最近の読書

もうすぐ、ブログ10周年

 12月になると、このブログは10周年を迎えます。

 

 続けることが目標ではなかったですし、10年の間には、私事が忙しくて何ヶ月かお休みしていた時期もあります。
 タイトルには「日記」という言葉がありますが、私はこれを記録として書いているつもりはなくて、いつも、芝居を見た時の喜びや疑問を誰かと分かち合いたいと思って書いてきました。読んでくれる人がいなくなったら、いつでもやめようと思ってきました。書き続けられたのは、内容によってヴィヴィッドに反応するアクセス数と、コメントをくださる方たちの芝居への愛のおかげです。
 皆さん、本当にどうもありがとう。

 

 でも、10周年を前に、このブログは危機にあります。
 間近に迫っている選挙で、現政権が続投となると、様々な危機が訪れると思いますが、一例を挙げれば、年金の支給年齢が70歳に引き上げられます。
 70歳まで働く自信は私にはありません。もともと体力に乏しい方ですし。そのとき望んでも、仕事がないかもしれません。そうなると貯金を少しずつ取り崩して生活することになるでしょう。当然のことですが、芝居のチケットを買う余力はなくなるでしょう。
 私が「足腰立たなくなるまで見続ける!」と宣言してきた役者さんたち、風間杜夫、吉田鋼太郎、岡本健一、横田栄司、浦井健治、そして愛してやまない劇団イキウメやハイバイやAUN。大御所の野田秀樹や三谷幸喜。日本語で上演されるあらゆるシェイクスピア。みな、足腰は立っても先立つものがなくなれば、行けなくなります。
 芝居が見られないなら、このブログはおしまいです。

 

 この危機は私だけの危機ではありません。演劇の客層は、私と似たり寄ったりの人たちが大半です。70歳まで蓄えで生きていかなくちゃならないとなれば、多かれ少なかれ、チケット代を節約することになります。10本見ていた人は5本に、5本見ていた人は2本に、と減らすでしょうし、泣く泣く芝居から映画に切り替える人も出るでしょう。全て諦める人も出てきます。
 演劇の客は大幅に減ることになります。間違いなく。客が減れば、製作本数も減る。悪循環です。
 役者さんたちにも影響は及びます。年金なんかどうせ自分たちはもらえないんだから、どうでもいい、と若い役者さんは思ってるかもしれません。でも違う。今、バイトして、芝居に出ている役者さんは、自分が食べるのでやっとのはずです。でも、親が働けなくなり、年金ももらえないとなったとき、役者をやめて、親を養わなければならない、そういう局面に追い込まれるかもしれません。そして職を探したとき、親を養うほど稼げるのは、自衛隊に入って戦地に行くことなのかもしれない。容易に想像がつくことです。そういうつもりで全ての政策が進められているはずです。
 だから、私たちの、このささやかだけれど輝かしい喜びに満ちた芝居という世界を守るためには、現政権を支持してはならない。これまで支持していた人も、ここは一歩踏みとどまって、やり過ぎに苦言を呈しなければいけないし、選挙に行ったことがない人は、今回ばかりは必ず行って、反対勢力に投票しなければならない。みんなで必死に止めなければ、危機はもうすぐそこにやってきています。
 
 ブログの中で私は常に、ウソがないように、感じたことを正確に伝えられるように努力してきました。それは自由に書ける、ということが前提なんです。自由がなくなったら、それはブロガーとしては終わり、なんです。
 この危機がどんどん続き、緊急事態法制にまで進んでいくことが明確になったら、私はブログを閉じるかもしれません。突然になるかもしれないから、今ここで、これを読んでくださった方にだけ、お伝えしておきます。
 せっかく10周年なのにね。
 でも、私のブログの危機は小さな問題かもしれません。
 その後ろには巨大な危機が待ち構えているんです。
 
 この記事にはコメントを受け付けません。選挙が終わったら、この記事の公開は終わりにします。

『オーランドー』を観る

 横浜まで行くなら、友人と一緒に限る。10月7日(土)マチネ、KAAT神奈川芸術劇場大ホール。

『オーランドー』
原作/ヴァージニア・ウルフ 翻案・脚本/サラ・ルール
翻訳/小田島恒志・小田島則子
演出/白井晃
出演 多部未華子 小芝風花 戸次重幸 池田鉄洋
   野間口徹 小日向文世

 書き始めるまでに1週間もかかってしまったのは、面白くなかったからじゃないの。
 実は・・・最後の一番大事なところで、ちょっと意識が飛んでしまって・・・なので、正直、困っててね。
 すごく適当なので、読み流してください。

 ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」を白井晃が芝居にすると聞いて、誰が出るとかはいいから、観ようと決めていたの。原作はちょっと難しい(意識の流れ、とかいう文体で書かれているのだよ)ので読んでないんだけど、1993年の映画『オルランド』(サリー・ポッター監督)の大ファンなので。その時の主役はティルダ・スウィントンで、中性的な魅力がたまらなかったのよ。
 白井晃が映画を知らないわけはなく、映画のイメージをきっぱり断つようなポップな衣装のポスターが、「とりあえず映画を忘れて見てくれ」と言っているようで。わかった、と心の中で頷いて、KAATに向かったの。
 でも、わざと映画のイメージから離れるようなポップな雰囲気は、はじめ強かったけれど、芝居が進んでいくと、それは落ち着いて行った。

 お話は、イギリス、エリザベス一世の時代に始まる。女王(小日向文世)に仕える小姓のオーランドー(多部未華子)は美しい少年で、女王は特にその脚の美しさを愛で、お屋敷や位を与えて、保護する。美しいから、当然モテモテだ。オーランドーは女王の寵愛を受けていることを百も承知で、若い女の子(ロシアから来ている踊り子)とも仲良くする、したたかで積極的な若者なの。
 踊り子とのデートが、凍ったテムズ川をスケートで下ってロンドンまで行くことなんだけれど、移動する桟橋みたいなセットの上で、二人が並んで脚を滑らせるだけなのに、疾走感があって、見惚れた。こんなふうに、シンプルなセットで、ちょっとした工夫と役者の動きで見せていく演出は、随所に見られて、興味深かった。
 踊り子に振られて失意のオーランドーは、王の(いつのまにか女王の御代ではなくなっている)命を受けて、海外赴任に赴く。そこで何日もこんこんと眠り続けたオーランドーは、目覚めて、自分が女になっていることに気づく。
 このシーンの多部未華子の裸の背中が美しかった。そこに長い髪が揺れていると、あー、女になったんだね、と観客も実感する、説得力ある背中。
 イギリスへ帰国する船の上で、美しいドレスに身を包んだオーランドーは、女になってもやはりモテモテなんだけれど、女になってみて初めて気づく。男であった時はなんと自由だったことだろうか、と。帰国し、様々な男に言い寄られ、恋に落ち、かわしながら、男であっても女であっても、自分の感じ方(心)は変わりないことが語られていく。歩んでいくオーランドーの後ろで、時間の方がどんどん先に過ぎていき、お話は遂に現代に至る・・・。
 
 映画ではたしか、エリザベス女王の「美しいお前は、そのまま歳をとらずに生きなければならない。死んではならぬ」という不老不死命令(?)があって、かしこまりました、って答えたからオーランドーは不老不死になった、というファンタジーのお約束があったの。でも芝居にはそういうお約束はなかった。原作にはないのかな? マダムとしては、そういうお約束があった方が、芝居の世界に入って行きやすいと思ったのだけど。
 オーランドー以外は時代とともにどんどん移り変わっていく人物ばかりなので、多部未華子以外はみんな、次々役を替え、コロスのような役割も担っていた。多部未華子以外って5人しかいないので、八面六臂の大活躍ぶり。特に小日向文世はエリザベス女王から、女に変わったオーランドーの夫となる色男まで、変化すること!芸域の広さと演技のしなやかさに感嘆したわ。
 大ホールの広い舞台の上に、板付の舞台装置は何もなく、大きなホリゾントに絶えず雲が流れていく映像が映っているのが、時をどんどん越えていく感をよく表していて、それはとても心地よかったね。
 
 いろいろ感じることはあったんだけれど、現代のところ(それはつまり原作にはない部分。なぜかといえばヴァージニア・ウルフがこれを書いたのは1928年だから)は動きがピタリと止まり言葉だけになって、そこがこちらに届きにくくなった。(寝た言い訳だろと言われればその通りだ・・・)結果として、薙ぎ倒されるような感動みたいなものはなかったのだった。
 見に行ってよかったと思うのは、いよいよ原作を読むべきだと確信したことかな。原作は世に知られている以上に大傑作なのではないだろうか? 時を超えるお話はいろいろあれど、男であることと女であることの本質的な違いがあるのか、をここまで追求した小説は、ないのではないだろうか? しかも1928年に書いているのだから。
 「意識の流れ」に立ち向かわなければならないわ。
 

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その3

 マダムが岩松了を初めて見たのは、かれこれ35年くらい前になる。

 その頃、アクロバティックな演技とアナーキーな笑いに満ちた新興劇団だった東京乾電池。その新人俳優として、岩松了は渋谷のジャンジャンに現れた。弾けている柄本明や高田純次に押されながらも、新人らしからぬふてぶてしさがあって、マダムはちゃんと憶えているの。役者としても、魅力的な人よね。
 それから何年か経って、東京乾電池は突然、役者だった岩松了に台本を書かせ、公演を打つ。これまでの笑いに次ぐ笑いの舞台とは180度方向の違う、微妙な台詞のやりとりが延々と続く芝居。客席は静まり返ってた。それまで付いていた大量のファンが離れても、柄本明は「岩松了は天才ですよ」と断言して憚らず、岩松作品の上演をやめなかった。東京乾電池は、ファンを選び直したのよ。
 以来、基本的に岩松了の書くものの核心は変わらない。「黒澤明より小津安二郎。シェイクスピアよりチェーホフ」と何かのインタビューで語ったのが、彼の目指すものを示しているね。岩松節は初めから確立していた。そしてその核を、頑固に追求していく。
 だけど、彼の芝居についていくのは骨が折れた。特に大きめの劇場で、席が後方だともう、苦しい。彼の求める細かくて複雑で割り切れない人間の演技を、遠い距離で受け止めるのは至難の技で。起承転結なんかハナから無いし。睡魔に負けることもしばしばだったの。はっきり言って、彼は客に意地悪してるのよ。試されてる、と何度感じたことか。
 彼の演出した映像作品を何本か見たけれど、クローズアップができる映像の方が、向いているんじゃないのか?と思ったこともあるのよ。
 だからマダムは、彼の良きファンではない。ただマダムの好きな風間杜夫や小泉今日子などが岩松作品の常連となったので、要所要所でチェックしてきたかな、という程度。
 なので、こんな日が来るとは思わなかった。
 岩松了が、社会的な問題と向き合ったり。丘の上で叙情的なモノローグを叙情的に言わせたり。客に対して意地悪をやめたり。
 そんなことしたら、岩松了でなくなってしまう・・・と思っていた、のだけれど。
 
 インサイドシアターの公演でいつももらえるパンフレット。岩松了の挨拶が載っていて、その中の言葉にマダムは打たれた。
 

・・・私が毛細血管一本一本にまで血が通うようにとこだわってきた芝居をあっさり壊しかねない存在(つまりゴールドシアターのこと。マダム注)との出会い。しかしながら今回の私は、築いてきた演劇の枠組みを広げて自分がまだ出会っていない演劇に到達したいという思いで日々の稽古に臨んでいます。

 ゴールドシアターと芝居を作るには、自分の方が枠を広げていかなくちゃ、と思ったのね。岩松了にそこまでさせたゴールドシアターの存在って・・・。客に意地悪する暇もなかったのよ、きっと。そして本当に「まだ出会っていない演劇に到達した」んだ。
 『薄い桃色のかたまり』はマダムにとって、35年の岩松史上、最高の傑作。
 すごいな。演劇ってすごいし、人生ってすごいや。まいったなぁ。

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その2

 言うのをすっかり忘れてたけど、ネタバレしてます。ってもう遅いか。


 いつもの岩松作品が用意周到であるのとは別の意味で、『薄い桃色のかたまり』はとても用意周到に作られていた。
 例えば、ゲスト出演の岡田正。全く中心的な役ではなくて、老人たちがワイワイガヤガヤしている中にいつもいて、相槌など打っているんだけど、彼はゴールドシアターの芝居が大崩れしないための命綱。実際、ゴールドの一人がセリフにつまづいたら、彼が後を引き取って、次の人のセリフにサッと橋渡ししていたの。ゴールドの男優たちの、たった一人の重要な命綱よ。
 ゴールドの女優たちの中には、ネクストの大柄の男の子が紛れ込んでいた。おばさんの格好をして、十分おばさんになりきってた。彼もまた、命綱役だったんだと思う。
 そして、言い直しのきかない、リズムの大事なモノローグは、ほとんどネクストの役者に任されていた。二人一役の竪山隼汰と内田健司は、『リチャード二世』のときのボーリンブルックとリチャードで、マダムは特に思い入れのある役者だけれど、この二人が堂々と、作品を引っ張っていくのが気持ちよかったし、ワクワクしたの。この二人で、二人一役だなんて、なんて「粋な計らい」なんだろう。
 そして、ダンス。ゴールドの、セリフより物を言うダンス。別に上手くはない。揃ってもいない。でも、かっこいいの。白髪頭の、エプロンした普段着の老人たちが一斉に踊るシーンは、日本版ビリー・エリオットの「Solidarity」よりも、訴えかけてくるものがあったよ。心根の在り処が見えるダンスなの。接ぎ木された人工的なダンスじゃないのよ。
 
 そして、この作品の素晴らしさを生んだ最大の力は、岩松了(と、演出の予定だった蜷川御大)が選んだ、震災後の福島という場所だわ。
 岩松了らしく、決して声高に悲しみを叫んだりはしないし、理屈を説明したりはしない。ただ、ずっと暮らしていた土地をもう一度住める街にしたい、という老人たちの願いと、それを阻む現実と、溶けていく希望と、色が失われて灰色になっていく視界と、突き抜けた辛さの向こうからやってくる絶望的に美しい夢を、淡々と描いていくの。その根本に、老人たちの生活(人生)を破壊したのが、天災ではなく人災である原発事故だってことがある。
 社会的背景のない人間なんていない。そのことを忘れては、ドラマは生み出せない。やり方は様々あって、岩松了は、他にないようなやり方で、ドラマを作り出してみせたの。
 せっかくだから、もう少し岩松了について、その3で。

只事ではない『薄い桃色のかたまり』その1

 突然思い立って、当日券の列に並んだ。9月23日(土)マチネ、さいたま芸術劇場大ホール、インサイドシアター。
 

さいたまゴールド・シアター第7回公演『薄い桃色のかたまり』
作・演出/岩松了
出演 宇畑稔 上村正子 田内一子 葛西弘 重本惠津子 寺村耀子 岡田正
   竪山隼汰 佐藤蛍 内田健司 白川大 鈴木真之介 ほか


 
 観終わった時、自分がグラグラ揺れたの。
 雷に打たれたみたいになって、劇場の外へ出たら、外の景色がこれまでとは違って見えた。芝居のせいで、脳細胞が位置どりを変えてしまったらしいの。
 一人では抱えきれないと思い、誰かと話したくて、すぐにツイッターもしたし、しばらく外のベンチにへたり込んで出てくる観客を眺めてたんだけど、知っている誰にも会えなくて(あとで知ったけど友人が二人も、同じ回を観ていたんだって。会えてたら、それからどれくらい長時間話したことだろう!)。とぼとぼと一人帰ったの。
 これは、只事ではない。マダムにとっての岩松史上、最高傑作かもしれない。


 さい芸のインサイドシアターには魔法がかかっているよう。狭くて長いくねくねした通路を歩いて劇場内の階段席にたどりつくと、それだけで否応なく、結界の中に引き込まれてしまう。そしてこんな結界こそが、岩松了の最も必要としていた場なのではないか、と今になって思う。
 
 三方向を階段型の座席に囲まれた舞台。ファーストシーンは、大きな民家の広い座敷で、古そうなコタツやソファや椅子がそこかしこにあり、逆さにしたビールケースの上に座布団などが載せてあったりし、大勢の人が集まれるようになっている。が、奥の障子は破れ放題で、その向こうには暗闇が広がっているの。
 家のあるじ添田(宇畑稔)が、帰ろうとするハタヤマ(竪山隼汰)を必死に引き止めている。どうやら添田の息子学(白川大)がイノシシに襲われたところをハタヤマが助けたので、添田はお礼のため妻真佐子(上村正子)の手料理(パエリア)をご馳走したい。でも、料理はなかなかできず、ハタヤマはその場が居心地悪そうで、結局帰ってしまう。添田は妻に対して怒りを露わにして殴りかかり、その場にいるみんなに止められる。
 ベクトルがあちこちに向かう、それぞれの勝手な思惑が匂う会話は、いかにも岩松節なんだけれども、ゴールドシアターの人たちは、「微妙」な演技ができないので、ストレートにセリフを相手にぶつけるの。そして演技なのかナマの自分なのか境界線のわからない強烈な存在感があって。これが意外にも岩松節をくっきりとわかりやすくし、普段の岩松演劇ならこっそり練りこまれているだろう情報が、どんどん浮かび上がってくる。ここは福島の原発事故による避難区域だった場所で、避難指示が解除され、村の再建のため、人々が帰ってきている。でも、家は荒れ果て、イノシシが徘徊し、線路は寸断されたまま。戻ってきている人々はほとんどが老人で、子供の姿はない。励ましあったり、喧嘩したりしながら、獣を追い払い、線路を修復して鉄道を再建したいと思っていて、自ら道具を手に、毎日線路を直しているの。そしてハタヤマだけが、立場の違う人間で、東電の社員。福島の復興本社に、東京から派遣されている若者なの。
 こんなふうに設定がすぐ腑に落ちる岩松戯曲が、これまであったかしら? 今回だって決して親切な台本ではないと思うのに、見えてくるのよ。ゴールドシアターの役者の演技のおかげで。

 それからは次々に一見繋がらないシーンがどんどん繰り出されていく。でも一つ一つが吸引力に富んでいて、繋がらなくてものめりこんでしまう。丘の上(階段の上)の樹のところに突然現れる若い男(内田健司)は、恋人が電車に乗ってやってくるのを待って、丘の上から線路を見張っている。線路は寸断されて電車が走ることはないのに。そして久しぶりに聴いた内田健司の叙情的なセリフに、酔ったことといったら!あの名作『リチャード二世』のリチャードのときより更にパワーアップして、マダムをなぎ倒したよ。素晴らしい!
 女たちが東京へ陳情に行った帰りの電車内のシーンの会話の可笑しさ。東京からやってきた、恋人を探す若い女ミドリ(佐藤蛍)の謎。線路工事に出かける男たちの前に立ちはだかる巨大なイノシシ(名演!)。最初に現れたきり、自殺したらしい添田の妻真佐子とハタヤマは、恋に落ちていたのだろうか? やがてハタヤマも失踪し、復興を前進させたい人たちの気持ちを受け止めるものは誰もいなくなってしまう。それでも日々、線路を直すことを続けながら悩む老人たち。一方で現実を夢が覆い始め、若い男はハタヤマのもう一つの姿(幻?)だったことがわかり、二人は入れ替わりながら、ミドリと真佐子の間を行き交う。
 ラストシーンの線路を挟んで咲く桜並木と、そこに集うにこやかな人たちの群れ。美しくて、この世のものとは思えない。
 多分、この世のものじゃないのよ。
  
 正直な話、全てをクリアに理解したかといえば、全然そうじゃない。スジとか辻褄みたいなものは途中から理解の外になったけれど、それよりも心の底に確かに降りてくる、生きていくことの切なさや哀しさや愛おしさや力強さの方に、身を任せた。理解の糸より、長い糸があって、マダムの心の深いところまで降りてきたの。泣きそうだった。
 真実に触れると、泣きたくなる。
 
 ああ、全然説明できてないね。スミマセン。
 あのインサイドシアターの結界の内側には、蜷川御大が育んだ演劇への愛が充満してたわ。
 次々と繰り出される場面の舞台美術が素晴らしく、一瞬たりとてタイミングを外さない照明が美しく、観客の気持ちを絶対に切らさない密やかで素早い転換が見事で。その舞台の運びのありようも、それから勿論ゴールドシアターとネクストシアターのメンバーもみんな、蜷川御大が育んだもので、それがあったから、岩松了はこれまで行けなかったところまで、辿り着いたのね。
 
 今日はここまで。その2で、岩松作品について、もう少し考えなきゃ。

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