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最近の読書

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このブログについて

このブログは、マダム ヴァイオラが観たお芝居、お気に入りの役者さんたち、読んだ本などについて、勝手な感想を綴ったものです。内容は基本的にマダム ヴァイオラの記憶によるものです。間違いのないように気をつけてはいますが、事実関係の正確さは保証できません。
記事を引用されることはかまいませんが、著作権は私(マダム ヴァイオラ)にあります。引用される時には、必ず引用元としてこのブログ名を明記してください。
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コメントは大歓迎です。願いはただひとつ、芝居の話で盛り上がること!

文学座の挑戦 『もうひとりのわたしへ』

 6月3本目の芝居。そして暫く観劇予定なし。6月24日(火)マチネ、紀伊國屋サザンシアター。
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 文学座公演『もうひとりのわたしへ』
 作/田村孝裕
 美術/長田佳代子  音楽・ラップ指導/ALI-KICK
 演出/五戸真理枝
 出演 高橋ひろし 郡山冬果 横田栄司 畑田麻衣子 山森大輔
    吉野実紗 萩原涼介 宝井紗友莉 稲岡良純
 





 チラシには特に謳われてないのだけど、この新作は、演出の五戸真理枝と俳優畑田麻衣子、吉野実紗の共同企画なのだそうだ。そう言われてみれば納得の、「アラフォーの女の今」を描く芝居だった。
 セットは、いくつかの輪っかが積んであるような変形舞台で、抽象的。奥の高いところに黄色い輪っかがはまった台があり、そこにDJが登場すると、輪っかがいろんな色に発光する。

 
 りほ(畑田麻衣子)はもうすぐ40歳。仕事はそこそこ順調だし、夫芳久(山森大輔)ともまあまあ円満なのだけれど、子どもを授かるならそろそろ最後の年頃なので、そのことが気になっている。夫とは長らくセックスレスだし、不妊治療も中途半端だし、夫はそれをもう気にもしていない様子だ。が、りほの誕生日を忘れてないがしろにする芳久に、りほは日頃の不満が噴出する。
 りほには、内面に、ものをはっきり言わずにはいられないもうひとりのリホ(吉野実紗)がいて、舞台上には白いジャケットのりほ(畑田)と黒いジャケットのリホ(吉野)が両立している。りほ(とリホ)の不満はラップで表現されるのだが、ラップが始まると、どこからともなく銀色のマントを着た男、スケール(横田栄司)が現れ、高い段の発光する台のところでDJを務める。このあたり、有無を言わさぬシュールな展開なのだけど、吉野実紗の主婦ラップのノリの良さと、横田栄司の疑問を挟ませない存在感で、持っていかれてしまう。
 りほの気がかりは、実家の両親の不仲だ。父悟(高橋ひろし)は定年退職後はジョギングにハマって元気なのだが、母真由(郡山冬果)は自分の歯の治療に悟が金を出さないことが不満で、喧嘩が絶えない。真由の愚痴は、りほが聞くたびに微妙に内容がズレていて、やがて真由の認知症発症に繋がっていく。40代になると親の介護問題が勃発するのだ。
 
 日常の悩みに立ち止まってばかりいるりほに対し、「もうひとりのわたし」であるリホは、会社の同僚から勧められるままマッチングアプリで相手を探し浮気に走る。躊躇するりほと、行動しちゃうリホ。ふたりの世界線はどんどんズレていき、どうやって収拾つけるんだろうと心配になったあたりで、りほは(リホも)妊娠する。
 白りほは、不妊治療用に取ってあった夫の精子を使っての妊娠。不妊治療が実を結んだ結果だ。が皮肉なことに、同時に夫の女装癖がわかり、それがバレた芳久はゲイであることを隠して生きるのはやめる、と家を出ていってしまう。
 黒リホは、妊娠を機に、夫と離婚して浮気相手とやり直そうと思ったのだけれど、浮気相手もまた妻子持ちの浮気だったことがわかり、万事休す。
 
 いよいよどう決着つけるんだろうと思った時に起きる大団円が、なんか凄くて。
 いろんな場面で白りほにも黒リホにも相手になってあげていた謎の男スケールが、実はりほの息子であり、これまで描かれた全てが施設に入っている認知症のりほの、妄想込みの昔語りであり、スケールはその話し相手だった、というのだ。スケールの父親が誰なのかは謎のままだ。そして、スケールを真ん中に白りほと黒リホはラップをガンガン歌い上げて幕、となる。
 
 面白かった。
 あっけに取られつつ、ラストの多幸感が凄くて、わー、楽しかったーと帰った。のだが、後になって振り返ると、ちょっと首を傾げるところがなくもない。ラストのオチが認知症の妄想語りだというのは、ありがちなオチなんだけれど、そこまでの持っていき方と、スケール(を演じた横田栄司)のスケールの大きさが全部を攫って行った感じだ。長年(と言っていいよね?)彼の演技を見てきたマダムだけど、なんかこれまで見たことのない空間支配力を見た。この芝居の見事な着地は、ほぼ彼のおかげな気がする。
 テーマに関して言えば、どの話題も掘り方が浅め。例えば、女装癖=ゲイ、ではないはずだし、40歳の選択が子供を産む産まないに特化してしまうこともわかるのだが、モヤモヤする。
 しかし『リセット』に続き、文学座は攻め続けている。攻めないと、新劇は終わっちゃうからね。これからも攻めてほしい。

義庵『リチャード三世』の試み

 ここのところ月1本はシェイクスピアを観てる。いいペースだ。6月17日(火)マチネ、新宿シアタートップス。

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 義庵 5th ACT 『リチャード三世』
 作/ウィリアム・シェイクスピア
 翻訳/小田島創志
 演出/小笠原響
 出演 加藤義宗 ・・・リチャード三世(グロスター)
    今拓哉  ・・・ヘースティングズ卿 その他 
    土屋良太 ・・・エドワード四世、ドーセット侯、他
    津村知与支・・・バッキンガム公
    渡邊りょう・・・皇太子エドワード、リッチモンド

    細貝光司 ・・・スタンリー卿、他
    伊藤白馬 ・・・ケーツビー、他
    日下由美 ・・・王妃エリザベス 
    のぐち和美・・・マーガレット
    山﨑薫  ・・・アン、暗殺者、ヨーク公リチャード、他

    伊沢磨紀 ・・・クラレンス公ジョージ、ヨーク公爵婦人、他
 

 『リチャード三世』は人気のある演目だ。
 観客にだけじゃなく、役者にも人気のある演目みたい。『リチャード三世』のリチャードは、相当やってみたい役らしい。悪い奴の魅力。色悪ってやつね。
 リチャードは生まれながらの不具で、ひがみと妬みのエネルギーが尋常じゃない。そこに悪賢さと口のうまさが加わって、誰も予想してなかった王の地位に上り詰める。が、上り詰めた時には周りにほとんど人がいなくなってしまってて、あっという間に転落する。その道筋の面白さが、この芝居の魅力だ。

 でも今回の加藤義宗のリチャードは、あんまり悪っぽくなかった。わざとそういう造形にしたのだとは思うのだけど…。曲がった背中を、ふわりと背負った毛皮のマフラーで表現していて、スマートな見かけのリチャードだ。それは別にいいの。不具を表す表現がソフトになっても構わないんだけど、不具から来る負のエネルギーまでソフトになってしまったから、リチャードの魅力は半減してしまった。
 リチャードの魅力は、最初に登場して「平和じゃつまらん。俺のような醜い人間に平和な世など居場所がない。だから悪党になって平和を叩き壊してやる!見てろよ」というような台詞をぶちかまし、観客をワクワクさせるところに凝縮してる。なので、ここで客の心を掴めないと、芝居は転がっていかないのよ。
 過去の芝居を振り返ってみても、AUNの吉田鋼太郎リチャードも、新国立の岡本健一リチャードも、天保の高橋一生&浦井健治三世次も、最初の登場でこちらの気持ちを攫っていったよ。
 
 ということで、マダムは今回の上演にはすっかりノリ遅れてしまったんだけど、部分的には色々、見どころがあった。
 セットがちょっと面白いセットで。舞台の真ん中に、王の玉座が載ってる丸い台があって、この台が左右にスライドする。スライドして空いた場所にはぽっかり穴があいていて、それは墓穴。墓穴の真上に玉座があるセットだ。リチャードに殺された人たちは次々にこの穴に降りていく。降り方にバリエーションがあるともっと面白く使えたんだけど。
 役者さんたちは、手練れの集まり。
 津村知与支はモダンスイマーズの人で、ダメ男をやらせたら右に出る者がいない役者(大好きだ)。シェイクスピアに出演するのは初めてだと思うが、彼のバッキンガム公、最高に良かった。日和見主義でゴマスリ上手で、逃げ足の速いバッキンガム公。面目躍如だ。
 面目躍如といえばマーガレットののぐち和美もそうで、恨みつらみがつのった挙句に異形の人になっちゃったマーガレットそのもの。そうそう、こういうエネルギーがないと、シェイクスピアはやれないんだよー、と頷く。
 だからそのマーガレットと、ヨーク公爵夫人(伊沢磨紀)とエリザベス(日下由美)の3人が互いの嘆きを吐露しあう場面は、それぞれの熱が静かにぶつかり合って見応えがあった。しかし、伊沢磨紀はいくつもの役を掛け持ちしていたのだけど、どの役も彼女には役不足で、とても勿体ないと思った。本来、彼女は主役のリチャードをやったっていいくらいの人だから。
 他には、伊藤白馬のケーツビーが、立ってるだけで不気味な冷酷さが漂ってて、よかった。
 
 シェイクスピアの中でも歴史劇は特に登場人物が多いので、小さめの座組であれば、ほぼ全員が役を掛け持ちする。それは、これまでもいろんな上演で観てきた光景だ。
 だけど、今回はそれがどうもキッチリ決まってこなかった。衣装をちょっとずつ変えたりしながら出てくるんだけど、次々違う役で出てこられると、話がわからなくなる。役ごとに変化しきれていない感じだ。役者さんたちは経験者揃いなので、これは演出家の責任が大きいよ。整理して観客に手渡していくセンスのようなものが足りてない気がする。
 複数の役をやるための早替えがやりやすいことを優先したためか、衣装が役を的確に表してないようにも思えた。クラレンス公ジョージのソフト帽(王の弟という身分が感じられない)とか、アンの喪服がミニスカートだったこととか、市長も他の貴族と区別がつかないこととか、衣装に対する考え方が雑に思えた。演出家は、俳優座劇場の閉場の時の『テンペスト』と同じ演出家で、あの時も衣装が雑だった(衣装担当はそれぞれ別の方)。現代風にすることと雑になることは全然違うはず。芝居において衣装が果たす役割はめちゃくちゃ大きいので、豪華でなくても、役柄と美しさをちゃんと考えてほしい。

 翻訳は、『テンペスト』時と同じく小田島創志の新訳。三代目の新訳の言葉はやはり耳で聴いてわかりやすかった。新訳のせいであっさりしたスマートなリチャードになったのだろうか、と一瞬思ったのだけど、バッキンガムやマーガレットやエリザベスは別にあっさりしてなかったので、やはりリチャードの造形は役者と演出家の意志によるものなのだろう。

ロイヤル・バレエ in シネマ『ロミオとジュリエット』を観る

 バレエは門外漢だけど、たまにどうしても観たいものがある。6月9日(月)18:20、TOHOシネマズ日本橋。
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 英国ロイヤル・バレエ in シネマ

 『ロミオとジュリエット』(2025年3月20日収録)
 音楽/セルゲイ・プロコフィエフ 指揮/クン・ケッセルズ
 振付/ケネス・マクミラン
 出演 ジュリエット: 金子扶生
    ロミオ:    ワディム・ムンタギロフ
    ティボルト:  平野亮一
    マキューシオ: フランシスコ・セラーノ
    ベンヴォーリオ:ジャコモ・ロヴェロ
    パリス:    ルーカス・B・ブレンツロド
     ほか
 

 素晴らしかった〜。これまでロミジュリ関連は相当数観てきたけれど、ラストがこんなに悲しかったことはない。泣きそうだった。いや、ほぼほぼ泣いてた。
 以前、ロイヤル・バレエの『冬物語』の映像を観たことがあって、その時も素晴らしかったし、台詞がないのにこれほど伝わってくるシェイクスピアって、どう考えたらいいのかしらと立ち尽くしたのだった(その時のレビューは→こちら )。その『冬物語』の主演だった平野亮一が今回はティボルトだというので、これはもう、観ないわけにはいかないじゃないの。

 
 よく、ロミジュリについて語られることに「これは5日間で大人になるジュリエットの物語だ」と言うのがあるんだけど、それがよくわかる振付(演出)だった。金子扶生(ふみ)のジュリエットは、はじめはお人形を大事にしてる幼くて引っ込み思案な少女なのに、舞踏会で偶然ロミオに出会った最初のときめきから、バルコニーでふたりだけで会って恋が成就するまで、凄いスピードで変化していく。恋の喜びが身体から溢れ出すの。そしてロミオがティボルトを殺してしまって追放される前夜、ベッドを共にした後にはもうしっかりと意志を持った大人の女になっている。パリスとの結婚を無理強いさせられそうになって、涙を流しながら屈しないと決断するところは圧巻。
 もちろんバレエだから、基本は全てダンスで表現される。引っ込み思案な少女のダンス、ロミオに出会ってときめくダンス、恋の成就に天にも昇る気持ちのダンス、ロミオとの別れを惜しむダンス、パリスを拒否するダンス…全部違う。バレエは門外漢なので、どこがどう違うか説明できないのがもどかしいけど、金子扶生の表現力にマダムはただただ感嘆して、画面を見つめてた。
 最後に凄い演出がある。薬を飲んで仮死状態になり霊廟に横たわるジュリエットのところに、ロミオがやってきて彼女の遺体(ホントは死んでない)を抱き上げて踊るのだ。それは恋が成就した時のダンスと同じ振付なのに、ジュリエットは死んでいるので抱き上げても倒れてしまうし、ロミオのダンスに応じはしない。何度もリフトしてなんの反応も返ってこないことに絶望してロミオは毒を飲む。この、遺体と踊る振付が壮絶なの。あまりの悲しさに気が狂いそう。なんてこと思いつくんだ、振付のマクミラン(60年前の振付なのだそうだ。凄い…)。金子扶生ジュリエットの遺体の力の抜け具合がまた凄まじい表現力だ。
 ラストはロミオの後を追ってジュリエットが死んで、おしまい。戯曲にある、神父の告白とか両家の和解とかは、全部割愛。それでいい。このバレエを観ちゃうと、芝居がまどろっこしく感じるかも。
 
 ワディム・ムンタギロフのロミオは長身で手足の動きが美しい、優男のロミオ。金子扶生と息が合っていて、バルコニーのパ・ド・ドゥ が素晴らしいの。もうね、ダンスが恋の喜びでキャッキャしてる。最後に長〜い見つめ合いがあって、お互いに「好きだよね⁈」のアイコンタクトの後キスをする。
 平野亮一のティボルトも期待どおり。高慢不遜さが匂い立つようなティボルトで、すごく男っぽい。Dance of the Knights (このバレエでいちばん有名な曲が流れて、キャピュレット家の男たちが踊る)のシーンでのティボルトのかっこよさと言ったら! 殺陣も、自信過剰なのがありありとわかり、男っぽさの裏側の若さが匂う。

 全てのダンサーが一流の人たちなので、どの場面も観ていて飽きないのだけれど、マクミランの振付が隅々まで行き渡っているからこそだ。最初の両家のいざこざの時、すでに死人が何人も出て、倒れた人たちの死体が山積みされていく演出には、度肝を抜かれた。マキューシオのからかいがティボルトの神経を逆撫でして、カッとなったティボルトに刺されるところなど、ほぼ演劇と言っていい演出だし、ティボルトの遺体に取りすがって泣くキャピュレット夫人の姿は、どう見ても叔母と甥ではなく、男女の関係をしっかり匂わせる。そのキャピュレット夫人のドレスの裾にすがって謝るロミオの演出も、ロミオの若さと素直さをよく表している。もう、隙がないのよ。
 つまりバレエと演劇というジャンルの違いはあれど、シェイクスピア作品への理解と分析は同じようになされていて、全ての振付が物語を語るために付けられている。その解釈は、60年経っても、全く古びていない。凄いことだね。60年前、どれほど革新的だったんだろう。

 あとはね、音楽が素晴らしい。今更マダムがプロコフィエフを褒めたって、ちゃんちゃらおかしいけど、言わせてね。プロコフィエフのロミジュリは最高。だってシェイクスピアの書いた台詞の代わりをしてるんだもの。甘い調べも不穏な旋律も、振付がピタリと決まれば、音楽が台詞の代わりに物語る。なんか色々、納得したわ。
 
 公開は12日までだって。みじかっ!(と思ったら19日まで延びたみたい。)

しばしお別れ イキウメ『ずれる』を観る

 この日が来てしまったわ。6月1日(日)マチネ、シアタートラム。
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 劇団イキウメ公演

 『ずれる』
 作・演出/前川知大
 出演 浜田信也 安井順平 盛隆二 森下創 大窪人衞
 

 これまでで最も写真写りの悪いチラシ。何も見えない。




 マダムとイキウメの出会いは2014年のことで、ブログをきっかけに仲良くなったシアターゴーアー仲間から、強く強くお勧めされたからだった。始めは劇団の名前「イキウメ」にギョッとして口にするのも憚られたのに、すぐに慣れて大声で「イキウメに行かなきゃ」とか言うようになってしまった。その時から毎年(コロナ禍の2020年を除いて)必ず観てきて10年以上が経った。もはやマダムの観劇人生になくてはならない劇団となっていたの。
 だから「今公演のあとは、しばらく劇団の本公演をお休みします」というお知らせは、衝撃だった。公演はいつかやるけど、不定期になるよ、と。
 ・・・でも、解散じゃないんだから。
 マダムは待つよ。だって、唯一無二の劇団じゃん、イキウメは。
 
 
 いつも劇団先行で真っ先にチケットを買うと、少し端の席だったりするのに、今回は3列目のど真ん中だった。演劇の神様の配慮、あったのかな。
 少し早めに席に着くと、宇宙からの交信音みたいな音楽が薄〜く流れている。リラックス効果のある音楽だ。開演が近づくと音量がちょっとずつ上がっていって、自然に芝居の世界に誘われる仕組み。前川演出はいつも、開演前から始まっている。
 セットは一軒家なのかマンションなのかわからないけど、無機質なグレーで統一された広いリビングルーム。奥に向かって菱形に配置されている。天井に四角い枠があり、時折ここに水紋が映る。部屋の真ん中にグレーのソファセットが置かれ、ソファテーブルに妙な形の電話がある。奥と下手に別室へのドア。上手に小さなキャビネットがあり、高級ウィスキーの瓶何本かとグラスが置かれている。
 音楽も美術も照明も、緻密な演出の計算によって組み立てられていて、余分なもの、演出上邪魔になる要素を丁寧に排除してある。この徹底さが前川演出。
 お話は。
 父親から継いだ会社の経営者である輝(安井順平)の暮らす家に、精神科療養施設にいた弟の春(大窪人衞)が帰ってくる。両親はリタイアして海外移住していて、春の面倒は輝がみるように言い渡されているのだ。輝は新しく、有能な秘書兼家政夫の山鳥(浜田信也)を雇い、春を見守ろうとする。
 近年、近くの山間の金輪町で豪雨のため山崩れが起きたせいで、輝の家周辺では野生動物が入り込んでいる。しょっちゅう猪の出没があったり、動物の鳴き声が聞こえてきて、街の人の生活を脅かしているのだが、春はその状況が楽しくて、外出しては近くの家のペットを逃したりする。春には、どうも幽体離脱の能力があるらしく、その能力を確かめにきたという怪しげな男、佐久間(盛隆二)を家に連れ込み、ふたりで何かを計画しているようだ。
 輝は不安に駆られ、だんだん追い詰められていく。山鳥の紹介でやってきた整体師(森下創)もまた、輝の体のコリを治しはしても、不安を取り除くことはできない。秘書の山鳥も、父親の自殺が輝の会社と関係があり、復讐を匂わす。輝はますます追い詰められ、とうとう春が姿を消してしまう…。
 
 これまでのイキウメの傑作(例えば「太陽」とか「散歩する侵略者」とか)に比べたら、インパクトは小さかった。これまでの作品が問うてきた「人間とはなにか」といった強いメッセージもない。強いて言えば「人間なんて、地球の自然界のほんの一部分に過ぎないんだよ」みたいなことかな。
 それよりも劇団活動の中断前の公演として、劇団員5人の出番に配慮して、全員を見せるために作られたという感じ。当て書きに愛があるの。
 難問に苦しめられ、おでこに八の字の皺を寄せて悩む安井順平。
 甲高い声とイッちゃってる目つきで無理難題を押し通す大窪人衞。
 特殊能力満載な空気漂わせながら姿勢良く立っている浜田信也。
 傍若無人に攻めてくるのにどこか他人事の盛隆二。
 そして仙人としか思えない森下創。

 これはずっと劇団を観てきた観客がよく知っているイキウメンだ。それを裏切らない当て書き。話のスジとは別に、この人たちにしかできない間の詰め方とか空気の醸し出し方があって、それを堪能した。
 そして彼らの、場面転換の時の無駄のない動き。次の場面では必要のない小道具を誰かが片付けながら捌ける時の、あまりにも機能的な動き。それもまた芝居の一部だ。イキウメは、観客が劇場に入ってきて、席につき、芝居が終わってカーテンコールが終了するまで、全部が意図された芝居なのよね。
 
 とにかく少し休んで、しばらくそれぞれのしたい仕事をして、期が熟したら公演を打ってくださいな。マダムは生きてる限り待ってるんで。

古典を今に甦らせる チェコ国立劇場の『母』

 5月の怒涛スケジュールから少し間があいて、精神がフラットになっててよかった。5月29日(木)マチネ、新国立劇場小劇場。

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 新国立劇場 海外招聘公演

 チェコ ブルノ国立劇場ドラマ・カンパニー
 『母』
 <チェコ語上演/日本語&英語字幕付>
 作/カレル・チャペック
 日本語字幕翻訳/広田敦郎
 演出/シュチェパーン・パーツル
 出演 テレザ・グロスマノヴァー トマーシュ・シュライ ロマン・ブルマイエル
    マルチン・ヴェセリー ヴォイチェフ・ブラフタ ヴィクトル・クズニーク
    パヴェル・チェニェク・ヴァツリーク
 


 古典を甦らせるって、こういうことだ。
 チェコの国立劇場によるチャペックの芝居が来る、と聞いて、早いうちから観ると決めていた。字幕を読みながらの観劇は、どうしても色々見逃してしまう箇所が出るのだけれど、それでもチャペックが戯曲にこめただろう思いはしっかり伝わってきて、ラストは涙込み上げた。
 
 母ドロレス(テレザ・グロスマノヴァー)には5人の息子がいる。
 17年前、子どもたちの父(トマーシュ・シュライ)はアフリカで戦死していて、ドロレスはひとりで息子たちを育ててきた。狩猟好きだった父の部屋には、獲物の首の剥製や猟銃やアフリカの地図が飾られたまま残されている。今、医者だった長男は海外でマラリアの研究中にマラリアで死に、父と長男の亡霊はこの部屋に現れてはドロレスに話しかける。
 やがて、パイロットだった次男は飛行機事故で死に、次男が亡霊側に加わる。戦火が激しくなり、政局は不穏になり、テレビのニュースでは国のために従軍せよ、としきりに呼びかける。ドロレスはテレビの電源を切り、残る息子たちが戦争に巻き込まれないように必死に説得しようとするが、血気盛んな三男と四男は暴動に参加したかどで殺されてしまう。
 ドロレスのもとにはもう五男のトニ(パヴェル・チェニェク・ヴァツリーク)しか残っていない。気の優しいトニも、学校の友達に同調して従軍しようとするが、ドロレスは絶対に許さない。人数の多くなった亡霊側は、自分たちの死が実は決して名誉なものではなく、軍に見捨てられたり、自分でマラリアの人体実験をした挙句だったり、飛行機の整備が不良だったりしたせいだと明かしあうのだけれど、いざ戦争ということになると、ドロレスを説得してトニを従軍させようとする。それが男の名誉だとか国のためだとか言って。
 ドロレスは亡霊たちをシャットダウンすべく、トニと一緒に地下室に閉じ籠る。が、テレビのニュースが、学校が爆撃されて小さな子どもたちが死んだことを伝えると、ドロレスの気持ちは大きく揺らぎ、トニが銃を持って出ていくのを許してしまうのだった。
 
 という物語。1938年に書かれた戯曲とは思えない、生々しく今の話だった。それはひとえに演出の力が大きい。

 戦前の芝居だから、当時はきっとリアルに父の書斎のセットだったと思う。それを今回、全く現代風にして、衣装も今のものだし、ラジオの設定(たぶん)をテレビにし、大きな受像機だけじゃなく、ホリゾントにも同じ映像が映る仕掛けになっている。ニュース映像のテロップがちゃんと日本語に変えられていたので、役者の演技と一緒の画角で見ることができた。セットも、映像の使い方も、完全に現代的で、古めかしさはない。それがとても良いの。
 上の写真は、速報のチラシ。舞台セットの写真が使われていて、素敵だ。が写真を拡大してよく見てみて。棚には今や絶滅危惧種のトムソンガゼルやバイソンの剥製とか巨大な象牙などが、銃やナイフと一緒に飾られていて、アフリカで戦死したという父の凶暴性が象徴的に表現されている。この部屋で大人の男に育った子どもたちは、「力を示して戦うのが男」という概念に囚われていく。
 ドロレスも、いわゆる「故郷の母」的なイメージではなく、まだ若い50代くらいの設定で、パワフル。力強く、子どもたちを守ろうとするし、だからこそ、ラストがあまりにも悲しい。国のためとか、名誉のためとかいう、どんな理屈にも屈しなかった母なのに、「たくさんの子どもたちが爆撃された」という事実の前に屈してしまうのが、なんとも辛い。しかも世の子どもたちのことを思った結果、自分は全ての子どもを失う(たぶん)運命が見えている…。
 
 死んだ男たちが全員幽霊になってドロレスの前に現れ、結局ドロレスから息子を奪っていくという設定を書いたチャペック、全然古くなってなかった。古典を今に蘇らせる演出も、素晴らしかったのだけれども。

 
 
 マダムにとってカレル・チャペックは、小学校低学年くらいの時に出会った作家だ。彼の書いた童話『長い長い郵便屋さんの話』が大好きだった。カレルのお兄さんのヨセフ・チャペックが挿絵を描いていて、それがまた楽しくて洒落ていて大好きだった。その話が載ってる短編集『長い長いお医者さんの話』(岩波書店)は、半世紀以上の時を越えて、今もマダムの本棚にあるの。
 大人になってから、カレル・チャペックがチェコの大作家であることを知り、ヨセフ・チャペックがナチスに捕えられて収容所で死んだことも知った。
 小さい時にあんなに楽しい物語を与えてくれた作家が、実は困難な時代を生き、死んでいったことを、芝居を観て改めて思いだした。ラストで涙が込み上げたのは、それと無関係ではないよね。

松下優也のローラ爆誕 『キンキーブーツ』

 なんでマダムの好きな人たちは同じ時期に公演をするのか。5月15日(木)ソワレ、東急シアターオーブ。

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 『キンキーブーツ』
 脚本/ハーヴェイ・ファイアスタイン 音楽・作詞/シンディ・ローパー
 演出・振付/ジェリー・ミッチェル
 日本版演出協力・上演台本/岸谷五朗 訳詞/森雪之丞
 出演 有澤樟太郎(東啓介) 松下優也(甲斐翔真) 田村芽実(清水くるみ)
    熊谷彩春 大山真志 ひのあらた

    飯野めぐみ 多岐川装子 中谷優心 ほか
   エンジェルス
    穴沢裕介 佐久間雄生 シュート・チェン 大音智海 轟晃遙 本田大河
   子役 村山菫絃 髙橋維束
 
  ( )内は別日のWキャスト


 色々と都合があって、1週間で『マクベス』と『二都物語』と『キンキーブーツ』を観るという、とんでもないスケジュールになってしまった。もうヘトヘトだ。
 でも、ヘトヘトでもいいの。
 松下優也のローラ、素晴らしすぎた〜。爆誕だ。
 『キンキーブーツ』観劇は2度目。初回は2019年の三浦春馬&小池徹平版の再演の時だ。その時の公演も素晴らしくって、褒めまくる以外言葉がなかったんだけど、今回もまた、言葉がないよ。言葉があるとすれば「松下優也、ヤバい」
 
 ここまで有名なミュージカルなので、あらすじとかはいらないよね。
 大元の演出と振付をほぼそのまま踏襲することが義務付けられてるので、衣装もセットも台本も初演と基本同じ。なんだけど、多くの観客の支持があることが当然となった今、役者さんたちはみんな自信に満ち満ちていて、それがまたこのミュージカルにふさわしいの。
 その中でも松下優也のローラは、個人的に、金字塔だ、って感じた。ローラをやるって聞いた時から期待値、爆上がりだったけど、その期待値を軽々超えてきたもの。今年、彼、『ケインとアベル』の演技がとてもよくて、さらにこのローラでしょ。演劇賞ものだよ。
 ゲネプロの取材の時とかも「松下優也役のローラです」って自己紹介してるみたいだけど、本当に本人とローラとが渾然一体になってて、「クィア風の演技」っぽいところがまるで無くて、最初から最後までローラがそこにいるとしか思えなくて、凄かった。役の理解度と体現力、高すぎ。才能と実力のある人が、ぴったりの役を得て、凄い作品が爆誕した。日本のミュージカル史の新しいページがめくられた、って感じ。
 松下優也、もともと歌手としてファンキーな歌い方が持ち味なのを演技の中に落とし込むことができるの、凄い才能だし、こんな当たり役に巡り合うなんて、奇跡的。滅多に無いことだ。
 と言いつつ、この、今、演技力とパワーが爆誕してる人にやってもらいたい役が他にも色々、頭に浮かんじゃう。やってほしい、けど、やられたら困る。だって、マダムはこれから観劇本数を減らさなきゃいけないと思ってるのに。頭抱える。
 少しずつ身を引いていこうとしてるマダムの袖を掴んで放さない役者がまたひとり、現れた。
 
 こんなに褒めまくってももう東京公演は終わってしまってる。行ける方は大阪公演でどうぞ、松下ローラを観てみてね。自分を受け入れてもらえなかった父に対する歌「Not My Father’s Son」の切なさと、老人ホームへ慰問に行くシーンの、今は亡き父に捧げる歌「Hold Me in Your Heart 」の堂々たる歌い上げが、金字塔です。ホントにヤバい。

12年ぶりの『二都物語』 その2

 レビューといっても、今回はあらすじとかは書かないので、あしからずね。あと、今更だけど、とっても大事なところをネタバレするんで、これから観る人は、ここで引き返してくださいね。
 
 いいかな?


 井上芳雄の、飲んだくれでやさぐれてる弁護士カートンは、12年前に比べて遥かにやさぐれ度にリアリティが増して、ずっと似合っていた。歌の上手さは初演と変わらないんだけど、でも以前よりもっと、カートンの心のありようが細かく伝わってきた。特に、ダーニー(浦井健治)が投獄された後、ルーシー(潤花)の嘆きに心を傷めながらも、自分が今度はルーシーのそばにいられるかも、と一瞬望みを抱き、いや、自分じゃないんだ…と思い直していくところの表現が凄く良くて、マダムの周りの観客はすでに泣いてる人多数。
 マダムは鉄の涙腺なので、そこは我慢できたんだけど、牢獄でダーニーと入れ替わるところの演出が…12年前と違っていて、グッときてしまった。カートンはルーシーからもらった青いマフラーを、もらった時からずっと肌身離さず巻いているのだけど、初演の時はそれを外し、気絶しているダーニーに巻いてやり、自分に似るようにして脱出させていた。ところが、今回、井上カートンは巻いてやろうといったん外したマフラーをじっと見つめ、思い直して自分の首に戻すのだ。ルーシーからもらった大切なものは最後まで持っていようということね…と思ったら、もうちょっと、我慢できなかった。鵜山演出、そこを変えてくるなんて。

 12年も経っての再演にもかかわらず、主要なキャストがほとんど変わらずそのままなのも、驚きだった。ルーシーがすみれ→潤花、マダム・ドファルジュが濱田めぐみ→未来優希、ドクター・マネットが今井清隆→福井晶一になっただけ。岡幸二郎も橋本さとしも福井貴一も宮川浩も原慎一郎も、文学座の原康義や塩田朋子まで・・・みんなみんなそのままなの。12年経って、みんな大物になってて、このままレミゼができそうなメンバーだ。だからもう、歌も芝居も、とんでもないクオリティの高さで、密度が濃い、濃い。
 だからなのか、初演の時よりずっと、カートンの恋物語の背景にある政治状況がちゃんと受け取れた。フランス革命前、どれほど貴族が庶民に対し酷いことをしてきたか。どれほど恨まれていたか。庶民の恨みはとどまる事を知らず、革命後の復讐が、周辺の無実の人をも巻き込んでしまったことも。復讐の連鎖をどこで止められるのか、という悲痛な問いが、芝居の背景にしっかりあるの。

 衣装は初演の時と同じ(で素敵)だったけど、セットは変更になっていた。初演の時の美術の島次郎が亡くなっていて、松井るみにバトンタッチしている。劇場も帝劇から明治座に変わったわけだしね。鵜山演出で必ず出てくる大きな布を使った場面などは取り入れつつ、くっきりしたわかりやすい派手目のセットになった。ただロンドンとパリ(郊外)とを赤と青で色分けして示すのって、観客が瞬時に受け止めるのは難しい。いっそのこと、字幕で「ロンドン」「パリ」と出してほしいくらいだった。そういうチャチなことはしたくないのかもしれないけど、たいていの観客は夢中になると役者にばかり目が向いてるものなので、控えめなサインは見落としがちなのよね。
 
 とても楽しんだし、満足だったんだけど、自己犠牲が前面に出る結末はやっぱり好きにはなれない。ディケンズの奴め・・・と思った。
 
 
   *  *  *  *  *
 
 ここからは全く個人的な解釈なのだけど。
 原作を学生時代に読んだっきりなので、ほぼ忘れているみたいなもんなのだけど。初演の時は「原作のカートンのイメージって、もっとコワモテの、くたびれた、さえない感じがやれる役者じゃないといけないんじゃないの?」ということで、いろんな意味で井上カートンはちょっとイケメンでスマート過ぎだと感じていたの。
 だけど、今回観て、この井上カートンは当たり役だな、と納得した。
 そもそもあの自己犠牲のラストは、ディケンズがディケンズの時代に信じていた「理想の男のかっこよさ」であって、今から見た時にはかなり時代錯誤なことだ。リアリズムだけでやると、悲惨な気持ちだけが残りそう。だから芝居として楽しむものにするには「おとぎ話」に仕立てないと成立しないし、そのために井上カートンが正解だったんだよ。ラストは辛いんだけど、なんだか爽やかな気持ちで劇場を後にすることができるんだもの。ギリギリのバランスで成立してる。

 インタビューで井上くんが「鵜山さんが演劇的な演出をしてくれた」というようなことを言ってるのをどこかで読んだのだけど、「演劇的な演出」と「ミュージカル的な演出」ってものがあるの? それはどういう違いがあるものなの? ミュージカルをそんなにたくさん観てないので、わからないんだけど、知りたいな。

 おまけ。
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 12年前の速報のチラシです。
 これ見たら、ふたり主役だと思うでしょ?
 観終わって、裏切られたと思ったけど、それも今ではいい思い出。
 
 

12年ぶりの『二都物語』 その1

 藤原マクベスの興奮冷めやらぬまま、次の芝居へ。5月14日(水)マチネ、明治座。

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 ミュージカル『二都物語』

 原作/チャールズ・ディケンズ
 脚本・作詞・作曲/ジル・サントリエロ
 追加音楽/フランク・ワイルドホーン
 翻訳・演出/鵜山仁
 出演 井上芳雄 浦井健治 潤花 未来優希 岡幸二郎
    福井貴一 宮川浩 橋本さとし 福井晶一 
    原康義 塩田朋子 原慎一郎 ほか

 



 12年ぶりの再演だ。
 2013年の帝劇の初演時は、評価の割にさほど人気が出ず、空席も結構あったように記憶してる。作品としてちょっと地味めだったし、井上芳雄は既にスターだったけれども、浦井健治は人気も実力もまだ若手の中で5番手くらいな感じだったのでね。ちなみに浦井健治のブレイクは2014年(マダム断定)なので、まだこれから、だったの。
 この再演の話が出た時いちばんに思ったのは「え。浦井くん、主役じゃないの?」ということ。というのも、初演はとにかく「井上芳雄オンステージ」であり、浦井健治の役はソロ曲が無くてドラマが無く、後半ほとんど見せ場なく終わった覚えがあるので、そんな脇役でまた出るの?とちょっと不満だったの。マダムはとにかく生粋の浦井ファンであるからね。
 でも、観ないわけにはいかないので、とにかく明治座へ出かけて行ったよ。
 
 そしたら、びっくりだったのは・・・チャールズ・ダーニー(浦井健治)が出てきたら、完璧に12年前と同じビジュアルだったから、ひっくり返りそうになった。衣装が同じなのは当たり前だけど、体型が同じなの。スラリとした長身を洒落た衣装で包み、長い髪を後ろで束ねて青いリボンなんか結んでる貴族の若者。佇まいも初々しい。時空超えて蘇ってきてた。貴公子タイムスリッパーじゃん。
 ビジュアルは12年前と変わらないのに、表現力は爆上がりしているので、初演時に聴いたはずのデュエット曲の全てがバージョンアップしていた。初演の時はきっと、相手が岡幸二郎だったり井上芳雄だったりすると、パワーで負けちゃうところがあったのね。ルーシー役の人の表現力を補ってあげることもまだ難しかったのだろうし。どこか遠慮みたいなものもあったのかも。今となっては誰にも負けない個性豊かな表現力があるので、堂々たるデュエットだし、ダーニーの気持ちがひしひしと伝わってくる。まあ、あんまり葛藤のある役ではないのだけど、ここのところ聴けてなかった甘い声色の恋の歌など聴けて、うっとり。
 今回はソロ曲が書き加えられていたし、後半の監獄に入れられてるはずの時間も、ちょいちょい幻の姿で舞台上にいたので、当初のマダムの不満はかなり解消されたのだった。12年前に1度観たきりの舞台の詳細は、なかなか思い出せないんだけれど、浦井ダーニーの出番は増やされていたと思うし、なにより芝居の中での立ち位置が初演とははっきり違った。演出も、本人の表現力も、スター性も、観客の側の視線も、全てがすっかり変わっていたね。
 コンサートで時々歌ってくれていた「いまは子どものままで」、芝居のクライマックスで芝居の一場面として、井上カートンとデュエットしたのがもう圧巻で。ふたりのがっぷりよつな芝居をとうとう観ることができた気がする。
 
 さてここまで書いてきて浦井健治のことしか話してないね(笑)。
 その2で、舞台全体の話、それから井上カートンの話をすることにしましょう。

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