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このブログは、マダム ヴァイオラが観たお芝居、お気に入りの役者さんたち、読んだ本などについて、勝手な感想を綴ったものです。内容は基本的にマダム ヴァイオラの記憶によるものです。間違いのないように気をつけてはいますが、事実関係の正確さは保証できません。
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2012年5月27日 (日)

とみおとジュリエット

 ある映像を探しているうちにyou-tubuで、とんでもないものに行き当たってしまったわ。

『とみおとジュリエット』バルコニーの場面
とみお・・・・・・藤原竜也
ジュリエット・・・古田新太
演出・生瀬勝久

 いえね。これはまあ、パロディだし、ただのギャグでしょ、と言われればその通りなんだけれど。久々にパソコンの前で涙流して笑っちゃって・・・。
 あの『ロミオとジュリエット』のバルコニーの場面を関西弁でやってみよう、という、それだけのことだし、お笑い系の人がやってたら却って面白くも何ともなかったんじゃないかしら。ところが、芝居巧者の古田新太相手に、藤原竜也が真剣にやるから、もう最高に可笑しい!
 藤原竜也には、これをやったら変なんじゃないかとか、イメージ崩れるんじゃないかとか、恥ずかしいんじゃないかとかいう、ありがちな自意識がないのよ。あるのはただ「これ、ニナガワさんに怒られるんじゃ?」という疑問だけ。それも古田新太に「怒られない、怒られない」と一蹴されてすぐ納得。生瀬勝久に関西弁のイントネーションを直されつつ、「とみお」の台詞に真剣に取り組むと、可笑しいのなんのって。
 コメディは、役者に恥ずかしいという気持ちがあると、観てる側にもすぐ伝わって、観てるのが恥ずかしくなる。おしりがむずむずする。でも、藤原竜也にはそれが無い。全然、無い。やり始めたら、ちゃんとマジ。だから、可笑しい。
 デビュー以来の「王子」的なイメージからか、映像ではとかく神経質な役が多い彼。でも、この「とみお」を見たら、もっと軽いコメディがやれるんじゃないかとマダムは思いました。もちろん腕のある演出家がいないと駄目よ。コメディは特に、ホントに頭の切れる演出家じゃないと。

 さて、その藤原竜也の『シレンとラギ』。来週観てくるわ。マダムは新感線を観るの、なんと20年ぶり。どんなかな〜? 楽しみ。

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2012年5月20日 (日)

『海辺のカフカ』について語るときにマダムの語ること

 野田秀樹と風間杜夫と堤真一の余韻が醒めないうちに、また次の芝居を観てしまったわ。スケジュールがタイト過ぎて、倒れそう。で、レビューが遅れちゃった。さいたま芸術劇場、5月13日(日)マチネ。

 

『海辺のカフカ』
原作・村上春樹 脚本・フランク・ギャラティ
演出・蜷川幸雄
出演 柳楽優弥 田中裕子 長谷川博己
   佐藤江梨子 高橋努 木場勝己 ほか

 

 一緒に行った友人の観劇後のひと言。「退屈はしなかったけど、釈然としない」。・・・うん、ホントにそうなのよ。
 蜷川演出といったらビジュアルが命なんだけれど、やはり今回もそこは魅せてくれた。セットがとても面白かったの。カフカの自宅、高松の図書館、ナカタさんが猫と話す公園、星野が運転するトラック・・・などなど全部のセットが各々、透明なアクリルの箱(というかコンテナ)に積まれていて、さいたま芸術劇場の奥行きの広ーい舞台の上を、ぐるぐる移動する。正面に来たらそれが今のシーンになるの。
 アクリルの箱には、骨格に沿って蛍光灯が付いていて、人工的な白い光でセットを浮かび上がらせる。
 セットの有り様が作家の文体を視覚化していて、そこには感心したの。村上春樹の小説は『海辺のカフカ』に限らず、人物一人一人のテリトリーがはっきりしていて、容易に他の人物とテリトリーを共有しない。フレンドリーに見えても一線を画してる。空間的にも心理的にも、ね。そういう雰囲気をちゃんと舞台の上に目に見える形で出してくる、さすがは蜷川演出。
 でも、凄いのはそこまで。
 
 役者はみんな、その人物らしかったわ。柳楽優弥は少年にしては線が太かったけれど、カフカの真っ直ぐで頑ななところが出ていたし、高橋努は能天気な星野ちゃんそのものだったし、木場勝己のナカタさんときたら、この人以外のナカタさんが考えられないくらいにぴったりだったの。
 そして、エピソードも一個一個は、小説に沿ったものだし、退屈せずに最後まで観たのよ。
 でも釈然とはしない。それはなぜか、というとね。
 小説の背骨、とも言える「カフカ少年が何故家を出たのか」が、脚本から抜け落ちているからよ。
 小説では、少年は父親から呪いを掛けられているの。「お前は俺を殺すだろう。そして母親や姉と寝るだろう」というオイディプス的な呪い。そうなることを恐れて少年は家出をするのよ。
 にもかかわらず、少年は夢で父親を殺し、母や姉かもしれない人たちと寝ちゃうことになる・・・それがこの小説の芯だからね。
 でも脚本にはこの呪いの部分がまったく無いので、どうしてカフカ少年が逃避行するのか、わからないのよ。大前提が無いから、その後のことがバラバラなエピソードとしてしか、受け取れなかった。
 いったいどうして、この大事な動機部分を、カットしちゃったのかしら。腑に落ちないわ。

 マダムは田中裕子という女優をいいと思ったことがないので、その好みを割り引くとしても、カフカ少年が佐伯さんと寝ちゃうのも唐突だしね。少女時代の佐伯さんが幻で出てきたけど、全然魅力的じゃないし、歌われる「海辺のカフカ」という歌が恐ろしく陳腐なので、がっかりしちゃった。
 
 村上春樹の小説を舞台化するのは、難しいことなのね。特に『海辺のカフカ』のように長い小説だと。
 しかも『海辺のカフカ』は村上春樹の長編の中で、出来のいい方ではない気がするし。
 そんなこと言い始めたら、レビューじゃなくて村上春樹論を展開しなくちゃいけなくなるから、もうやめるね。

 カフカ少年と佐伯さんのシーンより、ナカタさん(木場勝己)と星野ちゃん(高橋努)のシーンをもっといっぱい観たかったな。
 

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2012年5月13日 (日)

堤真一 VS 風間杜夫 の喜び

 『THE BEE』の感電状態覚めやらぬまま、次の芝居の日が来てしまった。5月12日(土)マチネ、シアターコクーン。

『シダの群れ』純情巡礼編
作・演出 岩松了
出演 堤真一 松雪泰子 小池徹平
   市川美和子 風間杜夫 ほか

 正直言って、『THE BEE』の余韻に浸ったまましばらくじっとしていたかったマダム。何故こんなスケジュールなんだ!って、組んだ自分がいけないのよ。
 2年前の『シダの群れ』は阿部サダヲVS風間杜夫を観に行ったのね。それは正解だった。二人の掛け合いが絶妙で。だけど、周りを囲む江口洋介や小出恵介は、岩松演出のさりげなさに埋没してしまってて、全体としては物足りない出来だった記憶があったので、続編はもう観なくていいかな・・と思ってたの。
 だけどさ、堤真一VS風間杜夫だと知って・・・初共演じゃないかしら?見逃すわけにはいかなくなっちゃった。

 前回を観ていて、しかも意外といろいろ憶えていたマダムにとって、今回はわかりやすい筋立てだった。こんなにちゃんと話が進んでいき、場面転換もスルスル進む岩松演出は珍しいよ。村治香織の生ギター付きだし。シアターコクーンの大きさに見合う演出を考えたのかな。
 それでも初めて観る客にとっては、かなり辛いものがあったのではないかしら。関係するやくざの組が三つあって、堤真一と風間杜夫は別の組で、だけど堤真一にとっては風間杜夫は親戚同様の人で、前回のラストで殺された江口洋介のことも堤真一は兄貴分と慕っていて・・・てなことが、前回観てない人にはわかったかしら? 例によって、不親切というかぶっきらぼうな岩松了なのよ。
 あとね、どうしても出てくる女が典型の域を出てないかなあ。
 『THE BEE』を観たばかりだと、台詞のやりとりのずれを面白がる岩松演出は、舞台より映像向きな気がしちゃってならないわ。前々から思っていたことだけど、更にそう思ってしまった。

 それでも堤真一はとにかく格好良かった! こんなにカッコイイやくざがいたら、女は皆なびいちゃうよねえ。それに前回の江口洋介はなんとなく身の置き所無さそうにしていた(役の設定もあるけど)のに比べ、堤真一は迷い無く、やくざとして舞台の真ん中に立っていられるの。台詞の無い時間をキープできるの。それは岩松演出にとって絶対に必要な技量なのよ。
 そして我が風間杜夫は、もう自由自在ね。岩松了の台詞の面白さをこんなにわかってて体現できる役者は、そうそういないのでは?
 だから二人が対決するシーンはゾクゾクしたし、双方の色気が激突してて・・・マダムにとってこれ以上無い幸せな場面だった!

 しかし、同じ舞台と言っても本当にいろいろある。
 あれも芝居。これも芝居。

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2012年5月11日 (金)

野田秀樹の最高傑作『THE BEE』 その2

 演出は初演の時とほとんど変わっていなかったわ。その手法、舞台効果については、しつこいようだけれど以前の記事(→ここ )を御一読くださいな。改めて言っておきたいのは、その手法全部が、舞台でなくては使えない方法なの。芝居ならではの醍醐味がぎっしり詰まっているのよー。
 たとえを挙げるときりがないので一つだけ言うと、手に鉛筆(割り箸?)を挟んで、これを指ということにします、鉛筆が折れたら指が折れたということです・・・という約束事は、映画やテレビでは絶対に通用しないでしょう?指が切り落とされたのに一滴の血も流れないでは、映像では済まされないでしょう?
 でも、どんなスプラッタな映像よりも、まるでおままごとのような約束事のほうが観客にショックを与え、想像力を激しく刺激する。そう。暴力を表現するのに、アクションがいらない。血糊もいらない。裸もいらない。死体もいらない。そんな物は何もなくても、人間が狂気に囚われていく恐ろしい瞬間を見せつけることが出来ちゃうのよ。
 芝居って凄い。
 
 役者野田秀樹、素晴らしかった。特に、普通のサラリーマンだった井戸が(自分の妻子を助けて下さいと、犯人の妻に土下座していたはずなのに)ある瞬間からくるりと「普通」であることをやめ「被害者」でいることをやめて「加害者」の方へ鞍替えする。そのとき、彼が踊る狂気のダンスが、もう圧巻で・・・波長に呑み込まれて色気さえ感じてしまったの。
 観終わって、マダムは魂が抜けたようになりながら、この感じは経験がある、と思った。階段がまったく無い舞台で階段落ちを見せてくれたつかこうへい。あの時以来の演劇的興奮かもしれない。野田秀樹のダンスから噴出する狂気は、演技の稲妻そのもの。感電しちまいました。

 宮沢りえも近藤良平も池田成志も、肉体的にも精神的にも強靭な役者だなあ。濃密に残酷な時間を、毎回作り上げていくハードさ。脱帽したわ。
 初演の時の犯人の妻役は秋山奈津子だった。中継映像で観た彼女は、どこまでも辛くイタい役をすさんだ色気で表現していたの。そして、「母」度が強かったように思う。今回の宮沢りえはもっと華やかにエロティックだった。「母」度よりも「わがままな女」度が勝っていたの。そういう女が、暴力に屈服し続けて遂にはその状態に慣れてしまう。(というか、極限状態が続くと慣れる以外に生きようが無いのね、人間は。)切り落とそうにも子供の指がもう全部無くなっていることに気づくと、命じられる前に自らの手を差し出しさえする。その落差が強烈だったよ。
 『下谷万年町』の時、これほど美しい宮沢りえを観たことがあっただろうか、と言ったけど。その気持ちは揺らがないのよ。けれど『THE BEE』では、こう言ってみようかしら。
 未だかつて、これほど凄みのある宮沢りえを観たことがあっただろうか、って。

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2012年5月 7日 (月)

野田秀樹の最高傑作『THE BEE』 その1

 面白いことは知ってた。知ってる者に、それ以上のインパクトを与えるというのは、本物だわ。水天宮ピット、5月6日(日)マチネ。

NODA・MAP番外公演『THE BEE』
日本バージョン
原作・筒井康隆 脚本・コリン・ティーバーン&野田秀樹
演出・野田秀樹
出演 宮沢りえ 池田成志 近藤良平 野田秀樹

 

 2007年、野田秀樹は本格的に日英コラボ舞台に足を踏み入れた。『THE BEE』はその記念碑的第一作であり、今回はその再演。
 マダムは初演の時、WOWOWの中継で観て、舞台に行かなかったことを深ーく後悔したの。だから、今回、どんな舞台なのかを知っていても、迷わずチケットを買ったのよ。
 行ってよかった。
 中継を観たときの記事(→ここ )では、とにかくその手法の凄さについて言及して、内容を細かく書いてないの。でも今日のレビューでは、話の中身に触れない訳にはいかないので、これから観る方は、是非、観てきてから読んでくださいな。とにかく観劇歴ン十年のマダムにとっても金字塔的な作品であることに間違いはない。素晴らしいの。だから、予備知識なしで観てほしいのよ。これからまだ、東京公演も続くし、その後、大阪、小倉、松本、静岡と巡る。チケットは手に入りづらいかもしれないけれど、芝居が好きな人にはやっぱり観てほしい。マダムの超お勧め。

 

 ということで、ここからはネタバレしますね。
 野田作品には珍しく、原作がある。筒井康隆の「毟り合い」という作品なのだそう。マダムは未読だけれど、かつてそれなりに筒井作品を読んだ経験から、舞台を観ると逆に原作がどんな作品か見当がつくわ。たぶん短編で、皮肉のこもった乾いた文章で。悲惨で暴力的な描写も、それが目的ではないので、あっさり通り過ぎているような。そしてだからこそ、核心に迷うことなく切り込んでいるんじゃないかな。(探して、読んでみようっと。)
 それでね、この単刀直入な原作を選んだことがまず、成功への第一歩だったんじゃないかしら。
 というのも、野田秀樹のオリジナル脚本は、言葉遊びで煙に撒きながら、じわじわとテーマをまぶしていく物が多いんだけれども、最近、なんとなく上手くいってなかった。何が云いたいのかよくわからなかったり、あるいは簡単にわかりすぎて、芝居にする意味があるのかなあって疑問に思ったり。停滞感がたちこめていたのね。
 でも他人の原作を使うことで、この脚本は、言葉遊びの要素を排除して、人間関係に真っ直ぐ切り込んでる。云いたいこと、描きたいことが、はっきりしてる。
 
 主人公は平凡なサラリーマンの井戸(野田秀樹)。彼が、妻と六歳になる息子の待つ家に、いつものように帰宅した時から話は始まる。が、家の周りは警察の警戒線が張られていて、入れない。さらにその周りには無数のメディアがカメラを構えている。脱獄犯が井戸の家に逃げ込み、家族を人質にしているというのよ。
 警察は、井戸が望むような解決策を何も持っていないし、メディアも井戸の味方ではないので、彼は自分で、犯人が会いたがっているという犯人の妻(宮沢りえ)を説得すべく、彼女の家に行く。けれど、彼女にも協力を拒まれ、犯人と直に電話で話したことから、井戸はぶち切れる。付き添いの警官から拳銃を奪い、犯人の妻と子供を人質に取って、立てこもるの。つまり、井戸の家と犯人の家で、それぞれ家族が人質に取られて、立てこもり合い。睨み合いになるわけ。それぞれが、明日までに人質を解放しなければ、こっちの人質を痛めつけるぞ、と脅し合うの。そしてどちらも後へは引かないので、行くところまで行ってしまう・・・。
 
 ストーリーだけを聞いたら、そんな芝居を観てどこが楽しいんだって言われそう。確かにそうよ。楽しいわけないの。掻き乱されるの。脳細胞がパズルをぶちまけたみたいにいったんバラバラになり、芝居が終わって劇場を出ると、脳細胞の場所が入れ替わっているような気がしたわ。
 どこがどう良かったのか、具体的な話は、その2でね。

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