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面白く、やがて悲しき『ビリー・エリオット』

 赤坂ACTは構造上、できたら行きたくない劇場なんだけど。8月6日(日)ソワレ、赤坂ACTシアター。

ミュージカル『ビリー・エリオット 〜リトル・ダンサー〜』
音楽/エルトン・ジョン 脚本・歌詞/リー・ホール 
演出/スティーブン・ダルドリー
出演 ビリー       木村咲哉
   お父さん      吉田鋼太郎
   ウィルキンソン先生 柚希礼音
   おばあちゃん    根岸季衣
   トニー       藤岡正明
   オールダー・ビリー 栗山廉
   マイケル      山口れん    ほか

 『ビリー・エリオット』とはどんな舞台なのか、説明するまでもないくらい有名になっちゃったけど、まずはイギリスの舞台がどんなだったか、マダムのレポートを読んでください。長いけど。それは→マダム イン ロンドン  と→マダム イン ロンドン その2→マダム イン ロンドン その3

 読んでいただけばわかる通り、マダムは『ビリー・エリオット』を日本人がやることに懐疑的だったの。
 だから、観るかどうかずっと迷っていたのだけれど、結局行くことにしたのね。それは、いろんな意味で、いい判断だったと思ってる。
 というのはね、想像以上に面白かったの。そして、だからこそ、観たあとのイギリスへの敗北感といったらなかった・・・。

 日本版を制作するにあたり、日本人の演出家は付かず、演出補らしき人もいなくて、完全に、オリジナルを「まんま」上演するというやり方だったね。舞台装置から衣装から、役者の一挙手一投足まで、すべて英国版と同じ。ほんの少しカットされたシーンがあった他は。台詞が日本語である、という以外に、限りなく違いをゼロにしようという意図があったの。それは、『ビリー・エリオット』という名前の作品価値を傷つけまいとして、だと思うんだけど。
 
 マダムはそもそも「まんま」がやれるのだろうか、日本人キャストで?と懐疑的だったんだけど、そこはかなりクリアされてた。子役はもちろんのこと、心配されたアンサンブルも、よく踊りよく歌い、物語はちゃんと伝わってきて。言葉が違っても伝わる普遍的な部分、例えばビリーを残して亡くなった母親の思いや、ビリーの才能を見出し次のステップへ背中を押してやるバレエの先生の気持ちなどは、ひしひしと伝わり、子供達の踊るシーンはそれだけで楽しい。ビリーが、未来の自分と踊る「白鳥の湖」のシーンは、言葉がいらないシーンであるだけに、ロンドンで見たときと同じように白眉だったわ。
 子供達もアンサンブルも、激しい稽古をクリアして行けるところまで行ったのね。どれも少しずつ到達できていないところを残しつつ。練習してなんとかなる部分は、ほぼなんとかなった、の。そうしたら(子役の、そもそもの演技の発信力が拙くても)それなりに楽しめるものができた、ってこと。
 だけど結局それは、もとの本、もとの音楽、もとの作品の力が物凄い、ってことなのよ。イギリスって凄いな、と改めてマダムは感心した。芝居の力をこれほど信じて作られた作品はないよ。ひれ伏したの。そしたら敗北感が押し寄せてきたのよ。
 
 「まんま」やる方針に従って、炭鉱町の人々がサッチャーのマスクをかぶって歌いこき下ろすシーンも、全くそのままだった。このシーンを含め、作品のバックボーンをどう翻訳するか、日本側のプロデューサーは、何も考えなかったのかしら。イギリスの製作者の「まんま」の方針に唯々諾々と従うだけだったの?それとも、紆余曲折の果てに、このやり方が選ばれたの?
 このシーンに代表される、作品の根本にあるイギリス人の国民性や、当時の政治状況に対する怒りなどは、「まんま」やることによって、情報でしかなくなり、芝居の力としては全然伝わってこなかったんだよね。そこは「訓練」や「練習」だけではどうにもならないところだから。
 ことあるごとにマダムは思うんだけれど、日本人の役者も観客も、日本語で考え、日本語で体も動いている。だから台詞だけ日本語に移しても、芝居の力を翻訳したことにはならないの。
 日本版のための、日本人演出家が必要だったのではないかしら?

 例えば「Solidarity」の踊りと歌詞には、ストライキ中の炭鉱夫たちと、それを見張ってる警官たちの掛け合いがある。
 警官たちは「お前たちがストライキしてくれるおかげで残業代がたくさんもらえて、俺たちはお大尽だぜ」みたいなことを言い、対する炭鉱夫たちは「そしたらお前たちは家を長く留守するんだな。女房を寝取ってやるぜ」と歌う。ユーモアと皮肉たっぷりに、本気の反抗、本気の主張がこめられているんだけど。日本版ではそれが、ただステップが面白いダンスシーンになってしまっている!
 ステップは練習でなんとかなるけど、そこに込められた反骨精神はダンスの練習では生まれない。見事にどこかにいっちゃっていたのよ。
 
 「まんま」ミュージカルの専門劇団はもうあるんだし、これ以上そこに労力をかけなくていいと、マダムは思うよ。
 その先、を切り開いてほしい。

楽しさ全開 AUNの『間違いの喜劇』

 久しぶりすぎる高円寺。8月5日(土)マチネ、明石スタジオ。

劇団AUNワークショップ公演『間違いの喜劇』
作/ウィリアム・シェイクスピア 翻訳/小田島雄志
監修/吉田鋼太郎 演出/長谷川志
出演 木村龍 橋倉靖彦 河村岳志 松尾竜兵 齋藤慎平 山田隼平
   飛田修司 岩倉弘樹 前田恭明 伊藤大貴 千賀由紀子 水口早香
   悠木つかさ 森瀬惠未 佐々木絵里奈 桐谷直希 砂原一輝

 私事ながら、高円寺はシェイクスピアの聖地。
 昔、高円寺にはシェイクスピアシアターのアトリエがあり、そこで、マダムは生まれて初めてライブでシェイクスピアを観たの。以来、シェイクスピアの面白さの虜。 高円寺で降りたのは本当に久しぶりだったんだけど、明石スタジオの席に着いたら、小屋の大きさといい、限りなく無に近い装置、大道具の無さといい、シェイクスピアシアターのアトリエそっくりだったので、それだけで故郷に帰ったような気がしたの。
 で、始まった芝居は、ホントにマダムを原点に運んで行ってくれるような面白さだった。
 
 『間違いの喜劇』のあらすじ説明とかはしないよ。
 
 二人のドローミオが、最高。根っから喜劇体質のドローミオ兄(齋藤慎平)と、少しヤンキーが入ってるドローミオ弟(山田隼平)の動きが楽しくてしょうがなかったし、ハイテンションで叫んでいるようでも、ちゃんと台詞の全てが耳に届いて、それがメチャクチャ可笑しい。二人のノリの良さが役者たち全員に伝染して、芝居を引っ張っていってたわ。「間違いの喜劇」はドローミオ兄弟が主役だったのね。初めて知ったー。
 エドリエーナ&ルシアーナ姉妹も負けてなかった。エドリエーナ(水口早香)の大柄で押しまくって舞台を制圧する様子に笑ったし、対するルシアーナ(悠木つかさ)の小柄だけどのんびりゆったりのマイペースさが、あたりをじわじわと侵食していくのがまた可笑しいの。
 始まって30分くらいで可笑しさは雪だるま式に膨らんでいき、あとは、もう誰が何をやっても可笑しくて。アンティフォラス兄(河村岳志)の堅物さも、アンティフォラス弟(松尾竜兵)のキレやすい体質も。商人(伊藤大貴)はニコニコしてるだけで可笑しく、金細工師アンジェロ(岩倉弘樹)なんて、最後には何も言ってなくても可笑しい、という具合に、どこを切っても可笑しくて楽しいの。もう、凄くよく出来てる!
 そして笑ったあとの締めで、修道院主エミリア(千賀由紀子)がアンティフォラス兄弟の母だとわかるところは、ちゃんと、ジーンとする。出番は少ないけど、エミリアをベテランがやるってことには、凄く意味があるんだよね。

 シェイクスピアの喜劇の面白さは、台詞にかかっているの。この台詞をどんなつもりで誰に向かって言うのか。聞いた相手はどんな風に受け止めて、言い返すのか。周りはそれを聞いてどんな反応をするのか。もうそれだけ。それを板の上にいる役者が全員、わかっていて、やり遂げたら、メチャクチャ面白いものが出来上がる。
 劇団AUNはシェイクスピアの専門劇団ながら、ここ数年シェイクスピアから遠ざかっていた。でもさすがだわ。若手のワークショップ公演といえども、全員がどんな瞬間も今起きていることにヴィヴィッドに反応してた。やっぱりこうでなくちゃ。セットも小道具もなにもなくったって、面白いのよ、シェイクスピアは。
 
 それとね、今回マダムは発見したのよ(そんなことは、とっくに知ってると、みんなは言うかな?)。
 シェイクスピアではよく、双子とか、瓜二つの兄弟とかが出てきて、それを一人二役でやる上演もあるんだけど、マダムは初めてシェイクスピアを見たときから、全然似てない役者がそれぞれの役をやるのを自然に受け入れてきたし、今回も二人のアンティフォラス、二人のドローミオがとても良かった。
 いえ、むしろ、違う役者が双子をやる方が断然いい、と思ったのよ。
 だってさ、もしそっくりな双子を二組見つけてきて、アンティフォラスとドローミオをやらせたとしたら、よ。観客も、今出てきたのがアンティフォラス兄なのか、ドローミオ弟なのか、瞬時に見分けられなくなっちゃうじゃない? この「瞬時に」ってところが大事で、観客の方は瞬時に、ドローミオ兄!とかアンティフォラス弟!とかわかるから、登場人物たちが右往左往するのが可笑しいわけなのよ。迷ってから理解するんじゃダメなの。可笑しさの勢いがなくなっちゃうもの。
 
 というわけで、ホントにホントに楽しかった。またやってほしい。毎月やってほしいくらいだわ。

『ハイバイ、もよおす』を観る

 すごく久しぶりの横浜。7月29日(土)ソワレ、KAAT神奈川芸術劇場、大スタジオ。

『ハイバイ、もよおす』
作・構成・演出/岩井秀人
出演 岩井秀人 上田遥 川面千晶 永井若葉 平原テツ
   黒田大輔 田村健太郎 伊東沙保 岩瀬亮 後藤剛範 ほか

 いつものシリアス路線から少し外れて、「ハイバイが遊んでみた」番外編。3本のお話のオムニバスだった。
 1本目はロールプレイングゲームのパロディ(?)。ゆるーい感じのパロディだった。役者さんたちのメチャクチャ弾けてる様子が楽しかったんだけれど、マダムはゲームを殆どやらないので(テトリスみたいな単純なものしかやったことがなく)、ゲームをよく知ってるらしい観客が大ウケしているところに付いていけなくて、とても悔しかったの。
 2本目はニセモノ大衆演劇。銀色の長い髪のかつらに白塗りの平原テツが主役なの。それだけでかなり笑える。岩井秀人による前説があって、「大衆演劇は写真を撮ってオッケーの世界なのでそれにならって、この芝居に限り、どんどん携帯で撮っていいですし、芝居の後どんどんツイッターに挙げてください」とのことだった。マダムは撮らなかったんだけど、客席では携帯を掲げる人がたくさんいたし、殺陣とか、見栄を切る(?)場面では、撮影タイムともいうべき長〜い間が取られていた。ツイッター上に挙げられた写真を見て、「ハイバイに何が起こったんだ?!」と思った人もいるだろうけれど、これはこれでハイバイらしかったよ。大衆演劇にある「役者が自分の演技に酔ってる感」は全然なくて、すごく客観的だったの。
 3本目「ゴッチン娘」は、配られた解説によればハイバイのニセモノ。でも、マダムはこれが一番面白くて、ってことはシリアスな岩井秀人の語り口が好きだってことだな、と再確認したんだけど。
 主役のゴッチン(後藤剛範)は、筋骨たくましい小学生の女の子。「かわいいよ、似合うよ」と言ってくれる両親を気遣って、フリフリのワンピースを似合わないのに無理やり着ている。好きな男の子がいるけど、自分は「男の子を好きになるなんてふさわしくない容貌だ」と思っているから、我慢している。クラスメートや先生から気を使われていることに気づいていて激しく傷ついているのだけれど、周りを気遣い、それすら表に出さないようにしている。そういう女の子。あまりにも自分を抑え込みすぎて、遂に爆発し山へ逃げ込み野生化してしまうという、『おおかみ子供の雨と雪』も真っ青な激しい展開が、凄く可笑しくて、結構悲しいの。解説だと「ニセモノ」って言ってるけど、マダムはニセモノとは思えず「あー、これぞハイバイ」と感じて、満足したの。
 全体的にゆるーい感じだったけれど、ゆるくやってもハイバイはどこまでもハイバイらしくって、安心して帰ってきた。

『怒りをこめてふり返れ』追記

 勢いで書いてしまったら、大事なことを書き忘れてしまった。
 衣装やら小道具やらのことをたくさん書いたけれど、もっと根本的な演出上の問題があってね。マダムだけがわからなかったんだろうか?
 子供のこと、なんだけど。
 アリソンは子供ができたことを、ジミーに話せずにいて、クリフからも「話した方がいいよ」と言われている。だけど、いつもジミーは怒っているから、話せない。
 そこまではわかったんだけど。結局、子供のことをジミーに話せないまま実家に帰るじゃない?その辺から、アリソンの気持ちが全然わからなくなったの。あのときのアリソンは次のどれだったんだろう?
 ①とりあえず実家に帰って子供を産み、それからジミーとのことを考えよう。
 ②ジミーとは別れるけど、実家で子供を産んで育てよう。
 ③疲れ果てて、何も考えられない。
 ④正直、子供のことは考えたくない(子供なんてできなければよかったのに)。忘れたい。

 お父さんが迎えに来てて、トランクに荷物を詰めながらお父さんと話をするとき、このどれかのはずなんだけれど、どれにも見えなかったの。お腹の子供のことはシーンから忘れられている感じがした。
 だから、ラストで、流産したアリソンとジミーが対峙するとき、アリソンが子供のことをすごく嘆くのが、そのまま受け取れなかったの。ホントに悲しいのかなあ、と疑ってしまう気持ちがぬぐえなくてね。
 結局、アリソンの気持ちは全然理解できなかった、ということだわ。
 
 みんなはどうでしたか?

議論沸騰の『怒りをこめてふり返れ』

 久しぶりの平日夜の観劇。最近、夜公演自体が減ってるね。7月28日(金)ソワレ、新国立劇場小劇場。

『怒りをこめてふり返れ』
作/ジョン・オズボーン 翻訳/水谷八也
演出/千葉哲也
出演 中村倫也 中村ゆり 浅利陽介 三津谷葉子 真那胡敬二

 最近は、芝居のための予習をほとんどしなくなったマダム。怠けているわけではなくて、わざとなの。
 だって、演劇のお約束のようなものはもう心得ているし、大抵のストーリー展開にはついていけるし、あらすじのようなものは「読まなければよかった」と思うことが多いし。芝居が始まって、そこから受け取れることが全てなんじゃないのか?という思いが強まっているの。なんか色々お勉強していかなくちゃいけないなんて、間違ってる、と思ったりするのよ。パンフレット読まなきゃ感じ取れない芝居なんか言語道断!
 なので、今回も、前日まで何もせず、感想のツイッターなども一切見ないようにしていたんだけど、それでもやっぱり難しいらしい・・・という感想は聞こえてしまって、慌てて、友人に「予習が必要?」と訊いたの。そしたら、1950年代のイギリスが舞台で、大学は出たけれど下層階級の出なので色々うまくいかず、怒ってばかりいる男ジミーのお話だ、と教えてくれたの。
 それで、十分だったよ。別段、ほかに必要な知識などない。演出さえ、行き届いていさえすれば。

 とある町の、とある屋根裏部屋。ジミー(中村倫也)は、妻アリソン(中村ゆり)と、同じ下層階級の出の友人クリフ(浅利陽介)との、奇妙な共同生活をしている。ジミーは政治にも宗教にも、あらゆる社会情勢にも、自分が今読みたい新聞をクリフが読んでいることにも、妻が疲れた顔をしていることにさえも、激しく怒り、常に罵り続け、生活は殺伐としているの。アリソンは中産階級の家の出で、ジミーと恋に落ちて駆け落ち同然で結婚したのだけれど、ジミーはどんな仕事も長続きせず、今はキャンディの屋台で稼ぐのみで、先が見えないの。アリソンは妊娠したことさえ、ジミーに打ち明けられずにいて、そんなこととは知らないジミーは苛立ち続けてアリソンを追い詰める。だけど、クリフはそんなジミーを飄々と受け流し、アリソンのことを慰め続ける。クリフが緩衝材となって、ギリギリのところで破綻を免れているのね。
 そこへアリソンの友人ヘレナ(三津谷葉子)が訪ねてきて、危ういバランスは一気に崩れていく。アリソンの窮状を見かねて、ヘレナはアリソンの実家に連絡を取り、疲れ果てたアリソンは父親に連れられ、家に帰っていく。けれど、口実を設けて居残ったヘレナはジミーに言い寄り、アリソンのいた場所にまんまと居着いてしまうの。しかし今度はクリフがその生活に嫌気がさし、出て行こうとする。
 そんなとき、子供を流産したアリソンが、屋根裏部屋を訪ねてくる。ジミーとアリソンは希望のない真っ暗な状態で、それでも互いが必要だと抱き合う・・・。
 というようなお話。

 とにかくずうっと怒って、怒鳴り散らして叫んでるジミー役の中村倫也と、どんなときも飄々としているクリフ役の浅利陽介が素晴らしいの。この芝居の面白さは、二人に支えられてた。特に、中村倫也。彼ほど演技の幅が広い役者はなかなかいないよ。怒れる若者も、可愛く賢い女性も、骨太の新劇も、ふざけたコメディも、なんでもござれね。ジミーはしょっぱなから最後までハイテンションで怒っていなければならないから、尋常じゃないエネルギーが必要なんだけど、中村倫也はそれを惜しげもなく放出していて、もうそれはそれは苛々させられたの(←褒め言葉!)。彼のエネルギーがなかったら、この芝居は散々なものになっていたでしょう。

 というのも、面白く見られたのは中村倫也のエネルギー放出のおかげがほとんどで、演出的には色々と首をかしげるところがあったからなの。
 最初、奥行きのある屋根裏部屋のセットを前にしてマダムは、「あら素敵な部屋」と思ってしまったんだけど、これがまず✖️よね。話が進むにつれ、おかしいな、と思ったの。キャンディの屋台でどれほど稼いでいるのか知らないけど、あんな広々した部屋に住んでちゃ、リアリティがない。仮に当時のイギリスの下層階級はあの空間に住んでたのが本当だとしても、演劇的リアリティとしては、もっと狭くてもっと息苦しくてもっと圧迫感があって、「こんなところで怒鳴られたら逃げ場がない」と思うような空間じゃなきゃダメじゃん? 「こんなところで夫婦+友人で住んでるの?うそでしょーっ?」と感じられなきゃいけないんじゃないかしら。
 セットのみならず、リアリティがないな、と思うところが続出だったんだけれど、特に感じたのは、女優さんたちの衣装、そして細かな演技ね。アリソンの衣装は、何年もジミーと暮らして困窮している人の服ではなかったわ。実家から持ち出した服だとしても、もっと経年変化がなければおかしいし。化粧品やバッグなども、そう。小道具ひとつひとつが考えられて、揃えられたのかしら?これは実家から持ってきて、大切にしまいこんであったもの。これは実家から持ってきて、使い込んですっかり古くなってしまったもの。これはジミーの少ない稼ぎからやっと買えたもの。全ての衣装と小道具が、そうやって揃えられるべきだし、そういうものたちが物語るリアリティってものがあるでしょ?
 セットも衣装も小道具も、この物語を支えていない。
 演技も。屋根裏部屋だから水道がきていなくて、水を運んでこないといけないらしき台詞があったような気がするんだけど、だとしたら、お茶を飲んだ後の洗い物はどこでしているのか、洗濯はどこでしているのか(それはいちいち大変なはず)。それは舞台上には見えなくても、演出家は知っていなければいけないし、それに従って、役者は演技しなくちゃいけない。
 そして舞台の上で象徴的な役割を果たしているアイロン! アリソンもヘレナもアイロンをかけるシーンが長々とあるのに、それがすごく無意味になっちゃってる。一体、誰のために、なににアイロンをかけているのか、マダムは一番後ろの席だったからわからなかったんだけど。あんな風に表面を撫でてるだけでアイロンがかかるのは、最近の性能のいいスチームアイロンであって、一昔前のアイロンはすごく重くて、その重みの上に更に自分の体重を乗せてかけるものでしょう?だからアイロンがけは重労働なわけだし、実家にいた頃はやったこともなかったアリソンが、疲れ果てながらアイロンかけてるから、意味があるんで。そのことがさらにジミーを苛立たせるんでしょう?
 それが、軽々とアイロンがけしてて、全然大変そうじゃないんだもん・・・物語を支えていないよ。
 
 中産階級の苦労知らずのお嬢さんだったアリソン。でも彼女はそんな自分を心のどこかで疑っていた。自信がなかった。だからこそ、下層階級の怒れる若者ジミーに惹かれてしまう隙があったわけだし、恋に「墜ちて」しまう。でも代償は大きくて、今や彼女は疲れ果てている。そしてジミーは、彼女をそんな風にしてしまった自分にも苛立ち、彼女にも苛立ち、先が見えない未来にも苛立っている。
 そういうことなのよね?だけど、ジミーの方は描かれていたのに、アリソンの描かれ方はピントがずれていて、焦点を結んでいなかった。
 男たちの演技にはリアリティがあり、女たちの演技にはリアリティがなかったの。だから、もっと面白くもっと刺激的になるはずだったのに、そこまで行けなかったの。
 それでも面白い芝居だった。書き込まれた本と、主役のエネルギーが、刺激的だったし。見終わった後、友人と議論沸騰したし。それはやっぱり、面白かったってことだよね。
 

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