最近の読書

劇団新感線『髑髏城の七人 極 修羅天魔』に行く

 おそまきながら回る劇場で、回ってきた。4月9日(月)マチネ、IHIステージアラウンド東京。

劇団新感線『髑髏城の七人 極 修羅天魔』
作/中島かずき 演出/いのうえひでのり
出演 天海祐希 福士誠治 竜星涼 清水くるみ 三宅弘城
   梶原善 山本亨 右近健一 吉田メタル 古田新太 ほか

 本筋の「髑髏城の7人」はWOWOWで小栗旬主演バージョンを観ただけ。うっすらとお話を憶えているだけだったんだけど、今回、十分楽しめたわ。
 あらすじを説明するまでもないだろうし、色々突っ込んでみても詮ない舞台なので、レビューは書かず、感じたことを羅列します。

新感線って、滅茶苦茶ハイスペックで大掛かりな大衆演劇なんだってことを確認。
・古田新太の殺陣は見事で、それ以外は省エネ。絶対に走らないのが可笑しい。
・出てる役者みんなに見せ場を作ってあげるので、どうしても長くなっちゃうし、中だるみはある。
・劇場は、トイレ少なすぎ、ロビー狭すぎ。プレハブ感がいっぱい(本当にプレハブなんでしょ?何年かで解体するんだよね?)。まあ、これはこれで、こんなものかしらね。
・最初は、酔っちゃうかと心配したけど、それほどでもなく。巨大スクリーンを駆使すれば駆使するほど、やっぱりディズニーランド感が増す(マダムはディズニーランドが苦手です)。
・そして、天海祐希、カッコイイなあ!
 
 そのほかにも竜星涼が際立っていたとか、三宅弘城がいい味だしてたとか、その他あるけど、マダムはけっこう吉田メタルが気に入ったかも、というどうでもいい情報を書き添えて、今回は終わりにするね。

“いろいろな人“を登場させ得た『Take Me Out 2018』

 劇場はなかなか素敵なのだけど、急な階段が怖い。あと数年すると、マダムは降りられなくなるのではないかしら? 3月31日(土)マチネ、DDD青山クロスシアター。

『Take Me Out 2018』
作/リチャード・グリーンバーグ 翻訳/小川絵梨子
演出/藤田俊太郎
出演 玉置玲央 栗原類 浜中文一 味方良介 小柳心
   陳内将 Spi 章平 吉田健悟 竪山隼太 田中茂弘

 初演を観た人たちが皆褒めていたので、再演を待っていたの。とても面白かったー。
 野球チームの話らしいと聞いていて、野球についてなら人並み以上の知識はあるし、それ以上何の予習もしていかなかった。観終わってわかったのは、これは特にその知識も必要なかったね。
 というのも、野球のシーンは殆どなくて、ロッカールームの人間関係の話であったから。
 大リーグのチーム、エンパイアーズのスター選手ダレン(章平)は、父が白人、母が黒人だったけれど、裕福な家庭に育ち、今は人気選手となっている。これまでに一度も差別を受けることなく生きてきた(と語り手のキッピー(味方良介)が言う)彼は、ある日自分がゲイであることを公表したため、差別と偏見が彼の周りに渦巻き、チームの成績も下降気味。チーム内に不協和音が起き始める。
 チームを立て直すため、補強として押さえのピッチャー、シェーン(栗原類)が加入し、チームは再び上昇するのだけれど、シェーンのゲイに対する差別発言が再びチームの雰囲気をどん底に陥れる。投げやりになったダレンは、若くして引退を考える。でも彼の会計士メイソン(玉置玲央)がダレンをとめる。それは商売上のアドバイスにも見えたのだけれど、ある大事件が起きて、ダレンは自分にはメイソンが必要だと気づく・・・。
 というような物語。

 男の役者ばかり11人。イケメンの男の子が多いので、客席もそのファンらしき若い女の子がいっぱい。イケメンばかり集まると皆同じ顔に見えて物語が平板になるきらいがある昨今だけど、今回は違ったので、おおっ、と思ったよ。
 ダレンを演じた章平をはじめとして、皆、違う顔、違う体型、違う人種、を表現できてた。ダレンの少し浅黒い肌、シェーンのヒョロッとした体つきとロングヘア、メイソンの少し貧弱にさえ見える小柄さと赤毛っぽい髪、キッピーの短い北欧的金髪、他チームのスター選手デイビー(Spi)のハーフの顔立ちを生かしたwaspっぽさ、顔も体も表情を抑えた日本人選手カワバタ(竪山隼太)・・・といったように見た目の違いがちゃんと出ていて。その上に、言葉だけに頼らない演技全体で、一人一人の個性を表現できていたの。その辺りの演出がとてもきめ細かくて、的確。
 人種の問題や、ゲイの人たちが受ける差別の問題。むき出しの差別意識を見せるシェーンには過酷な子供時代が背景にあったことも描かれる。幼い頃に両親を亡くし(父が母を銃殺後、自殺する、という無理心中)その現場にいた記憶にさいなまれながら、ずっと居場所もなく教育も受けずに大人になってしまった、その結果が、短絡的な差別主義者なの。演じる栗原類が素晴らしかった。こんな狭量で短絡的で教育のない人物を演じるのは、精神的な負担が大きいだろうなぁと思うのよ。なのに、パターンの「悪役」や「かわいそうな人」に逃げずに、シェーンを造形しきっていたことに感心した。冷徹な演出も偉い。
 ダレンを演じた章平が、すごく素敵だった。大人の男っぽさ、色っぽさがちゃんとダレンに宿っていて。だから彼がプレイするシーンがないにもかかわらず、人望を集めたスター選手だってことを、見る側もすんなり信じられたし。
 そしてなんといってもメイソン(玉置玲央)の造形だよね。小柄で貧弱で、少し遠慮がちでありながら、気持ちがついあふれて饒舌になってしまうゲイの会計士。最初、観客はダレンと一緒になって「誰だよ、こいつ」と思うのだけれど、最後には愛すべき人として受け入れてしまうのよ。
 
 Take Me Out のあとには当然、 to the Ball Game と続くのだけど、題名の 「Take Me Out 」はダレンの心の言葉なのかな。俺をここから連れ出してくれ、という。あるいは未来へ連れてってくれ、という・・・。 
 面白かったなあと思いながらの帰り道、つらつら考えたのは、どんな問題もタブー視して逃げちゃダメだ、っとことね。芝居も、物語も、人生もね。

翻訳、この難しきもの

 ナショナルシアターライブで『エンジェルス・イン・アメリカ』を見たら、もう色々と勉強したくなっちゃってるマダム。
 一方で、腹立たしいことばかりの世情に毎日怒っているため、読書の方が全然進まず。せっかく勉強したくなっているのに、意欲をそがれること甚だしいの。人生短いんだから、マダムの邪魔するな、って感じよ。
 とりあえず、ここのところ読んだ本の中でピカイチの名著を紹介するね。

『翻訳語成立事情』
柳父 章(やなぶ あきら)著  岩波新書(1982年刊)

 これね。
 今からかれこれ35年も前に出版されたというのに、マダムは寡聞にして知らなかった(恥、かも)。

 『翻訳語成立事情』は、明治時代にとつぜん大量の外国語に接するようになった日本人の、翻訳に関する苦心、工夫、とりこぼされた意味などについて考察した本。新しい言葉を造語したり、もともとあった言葉に翻訳の意味を当てたりしながら、先人はせっせと翻訳し、諸外国の学問やら思想やら諸々を取り入れていったわけだ。だけど、そこには大きくとりこぼされた意味があり、今もなお、とりこぼしたままなものがたくさんあるのでは?とわかってくるの。それが日本人の暮らし方、考え方、生き方にも影響を及ぼしている・・・・。
 目次を書き写すね。

1 社会…societyを持たない人々の翻訳法
2 個人…福沢諭吉の苦闘
3 近代…地獄の「近代」、あこがれの「近代」
4 美…三島由紀夫のトリック
5 恋愛…北村透谷と「恋愛」の宿命
6 存在…存在する、いる、ある
7 自然…翻訳語の生んだ誤解
8 権利…権利の「権」、権力の「権」
9 自由…柳田国男の反発
10 彼、彼女…物から人へ、恋人へ

 この目次を見て、あ、おもしろそう!と思ってくれない人をもう説得はできない。ので、これで紹介はほぼ終わりなんだけど、まあ、もう少し中身をお教えすると。例えば5.の「恋愛」の章の小見出しは
 一、「恋愛」は日本にはなかった
という衝撃的な一文。出だしの数行を引用すると。

「恋愛」とは何か。「恋愛」とは男と女がたがいに愛しあうことである、とかその他いろいろの定義、説明があるであろうが、私はここで、「恋愛」とは舶来の観念である、ということを語りたい。そういう側面から、「恋愛」について考えてみる必要があると思うのである。

 あー、なんか凄くわかるぞ、先が読みたい・・・とマダムは思う。だって、マダムは芝居なんかで、超真面目に「愛してる」とか言ってるのを聞くと、すっごくむずむずするんだよね。なんかこう、嘘くさいっていうか、日本人の生活と体に即してないような気がするの。もっと違う言葉があるだろって思っちゃう。好き、とか惚れた、とか可哀想(だた惚れたってことよ)、とか。I love you.を「月が綺麗ですね」と訳したという夏目漱石を心の奥底から尊敬する。ホントよ。

 結局ね、言葉っていうのはその国、その社会に即して生み出され、使われてきたので、海外の概念をぴったり同じ意味で表せる単語は、殆ど無いのよ。そのことは今、翻訳に従事している人ならもちろん、日々感じていることよね、きっと。だけど、時折、原点(今回の場合は明治)に帰り、この本に登場する福沢諭吉や坪内逍遥や森鴎外や北村透谷の苦悩を思い起こしたほうがいいのではないかしら。

 35年遅れだけど、この本に出会えてよかった。しかも、絶版にならずに、今も普通に本屋で買える。マダムはしばらく側に置き、読み返すつもりよ。 

『毒おんな』に殺されてしまう男たち

 チケットを買った時には、主演女優の独立問題なんて知らなかったの。3月9日(金)ソワレ、下北沢ザ・スズナリ。

椿組2018年春公演『毒おんな』
作/青木豪 演出/高橋正徳
出演 小泉今日子 外波山文明 津村知与支 福本伸一 岡村多加江
   鳥越勇作 山中淳恵 井上カオリ 木下藤次郎 ほか

 スズナリに行ったのはたぶん、25年ぶりくらいなんじゃないかしら?
 マダムが学生の頃(すごい昔)、テント芝居やジャンジャンやスズナリや、つかこうへいでも遊眠社でも、男性客がそりゃあ沢山いたのよ。ものによっては女性の姿はまばらってこともあるくらい。男子学生もたくさんたくさん、来てたの。
 それなのに、今芝居を見に行くと、客席に男性は少ない。あの頃芝居を見ていた男たちは、いったい何をしているのか、どこに行っちゃったのか、みんな芝居に興味がなくなっちゃったのか・・・と思っていたんだけど。
 いたのよ。
 金曜夜のスズナリには、往年の芝居ファン(小泉今日子ファン?)とおぼしき男性客が万難を排して、集合していた。この人たちは、例えば彼女が出演するシス・カンパニー作品とか、岩松了の芝居とか、動物園物語とか、観たんだろうか? どうも違う気がする。スズナリだからわらわらと集まってきたような気がしたのよ。

 内容の話しなくちゃね。
 実際に起きた、老人を狙った結婚詐欺殺人事件をヒントに書かれているとおぼしき物語。北海道の、畜産だけで成り立っている小さな町に、都会的な香りのする美女、楓(小泉今日子)が一人現れたせいで、男たちはわらわらと美女に吸い寄せられ、いつの間にか金を巻き上げられ、殺されるかもしれないと思いつつ騙されたままにまかせていく・・・。
 美女は、以前は一人暮らしの男性向けの料理教室の教師をしていたといい、外国に留学していた過去を匂わせ、ときおりフランス料理について、あるいは「本物の」紅茶について訳知り顏で語る。田舎の男たちは、それを真に受けて感心したり、憧れたり、ポーッとなったりして、彼女の本性になかなか気づかないの。
 牧場主夫妻をはじめ、牧場を取り囲む人たちはみんな、芝居の中の人というよりその辺にいる(褒め言葉です)人のままだった。なんていうか、作為がない演技だったの。泥くさいとも言える。小泉今日子だけが異星人みたいに違う空気を身にまとっている。そこは演技というより、作家の狙い通りの効果があったんじゃないかな。
 
 一箇所だけ引っかかるところがあって。
 楓が現実には牧場の人たちと一緒にいるにもかかわらず、自分にだけ見える過去の亡霊(夫や妹を死に追いやった楓の母親)と会話するシーン。二つのグループが混在しながら、全く別の会話が同時進行する。ちゃんと理解はできたのに、なにかが足りないような気がして、ずっと引っかかっているんだけど、どうしてだか考えてもよくわからなかった。
 こういう、同じ空間にいながら全然別の会話が進むのって、イキウメとかハイバイとかで見ていて、その空間のさばき方の上手さに慣れてしまってたのね。その上手さがどんな要素でできているのかをちゃんと分析してみないと、なにが足りなかったのか、謎は解けないね。ずっと考えてたんだけど、時間切れアウトとなってしまった。
 
 悪事がバレて逃げることにした楓は、自分をかばってくれた小金持ちの老人(外波山文明)を自殺と見せかけて殺そうとする。そのあたりからラストへの畳み掛けは圧巻。なによりも、老人が殺されることをわかっていながら、敢えてそれを受け入れていく(つまりこの女になら殺されてもいいと思ってしまう)ところが、なんとも説得力があって。
 というのも、客席中の男たちもみんな一緒になって「小泉今日子になら殺されてもいいです〜」という気を醸し出していて、劇場中が「男ってバカ」な空気に制圧されてしまったんだもの。なんだか、すごいものを見てしまったわ。
 小泉今日子って人は小劇場向きの女優なのだった。2メートルの距離で見られてマダムもなかなか幸せだった〜。
 
 一つ思うことはさ、ホントに起こった事件の毒女は、別に美女じゃなかったわけでしょ? 男たちを騙すのに美しさは必要じゃなかった。次はその辺りを掘ってもらいたいな。  

深いオーソドックス 加藤健一事務所『ドレッサー』

 加藤健一の芝居といえば、本多劇場ね。3月4日(日)マチネ。

加藤健一事務所公演『ドレッサー』
作/ロナルド・ハーウッド 訳/松岡和子
演出/鵜山仁
出演 加藤健一 加納幸和 西山水木 石橋徹郎 金子之男
   岡﨑加奈 一柳みる

 有名な作品で、見た憶えはないのに話を知っている『ドレッサー』。
 長年シェイクスピア俳優として一座を率いてきた座長と、それを支えてきた付き人(ドレッサー)の舞台裏の物語。30年前に付き人ノーマン役を加藤健一が演ったとき、座長の役は三國連太郎だったのだそう。うう。なぜ、マダムは観ていないの?いったい何をしていたのかしら?
 どんな物語も時代背景や、人物に影を落とす社会的背景がとても大切なのだけれど、この『ドレッサー』も例外ではない。第二次世界大戦下のイギリスが舞台となっているの。
 なので、若く健康な男たちは皆、戦争に行っているわけだから一座には、老俳優(男女)や足の悪い役者や新人の女の子しかいない。そのメンバーでやりくりしながら毎日のように、今日はオセロー、明日はリア王というようにシェイクスピアを演じて旅をする。年老いた座長の疲れはピークに達してる・・・というところから始まるわけなの。
 台詞を忘れ、奇行が目立ち、心身ともに疲れきっている座長(加藤健一)を、なだめすかし、ワガママを聞き、衣装やかつらをつけさせ、なんとか舞台に立たせる付き人ノーマン(加納幸和)は、座長が思い出せない台詞も全て憶えていて、付き人としては超プロフェッショナル。でも誰かの代わりに口上を言うことになって舞台に立つと、身も世もなくアガってしまう。根が、表舞台には立てない人間なの。
 
 奇をてらわぬオーソドックスな演出で、この古典的な作品にはとてもふさわしいと思った。とにかく加藤健一と加納幸和の手練れの台詞術を味わうためにあるような芝居だから。
 とりわけ、座長が脈絡なく色々なシェイクスピア作品の台詞を言うところなどは、加藤健一のなめらかかつ響きの良い台詞を堪能できてうっとり。一方加納幸和のノーマンは、長年女形で鍛えてきた「人を立てる」演技や「人を甲斐甲斐しく世話する」演技が本当に自然で、このキャスティングの妙に溜息がでるくらい。
 
 ラストは「リア王」をなんとか演じきって眠りながら逝く座長と、最後まで感謝の言葉をもらえなかった付き人との別れ。どんなにヨレヨレでも座長が太陽で、その光に照らされなければ輝けない月のような存在のノーマン。光を失って、恨みつらみと哀しさと憤りがないまぜとなったノーマンの演技がずっと、尾をひくの。
 
 戦時中ということで灯りが暗めの楽屋のセットだったんだけど、ずっと暗めなのが観客としてはちょっと辛かったかな。
 
 観終わった後は、三國連太郎と若き加藤健一(といっても30代後半)だったらどんなだったか、を思い浮かべてみた。三國連太郎の座長は、もっとわがままさが手に負えない感じだったのではないかしら・・・? 加藤健一の座長は、愛すべきわがままさだったね。

«『見晴らす丘の紳士』を観る

2018年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

関係するCD・DVD

無料ブログはココログ