなが知っている「黒蜥蜴」なので、説明はいらないよね?
 
 新派をこれまで観なかったのは、やはり戯曲が古そうで、耐える女がいっぱい出てきそうだったから。それを芸にまで高めているのは重々承知だけれども、耐える女が美化されているのをマダムはわざわざ観たくないの。
 そこいくと「黒蜥蜴」には耐える女は出てこないし、強くて美しくて悪い女が主役で、しかもそれを追うイケメン探偵は、女盗賊と恋に落ちてしまう・・・あー、なんていい話なんだ。そうこなくっちゃ。
 女盗賊黒蜥蜴を演じるのは河合雪之丞。先代猿之助一門の女形だった人で、最近新派に入団(?)したのだそう。とにかく歌舞伎の女形をやってきた人の着物姿の美しさといったら!着物着て立ってるだけなら、普通の女優さんだって綺麗だけど、これだけ動いて美しいのって、さすが女形。信じられないような派手な着物(だって、全部にスパンコール縫い付けてある着物なんて、新感線でもないかも)なのに、下品にならない。そして、色っぽい。
 かたや明智小五郎を演じるのは喜多村緑郎。彼もまた猿之助一門から出た人なのだそう。それで、面白いなあと思ったのはね、たくさん男の人は出てくるけど、白塗りしてるのは彼だけなんだよね。白塗りって言っても、歌舞伎ほどではないんだけど、でも一人だけ肌が白いの。それって、歌舞伎の伝統だよね、主役のイケメンは白塗りっていう。
 その彼がまた、かっこいいの。大時代がかってる、すれすれの演技なんだけれど、なんだろう、しっかりと型がありながら型に寄りかからない、ちゃんとその時を生きてる演技なの。すごく上手い人なんだと思う。そして、彼もまた色っぽーい!
 そんな型も、見せ方も、美しさも華もある二人の主役に、この荒唐無稽なお話はピッタリ。新派という特殊な劇団にもこの戯曲はピッタリだった。途中マダムは時々、いのうえ歌舞伎を思い出した。かなり相通ずるところがあると思うわ。荒唐無稽にサービス精神てんこ盛りで。いのうえ歌舞伎と違うところは、テンポがゆっくり目で、セリフが全部隅々まで聞き取れること。それと、サービスの上塗りをしないこと。
 ほかにも客演の永島敏行(「遠雷」からかくも遠くまで来た・・・)の銭形みたいな刑事とか、春本由香(尾上松也の妹!)のいいとこのわがままお嬢さんぶりとか、秋山真太郎(劇団EXILEってなに?)の演技はイマイチだけどシャープな殺陣とか、見所はたくさんあって、楽しかった。セットも、三越劇場の古めかしくも豪華な造りをうまく利用して豪華だったし、黒蜥蜴の衣装は眼福だったわ。

 なにより良かったのは、敵味方の明智と黒蜥蜴が、どんどん惹かれあって、駆け引きしまくって、互いの死に(黒蜥蜴は一度は明智を殺したつもりでいたから)本気で嘆いてて・・・荒唐無稽な作りにもかかわらず、そこだけは本気が伝わってきて、ジーンとなるの。死んだ黒蜥蜴を抱きしめる明智の、色っぽいことといったら!
 いつも言ってることだけど、演技の上手い人が本当のイケメンなのよ。だって、観客を酔わせてくれるんだもの。再確認したー。
 演目によっては、また新派を観てもいいな。耐える女が出てこないやつ。

『天の敵』追記 台本読んでみた

 今頃は大阪公演の千秋楽、上演中かしら?イキウメの『天の敵』。
 数日前に出たばかりの悲劇喜劇7月号に台本が掲載されていて、読んでみたの。
 難解なところはひとつもない。読んでいて、飛躍についていけないとか、意味不明なセリフとか、全くないの。メチャクチャ読みやすい!
 それでいて、もしも、芝居を観る前にこの台本を読んでいたとしても、イキウメのあの舞台を想像することは全くできない、と思われ。例えば限りなく新劇風に演出することも可能な本だし、映像にもなりそうな本なので、そういう想像はできるんだけれども、イキウメ独特のかっちり組み立てられた美しい演出は、やはり観なくてはわからない。イキウメの手法を知っていても、事前に到底想像はできない。
 台本を書く才と演出する才は、それぞれ別物なのね。それでいて、どちらもちょっと天才的である・・・おそるべし、前川知大。

 台本の掲載にあたって、作家の短いインタビューが載っていて、どんな作品から影響を受けているかという問いに、なんと
「書きながら手塚治虫の漫画みたいだと思ってました。」
という言葉があり!マダムはにっこりしてしまったわ。芝居を見ながら「火の鳥」のイメージが脳裏をよぎったのも、あながちマダムの独りよがりじゃなかったんだね。

生きることの愛おしさ イキウメ『天の敵』

 二日連続の芸劇通いだ〜。5月28日(日)マチネ、東京芸術劇場シアターイースト。

イキウメ2017年春公演『天の敵』
作・演出/前川知大
出演 浜田信也 安井順平 盛隆二 森下創 大窪人衛
   小野ゆり子 太田緑ロランス 松澤傑 有川マコト 村岡希美

 これはね、なんの予備知識もなく観たほうがいい。だから、このネタバレ三昧のブログはもちろんのこと、劇場でもらったチラシのあらすじすら読まないほうがいい。なので、観る予定がある人は、ここで引き返してね。観終わったら、また来て、一緒に盛り上がって。
 
 
 
 美しい芝居だった〜。
 
 後ろの壁一面に並べられたガラス瓶。薬膳用の食材が入っているのだけれど、そのひっそりと並んだ何百という瓶の前に、綺麗に磨かれたキッチンや大きな冷蔵庫やテーブル、ソファなどがある、少しばかり無機質感漂うキッチンアトリエ。
 イキウメのいつもの公演と同じように、休憩や暗転はなくて、唯一つのスタイリッシュなセットに、カーテンを引いたり、部分的に光を当てたりして、場面転換する。それが観る側の意識を一瞬も逸らさない、計算されたなめらかさなの。効果音の入り方、光の筋の表れ方、消え方。それと役者の演技とが、寸分の隙なく組み上がっていて・・・なんて美しい芝居なんだろう!
 
 これは122年生き続けてきた男の一代記。
 菜食の人気料理家、橋本和夫(浜田信也)は、その経歴に謎がある。ジャーナリストの寺泊(安井順平)は、彼が、戦前に食餌療法を提唱していた長谷川卯太郎という医者の孫なのでは?と当たりをつけて、取材に臨むの。
 ところが、橋本は「私は長谷川卯太郎の、孫ではありません」と否定。当てが外れた寺泊に、「私は長谷川卯太郎本人です」と断言するの。もちろん、寺泊は真に受けない。だって、本人だったら122歳ってことになるんだもの。
 信じない寺泊に、話が「長くなりますよ、いいですね?」と念を押して、橋本(というか長谷川卯太郎)の物語が始まる。
 話の運びは、イキウメにしてはやけにシンプルで、まっすぐ。橋本イコール卯太郎なのか、という謎は数分であっさり種明かしされ、時間の流れもほぼ一方向で進む。だけど、この「あるときから一切の食事をとることをやめ、人の血液を飲む(飲血)」ことで、不老不死の身体を得た、奇想天外な男の物語。奇想天外だけど、所謂吸血鬼のお話とは一線を画していて、あくまで彼は人間なのよね。ほんの少しだけ中心線がずれているけど、人間なの。
 血液の入手の仕方も、人間としての道理すれすれ。いちおう病院から手に入れている。もちろんそれは彼を研究材料としている医者たちのどこかヨコシマな欲望に支えられてはいるのだけど。
 話は、戦争中に対ロシア戦線で彷徨い、飢えに苦しんだ若いときに始まり、輸血用の血液を飲み始めて、どんどん健康になり若返ったせいで、年をとった妻も若返りたくなって飲血を始めてしまったり。でも、何も食べることができないことで妻は気が狂って死に至り。研究のため援助してくれていた先輩医師も年老いて死に。卯太郎自身は、若いままなので怪しまれるため、職を転々とし、ついには戸籍も身分も失って。そして放浪の間に、ヤクザの友達ができるけど、友達はすごく若いまま呆気なく命を落とす。
 100歳を過ぎて、卯太郎に転機が訪れる。菜食主義の人の血液を飲んだら、体質に変化が現れ、これまでダメだった太陽光の下も歩けるようになる。そして、菜食主義の若い伴侶、恵(小野ゆり子)を得て、やっと満ち足りた日々を過ごすことができたの。
 こうやって周りはどんどん年をとって死んでいくのに、自分だけは若い姿のまま生き延びて122年。彼はもういいや、って思うのね。もう、終わりにしよう。最後に美味しい鰻を食べて、それで終わりにしようって。
 語り終えた卯太郎はとても清々しいんだけれど、インタビューを終えた寺泊はソファに座り込んだまま、涙する。なぜかといえば、寺泊は不治の病いを得ていて、死と向き合っているから。卯太郎と同じ道に踏み入れれば、死なない選択がある。だけど、卯太郎の物語を聞いて、死があるからこそ、生きることが尊いと知ってしまったから・・・。
 
 役者は10人しか出てないけど、全員が素晴らしい演技だった。イキウメンの5人は勿論のこと、ゲスト出演の5人も、ぴったりとこの世界の住人になっていて、隅々まで行きわたる演出の凄さと、きっちり応える役者の凄さに、ひれ伏したくなっているマダムなの。
 常々「演技の上手い人こそイケメン」と言ってるんだけど、こうみんながみんな素晴らしいと、誰かの名を挙げるのも困っちゃう。と言いつつ、浜田信也の微妙に普通じゃない人感、森下創の完全にイっちゃってる人感、大窪人衛の脳を突き抜けてる声、に魅了されたと白状しておくわ。

 
 話の運びが、セットと同じように実にスタイリッシュで、聞くとおぞましい「飲血」をめぐる物語なのに、おどろおどろしい感じは全くなくて。本も演出も役者も、惚れ惚れするような上手さで、特別な世界にいとも簡単に巻き込まれてしまう。
 片時も物語から離れることなく観続けたマダムだけれど、途中、2回ほど別のイメージがフラッシュバックしたの。それはね。
 ひとつは。食べることを拒否して即身成仏と化した時枝(森下創。この人にしかできない!)の幻(なのか幽体離脱した心、なのか)と卯太郎が出会うところ。時枝はもう神様みたいだったんだけど。このシーンでマダムの脳裏に、むかーし読んだきりの手塚治虫の「火の鳥」のあるシーンが浮かんだ。火の鳥の生き血を飲んだために不死となった猿田彦が、何千年も生き、もはや身体は朽ちて「意識」だけになっても生きていて、生物(人間は死に絶えてる)に語りかけ、神の声だと思われてしまうシーン。
 ふたつめは。卯太郎が全てを語り終え、「もう終わりにしようと思います」と言ったとき。マダムの脳裏をよぎったのは、佐野洋子の「100万回生きたねこ」だった。自分のことしか愛していない猫が百万回も蘇って生き直してきたのに、自分以外の猫を愛する人生を得て、もう生まれ変わらなかった、というお話。
 
 マダム自身が何を連想したか、ということはさておき、『天の敵』には生きるということはどういうことか、という問いかけがたくさん詰まってる。そんな言葉は一度も出てこないけれど、そして大仰な場面転換も舞台効果もないけれど、イキウメの舞台は「悠久の時」を感じさせてくれる。生きることを愛おしいと感じさせてくれる。

 
 最後に余計なことかもしれないけれど。もう少しチケット代を上げてもいいよ。その代わりもう少し長く上演してください。再見したくても上演期間が短いので、なかなか行けないから。二度、三度と噛みしめたい芝居だからね。

『クヒオ大佐の妻』を観る

 今、芸劇はすごいラインナップなのよね。5月27日(土)マチネ、東京芸術劇場シアターウェスト。

『クヒオ大佐の妻』
作・演出/吉田大八
出演 宮沢りえ 岩井秀人 川面千晶 水澤紳吾

 
 やっぱりこれは映画を見て予習しておくべきだったのかしら?
 芝居を観ながら、そして観終わったあとにも、そんなことを少し思ったの。
 映画「クヒオ大佐」を作った映画監督が、舞台で続編(というのか、スピンオフものなのか)を作ったわけだから、そこは予習したほうがよかったのかも。
 でも、ただただ役者としての岩井秀人が宮沢りえと共演するという、その一点でチケットを買ってしまったマダム。予習など思いもよらなかったし、この後の感想は、予備知識なしで観た人間のものなので、そこんとこよろしく。(ネタバレは、します。)
 
 舞台は東京、阿佐ヶ谷あたりの築50年くらいかという、二間のアパート。今時、大学生の下宿でももう少しきれいだろうというような古くさいアパートで、ミシンで縫い物をしている女(宮沢りえ)。美しいが、つましい生活にやつれているように見える。そこへ宅配屋(岩井秀人)がやってくるのだが、彼は高校の時の同級生を名乗り、上がりこんでしまう。かつて同級生たちの憧れの優等生だった女が、時を経て「クヒオ大佐の妻」として安アパートで暮らしていることに、興味深々で、彼女に食い下がるの。一方的に押されるクヒオ大佐の妻。だけれど、押入れの中から縛られ猿ぐつわをされた若い女(川面千晶)が転がり出てきたところから、形勢逆転する。
 若い女は、「クヒオ大佐」の結婚詐欺に騙されて貢いだ金を取り返しに乗り込んできたのだけれど、睡眠薬入りのお茶を飲まされ、眠っている間に縛られて、押入れに押し込められていたのね。妻は、口では申し訳ないと言いながら、夫の居所を明かさない。明かさないのか、知らないのか、「夫の居場所はアメリカ軍の機密情報だから」言えないなどという。
 若い女は、最初は妻もぐるになって自分を騙し、ごまかそうとしていると思うのだけれど、話していくうちに、妻は妻で、いまだに夫がアメリカ軍のパイロットだと、信じきっていることがわかっていく。同情したり、別れるように諭したり、こちらも形勢逆転するんだけれど、女は一向に「クヒオ大佐の妻」であることをやめようとはしないの。
 ときおり、部屋の電話が鳴り(その音は、妻だけに聞こえる)、妻は遠いサウジアラビアの戦線の夫と話すのだけれど、それも、相手は電話線の向こうにいなくて、彼女の空想でしかない。
 そして、宅配屋の男に言い寄られて逆ギレした「クヒオ大佐の妻」の妄想が舞台の上に炸裂する・・・。
 
 というようなお話だったわ。他に、同じアパートに住む変な少年(年齢不詳)とその父(どちらも水澤紳吾)も登場するんだけど、そこはあまり意味はなさそう。客席の通路を使った追いかけっこも、通路を使ってみたかった、という以上の意味を感じなかったし。
 最後の方で、「主人公の妄想が炸裂する」と書いた(我ながら当たり障りのない表現だな、と苦笑しちゃう)けれど、そこが凄く唐突で、胸を打つというよりも、一気に冷めた気持ちになっちゃって。
 つまりね、クヒオ大佐がアメリカを象徴し、妻や騙されて貢ぎ続ける女たちが日本を象徴する・・・という作者のテーマが、まんまセリフとなって語られ、叫ばれるの。だから、そういうことが言いたかったんだってわかるわけだけれども、それ、セリフで説明しちゃうことで、そこまで積み上げたもの(というほど積み上がってないのかもしれないけど)の意味がなくなってしまったの。セリフも急に詠いあげる感じになるしね。
 いきなり迫り上がってきた機関砲(?)とか、客席を覆うアメリカ国旗とかも、どこかタイミングにずれがあって、気持ちの相乗効果を生まないの。暗転の長さやタイミングも、切れ味が悪い。
 全体的に、隔靴掻痒感がある舞台だったね。
 
 マダムの観たかった岩井秀人と宮沢りえのセリフの応酬は、さしたる火花も散らなかった。本がもっと、突き抜けていれば、そうなったかもしれないのに。
 
 ここまで書いてきて、今、ひらめいたんだけど!
 これはね、つかこうへいみたいな芝居にしたかったんじゃない?
 最後に、セリフ詠いあげて、効果音最大にして、巨大なアメリカ国旗も降りてきて、観客の興奮を最高潮にもっていく・・・つかこうへい的手法を、やりたかったんじゃないのかしら?そう考えると、妙に納得がいくよ。
 ただ、このテーマにその手法が合っていたのかは疑問だし、詠うためには、詠えるセリフじゃなきゃいけないし、そこまで積み上げておかなきゃいけないのが積み上がってないしね。
 あとは、始めに言ったことに戻るのだけれど。演出家にとっては、これは映画の続編だったのかもしれない。だけど、こちらは初めてなので。映画を見てた人には、もっと伝わるものがあったのか、そこを誰かに訊いてみたい気がする。

«『グレート・ギャツビー』を観る

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

関係するCD・DVD

無料ブログはココログ