最近の読書

春まで本数、減ります

 なんかもう、そのまんまのタイトルなんだけど。
 マダム家は、今年またまた受験生を抱えておりまして、春までは観劇の本数を絞り込むことにしております。
 そんなこと言っていながら、ヘンリー四世は二部ぶっ通しで観るつもりだし、年明けにもすぐシェイクスピアを観る予定だし、本当に絞り込んでんのか、という葛藤のある毎日です。ですが・・・芝居を観たとしても、記事をしっかり書けないかもしれないので、そこのところ、ご容赦願いますね。(むしろそっちの問題が大きいのです。)

 芝居を1本観ると、記事を書くのに、その3倍から5倍くらいの時間がかかります。好きでやってるので、別に文句言ってるわけじゃないんです。ただ、春までは手抜きも辞さない覚悟で、母親業に力入れてみようか、と。(ホントかな?)
 そういうわけですので、春まで本数、減ります。たぶん。

『遠野物語 奇ッ怪 其ノ参』を観る

 短い秋が終わって、もう冬のよう。11月5日(土)マチネ、世田谷パブリックシアター。

 
『遠野物語 奇ッ怪 其ノ参』
原作/柳田国男 脚本・演出/前川知大
出演 仲村トオル 瀬戸康史 山内圭哉 池谷のぶえ 安井順平
        浜田信也 安藤輪子 石山蓮華 銀粉蝶
 
 もしかしたら今年一番の芝居になるかもしれない「太陽」を上演したイキウメの、番外編のような公演。イキウメとは謳ってないんだけどね。毎年秋にやっている「奇ッ怪」シリーズ第三弾なんだけれど、マダムは初めて。
 柳田国男の「遠野物語」を下敷きにして、摩訶不思議な物語を展開する。昔なのか、近未来なのか、架空の村。名家の家長の死をきっかけに、村人たちは残された娘を騙して、あっという間に名家の財産をむしり取ってしまう。転落した家の娘は、神隠しにあい、姿を消すのだけれど、やがて山道に娘らしき人影が表れるようになって・・・。
 かたやそんな事象を取材して本にしようとする柳田(仲村トオル)を、当局は拘束し、いかがわしい噂を流布する人間として、訴追しようとする。当局側の人間として取り調べに加わる大学教授(山内圭哉)は、なんとかして柳田を送検されないようにしようとするのだが、柳田は見聞きしたままを本にしたいと譲らず・・・。
 取材する柳田自身の物語と、村で起きた事件(事象)とが交互に進んでいく。
 
 面白くなかったわけじゃないんだけど・・・ どこがイキウメ公演と違うのか、よくわからないくらい、イキウメテイストの運びだったわ。それでね、イキウメの芝居にとってすごく大切なのは、神通力を効果的に使うための結界だ、とマダムは思うの。
 つまり、小屋の大きさと雰囲気ね。
 それがどうも、今回は大きすぎる。三階席まである天井もはるかに高い、広い空間なので、神通力(つまり役者の演技のパワー)が拡散してしまい、前川演出特有の、現実から30センチくらい浮き上がったような世界、を構築しきれてない気がした。
 大きな空間でやる意味は、普段のイキウメ公演よりスケールの大きな芝居がしたいのだと思うけれど、話としては「太陽」なんかのほうがよっぽどスケールが大きいのだった。
 もう一つ大きな小屋でやる理由は、主演が仲村トオルだから、ということもあるよね。でも、与えられたのは、ドラマティックでもなく、オーラの出しようがない役だったので(決して下手なわけではない。真摯な演技だったんだけどね)、芝居全体が地味な感じになったのは、まあ、当然の結果なのかも。
 イキウメの公演だったら当然主演格の安井順平や浜田信也が脇に回っているのだから、仲村トオルには普段のイキウメ公演には出てこないようなキャラクターをやってもらいたかった、と思ってしまった。
 でもこのシリーズは人気があって続いているのよね? だからマダムとしては、少し無い物ねだりなのかなと、思ったりもするのでした。
 
 

横田ホレイシオ再び

 シェイクスピアの講座に行ってきたわ。10月22日(土)1:30〜、清泉女子大学。

 
清泉女子大学ラファエラ・アカデミア一日講座
シェイクスピア没後400年記念特別企画
『ハムレット』から見える世界 トークと朗読ワークショップ

 講師 横田栄司
    米谷郁子(司会) 清泉女子大学英語英文学科准教授

 
 役者さんが講師になるシェイクスピアの講座は、これまでも色々あったのだけれど、平日のことが多くて、なかなか行けなかった。今回は土曜日だったので、これ幸いと行ってきたの。
 配られた資料には、ハムレットについてのアカデミックな説明が色々あり、マダムが日頃気にしていた「ハムレットって、一体いくつの設定なんだろ?」というような疑問にも、答え(あくまでも研究上の)が載っていて、なるほどなるほど、と思ったの。
 でも、始まったら、とにかく「今日はもう、横田さんの話を聞こう」という流れになり、受講者全員が、待ってました!な感じで、前半は横田栄司のほぼ独演会だったわ。

 彼はこれまで、「ハムレット」に様々な役で出演している。蜷川演出に初めて出たのが、真田広之主演の「ハムレット」で、このとき彼はレアティーズ。その後、野村萬斎主演の「ハムレット」でホレイシオ。そして皆知ってる藤原竜也主演の「ハムレット」でホレイシオ。
 会場では萬斎ハムレットのときのDVDから、幕開きのシーン(夜中の城壁で、ホレイシオが亡霊に会うシーン)が流れた。10年以上前の作品なのに、横田ホレイシオは今と変わらぬ落ち着きが備わっていて、マダムはおおっ!と思ったわ。
 ホレイシオは好きですか?と問われ、それについては好きとも嫌いとも言ってなかったけれど、ホレイシオは俯瞰する人物だ、と分析していて。そして知性の人である、とも。だから幽霊なんか信じていない。その彼が王の亡霊を見たから、信憑性があるのだ、という言葉に、納得。
 話の中心は、二度のホレイシオ体験について。同じ役とはいえ、相手役によって変化があって、萬斎ハムレットとは学友な感じだけど、藤原ハムレットとは悪友な感じだった、と。そしてそこから、昨年の「ハムレット」のときの蜷川演出が、いかに苛烈なものだったかの話になった。
 当時すでに闘病中だった蜷川御大は、車椅子で酸素チューブ付き。病院から稽古場に通っていた。病院のベッド上、御大の頭の中では稽古がどんどん進んでいて、でも現実の稽古場に来てみると、出来てたはずのことが出来ていない。なので、御大はいまだかつてなかったほど激しく怒っていて、とても大変であった・・・そうなの。
 「竜也にもっと優しくしろ!」と怒鳴られ、「・・・あの、それは、舞台上でしょうか?それとも、普段の竜也に、ですか?」と問い返し、「馬鹿野郎!舞台上に決まってんだろ!飲み屋で優しくしてどうすんだ」とまた怒鳴られた横田栄司。「それなら竜也に、じゃなくて、ハムレットに優しく、と言ってくれないと・・・」って。みんな大爆笑だったわ。
 この話を聞いていて、マダムはちょっとリア王を思い浮かべたの。御大、ちょっとリア王入ってるよ。
 
 質問していいと言われたので、早速手を上げて質問してみたマダム。
「本来なら今頃、小栗旬くんのハムレットが上演されていたと思いますが、横田さんはどの役をやるはずだったのですか?」
 我ながら、めちゃくちゃいい質問だわ。答えは、
「出演の予定はあったんですが、役はまだ言われてませんでした。」
とのこと。でも、ホレイシオはもうなかっただろう、と。ホレイシオは、二人のハムレットには相まみえない、のだそうだ。だから、他の役、いくつかを挙げていたんだけど、「なにがやりたいですか?」と訊いたら、素晴らしい答えが返ってきた!
「河内大和とのコンビで、ローゼンクランツとギルデンスターンがやりたいです」
だって! うおー、なんて贅沢。それ見たい、是非、それ採用してほしい。そして「ハムレット」公演後、今度はその二人で引き続き「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を演ってほしい!!!
 さい芸シェイクスピアシリーズ番外編で、是非!
 
 休憩を挟んで後半は、朗読ワークショップ。受講者の中で希望した人が前へ出て、ハムレットとホレイシオとオズリックのセリフを読み合ってみる。
 何組かやってみたんだけど、毎回、横田アドバイスによって、どんどん変化して、芝居が立体的になっていくのがわかるの。面白い!マダムは、出来上がった芝居も好きだけど、作っていく過程も好き。見ると、ワクワクする。
 最後に、受講者の中にいたAUNの齋藤慎平と、清泉の学生さん(たぶん)、そして横田栄司で、読み合ってくれた。もちろん横田ホレイシオで。
 横田ホレイシオの「負けるんじゃないですか、この試合」というセリフがまた聞けて、幸せだった。
 
 あっという間に2時間が過ぎ、聴き足りない気もしたけれど、とにかく楽しかった。芝居を観るだけじゃなく、こうやってあれこれ考えたり、勉強したりするのがよっぽど好きなんだね、マダムは。老後もたぶん、飽きないわ。
 
 探求する次の課題も見つかった。
 司会の米谷先生が少し言いかけて、あまり掘り下げずに終わってしまったのだけれど、ホレイシオが死んだハムレットに言う「Goodnight,sweet prince」というセリフの「sweet」。これが問題なの。
 これをどう翻訳するか。2003年に河合祥一郎訳で、初めて翻訳された(と、マダムは聞いてます。ホントかな?)ときは「やさしい王子さま」。
 でも米谷先生的には「やさしい」よりも「いとしい」である、と。そうなると、少しホモセクシャルな感じになってくる。
 じゃあ、小田島訳、どうなってたんだっけ?と思って、見てみたら、「おやすみなさい」だけになってて、王子様すら訳されてなかった!
 このあたりについては、個人的に、探求してみたいな、って思ってる。
 

『あの大鴉、さえも』に悩む

賑わっていたわ、芸劇。10月9日(日)マチネ、東京芸術劇場シアターイースト。

『あの大鴉、さえも』

作/竹内銃一郎 上演台本/ノゾエ征爾
演出/小野寺修二
出演 小林聡美 片桐はいり 藤田桃子

 
 風邪をひいてしまったのが、不覚だった。
 そのせいで集中力を欠き、ぼんやりしてしまうこともしばしばで、芝居を観る態度としては最低だったと、反省してるの。
 だって、面白くなかったのが、芝居のせいなのか自分のせいなのか、わからないんだもんね。
 
 まず言っておかなくちゃいけないのは、この有名な戯曲、マダムは初見だということ。戯曲の名前と演出家と三人のキャストの名前を見たら、そりゃあチケット買うよねえ。ワクワクする取り合わせ。何か見たこともないことが起こるぞ、と思うでしょう?
 初見でも、この芝居にいわゆるストーリーがないことは知っていたし、こちらの五感が鈍っていても割って入って来る、新感線みたいなサービスは無いことも承知していたから、もうとにかく、マダムの体調管理の甘さが責められるべきなの。
 それはもう、責めていただいていいのだけれど、敢えて言わせて貰えば、やっぱり、あまり出来のいい芝居ではなかったのではないかしら。
 三人の動きの面白さは、それなりに面白く見た。運んできた大ガラスを壁の隙間に入れたら、出てきたときは小さくなってたり、三つに分かれてたり。紐を使って、ガラスを運んでいるように演技したり。切り立った壁に身体をぴったり寄せたり、壁に足をついて床に寝転んだりして演技すると、どっちが壁でどっちが床だかわからなくなったり。視覚的な面白さは、いろいろあったの。
 でも、台詞が面白くない。弱いの。力が足りないの。
 視覚的な仕掛けと、台詞とが、分裂していたと思う。本当は、動きの面白さと台詞の面白さが分かれていては、いけないんじゃないかな。一緒になって、突き進んでいくのが本来の姿だったのでは?
 いえね、ぼんやりしてただろ、お前、と言われたら、言い返す言葉は無いんです。無いんですけどね。
 
 なので、今日はこの辺にしておきます。
 ごめんなさーい。体調、整えまーす。

アマヤドリ公演『月の剥がれる』を観る

 この劇場は、風間杜夫主演の「大人の時間」以来だから、なんと7年ぶりだわ。10月1日(土)マチネ、吉祥寺シアター。

劇団アマヤドリ本公演『月の剥がれる』
作・演出/広田淳一
出演 笠井里美 倉田大輔 榊菜津美 宮崎雄真 沼田星麻
   毛利悟巳 谷畑聡 ザンヨウコ 田中美甫 ほか



 初めて観に行く劇団には、いつも何かきっかけがあるものなんだけど、劇団AUNの谷畑聡が出演していること以外、予備知識は何もなかったの。
 ただ、作家(演出家)がツイッターでつぶやいているのを幾つか読んだとき、何かが匂った、としか言い表せない。言葉の意味よりも、言葉の選び方に強く惹かれるものがあって。
 マダムは一筋縄ではいかない人に惹かれがち。その勘は当たって、一筋縄ではいかないお芝居だったー。
 
 日本の近未来なのか、幻なのか、はっきりしないけれど、とある高校で、過去の事件を振り返る授業が行われている。過去の、新興宗教の連続自殺事件について。
 新興宗教「散華(さんげ)」は、身を挺して戦争を止めることを目的としている集団。日本が戦闘で他国民を殺害した場合、その数と同じだけの信者が自殺する(散る)ことにしている。その衝撃的な行為で、反戦を訴えようとしている。死に方は本人に任されているが、その映像を残し、メッセージとして世界に働きかける。
 だけど結局、それは戦争を止める方へは全く働かないの。それで、散華は生贄となる人間が足りなくて、せっせと自殺願望のある人間をリクルートしなくちゃならない。そんな人を探して、青木樹海の入り口で待ち構えたりする。
 でも、このファナティックな集団の描き方は、最初から皮肉に満ちていて。他人を自殺せざるを得ない立場に追い込み、自分は生き残っていく幹部たちの裏表が、初めから隠されずに描かれてる。そして、上手く立ち回る幹部たち、追い込まれて自殺する人、どちらにも感情移入できないように、芝居が作られているんだよね。
 
 そして「散華」の発足から消滅までを、授業で勉強している高校生たち。
 こちらもまた、誰かに感情移入できるかというと、できないように作られてる。謎の転校生が来たり、その転校生をかばう女の子がいたりするんだけど、わかりやすくは描かれないので、それぞれが何を考えているのか、つかめない。
 いちばん謎めいているのは、高校生たちが「散華」をすごく突き放した感じで議論しているところ。まるで私たちが歴史の授業で関ヶ原の戦いを学んでいるかのように、距離が遠い。
 
 ふたつの違う場所、違う時間を絡み合わせるだけじゃなく、そこにさらにダンスも絡んでくる。しょっぱなから、時の女神みたいな人(配られた人物表ではイノリ。田中美甫)が美しいステップで現れて、ふたつの場所、ふたつの時間のまわりで踊る。踊りは美しくて見つめちゃうんだけど、本筋のお話とのつながりは、よくわからない。
 そして群舞。これが凄い。出演者30人弱。全員がバレエのようなステップを踏んで、踊るラストのパフォーマンスは圧巻。
 だけど、わかりやすい意味づけは見えない。
 
 「散華」が滅亡するところまでを見つめてきた高校生たちは、自分たちが、その歴史から何を学んで、何を選んだのかを知る。高校生たちは(というか、日本人は)、「怒りを放棄する」ことを選んできて、彼らのような人間になったのだ。憲法第9条の「武力」の部分が「怒り」に置き換えられて、高らかに宣言されると、いろいろとわからなかった事柄が、マダムの脳の中でジリジリと集まってくるような感覚に捕らわれたの。
 

 わかりやすい主人公をたてず、わかりやすい善悪に分けず、わかりやすい感情の流れを示さず、それでいて、いろんな筋立てもダンスもごった煮のように放り込まれている芝居。その中からマダムがかろうじてわかったのは、「何かに反論するとき、怒りで反対することは結局、同じ穴のムジナに陥る。怒りを捨てよ」という作家の主張。「争いを止めたくても、そこに命をかけることは結局、争いの火に油を注いでしまうよ?」という問いかけね。そして、だからこそ、ひとつの結論に収斂していくような芝居にはしたくないんだと思う。ごった煮を、ごった煮のまま差し出してみよう、という。それが面白くもあり、どこか理が優っているようにも思えたの。
 いろいろわからなかったんだけど、すごく後を引く芝居だったわ。それはつまり作家の術中にはまったってことだよね。
 
 ただ登場人物の誰もが、人間というより、作り物っぽくマダムには感じられて。「怒り」を失うと、争いは無くなるのかもしれないけれど、人間らしくなくなってしまうのではないかしら。煩悩の塊のマダムとしては、美しくは生きられないと感じながら、帰路に着いた土曜日だった。

«ミュージカル俳優浦井健治ファンのための、「ヘンリー四世」講座 その3

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