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キラッキラの浦井メンフィスに会う

 なんとか夏バテを克服して、この日にこぎつけたわ。8月11日(木)ソワレ、帝国劇場。

ミュージカル『王家の紋章』
原作/細川智栄子 あんど芙〜みん
脚本・作詞・演出/荻田浩一 作曲・編曲/シルヴェスター・リーヴァイ
出演 メンフィス 浦井健治  キャロル 宮澤佐江  アイシス 濱田めぐみ
   イズミル 平方元基  ライアン 伊礼彼方  イムホテップ 山口祐一郎    ほか

 
 なんかもう、いろいろツッコミどころ満載だったんだけど、とにかく浦井メンフィスが豪華絢爛。キラッキラしてた!まばゆいばかり。これだけキラキラしてたら、光り物と間違えられて、鷲にさらわれるのもわかるわ〜(って、これは違う話だっけね〜)。
 長い髪とマントの翻し方が、すごく素敵。ここまで豪華な姿を見られただけで、ボンベイとかデスノートとかより、ずーっと楽しかった。
 それと、本筋には関係ないことだけれど、山口イムホテップが登場すると、観客なのにひれ伏したくなるのが自分で自分がほほえましかった。
 カーテンコールで、楽しくてしょうがない浦井メンフィスの笑顔が印象的だったね。
 で、ここからはツッコムので、これから観る方は、観てから読んでね。
 
 
 
 原作は長いこと連載の続く少女マンガなのだけれど、マダムは絵柄が好みでないので、読んだことがなかったの。それで今回も予習はしなかった。しなくたって、わかると思ったし、事実わかったしね。
 現代のアメリカ(だけど、内実は日本)の財閥(?)の娘キャロルは、考古学好きの女の子。エジプトのファラオの墓の発掘に付いて行き、ファラオの棺を発見したところからなぜかタイムスリップして、そのファラオ、若き王メンフィスと出会ってしまうの。
 当時のエジプトには金髪の女の子はいなくて、メンフィスははじめ、珍しい動物を見るようにキャロルを扱う。が、キャロルは民主主義の(?)現代からやってきた女の子なので、モノとして扱われることに反発し、二人は対立する。だけど、キャロルの現代から持ち込んでいる歴史や医学の知識が、なんどもメンフィスを救うことになって、二人は互いを認め合い、愛しあうようになる。
 が、そこにエジプトと対立するヒッタイトの王子イズミルが現れ、不思議な力を持つ巫女(のように思われている)キャロルをさらっていき、エジプトとヒッタイトは彼女をめぐって、戦争状態に陥っていく・・・・。
 
 というようなお話。ほかにも、キャロルの兄ライアンが妹を探し続けていたり、メンフィスの姉アイシスが弟に横恋慕していたり、というような枝葉がいっぱい付いているんだけれども、それはもうヒロインの恋を盛り上げるための飾りに過ぎない。(そんなこと言い出したら、全てが飾りであるとも言えるのね。さすが少女マンガだー。)

 まず、エジプトの発掘現場に行くのに、ミニスカートとハイヒールで現れるところから、全然ダメよね。棺に供えられたお花を素手でわしづかみにするのもダメよね。何をきっかけに古代エジプトにタイムスリップし、現代に一度戻ってまたタイムスリップするのかわかんなくて、SF的なお約束が示されないところも、ダメよね。キャロル役の子が、歌声以外全然ダメよね。ラブシーンだって、棒のように突っ立ってるだけで、いくら浦井メンフィスが頑張っても、ダメよね。
 
 それでも前半はまだよかった。メンフィスに横恋慕してる姉アイシスが脇からストーリーを支えてたから。
 後半になって、キャロルをめぐる三人の男(メンフィス、イズミル、ライアン)の話になると、もうどこに焦点が当たってるか全然わからなくなっちゃって、ストーリーがぼやーっと雲散霧消していったのだった。三人の役者がそれぞれイケメンなので、それ見ててください、ってことなのかしら?そりゃあ、見ますよ、見ますけれども、役がちゃんと描かれないと、彼らも活きないでしょ? ストーリー展開、ムリありすぎ。さらわれたキャロルを救いに、王様ひとり真っ先に何度も現れるなんて、王様感なさすぎでしょう?
 
 マダムは原作の少女マンガにケチをつけているのではないの。原作はン十年昔から連載されてきて、読者の中心は当時の小学生高学年くらいの少女たち。SF設定に無理があったり、ヒロインが理由もなくあっちこっちのイケメンに告白されるという現実世界にはあり得ないことも、いくらでもある世界なの。ご都合主義まかり通ってるの。そんなことはマダムだって百も承知(だって、マダムも通過してきてるんだもん)。

 でも、原作を3時間の舞台にするなら、大人の鑑賞に耐える補強と交通整理が必要でしょ? それが原作を選んだプロデューサーと、脚本を書いた演出家の責任よね。
 
 ちゃんとしたテーマ(現代の価値観をもった少女と出会うことによって、人を愛することを知っていく古代エジプトの若きファラオの姿を描く)に沿って、きちんとした脚本を作ってよ。メンフィスがいつ、キャロルのどこをどう思って、変化していくのか、脚本の上で明確にする。キャロルの側も、メンフィスのどこにいつ、惚れたのか、明確にする。
 筋を通し、3時間に収まらない枝葉は、交通整理し、断腸の思いで切る。(はっきり言って、ライアンのところは要らないよ。)
 ご都合主義な設定や衣装は、今、通用するように変えなければいけないでしょう?
 シーンごとにテーマが明確でないと、いい曲もできないでしょ!
 なんか、すごく基本的なことを言ってるに過ぎないわ。こんなこと、言わなくちゃいけないなんて、情けない。

 そして、日本でオリジナルのミュージカルを作るときは、作曲も日本国内の作曲家に頼んだらどうなの? その方が、綿密に打ち合わせもできるし、日本語と曲との相性もいいはずだし、途中で曲の変更も可能だし、お金を他にかけることができるし。どうして、外国の有名作曲家に、そこだけ頼むの? 箔をつけたいだけ?
 だいたい、この程度で「世界初演」とか言うのは恥ずかしいので、やめましょう。当面その四文字熟語は封印!
 
 今更、変えられないところだらけなのだろうけれども、再演のときにはせめて、タイムスリップのお約束と、メンフィスとキャロルが恋に落ちる瞬間を、納得させてほしい。マダムが観に行くかどうかは、甚だ疑問なのだけれど、ね。

カクシンハンの『じゃじゃ馬ならし』

 芝居を観ている時だけ覚醒している自分が不思議。8月6日(土)マチネ、絵空箱。

 
カクシンハン『じゃじゃ馬ならし』
作/シェイクスピア 翻訳/松岡和子
演出/木村龍之介
出演 真以美 穂高 岩崎MARK雄大 阿久津紘平 大津留彬弘
   神保良介 杉本政志  ユージ・レルレ・カワグチ(ドラム)



 数あるシェイクスピア作品の中でもマダムが最も苦手としている『じゃじゃ馬ならし』。「苦手」なんて遠慮した言い方はやめとこう。はっきり言って嫌いなのよ。
 シェイクスピアは当時の常識と偏見に逆らわず書いている作家なので、女性蔑視な設定はごく普通にあるのだけれど、それを乗り越えて余りある豊かさや真理があるので、面白いし、今も愛されているのだと思うの。でも、この作品に限って言えば、もう、いい加減にしろって感じ。不愉快極まりない本だと思っていた。
 だから、今回は、今注目しているカクシンハンだから観に行ったのであって(ずいぶん短いということだったし)、ほかだったら観に行かない。蜷川御大の演出の時だって、行かなかった。(後からこっそりWOWOWで見た・・・ま、結局見たんだわね。)
 
 のだけれど、けっこう楽しかったんだよ、カクシンハンのじゃじゃ馬ならし。
 
 シェイクスピアの上演って、沢山あって、やり方もいろいろあるでしょう? 題材にして、換骨奪胎というより完全骨抜きしてしまうやり方もあって、それだってシェイクスピアはあの世から文句言ったりしないし、パブリックドメインの最たるものなのね。
 でもマダムは、その、「骨がちゃんと残ってるかどうか」を基準にしたいんだー。
 今年カクシンハンを何本か観て、毎回思うけれど、とにかく長い本を上手く切ってある。(ポケット化、と呼んでいるらしい。)今回も2時間弱なんだけど、観ている間、どこを切ったのかわからないくらいの上手さ。それでいて、シェイクスピアらしさを失わない(骨がちゃんと残っている)、ギリギリのバランス感覚というべきかしらん。
 とにかくそのことに、凄く感心したの。
 
 で、芝居の中身はね、楽しく、あっという間に過ぎて、心に深く刺さるものは特になかったわ。でも、これは褒め言葉。だって、普通なら、不愉快になって帰るんだもんね。
 男も男なら、女も女。しょうがない人間ばっかり!と、笑い飛ばすような演出で。バプティスタと偽物のヴィンセンショーの二役(杉本政志)とか、トラーニオとビアンカの二役(岩崎MARK雄大)とか、すごく無理矢理な早変わりが楽しかったし、この小さな空間でギュッと凝縮した時間を味わうのって、マダムが初めてシェイクスピアを観たシェイクスピアシアターのアトリエを思い出して、ワクワクした。
 不満があるとしたら、ペトルーチオ(穂高)がずっとサングラスをかけていて、目の動きが全くわからなかったことと、キャタリーナ(真以美)もラストで馬のかぶりものをしちゃう(つまりじゃじゃ馬)ので、やっぱり表情が全く見えなかったこと。特にペトルーチオは、人間というより、壊れてコントロールをなくしたロボットみたいだった。でも、そういう演出なのだろうな、と。ペトルーチオの人間としての魅力は、ありません!という演出と、勝手に解釈することにして、納得したの。
 
 この本を受け入れることは、なかなか難しいマダムなのだった。

最後のPARCO劇場は『ラヴ・レターズ』

 幾度この坂を登って、この劇場へ向かったのかしら。8月4日(木)ソワレ、PARCO劇場。

『ラヴ・レターズ』
作/A.R.ガーニー 訳・演出/青井陽治
出演 風間杜夫 伊藤蘭

 
 現PARCO劇場が、ビルの取り壊しに伴い、終わりを迎える。そのことはもう昨年あたりから知っていたので、やはり最後にお別れを言うつもりで、なにか観に行こうとは考えていたの。
 そして、この芝居!ラストにふさわしい観劇となったわ。
 
 『ラヴ・レターズ』は男と女二人だけの朗読劇で、25年以上続いたPARCO劇場の十八番なのに、マダムは初めて。最初で、最後になったわけ。
 もちろん、観たかったのよ、ずっと。すごく魅力的な組み合わせが何度もあったし。岡本健一✖️奈良岡朋子とか、浦井健治✖️中嶋朋子とか。けれど、平日だと難しかったり、それぞれ一度ずつの公演だからプラチナチケットになってしまい、手に入らなかったり。それで今回に至ったというわけ。
 今回のキャスティングも、それぞれの長い期間の固定ファンがいるので、客席は普段の芝居とは全く様相を異にしていた。キャンディーズ時代からのファンである大量のおじさんと、つか劇団時代からのファンである大量のおばさん(紛れもなくその一人であるマダム!)と、劇場のラストランにやってきた関係者に占拠され、一種異様な雰囲気。
 その雰囲気に影響されないようにしようと頑張ったけれど、1幕めの最初の方は、やっぱり負けてしまい、気が散っちゃった。それは残念ではある。
 
 幼馴染みのアンディとメリッサが、思春期から中年を過ぎ、メリッサに死が訪れるまで、やりとりした手紙を読みあうお芝居。舞台には椅子が二脚あり、そこに座った役者二人が、台本を手に、セリフを(というか、手紙を)読む。
 アンディ(風間杜夫)は、たぶん典型的なWASPの男の子なのね。真面目で、書くということが好きで、親から(社会から)与えられた道を踏み外さず、あまり疑問視することなく歩んでいく。有名大学→海軍→弁護士→上院議員だもんね。
 一方のメリッサ(伊藤蘭)は自由奔放で、手紙を書くことは苦手。彼女は美術の道に進み、一時はヨーロッパに渡り、個展を開いたり、才能を開花させるけれど、アルコール中毒になって、精神的に不安定になっていく。
 二人は若い時から惹かれあっていたのだけれど、アンディにはメリッサの奔放さを受け止めるほどの度量は全く無いし、メリッサのほうも、アンディと一緒に社会に適応していくことはできないの。それでも、やはり惹かれあって、終生つながっている。恋とか友情とかいう言葉では全てを表しきれないような、男女のつながりの形。

 マダムが強く思い出したのは、ロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドの映画『追憶』だった。もちろん、全く別のお話なのだけれど。でも、アメリカの男女の真実を描いているところは、同じなのではないかしら。
 
 
 手紙だけで構成されているので、やりとりのない内容は想像するしかないわけだけど、そこがこの芝居の魅力。それぞれがへそを曲げて返事を出さず、一方がずっと手紙を出し続けているときもあれば、互いにクリスマスカードしか出さない数年もある。結婚式への招待状もあれば、欠席のご連絡もある。アンディが、上院議員としての挨拶状をそのまま送って、メリッサになじられる時もある。音信不通の間に、入院していたり、離婚していたり、選挙があったりもする。
 そして、アンディにはメリッサを救うことはできなかった。彼女は自身のコントロールを失い、自滅していく。(彼女の死の原因は、二人の手紙の中には書かれない。)救うことはできなかったけれど、アンディもまた、彼女がいなくなったことで、埋めがたい喪失感を味わいながら、佇んでいるところで、芝居は終わる。
 
 これはね、キャスティングによっていかようにも変わる、とても魅力的な本だわ。
 今回の風間杜夫と伊藤蘭の組み合わせ。前半の、思春期のふたりは少し落ち着きすぎていて、それはやむを得ないのかな、と思われた。休憩を挟んで二幕になり、大人になってからのやりとりは、本当に聴かせた。これは、聞いている観客の年齢層のせいもたぶんにあったと思うわ。切なさが身にしみるのよ。一幕目のなんだか落ち着かない場内の雰囲気が、二幕では一転して、みんなが集中して芝居に吸い込まれていったの。メリッサが亡くなって、アンディが彼女のお母さんに書いたお悔やみの手紙を読むうちに、二人を照らしていた照明はどんどん暗くなって、アンディの心がしぼんでいくのが目に見えるようだった。
 
 
 マダムは長いこと、PARCO劇場(西武劇場)に通った。高校生の時、『ショー・ガール』を観に行った時からよ。何度通ったのか、もう数えようもない。
 渋谷駅からいろいろ道はあるけれど、ラストは、最初に歩いた通りに行こう、と思った。だから、公園通りの坂を登っていったわ。ああ、ここにはジャンジャンがあったんだよ。そしてそのうしろに山手教会があって。いつもその道を歩いて、劇場に行ったの。
 いい、お別れができたと思うわ。でも、凄く寂しくなってしまった。。
 マダムを芝居道に導いた渋谷は、なくなってしまうのかも。

8月は浦井月間

 7月はとんでもない月だったわ。観た芝居は『エリザベート』『ジャージー・ボーイズ』『子供のためのシェイクスピア〜オセロー〜』『レディエント・バーミン』だもんね。なんというハイレベルな月であろうか? とうとう東京はロンドンになったのであろうか?! 瞬間的に。
 素晴らしい演技に出会えて幸せすぎるほどなのだけれど、受け止める体力ってものが足りなくて、実はとても大変なのよ、マダムは。こんなハイレベルだと、1本につき2週間くらい、噛み締めながらぼんやりしていたいところなんだけどなあ。

 というわけで、かなり体力を使い果たしてしまっているのに、8月がやってくる。 そう。マダムがかなり前から浦井健治月間と名付けていた8月が、やってきた〜!遂に。

 
 あのさ、もうすぐ、CDが届くのよ!そんでもって、オフィシャルブックも届くのよ!それで帝劇も行くわけさ。ヒャッホー!
 
 もちろん、他の芝居も観る予定、あるんですよ。あるんだけど〜。
 
 どうしても、8月は黙りがちになるかも。発信するより、ひとり噛み締めがちになるかも。
 いやいや、狂喜乱舞で、叫び出すのかも。自分でも、予想がつかん。
 
 ということで、どうなるかわからないけれど、温かく見守ってください、8月!

『レディエント・バーミン』を観る

 毎年なぜか7月は超忙しいスケジュールになってしまうのよ。7月23日(土)ソワレ、シアタートラム。

『レディエント・バーミン』
作/フィリップ・リドリー 翻訳/小宮山智津子
演出/白井晃
出演 高橋一生 吉高由里子 キムラ緑子

 
 友人がこの題名を憶えられず、「バーミヤン」と呼んでいたら、マダムも途中からホントの題名が思い出せなくなってしまったの。それくらい憶えにくい題名ね。輝くゴミくず、みたいな意味で、暗示的な題名なんだけれど、なんかこう、もう少しキャッチーな邦題はつけられないものかしら?
 それはさておき、なかなか面白かったー。昨年の「マーキュリー・ファー」を見逃して悔しかったので、フィリップ・リドリー✖️白井晃を今度こそ、確かめたかったの。どっかーん、と来るのを受け止めるつもりで行ったけど、意外に軽めなブラックコメディだった。これは、話を知っちゃうと面白さ半減なので、これから見る人は、ここで引き返してね。
 



 舞台は白い壁で囲われただけの無機質な空間。そこに照明を当てたり、白い壁をスクリーンにしてプロジェクションマッピングしたりして、場面転換するんだけど、基本とてもポップな感じ。結構血なまぐさい話だけれど、舞台効果だけ見てると可愛いらしいケーキ屋さんみたいなの。
 オリー(高橋一生)とジル(吉高由里子)は、とても素敵なマイホームに住んでいる。そして、どうやって家を手に入れたか、これから話します、と観客席に話しかける。私たちが悪かったかどうか、みんなに判断してほしい、と言って笑いかけながら。
 オリーとジルは決して裕福ではないカップルだけど、マイホームを夢見てた。そこへ突然、ミス・ディー(キムラ緑子)と名乗る謎の女が現れ、家を差し上げます、と言うの。政府から承認を受けて来てます、みたいな公的な機関の人間を匂わせつつ、すごく胡散臭い。「誰も住んでないようなところでも、一軒素敵な家が建てば、その影響でどんどん素敵な地区に生まれ変わるんですよ〜。その起爆剤になってほしい」と。若い二人は、彼女の口車に乗せられて、郊外の、他に誰も住んでないような地区の、古ぼけた一軒家を当てがわれる。「タダ」で。
 電気もつかない、設備はボロボロ。でもリフォームは自由なので、器用なオリーは少しずつ、住める家を目指して作業していく。が、その夜。
 二人が二階の寝室で眠っていると、階下でなにか物音がする。オリーは恐る恐る、懐中電灯を片手に降りて行ってみる。(何しろまだ、電気が通っていない。)
 オリーは、キッチンで食べ物を物色中の浮浪者と出くわし、揉み合いになる。オリーは別に腕力が強いわけじゃないので、完全に負けそうだった。けれど、偶然にも浮浪者が足を滑らせ、壁のフックに後頭部が突き刺さって、死んでしまうの。
 すっかり気が動転したオリーは、二階で怯えているジルに、事の次第を話しに行き、二人はまた恐る恐るキッチンへ。すると、あったはずの死体がない。一体どういうことなんだ?とオリーがパニックになった時、それが、起こる。
突然、キッチンがジルの夢見ていたピンクのタイルを貼ったお洒落なキッチンに変わったのだ。ジルは浮浪者の事を忘れ、夢見たキッチンの出現に狂喜乱舞。オリーは半信半疑だが、二人はやがて、浮浪者を一人殺すと、その部屋のリフォームがかなう、というとんでもない法則を発見してしまう。
 
 そこから、若い二人は坂を転がり落ちるように、犯罪に手を染め続けちゃうんだけれども、遺体がまるで蒸発するように消え、その度に夢のマイホームがどんどん実現していくと、その犯罪感は極端に薄れてしまう。オリーは普通の仕事のように、犠牲となる浮浪者を探しに行くし、ジルはお腹にいる子供のため、理想の子供部屋を作る事で頭がいっぱい。
 が、オリーが連れてきた女の浮浪者と、ジルが顔を合わせてしまい、言葉を交わしたり飲み物をあげたりしたあたりから、さすがに罪の意識が芽生え始めたかに見えた。けれど、二人は結局、のど元過ぎると罪をすぐ忘れてしまうのね。
 二人が追い詰められるのは、ご近所さんを呼んで開いたパーティから。
 オリーとジルの綺麗な家が出来上がったあとに引っ越してきた人たちは、二人よりいい仕事についていたり、元々金持ちだったりして、連れてきた子供たちも傍若無人。おもちゃのピストルを家中で撃ちまくられ、オリーには家中の壁が血だらけに見え(全部がポップなプロジェクションマッピングなので、グロテスクじゃない)、取り乱したオリーに、客は白けて帰っていくの。そして、ご近所さんから、「浮浪者を家に引き入れているのを知っている」という苦情の手紙をもらって、万事休す。そこへ、ミス・ディーが現れて、「この家を売りなさい。次の家をさしあげるので、また一からリフォームしてね」と救いの手(?)を差し伸べ、オリーとジルは、エンドレスのリフォーム人生にどんどんはまっていく・・・。
 
 ふう。途中でストーリー説明をやめようと思ったんだけど、なんだか最後まで言っちゃった。
 芝居を見ていない人が聞けば、とんでもなくグロいお話と思うでしょうけど、主役二人の表面上、純で可愛い感じと、あくまでポップな舞台効果で、カラッとしたブラックコメディに仕上がってた。
 高橋一生は既にマダムの周りで定評を得ているんだけれども、マダムはたぶん舞台初見。動きがよく、真面目そうな顔の下にヘイトな心をちゃっかり隠しているオリーを凄く上手く表現してた。吉高由里子は、舞台にはまだあまり出ていないわりに、とても度胸があって、感心したわ。客いじりの時にセリフを間違えても、全然あせらずに切り替えるところなんか、可愛いだけじゃなくて、度胸満点。舞台向きかも。
 そして盤石のキムラ緑子は、いわずもがな。
 
 台本は軽めのポップなブラックコメディそのものなんだけれど、白井晃はもともと遊機械全自動シアターの人だから、こういうポップなのはお手のもの。そして、どこか気持ち悪さをちらつかせるのも、不気味さを匂わせるのも、上手いよね。
 ただ、マダムとしては、話が分かりやす過ぎた。途中から、先が読めてしまって。パーティのシーンはしつこすぎて、ちょっと飽きた。
 それとね、客に直接話しかけ、「私たち、悪くないですよね?」みたいなことを訊いて、まきこんでいく、観客参加型とでもいうのかしら(以前、ありましたね?堤真一主演のマクベス)、イギリスでは最新流行なのかな? マダムはなかなか巻き込まれないんだな、これが。超一流のコメディアンくらいの力量がないと、難しい演出だなあ、って思う。(白井晃がかつて組んでいた高泉淳子は、抜群の力量だったね、そういえば。)

 もともとの金持ちは、マイホームなんか、夢ではないのよね。あってあたりまえだから。庶民だからこそ、マイホームを夢見る。そして庶民は夢を叶えるため、結局はもっと貧しく不運な人たちを踏みつけにしてしまう。無自覚に。そして、国家はその仕組みを上手に利用する。
 というように簡単に図式を説明できちゃうくらい、わかりやすい舞台だったけれど、これ程わかりやすくしなくちゃならないところが問題点なのかしら、とも思ったりしたマダムだった。

«子供のためのシェイクスピアの『オセロー』

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