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楽しさと物足りなさと『ブロードウェイと銃弾』

 日比谷はなんだか綺麗になりつつある。2月17日(土)マチネ、日生劇場。

『ブロードウェイと銃弾』
脚本/ウディ・アレン オリジナル振付/スーザン・ストローマン
演出/福田雄一
出演 浦井健治 城田優 平野綾 保坂知寿 愛加あゆ
   ブラザートム 鈴木壮麻 前田美波里 ほか


 浦井健治と城田優が二人主役の、華やかなミュージカル。
 浦井健治演じるデビッドは翻弄される新米脚本家で、オロオロしまくりのところがなんだか本人を感じさせて可愛かったし、歌声は甘くて伸びやかだったし、城田優演じるチーチはマフィアの子分なんだけどダンディで、ダンスシーン(タップが素敵)もカッコいいし、楽しいミュージカルだった。アンサンブルもレベルが高かったし。とりあえず、なあんにも考えず、二人のイケメンをたっぷり堪能。
 
 で、見終わった後は、何にも残らなかった!
 楽しかったんだからそれでいい、とも言える、のかもしれないけど。
 でもよく考えると、いろいろわかんない。デビッドが作ろうとしてた芝居がどんな芝居なのか全然わからなかったので、チーチが思いついたアイデアがどれほど良いものなのか、ピンとこない。そこがわかんないと、二人の関係性もちゃんと伝わってこないし。マフィアのボスも、どこかゾッとする怖さが欲しかったし、チーチがオリーブを殺しちゃうのも、殺しは殺しなので、チーチの冷酷さがちゃんとあったほうがいいしね。
 デビッドが、エレンとヘレンを行ったり来たりするところも、男の情けなさを存分に描いて欲しかったな〜。主役だからって、抑えめにしてるのかしら?
 デビッドは、いったいどんな男だったんだろ?
  
 で、ここからは作品からちょっと離れてしまうかもしれないんだけれどさ。
 
 昨年末の総括の記事を書いた後むむむと思ったのは、ここのところ何年にも渡ってマダムが肩入れしてきた浦井健治の名前が、記事の中に一度も出てこなかったことでね。
 もちろん彼が出演している作品は全部観ているし、毎回感じるところ、楽しいところはあるんだけれども、マダムが期待する(というより期待とか想像とかをはるかに上回ってびっくりする)演技はしばらく観られていないの。今回の『ブロードウェイと銃弾』もしかり。コメディだから、っていう単純な話じゃない。
 『ブロードウェイと銃弾』に関して言えば、彼だけの問題じゃなくて、1本の芝居として深みがないの。
 禁酒法時代のギャングの話とか、ギャングが芸能界の後ろ盾だったりする話は、たくさんあって(例えばジャージー・ボーイズにもしっかり出てくるでしょ?)、ウディ・アレンはその伝統にのっとって、その伝統を知り尽くしたうえで、パロディのようなそうじゃないようなものを作ったんだと思うのね。で、向こうではウディ・アレンだけじゃなくて、役者も観客も肌でわかるのでしょう。でも日本の若手の役者さんたちは、そういうバックボーンが無いのよ。そこを演出家が放置すると、楽しくても深みや苦味がない話が出来上がっちゃう。 
 でも演出家が放置した部分を、自分でちゃんと埋めて作り上げるのも、主役の役割とも言えるわけで。全部は埋められなくても少しは、できないとね。
 まあ、本人が読んでないのに、こんなこと書いたってしょうがないわけだけど。
 浦井く〜ん、期待してるよ〜。

『ヒッキー・ソトニデテミターノ』を観る

 今年は芸劇に通うことが多くなりそう。2月11日(日)マチネ、東京芸術劇場シアターイースト。
 
ハイバイ公演『ヒッキー・ソトニデテミターノ』
作・演出/岩井秀人
出演 岩井秀人 チャン・リーメイ 松井周(古舘寛治の代役) 田村健太郎
   能島瑞穂 平原テツ 猪俣俊明 高橋周平 藤谷理子 佐野光来(声の出演)



 ハイバイを観ることはいつも、チクチクと痛いことだ。
 「て」も「おとこたち」も「夫婦」もとんでもない名作だけれど、だからこそ観る側の心を削りかねない諸刃の刃。マダムはそこが好き。ドSなのかしら・・・?
 
 『ヒッキー・ソトニデテミターノ』。「ヒッキー・カンクーントルネード」の続編で再演だけど、マダムはシリーズとしても初めて観た。「ヒッキー」とは、ひきこもりのこと(©岩井秀人)で、文字通り、ひきこもりの人たちが外に出てみたとき起きる悲喜こもごもを、ヒリヒリしたユーモアを加えながら直視してる物語。
 ほんとにね、直視してる。辛いところ、痛いところを避けない。オブラートにくるまない。逸らさない。そして、良いとか悪いとか断定しない。こんなところまで描いたらつい、断定したくなってしまいそうなのに、断定しない岩井秀人は実はとても強い人だ。本当に強い人は強そうに見えないのね。
 
 舞台は周りを四角く渡り廊下で囲った、ごく簡単なセット。その中に木製のテーブルやベンチや椅子が適宜置かれていて、途中、役者自身でどんどんそれを組み替えながら演技していく。それだけで家、外、施設、それぞれの部屋、電車内など次々場面転換していくのは、いつものハイバイならではだけれど、役者のスイッチの切り替えが見事。演技中でない役者もはけてしまわずに舞台上にいることが多いのだけれど、気配が消えているので、今は誰の場面なのか、混乱することはない。それとも、マダムがハイバイの手法に馴染んだということかしら。
 
 太郎(田村健太郎)は13歳から10年間、家から出ていない。いつも二階の自室にこもっている。最近は父(平原テツ)にも母(能島瑞穂)にも会いたがらず凶暴になるので、太郎が食事に降りてくるときには、父母は別室に逃げている。母は進んで息子の奴隷のようになり、父はリストラに遭って息子のことを抱えきれなくなっている。そして両親は、ひきこもりの人たちが寄り集まって暮らすリハビリ(?)施設に、息子のことを相談する。施設の相談員黒木(チャン・リーメイ)と森田(岩井秀人)は、太郎を家にひとりきりにする「兵糧攻め」を画策し、やがて太郎は父母に対する恨み骨髄ながら、施設に入ることになるの。
 施設には、家を出たけれど結局施設の外へは出られないヒッキーたちがいっぱいいる。太郎が話をするようになった斉藤(松井周)は48歳で、26年間ひきこもってきたベテラン。施設の自室にこもり、想像(妄想)をたくましくして、妙なメニューのあるレストランに入ってしまったらどう注文するかとか、道を訊かれたらどこまで正確に答えればいいかとかを、練習する毎日。真面目に穏やかに微笑みながら、自分の中のメビウスの輪をぐるぐる廻っている斉藤。マダムにとっては主役、と言ってもいい役だった。演じる松井周は、体調不良の古舘寛治の代役で、なんと台本を持ったまま舞台に立ったのだけれど、それがもう、斉藤の練習ノートにしか見えず、素晴らしかった。たった二日の稽古で主役に躍り出るなんて、ちょっとした奇跡よ。立ち会えて、幸運なマダム。
 話は太郎と斉藤の行く末(それも明るくない行く末)に向かうのだけれど、ここにきっちり絡んでくるのが相談員の森田。自身もひきこもりだった森田は、同じ相談員の黒木のようには断言もできないし、強くもない。どうして家を出られたのか、家を出てよかったか。家を出て楽しいか。そもそも何のために家を出たのか。家を出なければいけないものなのか。ヒッキーたちから詰め寄られると、いちいち考え込み、言い淀む。そりゃそうよね、正直であればあるほど即答はないもの。「家を出た方が幸せになれる可能性があるなら、出た方がいい。不幸になる可能性もあるけど」という、励ましなのかさっぱりわからない言葉しか、森田の口からは出てこないの。
 ラスト、不幸な結末を受け止め、慟哭することもなく、ただ自分の内でなんとかしようとする森田を、観客が今度は受け止めなければならない。

 この森田富美男という役は岩井秀人自身がモデルで、初演の時は吹越満が演じたのだそう。吹越満だったら、もっとブラックよりのユーモアがありそう。それを今回は自分で演じることを選んだ。それはどうしても、森田という人の苦しみがやがて岩井秀人自身の苦しみに見えてくる、プラスにせよマイナスにせよ、そういう効果がある。承知の上で、あえてやってみたのね。こんな例えがいいかわからないけど、鶴が自分の羽を機に織り込んでいくのを見てしまったような気がした。
 おかげですっかり他人事では済まされなくなってしまった。ほんとに私たちと地続きにいる、と感じたの。少なくともマダムは完全に地続きだ。森田も、黒木も、斉藤も、太郎の両親も、太郎でさえも、ね。
 
 

死なないハムレット 加藤泰監督の『炎の城』

 先日BSで、ハムレットの翻案映画を見た。

『炎の城』
1960年公開作品(東映)
脚本/八住利雄 撮影/吉田貞次 音楽/伊福部昭
監督/加藤泰
出演
正人(ハムレット)=大川橋蔵  師景(クローディアス)=大河内傳次郎
時子(ガートルード)=高峰三枝子  ?(オフィーリア)=三田佳子  ほか

 シェイクスピアの翻案映画といえば黒澤明の『蜘蛛巣城』(マクベス)や『乱』(リア王)が有名で、マダムは加藤泰監督のファンであるにもかかわらず、ハムレットを翻案した『炎の城』について寡聞にして知らなかったの。

 加藤泰について、ご存じない方も多かろうと思うので、少し説明すると。
 主に1950年代から70年代前半くらいまで、東映を中心に映画を撮った名監督で、傑作をたくさん残してる。例えば、中村錦之助主演の『瞼の母』や『沓掛時次郎遊侠一匹』。藤純子主演の『緋牡丹博徒お竜参上』。鶴田浩二主演の『明治侠客伝三代目襲名』。ほかにも『骨までしゃぶる』や『男の顔は履歴書』などなど。作品の名前を口にするだけでため息が出そうなくらいの、傑作揃いよ。
 この傑作の数々、公開当時はマダムも子供だったので、もちろん知らなかった。マダムは80年代に映画祭や名画座で見たのだけれど、その時のラインナップの中に『炎の城』は見当たらなかった。ので、まさか加藤泰がハムレットの翻案映画を撮っていただなんて、思いもよらなかった。
 
 加藤泰は脚本も書く人であったので、すわ監督自身の翻案なのか?!と見ながら腰が浮きかけたけど、どうもそうではなかったようね。
 そして見てわかったけど、名画座でかかるような人気作ではなかっただろうし、映画祭でかかるような名作でもなかったのだった。傑作の数々に比べると、核心に向かって一気に収斂していく加藤泰らしさが全然ないんだもん。
 昨年、国立近代美術館フィルムセンターで行われた加藤泰生誕100年のサイトによれば、「八住脚本の結末に納得できないまま撮りあげた」作品であり、監督自身「失敗作」と言っていたのだそう。さもありなん。
 
 でもそこは、「ハムレット」だから、マダムは別の意味で面白く見た。「ハムレット」を戦国時代の日本にどう移し替え、大スター大川橋蔵主演の娯楽大作にどう作り替えるか、苦心惨憺(した挙句に失敗)のあとが見えて、面白い。
 そもそも、どうして東映が「ハムレット」を題材に映画を作ろうだなんて思ったのか。ここからはマダムの想像に過ぎないけれど、『炎の城』の製作年から容易に推測できるのは、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年東宝)の成功を見たプロデューサーが「そっちがマクベスなら、こっちはハムレットやったるでー」とかなんとか言って決まったんじゃないかしら(想像ですよ、想像)。黒澤御大がなぜ「ハムレット」を選ばなかったか、については考えてみなかったのでしょうね。
 
 『炎の城』では、クローディアスを徹底的に悪とすることで、勧善懲悪的な物語にしようとしている(それ自体、既に「ハムレット」じゃないのね)。先王が生きてる間にガートルードを無理やり手篭めにして言う通りにさせ、先王を殺して自分が王になると、隣国に侵略する資金を作るために、農民に重税を課す。農民の反発にあうと有無を言わせず弾圧。先王を殺した罪に悩んだり懺悔したりするシーンは無し。クローディアスの人間像はすごく一面的で、全然魅力がない。
 一面的、といえばガートルードもオフィーリアもそう。ガートルードはクローディアスの悪事を全て知っていて、運命に押し流されている女として描かれ、オフィーリアはハムレットを一途に慕って、想いが叶わないのを悟ると覚悟の入水自殺。狂って歌うシーンはなかった。
 そしてハムレットはいっこうに行動に出られず悩んだり嘆いたりしているわけ(ハムレットだから!)なんだけど、農民からは救世主として期待されているし、クローディアスは極悪人なわけだから、ハムレットがなんで行動しないのか、原作以上に理解できないし、イライラする。戦国時代なら、兄弟や親子でも殺してトップになることなんて、普通なわけで。寝ているクローディアスを目の前に刀を引っ込めるなんて、なんちゅう情けない若様であろうか・・・。
 そのうえ、『ゴジラ』の伊福部昭の音楽が仰々しいばかりで、浮いている。なぜか途中で『ゴジラ』のテーマ曲にそっくりのメロディが流れて、なんのつもりかと悩むマダム。
 極め付けはラスト。ハムレットが死なないの。
 レアティーズとの決闘で傷ついたハムレットだが、死に物狂いで塔の上にクローディアスを追い詰めてなんとか復讐を果たし、農民の一揆で火を放たれた城は燃え、ハムレットも死んでいく・・・のかと思いきや、助け出され、悪政を正していくだろう・・・という、無理やりな勧善懲悪のラストになっていた。こりゃあ、監督も撮りづらかったでしょう。加藤泰、超がつく真面目な人であったと思うから。
 
 「ハムレット」を換骨奪胎して娯楽大作にするか、芸術映画として加藤泰に好きなように作らせるか、どっちかを選べずに妥協を繰り返した結果、こういう映画になったんでしょうね。そのことがわかりやすく画面から伝わってきて、面白かったよー。

 私たちは『ハムレット』の何に惹かれているのかしら?
 結局そのことを考えずにはいられないのよね。

『秘密の花園』を観る

 備忘録。1月27日(土)ソワレ、東京芸術劇場シアターイースト。

『秘密の花園』
作/唐十郎 演出/福原充則
出演 寺島しのぶ 柄本佑 玉置玲央 川面千晶 三土幸敏
   和田瑠子 福原充則 池田鉄洋 田口トモロヲ

 極寒の疲れ、ハンパなく、意識がなくなることもあったので、レビュー書けません。
 でもこれは主演女優を飽くことなく眺めるための芝居だと感じ、寺島しのぶは実力ある人だけど、2時間半眺めて飽きないようなタイプではないと思いました。少なくとも、マダムはけっこうすぐ飽きた。
 一方で柄本佑は、かつて映画で共演した佐藤浩市が「顔がずるい」と賞賛(?)していた通り、眺めていて飽きない顔なのね。役者同士で「ずるい」と感じるのも無理ない、と妙なところで感心した。

文学座附属演劇研究所『美しきものの伝説』

 生まれてこのかた一番寒い日に、寒いと評判の場所に出かけた。1月26日(金)ソワレ、文学座アトリエ。

文学座附属演劇研究所2017年度 研修科卒業発表会
『美しきものの伝説』
作/宮本研 演出/西本由香
出演 A組 
島村抱月(先生)=溝井翔太郎 大杉栄(クロポトキン)=柳谷駿輔
伊藤野枝=田中佑香 堺利彦(四分六)=鈴木智加寿 
沢田正二郎(早稲田)=齊藤一輝 荒畑寒村(暖村)=光山恭平
平塚らいてう(モナリザ)=音道あいり 神近市子(サロメ)=青柳幸歩 
辻潤(幽然坊)=押川諒  ほか

 寒い寒いと聞かされていたので、お腹と背中にカイロを張り付け、客席でもダウンを着たまま座っていたの。準備がよかったのか、格別寒くはなかった。薄〜いひざ掛けも用意されてた。客席はびっしり満員で(卒業を見届けようという家族もたくさんいたのね)集中力があり、良い雰囲気だった。

 いやあ、面白かった!
 前半は、なんとなく覚束ない感じも見え、長ゼリフになるとこちらに届かなくなるところもあったんだけど、休憩の後、一気に盛り返した。後半はみんな役を生き、その役の人にしか見えなくなっていき、役が語る演劇論と人生論が切実に伝わり、抱月が死に、大杉栄と伊藤野枝が殺される日の朝で終わるラスト、全員が出てきて歌うと、涙がこみ上げた。「花を咲かそう。死ぬほど生きた人がいる」という歌詞に打ちのめされる思い。

 明治から大正にかけて、演劇界を生きた人たち、その周りにいた社会運動家たちの物語。江戸時代まで歌舞伎しかなかった演劇界で、新しい芝居を作ろうとした島村抱月。初めてのスター女優であった松井須磨子。娯楽劇と芸術劇の二つに、演劇を分けて考えることはありなのか、という今も解決しない問題。それぞれの主義に従い、民衆の権利を獲得しようという運動を展開する人たち。自由を獲得しようとする女たち。そのなかで起こる恋愛沙汰と、常に監視されながらの暮らし。思想は人々を助けることができるのか?という根本的な問い。
 
 やっぱり本が良いの。演技に多少瑕疵があっても、しっかりした脚本は役者を助けてくれさえするのね。そして若い人たちは、3時間の本番の中で成長する。幕開けの瞬間はまだどこか素の自分がいるんだけど、演じている間にどんどんそれが消えていき、役そのものを生きるようになっていった。(本当のプロなら幕開けの瞬間からその役でいられるのだろうけど。)
 内容も、若い人が演じるべき物語なのよ。どんなに上手くても実年齢がかけ離れた人では、ラストの歌の意味が違ってしまう。
 
 島村抱月をやった溝井翔太郎や大杉栄の柳谷駿輔が、目を引いた。今、舞台の若手はみんな似たようなイケメンだらけになってつまらないので、中身のしっかりある人に活躍していってほしいな。演技の上手い人こそ、イケメンである(マダムの格言)。
 
 それと、美術に石井強司の名前があって、しみじみ嬉しかった。つかこうへいが「蒲田行進曲のとき、俺に階段の装置を作らせまい、作らせまいとする。装置を作りたがらない装置家」と褒めて(?)いた人。今も健在なのね。
 
 途中、劇中劇というのかな、『人形の家』の一場面を関西弁など使った完全現代アレンジで見せてくれたんだけど、これが秀逸。出て行く決心したノラと、止めようとする夫の会話が、完全に今の日本に移し替えられてて、笑うと同時に、まんま当てはまるなんて日本ってやっぱり遅れてる・・・と実感する。このシーンは完璧に演出家の手柄ね。『人形の家』を本公演で是非!

«1981年の『近松心中物語』 その2

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